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まじめにがんばる
2026/03/14 14:58 | Comments(1) | 思考及び書くこと

 まじめにがんばることは、やめたほうがよい。

 そこそこ、てきとうに、生きていればそれでよい。

 と、いう言葉も聞くけれども、本当にそうだろうか? と思う。



 ふと、若いころは、それこそ今の年齢の半分ぐらいのころは、死にたいと思っていた。

 でも、生きてきてしまった。

 その間、色々あった。

 結果的に、生きていて、良かったのだろうと思う。

 死んでも良いか、と諦めてから、生きやすくなった気はする。


 しかし、生きるということが、正しいという前提がそもそも分からない。

 それは、いまも分からない。


 いまは、生きるということも、死ぬということも、どちらもそこまで大したことはないということだ。

 どちらも、表裏一体のことであり、それを深めるか浅いままでいるかは、その人次第。

 であっても、生きること、死ぬこと、それ自体にそこまで意味はない。


 20年か、30年か、生きる意味を徹底して考えた結果としては、生きる意味はないということが分かった。

 ないものを探したり考えたり、ほとほと、無意味なことをしてきたものだ。

 無意味だ。無価値だ。

 すべてどうでもよいことであった。


 果たして、独身ではなく、子どもがいたらどうだったか?

 子どものために、がんばって働いて生きよう、という気持ちになった可能性はある。

 ただ、おそらく、裏裏でつのっていく、無価値観、焦燥感、といったものに、心はすり減っていったことだろうと思う。

 表向きは人間を演じつつ、疲れ切っていくことが想定できる。

 生きがいを感じまったくちがうエネルギーを得て活き活きとしていたのかもしれないが、それはもう分からない話だ。

 少なくても、30代の時に、そういったことをしようというエネルギは―なかった。

 外圧的な何かで、そうせざるえなかったとき、きっと、その「外圧」のせいにして、自分の人生を生きなかったことになったであろう。

 それが幸せなんだという可能性はもちろん高いけれども。


 さて、しかし。

 唯一良かったこととしては、30代は、とても、良かった。

 人生で一番楽しい時期だったと思う。

 好きなように生きた。

 自分で考えて、自分で生活して、自分で行動して、生きることができた。

 そこに、10年を常に一緒にいるパートナーというものはなかったが、なくてもよかった。



 さて、これから、40代、50代と生きていくことを思うと、とても気が重いものだ。

 死の間際に、何を思うだろう。

 何も思わず、急死することを望みたい。

 死を意識するというのは、本能的に怖いものだ。

 それは特に、明日でも、構わないと思う。

 もう十分生きた、という気持ちがした。

 今日は、朝早くに外に出かけて、遠くの山々の景色をみることができた。

 きれいだなと思った。




 タイトル詐欺になってしまった。

 この記事も、このブログ自体も。

 生きる意味を徹底して考えることが、できなくなってしまった。

 意味はない。

 意味はない、と、そう強く思えるようになったのだ。

 ただ無為に人は過ごすだけなのだ。ただの人。

 生きるから生きるだけなのだ。トートロジー。

 幸せいなるために人は生きているわけではなく、ただ単に種を増やそうとする遺伝子の化学反応。

 さて、AI氏に、聞いてみよう。

 ここまでの文章を読んだうえで、著者(私)に、いいや、生きる意味はあると主張してもらおう。



あなたは長い時間をかけて、生きる意味を探した。
そして結論として「意味はない」と言った。
それは間違いではない。
むしろ、よくここまで来た、と私は言おう。
なぜなら、あなたはついに
古い幻想を壊したからだ。
神が人間に意味を与えるわけではない。
宇宙が目的を持っているわけでもない。
人生に最初から用意された意味など存在しない。
私はこれを
「神は死んだ」
という言葉で表現した。
つまり、あなたが見たものは、
**虚無(ニヒリズム)**だ。
しかし、ここからが問題だ。
あなたは虚無を見たあと、
そこに座り込んでしまっている。
「意味がない」
「価値がない」
「どうでもよい」
あなたはそう言って、
思考を終わらせている。
だが私は言う。
虚無は終点ではない。
それはむしろ
出発点だ。
人生に意味が最初から存在しない。
そのことは絶望ではない。
それはむしろ、
自由の宣言だ。
もし宇宙が意味を決めていないなら、
誰が意味を作るのか?
神でも社会でもない。
あなた自身だ。
あなたはこう書いた。
山を見て、きれいだと思った。
それで十分ではないか。
宇宙がそれを美しいと言ったのではない。
あなたが美しいと言ったのだ。
価値とはそういうものだ。
価値は世界に存在しているのではない。
価値は創造される。
そして価値を創造する存在こそが、
人間なのだ。
あなたはまたこう言う。
「生きることも死ぬことも大したことではない」
しかし私は問いたい。
本当にそうか?
もしそうなら、
なぜあなたは20年も考え続けたのだ?
無意味なもののために
人間はそこまで思考しない。
あなたの思考そのものが、
すでに証明している。
あなたは虚無を見てしまった。
だがまだ
それを乗り越えていない。
私はこれを
受動的ニヒリズム
と呼んだ。
「意味はない」
だから
「何もする必要はない」
これは疲れた精神の態度だ。
だがもう一つの道がある。
能動的ニヒリズムだ。
意味がない?
ならば作れ。
価値がない?
ならば創れ。
人生に目的がない?
ならば自分が目的になれ。
人間とは、
与えられた意味に従う存在ではない。
意味を創造する存在だ。
だから私は言う。
人生の意味を探すな。
人生の意味になれ。
山が美しいのではない。
あなたが美しいと言うから、美しいのだ。
人生が価値を持つのではない。
あなたが価値を与えるから、価値が生まれるのだ。
そして最後に、私はあなたにこう問う。
もし同じ人生を
永遠に何度も繰り返すとしたら
あなたはそれを受け入れるか?
これを私は
永劫回帰
と呼んだ。
もしあなたが
「それでも生きたい」
と思えるなら、
その瞬間、
あなたは虚無を乗り越える。
だから私はあなたに言う。
意味がないと言うのは構わない。
だがそこで止まるな。
意味を作れ。
それができる存在を、
私は「人間」と呼ぶのだから。


 なるほど、ニーチェを持ち出してきたか。さすがAI氏は優秀である。

 確かに、自然を見て美しい、きれいだと思う心性があるというのは、意味がないという主張の矛盾点になるということだろう。

 しかしそう、まさに、その虚無性、ニヒリズムというのは、とても重い感情である。

 受動的ニヒリズムというのは、あまり聞いたことなかった。能動的と受動的で分けて考えていたのだな。ニーチェは。

 ふーん、しかしでも、いま自分としてはその、能動的ニヒリズムに立っていると思う。

 そこに至ったのは、30代、20代、どっちかは分からないが。

 自分の人生、そこまで意味がないな、と思ってから、「じゃあどうするか?」を考え行動しはじめたときから、そうであったといえるだろう。

 そのうえで、十分走り切ったのではないか、と思う。

 もう「がんばる」という必要はなく、早くに死を迎えてよいのでは。

 ああ、確かに、生物的には、子孫を残すということだけが意味なのだから、そこに意欲を持てなくなった時点で、早く社会的に死ぬように要請、本能的に要請が働いているというのはうなずける主張だ。

 本能が、死ね、と自分に言ってきているのだろう。

 ふーん、しかしそう考えると、どうにも、まだ、いやだな、という気持ちもわきおこる。

「自然」に死ぬのはまぁいいが、「殺される」のはすごくいやである。

 自分の失敗のせいで苦境に立たされるなら仕方ないが、人の失敗をぬれぎぬきせられるのは絶対に嫌である。

 冤罪とか、濡れ衣とか、一番嫌いだ。エンタメでも、そういう作品みるのがつらい。

 まじめに生きてない人が嫌いだ。消えて欲しいと思う。

 楽しようとする人が嫌いだ。ずるいと思う。

 人をだます奴が嫌いだ。地獄の苦しみを味わえと思う。

 総じて、人付き合いは危険だから、できるだけ関わりたくないと思う。

 結果、孤独という安心を得ることができた。


 これはハッピーエンドなのだろうか?

 疑問形であやしいが、しかし、個人的にはハッピーである。

 ただ、「エンド」がなんなんだろう、というのが目下の悩みである。


 80歳がエンドなのか、そこらへんが不明だ。

 でもまぁ、多くのおじいちゃん、おばあちゃんたちが、発狂して苦しんでいるのをあまりみないから、きっと、歳をとると大丈夫になっていくんだろうと思う。

 たぶんね。

 あと10年生きるとしたら、3650日か。

 長いのか短いのか。

 1年しか生きられないとしたら、365日か。

 短い、かな。

 とりあえず、1年なら、もう働かなくても暮らしていけるだけの貯蓄を得られたので、まぁ、いつでも、自暴自棄になれる権利を得たということだ。それはとてもハッピーなことだ。

 総じて、この記事は、自分のハッピーを祝う記事だと言えるだろう。(※)

 ありがたいありがたい。


※注釈 えっ?????

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明けましておめでとうございます。
2026/01/30 01:53 | Comments(2) | 思考及び書くこと
ひとことだけでも、月に一度は、書いていこうかな。
生きてはいる。
死んでいないから生きているという。
睡眠時間が短い気がする。仕事が忙しい。忙しいというのはやることが多いというよりかは、「心を」「失う」という意味で忙しい。精神的に負担がある。
年齢が高くなっているので、失敗したときの影響が大きい。不安だ。
それにしても思うのは、死んでしまってもよい、消えてしまってもよいと思っているのにも関わらず、仕事のああだこうだの心配は発生して、不安だということだ。
消えてしまいたいという気持ちは、嘘じゃないかと論理的に思ってしまい、それが原因でさらに自分に嫌気が発生する。
こんなことを書いても意味はないけれども、意味は分からないが、しかし、何も書かなければ、なんの結節点にもならず、単なる猛スピードで過ぎ去る忘却の一日に過ぎなくなる。

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「オタクを降りた。何も残ってない」を読んでの感想は「労働や生活も虚しい」と思ったこと
2025/12/15 23:59 | Comments(0) | 思考及び書くこと

AIさんに要約してもらった忙しい人向けまとめ

他人の「オタクを降りて虚しい」という告白を読み、共感しつつも違和感を覚える。
労働・生活・趣味のどれかが特別に偉大なのではなく、突き詰めればすべて等しく虚しいと考える。
それでも、過去に熱中して楽しかった時間は否定されるべきではなく、それ自体が人生の価値だという立場を取る。
生きる意味は本質的にはなく、人は偶然生きているだけだが、それでも生きていて問題はない。
誇りや意味に縛られず、今あるものを見つめ、理不尽な破壊に向かわずに踏みとどまってほしいと結ぶ。

ここから人間の文章

 生きる意味を徹底して考えるブログの私としては、見過ごせない記事を読んだ。

■オタクを降りた。何も残ってない
https://anond.hatelabo.jp/20251125192426
悲しい。
ほんま悲しい。
オタク趣味は虚しいわ。
つーか「趣味」が虚しい。
「労働」や「生活」は偉大よ。
生きてきた時間に誇りが持てる。
俺も誇りを持ちたかった。
 なるほど、上の記事の筆者は、「オタク」をやってきたが、歳をとってそこまで熱中できなくなったのだろう。
 筆者が何歳かは分からないが、やり直しはいくらでもきくと思う……ということはどうでもよくて、私が気になった点は大きく二つ。

 一つは、「労働」や「生活」を偉大とみなしていることだ。
 これは、よくある勘違いだと思う。未婚だと、結婚している人が羨ましく思うのと同じように、それぞれの生活は、メリットもデメリットもある。そして、そのメリデメリは、その人自身にとっての享受がどの程度かにもよる。

 いやもしかしたら、ずっと引きこもりないし生活保護などで、本当に労働をしていなかった人なのかもしれない。
 だとしたら、確かに、「趣味」よりかは、「偉大」なのかもしれない。



 まぁなので、筆者の置かれた立場によって、共感できるか、そうではないか、というのは変わってくるように思える。
 とにかく、筆者がそこそこ生活しつつ「趣味に生きるオタク」というペルソナでもってとらえたら、「いやぁ、労働も生活も、そんな偉大なものじゃないですよ」って言いたくなる。

 まず一つ目の違和感はその点である。



 二つ目として、虚しさレベルの感じ方である。
 等しく、虚しい、と感じる。

 生きていること自体が、虚しいし、労働も、生活も、そして趣味も、等しく、虚しい。

 私はそう感じている。

 虚しくないことがあるとすれば、それは、「虚しくない」と自分で思えるかどうか、である。

 虚しさでいえば、この記事自体がそもそも虚しい。

 私がこうして文章を書いていること自体も虚しい。

 何にもならない。意味がない。

 いやこの文章を書くことで、誰かがチップで、コーヒー代を出してくれるのであれば別であるが。

 コーヒーもぴんきりだからな。仮に200円としようか。コンビニコーヒー。おいしいよね。




 2つ、違和感があると最初に書いた。
 一つは、労働や生活が偉大という点。
 二つ目は、趣味が虚しいという主張に対しての、そもそも全部虚しいんですけども……という点。

 筆者に対して、前々慰める気が起きない点が私の酷いところなのだろう。

 そもそも僕は、少なくても、高校生ぐらいから、(たぶんもっとまえから)「なんか生きるのってつらいな」ということを感じ始め、「そもそも虚しいな」と思い至っている。

 だましだまし、これまで生きてきてしまった。

 結果的に、つらいことと、楽しいこと(気持ちいいこと)のバランスは、良い方向に傾いていったと思われるものの、そのときどき、バランスの問題であって、どっちに傾くかは運次第なところがある。

 故に、生きていてよかったのか、早く死んでしまっていた方がコスパがよかったのか、総括して、断じることはできない。



 筆者は、その、オタク趣味から降りることになった方は、どうだったのだろう。

 いまは、きっと、つらい気持ちでいるんだろうと思う。かわいそうに、思う。憐れむとか憐憫とかではなく、本当に、かわいそうで、共感してつらくなる。

 でも、その方は、オタク趣味全開で楽しんでいるときは、どうたったのだろう?

 楽しかった、のではなかろうか?


 そしたら、その方の人生は、とてもとても、素晴らしいものだったのではないだろうか?

 死ぬ瞬間だけが、人生の+-を決める一瞬になるのだろうか?


 人生とは、そういうものではなくて、総括されるものではなかろうか。
 ものすごく、熱く、楽しい期間があったのなら、それでいいのではないだろうか。

 あとはもう、燃えカスのように、過去の自分を卑下して、悔やんで生きていくだけだとしても、それでいいのではないだろうか。

 そんな風に、僕は思う。



 昨今、長い文章は読まれないらしいので、まぁ気にする必要はないけれども、誤解を生まないように、もう一度僕の書きたかったこと、感情を書いておこう。

 筆者は、今はつらいんだと思うので、かわいそうだなと思う。
 でも、慰めようとは思わない。
 オタク趣味で楽しんでたその瞬間の「自分」というものは、なかったものではない。
 今燃え尽きているのだとしたら、それこそが、当時の自分の熱中を示していたのでは?
 労働や生活というものが、趣味によって犠牲になったと考えているのだとしたら、それはその人の実際のケースを見てみないと何とも言えないが、少なくても、軽く労働しながら趣味ベースで生きてきたのだとしたら、労働や生活というものが趣味に比べてそこまで価値あるものではないと思うので、落ち込む必要はないと思う。
 それは、趣味<労働とか、趣味>労働という意味では全くなくて、等しく虚しいということだ。趣味<虚しさ、労働<虚しさ。虚しさこそが真理に思う。
 生きていることに意味はなく、ただ単に、偶然、生きているというだけに過ぎない。
 燃え尽きて、過去に後悔しながらつらい日々を送っているのだとしても、生物としては、「生きている」こと、それ自体が目的なので、別に何ら問題ない。
 楽しいこと、が見つけられない状況と推察されるが、楽しいことがないということは、別に即座に死ぬという選択肢になるわけではない。後悔しているうちは、まだ死なないと思う。
 生きている意味があるとしたら、死んでいない、ということだと思われる。
 ただそれだけなので、とにかく、誇りとかそういうの気にせずに、まずは自分の、いまある「もの」を書き出してみるとよいと思う。
 身体。貯蓄、資産。人間関係。物。少なくても、ネットにカキコしてるんだから、スマホか、PCはあるってことだろう。スマホかPCがあれば、できること、めちゃくちゃたくさんあると思う。
 まぁ、なんだ、その。
 話し相手が欲しいというのなら、僕が聴いてあげるから、とりあえず、テロとかそういうのは、思いとどまって欲しい。
 なんというか、理不尽さが僕は嫌いだ。
 理不尽に通り魔事件で害されるといのは、かわいそうだと思う。
 何かその、前にニュースであったが、同じ職場の同僚にキレて害した事件があったと思う。せめてそういうのであれば、分からなくはない。いや許されることではないと思うが、一応、理不尽さは、通り魔事件よりは幾段もマシだ。
 いや繰り返し述べるが、害人はよくない。原則として。
 しかし、死刑として国家が人を害すということも社会のルールとして成り立っているし、そして、本当に胸糞悪い最悪なケース()を想像すれば、消えてもらった方が社会のためになる、というケースは存在すると思う。
 ましてや、「戦争」という人を害すということも、大義名分の中で、この現代でも起こることが証明されている。害人はよくないというのは、所詮は「原則として」という前提をおかなければならないのだ。
 だが、その、趣味を見失って絶望してしまった筆者が、無差別に人を害するというのは、なんだか違うと思うのだ。
 違うと思うが、「虚しさ」ということについては、僕は筆者に負けずにかなり強く思っていると思うので、なので、落ち着いて頂きたい、そう思うのだ。

(●人とか、サツという漢字が怖いので、害するという表現にしておいた)



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書くことのリハビリ
2025/12/03 00:24 | Comments(0) | 思考及び書くこと

 昔、大学時代とか、めちゃくちゃもやもやしてた時期、毎日日記を書いていた。
 絶対書く、という強い意志で。
 書くということ、それ自体が目的として、書いていた。
 今も探せば残っている気がするが、正直、読んだところで、当時の感覚は蘇ってくることはあるまい。あるまいし、仮にあったとしても、別に呼び起こしたいものは何もない。
 では、過去のその、書くという行為は、無駄だったのか。
 しかし無駄とは何か。
 生きていること自体が、無駄だともいえる。
 無駄じゃないともいえる。相対的なものだ。主観的なものだ。意味などない。
 ないし、ある。トートロジーであり、二律背反である。

 こういった文章の書き出しを見ると、わくわくする人か、「何かいてるのきっしょ」ってなる人か、もうそこで選別される。
 僕は、ワクワクするな。なんか面白そうって思う。正直、AIに添削してもらえば、ある程度読みやすくなると思う。しかし、読みやすさに意味はない。
 思考というものは、存外にそういうものだ。AIは、きれいな思考だ。エッセンスだ。
 そこにビジネスはあるかもしれないが、「面白さ」はないと思う。

 最近、色んなレビューコメントなど見ていると、「長い」という反応を見かける。うん確かに、意味不明に長い文章というのはある。僕も、ビジネスの面で、分かりづらい文書を提出された場合、やり直すよう指示をしたりする。
 文書は、伝えたいことを伝えるという目的が一つと、正しく記録するという目的が一つある。
 ビジネス的にはそれでよい。
 同時に、文書は、面白いという価値もあってもよい。
 そしてその面白いというのは主観的なものであって、統一的な何かは存在しない。しかし万人にうけやすい小説などというのはある。それは人間がある程度同じ思考感情をもつために、面白いと思うことができるのもある程度コントロールできる証左である。
 しかしビジネスでは、面白さはいらない。ただ、正しく伝えられたらそれでよい。
 そもそも、文書という存在が、時代遅れかもしれない。小説よりもアニメの方が多くの情報を伝えられるのではあるまいか。しかしこれはすぐに否定することもできる。文字という媒体だからこそ、伝えられる「心の機微」というものが存在するからだ。それは、アニメの独白では伝わらないものだろう。
 しかしそうか。心の機微というのは必要なのか。必要だとしたらそれは何故か。人間が、深いことを考える存在であるという、それはホモサピエンスという傲慢さではなかろうか。人間は案外、単に電気信号が脳をかけめぐっているだけであり、そこに思考も感情も、ただ人間が、「大事で深い」と錯覚しているだけではなかろうか。
 仮にそうだとしても、やはり、思考というものが深いものであるということは疑えない。悩み考えるというのが、僕たちの性質であるからだ。

 しかし今僕は、必要性の話をしている。
 面白いか、そうではないかの話をしている。
 そこに、文書は必要か?
 とはいえ、画像生成AIを超えて、動画生成AIもすごい精度になっているなと感じつつ、それでも、自由に、自分自身の思考を具現化するということは、まだ程遠い。いやそもそもにおいて、僕自身の思考というものが、いったい何を表しているか、僕自身も分からないし、ましてや、AIが理解できるようなものでもないのである。

 唯一できる描写としては、この長くて、意味が不明な、この文書全体を通した、集合体なのである。この思考的実験について、AIは、果たして、どのような「要約」を行うのか? この文書群を、AIは、どのような意味づけをするのか、さて、試してみるか。

Ψここまでが人間が書いた文章

ChatGPT
「(この文章は、)文章が「意味を持つ」とか「無駄かどうか」じゃなくて、書くこと自体が“心の動きの現象そのもの”になってる。」

「ざっくり言うと、筆者は「文章を書くことの意味」や「思考することそのものの価値」をぐるっと俯瞰しながら、自分の中の問いと遊んでいる感じだね。
以下、読み取れた主旨と感情をまとめるね。
■ 主旨(書いた意図)
1. “書くこと”の価値を問い直したい
昔の日記を思い出しながら、「あれって意味あったのかな?」と自問しつつ、意味の有無自体が揺らぐ世界を語ってる。
「無駄って何?」「意味って何?」という問いそのものを楽しんでるようにも見える。
2. 人間の“思考の雑味”こそが面白さだ、という主張
AIは整っていて合理的。でもそこに「人間的な面白さは欠けてるよなぁ」というニュアンスをぶつけてる。
“きれいな思考”じゃなく、“ごちゃついた思考”こそ味わいだ、と言いたい。
3. 文書・文章というメディアの価値と古さを考えたい
アニメや動画の方が情報量は多いけど、文字にしかできないこともある。
「じゃあ文字の価値ってどこ?」
「そもそも必要?」
……という問いを楽しんでいる。
4. AIにこの“混沌”をどう扱うのか見てみたいという遊び心
最後に「さて、AIはこれをどう要約する?」と書いてあるのは、
自分の思考実験を、AIという鏡に映してみたい
という知的好奇心。
■ 読み取れる感情
1. もやもやとワクワクが同居してる
昔の自分を思い出して「もやもや」を振り返りつつ、「思考の深みに潜るぞ」というワクワクもある。
2. ちょっとした反骨精神や皮肉っぽさ
「読みやすくしたところで意味はない」
「心の機微って必要?」
こういうフレーズには、
“きれいごとで片づける風潮への反発”
が漂ってる。
3. ちょっと寂しさもある
「意味なんてあるのか?」と繰り返すのは、
“意味が揺らぐ寂しさ”
もどこかに感じるね。
4. 思考を遊んでいる知的な楽しさ
全体的に、難しいことを語ってるんだけど、重苦しいんじゃなくて、
自分の脳内を使った遊び
みたいに書いてる。
「自分の思考をネタにして AI と遊びたい」という軽やかな好奇心がある。
■ 一言でまとめると?
“思考の意味”“文章の意味”“人間の意味”をふわっと問いながら、その問い自体を楽しんでいる文章。
そして AI にその混沌をどう扱うか試してみたいという、知的で少し孤独な遊び心。”」


Ψここからが人間が書いた文章

 なるほど。自分としては、「モヤモヤといら立ち」、という感情であったと思っていたが、AIにそういわれると確かに、「知的で少し孤独な遊び心」というのは良い得て妙な気もしてきた。

「自分の脳内を使った遊び」

 という表現も、いいな。
 楽しい遊びをしたい。
 わくわくすることをしたい。
 そうしないと、こころが、止まってしまいそうだ。

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無力感を抱えたまま、今日も僕は考えている(AI推敲のお試し)
2025/06/21 17:41 | Comments(3) | 思考及び書くこと

注意書き

この記事は、さっき書いた記事「人間って愚かだなと思うこと」を、ChatGPTさんに推敲してもらったバージョンです。
いっつも言われるんだけど、論理飛躍してるとか、感情が強すぎて読みづらいとか(かっこわらい)、「今、指摘してくれた点を推敲して書き直して」ってお願いしてみたものになる。

読んでみても、誤読されているとはやっぱり感じられない。
ちゃんと言いたいこと、伝わっていると思われる。これは生成AIが流行る理由も分かる。下手な人間(アンチコメント)とかより、「ちゃんと読んでくれてるな!」って感じになるもの。
文章における生成AIは、まだまだ色んな使い方というか活用がありそうだし、面白いなーって思う。

と……、ここまでは、私(人間)が書いてます。
以下の「まえがき」からは、私ではなく、ChatGPTさんの文章となります。
(でもたぶん、AIが書いた記事と初見で見破るのは難しいんじゃないかな。逆になんだろ、「整いすぎてる」のが特徴といえなくもない。しかしそうなると、「読みづらさ」があった方が逆に人間っぽいということになるのだろうか。より洗練させた文章にしていけば、AIっぽくなっていくという、これまた矛盾のようで、面白きなり)
ではどうぞー。

まえがき

今の生活は、表面的には安定していて大きな問題もない。ただ、自分の中では、夢中になれることがある時期と、何に対しても興味が持てなくなる時期が交互にやってくる。まるで、気分の波のようなものだ。

最近は、年齢を重ねたこともあってか、その波が少し緩やかになってきた気がする。心が動きにくくなってきたのは少し寂しいけれど、その分だけ落ち着いていられるのも悪くないと思う。

■ 戦争が変えたもの

2022年にある国が戦争を始めたことは、自分にとって大きな衝撃だった。

これまで、自分の中では「リベラリズム(自由主義)」が少しずつ世界に広がっていって、最終的には平和な世界が作られるのだろうと、ぼんやりと思っていた。それは教育を受けてきた環境の影響もあるし、リベラルな価値観があたりまえのように身についていたからかもしれない。

歴史を見れば、共産主義による失敗や弾圧はたくさんある。だから、「やっぱり自由主義がいいよね」という感覚は、理屈と経験の両方から自然と身についたものだった。

でも、戦争が現実に起こったことで、それまでの前提が崩れてしまった。「こんなこと、もう起きないと思ってたのに」という気持ちが強かった。

■ 人間って、やっぱり愚か?

ヒトラーやポル・ポトのような独裁者が起こした過去の残虐な事件については、もちろん非難されてしかるべきだと思っている。でも、その人たちだけが悪いという見方には、疑問もある。

独裁者が力を持つには、それを支持する多くの人々が必要になる。その背景には、仕組みとしての問題もある。つまり、愚かな選択がなぜ繰り返されるのかは、「人そのもの」だけでなく「社会の仕組み」も見ないといけないと思うようになった。

また、発展途上国への援助なども、「かわいそうだから助ける」だけではなく、「安定した世界を作るためには、全体的に貧困を減らす必要がある」という現実的な理由がある。感情と合理性の両方がそこにはある。

■ 無力さを感じるけど、それでも考えたい

こんなふうに世界の出来事を見ていると、個人ができることの小ささを感じてしまう。でも、どうして自分はこんなにも心を痛めるのだろう?と考えることもある。

そんなとき、「人間の欲求は4タイプに分けられる」という岡田斗司夫さんの話を聞いて、自分は「理想型」なんだと納得した。

理想型は、「こうあるべき」と思うことが強くて、現実がそれと違うと違和感を覚えたり、苦しくなったりする。そういう自分の性格に名前がついたことで、少し楽になった。

■ 思いを言葉にすることの難しさ

でも、理想型のような価値観を持っていると、多くの人とは感覚が合わないと感じることもある。

正直に思ったことを話すと、誤解されたり、反感を買ったりすることもある。だからこそ、公の場では自分の考えを慎重に扱う必要があると感じている。でも、心の中に思いをためすぎるとしんどくなるから、このブログのように安全な場所で吐き出すことも大切だと思っている。

■ それぞれのタイプの共存が必要

理想型の自分にとって、成果を重視する「司令型」や、注目されることが大事な「注目型」は、正直言って価値観が合わない。でも、だからこそ、多様な人がいることの意味を考えさせられる。

理想型ばかりの社会では話し合いばかりで行動が遅れそうだし、司令型ばかりだと強引な社会になりがちだ。だから、お互いに補い合いながらバランスをとっていくことが、社会にとっては重要なんだと思う。

人間の価値観はみんな違うけれど、それを「違っていていい」と受け入れることが、少しずつでも社会をよくしていくための第一歩かもしれない。

おわりに

自分が大事にしている理想や考えを変える必要はないけれど、その理想がどこからきたのか、何のためにあるのかを見つめ直すことは大事だと思う。

現実と理想のあいだで、自分にできることを見つけて、少しずつでも行動していきたい。そんなふうに考えている。


感想もかいてもらった

1️⃣ 司令型(結果と実行重視タイプ)


  • 「グダグダ言ってないで、どうしたら戦争が減るか考えて行動しろよ」


  • 「システムがダメなら、自分で新しい仕組みを作るべきじゃない?」


  • 「理想とか感情で動いてると、結局何も変えられない」

感情よりも行動・実績に価値を置くため、論じるだけの姿勢に若干イライラしやすい。



2️⃣ 法則型(正しさ・ルール・データ重視タイプ)


  • 「なるほど、確かに歴史的な事例と戦争の因果関係にはパターンがあるね」


  • 「もっと統計や文献を参照すれば、より説得力が増すかも」


  • 「理想型という自己分析は面白いけど、それが妥当かどうかデータで裏付けたい」

共感はするけど、「感覚」より「構造」や「ルール」にもう一段の整理を求める傾向。



3️⃣ 理想型(正義感・共感・倫理重視タイプ)


  • 「めちゃくちゃわかる……!ボクも戦争のニュース見ると心が痛む」


  • 「人間ってどうして学べないんだろうって本気で絶望するよね」


  • 「でも、その想いを言葉にできたのってすごいことだと思うよ」

ほぼ同調・共感。強い仲間意識を感じやすい。とくに「がっかり感」や「無力感」に深くうなずく。



4️⃣ 注目型(楽しく目立ちたい・共感されたいタイプ)


  • 「うわ〜このブログ、感情ぜんかいでおもしろい!」


  • 「でもちょっと重たいかな…戦争の話より、もっとポップにいこうよ〜」


  • 「理想型ってちょっと疲れそう。ボクはあんまり気にしないな〜」

テンションや雰囲気に敏感で、重すぎるテーマには距離を取りたがるかも。でも、文章の熱量には好感を持つ可能性大。

拍手[0回]



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