基本的に世界はパターンで構築されているので、子どもの不安は、たいてい、大人になることで、パターンとして処理できることが多いのです。
パターン処理は、物理現象のみならず、感情など精神部分にも及ぶものでありますので、いわゆる快不快といったものも、ある程度コントロールされうるものであります。
そのパターン処理は、経験的に構築運用されるものですので、様々な経験をすることで、それだけ奥行きが深く、様々な場面において対応できる人間になるのです。
私は、数多くの(もちろん主観的時間軸においての比較の上での話しでありますが)経験をすることで、身体と心の適応力を高めてきました。それは、実感を伴い、手ごたえを感じるものです。
しかしながら、ここからが重要なのですが、そのパターン処理の例外事象こそ、大きな問題をはらんでいるのです。
まず、情報は、尽きないということ。既にこの世界では、人間が一生かけても記憶できないどころか、触れることすらできない情報で溢れているということ。できることは、選択のみ。
自己に執着しているという見られ方は本意ではないけれども、「受容」などという戯言を吐いている暇は確かにないために、その人間像は甘んじて受け止めようと思います。
さて、久しぶりに気分を乗せて行きましょう。ただし、「目標」設定ということを忘れずに。
今年、2010年は、禁欲の年にしようと思っています。
禁欲とは二種類あって、一種類は、「~~をしない」という一般的なものと、「~~をする」という能動的な禁欲。
勉強というのは、能動的禁欲と言えるわけです。私はその両方を目標にしています。
ただし、ここで陥ってしまうだろう過ちを先んじて抑えておけば、禁欲が、それ自体目的となるようにしなければなりません。将来のためなどという戯言に耳を貸してしまうことは、自ら奴隷になろうとするようなものです。
良い言葉で書けば、自らを向上させることに幸せを感じるように、ということですし、悪い言葉で書けば、自虐を快とするように、ということになります。どちらもこの場合真実を述べているということに着目する必要があります。このような私の言葉の使い方を、自己納得型の言葉と呼びますが、対する他者納得型の言葉に気を付けようという警鐘なのです。
さて、最初の問題提起に戻れば、不可塑な現実において、反省はありえども、後悔はありえないということです。
抽象的な言葉、理想的な言葉というのも天敵です。「真面目」なんて言葉には、真っ先に敵意を向けなければなりません。「真面目」という言葉を利用して、それを「嫉妬」という美しい概念に昇華させる余裕があれば越したことはありませんが、現時点で生起している感覚を無視することは、害にしかなりません。
ところで、目下重要なのは、遠藤 敬之という私自身を、どう扱うかということになります。
今わたしは、mixiとこのブログと、サイト運営という三又をかけていますが、はてさて、そのような余裕があるのだろうかということです。
確かに私の本質は、自己紹介で書いたように、多面的であります。
多面的であることを確認するために、いえ、強化するために、忘年会や新年会というものに積極的に参加し、手ごたえは感じました。
具体的にいえば、「空気を読む」「役割意識をする」ということです。
注意すべきは、そこに「自己」を介在、注入することでした。自己を抑圧することは確かに可能ですが、陳腐で幼稚な方法です。如何に自然な自己を入れて、なお、俯瞰する「自己」を存在させることができるのか、その実験でありました。
実験という言葉が示すとおり、私はその場にいてその場にいないようなものでしたが、間違いなく、ある意味、ある面において、私はその場を楽しむことができました。そのため、完全なる成功といえました。
このような、自己言及的な文章そのものが、「自己満足」であるという謗りを受けるに十分なものですが、ここでまた当初の問題に戻りまして、自己言及以外の問題が、私の中で存在し得ないのだという事実、これこそ、私が長年気付かず涙を流していたことなのでありました。
ここで、ネクラ、卑屈という謗りが発生しますが、しかしながら、この事実(概念)の気付きによって、私は現実的において、明るく、思いやりある人間になることができたのです。
私がよく用いる、「死」こそ最大のポジティブだという矛盾概念、確かに矛盾するがゆえに多くの人に理解されることはありませんが、私の中で燦燦と光を放って私を魅了し続ける唯一の概念なのであります。
私が唯一信じているのはそれであり、ゆえに、それを「神」という名で呼称することに、私は何ら違和感がありません。そしてその神自体が自らの死を望んでいるため、私としても、神を信じながら、神を真剣に殺そうと試みるのです。しかしながら、その殺害の意志が強固であればあるほどに、神の強力さが私の力となるのです。
「自己満足」という非難は確かだろうと思いますが、私が変わったと実感できるのは、自分への執着から、神への憧憬へと変化していることだと思われます。もちろん、神という言葉が適切な表現でないことも知りながら、それ以外の言葉を私は知りません。
さて、こういった言及は、私に、自己欺瞞を生じさせるだけであり、全くマイナスになる事柄なのですが、しかしながら、2010年の始まりとして、こうした記事を書くのは悪い事ではないでしょう。
要約すれば、禁欲を目標に掲げ、その内容と、その方法について述べただけです。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 01/08/2010 23:57:46
> その場にいてその場にいないような
この感覚は、自分と遠藤さんに同一というレベルで内包されている『自己完結の牢獄に潰される苦痛』というのを、感じてしまいます。
この感覚は、他人には見えない葛藤が半端ない。自己完結というのが『何が苦痛?』かを考えると、自分という媒介が、ドバドバと洪水のように思考させる被害妄想でありそれに屈すると、他人を、他人として見れなくて、自己完結された妄想体と混在してしまう。
そして、妄想をリアルに外在化させると、羞恥心によって、とても気が気でないダメ-ジを背負って翻弄する。
過去を割切る思考に関しては、自分や、遠藤さんは度を越えているレベルになります。他人と会話してコミュニケ-ションエラ-を引き起こすのは、引用したような『過去に自分を存在させる権限がある』考え方ができてしまい、人との会話が、支離滅裂になってしまう。コミュニケ-ションエラ-の度合いとしては『キャッチャ-を自己完結で妄想する』という仕組みにより、キャッチャ-(会話の対象者)に向けて言葉を投げているつもりなのに、自己完結の生み出す妄想体に向けて、気づいたら言葉を投げて会話がズレる、というレベルを飛び越えてしまい、まるっきり明後日の方向に、言葉(ボ-ル)を投げてキャッチャ-(対話の対象者)は呆れたりもします。
相手が呆れているというのも、自己完結の妄想感情でしかなくて、リアルに相手の心情はどうなのかはまるっきり分からなくなっている。自分はきっと、このコミュニケ-ションエラ-が、たまらなく嫌で他人を見透かすほど理解し抜こうとする癖がある。
ザックリと互いが苦痛として所与する、自己完結の循環を述べましたが、言うまでもなく遠藤さんや、自分レベルの自己完結という妄想に狭窄された折は難攻不落そのもであり、ふと、自己客観してみるとあたかもキチガイのような自分を、感じてしまう。
しんどいッスよネ、自己完結ってのは。対処法など何もないのは、欲が欠如していることが、自己完結という『無駄なベクトルでの思考パタ-ンを強制』してしまう。欲がない者は、総じてベクトルのない真っ白な世界という苦悶を、重たく抱えています。
自己完結された自分が、凄く明るいのに、周囲には暗いと捉えられてしまう。そして、他人に流されることのない、動じない自分が形成されるのですが、そうなればなるほど、自己完結はより難攻不落さを増して行き『他人というリアル』が、自分の妄想により生み出された『自分が脳内占有する幻想体』により、距離を突き放されてしまう。やがて、自分がリアルにいるのかを疑うような嫌な気持ちに陥り、何が何だかわからずに『後付けの勢いだけの理由』により、自滅の暗黒に溺れてしまうのを防げない。
長々と述べましたが、ここらは理屈として隙がないほど『一般の非にならない崩れない自己完結』を、意味してもいます。口論には強い、しかしながら、あくまでも自己完結の妄想リアルを脱せない。強い現実感がありながらも、まるっきりリアルではない精神世界に閉じ込められたまま。更に言うと、妄想により生み出す幻想世界の激しさとは、一般の非にならない『束縛の僅かな自由な思考』が厄介であり自由なのにも関らず、自己完結という狭いイメ-ジだけでしか、自分が存在しているかの実感がない。
この見地から、遠藤さんは『孤独感に弱いが平気』という自分と同一の孤独感の苦痛があるなと、判断してもいます。『寂しい』という孤独感はあれどもそれよりも『妄想の洪水に耐えられない痛み』が、恐らくあるだろうと思うんです。『恐怖感の対象』というのが、分からない。にも関らず、何故か凄く怯えている自覚が激しくて、自分を臆病なのだと、妄想だけで、自己完結して、リアルでは臆病かも、まるっきり分からないことに、苛々したりもする。
他人の評価がズレている、しかしながら、こちらはズレた見方を許されない。何故なら、自由な思考をできるので。自由は、自己完結の苦痛と比例する。
いつも、どうして人は過去を自分と同じように遮断できないかなと思っていました。『リアル空洞』が過去すら自由に思考できてしまう、現状かなって。
リアルな空洞が激しすぎるので、過去を代償にする癖が染み付いているんです、自分も、遠藤さんも。
リアル空洞を焦って埋めようとすれば、何しようが空回り、火だるまとなる。かといって、受動なのは『何もしていないと責められる妄想に溺れる』ので常に、全力で能動でいなければならない。しかし、それには莫大なメンタルの強さを要します。かつ、このメンタル強さは、過去に自由な思考しなくてもリアルに欲を素直に満たせる者には『割合』として強がりと捉えられることが多い。この『割合』が、他人を信用することが、苦痛と感じる元凶ッスよ。
この点、自分は他人と向き合えば、他人しか視野に入らなくなり、津波のような妄想はすぐ拭えます。
逆に言うと、一人と実感した途端、自己完結という妄想世界は、自分ではない他人を、リアルで実感をしていた感情の持続が尽きると、一気にリアルから遠のける。孤独感の機能、恐らくはお互いサッパリ正常ではないと判断します。越えているんですよ、一般の『ヤバいライン』を一人だと感じる時間で。
かといって、馴れ合いは、生理的に耐えられない。
人は、徒党を組まなければ、この世界では孤立が、どんどん手に負えなくなります。孤立するほど妄想というのは、魔物のように強大さを増してしまう。
‥‥とまあ『半端を無視した自己完結の妄想』で、遠藤さんを妄想したコメントをしてみました。ただ恐らく、的は外れていない。何故なら、自己完結をする者は、現実感は強烈にあるので。なのでこそ、妄想に生きる、リアルにいない現実感が苦痛ッス。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 01/09/2010 00:09:29
最初のコメントは『手に負えない自己完結の暗黒』を素直に理屈化しただけです。素直な気持ちであろうがそれは、リアルでは卑屈とされてしまうせいか、気がつけば、卑屈を常として組み込んだ人格となります。
しかしながら、リアルは卑屈さを悪とする『割合』が途方もなく高い。卑屈でないのに、卑屈になるので、自己完結という牢屋に、半端な気持ちでは戻らされてしまいます。では、どうすればこの悪循環を断てるかと言うと『恋人』という『自分を固体としない存在』しかない気がします。遠藤さんは、自分同様に、並の恋人欲など非にならない恋人欲を抑制しているような気がします。何故なら、妄想にうんざりし過ぎであり妄想そのものは悪ではないのが、妄想をジャッジする存在とは『比率として多数に該当』する者だけッス。
なのでこそ、他人を見下している気持ちがないのに、周囲には『偉そう』だと映ってしまうリアルがある。
恋人とは、このリアルを変化させる鍵そのものです。
恋人を除いた鍵は、地位や、金しかない。けれども、それに無関心でこその、自己完結の暗黒であり矛盾。
あらゆるものが、自己完結が気を抜いたら生み出す、妄想による矛盾ですが、人は、そこまで固体としては気を張れる道理はない。孤独感は、張り詰めた神経を解放させたい締め付けられたような呼吸困難かなと。
COMMENT:
AUTHOR: 遠藤DATE: 01/10/2010 13:24:13
これほど適切な分析は、未だかつて無かったと思います。「的は外れていない」と謙虚なコメントをされていますが、差異を見出すことの方が苦労します。
例えば、上記の文章に、「今のところは」という言葉を付け足そうとしましたが、顔文字さんに関しては全く必要ない言葉だということが痛烈に感じられました。
何故コミュニケーションエラーが発生するのかという、現実的なアドバイスも非常に参考になりました。そして、その対処法を実践され、現に実現されている顔文字さんには頭が下がります。
それゆえの、他人と向き合う、恋人つくれ! というアドバイス。受け入れざるを得ない部分ですね。
>‥‥とまあ『半端を無視した自己完結の妄想』
ブレがない分、100点か0点だったことでしょう。よくぞ書いて頂けました、といった感じです。
しかし、これは、今まで一切触れてこなかった、いわば切り札的なことなのですが、ここで初めて少しだけ触れたいと思います。
(もしかすれば、顔文字さんのせいで(おかげで)これから先の記事はそちらへ関心が移るかもしれませんね……)
といっても、ストレートにそれに言及できるほどわたしの語彙力はありませんので、やはり外堀から埋めるかたちになりそうです。
前置きはこれくらいにして、即ち、「恋人」という概念についてです。
端的に言えば、「恋人欲」というものが、全く理解不能、意味不明と化しているのが現在のわたしの状況といえます。
目的を達した後の、瞬間的な充実感と、眼前に広がる切り立った崖。
わたしとしては、顔文字さんの状態が、理解したいと希求しつつも全く分かりません。
といいつつ、知りたいのは次の単純な一点。
「恋人」が主軸となっているのか、「恋人」という軸を主軸に構築しようとしているのか、について。
自己完結のリスクに触れられていることから、前者を理想としていることが読み取れますが、現時点での状況がどちらなのか、それによって、このあまりにも適切で的確な上記顔文字さんのコメントの文脈が異なってきます――もちろん、どちらも未だかつて無い重要な意味をもちながら。
COMMENT:
AUTHOR: 遠藤DATE: 01/10/2010 13:32:44
不思議なのは、顔文字さんという存在です。
顔文字さんは、上記のような洞察を、どのあたりで得られたのでしょうか。
もちろん、今回の記事を読んだだけで書ける文章ではないことは明白です。
わたしが最も言及したい部分、しかしそれは、わたしの能力では、文章の中には到底表せるものではありませんでした。
基本的に、コミュニケーションエラーが発生するのは明確で、書けば書くほどに、つまらない作品しかできない矛盾を抱えていることでありました。
単純な疑問として、顔文字さんはやはり、天才か、それに準じるような特殊な人なのでしょうか?
わたしが今考えているのは、例えばミクシィのよなコミュニティで発生するようなやりとりが、顔文字さんの前提を踏まえた上で、その延長線上のコミュニケーションなのかどうか。
とすれば、それこそ、わたしが「偉そう」と印象を受けるのはその通りであり、わたしも意識を改善しつつ、猛省しなければなりません。
逆に、顔文字さんが特殊なのであれば、わたしの中に、例外者意識という危険な思想が発生し、恋人以前にその制御対策に追われることになるでしょう。
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COMMENT:
AUTHOR: チリリンDATE: 01/10/2010 13:43:20
あはは、しっかし、卑屈に関しての(一連の)コメントは面白い。
ああいうのを、「卑屈」とかネガティブとかに感じるというのが、ホント面白くて、笑ってしまいます。
そこら辺の感覚が、エラーのもとなんだと、身震いしましたが……。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 01/11/2010 07:59:24
『恋人の何が良いのだ?』ですよネ。まず作らないと理解不能。更に言うと、作ったところで『恋人をとことん理解し抜いた』誰かに『恋愛という支配空間』を聞かないとすれば、遠藤さんは、自分と同じように『三日で飽きそう』という脅迫観念などが具現化されるだけな気もしています。ただそこまで飢えていないのかな-とも思えたのは『スキ』というのにリスクだけしか、感じていないからなのかな?スキは理解をしなくても、何故か、理解している感情。
でも、検証してみたいなとは思いますネ。
他人の両想いを見ると『楽しいのかな?』と思いますし、無欲であろうが、恋人には欲はあり、なければ確実に生きていない。
『スキ』は一度でも理解すれば、外見だけでも自在にスキになれます。だからこそ、昔と違い、きっかけないリアルがキツイ。
言うなれば『恋人の良さだけ仕込まれた』状態で、覚悟していたよりも嫌な終わり。
初恋は『未知のジゴク体験』でしかなく、素晴らしいことに、恋愛の奥底の激痛を、最後まで容赦、手加減、など一切なしに、お相手してくれました。未だ感謝なし(汗)
本題に入ります。女性に言う台詞ですが‥
∟∟∟∟∟∟∟∟∟ ∟∟∟∟∟∟∟∟∟
この世界は、自分ら二人だけの、遊び場と
なるんだから、何も怖いことなく、ただ、
楽しめるように互いに高みを目指せば金の
ことも考えずに、楽しみ抜けると思うよ♭
∟∟∟∟∟∟∟∟∟ ∟∟∟∟∟∟∟∟∟
女性は、強引な口説き方でなければ、駄目なのかな?ってくらい『気持ちが伝わる』『凄く元気になれたよ』でおちまいッス。
『高みを目指す』がアウトと指摘されてもいます。『それはプレッシャ-だよ』と。
プレッシャ-与えないようにする部分は、自分の強みであるのが、口説いて一度でも恋人を経験しないと、分からないんです。
ただ、せっかく分かっても、きっかけが‥
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 01/11/2010 09:04:02
洞察力は『人をよく分かっていない』といった度合いが桁外れなので、高くて当然なんです。
人を理解しているのは、人が理解できなくて。
という矛盾していますが、原点は『笑いたい』『何故、人はすぐに笑うのかな?』というのが
人の思考を見透かせる、執念に生んだ洞察力。
> 猛省しなければなりません
たぶん猛省することは、半端を悪化させます。
反省は、自分がジャッジできないことが、最もつらくてしんどいからこそ、反省なんですよ。
自分でできる反省は、自傷レベルです。言わば『反省を○○日は何があろうがしない』などが本当の反省です。何故なら『何かを理解する』というのは、これくらいの苦痛ならば、確実と
なりますが、半端は『自傷した。終わり』このエンドレスでしかありません。何故、一度でも
『ブレ-キあるレベル』でも、全力主義となる者は、ブレ-キ(半端)を触れないようになうかというのは『何も得ない半端な苦しみ』が一体どれほどかを、肌で感じ取るからです。自分は全力主義では『レベルマックス』となります。
ですが、最も良いのは『ギアの最も低い』まだブレ-キが『ある』という戻れるレベルかな。
レベル区分すると『五段階』浮かびます。例を挙げると『どん底に触れた』場合は、レベルが
二つは上がるかな。元々の精神が、真っ白だと確実に全力主義の低レベルにはなるでしょう。
真っ白だと、社会の黒さに目を背けることってできないので、現実感が強くなり、一人だけで
苦痛を感じる虚しさ、寂しさで、そして妬みを抑えきれず、黒転します。自分が黒転できない
理由は、純粋という普遍により。更に言うと、純粋は全力主義ではマックスになってしまい、
ドス黒い思考に、真っ白な精神で耐えてしまい既存の真っ白で繊細な精神で、しんどいかな-
> 偉そうと印象を受けるのはその通りであり
これは、文章を読めば見えますよ。というより日常で何を考えながら、感情がどう動くかは、
恐らく、外しはしないでしょう、文章が動いた感情にしか、読めないですから。何故なのかは
『思い遣り』という感情の動きが同一だから。
読解力が、桁外れにありません。だから文章は読んでいませんよ、感情だけを見ている程度で
流し読みでしか、文字などは見ていませんよ。
流石にこれだけやりとりすれば、文字でどんなことを書いても、恐らくは関係なくなるかな-
> それに準じるような特殊な人
天才程度に、劣りはしません。『苦労人』って特殊な人かどうかが不明ですが、自分は苦労人
なので、たかだか天才レベルの苦労なんぞは、全部、自分という存在感ない者の精神で喰らい
越えられると感じます。苦労すれば、天才は、如何に『半端は進歩しない』かを理解します。
全力主義など、誰もがなりたくてなったりせず己の小ささ、何もかも分からないで死ぬのに、
迷いが出る意気地なしな自分を殺したい思いでなるのかな-って気がします。天才を卑下して
いるのは、天才より、純粋が遥かに苦痛なのは時折、天才が残した戯言を知ると、実感して。
人は『阿呆で素直』という『愚直』が、何よりバランス良いですよ。天才が何故、くたばるか
とは、神経系列がしんどい割に、何も得してはいないと嘆ける、甘い恵まれた苦労人なので。
因みに、初恋相手も『天才風情など』タイプで『人類全部を敵に回そうが、全力に勝てない』とまあ、相性最悪だと危うい、真っ白な精神が黒転した『完全虚偽者』でしたが。全力主義は
天才を核下扱いするのは『どういう仕組み』か苦労人の方が見透かせているからです。逆に、
自分を理解できる人間、この世にいませんよ。
自分には、凄まじく分かり易い人間だったのを『他人に理解されな過ぎる』ので、普遍なのを
滅茶苦茶にして、滅茶苦茶な精神を安定化して落ち着いているので、仮に『虚偽皆無制限』という自己ル-ルなければ、自分自身ですらもう完全に自己統率など不可能に、滅茶苦茶ッス♭
苦労はすべきではありませんが、もし苦労してしまうことあれば『何故、見透かせる』かは、
遠藤さんは『同じ思考体型と感情の動き方』をしているので、造作もなく完璧理解しますよ。
逆に言うと、苦労人の頭脳はほぼ底なしですが理解できる者が天才より少ないので、努力とは
『ただ死に純粋に歩み寄るだけ』となります。
反省するというのは、自傷すると公言しているレベルに過ぎません。何故なら、苦労人という
特殊文化圏は『自分と、他人は、一人の他人』こんなん(笑)理解できるのは、相応に苦労した
者か、あるいは、強制理解の空間支配、洗脳、という以外は、人には不可能な領域ですよん♭
『天才の定義』は、色々と改変されていますが『共感能力』という旧式天才は、世間にすれば
天才と言われる凡人としての偉人クラスです。
次の『神経系列に特殊な苦痛がある』天才が、自分と同ジャンルの『前例ない』になります。
『特殊な苦痛』あれば天才というのは理屈には伴いますネ。不眠症だって、天才の定義です。
自分は、生まれて半年後に、世界が黒い石炭のような闇に覆われて、死のうとしていた記憶を
鮮やかに覚えています。これを言うと、天才と言う人もいるので、該当者かなぁ-なんて(冷)
一応、これトラウマですよ。苦労人はトラウマというのを常とするほど、苦労してはいます。
この時点で『生きない方が良いです』と医師に言われるレベル。苦労し過ぎると、生きるのが
間違いという生涯になります。だから、他人に何されようが、怒るなどありません。我が侭を
いくらしようが許されます。まともな人には。
なので『同情嫌悪感』は半端ない時期は確実にあるのですが、それすらも消えてしまいます。
闇などは、純粋という苦痛に比べれば、綺麗な世界を苦しみで見れる、単なる祭でしょう(笑)
とまあ、これらは『究極の純粋』という全貌。無欲レベルに着目すれば、才能が乏しいという愚痴で、内面を侵食された人と見透かせます♭
苦労を除けば、確実に完璧レベルの無能ッス。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡DATE: 01/11/2010 09:06:02
> 謙虚なコメントをされています
謙虚なコメントしていません。これはそういう『雰囲気』のが、伝わるのを理解した上で勝手になってもいます。
傲慢/謙虚は本来、存在しない概念♭
2010/01/13
;久しぶりにじっくり、分かりやすい文章を書くことができた。:
;単純なことなのだが、即ち、自己語りすることによって自信のなさを示すのならば、その行為を辞めようとする人が、ならその行為を辞めたとして自信のなさが解消されるのか――もちろんされない。ただ重要なことは、その自信のなさが、少なくとも他者には伝わらなくなることである。
であれば、敢えて自己卑下することの意味は、それほど多くは無い。それどころか単純に、自分を低く見てもらいたいのである。
;
それには、おそらく、私のパーソナリティが関係していることだろう。
私の本質は傲慢であるといえる。同時に、その傲慢さを悉く嫌う完璧主義者。
この相反する自己が織り成しているのが私であり、私の書く文章はすべて真実であれど、それは矛盾し相容れないものなのである。
;
それを「概念ない」という言葉で表すことは可能だが、正確ではない。また、「否定(に価値を見出し続ける)」という表現もまた適切ではない。だがどちらも近似ではある。
;
否定されるのは、世界のものではなく、自己なのである。
ここで表現上仮定すべきは、傲慢なAと、完ぺき主義者のB、そして両者に否定される役割を担うCなのである。
;
痛みに代表される感覚、突発的な情動、そして過去が生み出す感情は、確かに身体という一つの器にまとめられてはいるが、それに指令を出す中心は、いつも戦争状態なのである。
;
しかしながら、その戦争が、肝心なことを今まで覆い隠していたのである。言うまでもない、Cの存在である。
直接的戦争を行うのはAとBであるが、彼らは、何故自分たちが戦っているのかを理解していなかったのだ。
そして気付いた。お互い、方法は違えども、Cを否定しようとする動きは同じだったのだ。
;
それでは、今まで陰にずっと隠れてきたCとはいかなる存在なのか。終わりなき螺旋を、上か下かも分からずに、ただ感覚だけで進む――否! それが前かも分からない。だがとどまることはできない、何故ならば、その本質は、動的だからである。
;
;
2010/01/15
おそらく、言葉として表現することは不可能な領域、しかし、記憶の可能性にかけて、メモしてみようと思うのです。:
身体という不可能性、有限性、限界性に気付くことができない頭の良い人間は、確かに価値を構築する天才である。
上記に気付いた者は、自己を客観視することができるようになる。これが俗に言う大人になるということである。
大人は物凄く狭視野の努力家であるけれども、思春期の青年の狭い視野とは次元が異なる。
大人の狭視野は、限界性に裏付けられているために、より純粋で、気持ちの悪いものである。
気持ちの悪い世界に身を入れることができなければ、自らが穢れていくことに耐え切れず苦悩となる。
;
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡
DATE: 01/16/2010 07:09:51
気持ち悪い純粋さとは、流れ過ぎるように現世の大人感が伝わる、落ち着いた表現♭
壊れる先に、何があるのかは、誰も教えることはできず、社会の厳しさと当て込みも
しましたが、実際は、こういう狭窄などのとても個人的な苦行でしかないですよネ。
そんな社会の厳しさと還元した狭窄然り、自分の順応を高め続けて壊れそうになると
いう寒気が、人の有限性を、純粋に過剰なほど知り知らされて、後戻りできない道。
2010/01/17
なるほど、擬似人格の構築を速やかに行うというタスクであったが、中々、過去の記事の中にエッセンスが詰まっている。この必要な情報を使わないのはもったいないどころか愚かである。完璧に、現時点において、その中から利用可能なものが判断できる。もっと過去に戻ることも可能だが、なるほど、「革命」と一言で済ませてしまっていたが、十分な研究対象になっていることが分かった。まずは、時間意識をもう一度、しっかりと意識しなおす、再構築である。
……かなり厳しいことは承知している。本作戦が今回の行動の原因となっている以上、私一人での行動ではない、この、単独者足り得ない自分の愚かさに頭を抱える以外にない……逆に、ここでの行動が、自らを破壊する行動にしか感じられない。
;
早いところ、擬似人格を構築する必要がある。が、取り敢えず、過去記事を少し読んだだけで十分である。
2010/01/20
赤木智弘氏といえば、「希望は戦争」の有名な方です。若者を見殺しにする国 私を戦争に向かわせるものは何か
上記には、前々から注目していたのですが、結局買わずにいました。そしてたまたま今日リンクをたどってみて、レビューの多さに喜びました。
レビューとは、基本的に批判者や、可能であれば荒らしが出現するくらいがちょうどいい。
批判者が、冷静な分析をしているつもりながら、感情的になっているのなど素晴らしい。
2010/01/29
わたしの長所は、生きることを望まないことである。:
もちろん、ここでの「生」は、概念上の話である。
本能的規定による生存欲求はこの際考えない。何故ならば、その規定に抗えることはないからである。
卑怯なほど強力な武器は、「死」の概念である。
もしくは、無というものを想定すれば、恐ろしいものなど自己の存在だけであることを知るに至る。
;
さて、放逐された自分がどこに行くのか、わたしは実感と感覚をもって涙を流すことになる。
わたしは、わたしとしての自己がもはや何にも依拠しないことに愕然とする。
暴走する自己を遠くで見つめながら、ただただ涙ぐむだけである。
;
わたしは、わたしのことは好きであるが、わたしのことは許しがたく憎んでいる。
ただ内的なわたしのみが、わたしの中で認められる存在であって、暴走したわたしのことは、もはや切り離したく憎み続けるのである。
;
禁欲という概念、それは結局のところ、欲望に負けていることに気付かなければならない。
例えば、わたしにとっては、書きたくて書きたくて仕方がないときに、敢えて書かずと規定し、その上で書くのである。
本来的自己ではない、途方もなく愚貪な自己を、殴りつけたい衝動のもと平伏すのである。
;
憎しみの三重奏は高らかに奏でられ、満身創痍の身体をして、ただ真実という幻想に声を重ねて歌うのである。
死や無は現実逃避に他ならないが、その逃避によって生じた一切を笑いによって肯定する。
;
;
詩には程遠いですね。
目的としては、感情の生起なのですが、この程度では何ら意味はありません。
本来的に文章は、感覚的に訴えるもの、であるとするなら、喜怒哀楽の何かを生じさせなければならなくなりますが、この文章に感情は一切こもっていない、ただ、感情のない文章こそ、その無機質さに涙がこぼれることは往々にしてあることでしょう。
;
表面的な批判については、全く意味がありません。唯一、こちら側で意図を組み立てると、逆にすばらしい意味を持ち始めますが、自己の延長に過ぎないこの他者理解を続けることはありません。
崩壊させるのなら崩壊させてもらいたい、しかし、中途半端な行為にこちらも本気で付き合うほど暇ではないのです。
主観的真実の追究を辞めた者に興味をもてません。いえ、そこら中にいらっしゃるため、必要性を全く感じません。
こちら側で有意味化するのは非常に容易い……。
ただ、それであれば、内省的な言葉に耳を傾けるのとなんら変わりはないのです。
見えていないものを恐れることについて2010/02/28
タイトルについて説明すれば、見えていないものという想定は、見えないものではなく、主観的な意味が込められているということです。もう一つ大事なことは、存在そのものを肯定している、ということです。
先日の幸福論は、完璧なものです。しかし、その頑強さは、信仰に由来していることに留意しなければなりません。
それは、キリスト教やイスラム教的な神を求めることと、違いはほとんどないでしょう。
しかしながら、神という表現は不適切です。神は、存在を必ず示してしまいます。
そうではなくて、存在を否定し続けることでしか自己を記述できないような存在、それは、どこまでいっても、物理的なモノとして表現されえるものではなく、ただ、その記述の継続性でのみ意識化できるのです。
:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡
DATE: 03/03/2010 02:49:09
これがまるっきり何を言わんとしているかが二読しても分からず、バックナンバ-をチラ読みすると、以前よりは鮮明に理解したが、ただ、鮮明だろうが理解にズレがないと確認しただけ。結局、この内容が何のこっちゃが、輪郭すらも見えない、といったとこです。
COMMENT:
AUTHOR: ≡ ゜∀゜ ≡
DATE: 03/05/2010 04:21:31
> 私も分かりませんでした
じゃあ、あっしみたいなドザエモンには、分かりやしやせんぜ?遠藤四眼で見えない世界は、あっしに見える範疇ではな-い♭ というより、これ、意味不明だってば(笑) アハハハッ!それよりも、コメントレスが更にハ-ドですよ。本文よりも複雑思考がより、その複雑さを増しているのに、結論だけ見ると『もはや汲み取れません』(泣) どんなエラ-ですか(笑)不思議な人だな-
2010/07/29
手首をナイフで切りつけてみて、「ああ、痛い」と思ったとき、その痛みに意味づけをし、その意味付けに意味がないという判断を下し、ただ流れる血を眺めつつ、よし、やる気が出てきたと勉学に励み、大学に合格し、友人や彼女に恵まれ、楽しい生活をしている――、しかしそのどこかに手首の痛みが残っており、その痛みを想起する事象に遭遇したとき、「俺の原点は、やはりそこなのか」と絶望に浸りながら、その解釈に発展性も将来性もないと思いながら、――その「ながら」という言葉で表現される「痛み」、その痛みに言及できるのは、もはや、この一連の流れを体感した人物一人だけなのです。前の記事で、「自我」について書いたため、それにまつわる話です。
引用は、「自我の崩壊」に対しての、有効な手段の一つに思われます。
端的に言ってしまえば、この引用で述べられているのは、「自分は自分だ」という感覚になります。
「楽しく過ごしている」という比喩が、アンチATフィールド状態、つまり、他者との境界がなくなっている状況だと言えます。
しかしながら、心の奥底に刻まれた、「自分」という古傷、それが、ふとした瞬間に蘇ってきます。
そのときの痛みは、「楽しく過ごしている」時間が長ければ長いほどつらいものになります。
しかし、その痛みこそが、「自分は自分でしかないのだ」という、強力な自己意識、つまりATフィールド全開! なのです。
2010/08/05
短期間で結構多くの記事を書いてきたと思っていたけれども、所詮は100にも満たない数。今、記事ひとつひとつの質というのは、全く考慮していなくて、取り敢えず記事の数が重要だと考えている。
まずは、継続することが第一で、その次に量。量があってこそ、ある程度の質も確保されるという考えだ。
実は、このように、何かを紹介する、というスタンス抜きに、ただ思いついたことを書くだけであれば、「いくらでも書ける」と思っています。
しかし、なんでも構わないから、何かに引っ掛けて書く、そうすると、ただ純粋に記事の数を増やそうと思っても、中々進まないという感想です。
まず、自分を「凡人」と深く自覚するなら、「アイディア」や「思いつき」といったものには、一切頼れない、そう感じるべきです。
「世界には、同時に同じことを考えている人が3人いる」
という言葉を耳にしたことがありますが、まぁ、世界中に人は65億人くらいいるのだから、そんなもんでしょう。
(気になって、世界の人口で調べてみたら、下記のサイトが面白かった。リアルタイムで世界の人口をカウントしています)
「世界の人口」
:
そういえば、村上春樹の小説の中で、35歳を折り返し地点だと設定して生きる主人公がいるそうです。
35歳が折り返しだとすると、70歳で死ぬということですね。
面白い試みだと思ったわけです。
70歳という理由は、日本男性の平均寿命くらいだからでしょうか。
まぁ、平々凡々に生きるとすれば、70歳ぐらいまでは生きられるかもしれません。
そうすると、私も折り返し地点まで10年くらいとなりますので、――ので、なんでしょうかね。
今、こうしてダラダラと書いていて、「思索」カテゴリについて、過去、現在、未来の時間軸に分けてみたらどうかと思いました。
今回の記事は、ブログの方向性を考えるものなので、ちょうどいいですね。
例えば、今書いているのは、どちらかというと現在より。
現在を起点として、どちらかといえば未来について書いている。
現在を起点として、過去について書く場合もあるでしょう。
過去、といっても、昨日のことを書けば、それはもう過去なわけです。
私がここで「現在」というのは、まさに、今、この瞬間に考えている、リアルタイムな思考の反映をさします。
思考といっていいのかも分からない、思いつきレベルのものです。考えず、脊髄反射的に書くようなものです。
未来とは、目標ともいえます。明日○○しよう、というのは、目標です。
また、目的、「何故生きるのか」を考えるのも、未来についてといえるでしょう。
とまぁ、このような試みを考えたのですが、こういったカテゴリの細分化は、整理といった面では有効ですが、「書きづらくなる」「カテゴリ分けが面倒」といったデメリットもあります。
取り敢えず今回は、そうした方法もあるということを提示するだけでやめておきましょう。
補足:日本男性の平均寿命ですが、上記「世界の人口」のサイトでみましたら、「●厚労省によると、08年日本女性の平均寿命86.05歳、男性79.29歳」とのことでした。
そしたら、40歳が折り返し地点なのかなー。
2010/08/05
http://anond.hatelabo.jp/20070505034227■誰が、捕食者なのか。狩られているのは、誰か。
実際に女のナニに喰われてるのは、男のナニなんだよね。
なのに、男はそれを自分が捕食者のように考えて一人で興奮している。
逆なのにね。ああ、もしかしたら、食虫植物に喰われる虫って、そんな感じかも。
「ここは僕だけがみつけた未踏の花園。蜜吸い放題だ。わぁ」
そう思いながら死んでいってるのかも。とても幸福に。
働いている人間がえらいなんて、男の幻想だよね。
家の社長は奥さんで、旦那なんて平社員だものw
家の王は奥さんで、旦那なんて兵隊だものw
食わせてやってる?働かせていただいてるんでしょう?w
http://anond.hatelabo.jp/20070505031435
2010/11/14
気付いたら、本心・本音・「本当の自分」なんてものを失っていた。多元解釈の呪い、それは、既に自分自身にも及んでしまったのだった。
彼は、彼という存在を信じられない。
感情――それが、効率よく他者と協力するための機能であることを知ったとき、彼は、その機能の欠陥を思った。
しかしながら、彼に対して、強烈な楔を打ち込むことも可能である。
貴方の考える理解というものは、貴方の幻想に過ぎないのですよ、と。
彼の狂気に満ちたその言動は、彼の目に映る魑魅魍魎がゆえに。
しかしそれは、誰の目にも映ることはありえないのである。
彼は、呪われた自分を呪った。
しかしその時彼は、まだ本心というものをもっていた。
彼が、自己を失ってしまったのは、自己を縛る呪いすら相対化してしまったからだ。
ここで彼は、劇的に変化を遂げる。
彼の世界には、主観も、客観も生じなくなる。
ただ、その時、そのものすべてが世界なのであって、即ちそれが自分自身なのである。
世界は傍若無人な絶対者から転じ彼自身になった――否、彼が、世界の一部に溶け込んだのか。
解説
「胸毛すっきりしたい!」
彼は思い立った。
果たして、胸毛をすっきりさせて、自信をもって女の子に告白をする。女の子は、二つ返事で喜んでくれた。自分も、天にものぼる幸せをかみ締める。
しかし同時に彼を襲う思考がある。
(俺は、胸毛をすっきりさせて彼女をGETできた。しかし、本当の俺は、胸毛がボーボーだ。俺の彼女は、「俺自身」を好きになったのではない……)
彼は、我慢ならず、胸毛を元に戻した。否、前にもましてひどいボーボーである。即ち彼は、最低の行為をしたのだ。彼女を、試したのだった。
しかし彼女の反応は、驚くべきものであった。
「ケイくん、そんなこと気にしてたんだ。バカだねー。わたし、毛、こゆい人、好きだよ」
口元に手を当てて上品に、などということは全くなくて、彼女は、本当にふきだしていた。
その、女性としては少しはしたない姿を見て、彼は安心したのだった。
ところが、既に、彼は手遅れだったのである。
彼は、彼女を、胸毛ボーボーの自分でも愛してくれる存在、としてしか思えなくなったのである。即ちこういうことだ。彼は、変化する自分自身に気付いてしまったのだ。同時に彼は、自分の多面性にも気付いてしまう。
あろうことか、ついに彼は、彼女すら疑ってしまう。
心を穏やかにしてくれる彼女の笑顔。――それが、張り付いた冷酷な嘲笑である可能性を、彼は否定できなくなった。
彼女といくら身体を重ねあっても、いくら千の愛の言葉を交わそうとも、彼は彼女を――否、流転する自己そのものを、到底に信じられなくなったのであった。
本文は、その後のお話です。誰の? ケイくんの、です。
2010/11/15
真に愛している者は、愛について語らない。ある愛している男がいる。彼は自らの彼女に、自分は如何に貴方を愛しているのかと雄弁に語るのである。
彼女はそれを聞き、夢見心地にうっとりとその言葉の流れに身を任せるだろう。
その当人たちを包む愛という形は、見まごうことない真実の愛である。
だがしかしながら、一つ間を置いてそれを見る者の目には、欺瞞しか写らない。
愛は、語るものなどではなく、現にそこにあるものだからだ。
愛に説明など必要ない。愛は、愛であるがゆえに、愛であるのだ。
実のところ、愛を熱烈に語る者は、その者自身、愛していないのである。
敬虔なキリスト者は、神の存在を疑わない。
ある牧師が神について何らかの証明をしようとしたとき、牧師の信仰は欺瞞に包まれる。
即ち、真実はそこにただあるがゆえに真実なのであって、真実を認識しようとした瞬間に、真実は消えてなくなるのである。
呪われたものは、真実の消えた虚無の世界に貶められる。
デーモンの仕業か、否、信仰をなくした哀れなるものへの神の怒りか。
2010/11/29
アンドロイドはギリシャ語で「男性もどき」、女性型のヒューマノイド(人造人間)は、ガイノイドと呼ばれるらしい。攻殻機動隊は、サイボーグ技術やAI技術が発展した未来を舞台にした作品だが、その中でたびたび、人間とロボット(アンドロイド)の境界のようなものが述べられる。
漫画やアニメの世界だけのことのようだが、下記の動画をみて、人間の欲求の生み出す技術というものに正直驚いた。
http://nicovip2ch.blog44.fc2.com/blog-entry-1956.html
と同時に、
やっぱりすごいぜ日本人!!(笑)
2010/11/30
他部署の上司の住まいが絶好のスカイツリースポットらしい☆うなぎご馳走するから遊びにおいでってお誘い頂いた♪
2010/12/01
僕は強がりじゃなくて、一人でいることも好きだ。けれど、二人じゃなきゃ楽しめないことってのも、あるって思った。
だから、僕は幸せだと思う。
2010/12/03
朝の時間に大雨で、靴の中までぐしょぐしょになった。新聞紙を靴の中に入れるといいよとのことでそうした。あったまるよとコーヒーもくれた。
人の優しさに嬉しく思った。
顔を整形すると、心を病みやすいらしい。
2010/12/04
10年ぶりくらいに見たけど面白かった。モーラがかわいくて、ファルコンがかっこよかった。
2010/12/05
店頭で身体の動きに反応して動くゲームのデモンストレーションをしていたけど、その精度に確かに驚いた。あとダイヤブロックが結構おいてある店で嬉しかった。
2010/12/08
最近朝が寒くて起きられない。ギリギリの時間まで布団の中にいてしまう。
眠くたっていいじゃない 人間だもの
なんて言っている場合じゃない。
そもそも、寒いというだけが原因じゃないはずだ。
前日、ちゃんと早く布団についているか。
深い眠りをとっているか。
――しかしながら、早く寝れば早く起きられるというのは、間違いではないが、劇的な効果をもつものではない。
むしろ、次の日に重大なイベントや、するべきことがあるといった時の方が、起床はスムーズだ。
それを応用して、欲コントロールというのがある。
ここでいう欲とは食欲だ。
つまり、お腹をすかしていた方が目覚めはよいのだ。
すぐさま言っておきたいのは、あまりに腹ペコだと、逆に眠りにつくのが妨げられてしまうけれど……。
ということで、今日は、先日ラーメンの具財にした人参玉ねぎの残りを、めんつゆを絡ませて煮込み、少量のパスタと合わせて食した。
味が若干薄かったので、塩と味の素を加えると、期待していた以上に美味しかった。
2010/12/09
この前韓国でセンター試験が云々――みたいなことをニュースでやっていた。12月、受験シーズンだなぁ、ということで、センター試験国語の過去問、現代文を解いてみた。
15分くらい考えて、全問正解とはいかなかった。残念。……漢字分からない(涙)
松屋のビビン丼おいしい。
岩井克人 ヴェニスの商人 lain 面白そう。
2010/12/10
終電逃した…2010/12/11
質問されて上手く対処できると楽しい感謝されたら嬉しい
そんな気持ちにふりまわされるとみえに踊らされよくない
今日ゲーセンによってみた
なんなアーケードゲーム(格闘シューティング?みたことないけど斬新そうだった)の大会がひらかれてた
みんな楽しそうで、幸せな気持ちになった。
2010/12/14
やっていけないこと、悪いことはあると思う。;だが、思ってよいこと、悪いことはあるだろうか。;
思想信条の自由とは、複雑なことではなく、政治が、個人の思考に介入しないという原理原則だ。;
「善いこと」は、あるとして構わないだろう。;
だが、その「善いこと」の判断、そして「強制」をしてしまう国は、独裁国家にしかならない。宗教国家も、一党独裁も、その構造上同じようなものだ。;
だが、東京メトロの啓発ポスターは、なかなか気に入っている。;
http://
とても興味深い記事を書いている人がいましたので、引用させて頂きます。
完全な相互理解が不可能であれば、言葉の上では誰も信じることなんでできません。
すべての存在は孤独だ、なんて言い方はその良い例かもしれません。
とは言え、人間は今や誰かとの関わりを絶つような生活は困難を極めます。直接的にも間接的にも100%全く誰にも関わらない生活なんてのは有り得ないと言ってもいいぐらいだと思っています。強いて言えば、野生に帰るとか、そんなレベルかな。
つまり、相手を疑い出せば、どこまでも疑うことができてしまう。すべての言葉や行動に、裏があると考えることができてしまう。際限なく、相手の行動や言葉を否定することができてしまう。
そんなことでは当然、人を信じるなんてできやしません。
だから、誰しもどこかで思考を中断し、良し悪しを別に言い方を変えれば「妥協」して相手を信用しています。
それは裏を返せば、誰もが他者を本当は信じていない、とも言えます。
この理屈でいけば、この理屈自体を覆すことも困難です。
では、何をして相手を信じるか。いかに妥協するか。
同じ趣味趣向や気の合う性格の持ち主、一緒に遊んだり過ごしたりして楽しい、心地いいと思える相手なら信用しますか?
否定的な言い方をすれば、それも利害の一致だと言うことができます。
疑い出せば、キリがありません。
そして、堂々巡りになります。
何をもって相手を信じるのか、理屈だけを求めても、答えはないように思います。
相手を認めるとは、あるがままを受け入れることだと思っています。
即ち、あるがままを認めることが「信じる」に繋がることだと思うんです。
騙されるかもしれないとか、利用されるかもしれないとか、警戒して疑うだけでは誰も信じられない。
悪意に騙されてもいいとは思いません。そういう意味では、警戒も必要ではあると思います。ただ、悪意の存在を疑ってしまえば、そのループからはまた抜け出せなくなってしまう。
人を信じるために必要なのは、きっと、信じようとする思いなんだと思います。
理屈で答えを求めることができないのなら、理屈でないところにあるものを答えとするしかない。
相手の好き嫌いに関わらず、言葉や行動に堂々巡りになるような根本での疑いを持たない。
信じようと思う。
それが大切で、そこから始まるんじゃないかと思うんです。
私は人という存在を信じたい。
――「信じるためには」
いまのわたしには、明らかにしたいことがあります。
それを表現するために、小説はひとつの手段だと思ったのです。
しかしながら、小説に大切なことは、「共感」です。わたしはそれを求めてはいません。ということは、小説という手段に興味が失われる原因となります。
ところで、わたしには、明らかにしたいことがあるのですが、それが何なのか分からないのです。
分からないがゆえに、小説という「仮定」を用いて、実験してみようという試みであります。
