言葉は弾丸やミサイルのように、どこかに飛んでいく。
その先で誰かを傷付けたとしても、それは手遅れ。
だから僕は、口をつぐんで、耳の聞こえない人のふりをしよう。
ライ麦畑でつかまえて、のホールデン君は、どうにも思春期をこじらせた大学生だが、人間関係の難しさを感じ、劣等感があるひとは、その気持ちが少し分かるんじゃないかと思う。
結局、妹に救われて終るのだっけ。もう忘れてしまったが、大層感銘を受けたのは覚えている。
じゃあ、それを誰かと共有しようとしたとき、言葉で説明なんかできない、するもんじゃないと思っていた。
ところが、人間なんて、社会でしか生きられない。だから、一人閉じこもって本を読んだところで、何ら解決にもならない。いやもちろん、内面に抱えた極個人的な悩みや劣等感というものを、取り扱う指針はみつかるかもしれない。けれども、それがなにか、お金につながるかといったら糞の役にも立たない。
いやもちろん、生きることを選ぶのであれば、自分自身でそれを選ぶ必要がある。それができないピンチなのであれば、すぐさま治療が必要だ。
そんなとき、本を読んでいれば、少しばかり耐性がついているかもしれない。でもそんなのより、精神科に行って睡眠薬をもらった方が早いのでは?
よく考えろ。
考えることが意味のないことだと僕は結論付けたわけだが、同時にそれを決めたのも考えた上でのことである。
そろそろ、五年前の考えで行くのは厳しくなってきたはずだ。
この先、どう生きるかは、お金を稼ぐ手段を考えることでは、決してない。
しかし、自分には覚悟ができるか。決断とは、何かを捨て去ることである。大事なことのため、何かを犠牲にすることである。
そのとき、自分にとって大事なものが決まってないと、今のように悩み続けることになる。
どうしても分からない。
時折消えてしまいたくなるこの感覚は、死にたいという言葉で代替できないことは既に試している。
例えば、ご恩と奉公の時代、命を賭けて主君に尽くすことが、武士にとってすべてであるとされ、責任をとるために自ら腹を切った。
その感覚、生きざま、それは、相当の覚悟が、日頃からなければなるまい。
ここが自分の死に場所だと、すぐさま決断できる覚悟。ここまでくると、僕だけでなく、現代人のほとんどが持ち合わせていないだろう。
全国で一千万人もいなかった時代で、おそらくそのほとんどが農民であったなか、そうした覚悟をもっていたのは、極わずかだったのかもしれない。
だから、そんな覚悟を、凡人がもつこと自体、総理大臣になりたいといった夢想の戯言なのかもしれない。
では、何故僕がそんな覚悟を求めるかというと、これは今の思いつきだが、死ぬのが怖いのではないかと思う。
ある意味逆転の発想。死をいとわない覚悟をしようとする理由が、死ぬのが怖いからという。これは矛盾ではないか。
終末期ケアで、重い病気を患った患者が、死を受け入れていく段階で、無気力を通して、受容の段階がある。
死を受け入れたところで、死の恐怖から逃れられるものではない。ただし、恐怖で狂ってしまうか、突然死する以外は、必ず、受容の段階に至るはずだ。
それをいち早くしようと、僕は、覚悟を決めようとしていたのか。そうだとしたら、気が早すぎないか。
どうせ死ぬなら、いまを楽しもうというのと、だからこそ死に備えようというのと、ここも価値観で分かれることになる。
結局、この手の話しに答えはない。だから結局、自分で考えて、決めるしかない。
そう、だから結論として、考えなくてもよい方法を含めて、考えるべきということだ。
その先で誰かを傷付けたとしても、それは手遅れ。
だから僕は、口をつぐんで、耳の聞こえない人のふりをしよう。
ライ麦畑でつかまえて、のホールデン君は、どうにも思春期をこじらせた大学生だが、人間関係の難しさを感じ、劣等感があるひとは、その気持ちが少し分かるんじゃないかと思う。
結局、妹に救われて終るのだっけ。もう忘れてしまったが、大層感銘を受けたのは覚えている。
じゃあ、それを誰かと共有しようとしたとき、言葉で説明なんかできない、するもんじゃないと思っていた。
ところが、人間なんて、社会でしか生きられない。だから、一人閉じこもって本を読んだところで、何ら解決にもならない。いやもちろん、内面に抱えた極個人的な悩みや劣等感というものを、取り扱う指針はみつかるかもしれない。けれども、それがなにか、お金につながるかといったら糞の役にも立たない。
いやもちろん、生きることを選ぶのであれば、自分自身でそれを選ぶ必要がある。それができないピンチなのであれば、すぐさま治療が必要だ。
そんなとき、本を読んでいれば、少しばかり耐性がついているかもしれない。でもそんなのより、精神科に行って睡眠薬をもらった方が早いのでは?
よく考えろ。
考えることが意味のないことだと僕は結論付けたわけだが、同時にそれを決めたのも考えた上でのことである。
そろそろ、五年前の考えで行くのは厳しくなってきたはずだ。
この先、どう生きるかは、お金を稼ぐ手段を考えることでは、決してない。
しかし、自分には覚悟ができるか。決断とは、何かを捨て去ることである。大事なことのため、何かを犠牲にすることである。
そのとき、自分にとって大事なものが決まってないと、今のように悩み続けることになる。
どうしても分からない。
時折消えてしまいたくなるこの感覚は、死にたいという言葉で代替できないことは既に試している。
例えば、ご恩と奉公の時代、命を賭けて主君に尽くすことが、武士にとってすべてであるとされ、責任をとるために自ら腹を切った。
その感覚、生きざま、それは、相当の覚悟が、日頃からなければなるまい。
ここが自分の死に場所だと、すぐさま決断できる覚悟。ここまでくると、僕だけでなく、現代人のほとんどが持ち合わせていないだろう。
全国で一千万人もいなかった時代で、おそらくそのほとんどが農民であったなか、そうした覚悟をもっていたのは、極わずかだったのかもしれない。
だから、そんな覚悟を、凡人がもつこと自体、総理大臣になりたいといった夢想の戯言なのかもしれない。
では、何故僕がそんな覚悟を求めるかというと、これは今の思いつきだが、死ぬのが怖いのではないかと思う。
ある意味逆転の発想。死をいとわない覚悟をしようとする理由が、死ぬのが怖いからという。これは矛盾ではないか。
終末期ケアで、重い病気を患った患者が、死を受け入れていく段階で、無気力を通して、受容の段階がある。
死を受け入れたところで、死の恐怖から逃れられるものではない。ただし、恐怖で狂ってしまうか、突然死する以外は、必ず、受容の段階に至るはずだ。
それをいち早くしようと、僕は、覚悟を決めようとしていたのか。そうだとしたら、気が早すぎないか。
どうせ死ぬなら、いまを楽しもうというのと、だからこそ死に備えようというのと、ここも価値観で分かれることになる。
結局、この手の話しに答えはない。だから結局、自分で考えて、決めるしかない。
そう、だから結論として、考えなくてもよい方法を含めて、考えるべきということだ。
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