今日の一言「予約投稿にしてみよう」
とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
まえがき
暇な時間が多くなった。とても幸せなことである。もともと、就職する前に、「1日4時間は、自分の時間を確保する」という目標を立てていた。
4時間どころか、休日は睡眠時間以外はすべて自分の時間だ。孤独ではある。しかし、このこと自体に寂しさはない。
寂しさを感じるというのは、どういう時なのか、少し分かったので書いておこうと思う。
大勢に囲まれている中の寂しさ
幸せと言うのは相対的なものである。そして、大概全部、相対的である。
最初から一人の活動が前提になっていると、寂しさはない。ただ、「一人でいるの可哀そう」とか思われてそう、と思ってしまうようになると寂しくなる。
コロナショックにより、リアルの友人と会ったりすることがなくなった。2年前ぐらいは、「ほぼ」なくなった、みたいな感じだったが、もうかれこれ最近は、「なくなった」と言い切ってよい。
このことに、「寂しさ」を覚えるかと言うと、不思議――どころか、むしろすごく気持ちが楽になった。
友人が結婚したり、子どもが出来たり、出世したり、同窓会したり……いろんな「ノイズ」によって、心が乱されることがなくなった。
「ノイズ」というのは、非常に言葉が悪いことは知っているし、当時はそんな風には思っていなかった。思おうとしていなかった、とでもいうのかもしれない。
とにかく、「普通」というのは、環境がもたらすものなのである。
これは、どうしようもなく、「孤独なおっさんの独り言」どころか、「僻み」みたいに思われることであろうが、とりあえず、未来の自分には伝わって欲しい。
本当に楽になった。
と思っている。
むしろ、今の方が、今までより断然幸せである。
そう言い切っても問題ない。若いころの僕よ、すまないな、今の方が楽しいし幸せだぜ?
孤独な方が幸せという矛盾
いっぽうで、FF14で色々人付き合いしていくことで……いや、「たかがゲーム」「しょせんげーむ」なのだけれども、相手が「人」として考えればそれはまごうことなき人である。身体的な繋がりはないという点だけが、ネットという人間関係と、リアルの人間関係との違いである。
それで、その人付き合いというのも、「楽しい」ということが分かった。
これは、ボクは、ボクの中のことで、すごく発見だった。
好きなことを、同じ目標を、同じ熱量で、一緒にすること、過ごすこと……これは本当に、一人では得られないかけがえのない経験や体験ができるのだと知った。
中学校、高校での部活動では得られなかったことだ。あれはつまらなかった。今にして思うと本当につまらなかった……。
でも、同時に、学生の頃の部活動というのも、本来的には、「すっごく楽しい!!!」になっていた可能性だってあったはずだと、ボクは思った。青春系のエンターテイメント作品(映画・漫画)も、これからはきっと嫌悪なく見ることができるはずだ。
シュタインズ・ゲートは、そんな青春的な嫌悪を払しょくできなかったころに観た作品だが、それを遥かに超える面白さがあったので、見ることができた。それぐらいレベルが高い作品しか受け付けられなかった。攻殻機動隊とか、そういうダークなやつ(攻殻機動隊はダークなのか?w)しかダメだったころと、自分の感覚すら変えてくれた。
それでも一人がよい
しかし、人付き合いを「維持」するのはやはり非常に難しいことなのだと思った。まぁ、これは、最初から分かっていた、と書くと、少しニヒルというかかっこつけすぎなのかもしれない。
でも、いずれなくなるだろう……壊れるだろう……という可能性は常にあった。
高校ぐらいの時、3rdパーソン視点のSTGで出会った仲間たち、GTA5で完全犯罪ミッション(ノーデスで長い強盗ミッションを順番にすべてクリア)したときの仲間たち……みんないなくなってしまった。連絡もつかない。
でも、本当に楽しかったし、やりがいがあったし、アドレナリンだった。
そういう経験もあったから、きっと、いつかはなくなるんだろう、という予言めいたのがあったのだ。それは、早いか遅いかの違いしかない、と。
しかし、ボクが予想していた壊れ方ではなくて、緩やかに、僕自身も、人付き合いが「面倒」と感じるようになってしまった。
しかし、この面倒というのも、ちょっと思っていたのとは違う。
最初の書いてきたことに近いが「寂しい」という感情が大きくなっていることに気づいたのである。
人と居るのに寂しい
承認欲求、かまってちゃん……。自立した大人とはかけ離れたことであるが、でも、やっぱり、自分の居場所、という感覚がないと、会社でも、家庭でも、どこでも、つらいと思う。誰しも。
本当の意味で、一人で精神的に自立できている人は、あまりいない気がする。
孤独が好き……と言っていた過去のボク自身もそうだったと思う。
このブログの存在がそうだし、ネットで他のサイトを運営していたのもそうだし、家族や、友人との関係もそうだった。「なくなるのが怖い」だから、「維持」しなければいけない、そういう思いがあった、のだろうと思う。
何を書きたいか分からなくなってきた
なんだっけ……なんか本筋からずれてきた気がする。とりあえず思ったのは、「誰かと比べると、一気に冷める」ということ。つまらなくなる。
すっごく批判的なことを言われるかもしれないが、変な例えだけれど、海外の途上国で頑張る青年的な心情が良く分かる、ということである。
正直、ボクは、仕事としてのPCスキルはだいぶ高くなった。
これは、自慢ではない、本当に自慢ではないのだけど、例えばでいくと、オフィス系のソフトは何でも使えるし、こういった目的の時はこうしたらよい、とかいうのがすぐ分かるといったらいいだろうか。
とりあえず、近々の職場では、の話しである。
ボクレベルのスキルや、思考力や、知識……全ビジネス界においては、平均ぐらいしかないかもしれない。しかし、IT系が苦手な人や、まったく関係ない例えば運送業とか介護サービスとか、そういうのも全部ひっくるめると、それなりにレベルが高いといっていいだろう、ぐらいの自信はもてるようになってきた。
何が言いたいかと言うと、「場所」や「環境」次第である。
状況が変われば、「何の役にも立たない人間」に成り下がることが簡単にできる、ということだ。逆に言えば、環境次第では、「それなりに使える人間」になれる可能性もあるということだ。
つまり運……。
ただ、環境というのを選び探すというのも一つ知識やスキルであるとはいえる。
遊びのコミュニティでもそう
例えば、FF14において、タンクとか、ヒーラーとか、DPSといった役割(ロール)がある。4人のコンテンツなら、タンク1人、ヒーラー1人、DPSが2人必要で、8人のコンテンツだと、タンク2人、ヒーラー2人、DPS4人必要だ。
ちょっと下手でも、役割的に、一緒に遊ぶ人同士で、それぞれロールを受け持ってくれないと遊べないわけであって、必要とされる。
「あなたがいないと遊べない」
的な状況があるわけ。それはとても、必要とされてる感があってよいなぁと思うわけだ。
サッカーだって11人×2必要だし、野球は8人×2か。テニスやバトミントンも2人必要。
一緒に何かするということは、相手が必要なこと。だからスポーツってよいものなのだろうと思う。
でも、いてもいなくてもいいような、そんな立ち位置だったら、すごくつまらないと思う。
控えの選手も含めてメンバーなんだ……という高度なコミュニティ(チーム)ならいいけれども、怪我したら交代する……ぐらいなレベルだと正直楽しくないだろうと思う。
必要とされたいし役に立ちたい
要は、承認欲求と言うのは、誰かに必要とされたい、役に立ちたいという気持ちの現れなのでもあると思う。だから、承認欲求というのは、悪いものじゃないと思う。
かまってちゃん……との線引きはどこなのかというと、かまってちゃんは、過剰に求めている、点にあると思う。
かまってちゃんは、「正直別にあなたは必要はない」のにかかわらず、「仲間にいーっれって!」っていってくるから「うざい」のである。
そこが、承認欲求とかまってちゃんの違いだ。つまり「環境」次第である。
あとがき
(かっこ書きである。毎日通勤していると、「人多いな」って思う。こんなに色んな人がいるのにボクは孤独なんだ……とか思ったり思わなかったり。正直思わないことの方が多い。ただ、60歳とか80歳になったとき、どう思うんだろう。周りの人たちは孫に囲まれているのに、ボクは誰もいない。親は当然死んだし、親戚づきあいもない。パートナーもいない。友人もいない。誰もいない……寂しい……っとなるのだろうか。しかしながら正直、「寂しいからパートナーを探す」というモチベーションは、ない。60歳の自分からみたときに、今の自分に憤るのかもしれないが、ただ、思い出してほしい、その動機付けが起こりえたのかどうか、を。でも、真面目な話、60歳とか、80歳になったボクが、過去のボクをみて、後悔して欲しくないと思う。例えば、ボクの10代のころを……思い出してみて……うーん……。後悔は、まったくない。つまんねー人生だったなぁ、つらかったねぇ……と慰めたくはなるけれども、じゃあ、他にどうできたのか、といわれたら、正直思いつかない。もう一度やり直していいよ、と、仮に今の知識や思考をもったまま過去をやり直せるとしても、やり直そうとは思わない……。これはほんとに。やり直したくねぇ……(かっこわらい)。という思考実験からも分かるように、今の僕は幸せである。大人は、もっと、「人生幸せだ―!!」って言った方がいいと思う。大人になるということに、一切魅力がなかったもんな。つまらなそうだった。かといって、若い時は、今ナウ、もつまらなかったんだが。ニュースとか、世間話とかでも、暗い話ばっかりである。もっと生きてるのって楽しいんだよとか、楽しい場所って他にたくさんあるんだよとか、そういうの必要じゃないだろうか。ボクが見えてなかっただけなのだろうか、そうかもしれない、が、例えば、某匿名掲示板とか、ヤフーコメント欄とかみても、批判的な奴とか、つまらない意見コメントばっかりである。えっと、思考実験の話だ。どうにも、あとがきになると、もう文脈無視していいという気になるから色々書いてしまう。あの、その、とにかく60歳になったとき、自分に「おまえ……あのとき、ああしておけば……」みたいなことを思われないようにしたいとは思う。他人の責任を取ることは難しいが、自分の責任は、せめて取りたいとは思う)PR