しきりに、人の利己的な面を主張していた。それは間違いではないが、何故そうまで、日記にかくまでして言わなければいけなかったのか。
未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。
しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。日記にたいしてのコメントは、とても正しいのが多い。
今の自分であれば、むしろ他者のコメントに同調する。
しかし、そういった正しいコメントに、興味がないと返信している自分というのは、とても恥ずかしいながら、よく分かる。論理にみえて、感情をぶつけているだけ。それに気付いた人はとても少なかった。
そうとはいえ、3年前の記述で、それを気付いてほしいとは、幼稚すぎる。
世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。
そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。
言葉では、絶対に解決しない。
哲学や思想は、なにも救ってくれない!
運がよかったのだ。
しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。
けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。
ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。
僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。
中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。
空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。
虐殺とか、極端な例をもちだすまでなく、まずは、自分のまわりの環境から考えるしかないのだ。
実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。
そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。
正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。
未熟さ故の誤り、と、経緯を知らなければ思う。今の僕も同じ。
しかし、それは、論理ではなく、苛立ちの感情表現だった。日記にたいしてのコメントは、とても正しいのが多い。
今の自分であれば、むしろ他者のコメントに同調する。
しかし、そういった正しいコメントに、興味がないと返信している自分というのは、とても恥ずかしいながら、よく分かる。論理にみえて、感情をぶつけているだけ。それに気付いた人はとても少なかった。
そうとはいえ、3年前の記述で、それを気付いてほしいとは、幼稚すぎる。
世の中の不条理なところ、それはもはや問題ではなく、いったいどうしたら、自分を表現できるのか、それを考えるべきなのだ。
そして、この気付きは、きっと誰もが当たり前に分かっていることなのだが、それを、分かっていない3年前の自分に分からせるのは、困難だ。
言葉では、絶対に解決しない。
哲学や思想は、なにも救ってくれない!
運がよかったのだ。
しかし、そういう結論にはなりたくないし、それは、これからの糧にはなりそうもない。
けれども、絶対の真理がなくなってしまった以上、なるようになる、こと以上に何もない。
ポジティブ思想とは、失敗したのはたまたまで、成功したのは自分のおかげと考えるものだが、そうじゃない。失敗も成功も、どちらもたまたまだ。
僕がいままで触れてきた思想や考え方で、一貫して矛盾がないのは、空の考え方以外ない。
中学生のときの思想は、人は楽しむために生きるというものだ。これは絶対に正しいと思った。すごい発見だと思った。しかしこの考え方は、自分の生き方にちっともプラスにならなかった。それどころか、それ以降のどつぼへの道を加速させたのかもしれない。
空は、あるがままのこと。それは、現状追認か。現状を認めるのはその通りだが、すべてを自分の責任と受け止めて、主体的に世の中を渡っていく。それは、単なる現状追認ではないと思う。
虐殺とか、極端な例をもちだすまでなく、まずは、自分のまわりの環境から考えるしかないのだ。
実存主義で、世界の真理なんかより、俺自身の問題が重要だ! と言い切った哲学者がいたではないか。
そうなったとき、自分の問題は、自分にしか解決できない。空の思想がいくら正しくても、それを実践するしか、救いの道はない。
正しい考えと、正しい行動こそが、結局のところ、中学生のときの思想を実現する唯一の方法というわけだ。
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言葉は弾丸やミサイルのように、どこかに飛んでいく。
その先で誰かを傷付けたとしても、それは手遅れ。
だから僕は、口をつぐんで、耳の聞こえない人のふりをしよう。
ライ麦畑でつかまえて、のホールデン君は、どうにも思春期をこじらせた大学生だが、人間関係の難しさを感じ、劣等感があるひとは、その気持ちが少し分かるんじゃないかと思う。
結局、妹に救われて終るのだっけ。もう忘れてしまったが、大層感銘を受けたのは覚えている。
じゃあ、それを誰かと共有しようとしたとき、言葉で説明なんかできない、するもんじゃないと思っていた。
ところが、人間なんて、社会でしか生きられない。だから、一人閉じこもって本を読んだところで、何ら解決にもならない。いやもちろん、内面に抱えた極個人的な悩みや劣等感というものを、取り扱う指針はみつかるかもしれない。けれども、それがなにか、お金につながるかといったら糞の役にも立たない。
いやもちろん、生きることを選ぶのであれば、自分自身でそれを選ぶ必要がある。それができないピンチなのであれば、すぐさま治療が必要だ。
そんなとき、本を読んでいれば、少しばかり耐性がついているかもしれない。でもそんなのより、精神科に行って睡眠薬をもらった方が早いのでは?
よく考えろ。
考えることが意味のないことだと僕は結論付けたわけだが、同時にそれを決めたのも考えた上でのことである。
そろそろ、五年前の考えで行くのは厳しくなってきたはずだ。
この先、どう生きるかは、お金を稼ぐ手段を考えることでは、決してない。
しかし、自分には覚悟ができるか。決断とは、何かを捨て去ることである。大事なことのため、何かを犠牲にすることである。
そのとき、自分にとって大事なものが決まってないと、今のように悩み続けることになる。
どうしても分からない。
時折消えてしまいたくなるこの感覚は、死にたいという言葉で代替できないことは既に試している。
例えば、ご恩と奉公の時代、命を賭けて主君に尽くすことが、武士にとってすべてであるとされ、責任をとるために自ら腹を切った。
その感覚、生きざま、それは、相当の覚悟が、日頃からなければなるまい。
ここが自分の死に場所だと、すぐさま決断できる覚悟。ここまでくると、僕だけでなく、現代人のほとんどが持ち合わせていないだろう。
全国で一千万人もいなかった時代で、おそらくそのほとんどが農民であったなか、そうした覚悟をもっていたのは、極わずかだったのかもしれない。
だから、そんな覚悟を、凡人がもつこと自体、総理大臣になりたいといった夢想の戯言なのかもしれない。
では、何故僕がそんな覚悟を求めるかというと、これは今の思いつきだが、死ぬのが怖いのではないかと思う。
ある意味逆転の発想。死をいとわない覚悟をしようとする理由が、死ぬのが怖いからという。これは矛盾ではないか。
終末期ケアで、重い病気を患った患者が、死を受け入れていく段階で、無気力を通して、受容の段階がある。
死を受け入れたところで、死の恐怖から逃れられるものではない。ただし、恐怖で狂ってしまうか、突然死する以外は、必ず、受容の段階に至るはずだ。
それをいち早くしようと、僕は、覚悟を決めようとしていたのか。そうだとしたら、気が早すぎないか。
どうせ死ぬなら、いまを楽しもうというのと、だからこそ死に備えようというのと、ここも価値観で分かれることになる。
結局、この手の話しに答えはない。だから結局、自分で考えて、決めるしかない。
そう、だから結論として、考えなくてもよい方法を含めて、考えるべきということだ。
その先で誰かを傷付けたとしても、それは手遅れ。
だから僕は、口をつぐんで、耳の聞こえない人のふりをしよう。
ライ麦畑でつかまえて、のホールデン君は、どうにも思春期をこじらせた大学生だが、人間関係の難しさを感じ、劣等感があるひとは、その気持ちが少し分かるんじゃないかと思う。
結局、妹に救われて終るのだっけ。もう忘れてしまったが、大層感銘を受けたのは覚えている。
じゃあ、それを誰かと共有しようとしたとき、言葉で説明なんかできない、するもんじゃないと思っていた。
ところが、人間なんて、社会でしか生きられない。だから、一人閉じこもって本を読んだところで、何ら解決にもならない。いやもちろん、内面に抱えた極個人的な悩みや劣等感というものを、取り扱う指針はみつかるかもしれない。けれども、それがなにか、お金につながるかといったら糞の役にも立たない。
いやもちろん、生きることを選ぶのであれば、自分自身でそれを選ぶ必要がある。それができないピンチなのであれば、すぐさま治療が必要だ。
そんなとき、本を読んでいれば、少しばかり耐性がついているかもしれない。でもそんなのより、精神科に行って睡眠薬をもらった方が早いのでは?
よく考えろ。
考えることが意味のないことだと僕は結論付けたわけだが、同時にそれを決めたのも考えた上でのことである。
そろそろ、五年前の考えで行くのは厳しくなってきたはずだ。
この先、どう生きるかは、お金を稼ぐ手段を考えることでは、決してない。
しかし、自分には覚悟ができるか。決断とは、何かを捨て去ることである。大事なことのため、何かを犠牲にすることである。
そのとき、自分にとって大事なものが決まってないと、今のように悩み続けることになる。
どうしても分からない。
時折消えてしまいたくなるこの感覚は、死にたいという言葉で代替できないことは既に試している。
例えば、ご恩と奉公の時代、命を賭けて主君に尽くすことが、武士にとってすべてであるとされ、責任をとるために自ら腹を切った。
その感覚、生きざま、それは、相当の覚悟が、日頃からなければなるまい。
ここが自分の死に場所だと、すぐさま決断できる覚悟。ここまでくると、僕だけでなく、現代人のほとんどが持ち合わせていないだろう。
全国で一千万人もいなかった時代で、おそらくそのほとんどが農民であったなか、そうした覚悟をもっていたのは、極わずかだったのかもしれない。
だから、そんな覚悟を、凡人がもつこと自体、総理大臣になりたいといった夢想の戯言なのかもしれない。
では、何故僕がそんな覚悟を求めるかというと、これは今の思いつきだが、死ぬのが怖いのではないかと思う。
ある意味逆転の発想。死をいとわない覚悟をしようとする理由が、死ぬのが怖いからという。これは矛盾ではないか。
終末期ケアで、重い病気を患った患者が、死を受け入れていく段階で、無気力を通して、受容の段階がある。
死を受け入れたところで、死の恐怖から逃れられるものではない。ただし、恐怖で狂ってしまうか、突然死する以外は、必ず、受容の段階に至るはずだ。
それをいち早くしようと、僕は、覚悟を決めようとしていたのか。そうだとしたら、気が早すぎないか。
どうせ死ぬなら、いまを楽しもうというのと、だからこそ死に備えようというのと、ここも価値観で分かれることになる。
結局、この手の話しに答えはない。だから結局、自分で考えて、決めるしかない。
そう、だから結論として、考えなくてもよい方法を含めて、考えるべきということだ。
創造的な仕事ができるのは10年、という。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
ともかく、十年間で、何かを成し遂げる経験をするのは重要だと思った。 プライベートが少し落ち着いた。
そうしたとき、日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。
他者との繋がりは必ず、媒介が必要だ。子どもには、遊びという媒介があって、他者との交流が可能になる。 何かができる人は、自信をもっている。仕事人間が定年になると鬱になるのは、仕事がその人のアイデンティティだからだ。
しかし、それは不十分であったのだ。本当に仕事ができるのであれば、それが、自分で成し遂げられる水準であれば、定年になったところで、その人は終わることはない。
すべての行為は、他者を幸せにするようにできている。こう考えてみよう。偽善である、それでよい。
他人を食い物にする悪徳は、この場合考える必要はない。何故なら、自分が何をするか、そこが重要だからだ。
10年かけて、他者を幸せにする自らが使える、能力、それが何か、考える暇は、もう殆どないのだから、思考を少しでも、できるだけ多く、そちらに傾けていく必要がある。
自分の考えていることを記載。
事実を記載。
事実を記載(自分以外)〓学習したこと。
CDを聞かなきゃ、というのは、自分の考えていること。何故そう思うのか、説明すれば、それは日記になる。
その感想を書けば、誰かの参考になるかもしれない。
それよりも、6月22日に攻殻機動隊の三期が上映されるという情報を書く方が、情報の価値はある。情報の拡散性もあるだろう。
その情報の取得元も書くとよい。何かあったときに遡れる。情報の信頼性も高まる。
一般人が遡れる情報は、企業の公式発表にとどまるかもしれない。
しかし企業は、様々なプロジェクトのメンバーが、独断か総意か、人間が考えて情報を作っている。
ドラッガーのマネジメントを読めば、中間管理職の仕事とは、情報の分配である。旧来は、組織のトップが、知識の量もトップであった。今、情報社会では、パソコンのエンドユーザーの最新知識は、新入社員の方が上のこともある。
情報は水のようである。高いところから低いところに流れ、溜まる場所がなければ蒸発する。
中間管理職は、水が豊富なところから、不足しているところへ運搬することが重要な仕事なのだ。
よく、上の人に媚びをうる人が出世するという。周りから見ればそうとしか見えない場面があるかもしれないが、情報が豊富ならそれもありだ。もっとも、私利私欲しか考えていない上司は…いや、そんな人はいないと信じるしかないが。
意味ある日記について書くつもりが、意味ある情報についての話しになった。
で、結局は、情報は欲望を満たす手段である。
知りたい、生きたい、仲間になりたい、この3つの欲望を満たす道具である。
お金がすべて、という人は、段々減ってきているはずだ。お金とは、目指すは目的や欲望がはっきりしているときは、必須条件として立ちはだかる。
草食系男子たちは、リアリストでお金を望む。その理由は、目的や欲望がはっきりしていないからである。と同時に、目的や欲望がはっきりしているのだ、「生きたい」と。
女が、セックスがすべてだった時代は、生きることが前提として可能だったからだ。今は、未来が不透明な世である。生きるため、生き残るために必要なのは、とりあえず金だろう、消去法である。
否定できないのはそれが事実であるからだ。そして、生きたいという欲望が強い草食系男子はよい。だが、例えば僕は、長らく、生きることがよく分からなかった。もちろん今も分からないが、守りたい生活や人がいるから、それを拠り所にできる。
ただ、それでもなお、僕が、昔ほどでないにせよ、思考が止まらないのは、内なる欲望が隠れているからに違いない。
きっとそれは、知りたいという欲求なのだと思う。
自分の存在価値、この世の物理法則、社会の仕組み……。
そして、個人として、凡人に理解できる限界を知り、思考の無意味さを感じた。
そして、行動をする、しかし、行動だけではつまらない。その行動は、未来にどれだけ関連があるんだよ、その実感が大切なのだ。
その為に必要な能力は見えてくる。
意味を見いだす能力。
ストーリーをつくる能力。
鍛える能力は、それだ。
いやいや、ブルーカラーにそんなのは必要ないと言われるかもしれない。
しかし、例え僕が肉体労働者になっても、僕の思考は止まらないし、同様な人は多いだろう。
そんなのモテない、って言われるかも。
事実を記載。
事実を記載(自分以外)〓学習したこと。
CDを聞かなきゃ、というのは、自分の考えていること。何故そう思うのか、説明すれば、それは日記になる。
その感想を書けば、誰かの参考になるかもしれない。
それよりも、6月22日に攻殻機動隊の三期が上映されるという情報を書く方が、情報の価値はある。情報の拡散性もあるだろう。
その情報の取得元も書くとよい。何かあったときに遡れる。情報の信頼性も高まる。
一般人が遡れる情報は、企業の公式発表にとどまるかもしれない。
しかし企業は、様々なプロジェクトのメンバーが、独断か総意か、人間が考えて情報を作っている。
ドラッガーのマネジメントを読めば、中間管理職の仕事とは、情報の分配である。旧来は、組織のトップが、知識の量もトップであった。今、情報社会では、パソコンのエンドユーザーの最新知識は、新入社員の方が上のこともある。
情報は水のようである。高いところから低いところに流れ、溜まる場所がなければ蒸発する。
中間管理職は、水が豊富なところから、不足しているところへ運搬することが重要な仕事なのだ。
よく、上の人に媚びをうる人が出世するという。周りから見ればそうとしか見えない場面があるかもしれないが、情報が豊富ならそれもありだ。もっとも、私利私欲しか考えていない上司は…いや、そんな人はいないと信じるしかないが。
意味ある日記について書くつもりが、意味ある情報についての話しになった。
で、結局は、情報は欲望を満たす手段である。
知りたい、生きたい、仲間になりたい、この3つの欲望を満たす道具である。
お金がすべて、という人は、段々減ってきているはずだ。お金とは、目指すは目的や欲望がはっきりしているときは、必須条件として立ちはだかる。
草食系男子たちは、リアリストでお金を望む。その理由は、目的や欲望がはっきりしていないからである。と同時に、目的や欲望がはっきりしているのだ、「生きたい」と。
女が、セックスがすべてだった時代は、生きることが前提として可能だったからだ。今は、未来が不透明な世である。生きるため、生き残るために必要なのは、とりあえず金だろう、消去法である。
否定できないのはそれが事実であるからだ。そして、生きたいという欲望が強い草食系男子はよい。だが、例えば僕は、長らく、生きることがよく分からなかった。もちろん今も分からないが、守りたい生活や人がいるから、それを拠り所にできる。
ただ、それでもなお、僕が、昔ほどでないにせよ、思考が止まらないのは、内なる欲望が隠れているからに違いない。
きっとそれは、知りたいという欲求なのだと思う。
自分の存在価値、この世の物理法則、社会の仕組み……。
そして、個人として、凡人に理解できる限界を知り、思考の無意味さを感じた。
そして、行動をする、しかし、行動だけではつまらない。その行動は、未来にどれだけ関連があるんだよ、その実感が大切なのだ。
その為に必要な能力は見えてくる。
意味を見いだす能力。
ストーリーをつくる能力。
鍛える能力は、それだ。
いやいや、ブルーカラーにそんなのは必要ないと言われるかもしれない。
しかし、例え僕が肉体労働者になっても、僕の思考は止まらないし、同様な人は多いだろう。
そんなのモテない、って言われるかも。
セールストークが嫌いだ。
別に数万円が惜しいわけじゃない。ただ、騙されるのが嫌いだ。
他者がよいといっても、自分でよいと思えないものは嫌いだ。
見ず知らずの人間に、自分の考えを変えられるのが嫌いだ。仕事は別だ。
ルールとかマナーは大事だと思う。それがないと、世の中不快なことだらけだと思う。それを性悪説といったりする。性悪説に基づく人間なんて滅びてしまえという人もいた。もっともだ。全員が悪だったり、善だったりするとは思えない。でも悪は必ず存在する。ゼロじゃなければ、やっぱりルールもマナーも重要だ。
いやいやそのルールこそ、人間の善が形になったものだというのも一理ある。そうすれば性善説だ。だから、性善説も性悪説も、どちらも一面的であるというのが正解だ。
哲学というのは、そういう考え方もあるよね、ということに使えるが、結論を出すのには不向きだ。
もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。
仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。
それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。
ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。
僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。
これは、唯物論と言い換えていいと思う。モノの集合の関係性が、世界をつくっているのだという意味である。これは、AとBの間にCというモノを想定するのではない。AとBそのものが、関係性としてある、ということだ。
ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。
ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。
何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。
何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。
しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。
選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。
解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。
別に数万円が惜しいわけじゃない。ただ、騙されるのが嫌いだ。
他者がよいといっても、自分でよいと思えないものは嫌いだ。
見ず知らずの人間に、自分の考えを変えられるのが嫌いだ。仕事は別だ。
ルールとかマナーは大事だと思う。それがないと、世の中不快なことだらけだと思う。それを性悪説といったりする。性悪説に基づく人間なんて滅びてしまえという人もいた。もっともだ。全員が悪だったり、善だったりするとは思えない。でも悪は必ず存在する。ゼロじゃなければ、やっぱりルールもマナーも重要だ。
いやいやそのルールこそ、人間の善が形になったものだというのも一理ある。そうすれば性善説だ。だから、性善説も性悪説も、どちらも一面的であるというのが正解だ。
哲学というのは、そういう考え方もあるよね、ということに使えるが、結論を出すのには不向きだ。
もちろん突き詰めた哲学は、鉄壁かもしれない。しかし、凡人に理解できないレベルになったとき、哲学は思考から離れていく。
仕事の一番大切なことは、シンプルさだ。しかし、人生とはアナログで、境界がなく、複雑だ。
それゆえ、複雑な人生をシンプルにしようとする哲学の価値は色褪せない。
ただし、真理など、存在しないのではないか、という考え方もある。仏教でいう縁起や、社会学でいう関係性や相互依存。
僕は今、後者の考えに近い。究極には、自分なんて、自己意識なんて存在しないという、受動意識仮説に賛成だ。
これは、唯物論と言い換えていいと思う。モノの集合の関係性が、世界をつくっているのだという意味である。これは、AとBの間にCというモノを想定するのではない。AとBそのものが、関係性としてある、ということだ。
ある、そう表現すると、モノの集合であっても、自分という個体は存在するともいえる。ただ、自分の本質を自分の中に探していっても、単一のモノがあるだけになる。自己はない、とは極端な表現で、自己の本質はない、といえば適切だろうか。
ともかく、陥りがちな、考えるということ、それは自分の頭の中で完結してはいない。考えるというのは、目をつぶっていたとしても、様々な環境によるインプットの中で存在できているのだ。
何故こんな話しになったかといえば、自分の考え方を他者に変えられるのがイヤだということからだ。
何故他者が自分の中に入ってくるとイヤなのだろう。それは、生存欲求だ。共存ではなく、他者にのっとられる、それは死を意味する。
しかしアポトーシスとは何か。細胞の自発的な死といわれる。細胞は、何を生かすために、死を選ぶのか。
選ぶ、細胞に意識はあるのか。意識とは何なのか。
解決したいのは、この不快な感情だけなのだが。
