ある方が、ブログで短めの小説を連載されているのを読んでいて、面白いなと思って、自分もやってみたいと思った。
最近、本編のブログ記事も不調だし、新しいことを始めてみるのも悪くないと思う。……などと、何かやるのに理由や理屈をつけなければやれないのは悪い癖である。ただ、何か思い付きで始めて、三日坊主になるというのは、性格上好きではないのだ。
とはいえ、創作から離れないようにするため、ひとまず、1か月4回(週に1回)更新で、半年間続けてみよう。文字数は、最低500字。最低500字って、大体ここまでが、250字だ。余裕過ぎないか? さすがにハードル低すぎないか? いやいや、そうではない。時間があるときや、調子がいいときは余裕だろう。しかし、忙し過ぎるときや、具合が悪い時も勘案し、半年間という長期間で考えると、必ずしも簡単とは言い切れないだろう。
達成するべきポイントは、「安全マージン」だ。一週間、二週間ぐらい、全く何もできない日が続くこともあるだろう。そうすると、安全マージンとして、2回分ぐらいのストックは、常に保っておかなければいけない。ついつい、「明日やればいーやー」的な感情を抱きがちだが、明日は明日のやるべきことがある! ということなのだ。
仕事のできる人は、的な話では、「明日できることは今日やるな」というのがあるが、それは、決して「明日できるから今日はダラダラしていいや~」というのではなく、「今日すべきことをしっかりやりましょう。その上で、余計なことをしないようにしましょう」という時間管理の達人を目指せ、ということなのである。生兵法は大怪我のもとなのである。(と、ここまでが700字、大体10分ぐらいだ。)
前置きが長いけれど、以下、連載開始。
最近、本編のブログ記事も不調だし、新しいことを始めてみるのも悪くないと思う。……などと、何かやるのに理由や理屈をつけなければやれないのは悪い癖である。ただ、何か思い付きで始めて、三日坊主になるというのは、性格上好きではないのだ。
とはいえ、創作から離れないようにするため、ひとまず、1か月4回(週に1回)更新で、半年間続けてみよう。文字数は、最低500字。最低500字って、大体ここまでが、250字だ。余裕過ぎないか? さすがにハードル低すぎないか? いやいや、そうではない。時間があるときや、調子がいいときは余裕だろう。しかし、忙し過ぎるときや、具合が悪い時も勘案し、半年間という長期間で考えると、必ずしも簡単とは言い切れないだろう。
達成するべきポイントは、「安全マージン」だ。一週間、二週間ぐらい、全く何もできない日が続くこともあるだろう。そうすると、安全マージンとして、2回分ぐらいのストックは、常に保っておかなければいけない。ついつい、「明日やればいーやー」的な感情を抱きがちだが、明日は明日のやるべきことがある! ということなのだ。
仕事のできる人は、的な話では、「明日できることは今日やるな」というのがあるが、それは、決して「明日できるから今日はダラダラしていいや~」というのではなく、「今日すべきことをしっかりやりましょう。その上で、余計なことをしないようにしましょう」という時間管理の達人を目指せ、ということなのである。生兵法は大怪我のもとなのである。(と、ここまでが700字、大体10分ぐらいだ。)
前置きが長いけれど、以下、連載開始。
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今日の一言「何とか山場を乗り切った、かな」「山、だと思ってたのが、もっと大きな山の一部だったりして」
大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
拍手コメント等ありがとうございました
拍手コメントくださった方々、どうもありがとうございました。大丈夫です、生きています。
また、自暴自棄で無謀な投資などはするつもりはありません。あくまで、余剰資金で、といった感じです。
あー、しかし、ほんと、ここ、1か月ぐらいは大変だった。残業になるのは、まぁ仕方がないとして、そもそも、24時で終わらないから、翌日の朝も早く行って仕事して、みたいな生活が特にここ二週間ぐらい続いていた。
このハードさ具合は、そうだなぁ、初めてではないかな、大学の一時期と、入社3年目あたりでこんなこともあったかなぁ。その時々において、やってることも、能力値も違ったりするけれども、兎に角「修羅」状態だよね。
あー、別に、忙しい自慢をするつもりもない……といってる時点で、そういう自慢なんだろうが、まぁ、それは置いておいて、そもそも、「大変なことを経験してないとだめだよ」とかいう先輩諸氏のお言葉を間に受けるのであれば、いやぁ、私はもう十分修羅モードやってきてますよ、と、自信をもって返事をしていいのではないか、と思う。が、僕の性格上、いやいや、もっと大変な人、おりますのでね、と思ってしまうのだ。
だが、それはそうとして、取りあえず、能力値が低い自分としては、十分修羅モードでしたわ、と言ってやりたい。いや、言う! 取りあえず、誰も知らない辺境のこの地で、僕は言う! 俺は、俺は頑張ったぞー! っと。
取りあえず。成果としては、微妙かもしれないし、そもそも、まだ終わってないのだけれども、取りあえず24時帰宅25時就寝5時起き6時出社的な生活は、しばらくはやらなくて大丈夫そうだ。
忙しい
いや、その、あれだね。忙しいことは全然自慢にならないぞ。どんだけ大変な経験をしたとか、そんな過去の武勇伝、もてないぞ? 問題はそこにあるのではない。ただ、もう、たまには、テキトーに、ぐだぐだ書かせて頂いていいんちゃう?
えーやろ。愚痴言ったって。
愚痴言って、それがどーした、と思っちゃうんだよな、俺自身。だから、あんまし相談のって~とか言われないのかもしれない。これもよくない。共有するのが大事なんだ。一緒に悩んでやるのが、いい上司や彼氏や友人やその他いろいろなんだ。
うわー、もうめんどくせー! いろいろ、めんどくせー、わーわーわー、いやだいやだいやだー(棒読み)
えーと。こういうときは、素直に寝るか、風呂に入るかした方がいいんだろう。グチグチ書くのは、よくないことだ。
僕自身、ずーっと、ぐちぐち書きまくってるブログさんは、最初はなんか面白そうだったが、一か月も二か月もずーっと同じことをグチグチ書きまくってるブログさんは、いい加減、いやお前、それ、愚痴愚痴書くのが楽しいんちゃうかいな?! と思ってしまう。
いやきっと、僕もそう思われてるんだろうな。考えるの好きなんでしょ、と言われたりもしたし。
そうだな、でもそれは、認めてもいいかもしれない。考えるのが好きなのかは分からないけれども、取りあえず、何らか、書いて、整理するのは好きだ……好き? 好きなのか? 好きと言うよりも、そうしなければいけないような、何かもう強迫観念的な感じな気もするが。
何も書かずに、何も整理せずに一日が終わってしまうと、何だか、「僕自身」がすり減ってしまったように思うんだよな。なんだろ、この感覚。
本当はエラー(感情エラー)なんだろうな。一生懸命に生きて、誰かに何か影響を与えることができたら、自分自身のこんな愚痴ブログなんて書かなくても、それはそれで、とても尊い価値があるって、本当はそう思わないといけないんだろうな。そうなのか?
23時PC消灯ルーチンと禁欲
まああと少しで3連休だから頑張ろう。そうだ。休みで何して楽しもうか、考えよう。そうだそうだ。いろいろ、できなかったこととか、やりたいな。できなかったこと? あー、読書、とか。ゲームとか。サイトの運営(ココナラも始めてみたい)とか、株式投資とか(キーエンスって会社はどうやろ)。あー、んー、何だか、上に、愚痴グチを物凄い音を立ててタイピングしていたら、今、数分の内に気持ちが落ち着いた気がする。不思議だ。うん。
うーむ……。
うーむ。
なんだろ、変な気分だ。
取りあえず、23時過ぎたら、パソコンは使わないようにしよう。朝起きる。朝の方が、何か、頑張った感があっていい。
うーむ。やっぱり、久々ぶりに書くと、こんな、テキトー感まんさいの記事でも、筆というか、指が止まってしまう。やっぱり、継続は力なり、だなぁ。
継続は力なり、は、僕のモットーでもあるんだけど、それに反して、毎日、毎週が、断絶感がすごかった。
なんだろう、毎朝起きて、えーっと、俺、誰ですか? みたいな、いやお前それ病気やで!
(離人症とは、幽体離脱みたいになって、自分を自分で外からみているような感覚になる症状。さすがに覚醒状態ではないけれども、そんな感じの夢を数回みていた気がする最近)
よしよしヾ(・ω・`) 疲れたんだねー 大変だったんだねー がんばったねー
よしよしヾ(・ω・`) いいよいいよ、ゆっくりお休み。
とでも言ってもらいたいのだろうか、俺は。まぁ、そうなんだろう。しかし、そんなことを思う自分自身を軟弱やってんじゃねー! と喝状態になり……あーほんと、めんどくせーやつだ!
(明日読むと、赤面して頭を抱え込みそうである)
小説を書きたい
唐突。いや、小説というか、創作、何だか、自分が本気で「面白い!」とか「感動した!」と思えるような作品、小説でも漫画でもイラストでも、音楽でもいいから、そんなのを創りたい。
誰からも評価されなくてもいい。ただ、自分自身が、心底面白い! って思えるものを創りたい。
ある方が、その方は、かなりもう小説にかけては上級者で、多くの読者を惹きつけるだけの十分面白い作品を描けるのであるが、「いや、これではまだ不十分だ」「この理屈なら、こうであるのはおかしい」と、自分自身に厳しく、ストイックであり、中々続編を紡げないのである。多分、妥協して書いていても、きっと、多くの人にとって、「ナニコレおもろい!」となるであろうことは間違いない。
しかし、その方は、そんなことしないのだ。いやできないのだ。自分が、面白いと思えないと、書けないのだ(※)。その方の、悪戦苦闘具合を拝見させて頂き、僕もその影響を受けているのかもしれない。
※いやもっと複雑な事態として、その、自分で「面白い」と思う感性についてもまた、永遠普遍のものではなくて、その日の気分なんかにも影響されてしまう流動的なものだ。
この点について、「自分とは何か? 私はよく分かりません。でも最近思ったのは、その自分が分からないというのは、自分自身が、常に変化しているから何じゃあないかと思いました」というコメントをされた方がいらっしゃり、いやほんと、感動させて頂いたものである。
そして、それでもなお、僕としては、なお、その「自分」というものの、定点観測できる「何か」、ジャイロスコープのようなものを、何とか、片鱗でもいいから、掴みたいなぁと思うわけであるのだけれど。ただ、そうだとしても、前出の自分自身の変化について述べた方の視点は重要であることは変わらない。
小説が書けない
唐突2。書きたいけれども、ストーリーが作れない。
断片として、描きたい部分は思い浮かぶ。しかし、いい表現が浮かばない。まぁいい、その表現は、たくさん小説を読んで、感性を高めていけば、自分が描きたい表現がいずれ創り出すことができる(時間がどれほどかかるかは別として、道筋はある)。
ただ、ストーリーが浮かばない。いや、起承転結でいけば、起承、ぐらいまでは比較的すぐに浮かぶ。今連載中のものの他に、2つほど着手はしている。
けれども、書き進められることはられるけれども、いわゆる「オチ」が浮かばない。
結局、どうなれば終わりなのかが分からない。
でもこれ、意外と、どんなプロの作品も、結構オチが曖昧だったりする……というか、そもそも、オチって、ハッピーエンドかそうじゃないか、変わらない日常が続いていく、みたいなそんな感じにならざるえない。
最近観て面白かった作品、例えばサイコパスとか、すげー面白かったけど、「シビュラシステムは実は潜在犯の集合精神でした!」的なオチで、まぁ、そうなんだけど、だから、何だ? みたいな。
んー、なんだ、違う、書き足りていない。それはそれでいいんだ。じゃあ、ソードアートオンラインはどうだ? 記憶が奪われていくプレイヤーたち。その黒幕を倒した! 記憶を取り戻した! やった、ハッピーエンド!
んー、なんだ、違う。例えば、「君の名は。」は、「彗星やべえ!」「過去に戻って助ける!」「助かった!」「君の名は?!!」――ハッピーエンド!
んー、俺は、いったい、何を、いいたい!!(かっこ白い目)
何だろうな。
俺が最近、ここ1年、2年ぐらいで、ストーリーとして本当に完成しているというか、感動したのは、実は、やっぱり、この作品(外部リンク)かもしれない。これは、映画とか、漫画とか、その他ジャンルを含めてである(※)。
なんでこんなに魂魄を揺さぶられたというか、感動したのかは、よく分からない。その、読んだときの感性状態がたまたま適合していたのかもしれない。
ただ、ストーリーというのは、「オチ」というのは、僕が求めるのは、こういうこと(どういうことだよ)なんじゃあないかと、思ったりする。
※もちろん、先に挙げたサイコパスもそうだけど、面白い作品は色々あったのだ。あったのだけれども……。
凡人が背伸びするんじゃねぇ!
と、まぁ、そんな、すげー作品にあてられて、「ああ、もう、俺はやっぱり、何も書けないんだ、ダメなんだ、ダメな奴なんだ、人間としてダメなんだぁぁぁ!」なんてふざけたことぬかしてんじゃねぇ。努力、という言葉が嫌いだ(※1)、と何度も書いているが、それでも、その何かにかける時間、情熱が大きければ大きいほど、それは、その人のもつ能力は別として、大きな力になっていく。
Y=aX+b
の、Yが成果で、Xがかける時間だとしたとき、その人のセンスが「a」で、今まで培ってきた能力や資産が「b」であったとき、
(1)(a,b)=(10,100) と、 (2)(a,b)=(1,10)
の人がいたとしても、(2)の人も、(1)の人の100倍時間をかけたなら、同じだけの成果をうみだすことができるのだ(※2)。
ある方が、自身のブログで、短いながら、更新の都度、小説を連載している。
新聞の漫画欄みたいで面白い。僕もやってみたいと思った。
しかし、オチが決まってないのに、書いていっていいのだろうか。書きながらオチが見つかっていくような、そんな天性の才能なんて、自分にはなさそうである。ブログで断片的に書いていくよりは、ちゃんとまとまった形で、推敲など念入りにしてから完成させていった方がいいのではないか……。
でもまぁ、ゼロとイチとでは、大きな違いがある。継続は力なり。兎に角、あまり書くことから離れないようにした方がいいのではないか。
(取りあえずこれから3か月ぐらいの間、週一に500字~1000字のペースでやってみようか)
※1:努力という言葉は、他者評価と自己評価の相対に過ぎない。あんまり意味のある言葉ではない。
※2:100倍時間かけるなんて、人生限りがあるし、物理的無理な場合がある。もちろん、成果自体も、簡単に数値化できるものではないのだけれど、結局、この似非数式をよく考えないで信じると、「努力信仰」という、頑張れば何でもできる的な発想に陥りやすい。
今日の一言「……」
取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
あっという間に
気づいたら1日が終わっていた。本当に時間が過ぎるのは早い。取りあえず、30分を目途に書いてみるか。書くことも、そもそもパソコンを起動させるのも久々である。
色々と、目標を立てて、それに向けてやってこようとした。生活を、いい方向にしようとした。
しかし、いろいろと、仕事が忙しくて、上手くいかなかった。
仕事が忙しいというのは、何だろうか。
忙しくない仕事などというのはあるのだろうか。無い。そこに問題があるのではない。
時間。
存在。
今僕は、何に向かっているのか。
何でもできる。しかし、何もできない。
意味が分からない? 意味、シンボル、記号。シニフィエ、シニフィアン。概念。抽象。答え、真理。
理解。
自分。自己。自我。
コミュニティ、コミュニケーション。
サイコパス、感情、喜怒哀楽、怒り、焦燥、怖れ。
時間
詩や、俳句や、短歌や、散文は、陶酔なのか。人生は、暇つぶしなのか。すべての芸術は、死からの逃避なのか。
子どもとは愛するものなのか。生きがいなのか。
社会とは何か。システムとは何か。効率化の果ては自己のパーツ化なのか。
唯一性と一回性。すべては、不可逆な時間の中で生み出される。
ただ、信じることができる概念は何か。
その根源を、根本を、意味概念を求めて遡っていく作業、それが哲学というならば、今必要なのは哲学なのか。
夢を見た。夢……それは、日々の業務に押しつぶされること。自分を見失うこと、自分、自分とは。
何をすべきか
お前は、これをすべきだ。そういってもらいたい。同時に、それを認められない。頑迷固執の老害である。
認められたい。所属欲求と承認欲求を求めたい。充たされない思いが、自己の消耗へとつながっていく。俺は誰だ。俺は、僕は、私は、誰だ。
表現の違いというが、では、その意味されるものは本当に存在するのか。疑う余地はない、ネコという概念は、catといったり、ロシア語でコーシカ、ドイツ語でカッツェ。呼ばれ方は複数あっても、ネコという概念は疑いようはない。
だが、その猫の概念とはなんだ。耳が二つ、目が二つ。髭が生えている。四足歩行。体毛に覆われている。これだけでは、ネコにはならない。どこまで条件を挙げていけば、ネコになるのだろうか? しかし、そんなことを考えずとも、私たちは、ネコの画像をみたら、一瞬でその猫の概念を認識することができる。
生得的なもの。
自らの身体を信じること。五感。インプットされる情報。それだけが、信じるべき対象。
現象学とは、猫という概念は一先ず置いておき、まずは現実表出しているものに着目する考え方である。ネコという完璧な定義は、辞書をひいても出てこないけれども、取りあえず、辞書的な意味が理解できれば、他者との共通理解を行うことができる。これがコミュニケーションである。
コミュニケーションとは
人は、ひとりでは生きていけない。でも、時に人は、ひとりの時間を欲する。
しかしそれは、あくなき、承認欲求を求める、終わりなき戦いではないのか。どこか、小さなサークルでも、会社でも、友人関係のわでもいい。どこか、自分の居場所を求め、そこで、能力を発揮する必要もなく、ただ、存在しているだけで、その所属コミュニティの維持に役立てられるような、そんな存在となること。
それが、所属欲求である。
認められたい、という思いよりも、ただ、その場にいるだけでいい、そんな場所。
ニートや、孤独を愛する人、個人投資家、人間嫌い、そんな人たちも、SNSや、ブログをやったり、記事を書いたりして、何か、繋がりを求めている。
それは何故か。承認欲求を求める場合、投資家としての成功だとか、俺は人とは違うんだぜ、という自尊心を充たそうとしている場合もあるかもしれない。
ただ、それだけではなく、単に、そのインターネットというツールが、自分の居場所を与えてくれるのかもしれない。
本来。家は、家族は、その、居場所であった。
であるからにして、その家族が崩壊するような、家庭内暴力だとか、別居、離婚、姑嫁の確執だとか、ドメスティックな事件は、その当たり前と思われている崩壊を示唆するがため、センセーショナルな報道へと繋がる。
報道と言えば、大きな地震から、数年が経った。
生き残った命は、大切にしなければならない。露命を無常の風に任すること勿れ。
30分が経った。もう外は真っ暗だけど、散歩にでかけよう。
(お酒を飲んでいるわけでもないが、何だか、陶酔的な気分である)
今日の一言「日々の断絶という言葉は言い当て妙」
1.専門性を追究する・彼女をつくる
という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる
という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。
それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。
1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。
2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。
衝動 → 自我 ← 超自我
みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)
自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。
ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。
さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。
※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。
※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。
最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)
芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。
であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。
ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。
分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。
(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)
ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。
……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)
どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。
そんなことはとうに、分かっているのである。
みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。
だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。
ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。
それは。
世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。
今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。
と書いたのは、そういう意味である。
それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。
生きるのつらい絶対殺すマン
仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。
「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
と。
この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。
が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。
今まさに、これへの対策を行っているのである。
どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)
感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。
長くなったので強制終了。
(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)
最近の振り返り
例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?先日、
自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。
であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?
今年は整理の年にしよう。
というものであった。
1.専門性を追究する・彼女をつくる
という方策と、
2.「求めるもの」について、再度解釈を試みる
という方策を検討し、「1.」よりも先に「2.」を整理する必要があることを決定した(導き出した)。
その「2.」とは、上の引用のとおり、「思考と生活を整理する」というものであった。
それでは、今回の記事では、その整理する方針について、より具体的に決めていこう。
もう一度整理
上の、1.と2.の違いについて、分かりにくいかもしれないから、現在の気分に基づき、もう一度表現しなおしてみる。1.については、「現実へのアプローチ」といってよい。いわゆる、一般的な目標と大差ない。一般的な目標とは、高校に入学するとか、会社に入社するとか、ダイエットするとか、「現実」と「自分」を分けて考えたとき、自分を現実に向けて「変化させる」ことである。
2.については、その逆といってよい。自分を現実に合わせていくのが1.である。2.は、自分を成り立たせている根源を明らかにしていく作業である。難しい表現をしてしまった。例えば、フロイトさんの精神分析において、エス(衝動)・エゴ(自我)・スーパーエゴ(超自我)という概念があることはお分かりの通りだろう。
衝動 → 自我 ← 超自我
みたいな感じで、自我は成り立っている。
(自分と自己と、自我の言葉は厳密には違うのだけれど、今回の記事では同じように用いている)
自分とは何か? という問いは深遠であって、それを明らかにして生きている人など、そうそういないと思われる。それでも、多くの人が、特にこの問題を抱えずに生活できているのは、基本的に「自分」と「現実」が一致(※1)しているからである。
ちなみに、少し余談となるが、「衝動」部分がおかしい(現実とのズレが大きい)場合は、「精神病」と言われるし、「超自我」の部分がおかしい場合は、教育のせいにされたりする。
ただしどのみち、「大人」という存在においては、そういった自我の保持や安定性というのは、完成されたものとみなされる。「君、大人なんだから、ちゃんとしてよ」と言われるのは、「自我が正常な状態なんだから、正常な判断ができるんでしょ?」ということを言われているのである。もっと俗的に書けば、TPO(とき・場所・条件(場合))の判断がちゃんとできるんでしょ、ということである。
さらに余談となってしまうが、僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提(※2)としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。ただ、精神病など、そういった極端な事例などを考えざるをえないのは、その「正常」と「異常」とのグレーゾーンがかなり広がっていると感じているからである。何をもって正常……ちゃんとしてね、といえるのか、正直よく分からないのである。
くだらない例えを書いてしまおうか。ホロコーストを持ち出すまでもなく、虐殺することはおぞましく悪いことである。では、虐殺することについて、空想したり妄想したり、小説に書き出すことは悪なのだろうか。否である。しかし、完全な大人とか、完全な人間とか、完全な理想というものを考えたときに、そういった「悪い考え」が生じるのは、やっぱり「完全」ではないのではなかろうか。
くだらない例えであった。ここで、「くだらない」といっているのは、これら、正義とか、悪とか考えることがくだらないというのではなく、単に僕の興味の対象外であるということだ。つまり、実感伴って、そんな「完全な善」なるものを、僕は「否」と思っているのである。清濁あわせもったのが人間であると僕は思っているに過ぎない。で、その実感をもってして、「人間嫌い」という感情エラーというか、表現をたまにしてしまうが、これについては、
ある時期、様々な愛の形に触れ、めんどうだなと思ったこともありましたが、そもそも大多数の人間は愛の実在を特に疑う余地もない前提として動いたり喋ったりしているという事実は人間世界の現実であり、それは「面倒」ということよりも、よほど重いことなのだと思います(注:主旨をできるだけ損なわないように原文を大幅に改訂させて頂いている)
という、ある方のコメントを読んで、いやぁまさに、その通りですよ、と思った。カッコいい。僕も、こういう人になりたい。そう、こういう人になるために、「整理」が、今は、必要なのだ。
※1:誰もが完全に一致しているなど殆どない。だからこそ、日々の生活に悩みや苦しみ、欲求不満が生じるのである。それをもって、「みんな色々大変なんだから」という言葉に正当性を与えている。
※2:この前提に、実感が伴っているかという問題はまた別にある。ただ、やらなきゃならないこと、というのは避けられないのであって、それから単に逃げようというわけではない。問題は、その「やるべきこと」自体の曖昧さ(社会や環境や状況や人によって異なること)である。
賞味15分の感傷だって価値がある
本題の「整理」に入る前に、もう一つ、素晴らしい記事を発見したので書いておきたい。感動などを得るために、どうしたらいいのか、という主旨において、一生そういうものを味わいたければ、リスクを恐れず生きたい人生を生きればいいかっこいい。惚れる。
仕事なんて辞めてもいいし、辞めずに打ち込んでもいい
多分、苦しみはあるけど、同じくらいそういうものを味わえると思う
生きたい人生なんて分からないよ?って人もいると思う
そういう人は分かるまで本気で悩んでくれ
それだけで一生、そういう生き方ができるだろうね
案外、もんもんとして辛い人生なんてものは味わえないものです
だいたい、今なんでこんな辛い人生を送っているんだろうって感じている人は、考えることを辞めて、今の辛さを耐えることにせいを出す。懸命な判断だと思う。でも、生きたい人生って何だって本気で考え続けるのは辛いけど、それこそ喜びになるのではないか?
2週間そういうものを味わいたいのであれば、小説を読むか、漫画を読むか、ゲームをすればいい
これだっていう作品に出会うのは難しいけど、出会うことが出来たなら最高に心が揺さぶられることだろう
15分そういうものを味わいたければ、音楽を聞こう
なかなかそういうものには出会えないけどね
でも、出会えれば15分は楽しめる
フランクルさん言葉と絡めて理解すると、2週間と、15分は「体験価値」であろう。それでもって、「一生」については、「創造価値」にも思えるが、もはやこれは「態度価値」何ではなかろうか。
ここまで思考体系を確立されている方は、これからも、悩みや苦しみがあったとしても、きっと、困難があっても乗り越えていくのだろう。思考よりも、最初に挙げた「1.」の、現実へのアプローチについて、尽力していくことが有効であろうと思う。
現実問題へ到達できない
悔しいというか残念なことに、僕は、10年も20年も前から、その前の次元でとまってしまっている。すなわち、「2.」の部分だ。最近、ある東大工学部卒の研究者の著書を読んでいて、そのあとがきか何かに、「自分とは何か」のような、僕と似たようなことを若いころに思っていた、と書かれていた。その方は、勉強もそうだが、理系だけれども、哲学書ばかり読んでいたという。そして結局、だからこそ、取りあえず勉強して東大に入って、自分の明らかにしたいことを精一杯つとめていったという。
突拍子もないから上手く説明できないけれども、前提として思うのは、「人間とは何か」「生きる意味とは何か」「自分とは何か」という問題意識が生じるのは、別に珍しいことではなく、そこから発展した技術、芸術、思想・思考といったものは、数多く存在するのである。
(分かりやすく代表的なのは仏教であろう)
芸術や思想分野は、比較的その問題意識が分かりやすいが、技術(例えば、経営だってそうだし、仕事だって、何だって)は、その現実への還元要素が大きいために、その根源にある問題意識は見えにくい。それでも、何らかの、自らの、根源的な問題意識に根差して、人は現実へのアプローチを事欠かないのである。
であるからにして、単に思考をもってして、問題解決をはかろうというのは、大きな間違いを犯しているのではなかろうか? という疑問はもっともである。
確かに、家にひきこもって、自分の頭だけで考え続けるということに、限界があることは否定できない。
ただし、僕は、完全なスタンドアローン状態を目指しているのではなく、現実からのフィードバックも当然受け入れることにしている。これは、単なる中途半端な修正主義になるだろうか。そうではない。むしろ、「思考」というのが、身体を前提にしている以上、完全な単独者として思考することは不可能だし、そもそも、その「問題」そのものも、現実を前提にしていることは言うまでもないことだ。
分かりにくいな。だとすると、僕の考える「現実」というものは、二つの層(レイヤー)で重ね合わされているのかもしれない。レイヤーという横文字を使ったのは、イメージとして、ペイントソフト的なものを連想したからだ。地層としてしまうと、表層と深層とで、深層の上に完全に表層部分がのっかっているイメージとなる。そうではなくて、一部は深層部分が飛び出ていたりと、表層と深層が折り重なって、一つの絵として認識できる状態、というイメージである。
(何だろう、頭の中で描かれた図を、実際に作成しようとすると、何かちょっと違うくなる。イメージの足りなさってことだろうか)
目標立てる主旨と乖離していないか
はぁ……。疲れた。ダメだダメだ、このままでは、来週を乗り切れない。
……ところで、別に、自分だけ辛いとか言ってるんじゃないんだからな!!(逆ギレというか突然ギレ)
どーせ、こんな愚痴ぐち書いてると、「あーこいつ、自分に浸ってんな~」とか、「はいはい、どーせ、自分が世界の中心で一番大変だって思ってんでしょー」とか、そんな感想しか抱かれんのである。
そんなことはとうに、分かっているのである。
みんな大変で、みんな必死にがんばってるのである。
だから、幸せそうなひとをみると、みんな引きづり下ろそうと、嫉妬したりするのである。みんな一緒に不幸になりましょうね~というわけである。
ふざけんな、ひとりでやってろ。世界が、苦しみに満ちたものであって言い訳ないだろ。俺はいつでも、世界平和と、みんなの幸せを願ってやまない。俺が、ポジティブしか「ありえない」というのは、そういう意味においてである。
それは。
世界思想である。一般常識である、ルールである、法律である、決まりである。
人が、長い間かけて、必死に構築してきた、社会システムである。それらを疑ったり、逸脱しようとしたり、逃げ出そうとする人は、同時に、それらの恩恵もうけることができない。それらから逃避する人たちは、それらの「恩恵」の理解が不十分である、努力不足である。
今回の記事の上の方で、
>僕の記事というか、僕が問題視している事柄全般は、一般的社会道徳・ルールを前提としているし、身体・精神の病気を対象とはしていない。
と書いたのは、そういう意味である。
それを前提にして、……じゃあ、僕はどうしようか、と。そういう目的である。
生きるのつらい絶対殺すマン
仕事や人生で疲れている人に、「生きるのつらい絶対殺すマン」はいうのである。
「ほむほむ。でもそれって、義務感だけで生きてる状態だよね」
「〇〇さんは、何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
と。
この後の流れは、まったくもって感動的であり、非常に素晴らしい作品だと思った。
が、問題は、「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」この問いである。
今まさに、これへの対策を行っているのである。
どれだけ緊急性のあることかがお分かりであろう!(誰に言っている?)
感情の希薄化、と書くと、とても大げさになってしまう。今すぐ病院池、となってしまうかもしれない。そこまででは無いのだけれども、ただ、
「何のために生きているの? 何かしたいこととか、楽しいこととかないの?」
これを聞かれるたびに、「うぁああああ」っとなるのである。パソコンのフリーズ状態だ。
長くなったので強制終了。
(取りあえず、直近の行動方策と、優先順位を立てなければまずい)
今日の一言「カテゴライズ、整理ってホント重要だな」「今の気分にぴったりの記事を人工知能的に提供してもらいたい」
さて、2017年というよりも、3月の目標を立てようと、先日から試みているわけであるが、難航している。
寝る前に思ったのだけれども、例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。
であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?
今年は整理の年にしよう。
というものであった。まぁ既に、今年も2か月を過ぎてしまったのだ。早いなぁ。
本一冊読み終えるとか、目標を立てておいて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃ、日々の生活に忙殺されて、何も成し遂げられなかったろう。
言うまでも、書くまでもないことであるが、体調管理は基本である。
一つ、ルーチンを追加しようか、禁欲と、23時以降のPC消灯。
基本的に、消極目標は優先しないことにしていたが、最近、生活の乱れが(主に帰宅時間が遅いせいに思われるが)発生しているので、強制力を行使する必要もあるかもしれない。
取りまず、3月の、1か月限定で施行してみよう。
最近、料理もたまにしているが、3月には、4回程度実施してみよう。少ないな! しかし、ここ半年ぐらいでは、月に2~3回ぐらいしか料理をしていなかった気がする。そのうち、1回に2品(カレーとみそ汁とか、グラタンにカボチャの煮つけとか)は作るとか、グレードアップしてもいい気がするけれども、ま、いきなりレベルアップするのは難しい。少しずつ生活レベルを上げていく他ないのだ。
ただ、今まで考えると、よくあったことだろう。景気循環みたいに、躁モードと鬱モードが結構激しく訪れるのである。大局として見て、さて、今、すべきことは、と問おう。あんまり、流れにさからってもよくない。ギャンブルで損したからと言って、次で取り返そうみたいに思っても、失敗するのと同じである。
かといって、鬱々と落ちていってもよくない。こういうときは、守りに入る。できる限り、日々の生活レベルを壊さないようにする。漸次、向上させられたら御の字ぐらいに。
では、3月いっぱいかけて、4~6月の四半期の目標を立てる。(忘れてはならない、2017年の大目標は、「整理」(体系化)である)
可能であれば、後期の目標も立てる。
なんとも、のんびりであるが、これでいいだろう。いつも焦って、生活レベルも壊したり、ろくなことがない。漸次、漸次。
(追加ルーチンは、しばらく触れていかなければ、すぐに破られるだろう。習慣づけは初めが肝心である)
2017年の目標
少しずつ、少しずつだけれども、株式投資への意識付けは進んでいる。NISA口座開設にもまた住民票が必要とは思わなかった。先日平日に休みをとったなら、取りに行っておけばよかったよ。それはともかく、ある方が、初心者にも優しい解説してくれたり、分かりやすいサイトを紹介してくれたりとしてくれるので、大変ありがたい。多分その方がいなかったら、未だに口座開設もしてなかった気がするな。さて、2017年というよりも、3月の目標を立てようと、先日から試みているわけであるが、難航している。
寝る前に思ったのだけれども、例えば、婚活とか人脈を広げるための作業(努力? なんといえばいいんだ? 単純に「行動」でいいのか)をするにあたって、このブログとかサイト運営とかどうしたらいいんだ?
自己開示しなければ、「本気で他者と向き合って」みたいなことにはなり得まい。しかしながら、このぐちゃぐちゃーっとした状態の、思考の渦みたいなものの開示は、正直、お忙しい誰もがノーサンキューであるに違いない。これは自己卑下ではない。対面状況において、愚痴や悩みを延々と聞かされたら、恋人友人関係であったとしても、いずれ疲れ果ててしまうであろう。
であるならば、やはり、ある程度、思考も生活も、整理できた状態であるのが望ましい。
目標を立てなきゃ、と焦ってしまったが、落ち着こう。今年1月に立てた目標は何だ?
今年は整理の年にしよう。
というものであった。まぁ既に、今年も2か月を過ぎてしまったのだ。早いなぁ。
本一冊読み終えるとか、目標を立てておいて本当に良かったと思う。そうじゃなきゃ、日々の生活に忙殺されて、何も成し遂げられなかったろう。
3月の目標
さて、既に、3月に突入したわけであるが。言うまでも、書くまでもないことであるが、体調管理は基本である。
一つ、ルーチンを追加しようか、禁欲と、23時以降のPC消灯。
基本的に、消極目標は優先しないことにしていたが、最近、生活の乱れが(主に帰宅時間が遅いせいに思われるが)発生しているので、強制力を行使する必要もあるかもしれない。
取りまず、3月の、1か月限定で施行してみよう。
最近、料理もたまにしているが、3月には、4回程度実施してみよう。少ないな! しかし、ここ半年ぐらいでは、月に2~3回ぐらいしか料理をしていなかった気がする。そのうち、1回に2品(カレーとみそ汁とか、グラタンにカボチャの煮つけとか)は作るとか、グレードアップしてもいい気がするけれども、ま、いきなりレベルアップするのは難しい。少しずつ生活レベルを上げていく他ないのだ。
希薄な感情
離人症的気分と表現してしまってよいけれども、何だか、全般的にやる気が起きない状況である。ただ、今まで考えると、よくあったことだろう。景気循環みたいに、躁モードと鬱モードが結構激しく訪れるのである。大局として見て、さて、今、すべきことは、と問おう。あんまり、流れにさからってもよくない。ギャンブルで損したからと言って、次で取り返そうみたいに思っても、失敗するのと同じである。
かといって、鬱々と落ちていってもよくない。こういうときは、守りに入る。できる限り、日々の生活レベルを壊さないようにする。漸次、向上させられたら御の字ぐらいに。
では、3月いっぱいかけて、4~6月の四半期の目標を立てる。(忘れてはならない、2017年の大目標は、「整理」(体系化)である)
可能であれば、後期の目標も立てる。
なんとも、のんびりであるが、これでいいだろう。いつも焦って、生活レベルも壊したり、ろくなことがない。漸次、漸次。
(追加ルーチンは、しばらく触れていかなければ、すぐに破られるだろう。習慣づけは初めが肝心である)
