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信仰と宗教と実感と
2016/06/11 17:50 | Comments(0) | イライラ対処
国民会議ではなかった、日本会議だった。本の感想は、ひとことでもメモしておくべきだろう。

日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。

あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。


その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。

よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。


これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。

ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。

その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。


僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。

どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。


それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。

同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。



なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。


という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。

人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。

ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。

唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。

いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。


この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。

いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。

ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。

信仰と実感について


そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。

これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。

実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。

ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。


ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。


なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。

それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。

そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。



























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宗教のうさんくささ
2016/06/09 23:26 | Comments(0) | イライラ対処
国民会議、という本を読んだ。といっても、まだ数十ページだけれど。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。

民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。


その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。

しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。


最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。

と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。

引き寄せの法則

いや、まぁ、僕も、「すごいもの」に憧れたい、信じたい、という気持ちはあるのだと思う。そもそも、宗教とは何かといえば、超然たる存在に従い、教示を受け、信仰することである。

それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。

同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。

これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。

表現による真実性の隠蔽

僕は、映画も漫画も小説も好きだし、表現することはとても楽しいことだと思いながら、それがエンターテイメントじゃなくなったとき、欺瞞を感じ、気持ち悪いと思う。

結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。

と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。

言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。

ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。


一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。

こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。


本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。





なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。

死の恐怖

まぁ、久々の、この日常カテゴリだから、このまま書き連ねていこう、徒然。

夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。


その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。


いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。

で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。

幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。

それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。



敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。


ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。

自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。


何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。

とにかく、時間切れ。

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インプットなるもの本を読むこと
2016/06/09 00:01 | Comments(0) | 生きる意味
目標とは、ある期限を設けて、それに対して定量的な成果を積み上げて、結果をアウトプットすることである。

僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。

教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。


凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。


このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。


僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。

その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。


しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。

つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。

行為として実践することと思考との乖離

確かに、行動すること、それにおいては、結果はついてきた、といってよい。
しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。


偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。

ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。

このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。

こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。

ある30代の悩み

先日挙げた質問掲示板のある30代男性の悩み、それは、「ああ、分かる」という気持ちを、僕に生じさせた。

あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。


まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)

他者への興味

残念ながら、時間が迫っている。
1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。

他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。

他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。

ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。

他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。

表現の限界性

ところが、驚いたことに、君はよく分からない、気持ちの悪い人だね、と言われたわけだ。
これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。

いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。

だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。

ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。

だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。

僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。



ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。





























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保険と人生設計について
2016/06/08 21:34 | Comments(0) | 生きる意味
終身保険に加入しようか検討している。
年間72万くらいのプランである。
基本は、60歳のときに元本2160万円以上になる計算だ。

じゃあ、60歳になって2160万をもらって、何に使うか、とか、全く決まっていない。
住宅ローンとか、車の維持費とかも考えられていない。

結婚資金とか、子育ての資金とかも考えられていない。

子育てでいけば、子供にどんな教育を受けさせるか、どんな大人になって欲しいかのイメージもまだない。

どんな、死に様になろうか、イメージができていない。

女性は現実的だというが

男性は夢見がちで、女性はリアリストという風潮もある。

ただ、その女性に、どんな死にかたをしたいのか、と聞けば、あまり良い顔をしないのではないか。
現実主義、とは、いわゆる人生の道筋をイメージできているものだと考える。そうすれば、決して、女性とか男性とかではなく、現実主義者など、この現代には少ない気がする。


60歳まで、食べて、寝て、セックスして、それが現実というのだろうか。であればその現実主義とは成り立つ定義かもしれない。
むしろ、そんな現実に疑問を感じる僕こそが、夢みがちな少年なのだろう。



ある女の人が、老後は、暖かい海外に移住してゆっくり暮らすことが夢だといっていた。

ある男の人は、自分の死にかたを選べなくなるので、結婚をするつもりがないといった。


とてもよい夢や考え方だと思った。
それが実感レベルに落とし込められていれば、今後どんどん人生は上向きとなることだろう。

果たして僕はどうだろうか。


なやみ続けた自分との戦い

ああ、ところで、サイバー攻撃や炎上というのには、気を付けた方がいい。ネット空間は、もうそれは自分の家なんかじゃない。
玄関の外なんだ、というニュースは、全くそのとおりである。

このblogは、Google検索Botにもかかってないのか、訪問者はほとんどいない。

でありながら、やはりローカルの日記とは違い、不特定多数への、なにか役立てられるのではという、優意味の希求という欲求をかきたててくれるものだ。

例えれば、玄関の外だけれども、人がほとんどいない山林や平原の中、過疎地域のようなものだ。
誰もいない草むらの中、大きな声で、聞く人はいないだろうが、叫んでいるのである。


これは寂しいことかもしれないが、逆に楽しかったり居心地がよいものであるがゆえ、逆に、ここは外なのだと、気を引き閉める必要があるだろう。

もっとも、家の中にいても、裸になったら痴漢だと訴えられたニュースもみたことあるが。

はなしがそれた、自分との戦い、15年前の自分は、いまの自分を想像できていたか。
中学生だった自分。そう、ちょうどこの頃から、こういった文章を、ログ、と読んでいたが、書き始めたのだった。



だから、なんの取り柄もない凡人ではあるが、こういっただらだらとした文章を書かせたら、プロフェッショナルなのだといってよい、かっこわらい。

プロとはなにか、といえば、お金を稼げる人のことなので、形容矛盾なのだけれども、ある時期は、2年?くらい、文字通り毎日文章を書いていた時期もあったので、ここら辺は世界(笑)と争えると思う。
いやほんと、それが何の意味があったかは全くもって別として。


いやほんと、もうそろそろ、し


人生について、生きる意味について、死に様について、真剣に考え、答えを出し、それに向けて一心に行動するべきだ。


凡人としての生き方を模索したが、やはりそれは無理だ。


時代とは全くあっていないだろう。

イデオロギーなき時代に、的はずれである。そのことは、生きる意味とかいう言葉に生理的な嫌悪を抱く人が多いことが証左である。

でもそれでも、やっぱりどこかしら生きづらくて、無意味性に怯え、それは死の恐怖でもあり、矮小さや無力感に悩み怯え、

我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか。




















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タイトルを変えるべきか孤独な戦い
2016/06/06 21:00 | Comments(0) | 生きる意味
理屈っぽいところは、相性があるが、生きる意味とかその辺の話は、相手によっては気持ち悪いと感じる。
みんな考えていることだけど、いざ言葉にすると、気持ち悪いと感じる。

と、友人(果たして継続できているのか)から言われた。
数少ない本音以上の部分で会話できる相手なので、失うと痛手であるけれども、上のような感想というか知見をもらえたことは、有意義であった。


出会いの場、というのも、別れた話を大っぴらにして、笑いながら話せば、次の機会をと提供してくれる方にも新しく出会うことができる。

こういった書き方をすると、先の記事で想定した30才の男性からは、リア充死ね、的な扱いになり、一切僕の言葉が響かなくなることは明らかであって、ここにおいても、表現のたリナさには、頭を抱えるばかりである。

笑顔の裏にある哀しみや絶望に気づいてくれる人はいないのだ、……と書いていけば、これはこれで、対面コミュニケーションの相手には得たいの知れない気持ち悪い人間、サイコパスのように捉えられるだろう。

この表現の可能性、という面で、どうにもこうにも、言語的な限界性を感じてしまう。
と書くと、これはこれで、何をかっこつけてるんだ、となるし、もうどうにでもなれ、となる。


言ってはいけない



とにかく、役に立つ文章をかきたいのだ。
言ってはいけない

という書籍を読んだ。これは、性的な役割分担とか、知能の遺伝性とか、犯罪の遺伝とか、女も実は複数の男との性交を望んでいるとか、時おり嫌悪するようなことが書かれている。

僕は別に特になにも感じることなく、ではないが、特段突拍子もないとか、大発見!とかいう感覚はなかったけれども、あぁ、なるほど、僕のつくりだす言葉というのも、同じように受け入れがたい面があるのかもしれない、それを感じることができたことで、有意義な書物だった。800円ぐらいの価値は十分だ。

そうすると、役に立つ、という目的からはずれていると感じざるをえない。
これはかなり苦痛なことだと思う。ゆえに、本当に、ある二人の読者さんには、感謝というよりも、救われたという表現がぴったりなのだ。



孤独な戦い



ゆえに、本来的には、このblog含めた生活全体が、孤独な戦いにならざるをえない。

本来的というのは、人はみな一人で生まれて一人で死ぬのだ、という標語的なものではなく、求めるものの無意味性との戦い、という水準になる。

これは、もう本当に怖いもので、下手をしたら、悪魔との謗りを受けかねない。

当たり前で、嫌な思いをさせることを信奉するというのは、社会的にも生理的にも、排除されるべきものである。


例えば、科学が、果たして真理を目指しているかは疑問であり、いわゆる人類の幸福、というものを前提にしていることは明らかである。


そこから外れたことを望み、構築することは、せいぜい、憲法で思想信条の自由が保障されている程度の、保障しかない。

本来的には、唾棄すべきものとなる。
 

善なるものの肯定が善か



アンダーグラウンドが排除されるべきかというレベルと、僕の行為、思考がそもそもそれに当たるのか、という二重、の意味で、反論というか、疑義をつくることができる。


今回は、冒頭の友人(仮)の、意味に対する思考への見解のメモができれば成功だと思う。

孤独な戦い、という実感がえられたこともメモできたことで、十分だ。

スターバックスのストロベリーフラペチーノ美味しかった。

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