新しく始めたスポーツをしてみた。楽しかった、それようの施設の使い方、ロッカーとか、分からないことも多かったけれとも、仲間と一緒にわいわい楽しんだ。
そのあと、別のグループから、大事なはなしがあると、呼ばれた。最初のグループで、の見に行こうと誘われたが、大事なはなし、とは、それは、先日書いた、頼る頼られる、の話しに通じるのでは、と思って、そちらに向かった。
話としては、仕事の悩みであった。そのさいに、元気付けようと、死からの逆算のはなしをした。それは、意思というよりも、自然にはなしてしまった。
とても説得力があるといわれたが、いや、そもそも、自分の問題は自分でしか解決できず、それは、僕のはなしをきいて、そのなかで、違うと思うような部分、それが、自分なのだと、話をした。
伝わったかどうかわからないし、忘れてもらってもいいと思う。
でも、なんらか、すこしでも、考えることについて、指針やネタにしてもらったのなら、嬉しいと思う。
ポイントは、他者との比較の無意味性だが……
僕が普段、こんなこと話さないから、驚いていた、でも、明るく振る舞う相手にたいして、それは、元気になったということではないのだと、その分析が、深いなと、よくみてくれていると、そういってもらえたのは、はずかしながらも話してよかったといえる。
思った以上に自然に口に言葉がでたのは、ふと、このブログのおかげと思った。
まぁ、確かに、考える生き方の作者や、思考の部屋の作者など、先人たちすごい人たちは多いし、それにうちひしがれている。
が、まぁ、一般的には、狭いコミュニティにおいては、それなりに思考というものが何かを知っているし、実践している、その自信がある。
まぁ、大したことないんだけど、ただ、本気で落ち込んだ人の気持ちは、それが実際に僕の体験などから全然別だったとしても、わかる、のである、とかいうと上から目線なんだけども……
今回、二つのグループでのコミュニケーションにおいて、ひとつ実践できたのは、相手を褒めることだ。
自然に、思ったことの表現ができたと思う。
これは、磨けば磨いただけ、光ることであるので、実践どんどんしていきたい。
ところで、僕の発言と、このブログへの記載について、今回はとくに、ブログへの記載内容と同じことをいってたわけだけど、きっと、グループの方々が、このブログを読めば、不快になるのではないか。
なんとなく、そうだと思う、それもあって、あまり具体的なことをかけないけれど、まぁ、具体的な、例えば飲んだお酒の銘柄とか行ったスポーツについてとか書いても、脇道でしかない。
本当にメモすべきことは、メモできたのか。
いや、もうひとつ、ある人が、やはり、複雑な悩みを抱えていることがわかったことだ。
僕にしてみれば、贅沢な悩みなきもしたが、ただ、その重さは、それこそ比較のしようがない。
僕が強調したのは、その比較性の無意味さであるが、果たして伝わったかどうかは分からない。
うーん、まぁ、あまり、僕の話は面白いはなしじゃぁないんだろうし、やはり、もっと自重した方がいいのかもしれない、が、……もうそれもいいや、という気持ちになった。
確かに僕の話は僕の弱味でもあって、利用しようとすればできて、いまの地位を、といっても大したことないが、引きずり下ろすことも容易になるだろう。でも、相手がそれをするかは分からないし、それにされても、それもまた人生だろうし、というよりも、そのていどの人格否定ぐらいは経験すみなのであまり怖くもない。
とかくと、言い過ぎなんだろうけど、ともかく、このブログのようなはなしをできて、不快感はなかった。別の部分でいらっとしたが、大した問題ではない、むしろ、無心になる試みが成功したとも思える。
若いうちはいろんな経験して苦労したほうがいい、とかしたりがおで言う奴らがいる。
耳を傾ける必要ない。
所詮それは、深い絶望レベルのものではない。
本当の苦悩など、
味わう必要はない。でないと、僕のように、
いきる意味なんて、答えがなくて無だな、もうしゅうにとらわれてしまうことがある。
人生なんて楽しんだものがちだ!
小学校で自死を考え、中学校で人は楽しむために生きるのだと、哲学的解をだし、結局その楽しむとは何かをわからずいまも悩んでいる。それでいいのかもしれない。
これが僕がこの世に生を受けた意味なのか。
苦しみ悩み、それを表現し、それが他者にすこしでも影響を与えることが、僕に与えられた使命なのか。
使命?
くそくらえ。
そんな、超越的なもののために、僕がいま生きているのだとしたら、あてつけに死んでやりたいくらいだ。
そうじゃない。
自分の問題は、自分でしか解決できないのだ。
その答えを、超越的なものに求めるのであれば、僕のこれまでの思考はすべて無駄であったことに過ぎなくなる。
それは、身体的な死ではないが、精神的な死となるのである。
そのあと、別のグループから、大事なはなしがあると、呼ばれた。最初のグループで、の見に行こうと誘われたが、大事なはなし、とは、それは、先日書いた、頼る頼られる、の話しに通じるのでは、と思って、そちらに向かった。
話としては、仕事の悩みであった。そのさいに、元気付けようと、死からの逆算のはなしをした。それは、意思というよりも、自然にはなしてしまった。
とても説得力があるといわれたが、いや、そもそも、自分の問題は自分でしか解決できず、それは、僕のはなしをきいて、そのなかで、違うと思うような部分、それが、自分なのだと、話をした。
伝わったかどうかわからないし、忘れてもらってもいいと思う。
でも、なんらか、すこしでも、考えることについて、指針やネタにしてもらったのなら、嬉しいと思う。
ポイントは、他者との比較の無意味性だが……
僕が普段、こんなこと話さないから、驚いていた、でも、明るく振る舞う相手にたいして、それは、元気になったということではないのだと、その分析が、深いなと、よくみてくれていると、そういってもらえたのは、はずかしながらも話してよかったといえる。
ブログの意味
思った以上に自然に口に言葉がでたのは、ふと、このブログのおかげと思った。
まぁ、確かに、考える生き方の作者や、思考の部屋の作者など、先人たちすごい人たちは多いし、それにうちひしがれている。
が、まぁ、一般的には、狭いコミュニティにおいては、それなりに思考というものが何かを知っているし、実践している、その自信がある。
まぁ、大したことないんだけど、ただ、本気で落ち込んだ人の気持ちは、それが実際に僕の体験などから全然別だったとしても、わかる、のである、とかいうと上から目線なんだけども……
他者を褒めること
今回、二つのグループでのコミュニケーションにおいて、ひとつ実践できたのは、相手を褒めることだ。
自然に、思ったことの表現ができたと思う。
これは、磨けば磨いただけ、光ることであるので、実践どんどんしていきたい。
ところで、僕の発言と、このブログへの記載について、今回はとくに、ブログへの記載内容と同じことをいってたわけだけど、きっと、グループの方々が、このブログを読めば、不快になるのではないか。
なんとなく、そうだと思う、それもあって、あまり具体的なことをかけないけれど、まぁ、具体的な、例えば飲んだお酒の銘柄とか行ったスポーツについてとか書いても、脇道でしかない。
本当にメモすべきことは、メモできたのか。
いや、もうひとつ、ある人が、やはり、複雑な悩みを抱えていることがわかったことだ。
僕にしてみれば、贅沢な悩みなきもしたが、ただ、その重さは、それこそ比較のしようがない。
僕が強調したのは、その比較性の無意味さであるが、果たして伝わったかどうかは分からない。
うーん、まぁ、あまり、僕の話は面白いはなしじゃぁないんだろうし、やはり、もっと自重した方がいいのかもしれない、が、……もうそれもいいや、という気持ちになった。
確かに僕の話は僕の弱味でもあって、利用しようとすればできて、いまの地位を、といっても大したことないが、引きずり下ろすことも容易になるだろう。でも、相手がそれをするかは分からないし、それにされても、それもまた人生だろうし、というよりも、そのていどの人格否定ぐらいは経験すみなのであまり怖くもない。
とかくと、言い過ぎなんだろうけど、ともかく、このブログのようなはなしをできて、不快感はなかった。別の部分でいらっとしたが、大した問題ではない、むしろ、無心になる試みが成功したとも思える。
若いうちの苦労はなんやら
若いうちはいろんな経験して苦労したほうがいい、とかしたりがおで言う奴らがいる。
耳を傾ける必要ない。
所詮それは、深い絶望レベルのものではない。
本当の苦悩など、
味わう必要はない。でないと、僕のように、
いきる意味なんて、答えがなくて無だな、もうしゅうにとらわれてしまうことがある。
人生なんて楽しんだものがちだ!
小学校で自死を考え、中学校で人は楽しむために生きるのだと、哲学的解をだし、結局その楽しむとは何かをわからずいまも悩んでいる。それでいいのかもしれない。
これが僕がこの世に生を受けた意味なのか。
苦しみ悩み、それを表現し、それが他者にすこしでも影響を与えることが、僕に与えられた使命なのか。
使命?
くそくらえ。
そんな、超越的なもののために、僕がいま生きているのだとしたら、あてつけに死んでやりたいくらいだ。
そうじゃない。
自分の問題は、自分でしか解決できないのだ。
その答えを、超越的なものに求めるのであれば、僕のこれまでの思考はすべて無駄であったことに過ぎなくなる。
それは、身体的な死ではないが、精神的な死となるのである。
PR
考える生き方の購入決定
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A
との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A
との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。
というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……
この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。
思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。
離人症
それはおいておいて、その本の中で作者は、どうにも実感が何に対してもわかなくなった時期があったと述べている。哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。
大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。
離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。
離人症は治りにくい
あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。
考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。
仏教に学ぶ生きる意味
サイト、やっぱり、様々、引用しながら書いた方が、役に立つという意味では、そんな気がする。そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。
その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。
スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。
生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41
ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。
いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。
それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。
仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。
シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。
いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。
絡まりあった自我
ただ、「悟りを開いた人から学ぶ」というのが、受け入れられない、という、僕のこじれた「自我」のせいである。実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。
そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。
何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。
意味を求めること
ブログの移転はまぁおいておこう。酒を飲んでいるせいで、気分が高まってしまい、誰かとコミュニケーションをとらなければならないという強迫観念にかられただけかもしれない、別に、自分用に書き散らすだけであれば、ここでも、特段問題はないのである。とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。
それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。
どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。
かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。
ある40代の方のブログ。
妻も子供もいて、仕事も経営者で、ニューヨークで働いているという。
生きる意味を考える
http://www.cbc-net.com/blog/qanta/2016/05/04/livelong/
そんな「リア充」が、生きる意味を考えるなんて、おこがましいにもほどがあるぜ、と、以前の僕なら思ったかもしれない。
しかし、この上の記事において共感するところは、そして、見習うべきところ、参考にするべきところは、……いや、違うな、よかったところ、とでもいうのか、それは、答えが出ていないということと、仕事というものに対する考え方という点である。
この方も分かっているが、――と書くと、非常に上から目線になってしまい、よく会話の節々にそういう点を醸し出すことが自分はあるから、特に気を付けているのだけれども、ただ他意はなく、自分の方が優れているとか偉いだとかそう思っているわけではないのだけれども、他にどう表現していいか分からない感情なのである。――何故生きるのか、とか考えることは、考えられることは、それだけで「幸せ」という状態であるということだ。
なんやかんや書いてきつつも、とある国の斬首動画とか見ていれば、首を掻き切られる瞬間の苦悶の表情、そして、何やら難しい神への供物の呪文を読み聞かせられている時間、迫りくる死の恐怖、そういったものを感じる状況になれば、「死にたくない」と、無様に悲鳴をあげるのではないか、そう思う。
だから、まずは、こうやって文章を書くことができること、そのことに対する感謝(何への?)を忘れてはならない。この前提の上で、「生きる意味とは」と、考えなければ、それはもう、空虚なものになりさがるのである。
こういうのが読めるってのは、インターネット社会のすばらしさである。何せ、図書館や本屋さんに行って、いくら探したって、「答えのない」本なんて存在しない。
作者がどう考えているかは別として、その思考の過程があったとしても、結論としては、「ある」のだ。
まぁ、その結論を無視して読むことはできるけれども、どうしても、その結論があるというのは、死の恐怖を考えずに生きる意味を考えるような、矛盾というか、空虚さが残るのである。
さて、前置きはこれくらいにして、「仕事でも遊びでも自己実現はしない」という表現に至ったことを書いていく。
つまり、仕事でどれほど成功したとしても、「で、それが何だったの?」という問いに対して、例えば大勢の人を幸せにしたとか、日本の経済に貢献したとか、とても長く素晴らしく語ることができたとして、そのことに対する「実感」、それがまさに自分が生きた意味であったと思えるかということとは、別であるというわけだ。
だからといって、仕事を軽視するというわけではない、むしろ、余暇を充実させたところで、それもまた押し寄せる空虚さに対応できるものではない。
くだらない話になってしまうが、この「空虚さ」が、襲い掛かるかどうかは、その人次第であって、万人誰でもこの点について悩むかどうかというのは別問題である。
もしくは、少し悩んだとしても、今まさにここにいることを信じ、その行為を信じ、現実を強く生きることができる人も、それもまた多いことだろう。
しかし、いざ、その空虚な問いに取りつかれた人は、はたと困るのである。
また、引用だけれども、この、「おめでとうございます」のとらえ方、これ、当然本人の気持ちは分からないけれども、非常に皮肉的であり、よい表現と思った。
ぶっちゃけストレートに言い換えると、「自分では全然嬉しくないし喜ばしいことでもないと思っているが、一般的にそれは喜ばしい良いことなのだろう、であれば自分もそう感じるべきだ」とか、結論的感情は多岐にわたるだろうが、そういうことである。こういった表現できる人って、頭いいんだろうなぁとか思いながら現実には付き合いたくないなかっこわらいとか、それはつまり、結局他者に「純粋性」を求めているのであり、自分に都合のよい人を求める弱い心性であるのだけれども、とにかく純粋に、面白い方だと思う(と書くとまた上から目線的であるが、僕は(以下略))。
もう10時か、早いな。朝7時ぐらいに起きてから、ふと目についた猫の恩返しをみていた。
ルーン王子が他国の会議から帰ってきて、ユキちゃんにプレゼントを渡し、それがハルが幼いころに助けた猫に食べさせたお魚クッキーであったことから、ユキちゃんがその猫だったと分かったとき、感動で涙がこみあげてきた。
「お礼なんていらない! だって私も嬉しいんだもん!」
「やっぱり、猫を助けてよかったのよ!」
それまで、さんざんムタに、おせっかいなんてやいて猫を助けたりするからこんな面倒に巻き込まれるんだ、とか言われていた部分の、素敵な伏線回収である。よいストーリー構成だ。
新しいスポーツも始めてみたりと、毎日がとても充実し、楽しい、と、この楽しいというのも相対概念である。閑話休題。
途端に、言葉が出てこなくなる、いや、いろいろと浮かぶのだけれども、発生しては消えて、もしくは絡まって、ぐちゃぐちゃと触手がわらわらと発生して気持ち悪くなる。
やっぱり、僕は、書きながら考えることが向いている、もしくは、話しながら考える、ということもできるけれども、これは、言葉にするスピードと思考とが微妙にかみ合わなくて、あんまり適切じゃないということにプラスして、言葉はすぐに消えてしまうから、読み返せないことが、結局後に頭の中のごちゃごちゃぐちゃぐちゃに繋がるだけである。
整理してみよう。
・何か現実生活において、大変なことが起きる。
・問題解決のために努力を行う。
◇問題が解決する→END
◇問題が解決しない→次へ
・更なる問題解決のための努力を行う。
・問題が解決しない、又は解決の答えが見つからない(そもそも答えがない)
・自分に解決する力がない(又は時間がない、物理的に不可能)
・何故自分はこれほど頑張っているのか
・そもそも何故自分は生きているのか
・生きる意味などない、それを考えること自体が幸せである
・しかし現時点で自分は苦悩している
・苦しい思いをしてまで生きているのは何故か
・今が苦しくても、楽しいことがあるはずである
・楽しいことがあったとしても、また苦しいことが発生する
・楽しかったり苦しかったりの繰り返しが人生だとして、それが何の意味があるのか
・意味なんてない、その繰り返しこそが人生である
・その繰り返しをすることが何になるのか
・意味なんてない
・意味がないとしたら、生きている意味だってないのではないか
・本来的に生きる意味はない
・というと?
・生きたい、知りたい、仲間になりたいという脳の機能、本能がある
・本能が故に人は生きるのである
・だから生きる意味を考えることは無駄である
・本能を満たすためだけに生きる
・何れ死はやってくる
・死に対して、本能は無力である
・生きたいという最大の欲求は必ず否定される運命にある
・それでも本能に従い苦しい思いもしながら生き続ける必要があるのか
・必要性の問題ではない
・ではなにか?
・それを自らが望むかどうかだ
・積極的に死にたいわけではない
・けれども、何れ迎えるであろう死を考えたとき積極的に生きたいとも思えない
・お前という個の役目はもはやないのだ
・だから別の生命を生み出すという行為しか残されていない
・しかし子供をつくるということは、結局は脳の認識に過ぎないのでは
・というと?
・自慰行為と性行為に個体として、身体としての認識の違いがあるとは思えない
・それは勝手な推測である
・確かにそうだ、しかし、子どもを育てて立派にするということ、その立派とは何か
・もっといえば、子どもを育てることにより自己の問題が解決する根拠だってない
・経験しなければ分からない
・そのとおり、だがその思考になれば、死すら経験しなければ分からないことになる
・であるならば、思考はすべて無意味としかならない(経験が至上であれば、考えたって、死んでみないことには死とは何か分からないのだから)
じゃあ、上の流れで頭を回転させたとして、現時点非常に困難な問題を抱えている場合において、果たして、それで納得するのだろうか。上のロジックは、今まさに、現状を憂いて自殺しようとしている人に、死を思いとどまらせるだけ強いものであるのか。
おそらく、否である。
もっとも、自死をするには様々な原因があるから、その原因を取り除くことが第一優先なのだけれども、結局、
生きる意味なんて考えてたって、人生有限なんだから、楽しまなきゃ損だぜ!
とか言えるのは、実際問題現時点楽しんでいる人たちだけなのである。
いやはや、貧困問題とか様々あって、恋人はおろか彼女すらできたことがないとか、ひどいイジメにあっているとか、自分の生活と他者の生活を比べても、全く意味のないことである。
この意味のなさというのは、仕事で自己実現とか、プライベートを充実させるとか、その程度で解決するものではないのである。
これが、「実存問題」という。
今まさに俺が生きてるんだ。
その俺が苦しんでるんだ。
どうしてくれるんだ。
なんとも身勝手で、かっこ悪いものだ。
実際問題、まぎれもなくかっこ悪い。だから、あんまりこういった表現は多くない。
いやきっと探せばあるのだろうけれども、中々でてこない。
そりゃそうだ、だって、かっこ悪いのだから、女にもモテないだろうし、仕事にも役立たないだろうし、そもそも「楽しくない」ことなのだ。
オタクは、脳内世界に答えを求めようとする。
と表現するのは、本田透氏である。
本当の「哲学」を学ばれている方々にはたいそう許せない内容だそうだが、「考える」ということとは何か、ということを学ぶには、とてもよい教材のように思った。
例えばプラトンのイデア論は、様々な物質や事象は永遠なもの「イデア」から映し出された虚像なのである、と理解しておけば、テストで点はとれる。(洞窟のたとえ)
けれども、何でそもそもプラトンさんはそんな、「理想の園、イデアはあります!」なんて言い出したのか。教科書的には、師ソクラテスが処刑されたことによって、政治の堕落に失望し……なんてあるけれども、そんな崇高な理由だと親近感がわかない。
本田氏は、(やや強引だが)プラトンは現実ではモテないから、脳内で萌えたらいいんだ! と気付いた、という。
まぁプラトンが本当にモテたかったのかどうかは分からないけれども、そもそも、歴史に理由とか意思なんてものを見出そうとするのは、蛇足というか後付けでしかない。歴史にイフはない、というのは、歴史とは、単に事実であるということなのだ。
電気力と磁気力を統一したのがマクスウェルの電磁気学だが、そうやって、一つの式で、諸条件を与えることによって、一つの確定した解を導き出せる方程式を突き止めることが、物理学の根本使命なのだという。素直にかっこいいと思う。
やっぱり、そういうかっこいい目的のための仕事に携わることが、生きる意味を導くための大事なことなのだろうか。
これが、仕事への生きがい、ということだが、往々にして、第一線で活躍する科学者になるには、非常に困難が待ち受けている。これって、プロ野球選手になるのと同じぐらい、かは分からないが、とにかく大変なことだ、といって大変だからやらなくてもいいかというとそういうことではない、努力が大事だ、頑張れ、やればできる! とかいうのは、思考ではないので、わきにおいておこう。
とかく、例えば、第一線ではなくても、研究助手(ポスドクとか)のような仕事だってあるし、研究所の清掃員だってとても大切な仕事だ。きれいな職場が維持できるから研究ができることもある。
となると、結局、僕が今やっている仕事だって、「人のため」になる仕事であり、誰かの役に立っている。それをどこまで信じられるか、という問題だとすれば、結局、どの仕事だって同じ。
このあたりに、仕事を生きがいにしても、生きる意味から逃れられない困難性をぬぐえない理由がある。
第一、ふと冷静になってみて、宇宙の根本原則である「解」が見つかったとして、では、自分が生きた意味は何だったのか、苦しい思いをして、その研究に携わって、答えを見つけたとして、それが何だったのか、となったら、目も当てられない。
ノーベル賞はとったかもしれない、たくさんの人の賞賛が手に入ったかもしれない、使いきれないだけの莫大な富を得たかもしれない。
しかし、死からは逃れられない。
その瞬間に、自分の人生に疑問を抱いてしまったとしたら、それほどの悲劇が存在するだろうか。
もちろん、残された人類にとっては、幸福でしかなく、感謝してもしきれないだろう。
アインシュタインの相対性理論(一般相対性理論?)がなければ、GPSの誤差大きくなり使い物にならなかったのだ。
(と、書いてから調べてみると、どうやらカーナビと相対性理論は関係ないらしい。とある書籍で知って、へーそうなんだ、と思って「信じて」いたけれども、違っているということもあるということなのだ。最も、その読んだサイトの内容が正しいかどうか、僕の頭では判断できていない(ちょっと読む分には正しいように思われる)から、どっちにしろ「信じる」しかない)
うえのカッコがきの蛇足、を書いていて思ったけれども、その「信じる」ってのが、非常に思考において重要になってくる。
日本人は特に、宗教を毛嫌いする傾向にある……というのも、単に一般的に言われているだけで、例えば、今ある政党を一つずつ調べていけば、その繋がりも見えてくる場合もあるから、それだって一面をとらえているだけに過ぎない。
とにかく、「信じる」というのは、どうにもこの科学的な社会において、蒙昧で、無知で、恥ずべきことのように考えられることが多いながらも、実は、一般人は(いやもちろん、僕がとりわけ頭が悪いというのもあるのだろうけれど)それほど多くのことを理解できるほどの頭脳をもちあわせていない。
「論理的思考力」というのは、鍛えられるものだし、頭がいい人は、型にはめて理解して応用する力に優れている。
が、その「型」が、本当に正しいかどうか、ということは、実は「記憶」と言い換えることもできるものの、「信じている」ことに他ならないのである。
科学だってそう。お金だってそう。
友情や愛だってそう。
自分が明日元気に生きているという思いだってそう。
いろんなことを、人は信じて生きているのだ。
この近代、現代に何故宗教がなくならないのか、自爆テロなど、宗教をめぐって人は何故そこまで残酷になれるのか、凄惨なことが起きるのか、理解できないことが多いだろう。
しかしそれは、資本主義社会が絶対善だと信じられているように、人はそもそも、信じることで自らの生活圏を守っているのである。
「のである」とか、カッコつけて書いているけれども、結局そのことだって、証明できているわけではないのだし、僕も結局単に「信じている」だけである。
ただ、ここで言いたいのは、メモしておくべきことは、その「信じること」、最近よく使う表現に言い換えれば、「実感」や「実存」ということが、重要であるということだ。
長くなったな。誰がこんなの読むんだ(笑)。
まぁ、少なくても、僕は読むだろう。ので、もう少しだけ書き進めよう。
・書くことの意味を疑わない
2点目、これはもう、表現しつくしたのではないか。さすがに、もう、このことは書かなくてもよいのではないか。
1点目と合わせて、特に僕は、書いていないと頭が整理できないようなのだ。
本当は、図解したりとか、もっと手っ取り早い表現方法や思考方法があるのかもしれないけれども、その図解するに至るまでの思考がそもそも「始まらない」(笑)。
図解は結局、僕にとっては、他者に分かりやすく伝えるための手段でしかないのだろう。いや、これはまぁ、訓練して、頭の中に図を描けるようになれば、思考スピードも速くなるのだろうけれども、それはまた別のはなしだ。
だから、もうこの先、「このブログに何の意味があるのだろう」とか、「書くことが何になるというのか」「生きる意味を考えてどうするのか」、これらの疑問というか、それはもう抱かないことにしてはどうだろうか。
考えることとか、生きる意味とは何かと問うてみることとか、それ自体がどうであれば、もう現に生じる思考はどうしようもない。
意識的に考えないようにする、坐禅とか、そういう行為や、酒や女とか、友達と遊ぶとか、それらもまた別の次元で必要だろうけれども、それとは別に、この「思考」というのは、もう一生付き合っていくしかないのではないか。
そりゃあ、たくさんのサイトで、「生きる意味なんてありません」とか「考えたって無駄です」って言われているわけなんだから、それはきっと真実なのだろう。
ただ、その真実が、果たして「僕にとって」の真実かどうか、それを、まだ僕は「信じられない」のである。
そして、きっと、そのことは、僕はずっと「信じられない」のではないか。
……うーん、やっぱり、「ではないか」と疑問形で打ち込んでしまった。
やはりこれについても、まだ結論を書けるだけの気持ちがかたまっていないということなのだろう。
1時間半ぐらいも考え、書いているが、今日もまた、何ら結論がでないまま終わってしまうのか。(久々にデスクトップパソコンで書いた)
しかし、ただ、一つだけいえることは、悶々と、苛々として時間を過ごすよりは、よほど充実した素晴らしい時間を過ごせたと、そう「実感」できる、ということだ。
妻も子供もいて、仕事も経営者で、ニューヨークで働いているという。
生きる意味を考える
http://www.cbc-net.com/blog/qanta/2016/05/04/livelong/
そんな「リア充」が、生きる意味を考えるなんて、おこがましいにもほどがあるぜ、と、以前の僕なら思ったかもしれない。
しかし、この上の記事において共感するところは、そして、見習うべきところ、参考にするべきところは、……いや、違うな、よかったところ、とでもいうのか、それは、答えが出ていないということと、仕事というものに対する考え方という点である。
仕事なんていうものは、基本的に暇つぶしだ。幸運なことに私は先進国に生まれたし、適当なバイトでもやって、部屋に引きこもってWikipediaを読み続けていたって死ぬまでの時間を潰すことを許されている。先進国では、よほどのことがないと死なない。じゃあなんで必要以上に一生懸命働いたりするのかというと、これはもうほとんど生理的な問題だ。人の一生は有限で、有限だからもったいなくて、ゆえにジタバタ頑張って、承認されて快感を得ないと損な気がして、なんか気持ち悪くて働く。
この方も分かっているが、――と書くと、非常に上から目線になってしまい、よく会話の節々にそういう点を醸し出すことが自分はあるから、特に気を付けているのだけれども、ただ他意はなく、自分の方が優れているとか偉いだとかそう思っているわけではないのだけれども、他にどう表現していいか分からない感情なのである。――何故生きるのか、とか考えることは、考えられることは、それだけで「幸せ」という状態であるということだ。
なんやかんや書いてきつつも、とある国の斬首動画とか見ていれば、首を掻き切られる瞬間の苦悶の表情、そして、何やら難しい神への供物の呪文を読み聞かせられている時間、迫りくる死の恐怖、そういったものを感じる状況になれば、「死にたくない」と、無様に悲鳴をあげるのではないか、そう思う。
だから、まずは、こうやって文章を書くことができること、そのことに対する感謝(何への?)を忘れてはならない。この前提の上で、「生きる意味とは」と、考えなければ、それはもう、空虚なものになりさがるのである。
仕事でも遊びでも自己実現はしない
上の、40代経営者の方の言葉として、非常に価値がある記事だと思った。こういうのが読めるってのは、インターネット社会のすばらしさである。何せ、図書館や本屋さんに行って、いくら探したって、「答えのない」本なんて存在しない。
作者がどう考えているかは別として、その思考の過程があったとしても、結論としては、「ある」のだ。
まぁ、その結論を無視して読むことはできるけれども、どうしても、その結論があるというのは、死の恐怖を考えずに生きる意味を考えるような、矛盾というか、空虚さが残るのである。
さて、前置きはこれくらいにして、「仕事でも遊びでも自己実現はしない」という表現に至ったことを書いていく。
つまり、仕事でどれほど成功したとしても、「で、それが何だったの?」という問いに対して、例えば大勢の人を幸せにしたとか、日本の経済に貢献したとか、とても長く素晴らしく語ることができたとして、そのことに対する「実感」、それがまさに自分が生きた意味であったと思えるかということとは、別であるというわけだ。
だからといって、仕事を軽視するというわけではない、むしろ、余暇を充実させたところで、それもまた押し寄せる空虚さに対応できるものではない。
くだらない話になってしまうが、この「空虚さ」が、襲い掛かるかどうかは、その人次第であって、万人誰でもこの点について悩むかどうかというのは別問題である。
もしくは、少し悩んだとしても、今まさにここにいることを信じ、その行為を信じ、現実を強く生きることができる人も、それもまた多いことだろう。
しかし、いざ、その空虚な問いに取りつかれた人は、はたと困るのである。
お祝いの言葉を頂いた皆様、ありがとうございます。しかし、戦時中に赤紙を受け取った青年が他の人に「おめでとうございます!」と言われるときの気持ちって、命かかってないから比べようがないけど、ベクトルとしてはこんな感じだったのかもしれません。けど、ありがとうございます。というところで御礼に代えさせて頂きます。
また、引用だけれども、この、「おめでとうございます」のとらえ方、これ、当然本人の気持ちは分からないけれども、非常に皮肉的であり、よい表現と思った。
ぶっちゃけストレートに言い換えると、「自分では全然嬉しくないし喜ばしいことでもないと思っているが、一般的にそれは喜ばしい良いことなのだろう、であれば自分もそう感じるべきだ」とか、結論的感情は多岐にわたるだろうが、そういうことである。こういった表現できる人って、頭いいんだろうなぁとか思いながら現実には付き合いたくないなかっこわらいとか、それはつまり、結局他者に「純粋性」を求めているのであり、自分に都合のよい人を求める弱い心性であるのだけれども、とにかく純粋に、面白い方だと思う(と書くとまた上から目線的であるが、僕は(以下略))。
猫の恩返し
もう10時か、早いな。朝7時ぐらいに起きてから、ふと目についた猫の恩返しをみていた。
ルーン王子が他国の会議から帰ってきて、ユキちゃんにプレゼントを渡し、それがハルが幼いころに助けた猫に食べさせたお魚クッキーであったことから、ユキちゃんがその猫だったと分かったとき、感動で涙がこみあげてきた。
「お礼なんていらない! だって私も嬉しいんだもん!」
「やっぱり、猫を助けてよかったのよ!」
それまで、さんざんムタに、おせっかいなんてやいて猫を助けたりするからこんな面倒に巻き込まれるんだ、とか言われていた部分の、素敵な伏線回収である。よいストーリー構成だ。
新しいスポーツも始めてみたりと、毎日がとても充実し、楽しい、と、この楽しいというのも相対概念である。閑話休題。
考えることと書くことと
今しばらく、文字を打つ手を止めて、頭の中だけで考えてみようとした。途端に、言葉が出てこなくなる、いや、いろいろと浮かぶのだけれども、発生しては消えて、もしくは絡まって、ぐちゃぐちゃと触手がわらわらと発生して気持ち悪くなる。
やっぱり、僕は、書きながら考えることが向いている、もしくは、話しながら考える、ということもできるけれども、これは、言葉にするスピードと思考とが微妙にかみ合わなくて、あんまり適切じゃないということにプラスして、言葉はすぐに消えてしまうから、読み返せないことが、結局後に頭の中のごちゃごちゃぐちゃぐちゃに繋がるだけである。
整理してみよう。
・何か現実生活において、大変なことが起きる。
・問題解決のために努力を行う。
◇問題が解決する→END
◇問題が解決しない→次へ
・更なる問題解決のための努力を行う。
・問題が解決しない、又は解決の答えが見つからない(そもそも答えがない)
・自分に解決する力がない(又は時間がない、物理的に不可能)
・何故自分はこれほど頑張っているのか
・そもそも何故自分は生きているのか
・生きる意味などない、それを考えること自体が幸せである
・しかし現時点で自分は苦悩している
・苦しい思いをしてまで生きているのは何故か
・今が苦しくても、楽しいことがあるはずである
・楽しいことがあったとしても、また苦しいことが発生する
・楽しかったり苦しかったりの繰り返しが人生だとして、それが何の意味があるのか
・意味なんてない、その繰り返しこそが人生である
・その繰り返しをすることが何になるのか
・意味なんてない
・意味がないとしたら、生きている意味だってないのではないか
・本来的に生きる意味はない
・というと?
・生きたい、知りたい、仲間になりたいという脳の機能、本能がある
・本能が故に人は生きるのである
・だから生きる意味を考えることは無駄である
・本能を満たすためだけに生きる
・何れ死はやってくる
・死に対して、本能は無力である
・生きたいという最大の欲求は必ず否定される運命にある
・それでも本能に従い苦しい思いもしながら生き続ける必要があるのか
・必要性の問題ではない
・ではなにか?
・それを自らが望むかどうかだ
・積極的に死にたいわけではない
・けれども、何れ迎えるであろう死を考えたとき積極的に生きたいとも思えない
・お前という個の役目はもはやないのだ
・だから別の生命を生み出すという行為しか残されていない
・しかし子供をつくるということは、結局は脳の認識に過ぎないのでは
・というと?
・自慰行為と性行為に個体として、身体としての認識の違いがあるとは思えない
・それは勝手な推測である
・確かにそうだ、しかし、子どもを育てて立派にするということ、その立派とは何か
・もっといえば、子どもを育てることにより自己の問題が解決する根拠だってない
・経験しなければ分からない
・そのとおり、だがその思考になれば、死すら経験しなければ分からないことになる
・であるならば、思考はすべて無意味としかならない(経験が至上であれば、考えたって、死んでみないことには死とは何か分からないのだから)
思考は無駄である
紆余曲折あるが、大抵のロジックはこのようなものであって、結論として、思考しても、生きる意味など考えても無駄である、ということになる。じゃあ、上の流れで頭を回転させたとして、現時点非常に困難な問題を抱えている場合において、果たして、それで納得するのだろうか。上のロジックは、今まさに、現状を憂いて自殺しようとしている人に、死を思いとどまらせるだけ強いものであるのか。
おそらく、否である。
もっとも、自死をするには様々な原因があるから、その原因を取り除くことが第一優先なのだけれども、結局、
生きる意味なんて考えてたって、人生有限なんだから、楽しまなきゃ損だぜ!
とか言えるのは、実際問題現時点楽しんでいる人たちだけなのである。
いやはや、貧困問題とか様々あって、恋人はおろか彼女すらできたことがないとか、ひどいイジメにあっているとか、自分の生活と他者の生活を比べても、全く意味のないことである。
この意味のなさというのは、仕事で自己実現とか、プライベートを充実させるとか、その程度で解決するものではないのである。
これが、「実存問題」という。
今まさに俺が生きてるんだ。
その俺が苦しんでるんだ。
どうしてくれるんだ。
なんとも身勝手で、かっこ悪いものだ。
実際問題、まぎれもなくかっこ悪い。だから、あんまりこういった表現は多くない。
いやきっと探せばあるのだろうけれども、中々でてこない。
そりゃそうだ、だって、かっこ悪いのだから、女にもモテないだろうし、仕事にも役立たないだろうし、そもそも「楽しくない」ことなのだ。
脳内世界とイデア界
リア充は、現実世界に答えを求めようとする。オタクは、脳内世界に答えを求めようとする。
と表現するのは、本田透氏である。
本当の「哲学」を学ばれている方々にはたいそう許せない内容だそうだが、「考える」ということとは何か、ということを学ぶには、とてもよい教材のように思った。
例えばプラトンのイデア論は、様々な物質や事象は永遠なもの「イデア」から映し出された虚像なのである、と理解しておけば、テストで点はとれる。(洞窟のたとえ)
けれども、何でそもそもプラトンさんはそんな、「理想の園、イデアはあります!」なんて言い出したのか。教科書的には、師ソクラテスが処刑されたことによって、政治の堕落に失望し……なんてあるけれども、そんな崇高な理由だと親近感がわかない。
本田氏は、(やや強引だが)プラトンは現実ではモテないから、脳内で萌えたらいいんだ! と気付いた、という。
まぁプラトンが本当にモテたかったのかどうかは分からないけれども、そもそも、歴史に理由とか意思なんてものを見出そうとするのは、蛇足というか後付けでしかない。歴史にイフはない、というのは、歴史とは、単に事実であるということなのだ。
物理学の使命
脳内で理想を見出そうとするか、科学をもってして物理法則の統一理論を導こうとするか、方法は違えども、唯一無比な根本原則がある、と信じて追究する点は似ている。電気力と磁気力を統一したのがマクスウェルの電磁気学だが、そうやって、一つの式で、諸条件を与えることによって、一つの確定した解を導き出せる方程式を突き止めることが、物理学の根本使命なのだという。素直にかっこいいと思う。
やっぱり、そういうかっこいい目的のための仕事に携わることが、生きる意味を導くための大事なことなのだろうか。
これが、仕事への生きがい、ということだが、往々にして、第一線で活躍する科学者になるには、非常に困難が待ち受けている。これって、プロ野球選手になるのと同じぐらい、かは分からないが、とにかく大変なことだ、といって大変だからやらなくてもいいかというとそういうことではない、努力が大事だ、頑張れ、やればできる! とかいうのは、思考ではないので、わきにおいておこう。
とかく、例えば、第一線ではなくても、研究助手(ポスドクとか)のような仕事だってあるし、研究所の清掃員だってとても大切な仕事だ。きれいな職場が維持できるから研究ができることもある。
となると、結局、僕が今やっている仕事だって、「人のため」になる仕事であり、誰かの役に立っている。それをどこまで信じられるか、という問題だとすれば、結局、どの仕事だって同じ。
このあたりに、仕事を生きがいにしても、生きる意味から逃れられない困難性をぬぐえない理由がある。
第一、ふと冷静になってみて、宇宙の根本原則である「解」が見つかったとして、では、自分が生きた意味は何だったのか、苦しい思いをして、その研究に携わって、答えを見つけたとして、それが何だったのか、となったら、目も当てられない。
ノーベル賞はとったかもしれない、たくさんの人の賞賛が手に入ったかもしれない、使いきれないだけの莫大な富を得たかもしれない。
しかし、死からは逃れられない。
その瞬間に、自分の人生に疑問を抱いてしまったとしたら、それほどの悲劇が存在するだろうか。
死の間際の苦悩
素晴らしい業績、功績をつくりだした人が、そのことすら懐疑してしまうのであれば、早々に自死をした場合と、どちらが良かったのか、全く分からなくなる。もちろん、残された人類にとっては、幸福でしかなく、感謝してもしきれないだろう。
アインシュタインの相対性理論(一般相対性理論?)がなければ、GPSの誤差大きくなり使い物にならなかったのだ。
(と、書いてから調べてみると、どうやらカーナビと相対性理論は関係ないらしい。とある書籍で知って、へーそうなんだ、と思って「信じて」いたけれども、違っているということもあるということなのだ。最も、その読んだサイトの内容が正しいかどうか、僕の頭では判断できていない(ちょっと読む分には正しいように思われる)から、どっちにしろ「信じる」しかない)
うえのカッコがきの蛇足、を書いていて思ったけれども、その「信じる」ってのが、非常に思考において重要になってくる。
日本人は特に、宗教を毛嫌いする傾向にある……というのも、単に一般的に言われているだけで、例えば、今ある政党を一つずつ調べていけば、その繋がりも見えてくる場合もあるから、それだって一面をとらえているだけに過ぎない。
とにかく、「信じる」というのは、どうにもこの科学的な社会において、蒙昧で、無知で、恥ずべきことのように考えられることが多いながらも、実は、一般人は(いやもちろん、僕がとりわけ頭が悪いというのもあるのだろうけれど)それほど多くのことを理解できるほどの頭脳をもちあわせていない。
「論理的思考力」というのは、鍛えられるものだし、頭がいい人は、型にはめて理解して応用する力に優れている。
が、その「型」が、本当に正しいかどうか、ということは、実は「記憶」と言い換えることもできるものの、「信じている」ことに他ならないのである。
科学だってそう。お金だってそう。
友情や愛だってそう。
自分が明日元気に生きているという思いだってそう。
いろんなことを、人は信じて生きているのだ。
この近代、現代に何故宗教がなくならないのか、自爆テロなど、宗教をめぐって人は何故そこまで残酷になれるのか、凄惨なことが起きるのか、理解できないことが多いだろう。
しかしそれは、資本主義社会が絶対善だと信じられているように、人はそもそも、信じることで自らの生活圏を守っているのである。
「のである」とか、カッコつけて書いているけれども、結局そのことだって、証明できているわけではないのだし、僕も結局単に「信じている」だけである。
ただ、ここで言いたいのは、メモしておくべきことは、その「信じること」、最近よく使う表現に言い換えれば、「実感」や「実存」ということが、重要であるということだ。
長くなったな。誰がこんなの読むんだ(笑)。
まぁ、少なくても、僕は読むだろう。ので、もう少しだけ書き進めよう。
考えるうえで気を付けるべきこと
・実感を重要視する(他者を気にしない)・書くことの意味を疑わない
2点目、これはもう、表現しつくしたのではないか。さすがに、もう、このことは書かなくてもよいのではないか。
1点目と合わせて、特に僕は、書いていないと頭が整理できないようなのだ。
本当は、図解したりとか、もっと手っ取り早い表現方法や思考方法があるのかもしれないけれども、その図解するに至るまでの思考がそもそも「始まらない」(笑)。
図解は結局、僕にとっては、他者に分かりやすく伝えるための手段でしかないのだろう。いや、これはまぁ、訓練して、頭の中に図を描けるようになれば、思考スピードも速くなるのだろうけれども、それはまた別のはなしだ。
だから、もうこの先、「このブログに何の意味があるのだろう」とか、「書くことが何になるというのか」「生きる意味を考えてどうするのか」、これらの疑問というか、それはもう抱かないことにしてはどうだろうか。
考えることとか、生きる意味とは何かと問うてみることとか、それ自体がどうであれば、もう現に生じる思考はどうしようもない。
意識的に考えないようにする、坐禅とか、そういう行為や、酒や女とか、友達と遊ぶとか、それらもまた別の次元で必要だろうけれども、それとは別に、この「思考」というのは、もう一生付き合っていくしかないのではないか。
そりゃあ、たくさんのサイトで、「生きる意味なんてありません」とか「考えたって無駄です」って言われているわけなんだから、それはきっと真実なのだろう。
ただ、その真実が、果たして「僕にとって」の真実かどうか、それを、まだ僕は「信じられない」のである。
そして、きっと、そのことは、僕はずっと「信じられない」のではないか。
……うーん、やっぱり、「ではないか」と疑問形で打ち込んでしまった。
やはりこれについても、まだ結論を書けるだけの気持ちがかたまっていないということなのだろう。
1時間半ぐらいも考え、書いているが、今日もまた、何ら結論がでないまま終わってしまうのか。(久々にデスクトップパソコンで書いた)
しかし、ただ、一つだけいえることは、悶々と、苛々として時間を過ごすよりは、よほど充実した素晴らしい時間を過ごせたと、そう「実感」できる、ということだ。
表現するということ、それを突き詰めていくしかない気がする。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
今日は飲み会であり、女の子と話す機会があった、とかくと、喪男な人たちに嫉妬をあたえるかもしれないが、心配することなく、彼氏持ちだったり、絶対に美味しい場面になることがない状況における異性との会話は、リア充というよりもむしろ、マゾヒストである。
いわゆる、美味しい料理を目の前に、猿ぐつわをされて食べることはできないような拷問である。
まぁそれに進んで参加するのは、自暴自棄なのかもしれない。
ストイック
ほとんど寝ないで研究に没頭して、しごともして、と、ストイックなその姿勢に憧れる。年下だろうが、魅力的な人間は魅力的である。
俺は、できることが少ない。
なんでもできるけど、と書くと、これまた非難ばかりになるが、その何もかもが突出しないと、何もかもが自己肯定とか、自信につながらない。
なんでもできるとは、なにもできないことの同義かもしれない。
と、いうのは、どこか、他者よりもうえにたちたい、認められたいという思いが強いからかもしれない。
あるコミュニティがあったら、そこで一番にならなければ気がすまない、一番になれなかったらそのコミュニティを離れていく。
結果、どこにも所属できない、孤独がうまれる、こういう構造だろうか。
飲み会あとの高揚感
帰りの電車では、先日ほどの無気力感はない。
むむ、まさか、アルコール中毒ではあるまいな。
酒を飲むといやなこと忘れて楽しくやっほーってなる、そんなことはなくて、この書く内容が変わるかどうかってぐらいではなかったか。
あ、ひとつ分かったが、なんだか、自分の話をするとき、その話がつまらないんじゃないかと、ものすごい不安感におそわれる。
いやはや、こんなにブログでは饒舌なのに、なぜだろう、と考えるまでもなく、なにせ、ブログだって、これ、本当に面白いのか、っという思いが常にある。
それでも書き進められるのは、これが、誰でもない、自分のため、という思いが強いからだ。
結局、誰一人きいていないかもしれない、つまらないと思われているかもしれない、それでありながら、僕は、僕自信は、昨日の赤面するかもといいながら書いていた記事も、ちょっと面白かったのだ。
なんだろ、僕は、自分の話が、自信ないのか。
だったら、話の教室とか通って訓練すればいいのでは?
よくわからん。
でも、今日の飲み会は出てよかった。
女の子分は払うみたいなことになり、お金は2万近くかかったが。
でも、
思考と言葉
なぜ、自分のブログが面白くて、思考がとまらずに、表現したいと思うのか。
自分のこと嫌いと思っていたが、もしかして自分大好き人間なのか。
ただ、なんとなく、書いていないと、頭が整理できない、言語化できない混沌とした渦に巻きこまれて、触手に絡まれて、身動きがとれなくなっていく。
そのぐちゃりぐちゃりした、からめとられた身体をひねり、少しずつ触手をはずしていく、その作業が、僕にとって書く、ということなのだ。
書く。
言語化。
言葉だけを信じるのではない、しかし、感覚的に生きたとき、僕は、
そして翌日
途中まで書いて寝落ちしていたようだ。
サンドウィッチマンの動画を見ながら、風呂に入る前に仮眠しようとしたら、そのまま今に至る。
初めて訪れるカフェに足を運ぶ。
とくに二日酔いとかでもないが、なんだかふわふわして、何も言葉が浮かばない。
かといって、何も感じていないかというと、そうではない。
なにか、なにか、感じていて、それは、不快なのか気持ち良いのかもわからないけれども、なにか、何かしたいと思うのか、なにもしたくないかと思うのか、やりたいことはあるのか、ないのか、誰かと話したいのか、そうではないのか、……
軽い頭痛がある、ただ、それほど大きな身体的痛みはない。
そんなこと書いてる間にも時間は過ぎる。
昨日のことを思い出してみるか、きれいな子で、犬を飼っていて、家族旅行の時の写真をみせてくれた。
建築関係の仕事をしているという。数時間しかねれないような日も続くが、自分を追い込んで頑張っているという。
僕の仕事とは違うが、どちらかというと研究する面が強いから、コミュニケーションをする必要がある僕の仕事の方が大変だよ、といってくれた。
おちついていて、かといって暗いとかじゃなく、話しやすくて、他の人には、話してると癒されるといわれた。
楽しかった、んだと思う。
こんなこと、書くと、きっとよむひとにはしんじつてきに思われるだろうが、その楽しさは、もしかして僕に気があるのでは、彼氏がいても、付き合えるのでは、そんな気持ちがあるのだろうか。
この、楽しかった、という表現を、僕はとても、恐れているのだろうか。
なんだか、急スピードで、思考、表現が浮かんできた。
昨日のことを思い出そうとして、褒められた、ということ、そういえば、仕事の時も、仕事早いねさすが、といわれたのも昨日だった。
幸せ恐怖症
で、この、褒められたとか楽しかったという表現が、
僕にとって、恐怖なのではないか、と推測する。
なんだか、どちらかというと、いわゆる一般的なネガティブといわれることを書いている方が安心する。
この心性は、とくに珍しいことではなく、つまり、裏切りとか、期待の不達成という結果に対する恐怖、と表現することができる。
書いていて不快だが、思考から、感覚から、逃げてしまえば、これまで書いていたことが、すべて無駄になるだろう、つまり、いっさいがっさい、本気で、言葉をつくる、という宣言がうそになる、ということだ。
自分の心を分析するために、一切に、表現から逃げてはならない。
本当に幸せなのか
幸せ恐怖症、新しい病名が発見された。
楽しいことや嬉しいことがあったとき、それが自分のものと信じられず、または偽りのことなのではと信じられず、すぐに朽ち果てるのではと継続性を信じられず、落ち着かなさや恐怖を感じるようになる病気、症候群。
ちなみに、病気と症状との表現の違いは、病気はその原因を指すのにたいし、症状は、原因は不明だが臨床的に発生する状態を指す。
幸せ恐怖症は、症状であり、まだ、原因となる病気は分からない。そういう意味では、無気力症も、症状であり、原因はわからない。
先日の思考の部屋ブログさんでは、うつ病は脳の病気であると紹介されていた。感情などを司る前頭前野の血流が不足することが、原因であるので、電流流したりその部分を治療すると、薬なく回復するという。
俺も電流流してもらおうかな、かっこわらい。
ポイントは、決して、楽しいとか嬉しいとかそういう感情がないわけではない。
落ち着いてるとか、いわれても、怒りの感情だってあるし、悲しくなったりもする。
ただ、それらが、何となく、自分のものと感じられないような、そういう身体的に生じさせるものを、少し離れた位置でみているような、そんな自分の存在を感じるのである。
薬でも、電気でもよいが、この、解離したような感覚は、例えば酒とか、いろんな遊戯、エンターテイメントにふれたとして、自分自信の感覚として、取り戻せるものなのだろうか。
例えば、そういった感覚が、他者との触れ合いの足りなさだ、孤独さがよくない、というアドバイスがあったとして、他者と会話を重ねたとする。そのとき僕は、相手をよく観察し、自分がどうみられているか考え、適切な言動を考える。
それはたいてい意識的でありながらも、自然に行われる。
その相互行為のなかで、僕は楽しかったり嬉しかったりするわけだけれども、でも、そうしたなかでも、思考、というものが必ず介在しているのである。
僕の身体、顔とか、手足、体毛にいたるまで、それは僕であって、僕に他ならないわけだけれども、ところが、それを自由に支配し動かせる思考という存在と、どうにも仲がよろしくないように思える。
他者を求めるということ
自死がばかげたこと、と、ヘルマンヘッセのシッダールタで書かれていたとはいえ、尊敬できるヘッセさんの言葉だとしても、それはまだ、完全に捨て去る必要はないと思う。
とはいえ、まだそれをするには早いように思える、
こんな、暗いことをかいていながら、さっきの、昨日のことを思い出しているときの方が不快だった。
それって、本当は楽しくなかったってだけかもしれないけれども、この、反転した感覚というのは、メモする必要がある。
はっきりいって、そんな暗い感情でいて人生楽しいの? ということであり、楽しい気持ちでいるべきと思いながら、まさにその暗いことを書くのが楽しいのである、それは逃げであり、本当の自分を知ってくれる人を探すことの諦めであり、しかしその自分というものをわからないといい、それは惨めな自分を認められない自己保身でありながらも、それこそが、自分であるというホメオスタシス、自己恒常性であるのだ。
ということが、いま書いていると、順をおっているけれど、思考として、感覚としては、どばっと、瞬間的に、同時的に頭に浮かぶのであるがゆえに、パニックになる、というのは大袈裟だけれども、なんだかよくわからない不快感に悩まされるのだ。
そうして今日も、彼はこうして、ずっと生きていくのだろう。
それが、彼の幸せかどうかは分からない。人生は有限であり、彼は死の間際でなにを思うのか。それは分からないが、ただ、彼が残した表現、言葉は、確かに残された、少ない人だけだったかもしれない、それでも、彼の言葉は示された。
せめて彼には、そのことだけは、信じて欲しいと、願わないわけにはいかない。
と、無理矢理にこの記事を終わらせてみようとしてみた。
これとか、ちょっと脚色とか加工して小説として投稿してみようかな。
ジャンルはなんだろう、随筆とか純文学かっこわらい、か。
見向きもされなそうだが……、例えば量は質、ということもあって、一週間に一万字ぐらいを毎週、一年ぐらい続ければ四、五人ぐらいの読者は、それがもしかしてアンチかもしれないけれども、このインターネット社会においてはついてくれる気もする。
それもちょっと面白い試みな気がする。冒頭に書いたように、表現をしつくす、というのが、直近すること、もちろん、そろそろ申し込み期日の資格の勉強もあるのだけれども、大事かもしれない。
残念なことに、この作者は、その小説の、エンディングをまだ分からない、知らないのだけれども。
誰も頼ることはできない……これは、傲慢極まりない発言でありながら、その実感を事細かに書き連ねていくことの意味、その意味について考える必要はないのかもしれないが、無意識に任せてもあらぬ方向にいくだろう。
とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。
思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon
上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。
意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。
恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。
僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。
しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。
もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。
しかし、それだけではないだろう。
と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。
しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。
表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。
で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。
で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、
自分とは何か分からない
という感覚につながっているのではないだろうか。
「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。
おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、
思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。
つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。
「言ってはいけない」
とかく、尊敬できる人は、この世の中に多く(相対概念だ)存在しているのである。
思考の部屋
http://blog.goo.ne.jp/sinanodaimon
上のサイト、最近、数日前に見つけて読んでいたが、面白い、「生きる意味を見失ったら身体を休めてみよう」「生きる意味を考えることは意味がないこと」とか、如何にもアクセスを稼ごうとする、ワードプレスのテンプレート的なブログが多い中、上の記事は、ぶっちゃけ「読みにくい」。
意識的か無意識的か、それほど多くの記事を読んではいないが、少し読んですぐわかることは、この方は、実在して、生きていて、真に、正直に言葉をつづっているのだと、そう感じ取れることだ。
恐らく、その表現や、そもそも、自分の倍以上生きているような方なので、同じような感覚でいるとか、そういった「共感」をもつわけではない。
しかし、一般的な、表層的な共感はなくても、非常に興味深く、共感できる、そして、見習いたいと思ったわけだ。
釈尊が、それら五蘊(ごうん)のありようを通じて、未来のことは取り越し苦労をしないがよろしい、過ぎ去ったことは、いつまでもくよくよしないしないがよろしい、ただ、冷静に、そして力いっぱい、現存するところのものをよくよく観察して、なんの「揺らぐところがなく、動ずることもなく」して、「ただ今日まさに作すべきことを力いっぱい実践すること」がよろしい、「それが人間の最も賢明な生き方である」とといておられるのである。「一大事とは、今日只今のことなり」とは、かの白隠禅師の師正受老人(信州飯山の正受庵主、的翁慧端(1721年80歳寂)の名言である。引用されている言葉も、まぁ僕が書いているようなことと同じである……というのは、またしても傲慢ではあるが、僕の「実感」としてそれは「ある」。
表現をするということ
もう、この方のブログがあれば、僕のブログなんていらないじゃないか、いやはや、まったく事実だと思う。僕の中途半端な宗教哲学や仏教などの知識理解よりも、相当深く、詳細に、正確に理解し、記憶されているだろうことが感じ取られる。
しかしながら、その完璧さが、決して、すべてではないということ、それもまた、僕は実感することができた。
というのは、やはり、僕は僕自身として、その感じ方、感じていることを表現することは、「人類にとって」重要であると思える、思えた、ということである。
もちろんこれは、最近飲んでいる東北の日本酒が2合程度はいっていて、気分が高揚し始めたことに起因するともいえるかもしれない。
しかし、それだけではないだろう。
と、いうよりも、それしか、できないだろうということである。
好きなことをするということ
先の記事で、何をしたいのか分からない、何が好きなのか分からない、自分とは何だろうか、と書いた。しかし、その書いたことそのことこそが、僕が何を求めているか、その答えとなってはいなかっただろうか。
表現をすること、それがやっぱり、「楽しい」というより、やりたいことなんだと思う。
で、それが、誰かに認められたいと思うかどうか、それもやはり、「その通り」なのだと思う。
で、そのことらと、子どもが欲しい、彼女が欲しい、嫁が欲しい、友人が欲しい、仕事でうまくやりたい、出世したい、お金が欲しい、楽をしたい、気持ちよくなりたい……
眠りたい、おいしいものを食べたい、旅行したい、もうそれらたくさんのいわゆる、それら「一般的な」欲求と、自分の気持ちの乖離が、
自分とは何か分からない
という感覚につながっているのではないだろうか。
「僕がしたいこと」というのが、一般的に意味があることとは認められていなくて、実際にそれが有意義かどうかわからなくて、そしてまさにそのことを僕自身が知っていて、僕もそれを強く、同時に「実感」するもんだから、僕が最近最重視している「実感」と「実感」が相反する方向を向いているもんだから、そりゃあ、自分ってもんがよく分からなくなるのは当たり前じゃあないか。
実感を一つにする
であれば、すぐに思いつくのは、それらあらぬ方向を向いている実感を、一つの方向に向かせる、統一させるということ、それが思いつくわけだが、果たしてそれは可能なことだろうか。おそらく、僕がこのまま、好き勝手書いているのであれば、
思考の部屋
の作者さんのレベルには到底到達しないだろうし、かといって、いわゆる「リア充」的な、物理世界の肯定を前提とした欲求に身を任せるということも、いずれ、徐々に、自分がすり減ってくるであろうことが容易に想像される。
つまり、僕が、ずっと言ってきた、人は変わることができる、望んだことは手に入る、ということ、これは事実でありながら、きっと、現実的な意味において、もはや、「リア充」的な欲求というのは、これからもずっと、僕が自分のものとして実感を得る可能性はないだろうと、その点における実感が、この記事における新しく、記憶すべき点だ。
「言ってはいけない」
で言われるまでもなく、人間、ルックスが最重要(とは言い過ぎかもしれないが、そこが問題ではない。「人はルックスが9割」ともいわれるではないか)である。
女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。
がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。
人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。
つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。
そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。
酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。
高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。
それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。
途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……
女性がどうかは分からないが、これは、別にルックスの世界だけでなく、例えば、小説とかその他表現の世界においても、いやもはや仕事でもなんでも、この世界の法則として、確実に、「努力」での調整範囲は決まっている。
がんばりゃなんだってできる、ってのは、人間の限界性を認められない危険思考である。
人は空を飛べると崖から飛び降りるようなものだ。
限界性の呪い
そして、やる気をなくさせるのは、この呪いというか思考である。つまり、すげー人はすげーんだ。って当たり前のことである。
そろそろ目がかすんできて、体力的な限界でありながら、もう少し、もう少しだけ書いていこう。
酒を飲みつつも、これ、書いていて、読んで、面白いのか、という疑念、この疑念との戦いながら、僕は一体何を目指しているのだろうか。
高揚している感覚としては、この唯一の記事、おそらく、すべてこれらの言葉は、僕のオリジナルであるのだから、全く同じ文脈を構築できる人はこの世の中に、日本という小さい範囲ではなく、世界規模的に、唯一性である。
それは、ゴミための落書きかもしれない、ただし、表現、その「表現」という意味において、この価値は、昇華させるネタにはなりえると思う。
途中から書いている記憶がない、これ、明日読んだら、赤面して消したくなるのだろうか……
