今日の一言「苛々とか愚痴をさも一般論のように語るのは良くないな」「それもまた人間的にも思えますが」
それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
グーグル先生の検索批判
先日、「生きる意味」というキーワードで調べると、どうにも「くだらない」情報ばかりで、辟易してしまう、と書いた。それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。
その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。
まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。
語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。
厖大なインプットへの恐怖
それで、ネット情報というか、まぁネットに限らず、すべてのこれまでの人間の知識の蓄積。例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。
人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。
そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。
自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。
さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?
だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)
70億人のうちの一人としての生き方
恐らく、単純な生き方として有効なのは、ローカルなコミュニティの中で、ひたすら自己実現と貢献心をみたしていくやり方である。ローカルなコミュニティというのは、会社組織や、家族、友人、サークル、地域など、物理的接触を基礎とする集団内であると、ここでは定義しよう。そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。
で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。
いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。
零れ落ちた感情の掬い方
決して、僕は、現実肯定的な生き方を否定するのではない。哲学的に生きることなど、正しいと思っているわけではないし、今、ここ、を大事にするという考え方だって共感するものがあるし、そもそも、僕はポジティブでしかありえない(※1)と思っている。その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。
それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。
このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。
これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。
※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。
※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。
※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。
今後の方針の確認
最近、家に帰ると23時か24時を過ぎていて、平日に殆ど書く時間がない。まぁ換言すれば、仕事が充実しているといえる。対人関係も良好である。生きていく上で事欠かない。換言すれば、忙しくて疲れる、ということである。この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)
まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。
だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。
……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。
だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。
けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。
というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。
※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。
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今日の一言「昔は良かったなぁというのは諦めの哲学か」「過去の確認作業は必要だけどな」
それは、リソースの問題である。体力的、時間的、感性的な問題である。だが、より大きな問題としては、その感性の深化、鋭敏化が原因でもある。
先般、初代ガンダムを見た、と記事に書いたが、1970年代として考えたときに、確かに先進的な作品であったろうが、果たして、今の作品と比べて太刀打ちできるかというと……いや比べられない。
一方で、技術……芸術とか、感性といった面においては、必ずしも、最新のものが好ましいとはいえない。過去に感じた、その現時点性における(タイミング)が与える影響は大きいけれども、時間をかければ素晴らしい作品が生み出されるかと言えばそうともいえない。
ただ、あるブログで書かれていたことであるが、「新しい作品を見ないようになったら、それは怠慢ですわ」というのは、その通りだろう。でも「新しいもの(未知のもの)が中々あらわれないんですわ」というのも、そうだろうと思う。
下の曲は良かった。
初音ミク『すろぉもぉしょん』
https://youtu.be/ARt2fVT33Lw
そのころ、初音ミクとかで、ああ、アマチュアの人たちでも、こんなに素晴らしい音楽をつくれるのか、などと思っていた。
それ以前も、確かプレイヤーズ王国、みたいなサイトで、ユーザー投稿型のミュージックサイトがあった。そこに投稿されている作品も、確かに、きくにたえないものも多くあったけれども、本当に素晴らしい、心を打つ作品もたくさんあった。(今もウォークマンに入っているし、今きいてもよいと思う)
それが、しばらくして、新しいミクさんの曲とか、おっかけるのをやめていた。
何故だろう? だんだん、アマチュアの音楽、というジャンルじゃなくて、それがメジャー化、商業化、プロ化したことが原因だったのだろうか。アンダーグラウンドな気分がそがれてしまったのだろうか? もしそれが原因だとしたら、くだらない。よいものは、プロが作ろうがアマチュアがつくろうが、良いものは良いのだ。これは、昔からの僕の信念ではなかったろうか。(プロとアマの違いは、「お金」だけである。つまり、アルバイトの人も「プロ」だ。)
そこじゃなかったのか。単に、新しいものを探すのに疲れてしまったのか。
いや、「新しいもの」というものが見つけられなくなってしまっていたのか。
努力しろ、といっているのではない。苦しめ、といっているのではない。それらは、本来的には無駄な作業である。
ただ、「うーん、この作品、面白いけれども、何かちょっと惜しい気がするなぁ」という気持ち。その気持ちを、大事にしなさい、ということだ。
そして、諦めてはならないと。いい作品は、「ある」のだ。
それは、「自分」を変えるのではない。過去を切り離して、新しい自分探しをする必要はない。
作品が変わったのではない。自分が変わったのだ。そして、過去の作品であっても、「良い」と思うものは、それは、自分にとっての「古典」なのだ。
古典とは、時に古臭くて、役に立たないように思われるけれども、普遍的な「要素」を与えてくれるものでもある。
先日、「人間とは何か」の中の一節(これはフランクル氏の言葉ではないとのことだが)、巨人の肩に乗る小人は、巨人より遥か遠くを見渡せる、と。ここでいう巨人が、「古典」である。小人であることを自覚して、であるから、巨人によじのぼろうとする行動……それが「効率的」である。
と、何だかどうでもいいことを思ってしまったけれども、それはまぁ、ともかく、その巨人によじのぼるのは、結構大変な作業なので、いつの間にか、「のぼること」自体が目的になっている場合がある。
それじゃあ元も子もない。だから僕はいつも「目的・目標」をちゃんと掲げてチェックポイントごとに再確認しなさい、と言っている。
初心、なんだったのか? 遠く見渡して、欲していたものがあったのではなかろうか?
自分で創る、ということを忘れてしまうと、批判ばっかりする人になってしまう。それはそれで役に立つというか、「楽」な生き方だ。
楽な生き方を否定するのではない。けれども、僕は、それを「つまらない」と思ってしまったのだろう。ここにおいて、ようやく、努力や頑張るということが、意味をもつ。つまり、八方ふさがり、である。ここに立ち止まってもつまらないし、かといって何もしなくては何も変わらない。なら仕方がない、「求めるもの」を求めて、頑張っていきましょう、ということだ。
それは時に苦しいことかもしれない、悩ましいことかもしれない。ただ、その求めるもののためへの行動は、最初に書いた単なる苦しみとは、全く違うものなのである。
(小見出し5つにするの結構難しいな……長すぎても短すぎてもいけない……)
懐古主義に対しての見解
歳をとると、新しいことをできなくなる、とどこかで書いた気がする。それは、リソースの問題である。体力的、時間的、感性的な問題である。だが、より大きな問題としては、その感性の深化、鋭敏化が原因でもある。
先般、初代ガンダムを見た、と記事に書いたが、1970年代として考えたときに、確かに先進的な作品であったろうが、果たして、今の作品と比べて太刀打ちできるかというと……いや比べられない。
一方で、技術……芸術とか、感性といった面においては、必ずしも、最新のものが好ましいとはいえない。過去に感じた、その現時点性における(タイミング)が与える影響は大きいけれども、時間をかければ素晴らしい作品が生み出されるかと言えばそうともいえない。
ただ、あるブログで書かれていたことであるが、「新しい作品を見ないようになったら、それは怠慢ですわ」というのは、その通りだろう。でも「新しいもの(未知のもの)が中々あらわれないんですわ」というのも、そうだろうと思う。
下の曲は良かった。
初音ミク『すろぉもぉしょん』
https://youtu.be/ARt2fVT33Lw
ニコニコ動画
ニコニコ動画をよく使っていたのは、2007年~2008年ぐらいだろうか。そのころ、初音ミクとかで、ああ、アマチュアの人たちでも、こんなに素晴らしい音楽をつくれるのか、などと思っていた。
それ以前も、確かプレイヤーズ王国、みたいなサイトで、ユーザー投稿型のミュージックサイトがあった。そこに投稿されている作品も、確かに、きくにたえないものも多くあったけれども、本当に素晴らしい、心を打つ作品もたくさんあった。(今もウォークマンに入っているし、今きいてもよいと思う)
それが、しばらくして、新しいミクさんの曲とか、おっかけるのをやめていた。
何故だろう? だんだん、アマチュアの音楽、というジャンルじゃなくて、それがメジャー化、商業化、プロ化したことが原因だったのだろうか。アンダーグラウンドな気分がそがれてしまったのだろうか? もしそれが原因だとしたら、くだらない。よいものは、プロが作ろうがアマチュアがつくろうが、良いものは良いのだ。これは、昔からの僕の信念ではなかったろうか。(プロとアマの違いは、「お金」だけである。つまり、アルバイトの人も「プロ」だ。)
そこじゃなかったのか。単に、新しいものを探すのに疲れてしまったのか。
いや、「新しいもの」というものが見つけられなくなってしまっていたのか。
問おうそれがお前の求めるものか
本気で生きろ、という励ましは、時にものすごく嫌悪するのだけれども、今の気分としては、この文脈としては、よく言い表した言葉だ。努力しろ、といっているのではない。苦しめ、といっているのではない。それらは、本来的には無駄な作業である。
ただ、「うーん、この作品、面白いけれども、何かちょっと惜しい気がするなぁ」という気持ち。その気持ちを、大事にしなさい、ということだ。
そして、諦めてはならないと。いい作品は、「ある」のだ。
それは、「自分」を変えるのではない。過去を切り離して、新しい自分探しをする必要はない。
作品が変わったのではない。自分が変わったのだ。そして、過去の作品であっても、「良い」と思うものは、それは、自分にとっての「古典」なのだ。
古典とは、時に古臭くて、役に立たないように思われるけれども、普遍的な「要素」を与えてくれるものでもある。
先日、「人間とは何か」の中の一節(これはフランクル氏の言葉ではないとのことだが)、巨人の肩に乗る小人は、巨人より遥か遠くを見渡せる、と。ここでいう巨人が、「古典」である。小人であることを自覚して、であるから、巨人によじのぼろうとする行動……それが「効率的」である。
効率性を求めるときと創造をするとき
あれ、そもそも、巨人の「肩」だったら、それほど遠く見渡せなくないか?と、何だかどうでもいいことを思ってしまったけれども、それはまぁ、ともかく、その巨人によじのぼるのは、結構大変な作業なので、いつの間にか、「のぼること」自体が目的になっている場合がある。
それじゃあ元も子もない。だから僕はいつも「目的・目標」をちゃんと掲げてチェックポイントごとに再確認しなさい、と言っている。
初心、なんだったのか? 遠く見渡して、欲していたものがあったのではなかろうか?
自分で創る、ということを忘れてしまうと、批判ばっかりする人になってしまう。それはそれで役に立つというか、「楽」な生き方だ。
楽な生き方を否定するのではない。けれども、僕は、それを「つまらない」と思ってしまったのだろう。ここにおいて、ようやく、努力や頑張るということが、意味をもつ。つまり、八方ふさがり、である。ここに立ち止まってもつまらないし、かといって何もしなくては何も変わらない。なら仕方がない、「求めるもの」を求めて、頑張っていきましょう、ということだ。
それは時に苦しいことかもしれない、悩ましいことかもしれない。ただ、その求めるもののためへの行動は、最初に書いた単なる苦しみとは、全く違うものなのである。
(小見出し5つにするの結構難しいな……長すぎても短すぎてもいけない……)
今日の一言「朝型になろうという試みはかなりの確率で失敗している」「自分でコントロールできない要素が多い問題は解決しづらい」
あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。
書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。
そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。
君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。
先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。
で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。
この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。
何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。
おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。
読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。
その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。
あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。
と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。
思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。
ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。
(朝は本当に強制的に時間切れだ)
5時に自然に目が覚める
目覚ましいらずに、自然に目が覚めるというのは、悪いことではない。ただ、その後、行動的になれるかどうかは、前日の準備次第だったりする。あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。
ブログを書くこと
大抵、この書くことは、夜にやっているので、朝に何か書こうと思うと、結構難しい。でももしかしたら、朝に書く内容の方が、能率的で、内容に富んで、ポジティブで良いもの、なのかもしれない。書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。
君の名は。ショック
夢を、見ていたのだけれども、確か、レシプロ機が、二階建ての家の中のガレージに帰ってくるのを迎え入れたのと、友人たちとトランプをしている夢であったような気がする。そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。
君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。
先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。
で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。
書きたいことの枯渇
ふむ……、うーむ、何だか、やはり朝に書くというのは、中々慣れないというか、書いているうちにテンションが下がってくる。もう少しで出発しなければいけないという、そういう焦燥感もあったりして、あまり落ち着いて書けない。この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。
何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。
おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。
小見出しの数を決めてみようか
↑のサブタイトルみたいな奴を小見出しと呼んでいる。HTML的には「h2」タグである。読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。
その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。
あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。
と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。
思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。
ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。
(朝は本当に強制的に時間切れだ)
今日の一言「専門書は基礎知識がないと辛い」「もっと嚙み砕いた本もあったのに見栄をはるから……」
サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。
――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。
ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。
アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。
ちょっと調べてみる。……。
この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。
確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。
この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。
この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。
ルーチンの危機
ルーチンの危機2
↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。
取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)
456÷5≒91
おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)
そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。
仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。
うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。
――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。
どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。
(その一言が浮かばずに頭を抱える)
「人間とは何か」を読み進める
ヴィクトール・エミール・フランクル氏の、「人間とは何か」を読み進める。はじめに、が終わって第一章に少し入ったところ。難しいぞ! 頭に入ってこない。こういうときは、音読である。そして、電車の中で聞く。繰り返し聞く。そのうち、何が分からなくて、何が分かりづらいのかが分かってくる。そうしたらようやく、分からないことの解決につとめることができる。サピエンス全史を読んでいたときは、それほどつっかかるところがなかった。ある意味、スラスラ読めた。もちろん初めて知ることも多かったし、面白かったのだけれども、論理的に、何が書かれているのかが分かりやすかった。この「人間とは何か」は、まずは、既存の精神療法、心理学において、どこまでがカバーしていて、どこからが不足しているのか、という確認作業から入っている。
――巨人の肩の上に立つ小人は、巨人よりも遥かに遠くを見渡せるのである。
ここで言われる「巨人」とは、フロイトさんと、アドラーさんである。
基礎知識の確認
取りあえず、フロイトについて知っていることを、何もみずに書く。ヨーロッパ(確かドイツ)の精神科医。エス・エゴ・スーパーエゴということで、動物的な衝動=エスと、親からの規律規範といったスーパーエゴとがあり、自我は、その両者を調整しているのだ。エディプスコンプレックスとか、性の欲望を明らかにした。男は父親を殺して母親と寝たい欲望をもっている、とか。アドラーさんについては、……うーん、フロイトと最初は一緒に研究していたけど、後に離反した、くらいしか知らない。
ちょっと調べてみる。……。
WIKIよりアドラー自身は自分の心理学について、個人心理学(英: individual psychology)と呼んでいた。それは、個人(individual)が、in(=not) + L.dividuus(=devisible 分けられる) + al(の性質)=分割できない存在である、と彼が考えていたことによる。日本では、アドラー心理学(英: Adlerian psychology)の呼称が一般的である。
アドラーが自分の心理学について個人心理学と呼んだように、アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、人間の生を、個人という全体が個人の必要な機能等を使って目的に向かって行動している、というふうに考えている。より具体的には、人間は相対的にマイナスの状態(劣等感を覚える位置)から、相対的にプラスの状態(優越感を覚える位置)を目指して行動している、と考えている。
この、「個人心理学」というキーワードは、フランクルさんの本にもたびたび登場する。覚えておいた方がよいだろう。ああ、「アドラー心理学」というのは何か聞いたことがある。内容は全然分からなかったが、なるほど、「個人」という単位を、絶対視しているということか。
確かにこれだと、フロイトさんとは合わなそうだ。
ふむふむ、ざざっと調べて読んで見ると、アドラーさんは、「共同体感覚」という、全体としてより良い方向へ向けていく、他者のためになるような感覚を醸成していくことを目指していたということだ。楽観的で、目的論的だな。
この、目的論的なところは、ヘーゲルさん(テーゼ・アンチテーゼ・ジンテーゼぇぇ!!)っぽいな。キルケゴールさんが、「うっせー、世界的な目的なんて知るか! ばーかばーか!」といったの情景が思い浮かぶなぁ。
しばらく学習記事が続くのか
ふむ、しかし、これ(フランクルさんの本を読み進めること=もっといえば、それを理解して自分の思考に取り入れること)、真面目に取り組んでいくと、相当大変だな。目標やチェックポイントを決めていかないと、かなりの確率で挫折するだろう。この、新しいことをする、というのは、最初が肝心である。
筋トレ、音読、ストレッチは、もう大体毎日のルーチンというか、儀式というか、やるのが当たり前レベルになっているが、初めの頃は結構大変だった。
ルーチンの危機
ルーチンの危機2
↑のように、相当意識を、そのやることに向けていかなければいけなかった。一日でもルールを破ったならば、もうなし崩しに崩壊していただろうとも思う。
取りあえず、大きな目標を定める。2月中までに、最後まで読み進める。(黙読で可)
あとがきを除くと、456ページある。これを、2月末まで、とすれば、週単位で考えたとき、残り5週間である。(多分、土日がほぼその充てられる時間になる)
456÷5≒91
おぉ……一週間に90ページか。これは結構厳しいペースだな。(簡単な本なら余裕だろうが……)
そして、読み終えた後に、3月には、概括をする。つまり、ポイントになるキーワードやセンテンスをまとめ、それをインプットする。
その時点で、この本から、「生きる意味」を見つけられるのか、そのための「手段」が見つけられるのか、それとも「資するものはない」のか、分かるだろう。
もし価値があれば、6月までに、再度読み直し、インプットを確実なものとする。6月の理由としては、2017年を前半、後半として分けたとき、後半は、「実践」に力をいれたいところ。仕事が更に慢性的に忙しくなることが見込まれるため、あまり考える時間も取れないだろう。それについての対策も、6月ぐらいまでには立てておかないといけないなぁ……。
やることは結構ある
2017年12月には、2018年の目標もたてなければいけないし、忙しい。仕事、家庭、勉強、自己、趣味、創作……。
8つの人生の輪という考え方がある。2016年5月27日の記事
1.仕事・キャリア 2.健康 3.自己啓発・学び 4.恋人・家族 5.友人 6.物理環境・時間 7.富 8.趣味
これらが、全体的に高まっていくことが、人生にとって重要なのだ、というわけだ。
うん。これも、忘れていた。8つあるんだったね。4番、7番あたりが微妙だなぁ。これに対しての意識は、もう少し高めないといけないかな。
――うーん。何か、毎回記事の「オチ」をつけようとして、最近、ずだだだーっと書いてから、最後でウンウン唸っている気がする。別にオチなんてつけなくていいじゃないか、ということにすればいいんだけど、それだと芸がないし、未来の自分に怒られそうだ。
どうしよう、いい方法はないものか。あ、これもある方の真似をして、ルーチン化してみようか。最後に一言、みたいに。
(その一言が浮かばずに頭を抱える)
今日の一言「青春をテーマにした作品はエンディングに関わらず黄昏を思う」「時間の不可逆性が虚しくさせるのかもね」
おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
「君の名は。」を映画館で見てきた
映画って、何か月上映するかというのは決まっていないらしい。1か月で上映を終える作品もあるらしい。シン・ゴジラは4か月ぐらいで、君の名は。は、それを超えてロングランになっている。おかげで、遅ればせながら、映画館で見ることができた。DVDでも出たら借りてみようかと思っていたけれども、結果的に、見て、後悔とか、時間の無駄、という感じは無かった。
結構、「万人受け」すると思う。前作(厳密な意味ではない)の「秒速5cm」は見る人を選ぶと思う。しかし、その意味で、秒速5cmを見てからこの作品をみると、いろいろ思うところが増えて面白いと思う。
ストーリーについては、この後書くとして、とにかく、映像がきれいである。日常生活感がばっちりな高校生の部屋から始まり、東京の街並み、走る電車のディテール、駅構内の雑然とした感じ、そして対照的な長野か岐阜の田舎の村の自然と、その自然の中に切り開かれた人の痕跡、伝統的な神社、そこに伝わる紡がれる糸。
新海誠さんは、本当に、ディテール、繊細な「日常」を切り取るのが上手いと思う。美しいものを美しいように描くのではなく、普段ありふれた些末なものを、美しく描くのではなく、それを兎に角繊細に細かく詳細に描くのだ。その描写が、実写と異なるアニメーションであるという媒体と、これが本当に綺麗に綯交ぜになり、それが見る人に美しさを、押し付けではなく自然に感じさせるのである。
記憶と思い出の大切さ
※ここから若干ストーリーについても触れるため、ネタバレほどにはならないですが、気になる方は注意頂ければと思います。ただ、まだ見たことない方にもそれほど影響はないように配慮はしています。が、ハッピーエンドかバッドエンドか、それすら知りたくない人はブラウザバックでお願いします(ただ、何をもってハッピーとするかは人それぞれでしょうが)。本作を、恋愛もの、としてみると、ちょっと違う気がする……というか、今の自分をはじめとして、恋愛とか結婚とか、異性とか、そういった事柄に興味がなかったり、逆に嫌悪をしている人は、面白くないと思う。
ただ、そこは少し、見方を変えることができれば、冒頭に書いた、より広く万人受けする作品であることは間違いないと思う。
それは、記憶や思い出の大切さ、美しさ、重要性、というテーマとしてみることである。
本作の前半は、高校生の男の子と女の子が、互いの人格が入れ替わって、ドタバタ劇をやるのであるが(と書いてしまうと、さもつまらなそうに思えてしまうが、そこは心配なく、冒頭の綺麗な映像と、飽きさせない撮影(=構図やカットイン・アウトなど、連続した映像の見せ方についての技術のこと。アニメーション作品においても非常に重要なポイントである。これは蟲師の特典映像の監督インタビューみたいなので語られていた)によって、普通に楽しむことができるだろう)、物語が動き出すのは後半である。
田舎の村と、東京と、二人の高校生の心とが交錯し、そして、不吉な彗星が二人の運命を大きく変えていく。(彗星の名が、ティアマトとかいって、確かティアマトってギリシア神話の神で、伝説のオウガバトルとかにティアマットって闇属性の龍が登場したりするから、何だか悪いもののような気がしていたけれども、案の定大変なことになる)
で、まぁ、その、二人は何やかんやで出会うのだけれども、その出会ったタイミングが、黄昏時なのである。
この黄昏というのは、昼でもなく、夜でもなく、境界が曖昧になった時間帯なのである。誰そ彼ということで、君は何者なのか、という、よく分からなくなる時間帯、逢魔が時ということなのだ。
そんな時間だから、二人は、出会うことができた、しかし、その黄昏時はあっという間に過ぎ去っていく。そうすることで、二人は、大切な、相手の名前を、思い出せなくなっていく。「君の名は?」というわけである。
5年が過ぎる
そして更に、5年が過ぎ去る。そうなると、もう二人は、二人が出会ったことすら完全に忘れてしまう。確かに、男の子の方は、東京から田舎の村の山に行ったことは覚えている。けれども、それが何故、何をしに行ったのか、思い出すことができない。
しかし、どこか、心の奥底では、沈殿した、何か大切な人の思いが残っているように思えるのである。
しかし、それが何かは、どうしても思い出せない。
けれども、……これは、ネタバレだけれども、物語的には重要ではない(僕としては重要なことではなかったし、恐らく、この作品が大ヒットしたということで、エンディングはハッピーになっているのだろうということが分かっていた)から、書くと、最後で、二人は何か惹かれるものを感じ、再び、出会うのである。
秒速5cmとの違い
秒速5cmを見ていると、最後のシーンが、単純にああよかったね~で終わらず、何だかしみじみとした、感傷というか、何とも表現しがたい思いになることができる。秒速5cmは、鬱アニメと呼ばれているように(呼ばれてないかもしれない)、最後、結局、踏切のところで、出会いそうで、出会わないのである。擦れ違いである。そして男の子は、何かよく分からなくなって、仕事を辞めて、それでEND、なのである。これは辛い。
そういう意味で、今作「君の名は。」が、きっとハッピーなんだろうと思いつつ、「し、新海先生、このあと、え、どうなるんですか、ま、まさか、まさかまたすれ違うんですか……? こ、ここは作品としては、出会った方がよいと思いますよ、映画作品的に!」と思いながらみていた。そういう意味で、最後までハラハラどきどきだった。いやぁへんな意味で面白かった。
さてここから感想
まとめとして、ストーリーとか、そういう点はともかく、映像が綺麗だし面白かったので、満足である。特に批判とかはありません、良い作品だったと思います。で、ありつつ、この、終わった後にですね、この、モーレツな虚無感というか、やるせなさというか、つらさというか、哀しさがこみ上げてきたので、やはり危険な作品だと思います。(ここからが書きたいこと。上までのことは、あまり書きたかったわけではないのですが、書いておかないと忘れてしまうし、ここから先の文脈がぶれぶれになりそうだった)
なんというかですね、
・記憶や思い出
・男女仲・友情
というキーワード、ポイントが、やはり相当美化されているが故に、「青春」という時代における輝かしい思い出が希薄な人が見るとですね、これは相当「後悔」的なものを生じさせるのです。
そういう意味においては、若い人がみるのも、きっと危険と思いますが、まぁ、それはまだ「無限の可能性(笑える言葉だ)」があるので、おっさんおばさんが見るよりはマシだと思います。
なにかこう、若いとき、青春と呼ばれる時期においては、恋愛とか、冒険とか、その他生き生きとした人生の経験、体験をしなければいけない、そんなような、強迫観念的なものを植え付けるわけです。
いやこれは別に、若いときいじめられていたとか、彼女もできずに童貞だったとか、そういう寂しい思いをしたことがある人に限らず、大抵の人、多くの人は、そんな大それた恋愛も冒険も無いわけです。
日々の些細な楽しみ、面白さ、大きなことはなくても、それなりに楽しく過ごしていくわけです。
田舎に生まれた人は、今作のように、東京に出ていくこともなく、出ていったとしても、ディズニーランドで遊ぶとかスカイツリーの展望台に行くとかそんな程度で、もしくはずーっと田舎の村で過ごして終わるわけです。
逆に、だからこそ、そんな失われた青春を取り戻すため、こうした作品において……これは、多くのエンターテイメント作品が、若者を主人公にしていることが一つ理由と思われますが、その若い時代がテーマに描かれるのです。それを追体験して、ひと時の癒しをえるのです。
虚しさを乗り越えるために
まぁ、こんな感想を持つ人は、殆どいないだろうな。ハッピーエンドだったからこそ、哀しく、虚しくなるというのは、物語の消費として、使用方法が完全に誤っている。
だからこそ、最初に述べたように、この作品を、「恋愛」とか「青春」とか、そういった観点でとらえてはならないのである。
僕は先日、衝撃的な体験をしたことで、生きる活力を、いくばくか回復させることができた。それは、これまでの多くの、「自らの再生産」ではなく、他者の存在から与えてもらったものだった。
そしてそのとき、僕は言った。
答えが欲しい、けど足りないと。
俺は、まさに、これである、と、自信をもって言いたい。
それが例え、過去の自分を否定することになろうとも、その人生の終わりの際に、ああ、実り多き人生だったと、「実感レベル」で感じていきたい。
しかし同時に、傲岸不遜で強欲であるが、「終わりよければすべてよし」的な思考も大否定したい。その、目的へのプロセス、道筋、道すがらすべて、その目的自体であることを望んでやまない。
上記下線の感覚について、今回の作品は、「否」と語りかけてくるのだ。
かなり極端にストーリーを書けば、高校時代の記憶・思い出によって、就職活動中で自分を見失っていた男の子が(及び、女の子が)、再び自らの求めていた「生き方」に立ち戻っていく、ということである。
即ち、高校時代(=青春時代)から、現代(社会人)までの、連綿とした繋がり(これは本作では何度も重要に示唆されている、「糸」の「結び」ということがメタファーに思われる)についての、重要性(ないしは、美化、又は「お勧め」)を示しているということである。
故に、この作品が「合う人」、「合わない人」(面白いと思えるか、思えないか)を、分けるとすれば、その「連続性」を肯定できるかどうか、と言える。
もっと極端に書けば、これまでの人生を「満足」してきたか、そうではないか、ということでもある。
ここまで、「青春」と簡単に書いてきたが、別に中高生時代に限らない。どこまでが青春かというのは、いまや、30歳までを青春時代、モラトリアムとみなすこともあるというぐらいであり、ここで特段重要な問題ではない。
ただ、忘れたい過去、嫌な思い出、振り返りたくない時代をもった人は、残念ながら、本作は「合わない」ということになるだろう。
難しいのは、そんな人でも、最初に書いたように、映像が綺麗だし、撮影テクニックは秀逸だし、音楽の挿入も絶妙だしで、それなりに面白く思ってしまう可能性が多大にある。それがまた、今作を大ヒット、させた一つの理由でもある。必ずしも、ストーリーが良いからヒットするわけでもない。(良い例が、ジュラシックパークは、それほどストーリーが巧みで面白いかというとそうではないが、とにかく恐竜がかっこよく迫力あって楽しいじゃないか、ということだ)
ただ、僕は、正直なところ、映画を見終わって、帰る前に喫茶店に入って、取りあえずキーワードだけメモしようとしていたときに、何だか、非常に、この天気の良い日の思ったより寒くなく麗らかな気候の中で、どうにもこうにも、うら哀しい気持ちが広がっていったのである。
感情移入状態から、現実に戻っていくような感覚。いま、ここ、にいる自分についての懐疑。
たき君とみつはさんのその後
何度も書いたが、今作の主人公・ヒロインの二人は最後に出会った。名前は思い出せずに、「君の名は……」と同時に問いかけるシーンで終わる。感動的なシーンだ。きっと二人は、すれ違っていた時間を乗り越えるべく、お互い二人で過ごす時間を大切にしていくのだろう。
しかし、その後は、いったいどうなるのだろうか?
幸せに暮らし、幸せに結婚し、幸せに子供を生んで育てて、幸せな老後を過ごすのだろうか?
分からない。そして、そも、「幸せ」とは何ぞや?
そこからは、みなさん、視聴者、読者の皆さんで考えましょう、ということである。
カップルでこの作品を見た人は、些細な生活の中ですれ違ったり、ケンカしたりもするだろうが、お互い思いやりをもって、二人で過ごした楽しい時間などを忘れないようにして、お互い助け合って生きていきましょう、と?
失恋したばかりで一人できた女の子は、素敵な出会いがあるように、今は自分磨きに勤しみましょうと?
離婚した30代のおっさんは、これまた素敵な出会いがあるようにと、婚活パーティーに出席しましょうと?
今作は、「生き方」を与えてくれるものではない。
今作は、「記憶」と「思い出」の大切さを教えてくれる作品である。
そこに、僕が感じた、……というよりも、今も感じて中々行動できないでいる虚しさの原因があるのである。
