忍者ブログ
   
創造的な仕事をするのにかかる時間
2013/10/03 23:57 | Comments(0) | イライラ対処
創造的な仕事ができるのは10年、という。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。

拍手[0回]

PR

意味ある日記にするには
2013/03/11 22:41 | Comments(0) | 当ブログについて
自分の考えていることを記載。
事実を記載。
事実を記載(自分以外)〓学習したこと。


CDを聞かなきゃ、というのは、自分の考えていること。何故そう思うのか、説明すれば、それは日記になる。
その感想を書けば、誰かの参考になるかもしれない。


それよりも、6月22日に攻殻機動隊の三期が上映されるという情報を書く方が、情報の価値はある。情報の拡散性もあるだろう。
その情報の取得元も書くとよい。何かあったときに遡れる。情報の信頼性も高まる。


一般人が遡れる情報は、企業の公式発表にとどまるかもしれない。
しかし企業は、様々なプロジェクトのメンバーが、独断か総意か、人間が考えて情報を作っている。



ドラッガーのマネジメントを読めば、中間管理職の仕事とは、情報の分配である。旧来は、組織のトップが、知識の量もトップであった。今、情報社会では、パソコンのエンドユーザーの最新知識は、新入社員の方が上のこともある。


情報は水のようである。高いところから低いところに流れ、溜まる場所がなければ蒸発する。
中間管理職は、水が豊富なところから、不足しているところへ運搬することが重要な仕事なのだ。


よく、上の人に媚びをうる人が出世するという。周りから見ればそうとしか見えない場面があるかもしれないが、情報が豊富ならそれもありだ。もっとも、私利私欲しか考えていない上司は…いや、そんな人はいないと信じるしかないが。


意味ある日記について書くつもりが、意味ある情報についての話しになった。


で、結局は、情報は欲望を満たす手段である。

知りたい、生きたい、仲間になりたい、この3つの欲望を満たす道具である。




お金がすべて、という人は、段々減ってきているはずだ。お金とは、目指すは目的や欲望がはっきりしているときは、必須条件として立ちはだかる。

草食系男子たちは、リアリストでお金を望む。その理由は、目的や欲望がはっきりしていないからである。と同時に、目的や欲望がはっきりしているのだ、「生きたい」と。

女が、セックスがすべてだった時代は、生きることが前提として可能だったからだ。今は、未来が不透明な世である。生きるため、生き残るために必要なのは、とりあえず金だろう、消去法である。


否定できないのはそれが事実であるからだ。そして、生きたいという欲望が強い草食系男子はよい。だが、例えば僕は、長らく、生きることがよく分からなかった。もちろん今も分からないが、守りたい生活や人がいるから、それを拠り所にできる。

ただ、それでもなお、僕が、昔ほどでないにせよ、思考が止まらないのは、内なる欲望が隠れているからに違いない。


きっとそれは、知りたいという欲求なのだと思う。
自分の存在価値、この世の物理法則、社会の仕組み……。


そして、個人として、凡人に理解できる限界を知り、思考の無意味さを感じた。
そして、行動をする、しかし、行動だけではつまらない。その行動は、未来にどれだけ関連があるんだよ、その実感が大切なのだ。




その為に必要な能力は見えてくる。


意味を見いだす能力。

ストーリーをつくる能力。


鍛える能力は、それだ。


いやいや、ブルーカラーにそんなのは必要ないと言われるかもしれない。

しかし、例え僕が肉体労働者になっても、僕の思考は止まらないし、同様な人は多いだろう。


そんなのモテない、って言われるかも。

拍手[0回]


人間不信というよりも組織不信
2012/12/28 00:58 | Comments(0) | 対人関係
セールストークが嫌いだ。


別に数万円が惜しいわけじゃない。ただ、騙されるのが嫌いだ。

他者がよいといっても、自分でよいと思えないものは嫌いだ。


見ず知らずの人間に、自分の考えを変えられるのが嫌いだ。仕事は別だ。


ルールとかマナーは大事だと思う。それがないと、世の中不快なことだらけだと思う。それを性悪説といったりする。性悪説に基づく人間なんて滅びてしまえという人もいた。もっともだ。全員が悪だったり、善だったりするとは思えない。でも悪は必ず存在する。ゼロじゃなければ、やっぱりルールもマナーも重要だ。

いやいやそのルールこそ、人間の善が形になったものだというのも一理ある。そうすれば性善説だ。だから、性善説も性悪説も、どちらも一面的であるというのが正解だ。

哲学というのは、そういう考え方もあるよね、ということに使えるが、結論を出すのには不向きだ。

もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。

仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。
それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。


ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。


僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。

これは、唯物論と言い換えていいと思う。モノの集合の関係性が、世界をつくっているのだという意味である。これは、AとBの間にCというモノを想定するのではない。AとBそのものが、関係性としてある、ということだ。

ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。


ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。




何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。

何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。

しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。

選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。


解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。

拍手[0回]


情報伝達(コミュニケーションとは何か)
2012/11/28 23:23 | Comments(0) | 対人関係
自分で何でも解決しようと思うことがよくない。


でも、そうしたおかげで、幅広く人脈を増やせた。


20代のうちは、がむしゃらでもいいかもしれない。しかし、30代40代を考えられないと、驚くほど簡単に、不要な人間になる。


他者の、生きたい、知りたい、仲間になりたいという欲求を、満たせる人間にならないといけない。歳をとるにつれ、欲求をみたす範囲は広がっていかなければ、歳相応とはみられない。


これは不安ベースの思考。歳をとるということは、選択肢が少なくなるということ。大人は、構築した人格が、時代にあわなくなったとしても、変わることができない。もうそのまま。だから、若い世代に老害と呼ばれたりもする。

でも、その若い世代も、大多数は要らない人間になる。せいぜい、家族からは稼ぎ手としての意味は与えられるかもしれない。
そんな家族からも、金だけおいていけ、といわれる始末だ。


これは特殊な例ではない。ただ、人間の言語は、高度に、他者に行動を喚起させることができる。
建て前と本音があるといわれる。そうではない。他者を動かすことができるかどうかの違いである。


言語という手段を失ったとき、残るのは暴力である。


相手に何かして欲しいと思ったとき、方法は、やはり本能に即して3つある。

生きたいという本能を刺激する。すなわち、危機感を与える方法。

知りたいという本能を刺激する。すなわち、好奇心を与える。

仲間になりたいという本能を刺激する。すなわち、感謝の心を伝える。



人それぞれ、どんな欲求を満たしたいか、優先したいかは異なる。仲間になりたいという欲求が強い人には、生きたい欲求とのあわせ技で、仲間でいるには何らかの貢献が必要なことをほのめかすなど。



僕はどうだろう。
知りたいという欲求が強く、後は同じぐらいかもしれない。
しかし、知りたいというのは、貢献心が強いからかもしれないし、仲間外れにされたら生きていけないという不安が強いのかもしれない。


何が一番か決めることに意味はない。

ただ、コミュニケーションとは、他者と自分との欲求をできるだけ満たす営みといってよい。
そしてそれは、ゼロサムゲームではないのだと、信じられるかどうかで、その人の器は決まる。

拍手[0回]


新しいプロジェクト
2012/11/17 16:41 | Comments(0) | ポジティブ思考
来年は、仕事とプライベート、両方で大きな動きがありそうだ。

自分の気持ちは、昔と同じ、何があっても絶対肯定なので、それほどの驚きはなかった。顔にでてたと言われるだろうか。しかし、緊張したときにでる嫌な汗はでなかったし、動悸もなかった。


今唯一肯定できないだろうことは存在するが、それは逆に、潜在意識としても起こらないことを確信している。


突発的なことが嫌いだ。アドリブに弱い。行動より先に思考が発生する。
僕の特性だから、突発的なことが起きたことを常に想定している。もちろん、些末な日常においての想定ができるわけではない。そんな予知ができれば、株や競馬で一儲けできる。

いつも言っているのは、明日死ぬとしたらどうするかだ。杞憂に過ぎない、だから、頭の何パーセントかだけ、常に配置する。




突然といえば、すべては突然。同じ朝がくることはない。何かが違う。ただ、自分の主観により、それをルーチンと見なすだけだ。

整理をしていて、ある新聞記事の切り抜きを見つけた。ある先輩からもらったものだ。今の自分に足りないことが書いてあった。


自分が周囲からどうみられているか、思春期の子どもでなくても気になることだ。
しかし、僕は自分が欠点だらけだと思う。傲慢さや見栄はあれ、底からくる自信などはなかった。だから常に周囲の目をおそれ、「自分らしさ」を如何に抑圧するかに気を使った。
それは、人間関係構築維持に一定の効果があった。それどころか、その維持を続けることで、少しずつ、自分らしさも表出できることが分かった。

例えばこのブログに書かれるようなことは、パスワードをつけた日記帳にひっそりと書かれるだけだった。

学生時代は、アニメを見たことがあるといっただけで、オタク、変人、気持ち悪いと言われた。
僕は、アニメオタクではない。そんなこといったら逆に失礼である。ただ、作品が好きだった。映画、音楽、小説……、何でも好きだった。ただ、勉強やお金や女やテレビ以外に興味をもつことは、変人とされた時代であった。

そういう空気を察知する能力はあったので、なんとか生き延びた。ただ、周囲の人間は、なんとつまらない人間ばかりなのかと、他人への興味は薄れた。


大学で、攻殻をみたことのある友人がいて、そのことを恥ずかしげもなく語る姿に、本当に驚いたものだ。






しかし、新しい環境においては、より深く、昔の自分を、死にたいと夜眠れなかった自分を、よく思い出すべきである。

拍手[0回]



<<前のページ | HOME | 次のページ>>
忍者ブログ[PR]
アクセスランキング