忍者ブログ
   
インプットの疲れと愚痴への批判
2017/01/30 18:00 | Comments(3) | イライラ対処
今日の一言「哲学のテクニカルタームが役に立つの?」「実践と実感が抜け落ちた言葉の定義に意味はないよね」

存在と時間

 ハイデッガーさんの「存在と時間」のさわりを読む。
 フランクルさんの「人間とは何か」に度々登場するので、そういえばどんなことハイデッガーさんは言っていたのだろうかと、確認してみたのである。ハイデッガーというと、「ダーザイン」「現存在」という言葉が浮かぶ。えーその、なんか、いま・ここでその目先の快楽とか生活とかにとらわれていて、死の不安から目をそむけて生きている人がいるけど、んぁーなんかその、真面目に生きろや! 的な奴だっけ? とか、もはやそんな理解しかなかった(ひどい話だ。でもそんな程度の知識でも、センター試験は結構いい点数を取れるのである。あーそういえば、センター試験に倫理※ってなくなったんだっけっか?)。
 
 存在と時間の初めには、「問い」のやり方が述べられているという。
 問われているもの、問うているところ、問うている意味、の三つが要点である。理解のイメージ図としては、

 
(作:遠藤(所要30秒超テキトウ))
 こんな感じだ。たぶん。「問うている場所(=方法・文脈)」によって、例えばコップは水を飲むためのモノであったり、人を殴る武器だったりする(=意味が変わる)。
 こういった考えるための方法論的なのは、哲学から学ぶのもいいかもしれない。

 でも、だからどうした、という思いがどんどん強まってくるんだよなぁ。結局、「目先のことにとらわれて、死を紛らわして我々は生きているのだ。だから、堕落して生きるのではなく、本来的な自己を取り戻さねばならないのだ!」ということを言っていたとして、それ、キルケゴールさんの実存哲学とか、よくあるスピリチュアル系のお話しとかと、何が違うのか、ということを、思ってしまうのである。いやぁ、きっと、もっと高尚な崇高な、緻密で大事な意味があるんだろう。

 けれども、その崇高な理論を理解するよりも、僕は、今現に生きている人たちの、悩み苦しんでそれでも現実世界で生きてやっている人たちのブログでも読んだ方が、面白いと思うのだ。

※追記:なくなってはなかった。倫理、政治・経済なるものは追加されているようだった。

愚痴だらけのブログは面白くない

 過去を悔恨し、ひたすらに、嫌だ、つまらない、苦しい、痛い、絶望した、面白くない、会社辞めたい、友達欲しい、恋人欲しい、上司むかつく、あの女うぜえ、などなど、そんな愚痴ブログは面白くない。

 確かにそれは、「苦しんで」いるのかもしれないが、悩んでいない

 言語化できていない。

 いや別に、そういった表現が、一切書いてはならないとか、そういうのではない。というか、あっていい。あった方がいいその方がリアリティだ。けれども、ただそれしかない言葉の群れは、すぐに飽きてしまう。

 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しいあああああいやだあああああ、と、24時間ずっと続くのならば、まず、書いていることなどやめて、救急車を呼ぶのが先決だ。
 ということは逆に、だ。苦しい苦しいイタイイタイ、ということを書いているのは、意外やに、大丈夫だ、ということだ(これは甚だ矛盾だが)。

 で、あるならば、僕が書いていることは、結局、道楽的であり、単に暇つぶしでしかないということなのか。これに対しては、明確に否、と答えようと思う、僕にしては珍しいことだ。
 結構、本気で書いているのである。その「本気」というのも、結局何ぞやという思いが同時に生じつつ、それでも、何とか自分をごまかして、本気で書いているのである。

本当の問題と煩悶について

 生きる方策は、以下に整理される。

1.現存在として生きること(「いま・ここ」の積極的追及。凡人として生きること。)

2.信仰的に生きること(宗教とか、お金とか、超越的なものを信じて生きること。)

3.本来的な自己に従って生きること(自己実現欲求とか、貢献心を充たしながら生きること。)


 で、だ。大抵、「生きる意味」を問う哲学は、――というよりも、哲学とはそもそも人間存在について明らかにすること(啓くこと)を目的とするはずだが(※)――「1.」はダメなので、「2.」または「3.」として頑張りましょう! という結論なのである。

 そういった結論が分かってしまえば、正直、そこに至るみちすがら、方法論的なのに、それほど関心がもてなくなってしまうのである。
 推理小説のオチから読む人もいるということだが、僕はネタバレすると途端に読む気がしなくなるタイプである。古畑任三郎シリーズは面白かったけど。


※ヘーゲル哲学を、イケメン哲学だ、もてたいだけだろバーカバーカ! と表現された方の本は結構気に入っている。

人間とは何か

 今読み進めている、フランクルさんの本も、上の、「2.」か「3.」な感じである。まだどっちだかよく分かっていない。ただ、この「人間とは何か」では、少しその切り口が違っていて、期待している。
 それは、人間を、「意味を求める存在である」という前提においている点である。
 マズローの自己実現欲求と同じじゃないか、と言われると、うーん、その違いを今上手く表現できないけれども、違う、と思う。いや、同じなのかもしれないけれども、見方というか、表現が、切々と迫ってくるものがあって、面白い。なんとか、週刊目標の90ページは読み進められた。ふぅ……しかし、結構大変である。
 平日は殆ど時間が取れないため、土日に100ページ近く読み進めなければ、2月末までの読了という目標が達成できない。

 ただ、学び取れること、インプットしたいなぁと実感レベルで思わせてくれることが結構多いため、ここは、あまり好きな言葉ではないが、踏みとどまって、頑張っていきたいと思う。

小見出しの5つ目

 おー、おー、そして最後の小見出しか。難しいなぁこの書き方。何だか、制約があると、本当に書きたいことが書けないのではなかろうか? いや大丈夫、そんな、完全に暴走するときは、制約など無視して書きなぐることだろう。こういった意識が働いているうちは、それでいいのだ。

 あー、その、先日、妄想テレパシーという漫画が面白くて泣いた、と書いたけれども、

外見至上主義

 ↑これも面白くて、ついつい最新話まで全部読んでしまった。
 なんだろ、単に、「イケメン転生でチート無双やっふぉい爽快!」というのもそうなのだけれども、いやぁまぁ、ファンタジーなんだけど、作者の批判的な人間理解が共感もてるなぁと思った。
 実際これ読んで「おもしれーきゃはは」とか言ってる人たちも、いざ現実世界においては他者を傷つけたりしてるんだろう。因果で虚しい話だ。おぅ? 自分は違うみたいな書き方、気持ち悪いって? そうだなぁ、多分、俺がイケメン超絶喧嘩もパネェって生まれだったら、そんな弱者の気持ちなど分かろうともしなかったかもしれない。そういう意味では、俺も一般大衆凡人弱者ピーポーに過ぎない。

 まぁ、ただ、こういった作品を読んでいると、先日、「過去の認識? そうっすなぁ、まぁ、若干悪いことが多かった、って感じッスかね!」とか書いていたけど、いやぜってぇ悪いことばっかだったぜ! と思わせてくれる(かっこわらい)。

 この、負け犬根性というか、トラウマ、劣等感、コンプレックスというか、そういった諸種の心的な根源について――、そういったものは、心理学的なもの、精神療法的なものによって、「明らかにすること」は可能なのだろう。
 これ系の言語化は、かなり恥ずかしげもなく、特に最近は惜しげもなくやってきたと思っている。そしてそろそろネタ切れ感も出てきている(※)。

 その、心理学的な、催眠療法的なことは、生きる意味への問いかけに対しては、無価値なのである――とするのが、人間とは何か、フランクルさんの本に表現されていることなのである(たぶん。まだ全部読めていないから断定できないけれども、90ページぐらいの間においては、それが読み取れる)。

 それであー、その、時間切れ。

(どっと疲労感が身体を包み込む)

※いざ、自分の惨めな過去を書き出してみると、タスクリストに落とし込むと以外にやることが少なかったりするのを気づくように、「まぁ、別に大したことなくね?」という思いにさせられることがある。これは、過去に対するユーモアである。相対化である。忘却である。連続性の断絶である。それが、良いことなのか、悪いことなのか。判断する材料は、今のところ無い。

拍手[1回]

PR

過去の認識が与える現在について
2017/01/29 13:00 | Comments(2) | ポジティブ思考
今日の一言「すべての面のすべてのことが、日々ますます良くなっている」「現状追認の危険は過去の否定と現実誤認でしょうね」

人生を振り返って

 過去の自分の人生について、いったい、どういった評価を与えるのか。
 先日、重要な視点というか、問いかけを頂いた。

 まず、過去の認識、というものに、特段定義は不要だろう。これまで自分が経てきた人生、来歴、それらに対する自分の感覚・思考についてである。
 この記事の目的としては、一般論になるのではなく、僕自身が、一体全体どのように、自分の人生について考えているか、ということをまず明らかにする。
 そのうえで、「良い・悪い」の判断を与えることによる、現時点性に対する影響を考える。

過去に対して良い印象をもっているか?

 基本的に、良いことも悪いこともあった、というのが、通常であるだろう。
 そのバランスの崩れが、神経症や精神病と言った状態である。まずもって、自分の数十年の人生に対して、一元的な評価を与えるというのは、難しい作業であることを確認しておく必要がある。
 次に可能であることとしては、その人生に、期間を設けて分けることである。ここで、スペクトルとかパースペクティヴとかタームとか、よく分からない言葉を用いる必要はない。単純に、小学生のころ、中学生のころ、高校の頃、大学の頃、社会人のころ、と分けていくのが一つ。
 しかし、この期間の分けは、単純な組織(小中学校)に属することだけで済まされない。人によっては、親が転勤族で、転校を繰り返していた場合もあるだろう。親など身近な人の死が影響する場合もある。友人や恋人関係など、取り巻く人々との距離(付き合い方)によっても、分けることができるだろう。

 この自分の人生を「分ける」ということ。
 これについても、実は非常に困難な作業であることを、確認しておく必要がある。確かに、小中学校は義務教育で、もちろん昨今は、フリースクールとか、様々な学習形態もあるわけで、単純にそれが有効な分類ではないわけだが、多くの人にとって有効な「分け方」である。
 もう一つ、住所に着目したこと、引っ越しについても、客観的な事実がもとになるため、分かりやすい。

 しかし、実際に自分の人生に対して判断をしていくためには、そうした分けだけでなく、より「感情的な」「思考的な」分けが必要になってくるのだ。

 しかしそのことは、既に、その行為自体が、自らの「判断」または「感情」が移入されているために、複雑さを増していくことになる。まわりくどく書いてしまったが、単純に、「分ける」その行為自体が、既に判断になっているということである(当たり前のことだ)。

 しかしその、当たり前のことが、考えることに対しての障壁となる。無意識に、「良かった時期」と「悪かった時期」を分けようとする判断がはしるのである。

 これの何が問題なのか?

 当初の目的を振り返ってみる。いま僕たちは、自分の人生について、統一的な判断を与えようとしたのである。しかし、そのままでは「人生」を捉えることが難しいため、ある時期に区切ってみようと試みたわけだ。しかしながら、この時点で既に、「判断」がはしっているのである。

貴方にとって過去は良いものでしたか?

 故に、僕は、「良い人生でしたか?」と問われたときに、「今、まさに」と答えるかもしれない。
 つまり、過去は既に、なかったかのように思うのである。そんなはずはない、過去はまさしく、連綿として続く自分の要素であり続ける。でありながら、過去について語るとき、僕は既に「過去を思う今の自分」でしかなくなっていることに気づくのだ(これも当たり前のことだ)。

 何が言いたいのか。そういう問題ではない、僕は、何を表現したいのか、何を思っているのか。何を感じているのか。

 なんというか、つまるところ、「過去」は、もはや良いものでも悪いものでもないのである。
 良いと判断をする今の自分、悪いと判断する今の自分しか存在していないのだ。

分けが分からない禅問答ですらない

 いじめられた過去があったとする、それは悪いことだ。
 彼女と幸せな時間を過ごした。それは良いことだ。

 いじめられていた時代は悪い時代。楽しく過ごしていた時代は良い時代。
 なるほど、その通りだろう。もっと抽象化してみよう。悪いことがあった時代は悪い時代。良いことがあった時代は良い時代。

 んんッ? よく分からなくならないだろうか?

 最初に書いた通り、人生は、良いこともあれば悪いこともある。それは、もっと小さな時間単位にしたとき、一日を通しても、同様に、よい時間帯もあれば、悪い時間帯もあることだろう。通勤中に嫌なことがあったとして、仕事が終わった帰りに友人と出会い食事をして楽しい会話ができたとしたとき、じゃあ、その日は、良い一日だったのか、悪い一日だったのか。

 長いスパン(期間)にしたとしても、同じことがいえないだろうか。つまり、長い期間をとったとき、その中には、良いも悪いも、酸いも甘いも混濁しているのである。

 それに対して、「良い・悪い」を決めるのは、所詮は、「今の自分」であるのだ。

小見出しの5つ目

 小見出しは一つの記事に5つにしようと決めた。ということで、その5つ目だ。
 さぁ困ったぞ、結論を出せるまで十分に書ききれていない。

 もう一度聞こう。君は、自分の人生について、良いと悪い、どちらだと思う?
 いや、きき方を変えよう。良いことと悪いことの、どちらが多かったと思う?





 ……5分ぐらい悩んで、僕は、やっぱり、「悪いことが多かった」と答えたいと思う。

 ただ、その言葉をつむぐのも、非常に難しい感覚でいる。そもそも、過去の事象に対して、良いも悪いも、あまり思えないのだ。
 いやもちろん、このブログの説明文のように、「離婚したこと」というのは、悪いことなんだろう。いや本当にそうか? じゃあ、その悪いことから連続して、現在も続いている今の僕は、悪い状態なのか?
 いじめられた過去があるとして、そこから続く自分は、悪い状態なのか?

 違和感である。

 過ぎたるは猶及ばざるが如し、ということで、僕は、過ぎてしまったことは本当にどうしようもなくどうでもいいことに思っているのだと思う。であれば、僕は、過去の認識について、良いも悪いも、どちらも思っていないのだろうとすら思う。

 その前提で。

 その上で、やっぱり「悪いことが多かった」というのは、今現在、この時点において、まさしく、良い状態であるとしか思われない、ということなのだ。

 これは何ともバカげた考えである。しかし、だ。この、恐らく、これを読んでいる際の自分は、これを書いているときの自分よりも、良い状態であるのだろう。

 うぉぉものすごく意味わからなくなった! なんだ、その、良いも悪いも考えている時点でその状態が一番良い状態だろうよ! ってことだ! 多分!

(余計よくわからない)


拍手[1回]


欲しい情報が無いというのは傲岸不遜
2017/01/28 13:00 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「苛々とか愚痴をさも一般論のように語るのは良くないな」「それもまた人間的にも思えますが」

グーグル先生の検索批判

 先日、「生きる意味」というキーワードで調べると、どうにも「くだらない」情報ばかりで、辟易してしまう、と書いた。
 それに対して、ある賢人たちからコメントを頂き衝撃的体験をすることで、ハッと、目を見開き、様々な考えが頭の中を巡った。

 その結果、他のキーワード、例えば「人生の意味喪失」「生きがい」「人生の意義」など、切り口を変えることで、より自分が求める情報に近いものが得られるようになった。

 まさにこのことに、僕の感じる疑問的な感覚、他者との理解可能性とか、人工知能による感情の理解とか、そういったことを覚える。そしてその、乖離(ズレ)的な感覚に、自ずからの個性や、その人の「生きる意味」に繋がるのではないかと思う。
 これに対しては、まだまだ、言及が非常に足りていなくて、昨今というか、社会生活というものにおいては、「他者との乖離(ズレ)」を、できるだけ無くしていこうということが、求められるのである。いわゆるコミュニケーションの円滑化、的なものである。

 語りつくされた言説だろうと思う。こんなことを、さも立派なことを書いてます的な風に書くことに、僕は何の意味も思えない。しかしながら、インプットという面では書かなければという思いと、もう一つ、ある精神科医さんが述べていたけれども、言語化することは、精神療法的(感情の取り扱い)にも大事なことなのだ、と。

厖大なインプットへの恐怖

 それで、ネット情報というか、まぁネットに限らず、すべてのこれまでの人間の知識の蓄積。
 例えば哲学、心理学、精神医学、文学、宗教。

 人間の生きる意味への探求については、何も今に始まったことではない。

 そして、それらの試みは、往々にして失敗に終わっているのである。いやそれはこれまた傲岸不遜、牽強付会か。確かに、ゴウタマ・シッダールタやエピクロスたちは、人生の中に「意義」をみつけ、充足した生活を永続して続けることができたことだろう。

 自分も若いころ、といっても、主に10代から20代前半ぐらいだが、哲学や心理学や宗教社会学やら、先人たちの知恵から、「自分にとっての」生きる意味について、学び取ろうと試みた。そして、今をみてみれば、その殆どが既に忘却の彼方である(偉そうに書いているが、単にアホの表明だ!)。

 さてこのこと(=忘れてしまうこと)は、それが即ち、真理へ到達できないということになるのだろうか。
 で、あれば、すべての諸学問を、古今東西、すべてインプットしたうえでなければ、真理へ到達できず、ずーっとこれからも、悩み苦しみ続けるというのだろうか?

 だとしたら、これから時代が進むにつれて、ますますこの世の中は生きることが困難になっていくに違いない。
 なぜならば、これからも人間の知への探求は、衰えることがないだろうからだ。そして積み重なっていく知識。それを表面的に学ぼうとすれば、必ず誰かが、「古典にあたったのか」「原文はどうなっているのか」「出典は?」「ソースは?」と問いかけてくるのである。
(故に、この記事は――というよりも、このブログの殆どが、何か調べながら書くことをしていない。これは、単に文章を書くことの怠けだと揶揄されるのであるが、知識のコピペではなく、自分自身のインプット及びアウトプットへの問いかけという意味を重視したい故である。)

70億人のうちの一人としての生き方

 恐らく、単純な生き方として有効なのは、ローカルなコミュニティの中で、ひたすら自己実現と貢献心をみたしていくやり方である。ローカルなコミュニティというのは、会社組織や、家族、友人、サークル、地域など、物理的接触を基礎とする集団内であると、ここでは定義しよう。
 
 そのような集団の中で、自分は役に立っている、みんなのためになっている、嬉しい、楽しいという気持ちを醸成することができれば、それが拡大再生産されて、生きる意味を問いかけるような事態には陥らないだろう。
 この意味において、「生きる意味、そんな問いかけが頭に浮かぶ時点で、その人は病的な状況である」とよく言われる所以である。この系統の生き方をする人たちにおいて、「生きる意味」への問いは、「感情エラー」なのである。

 で、最初の小見出しに戻るが、グーグル先生は、その時代の多くの人たちの最大公約数的に役に立つ情報を、瞬時に提供してくれる。であるからにして、「生きる意味」という単一なキーワードにおいては、それに対する「一面的な答え」しか提供することができないのである。

 いやもちろん、Aという情報に対して、そのAの否定の情報も、同時に提供はしてくれるだろう。ところが、その情報提供は、その時点で既に、かなり相当に、恣意的である。つまり、Aの否定というのは、結局のところ、Aという事柄の肯定のための、修飾語に過ぎないのである。

零れ落ちた感情の掬い方

 決して、僕は、現実肯定的な生き方を否定するのではない。哲学的に生きることなど、正しいと思っているわけではないし、今、ここ、を大事にするという考え方だって共感するものがあるし、そもそも、僕はポジティブでしかありえない(※1)と思っている。

 その前提において、やはり、そのローカルコミニティにおいて、全員がWIN-WINになる可能性は、100%にはならないだろう。もう一つあげれば、そのコミュニティ自体の永続性もまた、疑問符をつけざるをえない。

 それは即ち、「生きがいの喪失」という事態を引き起こしかねない。
 恋人にふられた、仕事をくびになった、愛する我が子を亡くした……それらはつらく苦しく哀しいことであるが、しかし、だからといって自死を選ぶしかないほど、人生の選択肢はないのだろうか。いや実際、多くの人は、多くの哀しみの経験を経ても、自死をすることはない。
 だが一方で、若きウェルテルは、人生にもはや生きる意味を見いだせなくなってしまったのである(※2)。

 このことが意味するのは、代替的な生き方をもたず、ただ真理(ここでいう真理は、ローカルコミュニティ内においてのもの)にそって生きていくというのは、幾分かの危険性をはらんでいるということである。

 これに対しての処方は、ユーモア(=真剣に考えないこと)と、ひたすらにアンダーグラウンドに向かっていくことが考えられる。しかし後者は、結局のところ、そのアンダーグラウンドの場がコミニティとしての場として変貌する可能性をはらんでいるため、一時的な対処に過ぎないといえる(※3)。
 前者の真剣に考えないこと、というのは、今、ここ、を、大事に生きていく、という方策でもある。今起こっていることを、積極的に認め、感じて、その些細なことについて幸せを感受していこうという方策である。


※1いつも書いていることだが、幸福と不幸と、どちらが良いですか? という問いに対して、不幸を選ぶ人はいない、そんな程度のことだ。もちろん、我が子を守るために身を犠牲にするというのは美談的な事実だろうが、それは、我が子を救うことが自らの幸せでもあるのだ(これは甚だ功利主義的な考えだが……)。このポジティブ、に対しての問題点は、その言葉の内在する意味が非常に不透明であるということだ(それを言ってしまえば、「生きる意味」という用語も実に中身が無い)。ただ、ポジティブ語を、その概念的な意味で捉えたとき、それはどこまでいっても、真理とてしか思えない、というわけである。

※2いや、文学的によく分からないけれども、その最期に、彼が逆に宗教的な実存というか美的感覚というか、幸福感や充足感を得ていた可能性だってあるだろうし、悪いこと、良いことの判断はここでは無価値だ。

※3先日書いたように、初音ミクが、最初はニコニコ動画の壱コンテンツに過ぎなかったのが、いつの間にか商業的にも大ヒットした。

今後の方針の確認

 最近、家に帰ると23時か24時を過ぎていて、平日に殆ど書く時間がない。まぁ換言すれば、仕事が充実しているといえる。対人関係も良好である。生きていく上で事欠かない。換言すれば、忙しくて疲れる、ということである。

 この状態において、僕は、これまで、「今、ここ」を重視せよという言説を鵜呑みにして、「まぁ、今がよければいっかぁ。頑張るってことは良いことなのだなぁ」と思って、取りあえず「考える」ことを脇においていた。(20代後半あたり)

 まぁ、多分、これを「よし」とすれば、このまま10年ぐらいは今のままで生きていくのだろう。多分それなりに大丈夫なのだろう。

 だがこれは失敗だったと言ってよい。「生きる意味」をわきにおいて、取りあえず生きることによって、いずれその意味が喪失して、「普通の人」として生きることができるのだろうと、そういった方針だった。
「お前は間違ったんじゃない、失敗したんだ」というのは、Fateのシロウ君のセリフだということだが、これについては、やっぱり、失敗かつ間違ってたんじゃないかなぁと思わざるをえない。

 ……いや、まぁ、まてまて、これについては、もう少し、しっかりと考えておく必要がある。単純な過去の否定は、何も生まない。それに、今の自分が、「すっかりいっさいがっさい」忘れてしまっているからといって、昔の自分は、もっと今の自分より知識があったろうし、そのうえで、「もう考えるのやめた!」という結論だったのかもしれない。

 だから、上の記述は、取りやめである。間違いだ。

 けれども、一時的にでも、そう思ってしまった(過去を否定したい気持ちになった)ことは残しておいた方がよいだろう。

 というのも、まさにこの記事で確認しておくべきは、その「生きる意味を考えなくても忙しい毎日に身を投じていればそのうち全ての問題が雲散霧消するよ」(※)ということは、無い、ということである。


※まさに、先日の頂いたコメントにおいて指摘されたように、この「生きる意味」という語の内在性、中身、がとても空虚であることは否めない。というよりも、「定義」という行為、語が、概念の入れ物(容器)なのだとしたら、僕のこの言葉の容器は、穴だらけなのである。
 であるからにして、いくら「今、ここ」として忙しさに身を投じて頑張ったとしても、次から次へと水がこぼれていって、溜まることが無いのである。


拍手[1回]


新しいものを求め続ける心性
2017/01/26 19:00 | Comments(2) | 思考及び書くこと
今日の一言「昔は良かったなぁというのは諦めの哲学か」「過去の確認作業は必要だけどな」

懐古主義に対しての見解

 歳をとると、新しいことをできなくなる、とどこかで書いた気がする。
 それは、リソースの問題である。体力的、時間的、感性的な問題である。だが、より大きな問題としては、その感性の深化、鋭敏化が原因でもある。

 先般、初代ガンダムを見た、と記事に書いたが、1970年代として考えたときに、確かに先進的な作品であったろうが、果たして、今の作品と比べて太刀打ちできるかというと……いや比べられない。
 一方で、技術……芸術とか、感性といった面においては、必ずしも、最新のものが好ましいとはいえない。過去に感じた、その現時点性における(タイミング)が与える影響は大きいけれども、時間をかければ素晴らしい作品が生み出されるかと言えばそうともいえない。

 ただ、あるブログで書かれていたことであるが、「新しい作品を見ないようになったら、それは怠慢ですわ」というのは、その通りだろう。でも「新しいもの(未知のもの)が中々あらわれないんですわ」というのも、そうだろうと思う。

 下の曲は良かった。

初音ミク『すろぉもぉしょん』
https://youtu.be/ARt2fVT33Lw

ニコニコ動画

 ニコニコ動画をよく使っていたのは、2007年~2008年ぐらいだろうか。
 そのころ、初音ミクとかで、ああ、アマチュアの人たちでも、こんなに素晴らしい音楽をつくれるのか、などと思っていた。
 それ以前も、確かプレイヤーズ王国、みたいなサイトで、ユーザー投稿型のミュージックサイトがあった。そこに投稿されている作品も、確かに、きくにたえないものも多くあったけれども、本当に素晴らしい、心を打つ作品もたくさんあった。(今もウォークマンに入っているし、今きいてもよいと思う)

 それが、しばらくして、新しいミクさんの曲とか、おっかけるのをやめていた。
 何故だろう? だんだん、アマチュアの音楽、というジャンルじゃなくて、それがメジャー化、商業化、プロ化したことが原因だったのだろうか。アンダーグラウンドな気分がそがれてしまったのだろうか? もしそれが原因だとしたら、くだらない。よいものは、プロが作ろうがアマチュアがつくろうが、良いものは良いのだ。これは、昔からの僕の信念ではなかったろうか。(プロとアマの違いは、「お金」だけである。つまり、アルバイトの人も「プロ」だ。)

 そこじゃなかったのか。単に、新しいものを探すのに疲れてしまったのか。
 いや、「新しいもの」というものが見つけられなくなってしまっていたのか。

問おうそれがお前の求めるものか

 本気で生きろ、という励ましは、時にものすごく嫌悪するのだけれども、今の気分としては、この文脈としては、よく言い表した言葉だ。
 努力しろ、といっているのではない。苦しめ、といっているのではない。それらは、本来的には無駄な作業である。

 ただ、「うーん、この作品、面白いけれども、何かちょっと惜しい気がするなぁ」という気持ち。その気持ちを、大事にしなさい、ということだ。
 そして、諦めてはならないと。いい作品は、「ある」のだ。

 それは、「自分」を変えるのではない。過去を切り離して、新しい自分探しをする必要はない。
 作品が変わったのではない。自分が変わったのだ。そして、過去の作品であっても、「良い」と思うものは、それは、自分にとっての「古典」なのだ。

 古典とは、時に古臭くて、役に立たないように思われるけれども、普遍的な「要素」を与えてくれるものでもある。
 先日、「人間とは何か」の中の一節(これはフランクル氏の言葉ではないとのことだが)、巨人の肩に乗る小人は、巨人より遥か遠くを見渡せる、と。ここでいう巨人が、「古典」である。小人であることを自覚して、であるから、巨人によじのぼろうとする行動……それが「効率的」である。

効率性を求めるときと創造をするとき

 あれ、そもそも、巨人の「肩」だったら、それほど遠く見渡せなくないか?
 と、何だかどうでもいいことを思ってしまったけれども、それはまぁ、ともかく、その巨人によじのぼるのは、結構大変な作業なので、いつの間にか、「のぼること」自体が目的になっている場合がある。

 それじゃあ元も子もない。だから僕はいつも「目的・目標」をちゃんと掲げてチェックポイントごとに再確認しなさい、と言っている。

 初心、なんだったのか? 遠く見渡して、欲していたものがあったのではなかろうか?


 自分で創る、ということを忘れてしまうと、批判ばっかりする人になってしまう。それはそれで役に立つというか、「楽」な生き方だ。
 楽な生き方を否定するのではない。けれども、僕は、それを「つまらない」と思ってしまったのだろう。ここにおいて、ようやく、努力や頑張るということが、意味をもつ。つまり、八方ふさがり、である。ここに立ち止まってもつまらないし、かといって何もしなくては何も変わらない。なら仕方がない、「求めるもの」を求めて、頑張っていきましょう、ということだ。
 それは時に苦しいことかもしれない、悩ましいことかもしれない。ただ、その求めるもののためへの行動は、最初に書いた単なる苦しみとは、全く違うものなのである。

(小見出し5つにするの結構難しいな……長すぎても短すぎてもいけない……)

拍手[1回]


朝に起きるということ
2017/01/25 19:00 | Comments(0) | 整理用
今日の一言「朝型になろうという試みはかなりの確率で失敗している」「自分でコントロールできない要素が多い問題は解決しづらい」

5時に自然に目が覚める

 目覚ましいらずに、自然に目が覚めるというのは、悪いことではない。ただ、その後、行動的になれるかどうかは、前日の準備次第だったりする。
 あるブログにおいて、朝起きたら、ガッツポーズをするように、とアドバイスされていた。なるほど、これは結構有効かもしれない。ただ、先日僕も書いたけれども、この方も「継続すること」の重要性を述べている。いいな、と思ったことでも、それを書き留めて、心にとめて、実践することなくしては、何かを変えること、改善することはできない。
 この、5時に起きることができた、というのは、良いことではあったけれども、所詮はラッキーに過ぎなくて、再現性はかなり低いわけだ。

ブログを書くこと

 大抵、この書くことは、夜にやっているので、朝に何か書こうと思うと、結構難しい。でももしかしたら、朝に書く内容の方が、能率的で、内容に富んで、ポジティブで良いもの、なのかもしれない。

 書くこと、において、「何を書こうか」ということ、本当は、それが生じているのは、その時点で楽しい行為ではない。僕は大体、自然に書いている、ノンストップだ、ゼロ秒思考だ。
 先日、「ゼロ秒思考」というのが、メソッドとして本になっている、と述べたが、やっていることは似たようなことだけれども、多分、言っている意味は違いそうだな、と今瞬間的に思った。僕が言ってるのは、「思考をゼロにすること」であるが、その本が言いたいのは、「ゼロ秒で思考すること」なのだろう、多分。その「思考する」ことに対しての態度が、多分違いそうである。そういう意味では、ぱらぱら書店でめくるだけじゃなく、ちゃんと本を購入して、その意味をしっかり見定めるのは、レビューをするなら必要なのだろうけれども、必要ないだろう。続けたい方針ではない。

君の名は。ショック

 夢を、見ていたのだけれども、確か、レシプロ機が、二階建ての家の中のガレージに帰ってくるのを迎え入れたのと、友人たちとトランプをしている夢であったような気がする。
 そして、何となく、心がざわついている、――ざわつく、というのは、落ち着かないというか、不安というか、焦燥というか、後悔というか、何だかあまりよくない気分というわけだ。体調が悪いわけではない。何か憂鬱なことがあったわけでもない……と思い、ああもしや、先日みた映画のせいじゃないか、と思った。

 君の名は。は、良い作品だった――それは、自分に対して、「感動」を与えたという意味で。その感動とは、「感傷」なのかもしれない。傷跡をのこしたのかもしれない。
 ああ、しかし、そうだな、書くことは良いことである、そう間違いなく言えるのは、まさに先日、映画を見終わって、何だかざわつく気持ちを、しかし何も言葉が浮かばないときに、取りあえず文字を紡いでいったことで、先日の記事のようになった。

 先日の記事が、果たして良い記事なのかは分からないが、ここに、「自分にとっては良かった」というのは、自信をもっていえる。この感覚、……そうさな、何か「創作」をしたことがある人は分かると思うけれども、自分が生み出した「作品」が、何だか面白いのか面白くないのか分からなくなって、筆をおいてしまう経験はあるだろう。これはもったいないことである。誰にとって、何がどのように「意味」をもつかというのは、とてもタイミング性、偶然性が強いものである。
 ただ、そこには、「わかりやすさ」、例えば定義がしっかりしているとか、表現が美しいとか、ある程度の教養、技術が必要である。
 僕がその教養や技術が十分なのだ、ということを言いたいのではない、そうではないのだが、上の「自分にとって良かった」というものについては、書けるようになってきた、という自信なのである。

 で、あるはずだったのだが、しばらく時間が経って、またしてもその傷跡(映画を見た後の感傷)が痛み出した、ということだ。

書きたいことの枯渇

 ふむ……、うーむ、何だか、やはり朝に書くというのは、中々慣れないというか、書いているうちにテンションが下がってくる。もう少しで出発しなければいけないという、そういう焦燥感もあったりして、あまり落ち着いて書けない。
 この落ち着かないというか、急いで行動をしなければ! という意味において、朝の活動は有効なのだろう。「創作」において朝の活動がよいものかというのは、必ずしも良いとはいえないのではなかろうか。

 何となく、朝にコーヒーを煎れて飲んでいると、優雅な時間の使い方ができているような気がするけれども、ニュースなんかをみていると、気分が現実的になって何とも憂鬱さは晴れない。

 おいおい、最初に書いたガッツポーズはどうしたというのか。

小見出しの数を決めてみようか

 ↑のサブタイトルみたいな奴を小見出しと呼んでいる。HTML的には「h2」タグである。
 読みやすくしようとは思うのである。今年の目標は、繰り返しインプットするために何度も書くけれども、思考の体系化である(いやもちろん、大目標という意味であり、運営サイトの改築とか作品の創作とか、その他仕事とかルーチンとかやるべきこと、目標を立てていることはある。先日書いたように、それら「細かい」目標が、どうにもやる気にならない、という人間としてのモチベーション低下問題が、最近の、いやここ数年の問題である)。

 その体系化するためには、できるだけ「定義」、辞書的な、辞典的な役割をもたせていくことが重要に思う。
 例えば、「幸せとは?」という問いに対して、すぐさま「理想と現実との乖離」と答えることはできるけれども、その意味するところが、記事としては相当ばらけてしまっているため、それに至るまでの思考過程を導出することは非常に困難になってしまっている。そういったのを整理しようというわけだ。

 あはは、笑えることに、なんでそんなことが必要なの? とすぐさま僕の頭は考えるのである。心理学者にでも、カウンセラーにでもなろうというのか、そうではない。であれば、別に他者に分かりやすいように教えてあげる必要などないのではないか? その通りだ、ただ、これについての、必要性についても、もう何度も書いている「気がする」。それは確認のしようがないのだが。

 と、ようやく、小見出し5つくらい書いていると、エンジンがかかってくるのであるが……、ここに至るまで、いろいろ何を書こうかとか考えていたから、30分ぐらいかかってしまっている。いつものペースの半分ぐらいだ。

 思い出したのだけれども、仕事の、人生への結び付け方について、書こうと思ったのだ、そういえば。しかし、すっかり忘れていた。

 ああ、そうだ、小見出しを5つぐらいにしよう。一つの記事を。できるだけ、複数の内容は書かないようにしよう。時間切れ。

(朝は本当に強制的に時間切れだ)

拍手[2回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング