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ガンダムを知らない人の鉄血のオルフェンズ感想
2017/05/07 12:00 | Comments(4) | 創作について
今日の一言「やっぱり最後はまとめて一気に見てしまう」
※本記事はネタバレを多分に含むために注意願います。

鉄血のオルフェンズ第二期視聴完了

 見終わった。
 ああ、なんだか、良い作品が終わると、黄昏時の気分になる。ラスト8話ぐらい一気に見たため、どっと疲れがおしよせて、23時に寝るという目標を立てつつも床に倒れこんで寝てしまった。

 この作品は、以下の点において、忘れられない作品になったと思う。

・ガンダムシリーズで初めて面白いと思った(ただし、本作を除き、初代の劇場版しかみたことはない)

・ほぼネタバレ状態で見た

・二期まである作品を短期間で見終わった(というよりも、二期まである作品で最後まで見ることができたのって、攻殻機動隊以外ないかもしれない。ガンスリ、おめーは駄目だ(※))



※ガンスリンガーガール:一期は名作。あの重苦しくも健気な雰囲気がよい。原作漫画も、後半はなんだかぐちゃぐちゃ感があったけど、全体的に良かった。二期目の方向転換は残念だった。なんだか、最初は「おとな」向けの作品だったのを、モンハンとかデジモンとかの低年齢向けにしたような……。いや、いい大人がアニメなんてみるなということなのか。

傑作かどうか

 自分の中で敢えて評価をするのなら、上位にランクインするのは間違いないだろう。ただし、傑作か、名作かどうか、とか、そういった基準はあまり意味がないだろうとするレビューというか感想のとおり、様々な要素が詰め込まれているので、様々な感想があるんだろうなぁと思う。

 ある方が挙げられていた第二期の問題点、

・ラストバトルに挑む主人公たちの動機の薄さ

・マクギリス・ファリドことマッキーの肩透かしによる後半の一本調子

 であるが、僕は、一気にまとめて見たのも影響するかもしれないが、一点目については特に気にならなかった。

 確かに、演出がおざなりじゃあないかと、そんな感覚もあると思うし、
早急な結果を求めるあまり、自分のものではない主事主張に乗せられて受動的に戦争を始めてしまったことへの、これは因果応報を描いたものだったのかもしれない。だがしかし、やはり俺は、どのような理屈があろうと最終決戦に主人公陣営が挑むときに切実な動機がないことは正当化されるべきではないと思う。――螺旋のモノリス
 という、「切実な動機の不在」というものが、物語(創作)においては必要だというのも最もに思える。

行き当たりばったり感

 でも、なんか、鉄華団の面々は、一期目から、必ずしも切実な動機(この表現を、合理的判断と読み替えるとより僕の表現したいことに近い気がするが)のもとに戦ってきたわけじゃあない気がしていた。いってみれば、行き当たりばったり感がずっと付きまとっていた。

 名瀬のアニキと、結果的に義兄弟になったとはいえ、最初は「俺の傘下に入らないか?」と持ち掛けられていたが、「鉄華団の仲間たちをバラバラにするわけにはいかねぇ!」とオルガ団長は足蹴にしたり、メルビットさん(大人の女性)からは何度も、「戦わない道もあるのでは……?」と諫められつつも、結局、「俺たちは戻るとこなんかない。前に進むしかねーんだ!」と突っ走り続ける。(そしてそれを後押しする三日月主人公とその仲間たち(※))

 僕はそれを「攻めの人生」と表現して、「んー、なんか、違和感があるなぁ」と書いたけれども、結局彼らは、最初から最後まで、自分たちの「筋を通した」のではなかろうか。


 そういった意味で、オルガ団長のあの無意味であっけない死というのも、
 私は、この48話と49話を観ていた二週間、かなり苛立っていました。制作側が「どんな物語をやりたいのか」は伝わってくる。けれども「どう物語を魅せたいのか」が伝わってこない。キャラクター達の死亡フラグ管理は整然としているけれども、その死に、説得力が伴っていない。そんな説得力不在の物語のきわみに、オルガのあっさり風味な銃撃があったと私は感じました。なんだよ、オルガまでこんなにぞんざいな手つきで殺しちまうのか、と。――シロクマの屑籠
 と、ぞんざいな感じはあるとはいえ、僕は、「立ち止まるんじゃねーぞ」と言い残して倒れるその姿には感動を覚えた。
 いやむしろ、このあっけなさというのは、もっと他のシーンでもあったではないか。ある女性パイロットが、ひと仕事を終え、これから違った人生を歩んでいこうと、恋心を抱いた男性とも今は別れを決意し、でもその人の面影がみえるテディベアを手に取った、その瞬間、あっけなくマフィアの凶弾に倒れる。
 さらにその女性は、モビルスーツに乗っては、才能あふれ強かった。それが、道端で、ふつーの鉄砲で殺されてしまうのだ。主要人物は(敵ですら)モビルスーツに乗ってるときに何らか命を散らすものだと、あまりロボットものを見ないからなのかもしれないが、そんな先入観が自分にあったことを確認したその瞬間に完全に砕け散るという非常に面白い体験だった。


※しかしその仲間たちの中には、突っ走るしかないその危なっかしさについて、一期で参謀役を努めていたビスケットくんとか、二期で妹との生活のために鉄華団を辞める決意をしたタカキくんとか、「おめーら、こんなわけわかんねー戦いに参加するなんて、頭悪すぎだろ!」と戦闘前に出ていったザックくんとか、気づき、行動していた人たちもいた。
 そういった人物も描いているということは、鉄華団全体としては、戻ることができなく、戦うしかできない子供たちという表現だろうと思う。

マッキー

 一点目は、一期から短期間で一気に見たのと、毎週毎週じわじわと見ていったのによっても、感覚が違うところがあるだろうし、鉄華団の面々も、途中で「なんかやべーな」と気づき始めた描写もあったし、何か気づいた時にはもう引き返せなくなってたということで、僕はあまり気にならなかった。

 ただ、二点目の、マッキーの戦略のなさには、確かにもはや「不思議」な感覚すら覚えた。
 まぁそれも、彼の生い立ちとか、「アグニカ」という伝説を頼るしかなかった幼少期のことを思えば、伝説の機体バエルに期待が大きくなっていたということで、仕方がなかったようにも思える。
 しかし確かに、一期目の、あの冷徹沈着、先を見通す戦略性などの印象とは異なり、戦力がどんどん削がれて不利になっていくなか、なんか言い訳じみた感じで鉄華団に、「君たちらしくないな」とか言って戦力をあてにしている様は、あれ、本当にこれ、同じ人だっけ? ぐらいに思わせられた。

 幼妻に背徳を罵られ、ナイフを突き付けられた際のシーンとか、カッコよかったんだけどなぁ……。



 たぶん。
 勝手な感想だけれども、ヒロインの一人、クーデリアもまた、世界を改革したいと考える一人であって、その人も、「革命の乙女」の「物語」を自らの根拠としていた。
 マッキーも、現政治体制(軍事組織)の創立者とされる「アグニカ」の「物語」を根拠としていた。

 両者は似ている。
 しかし、マッキーは、他者を頼ることができなかった。
 自分に恋心を寄せてくれる女性(権力もあり、自身もモビルスーツのパイロット)をも捨て駒にし。
 自分に憧れをもってくれて、良き理解者たりたいと願う幼馴染をも捨て。
 ――ただ絶対的な力だけで世界の改革を望んだ。

 そういう意味では、敵組織の親玉は、戦略性もさることながら、人脈も盤石たるものだった。
 いくら理念が素晴らしいものでも、「こころ」が伴わない暴力では、世界を救うことはできないと、そんなことが表現したかったのではなかろうか。いやー軽い言葉を吐いてるなぁ。まぁ単なる戯言であろう。



追記:某氏の仰るマッキーサードガッカリ事変とは、幼馴染の友との最後の会話ではなかろうか。最後まで信念を貫いて果てるというよりも、多分「憧れ」とか「嫉妬」の感情でしかなかったところがガッカリなのかもしれない。まぁでも、そういうキャラというか、立ち位置だったんだろうなぁと、全体を見てからだと思ってしまうところが少し哀しき哉。

いい作品だった

 いろいろ書いたけれども、なんだか、もっと書きたいと思ったことがあった気がする。
 一気に見ると、その感覚が全体感として薄まってしまう点が問題である。

 とはいえ、「いろいろ思った」ってことは、それは、僕の中の基準では、名作・傑作であったということになる。

 こういった、いろいろ思いを馳せられる作品を次から次へと消費していくというのもいいなぁ。


 いやいや。

 それはきっと、いずれ行き詰りに陥るだろう。

 エンタメと現実を同一視しなけりゃならないとか、そういうことではないけれども。
 エンタメはエンタメ。
 現実は現実。

 仕事は仕事。
 遊びは遊び。

 そんな風に、「人生」という総体を、その時その時で分割して生きてくというやり方。
 フェイスブックとかでアカウントを変えて、そのサークル(集団)ごとに役割(ロール)を変えて適切な「個性」を選択して生きていくってのが、上手い生き方なのかもしれないが、俺はやっぱり、そういった生き方はできない気がしてなない。
(精神的、技術的にはできるし、そうやってうまくやってきた面も多くあるわけであるけれど)

 で、まぁそういうのもいいんじゃないかと思う。「俺はこれはできない」というのは、逃げだったり、老害だったりするわけだけど、でも、「自分」ってのを貫き生きてくのって、やっぱりかっこいいと思う。
 ああ、いや、その、かっこいいかどうかはどうでもいいけれども、僕自身、やはり、憧れあているということなんだろうか。


(さてここで問題です。では「自分」とは何でしょう? ある方のコメントのとおり、自分とは、「変化するもの」であるとも言える。で、あるならば、「自分を貫く」というのは、一体全体本当に可能なことなのだろうか? そうした問いは、本記事ではやめておこう。とにかく、今は、良い作品を見終わった後の、感傷的な気分に浸っていたい。なに浸っちゃってるの? ウケるんだけど(わら)という批判はもっともだけど、いやそうなのだ、浸っていたいのだ。これはとても、贅沢な時間の使い方だよ)

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純粋性と無垢について
2017/05/06 10:19 | Comments(0) | 対人関係
今日の一言「ひとのこころはおもしろきかな」

理想のヒロイン像

 鉄血のオルフェンズ(ガンダム)のクーデリアお嬢様とアトラさんは駄目で、進撃の巨人のミカサとハンジさんは良いのは何故か?
 先日書いた時にはよく分かっていなかったが、モリエールという作家の「守銭奴」という話と、「ドン・ジュアン」という話のあらすじを読んで、ふと思った。
 これは、性格気質の「純粋性」が問題なのではなかろうか、と。

 クーデリアさんたちは、内面葛藤を抱えていながら頑張っていて、ミカサは命を救ってもらった主人公のエレンを守ることのみを生きがいとしているという点。どっちも頑張っている点は同じだけれども、後者はより特化しているというか、ある意味病的ですらある点に好印象だということだ。

 と、書いて、んじゃあ、アトラさんは駄目なの? 彼女も、命を救ってもらった主人公の三日月くんを支えることを生きがいにしてるんじゃあないの? と思った。確かに、そうだ。でもなんか違うんだ。こんなこと書くと、アトラさんファンに石礫を投げられそうだが、ブレているというか、中途半端というか、微妙なのである。
 何故そんな風に思ってしまうかというと、まぁ、序盤の登場からの印象がよくなかったというのもあるが(なんか、ちっちゃくて可愛い女の子だしときゃいいんだろ、みたいなテンプレ臭を思ってしまった。ただこれは偏見に過ぎなかろう)、当初は、「三日月のそばにいられるだけでいいんです」的な感じで、クーデリアさんの方が似合ってるだろうなぁとか言っているのに、段々と、「(クーデリアと)一緒に三日月をつなぎとめましょう!」となって、「あなたの子供が欲しい!」となる。
 まぁ、言うなれば、ふつうの、かわいらしい、少女の恋愛が描かれているわけであるが、……いやだから、嫌いだとか見てられないとか、そういう文脈で書いているのではなくて、「理想のヒロイン」というか、心がきゅんとなるか、という意味においては、オルフェンズの女性陣にときめくことがなかったということである。

純粋性とは

 ヒロインの話と、タイトルにある「純粋性」とに、何の関係があるのか、ということだけれども、もっといえば、それと「てめーが生きる意味」というのと何の関係があるのか、ということだけれども、大事な要素がある気がしている。

 まず、ユーモア、お笑いというのは、ある種、人間の性格を極端に増幅ピックアップしたときに面白くなってくる。先に挙げたモリエールさんの喜劇というのは、「守銭奴」という性格類型だったり、「無神論者(好色家)」という性格類型だったりする。そういった極端な人格と、周囲の(ふつうな)人たちとのかけあい、軋轢なんかが面白かったりするのである。

 物語には悪が必要だ、と言われたりする。その悪が巨大で、醜く、とことん突き詰められているとストーリーに起伏がつけやすい。それに立ち向かう主人公陣営も魅力的に描きやすい。その「悪」が、「いや実は、こうこう、こういった事情がありまして……」的な感じのが最近多い気がするけれども、「いやーそうですか、貴方にもそういったご事情があるんですねぇ」「そうなんですよーあっはっはー」的な感じになってくると、何だか肩透かしに思えてくる。いやおめーよぅ、その程度で和解できるんだったら、はなっから話し合いでもなんでも他の方法があったんじゃねえかよ。


 それでだ、話を「純粋性」に戻すと、みんな、誰でもそもそも、純粋なものって好きなんじゃあないかと思う。
「不純物ゼロ! 純粋に素材を活かした商品です!」
 いやそれ、ただの水でしょ、みたいな。それは極端か。
 他には、ヤリマンビッチよりも処女の方がいいとか。
 そういった「純なるもの」への憧れって、どこかしら人の根源になかろうか。

 例えば信仰とか。
 神への信仰は、時に、疑うこと自体を悪とされる。そもそも聖書では、楽園エデンで暮らしていた男女が、知恵の実を食べてしまうことによって、純粋性を失って、神様から怒られてしまった。これは、逆説的に、純なるもの、無垢なることへの憧れの表れなのではなかろうか。


 まぁ、僕は別に処女信仰をもっているわけではないけれども、それでも、純粋な女の人の方が好きだ。その純粋なというのは、性交経験ではなく、性格特性としてのものである。じゃあその、純粋な性格特性って何なんだ? ということで、ようやくこの記事の本題に近づいていく。

分かるということ

 その前に、「わかる」ということについて、書いておく必要がある。

 この「わかる」とか、知識をもつとか、そういったことと、純粋性とは、切っても切り離せない問題だ。

 わかるとは何か? 端的に答えるならば、それは、「分類できる状態」、もっと平易に書けば「わけられる」ということだ。


「答えを出せる状態」
 という表現もできるかもしれないが、それはやや具体性にかける表現である。

 確かに、何かの問い、問題、課題があったときに、適切な答えを出せるというのは、その問い等について、「分かっている」といえるだろう。

 では、その答えを出せるというのは何か?
 言語上であれば、YES/NOだったり、善悪だったり、AタイプorBタイプだったり、何からの分類ができて、そこに整合性が保たれている状態、それが答えということだ。

 ということは、つまり、その問い自体について、「わかっている」必要があるわけであり、ここでいつもお決まりの無限遡及が生じる可能性を見出せるのだけれども、そもそも、言語というもの自体、カオスな自然状態を、適切に生活するために便宜上「区切っている(わけている)」のである。
 その根源を辿れば辿るほど、いつまでたっても答えがでないという状態に陥るのは、仕方がないことであるともいえる。

思考実験の意味について

 ちょっと蛇足だけれど、カントという哲学者さんは、形式的な倫理(定言命法)を重視したといわれている。有名な例として、自分の親友Aが殺人鬼に追われていて、自分の家にやってきて、匿っていた。そこへ、殺人鬼が自分の家にきて、「Aはいるか!」と訪ねてきた。嘘をついてはいけないという倫理観がある場合は、一時の感情やその状況に応じて変えてはならないのであり(仮言命法)、親友のAはここにいる、と殺人鬼に言わなければならない、という話である。
 これは、倫理的・道徳的になんかおかしいから、カントの言ってることは矛盾だよね、といった文脈が多いように思う。

 けどまー、その場の対処はいろいろあると思う。
「Aはここにいる! が、お前には引き渡さない!」
 とインターホンで対応して、そもそも玄関のドアを開けないのだっていいし、すぐに警察よんでもいいし。

 功利主義の正義の問題とか、暴走列車で、Aの引き込み線では3人、Bの引き込み線では1人死ぬとしたら、Bが正しいとか。でもなんでそんな暴走した大事件発生中にもかかわらず未だ線路上に人がおるん? とか。


 こういった議論というか、仮定というのは、その時々のシチュエーションにおける対処をその場で、瞬時に選ばなければならなくて、結局言語上の、思考実験に過ぎない。
 たぶん、あんまり「正義」とか道徳とか考えていない人だったら、3人と1人という選択ができる状態にあったとしても、「何もしない」という選択をとることだって考えられる。それは、どちらを「選んでも」それは、自らの選択で人を殺めた、という解釈もできるからだ。そうしたとき、人は思考停止に陥って、合理的な判断ができない可能性だってある。
 だから、思考実験と、実際に僕らの生き方・選択という問題は、実は関係してそうで関係していない場合があることを、忘れてはならない。

 話がずれた。

無垢な少女

 汚れを知らない、うら若き乙女。
 うーむ、陳腐な表現である。ともかく、「少女」という言葉がもつ響きには、どうにも、「純なるもの」という意味が込められているような気がする。

 じゃあその「純なるもの」って何なの? ということを表現することによって、理想のヒロイン像を明らかにしようというのがこの記事の試みである(そうだったのか!)。


 聖書の創世記に出てくるエヴァはどうか(この文脈では、アダムでもいいが)。
 明らかに、蛇にそそのかされて「知恵の実」なるものを食べる前は、「純真無垢」であったのだろう。では、無垢とは、知恵の反義語ということか。

 いつものごとく、辞書をひいてみる。別に無垢と知恵が対称関係にあるとか、そんなこと書かれてはいない。

 ただ、無垢というのは、「まじりけがなく、完全であること」のように表現されている。純粋という語においても似たり寄ったりである。

 ふむふむ、なるほど、もしかしてこれって、最近よく表現しているものに似ているのではなかろうか?


 それは、「無」である。なーんにもない、ということだ。思考も感覚も無い、絶対無の状態。それが無垢である。
 そうしたとき、思考のもととなるモノ、――すなわち「知恵」というのが、まさにその無垢の、純粋性の対義語ではなかろうか。



 知恵がないというのは、それは、「バカ」ともいえる。なるほど、では僕らは、できるだけ思考をすて、馬鹿になっていく必要がある! 考えることは悪だ、思考は悪だ!

 そして、理想のヒロイン像というのは、「アホの子」なのだ! 知的だったり、努力家だったりする必要はないのだ。ただ馬鹿であればいいのだ!

ハンジさんはどうか

 いやでも、進撃の巨人のハンジさんはどう考えても知的キャラではないですか。

 いやそうか? ちょっと待ってほしい。彼女の巨人に対する研究心は、明らかに度を越している。自らの命の危険なんてしょっちゅう度外視されている。副官のモブリットさんが大変そうである。
 その持ちえたる知識、頭の回転の良さ、判断力、そして行動力。どれをとっても馬鹿ではなかろう。
 ただし、その巨人の生態を明らかにしたいという思い、それへのひた向きさは、「バカ」と表現しても構わないような、そんな一途さを感じられる。

 それもまた、「純粋性」といっても構わないのではないだろうか。

 としたとき、一つ新しい定義がわいてでてきている。つまり、純粋性とは、決して、「知恵がないこと」「何も知らないこと」である必要がないということだ。

 ある「モノ・コト」に対して、わき目もふらず、ただ一途にそれを目指し続ける、それが「純粋」というものなのではなかろうか。



 ミカサは、幼馴染のエレンを守ることだけを目的としている。
 だから、同じく幼馴染のアルミンと、カリスマ的指導者の命が天秤にかけられる場面に出くわしたとき、アルミンを助ける決断を諦め、いち早く身を引いた。これは、非情なのではない。ミカサにとっての第一義は、エレンの存在なのである。これが、エレンとカリスマ的指導者の命の天秤であれば、ミカサは何らためらいもなく、周囲の同僚をも下手したら殺害してでも、エレンを助けただろう。

(と、いった感想というか解釈をもっているので、進撃の巨人の実写版のキャラクターメイキングというか、ストーリー構成は納得いかなかったというか、つまらなかった。まぁ単に好みの問題だろう)

現実にいないだろうそんなヒト

 といったわけで、僕の変態な嗜好を垂れ流してきたわけであるが、これ、いったい、何の役に立つ奴じゃ?

 一つ言えるのは、お笑いコントは、喜劇は、物語は、その「極端さ」(純粋性)をピックアップできるがゆえに、「面白い」という感動を与えるのである。

 でも実際、僕は、人間という存在について、そこまで楽観的な感覚を頂けない。
 時に両価性の感情をもつことだってあるのが人間である。
 好きという感情の中に、憎しみだって内包できる高度で複雑な「こころ機能」。

 これを「わかる」ためには、「こころ」ということそれ自体の分析をしても足りないのであって、その「問い」が放たれる状況、文脈の理解……しかもその理解は、刻一刻と変わっていく「こころ」を正確にとらえるために、瞬時に、リアルタイムに行われねばならないのだ。

 原理的に無理じゃないかと思う。
 だから、誤る可能性はあるにせよ、「たいていは、こういう状況において、人はこういった感情をもつ」という、何となくの感覚を総動員してコミュニケーションを図っているのである。

 コミュニケーションをするってのは、とってもすごいことなのだ。そんなことを、何の気なしに、僕らはやっているのである。
 だから、コミュ障とか最近よく聞くけど、それも、当たり前っちゃあ当たり前なのだ。だって難しいことやってるんだから。



 だから(この「だから」は、いささか強引な気がしている。ただ、今回の記事としては、いったん締めくくっておこう(※))、ある程度のテンプレ(物語)が必要なのである。

 えーと、しかし、そうなってくると、純粋性というのもまた、単に「解釈」上の話に過ぎないのだろうか。
 だとすると、この記事はなおのこと何の意味があるんだということになってくる。
 そもそも、分かりやすく、お前は、純粋性というものに賛成なのか、反対なのか。善なるものだと思っているのか悪だと思っているのか。目指したいのか唾棄すべきなのか。どっちなのだ?

 うーん、でもやっぱり、みんな、純粋になるっきゃないんじゃないかなぁ。そういったものが価値あるものだと、共通認識がもたれるような世の中になっていく必要があるんじゃないかなぁ。


(なんやかんや、中途半端ではあるが、しかし、何かのたたき台にはなりそうな記事になった気がする)





※原理的に人の心を瞬時に完璧に理解してコミュニケーションしていくのは不可能だろうということ。であるなら、「こういうときはこうだ」「こうすればこうなる」というのを、自分の中である意味勝手に解釈するしかないのである。このことについて、「人はもはや、信じることしかできないのである」表現で書いたことがあった。だまされようがなんだろうが、結局他者というのは、自分の解釈の中での存在であるということだ。
 しかし、この感覚にがんじがらめになってしまうと、色々な弊害に見舞われるのはすぐにわかることである。


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ゴールデンウィークin2017
2017/05/05 22:28 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「やっぱりあっという間」「充実した時間は過ごせた」

引きこもりはできなかった

 明るい記事を書こう。結構アクティブに過ごしてしまった。「しまった」との表現は、当初立てた、「完全に引きこもろう」という目標が完全崩壊であったからだ。まぁそれは悪くなかった。やっぱり、「本音」でコミュニケーションできるってのはとても楽しいことである。
 とはいえ、

 もう一つ、一般書を読もうと思う。そして、概念記憶を一つ増やそうと思う。
 もう一つ、音楽を一つ創ろうと思う。
 もう一つ、小説を一つ書きすすめようと思う。
 もう一つ、7時に起きて、23時前に寝ようと思う。
 もう一つ、料理をしようと思う。そして、一日三食食事をしようと思う。フルーツを食べようと思う。外食に出向こうと思う。
 もう一つ、買い物をしようと思う。鞄と靴が欲しい。漢字が似ている。
 もう一つ、坐禅を一日15分以上しようと思う。
 もう一つ、ルーチンを続けようと思う。
 もう一つ、ピアノで弾ける曲を増やそうと思う。
 もう一つ、日本株で購入したい銘柄を調べようと思う。
 もう一つ、ブログを書こうと思う。
 もう一つ、カラオケに行こうと思う。
 もう一つ、ボウリングに行こうと思う。
 というのの、殆どはできていない。さて残りの時間を、どう過ごそうか。

 

一つでも多くやってやろう

 よし、できるだけ多くチャレンジしよう。
 まずは、ブログを書いて、23時前に寝て、7時に起きるってところからだな、もう幾何かも時間がないが。

 あとは、買い物系か。靴、鞄、株……うーん。欲しいって思いは強いんだけど、中々よい商品が見つからないんだよな。

 あとは、そうだな、オルフェンズ、これ、面白いんちゃう?

 どのシーンか具体的に分からないけれども、テイワーズというマフィア的組織の下部組織であるタービンズの面々が、内輪もめに巻き込まれて、散り散りなってく様のどこかにおいて思わず泣いてしまったよ。アニキぃ……。

 なんか、某スゲー方が自身のブログで、「オルフェンズの二期って、一期で成しあがった仲間たちが、一人、また一人と倒れていく様を見せられる拷問ッスよ」などと述べられていて、ようやく意味が分かってきた。いやぁなるほどその通り。全き秀逸な表現である。

 残念なのかどうか分からないが、ネタバレとして、もう仲間たち(鉄華団とゆかいな仲間たち)の未来は分かっている。それがなかったら、また違った思いをもって見ていたのだろうか? 例えば、その一人一人と退場していく中で、それでもきっと、どこか救いはあるのだろうという思いが生じていたのだろうか。

 でも、そのネタバレがあったからこそ、非常に楽しめているような気もしないでもない。某氏が感想というかレビューにおいて描かれたシーンが、実際にどのような文脈で、どのような表現がされているのかという「確認作業」というのが、これが意外に意外性をもって僕の感性に飛び込んできたりして、面白いのである。

所与の条件で最大限を目指す

 そして、その作品が、最近思う、「与えられた条件下で、精一杯やるっきゃない」ということの一つのあり方を見せられているようで、なんともタイムリーに思う。

 なんだか色々書きたいこともあるのだけれども、なんだかブラウザがやけに重いのと、さっそく23時前に寝るという目標をもとに、この記事は終わらせるとしよう。


(たまには短い記事も……ま、いっか。こいつは中身がない記事だよね)



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思考することの意味について
2017/05/03 12:20 | Comments(4) | 生きる意味
今日の一言「グレーゾーンとしての生き方とは」「積極肯定には物語が必要不可欠」

考えるということ

 先日、仏教の唯識派の思想、八識について紹介した。僕らの心のはたらきについて、五感と、自己執着心である末那識(まなしき)、根源心である阿頼耶識(あらやしき)に分けて捉える考え方である。

 ところで、その考えるというのは、心のはたらきの一つ、「意識」である。
 意識とは、何か物事(モノ・コト)に対して心を向けること(=注目すること)である。
 この意味においては、考えないで生きている人は殆どいない。五感によるフィードバックがあったとき、ほぼ反射的に、何らかの「意識」が生じるはずだ。

 例えば、恋人をつくる方法だとか、お金を稼ぐ方法だとか、幸せになる方法だとか、生活するために必要なことを僕たちは考えて生きている。



 では、その、「考えること」について考えるということは可能なのだろうか?

 考えるというのは、その「状態」を指すのであり、具体的、固有の「モノ・コト」があるのではない。言い換えれば、「関係」という言葉であらわしてもよい。
 しかしこれは難しい思考を余儀なくされる。関係について考えたとき、その関係に関係する何かを想定する必要がある。さらに、最初の関係に関係するものについて関係するものについて……と、無限に思考が止まらなくなるのである。

 この無限遡及の原因は、その「関係」という語だったり、状態という語であったり、「考える」という言葉であってもよいが、それが、実際に中身をもたない、「言葉としての言葉」であるからだ。

 自らの手を見てみる。それは存在する。疑いようがない。
 しかし、「自分」というものを考えてみる。果て? 自分とは何か? どこからどこまでが自分なのか? この身体全部? では、身体から分泌される液体は自分なのか? そもそも「全部」という表現をしたとき、既に、「関係」という思考を避けることはできなくなっている。
 身体が総体として「自分」なのだとしたら、自分のパーツを分割していっても、それは自分にはなりえない。せいぜい、細胞や、ミトコンドリアやDNAが見いだされるぐらいである。そのDNAだって、広い意味ではタンパク質、有機物であり、分子であり、原子であり、電子であり中性子であり、クォークであり……。



 答えは、その定義(モノ・コトの次元)の中においてしか存在しない。

中二病からの成長過程について

 話を少し身近なことに戻してみよう。

 まず、生まれた直後、僕らに殆ど「思考」などなかったはずだ。
 それが徐々に、他者(特に両親)との関係において、自分の存在を認識し始める。ただ、この時点ではまだ、自分と他者(世界)との明確な境界を認識できているわけではない。

 そして次に、「他者」の存在自体を認識する。他者についても、自分と同じように「心」をもつということが何となく意識し始められる。
 その時期における他者との葛藤(コンフリクト)が、青春時代と呼ばれたりする。甘酸っぱい思い出が多数ある人も多いだろう。そうした経験によって、僕らは、自分と他者との付き合い方を学んでいく。


 そして、「大人」になる。大人とは、他者の存在を、「心」ある存在であると認め、かつそれでいて、自分の認識(価値観)も確立した存在である。
 例えば、ある作品に対して、自分はこう思っても、他者は違うと思うような場合を認めることができる、そんな存在が大人である。だから、ある要素を良いと思う人がいれば、その要素を許せないと思う人がいるだとか、「人それぞれである」というのは、当たり前のことである。

 そんな当たり前のことを、時折僕らは、「感情」という状態をもっているので、忘れてしまう。どうしても、自分の感じたことを「正しい」と信じたくなってしまう。その原因が、自己執着心(末那識)であったりする。

 だから、できるだけ多くの、おおらかな心をもって、他者を認め、迷惑をかけないように、大人な対応ができるように、スマートになりましょう、と言われる。
 たいていは、この次元において、社会は上手くいっている。こういう人が多くなると、世界はより良い方向にいくだろうし、周りにそういう人が多いと、幸せな生活を送れるだろう。



 そこまでは分かっているし、僕自身も、そういう状況を経験することができた。(※)


 今は、次の段階を目指している。
 次の段階とは何か?



※そういう状況:すなわち、「幸せな生活」というやつである。「俺は一生人から愛されないんだ」という絶望を抱いていた時に、「努力することで」初めて彼女ができて、「ああ、愛って、好きな人と好きでいられるというのは何て素晴らしいことなんだ」と思った。そのあと、別れたり、結婚したり、離婚したりしたが、「ああ、生きているということは素晴らしいことなんだな」と思うことができている。
 しかし問題は、これらが、「意識」して、その結果を思考し、行動して得たものであるということだ。これは、昔の自分に対して、「よく頑張ったね!」と褒めてあげるだけでよいのだが、僕はそう思えない部分がある。その理由はうまく説明できないが、ポイントは、「実感」という奴だと最近思っている。「こうしたい」という強い思い。欲求・欲望。それに従った行動と、その結果は、ある意味、「偶然性」「運命性」により、「信仰」が生じる。どちらかというと、僕はその「実感」というか、欲求・欲望を「思考」によって解釈してしまっていた。
 本当に得たいと思っていたのは、果たして、友人たちからの賞賛だったのか、彼女がいるというステータスだったのか、それとも……?

思考・生き方としての次の段階

 様々な選択ができる状態である。

 好きな生き方ができる状態である。これを幸せと呼ばずして、なんと呼べばいいのか。

 ある意味、求めていた状態に到達したのである。何せ僕は、昔から、「幸せになりたい」と思っていたはずだから。

 が、その「幸せ」という中身については、思考が足りていなかった。
 そして、その思考を深めていくにつれて分かったことは、その「幸せ」という言葉もまた、「関係」とか「思考」とか、そうした「中身のない言葉」に過ぎないということであった。


 だから、僕は今、とても強く、「物語」を欲している。

 それは二次元に拘らない。ブログを更新チェッカーで集めて徘徊しているのもその一つだ。本を読むのもその一つだ。

 それは、知識を欲してのものではない。物語……それは、生き方をみたいからだ。


 と、本気で考え、思うと、同時に、焦燥感にかられる。お前、30歳過ぎて、いつまでそんなこと言ってるんじゃ、と。

 たいていの人は、生涯費やす仕事があって、伴侶がいて、子供がいて、日々の生活に全力を傾けているのではないだろうか?
 今更、自分の生きざまに疑問を抱くような人はいないのではないだろうか?



 ぶっちゃけ、そういう人もいるが、そうじゃない人もいる。色々ブログを拝見していると、読み取れる。
 僕は、その読み取れることによって、「ああ、まだ大丈夫なんかなぁ」と、いっときの安心感を得ているだけなのだろう。なんとも言い難いあほの所業である。そんな時間などないはずなのに。



 けれども、確信していることは一つある。

 例えば、高名な精神科医でも、メンタリストでも、偉い人でも、師匠でも、何でもよいが、その尊敬すべき方に対して、「先生! 僕の生きる意味って何ですか!」と問うことが、なんとも的外れで、愚かしい行為であるかは明らかであろう。

 結局、この問題は、自ずから考え、答えを出して、行動していくしかないのである。
 その考えることにおいて、「考えること」を捨て去るべきという答えになる可能性も、もちろん含めておいて。


 だから、逃げるわけにはいかないのである。いくら中二病だとか、モラトリアムだとか、精神年齢が低いと罵られようが、「実感」レベルがそうなのだから、仕方がないのである。(※)

※そのことについて、「悩んでいる人」がいたら、そういう人に、少しでも、「考えることからは逃げられない」だから、「諦めて考えねばならない」ことを、そして、その「考えること」の方針や、要素、きっかけを与えられたらと、僕はこうして公開を前提として書いている。

思考することの意味について

 この記事の結論は、もうお分かりのとおり、

1.思考は、五感からのインプットによりほぼ自動的に意識され生じる
 ⇒だから、その次元においては、思考すること自体の意味は無い。

2.次に、思考は、何か生活するための方法を生み出すために行われる
 ⇒だから、ある次元においての答えを導くという意味がある。

3.しかし、「思考」は状態であり、関係であるがゆえに、その思考自体の意味を考えることはできない
 ⇒思考することを思考するというのは、無限遡及になり、中身のない言葉にならざるを得ない。すなわち、思考は、それをせざるを得ない、緊急性や必要性にそもそも迫られた状態で生じるものである。だから、思考することの意味は、反転してその思考自体には決して見いだされないのである

4.3.までが、通常生活レベルの思考であるが、その次元をさらに深めていったときに、「生きる意味」に到達することがある。しかしそれは、思考を思考するのと同じくらい困難である
 ⇒だから、それを包括する、さらに高次の次元(次の段階)を考える必要がある


 というものである。

「ふーん。君がそう思うならそうなんだろうね」

 と言われてはき捨てられる程度の結論である、が、これは実感レベルのものであり、無視するわけにはいかない(僕にとって)。

「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」

 と言われるだろし、そういった感想を抱く方々に特に期待もしていない。
 そんなことを言ってる暇があれば、その代替案の提示を要求したい。

・彼女をつくる努力をする
・お金をさらに稼ぐ努力をする
・新しいコミュニティに参加する(サークル・趣味……英会話やスポーツクラブ等)
・趣味の技術を高める
・身体を鍛える
・仕事に打ち込む
・転職する
・会社を興す
・ボランティア活動をする
・ユウチューバーになる


 まぁ、いろんな選択肢があるだろうと思う。

 ただ、ここまで書いてきたことの流れから分かると思うが、問題は、その、無限に広がる選択肢から、「僕が」どれを選ぶのか、ということである。

 今までは、若いうちはよかった。とりあえず「おとな」と呼ばれる人たちが「良い」ということに従順にしたがった。就職することがよいこと。友人をつくることがよいこと。彼女をつくることがよいこと。部活動をするのがよいこと。遊ぶことがよいこと。徹夜でカラオケするのがよいこと。お金を使うことがよいこと。人に感謝することがよいこと。仕事をすることがよいこと。


 いっぱいあるだろう。

 しかしそれは、「実感レベル」のものではなかった(とまで書ききることは当然無理なのだけれども、表現としてはそういうこと=自分の選択ではなかった)。

 だから、これからは、本当に、「自分の選択」、自分の生き方に責任をもとう(因果を引き受けよう)ということなのである。

 だから、「考えている」のである。

 ので、
「なにうじうじ言ってんの? 単に新しいことをするのが怖いだけでしょ? 引きこもり非リア充乙」
 という批判は、まったく的外れなのである。

 別に、婚活して、自分の低スペックのせいで馬鹿にされたり嫌な思いをすることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、きっと落ち込むことは間違いないが(かっこわらい))
 仕事を頑張って、結果失敗してまた色々いじめられることを恐れているわけではないのである。(いやもちろん、そんなこと嫌なんだけどね。しかし、運命的に避けられない事態ってのはある。寡兵で戦闘に臨んで、劇的な戦果を収めたとしても、少なからずの被害はあるのである。その被害の一人が自分なのかもしれない。だが、そんなことを考えても無意味である)


 その先に何があるのか? ということを問うているのである。



 んで、「その先」って奴が、どうにも、「無」なんじゃあないかなぁと思ったりもする。

 それならそれでもいい。一生、「てきとー」に生きていくってのもありである。早いところ幕引きをするならそれもそれでいい。でも、どちらかというと、人生に生きる意味を問うというよりも、人生から「お前はどう生きる?」と問われているとしたら、そもそも、「死ぬ」ことが前提とされていない、期待されていないということだ。であれば、ずっとその問いに答え続けていくのも悪くないだろう。

まとめ

 今回の記事は、抽象的になったので、あんまり面白くないと思う。
 ただ、まぁ、今後においても大事な部分ではあると思う。

 注目しておくべきは、とりあえず現段階で、僕は、「多様な価値観を認める」という、当たり前のことについては理解している、ということである。

 そのうえで、何を選ぶか? ということを問題視しているのだ。これは、「実存問題」である。「実存」というキーワードで検索すれば、他にもこれらを述べている記事は見つかりそうだが、取りあえず、改めて確認である。


 そして、もう少し、恥ずかしいことこの上ないが、自分の思考レベルを余すことなく表現できるようにしておきたい。
 今年、2017年は整理の年である。

 思っていても、うまく表現できないということは、なくするようにしたい。
 その表現が、他者に伝わろうが伝わらないが、そこまでのクオリティは求めない。ただ、しばらくたった後の自分が読んでもわかるレベルにはしておきたい。そうすれば、たぶん、70億人がいれば、数人にはきっと伝わるレベルにはなっているはずだ。


 端的に言えば、僕の悩み・思考って奴は、きっと中学生レベルなんだろうけれども、仕方があるまい。恥ずかしいけれども、それを認めて、ちゃんとアウトプットできるようにする必要がある。かっこつけて、さも人生分かってます、的な表現をしていたら、いつまでたっても、「実存的空虚感」から逃れられまい。



 自分が悪いことこの上ないが、僕のこの思考について、よく理解してくれて、そのうえで「こんな生き方があるよ」と、もっと昔から導いてくれる人がいたらどんだけよかったかと思う。
 そういう意味で、もっと他者に頼るってことを覚えられたらよかったなぁと、その部分は後悔である。

 30代が中学生レベルの思考を抱いているというのは恥ずかしいことこの上ないが、逆に言えば、中学生の人たちには、ちょっとは役に立つ記事群なんじゃなかろうか。


(人生質問コーナーみたくしてみたい。けど、そういうのの、何かしたり顔で上から目線の「アドバイス」みたいなの読んでると気分が悪くなっていく)

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生きる意味を考え尽くす先にあるもの
2017/05/02 21:14 | Comments(0) | 生きる意味
今日の一言「つり革広告で生きる意味なんて読むと途端にうさん臭さを思う」「きっと初見の人には同じように思われているだろう」

※(追記)この記事は、思った以上にダークになったので、明るい記事(ハッピーエンド)を期待される方は読まれないほうが良いと思われます。

阿頼耶識について

『空の境界』という小説がある。ここに登場するボス級の登場人物が「あらやそうげん」と言って、その名前に秘めたる根源の意味が物語のキーワードになっていたりする。

『鉄血のオルフェンズ』というアニメーションがある。ガンダムフレームという人型戦闘兵器に乗る子供たちには、脊髄からナノマシンを埋め込む手術が行われる。その手術では、首の後ろ下側に接続端子を埋め込み、それとガンダムフレームとを繋げることで、空間認識力などを飛躍的に向上させ操縦性能を格段に高めることができる。これを、阿頼耶識システムと呼ぶ。

 ご存知の方も多いと思われるが、この阿頼耶識というのは、大乗仏教の唯識派(瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)において提唱された、8つの「識」の一つである。



 識とは、見分けること、識別することという意味で考えてよいが、特に「心のはたらき」としてイメージされるとよい。

八識

1.見ること(眼)
2.聞くこと(耳)
3.かぐこと(鼻)
4.味うこと(舌)
5.感ずこと(身)
6.思うこと(意)

 このいわゆる五感と、思考の一つを足したもの。これが心のはたらきの表層部分である。

 この表層の根源となる心のはたらきが、「末那識」と「阿頼耶識」であり、この二つを足して、唯識派は八識というのである。

末那識と阿頼耶識

 末那識というのは、自我、執着心のことである。
 阿頼耶識は、その他の識のすべての根源となる心のはたらきである。

 阿頼耶識は、辞書的やネットで調べると、「無意識のようなもの」という表現が見受けられるが、単なる無意識という意味ではない。
 僕らの心のはたらきは、すべて、この阿頼耶識によって生み出され、形成され、表出しているということである。しかもこれは、心という境界をも否定される。個性なるものを僕らは追い求めがちだが、そもそも、自分というものは、末那識の執着が作り出した表象(現象)であり、その末那識もまた、阿頼耶識によって表象したものであるのだ。

存在するということ

 上の、八識という考えはとても面白いと思うが、唯識派の考えを理解する上でのポイントは、心理学や解剖学のように、人の心を分割していって定義づけしようとしているのではないということだ。

 生命とは何か?

 という問いはそれ自体とても面白いものだと思う。「生物は分けても分からない」という本があったけれども、自己増殖するという定義であれば、宿主がいなければ増殖できない(細胞をもたない)ウイルスは生命といえるのか、など。

「空」(くう)の思想の中観派もそうであるし、瑜伽行唯識派もそうであるが、自己を含めて、世界は、縁起(僕の言葉で言い換えれば、様々な条件が折り重なって成り立っているもの)であるということだ。

 唯一不変の存在は、存在しない。それはただ、言葉のうえだけで思考可能な幻のようなものである。アキレスと亀とか、飛んでる矢のパラドックスは有名だけれども、世界(僕ら自身を含めた存在全般)を、言葉で完璧に表すことができるということが、そもそもの誤謬(誤った認識)であったわけである。

 ある意味、ヤンキー的に、「うっせ、よくわかんねーよ。飛んでるんだから飛んでるんだろ?」というのが、人間的態度として正しいということである。


 ではすぐさま言いたくなる。思考するということは無意味なことなのか? と。


 無意味でもあり、有意味でもある。
 無意味でなく、有意味である。
 あるものは無意味であり、あるものは有意味である。
 いかなるものも無意味でなく、いかなるものも有意味でない。

 よくわからなくなってくる。うっせーよ、難しいこと言ってんじゃねーよ、ばーかばーか。

思考の先にあるもの

 先日、明るい記事を書いたけれども、もっと明るい記事を書けば、僕は今、特に悩みなど無いのである。
 その状態を、「幸せ」と表現するのであれば、僕はもはや悟りの境地ともいえるほど幸せである。

 もちろん、日々の雑多な問題や課題は存在する。それらに思い煩う時間と、解放されている時間の長短によって幸せを測るとすれば、微妙なところだろうと思う。
 もっと言えば、身体的問題。何故僕はイケメンに生まれてこなかったのだろうか。イケメンであれば、同じことを発言したって、同じ行為をとったって、今以上に他者の評価は高かったはずだ。
 身長がもっと高くて、スポーツ万能で、筋肉むっきむきなら、いじめられることだってなかっただろう。
 頭がよかったら、仕事で失敗をして、全部てめーのせいだ、責任とれ! とか言われることもなかっただろう。


 悩もうと思えば、いくらでも問題課題は存在する。

 けれども、その次元の問題等については、もはやあまり興味がわかないのである。
 その「問題」というのは、「幸せ」ということについても同様である。


 そもそも、先ほど僕は、今現状は、さいっこうに幸せな状況だ、と書いた。先日の明るい記事でも同様のことを書いたと思う。


相対言語

 けれども、その「幸せ」という語について思い考えるとき、僕らは同時に、「不幸」という状態を想定しているのである。
 これを、僕が勝手に定義しているのであるが、「相対言語」という。たぶん、言語学の分野とかでも、ちゃんとした研究がされてるんじゃなかろうかと思うが、何分素人でよく分からない。ただ、美しい・醜い、きれいだ・汚い、多い・少ないとか、僕らはたびたび、何でも、そうした比較をして物事を考えている。


概念理解

 一方で、絶対的な言語というものも存在する。それは「概念」である。
 では概念とは何か。個別事象を抽象化した「名詞」である。

 名詞とは何か。名前である。モノ・コトである。

 では、絶対、不変、不朽、普遍のモノ・コトというのは存在するのか? 存在するとすれば、それが絶対的な概念=真理ということになる。

諸行無常・諸法無我

 でも、名詞であっても、絶対的なモノ・コトというのは、存在しないと僕は思っている。

 これについては、いろんな批判があるだろうけれども、現時点の僕の「実感」である。この実感というのは、「信念(思考の統一的傾向)」と「感情」の総体のことである。



 このことについて、「何でそう思うのか」という記事をかくのは結構楽しいだろうけれども、今回の記事の目的としては、話を先に進めてみたい。


 というわけで、仮に、世の中は空(くう)とか、絶対的なものなんて存在しない的なものであるとしてみよう。

 そうしたときに、その実感が強まったときに、果たして、僕は、いや人は、本当に生きることが正しいといえるのか?



 よく訪問させて頂いているブログを書かれている方は、自己紹介のようなコメントにおいて、「何で生きているのか日々考えています。最近は、早く死んでしまったほうがいいのではないかと思ってきました」と述べられていた。

 この感覚。
 これが、彼女にふられたとか、離婚届けを突き付けられたとか、上司からいびられたとか、親友や大切な人と死別したとか、お金がないとか、その他さまざまな悲しく辛い事象においてそう思うというのであれば、僕はひたすら、「がんばってください! 生きていれば必ずいいことだってありますよ!」と励まし続けるだろう。


 しかし、これが、キルケゴールさんが言うような「絶望」に属している発言なのだとしたら、僕はかけてあげられる言葉がない。むしろ、僕自身がそれに対しての対処を教えてほしいぐらいであるのだ。


「僕らは、所与の条件において、精一杯がんばって、浮き沈みはありながらも、それを繰り返しながら生きていく。
 つらいこと、かなしいこと。たのしいこと、うれしいこと。それを繰り返して、泣いて、笑って、生きていく。なんと素晴らしいことか。美しいことか」


 と、思っていられるうちは良い。というか、僕は今はそう思っている。
 と、同時に。

「だからなんだっつーんだ?」

 という、悪魔の囁きも聞こえてくるのである。
 無気力とか、倦怠感とか、そういうのとは違う、何かとてつもなく邪悪なもの。

 いや違う。その「悪」という概念すら否定し相対化してしまいそうな、すべてを覆いつくさんとする……それは、なんと表現すればよいのか。例えるなら、「無」。

結論を急ぐ必要はない

 この感覚をこじらせると、若者の自殺みたいになるんじゃあなかろうかと、勝手に思う。北村透谷さんとか、若きウェルテルくんとか、あ、そりゃ違うのかな。

 僕は、こう、考えている方が少し落ち着く感じはするのだけれど、このことを、いつだったかコメントで、「君は、考えることが好きで、結論を出そうとはしないよね」と言われるのであろう。

 好き、なんだろうなぁ。
 ただ、決して、結論を求めたくないわけではない、いや、そう思いたいだけなのか。



 
 もしかすると、その「実感」をもった「結論」ってのが、実はもうすでに出ていて、それが、生存欲求的なのと相対するから、複雑な内面構造として、反駁しているのかもしれない。
 端的に書けば、「死んだほうが良い」という結論に実感上なっているけれども、「いやいや、死にたくないし!」という感情が、その結論をとどめているのではないかということ。
 そのアンチノミー状態が、特に結論を求めない、こうした、よくわからない記事を量産している理由なのではないかということである。


 とかって、ほんと、よくこんな中二病満載な記事を書けるものだ。
 ほんとに自殺するときはちゃんと消しておかねばなるまい。


(次回は、無垢と純粋性と無についてや、もっと認識や「わかる」ということについて整理したい)

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