たすけて
重い鬱を患ったものに言われていた。
だけれども、わたしは、それでも生きて下さい、といえるほどに、世界を善いものとは思っていなかった。
むしろ思うのは憎しみであり、復讐のために生きているようなものであった。
あぁ…それにしても、楽しそうに見える人が、一般人が知らないほどに暗黒に墜ちているとしたら!
嬉しそうな明るいメール!その裏で、声もあげずに泣いていたとしたら!
苦しみをもたない人など人かどうかも疑問だ。
幸せは罪悪なのだと苦しむ人々…!
それにもかかわらずポジティブを喧伝する社会、精神病を治そうとする医者、薬で気持ちを保とうとする人々…
絶望せよ
だけれども、誰も苦痛など望まない。
醜い世界である。
復讐せよ
そして幸せを享受した人々は、永遠に凋落を恐怖し続けるのだ。
どちらを選ぼうが自由な、その自由さが日本の優れたところだ、一億総精神病社会の優れたところだ、勘違いしてはいけない、これは皮肉ではない。
みたまえ、ゴミのように使い捨てられる人々を。
無意味な紛争で、無意味に死んでいく人々を。
死ぬ権利さえない人々を。
つまりわたしたちは幸せだ、そして多数の被救済者を見捨て続け、欺瞞と自己満足で生き続ける。
そして気付く。
選ぶ権利も意志もないことに。
重い鬱を患ったものに言われていた。
だけれども、わたしは、それでも生きて下さい、といえるほどに、世界を善いものとは思っていなかった。
むしろ思うのは憎しみであり、復讐のために生きているようなものであった。
あぁ…それにしても、楽しそうに見える人が、一般人が知らないほどに暗黒に墜ちているとしたら!
嬉しそうな明るいメール!その裏で、声もあげずに泣いていたとしたら!
苦しみをもたない人など人かどうかも疑問だ。
幸せは罪悪なのだと苦しむ人々…!
それにもかかわらずポジティブを喧伝する社会、精神病を治そうとする医者、薬で気持ちを保とうとする人々…
絶望せよ
だけれども、誰も苦痛など望まない。
醜い世界である。
復讐せよ
そして幸せを享受した人々は、永遠に凋落を恐怖し続けるのだ。
どちらを選ぼうが自由な、その自由さが日本の優れたところだ、一億総精神病社会の優れたところだ、勘違いしてはいけない、これは皮肉ではない。
みたまえ、ゴミのように使い捨てられる人々を。
無意味な紛争で、無意味に死んでいく人々を。
死ぬ権利さえない人々を。
つまりわたしたちは幸せだ、そして多数の被救済者を見捨て続け、欺瞞と自己満足で生き続ける。
そして気付く。
選ぶ権利も意志もないことに。
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僕がいらいらするというのはありません、であれば一連の愚痴とは一体なんなのでしょう。
それはトレースです。感情の共有です、つまり、あるコミュニティーにおいての平均の感情をとるというわけです。
否、これは私に特別なことではなく、多くのコミュニティーや人々にいえることです。何故なら人には、ミラーニューロンというものをもっているからです、まぁ理由はともかく(笑)。
例外はもちろん身体性です。デカルトのように身体と精神が二分されるという考えは分かりやすいですが、痛みの中でなお思考に身を任せられる人は英雄レベルとなります。
ですから、その差し引きを考えて、ある程度平均を目指していれば多くの問題は回避されます。
それを意図的にするかどうか、これがコミュニケーション能力の一要素となります。
君はさもコミュニケーションに長けているのだね!
このアイロニーには苦笑いです。
能力や才能、先天性の問題も、当然例外として考えるべきとなります。
身体性と上記要素を抜けば、残るものなど何もないとの直感は正しいでしょう。
つまり結局、つらいことに、煎じ詰めると何も残らないのです。
この意味においてのみ、私は一貫した自己というものを信じられます。
矛盾としか思われないでしょう、詭弁だとの鋭い指摘が飛びますが、この「正しさ」は、もはや完結して主張できないのです。
それはトレースです。感情の共有です、つまり、あるコミュニティーにおいての平均の感情をとるというわけです。
否、これは私に特別なことではなく、多くのコミュニティーや人々にいえることです。何故なら人には、ミラーニューロンというものをもっているからです、まぁ理由はともかく(笑)。
例外はもちろん身体性です。デカルトのように身体と精神が二分されるという考えは分かりやすいですが、痛みの中でなお思考に身を任せられる人は英雄レベルとなります。
ですから、その差し引きを考えて、ある程度平均を目指していれば多くの問題は回避されます。
それを意図的にするかどうか、これがコミュニケーション能力の一要素となります。
君はさもコミュニケーションに長けているのだね!
このアイロニーには苦笑いです。
能力や才能、先天性の問題も、当然例外として考えるべきとなります。
身体性と上記要素を抜けば、残るものなど何もないとの直感は正しいでしょう。
つまり結局、つらいことに、煎じ詰めると何も残らないのです。
この意味においてのみ、私は一貫した自己というものを信じられます。
矛盾としか思われないでしょう、詭弁だとの鋭い指摘が飛びますが、この「正しさ」は、もはや完結して主張できないのです。
毎日22時近くまでサービス残業し、もう帰るのかと言われると大変であるが、家が隣であれば大したことないだろう。
一時間の片道は思考整理にあてられるが、食事はとりたいところだ。
不愉快なのは能力のなさであり、その問題がすべての行動を制限する。時期的なものもあり、ここで相当ハードと言いたいが、新規事業や転職をしたとすればこの程度だろう。陰湿なイジメがないのでとても幸せである。
というのが先日述べた比較思考であるが、これは単に不快感情を増幅するだけであるが、まさにそれこそが目的であったりする。
中途半端な不快ならば変換処理するし、それで処理オチするならば、最大限増幅するだけだ。
イライラはピークに、それは増幅過程であれば、他者に感じ取られる。ピークまで一気にかけのぼらせるのが肝要だ。
その際取り返しのつかない、自殺や暴行…否、自傷も含めた損害は中途半端であるので、やるとしたら自らの息の根を完全に止める必要がある。
この目標提示により、現状がまだ余裕であると判断できる。
思うに、エジプトで死んだ民衆よりは余裕である。
結局のところ、努力は結果でしか判断のされようがない。
通常思考の中で、人は自分が絶対と認識する。ゆえに比較思考が重要なのだ。
風邪をひいたのに頑張った、それはむしろ風邪をひいたミスが問題視されるだけである。
癌にでもならなければ心配はされない。それに癌も治る医療技術のおかげで大したことがない。
繰り返すが努力に意味はない。自分で頑張ったと思ったならば末期である。確実に明るさを失っていく。
明るくあるならば絶対に努力してはならない。
頑張ることが目的なのか考えてみればよい。自傷して悦に入るオナニー猿に過ぎない。
努力した成果と、楽した成果を比較したとき、努力した成果を認めたがるのが人である。私もそうするだろう、ところが、その苦楽の評価を誰がするのかが問題なのである。
そういうわけで、電車で座るようになった自分にがっかりするだけなのだ。
一時間の片道は思考整理にあてられるが、食事はとりたいところだ。
不愉快なのは能力のなさであり、その問題がすべての行動を制限する。時期的なものもあり、ここで相当ハードと言いたいが、新規事業や転職をしたとすればこの程度だろう。陰湿なイジメがないのでとても幸せである。
というのが先日述べた比較思考であるが、これは単に不快感情を増幅するだけであるが、まさにそれこそが目的であったりする。
中途半端な不快ならば変換処理するし、それで処理オチするならば、最大限増幅するだけだ。
イライラはピークに、それは増幅過程であれば、他者に感じ取られる。ピークまで一気にかけのぼらせるのが肝要だ。
その際取り返しのつかない、自殺や暴行…否、自傷も含めた損害は中途半端であるので、やるとしたら自らの息の根を完全に止める必要がある。
この目標提示により、現状がまだ余裕であると判断できる。
思うに、エジプトで死んだ民衆よりは余裕である。
結局のところ、努力は結果でしか判断のされようがない。
通常思考の中で、人は自分が絶対と認識する。ゆえに比較思考が重要なのだ。
風邪をひいたのに頑張った、それはむしろ風邪をひいたミスが問題視されるだけである。
癌にでもならなければ心配はされない。それに癌も治る医療技術のおかげで大したことがない。
繰り返すが努力に意味はない。自分で頑張ったと思ったならば末期である。確実に明るさを失っていく。
明るくあるならば絶対に努力してはならない。
頑張ることが目的なのか考えてみればよい。自傷して悦に入るオナニー猿に過ぎない。
努力した成果と、楽した成果を比較したとき、努力した成果を認めたがるのが人である。私もそうするだろう、ところが、その苦楽の評価を誰がするのかが問題なのである。
そういうわけで、電車で座るようになった自分にがっかりするだけなのだ。
実際に起こってほしくないことは望まない。
しかし結局、一般的な破滅に陥るのは珍しくない。ポジティブシンキングが上手くいかないのは、そのテクニックの表層をなぞるからだ。
例えば恋愛のテクニック。飲み会で何も言わずレモンを唐揚げにかける女はダメだとか、遠慮ぎみに服をつかむとキュンとくるとか、挙げればきりがない。
基本的にそういったテクニックは間違ってない場合が多いが、用いた人のたいはんは失敗する。
これは実は矛盾などではない。
テクニックを、その骨子を知らず用いるのが生兵法なのだ。
モテテクから優しくしたり、笑顔を向けられても嬉しくないどころか、不信ばかりつもるだろう。
しかしながら、結局、骨子とは人間性である。
今のは単なる例だけれど、ポジティブシンキングも同じである。
つまり煎じ詰めると、モテることや、明るくなることなど、「不可能」なのだ。
一般人の怖さについて述べたことがあるが、人の「自然さ」を感じ取る能力は凄まじい(もっとも表現できるわけではない)。
これは他者にだけではない。
「自分」に対しても、だ。
つまり、自分を騙すことはできないが、自分を騙していることに徹底して自覚的であれば、それは自然的である。
騙すなど卑屈な言葉でなく肯定的な言葉を用いたとしても同様である。
ようやく比較思考の話しに入れる。
板挟みは、立場上で発生するのがたいていだが、身近なレベルでも実は発生している。
仲良し3人組!から既に発生は見て取れるが、これはやや難しい。
だが、存在認識を一度してしまえばあとは容易だ。
否、問題なのは、その調整である。
大好きな2人が実は仲が悪かったら?
陰で悪口を言っていたら…。珍しいことではない。
あなたは、どちらの味方をするか迫られるかもしれない。
戦国時代であればその選択が人生どころか命の存否を決める。戦国時代じゃなくとも、競争が激しい会社の出世争いでも同様だろう。
さぁどうする?
ここでようやく「自己」が必要になる。
逆にいえば、それまで自己などくだらないどころか邪魔である。
いやいや!
そんな邪険にし続けた自己が、今更役に立つのか?
途中
しかし結局、一般的な破滅に陥るのは珍しくない。ポジティブシンキングが上手くいかないのは、そのテクニックの表層をなぞるからだ。
例えば恋愛のテクニック。飲み会で何も言わずレモンを唐揚げにかける女はダメだとか、遠慮ぎみに服をつかむとキュンとくるとか、挙げればきりがない。
基本的にそういったテクニックは間違ってない場合が多いが、用いた人のたいはんは失敗する。
これは実は矛盾などではない。
テクニックを、その骨子を知らず用いるのが生兵法なのだ。
モテテクから優しくしたり、笑顔を向けられても嬉しくないどころか、不信ばかりつもるだろう。
しかしながら、結局、骨子とは人間性である。
今のは単なる例だけれど、ポジティブシンキングも同じである。
つまり煎じ詰めると、モテることや、明るくなることなど、「不可能」なのだ。
一般人の怖さについて述べたことがあるが、人の「自然さ」を感じ取る能力は凄まじい(もっとも表現できるわけではない)。
これは他者にだけではない。
「自分」に対しても、だ。
つまり、自分を騙すことはできないが、自分を騙していることに徹底して自覚的であれば、それは自然的である。
騙すなど卑屈な言葉でなく肯定的な言葉を用いたとしても同様である。
ようやく比較思考の話しに入れる。
板挟みは、立場上で発生するのがたいていだが、身近なレベルでも実は発生している。
仲良し3人組!から既に発生は見て取れるが、これはやや難しい。
だが、存在認識を一度してしまえばあとは容易だ。
否、問題なのは、その調整である。
大好きな2人が実は仲が悪かったら?
陰で悪口を言っていたら…。珍しいことではない。
あなたは、どちらの味方をするか迫られるかもしれない。
戦国時代であればその選択が人生どころか命の存否を決める。戦国時代じゃなくとも、競争が激しい会社の出世争いでも同様だろう。
さぁどうする?
ここでようやく「自己」が必要になる。
逆にいえば、それまで自己などくだらないどころか邪魔である。
いやいや!
そんな邪険にし続けた自己が、今更役に立つのか?
途中
不愉快になることはよくある。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。
例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。
交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。
んじゃどっちが悪いの? という話。
今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。
けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。
「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?
自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。
もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。
それは仕方が無いだろう。何せ他人で溢れた世界、何が良くて悪いかもよく分からない。
例えば、かなり込み合った駅構内で、右に左によったよた、かたをいからせて歩いている中年男性。
追い越そうとしたとき、僕のかばんがその男性に当たった。
その男性は舌打ち。僕は無視。
交通ルール的には、追越した方が悪いとなりそうですが、蛇行運転している方も危険運転。
ただ、歩行の場合に制限速度は無いし、駅構内に追い越し車線も走行車線もない(当たり前かw)。
ただ、「左側通行にご協力ください」とあるので、僕はちゃんと右から追い越したのだけど。
んじゃどっちが悪いの? という話。
今の例じゃなくても、往々にして、自分が「善」と考えることにおいて、それを破るような人を見かけたり遭遇したとき、さも鬼の首をとったかのように「叩き出す」人が多くいる。
僕も基本的には、その「叩く」人の主張が理解できるし、それが「正しい」だろうと思う。
けれども、顔を真っ赤にして怒っているその人に対して、僕は不愉快だったりするのだ。
「顔を真っ赤に」というのは比喩だけど、結局その人は、「自分の不快感」に対して怒り、他者に攻撃をしているのだ。
だから、丁寧に(もちろん厳しさは問わない)対応しているなら、僕はただ、その主張の「正しさ」だけで考慮するだろう。
「(優しく)言ってもきかない奴がいる!」
それはそうだけど、上記のような場合において、それを判断するのは、一体誰だ?
自分の場合であれば、「舌打ちされた」ことに対して不愉快は30分は続くけれども、ただ、華麗にその中年男性を、アクロバティックに避けられなかった僕自身が悪いと思う。そもそも、僕の歩く速度が普通の人よりも速いというのも問題であったりするかもしれないし。
もちろん、僕としては、例えば、目の前に4~5人の女子高生が並んで、ぺっちゃくちゃ話しながらゆっくりゆっくり歩いている様を想像して欲しい。体当たりしてでも通過したくなる。
けれども、そういう場合は、ちゃんと「すみません(通して頂けますか?)」と言うようにしている。たいていそれで、道をあけてくれるし、いい子だったら、「ごめんなさい」の一言くらいも言ってくれる。
