痴呆、と書くと、差別用語になったんだったっけ。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
死の恐怖
これは、かなり前に、何度かみたことがある、夢、を引き合いにだすことが多い。今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ボケとは生きるためのものか
交通事故とか、災害とか、意図せず命を落とすことがある。意図せず、という表現は適切ではないか、そもそも、死とは、自殺以外は望んだものではない。ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
ボケを恐れる必要はないのかもしれない
むしろ、怖いのは、死、そのものを、認識することであるといっていいのかもしれない。だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味を考えることの無意味さ
毎日を楽しく生きること。生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
日常と思考
さて、今日は、ほとんど何もせずに過ごした。昨日は知人と小ツーリング、楽しかった。目的の物は買えなかったが、それで、アマゾンで注文しようとしたが、間違って、引っ越し前の住所に送ってしまった。失敗。今日届いたら作業しようと思っていたのだけれども、できなくなってぽっくり穴があいたように。何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
PR
このブログ、非常にアクセス数が無い。アクセス数を稼ごうとは全く思っていないけれども、広大なネット大陸の中で、本当に誰もいない辺境にいるのだろうか。僅かばかりの知人が、山の奥深く、危険を潜り抜けて訪ねてくれるぐらい、ということなのだろうか。
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
生きる意味を見失ってしまった場合
生きる意味を見失ってしまう人の特徴は、先の事を考えてしまう事です。年を取ったらどうなってしまうのか、このままの状態がいつまで続くのかという事を考えることで生きる意味を失ってしまいます。まず生きる意味を見失いそうになったら、先のことは考えずに今自分が楽しいと思えることを一生懸命に行うようにしましょう。今日どんな楽しいことをして過ごそうかを考えて、二度と戻らない今を有効に過ごせるように努力してみてください。今日好きなことをして過ごす。今友達を遊ぶ。今日大好きな恋人と過ごす。などなんでもいいのです、1日1日、その日をいかに楽しく過ごせるのかを精一杯考えてみてください。今日、明日楽しく過ごすことを精一杯考えていれば生きる意味を考える暇はなくなりますよ。生きる意味が分からなくても時間はどんどん過ぎていくのですから、どうせなら楽しく過ごしたほうが良いと感じませんか?先の見えない将来を想像するのではなく、先を想像しやすい今日、明日長くても1週間をどう楽しく過ごすのか考えるように心掛けてみてください。そうすることで、多くの人のように生きる意味など分からなくても今が楽しいからそれでいいという考えを、持てるようになりますよ。https://welq.jp/1175
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
このように生きる意味をなくしてしまった時には、必ず原因があるはずです。原因をしっかりと把握して、適切な解決を行いましょう。
中には、生きる意味が分からなくなってしまい命を絶ってしまう人もいます。自分の命を、自ら絶ってしまわないようになるべく早く生きる意味を見つける努力や、楽しいと感じるものを見つける努力を行うようにしましょう。
生きる意味は人それぞれです。大きな目標を達成したいから生きている。小さなことでも、生きていれば楽しい事があるから生きている、なんとなく生きている、どんなことでもいいのです。
まずは生きる目標を探してみてください。周りに相談出来る人がいれば、自分の気持ちを理解してもらってもいいでしょう。いない場合でも自分の悩みを聞いてくれる場所はたくさんあります。
大切なことは独りで抱え込まないことです。まずは気持ちを整理してみてくださいね。なかなか気持ちの整理が出来ない人は心の中にある感情を紙に書いたり、声に出してみてください。
また生きる意味を見失う前から、楽しいと感じることを積極的に行うことも大切です。
自己陶酔
こうして書いていることが自体が、「自己陶酔で気持ち悪い」と思われるのだろう。あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
そもそも役に立つのか
こうして、書いていくことが、果たして役に立つのか、それは、以前書いたとおり、・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
国民会議ではなかった、日本会議だった。本の感想は、ひとことでもメモしておくべきだろう。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。
日本の民主主義は宗教と学生運動の延長に乗っ取られようとしている。
あれ、政治的なことは書かないのではなかったか。そう、ただし、本の内容の要旨である。
その中で登場するある、宗教のドン、は、心臓病を煩い、青春時代を病床ですごした。そのとき、宗教の教えに出会い、めざめるのである。
よくある話だ。ただ、ポイントは、その人自信にとって、教えは、本当に自分を救ってくれたもの、そのものなのである。
これがどういうことかといえば、メンターをつくりなさいと説く、なんら宗教性がないビジネス本と、構造はなにもかわらないことに気づく。
ある友人に巡りあえて、自分の価値観がかわった、とか。恋人が救ってくれたとか。
その、かっこつきの、信仰、の対象がことなるだけで、人はたいてい、生きる指針をみつけて、それに従って生きるものである。
僕の生きづらさ、とここでは表現するが、問題点は、その、信仰対象の不在、であると思う。
ここら辺も、表現は違えど、例えば、大澤真幸氏の、不可能性の時代、で指摘があるように、現代は、第三者のしんきゅう、が失われているのだ、という主張から感じたことである。
どこかで、神がみている、とか、死語の世界の輪廻とか、尊敬するあの人はこんなことしない、だとか、内なる道徳律のようなものだ。
それがないと、何で俺は存在してるんだ、みたいな感覚が生じ、日々の実感が欠落していくことが起こり得る。
同時に、自分を規定する審判を受け入れられない心性も生じる、この点が複雑だ。
なにせ、マニュアル人間はだめだとか、人間力とか、考える力、とかとか、不透明な、ハイパーメリトクラシーが、いま、どの世界でも要求されている。
という、個人的なことはおいておけば、政治、として、ある一定の信仰が前提とされるのは、避けるべきだろう。
人間存在が、ルーチンでしかないもの、であれば、一般の生き方を提示する宗教があってもいいだろう。
ただ、学生運動しかり、一神教しかり、ナショナリズムしかり、共産主義しかり。
唯一規範を前提とし、例外を認めない社会は、表層的にでも歴史を学べば明らかである。
いやもちろん、ここで、資本主義が果たして絶対真理なのかは分からないし、ある宗教的な行動規範が、新たな価値を、こぼれ落ちた弱者も救ってくれるものなのかもしれない。
この、不明であること、そのこと自体が、いまも、新興のもの含めて、宗教などが無くならない理由である。
いやはや、何せ、本当に神はいるかもしれないからだ。
ここに、真理は必要なくて、単に、信仰が重要になる。
信仰と実感について
そして気づくことは、僕が最近いっている、実感という表現自体が、その信仰に似ていることだ。
これは、明確に否定したいが、成功するだろうか。
信仰とは、正しい超然としたものを思い、信じることだ。
実感とは、信念や思考といったものの、その前に存在するものである。
ここに、また僕がいつもいっている、常に思考が動いている、という記述との整合性が問題になる。
ただ、思考の前に生じるもの、それはあると思う。
ここでいうのは、もちろん、単なる、感覚器官の作用ではなくて、体系的な経験にもとづく、内なる心が導く判断……、という表現が浮かんだが、難しい表現に思う。
なるほど、最近、実感とよく使うが、これがなにか、ということをほとんど考えられていなかった。
それに気づかせてくれた、日本会議という本は面白かったといえるだろう。
そして、実際読んでみたかたは、この記事が、いかに関係のないことを書いていたか、よく分かるだろう。やはり、政治的なことや、宗教のこと、あとお金と、野球のことは、初対面の人と話すのはやめたほうがいいし、それはブログなど不特定多数が目にする記事においても同様だ、ので、そのとおりの内容だ。
国民会議、という本を読んだ。といっても、まだ数十ページだけれど。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。
民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。
その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。
しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。
最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。
と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。
それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。
同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。
これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。
結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。
と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。
言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。
ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。
一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。
こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。
本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。
なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。
夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。
その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。
いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。
で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。
幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。
それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。
敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。
ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。
自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。
何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。
とにかく、時間切れ。
日本の政治家、閣僚の8割が所属しているという民間の政治団体だ。
民間の、といっても、各種宗教の代表や、各界の著名人が名を連ねているという。
その書きぶりからして、宗教というものの気持ち悪さを感じる。
これは興味深い発見であり、やはり、僕の文章で、仏陀の教えがこうこうで、みたいなことを、書いたり、話したりすると、気持ち悪いと感じられる可能性が高いのだろうと思った。
しかし、新興仏教系が、戦後に数多く生まれているというのは、何か時代的な理由があるのかもしれない。その大半が、利益誘導型の生臭組織かもしれないが、果たして、当初勃興させた教祖というのは、本当に、世界を破滅させてやろうと、ハルマゲドンを起こそうとしていたかというと、そうではない面もあると思う。でなければ、何百人、何千人、何万人という人を求心することはできなかっただろう。
最近、役に立つ文章を書きたいと言っていて、悩み苦しむ人に言葉が届けばいい、なんて書いていて、それってつまり、新興教祖になりたいってことなのじゃあないかと、そういった批判の生じが、発見であり、面白かった。
と同時に、やはり僕は、宗教からも阻害された人間なんだなぁと思わざるをえない、というと、これもまた過剰なのだけれども。
引き寄せの法則
いや、まぁ、僕も、「すごいもの」に憧れたい、信じたい、という気持ちはあるのだと思う。そもそも、宗教とは何かといえば、超然たる存在に従い、教示を受け、信仰することである。それは、とても難しいことのようでありながら、考え方をかえれば、すぐにでもできることだ。
何せ、今、こうして生きていることが奇跡のようなものなのだし、悶々としていたら合コンの誘いが舞い込んできたりと、これはもう神の思し召しじゃあないか、と。
同時に、そんな「神」概念をもちだすまでもなく、引き寄せの法則、として、良いことも悪いことも、心から信じているものは現実化していく、という考え方、これもある意味「宗教」となる。
これも、引き寄せの法則! と喜々として話せば、宗教的で気持ち悪い、となるけれども、例えば表現を変えて、「笑顔の人の周りには笑顔の人が集まる」とすれば、あら不思議、受け入れられる幅が広がるのである。
表現による真実性の隠蔽
僕は、映画も漫画も小説も好きだし、表現することはとても楽しいことだと思いながら、それがエンターテイメントじゃなくなったとき、欺瞞を感じ、気持ち悪いと思う。結局同じことを、本質的には同一にもかかわらず、都合のよいように解釈すること、それが好きではない。
と、言いながらも、社会生活、人間関係、それらを営むにあたって、むしろ、僕自身が常日頃言っている、「人と人とは分かり合えない」という表現が根拠となって、笑顔をはじめとしたコミュニケーションスキルは重要視されるのである。
言い換えれば、恋愛市場において、モテる男講座を読んで、モテる服を着て、モテる振る舞いをして、モテるプレゼントをして、可愛い女の子をゲットしてベットに連れ込んで、それは「成功」となるけれども、非常に嘘くさいと思う。
ハクバノ王子サマがムカエニキテクレル、じゃあないけれども、やっぱり、純愛って素晴らしいじゃあないか。
一方で、純愛ってなんだよ、それって性欲と何が違うんだよ、とか、まぁ、表現はいくらでも出てくるわけだ。
こんなこと浮かぶこと時点で、「変な奴」扱いは避けられないはずだ。
だから、変な奴と思われないように、自分をひた隠しにして、所属コミュニティで地位を向上させ、お金を稼ぎ、結婚し、子どもをつくって、家族に看取られて老い、死ぬ。
本当に、それでいいのか? ということまで、ここから、ようやく、思索としてはスタートできるのだけれども、やはり、時間が足りない。
なんだろう、この記事に、僕はどんなコメントをしてもらったら、嬉しいのだろうか、と思う。
いやいや、そもそも、コメントをもらうことが前提なのか、誰かに読んでもらって、感銘を受けてもらうことが目的ではないのか、もしくは、何らかの教示になるものではないだろうか。
死の恐怖
まぁ、久々の、この日常カテゴリだから、このまま書き連ねていこう、徒然。夢で、建物が崩れて、鉄骨に何人も押しつぶされた。
瓦礫を取り除くと、胴体が半分つぶれた人がでてきた。しかし、まだ生きているようで、体をびくびくと痙攣させている。それを見た人たちは、その人を放置して、他の人を助けに行った。助からないのはもう分かるけれども、一瞬でも早く楽にしてやってほしいと、僕は、体がない状態でその映像をみていた。
その夢がきっかけ、というよりも、最近、死ぬのが怖いな、と思い始めた。
かなり昔も、そんな風に思ったこともあった。
死ぬのが怖い、というのは、先行き不透明の極致だからだ。
仏陀に、弟子の一人が、「仏陀さま、私は死後のことが知りたいのです! 死んだら人はどうなるのですか!」
と食い下がった。
仏陀は、答えなかった。そして、毒矢を受けたある人が、毒矢を射た人を見つけるまでは治療をするな、と言い続けて死んだ、という話をした。弟子は座り込んだ。仏陀は、死後の世界を知ろうとするよりも、今この世界での生をしっかりと見つめ生きていくことが重要なのだ、ということを言いたかったのである。
いや、まぁ、無駄なんだけれども、やっぱり、死んだらどうなるか分からないと、怖いよね。
で、また、最近(といっても、もう1年は経ったろうか)、存命の祖母が、老いてきていることが分かった。
何か月か前、あったとき、変わらぬ態度で出迎えてくれたのだけれども、もう、僕の名前を覚えていなかったことが分かった。
幼いころ、一緒に遊んでくれたり、ご飯を作ってくれたり、親に内緒でお小遣いをくれたり、本当に可愛がってくれた。
それなのに、僕の名前が、もう、でてこないのだ。
敢えて言葉に、直接的な記述をすれば、離婚することになり、大好きだった祖父が亡くなり、とても可愛がってくれた祖母が僕のことを忘れてしまった、仕事はまた忙しさが増してきた……、と、これは結構、損耗する気がしないだろうか。
ただ、意外と平気なのである。
逆に、仕事が忙しくて、人とかかわることが多くて、それゆえに気付いていないだけなのか、もしくは、「大丈夫大丈夫」といっていて、実は鬱だったり(元気な人が突然うつ病に)みたいなことなのだろうか、なんて、自分で言っているうちは平気なものなのだ、という説明なんかもあったりして、こうなってくると、自分の気持ちが分からない。
自分の気持ち、しかし、そんなものないんだぜ、というのが、諸法無我というものだ。縁起によってすべての事象は成り立っているのだから、自己なんてものはないのだと。
何の話だろうか、とりあえず、頭に浮かぶ言葉を羅列していっただけだ、つまらない文章かもしれない。
とにかく、時間切れ。
目標とは、ある期限を設けて、それに対して定量的な成果を積み上げて、結果をアウトプットすることである。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
僕が、何か教訓的なことを言ったとして、僕自身のステータスが、大企業の社長だったり、政治家だったり、ファイナンシャルプランナーという肩書をもっていたり、東京大学卒だったり、何か世間一般的に認められるものがあれば、きっと「お金」に結びつくのかもしれない。
教訓的なものは、その程度のものである、と書くと、凡人の僻み、と言われるだろうし、これらは、何か成果を出していなければ、発言すら認められないという世界の仕組みだ。
凡人は、おとなしく、凡人としてエリートのいうことに従っていればいい、それか、無産市民、労働者として、せいぜい毎日の不満をつぶやきつつ、一時の享楽的な生活を送ればいい。
このブログの読者の対象者は、非常に限られたものになるのかもしれない。ただ、僕は、ここで紡がれる言葉が、まさに肩書のない一般凡人であるがゆえに、このブログを役立つと感じる人が、今後増えていくだろうと、逆説的に思うのである。
僕は、昔は、そうした思いから、教師になろうと思った。
その道を諦めたとき、周りの人には、自分の人生を見つめなおしたいとか、子どもの責任だとか、モンスターペアレンツとか、企業に勤めてみないと教師としての狭い世界では教えることができないとか、まぁそれらしいことを並びたてた。
しかし、もしかすれば、僕が「教えたい」と思ったことが、果たして役に立つことなのか、導きえるものなのか、自信を得られなかったことによるのかもしれない。
自信という言葉で表現すれば、単に、一個人、人間としての自信が不足していたこともあるだろう。
つまり、役に立つ人間と、そうでない人間がこの世にはいるというまず前提が、頭の中の領域を支配していて、自分が、役に立つ人間であるとは、思えなかったことにある。
行為として実践することと思考との乖離
確かに、行動すること、それにおいては、結果はついてきた、といってよい。しかし、その行動が、自らの思考に基づくものではなかったとき、その結果は、真の自信、「自分自身で何かをなしえたのだ」という実感になることは少ないのである。
偽りの自己、という表現がある。
いい子症候群ということだ。親や先生や、上司やその他、その環境(コミュニティ)における支配者の意図すること、望むことを積極的に行うことは、その環境における立場を向上させる。
ところが、その行為が、自らの実感、自らの思い、心からわきでる欲求との乖離が大きかった場合、周囲の評価がどうであろうと、自分自身という存在に対しての自信には到底、結びつかないのである。
このあたりの表現というのは、「ああ、分かる」と思ってくれる人が、必ず存在する、このことは、既に分かっている。ただ、それがゆえに、その絶対数が少ないことも何となく感じられるし、無意味性を感じざるを得ない。
こんなことを表現しても、何の役に立つのか。そんな思いから、言葉にすることをやってこなかった。
ただ、少しずつ分かってきたのは、このブログのカウンターを回す一人が、自分自身であるということ、その自分というのは、どこかしら、こうした表現を、誰かがするのを待っていたのだ。
ある30代の悩み
先日挙げた質問掲示板のある30代男性の悩み、それは、「ああ、分かる」という気持ちを、僕に生じさせた。あの質問は、既に作品として成り立っている。それにつく回答の多くの、つまらないこと……と書くと、またしても過剰なのであるけれども、あの質問自体が一番「面白い」ものであることは、今時点で揺らぎない実感である。
まさに、ああいった作品を、多く作り出していきたい、というのが、このブログの主旨になるのかもしれない、いやもしくは、自分はそれほど落ちぶれていないという自慰的な行為なのか、このあたりの葛藤は、常に生じ、話しを前に進ませない。
(前に、ブログを書く意味を整理した記事を書いたのだから、毎回それでも読んでから書き始めればいいのだろうが。)
他者への興味
残念ながら、時間が迫っている。1合とは、180mlで、4合瓶とは、720ml、一升ビンとは、1.8Lだとか、日本酒が最近おいしいとか、そんなことを書いている暇はないのだ、そもそも、他にやることはたくさんあるのだ、その中で、書く、ということを選択している、そのことの意味を、生きる意味なんて考えるより先に明らかにした方がいいと思うのだが、……というように、頭の中は常に思考に支配されている。
他人ってどうなのか、知りたくなる気持ちがある。ああ、いいじゃあないか、これが、「他者への興味」というものだ。本当は、人間は、生きたい、知りたい、仲間になりたいという、三つの本能があるのだ。
他者へ興味を持つというのは、普通のことなのだ。
ごちゃごちゃとした頭の中の思考を、リアルタイムでアウトプットすること、その行為が、果たして何の役に立つのかは分からないけれども、これは昔からの習慣のようなものだ。
他人の頭の中は分からない、だから「分かりにくい」「理解しあえない」と、僕は哀しんだものである、一方で、僕は、頭の中をすべて表現できるから、分かりやすい、いわば「サトラレ」みたいな存在なのだと、勝手に思っていたりもする。
表現の限界性
ところが、驚いたことに、君はよく分からない、気持ちの悪い人だね、と言われたわけだ。これは本当に驚くべきことだった、が、同時に、やっぱり、うすうす感じていて、信じたくなかったようなことの証左でもあったわけで、哀しみの涙はすぐに……というわけではないが、どこかにいってしまった。
いわゆる、ポジティブな思考、というものを、人は本能的に選び取る。当たり前で、気持ちの良いことやモノの方が、いいに決まっているわけだ。
だから、不明な、はっきりしない、迷い多いものを、人は毛嫌いし、生理的に受け付けないようにできているのだ、とかいった表現自体が、そもそも気持ち悪い! こいつは、何を偉そうにいっているのか、とか、そういった感情になるのだ。
ちょっと待ってほしい、こうした表現が、僕は、見たことがなかった、それは、対人関係構築力のなさを反省すべきかもしれないが、構造的に「ぐちゃぐちゃした思考」そのものが排斥されがちなのであるが、僕の求めた福音は、中々に得難いものだったということになる。
だから、僕は、使命的に、書かなければ、という思いもある。
僕はもう、きっと、その不明瞭な部分と少し違う位置にいる気がする、だから、もう、先に挙げた作品のような表現は、あまり必要としていないのだけれども、ただ、どこか、生きづらさを感じている人には、届いてほしいと、これもまた本心である。
ああ、本当にもう、時間がない、書きたかったことはこんなことだったのだろうか。
とにかく、これぐらいの量であれば投稿しても許してくれるだろう(未来の自分が)、明日でも電車の中ででも読んでみよう。どうしても許せなければ、削除しよう、きっと、それが許されるぐらいのカウンタであろう、と思う。まぁ、「投稿する」という重み、は、SNSで友達を切ったり追加したり、書いた日記を消してみたり、そんなのは感覚的には許せないから、きっと、残る気はするけれども、という表現が、今の自分としては気持ち悪いな、うん。
