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インプットなるもの本を読むこと
2016/06/09 00:01 | Comments(0) | 生きる意味
目標とは、ある期限を設けて、それに対して定量的な成果を積み上げて、結果をアウトプットすることである。

僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。

教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。


凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。


このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。


僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。

その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。


しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。

つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。

行為として実践することと思考との乖離

確かに、行動すること、それにおいては、結果はついてきた、といってよい。
しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。


偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。

ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。

このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。

こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。

ある30代の悩み

先日挙げた質問掲示板のある30代男性の悩み、それは、「ああ、分かる」という気持ちを、僕に生じさせた。

あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。


まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)

他者への興味

残念ながら、時間が迫っている。
1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。

他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。

他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。

ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。

他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。

表現の限界性

ところが、驚いたことに、君はよく分からない、気持ちの悪い人だね、と言われたわけだ。
これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。

いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。

だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。

ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。

だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。

僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。



ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。





























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