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生活の軸と表現すること
2016/07/20 20:00 | Comments(0) | 生きる意味
虫瞰(ちゅうかん)のブログ
http://blog.syu-kora.jp/

思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。

でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。

と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。

記憶と感動の関係

若い頃の方が物覚えがいいとか、吸収が早いというのは、感動が大きいからかもしれない。

としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。

あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。

失恋のショック。

友人との軋轢。

先輩からのいじめや罵倒。


さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。

僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。

いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。

ボケと死ぬこと

本能的に、人は生きることを欲するから、死ぬことは何となく怖いことである。

基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。

そうはいっても、老いは避けられない。

死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。

また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。

日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。


いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。

言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。

しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。

であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない

日常の過ごし方

と、上まで書いてまた日が過ぎた。
仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。

結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。


いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。


残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?

多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。


事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。

この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。

人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。

現時点の肯定

うえの、役に立たない害悪であるという説明は、僕自身にもあてはまるのではないか?

つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。

先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。

まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?



違うと、メモしておく。


作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。


人生における行動は、生産と消費とがある。

生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。

その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。

しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。


ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。


ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。


こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。

そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。



こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。

明日死ぬとして

明日死んだとして、自分自身に満足できるか、やり残したことはないか、それを考えるべきだ。

先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。

死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。

これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。


しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。

仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。



これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。

それは、死は必ず訪れるから、である。


ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。

それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。

それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。



そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。



物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……

と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。

ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。

なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。


それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。

楽しいことの模索

でも、ひがみでも、なんでもいいと思う。

問題は、僕が楽しいかどうかだ。

そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。



で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。

このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。

つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。

もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。


だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。


仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。

何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。


答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。

掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。

笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。

万物の真理は求めてはならない

例え、その万物普遍の真理なんてない、ということが反転した真理だったとしても、決して、そういった真理を求めてはならない。


必要なのは、主体的な、実存的な真理である。

人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。

他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。

この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。


孤独、凄まじい孤独。

この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。


僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。

全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。


というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。



ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。

これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。


だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。

でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。



と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。



で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。

違うのかな? 意外に受け入れられるのか?

にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。

表現と作品

やっぱり、ためしに、これらの表現を、ひとつ、作品、にして、反応をみてみる、というのは面白いかもしれない。

ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。

プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。

その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。

生活の軸

話が奇跡的に戻るけれども、こういった何か、自分の探し求める本当の目的、これに対する行動というのがないと、資格の勉強だって、お金に繋がる仕事だって、楽しいゲームだって、やらなきゃいけない家事だって、途端に色褪せて、やる気が起きなくなるのだ。


拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。












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単純であることとニュースと
2016/07/15 18:47 | Comments(0) | イライラ対処
さて、三連休である。以前、仕事が落ち着かないと、休みも気が重い、と書いたけれども、気にしても仕方がない。今回は東北まで足をのばそうと思う。

その前に、ある関西の高速道路で、60代が運転するトラックが乗用車に追突し、ぺしゃんこになって二人が亡くなったニュースをみた。
写真が衝撃的だった。

最近、ヨーロッパで、列車同士が正面衝突した事故の写真もみた。バラバラの遺体があふれてたというコメントに戦慄した。



そして、2015年推計で、高齢化率が、25%をこえたそうだ。
十年後には、30%に及ぶらしい。



人生に一時停止はない



問題の先送りはするべきではない、というのは、一般表現で、そうではないと書いておく。

というのは、まさに、いまこの瞬間しかないとしたときに、物事をペンディングにするのは悪いことではなく、一つの選択だ。

こう、予定がある日に限って、他の方からの誘いがあって、翌週以降でお願いしたわけだけれども、これも一種のペンディングであるからにして、保留が悪いことだという意識があると、それはまた自分を傷つける場合があるのである。


とはいえ一方、人生にまったなしである、というのはまた事実である。

今日の朝とか、とても不快な感情で溢れていた、それが、仕事が想定よりもスムーズにいったことで、気分が落ち着いた。

不快になったのは、前日、何もするきになれず、だらだらと過ごして、眠れもせずに時間を浪費したためだ。

そういう時間を限りなく減らす必要があるだろう、その、だらだらというのは、休むな、ということではない。


頑張れという声への対処


問題は、シンプル。解決策もシンプル、それは、シンプルな状態を保つということだ。


イライラしてもよい、遊んでもよい、眠ってもよい。

そのどれもが、意識的に、シンプルにすることだ。イライラしながら落ち着こうとしたり、遊びながら勉強したり、うつらうつら眠るでも起きるでもない状態になったりすることを避けることだ。



人は思うより単純にできている。

自分の気持ちと感覚を忘れないことだ、耳を傾けることだ。











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ウイスキーと新しいスポーツと
2016/07/14 00:00 | Comments(0) | イライラ対処
新しく始めたスポーツをしてみた。楽しかった、それようの施設の使い方、ロッカーとか、分からないことも多かったけれとも、仲間と一緒にわいわい楽しんだ。

そのあと、別のグループから、大事なはなしがあると、呼ばれた。最初のグループで、の見に行こうと誘われたが、大事なはなし、とは、それは、先日書いた、頼る頼られる、の話しに通じるのでは、と思って、そちらに向かった。

話としては、仕事の悩みであった。そのさいに、元気付けようと、死からの逆算のはなしをした。それは、意思というよりも、自然にはなしてしまった。

とても説得力があるといわれたが、いや、そもそも、自分の問題は自分でしか解決できず、それは、僕のはなしをきいて、そのなかで、違うと思うような部分、それが、自分なのだと、話をした。


伝わったかどうかわからないし、忘れてもらってもいいと思う。

でも、なんらか、すこしでも、考えることについて、指針やネタにしてもらったのなら、嬉しいと思う。

ポイントは、他者との比較の無意味性だが……


僕が普段、こんなこと話さないから、驚いていた、でも、明るく振る舞う相手にたいして、それは、元気になったということではないのだと、その分析が、深いなと、よくみてくれていると、そういってもらえたのは、はずかしながらも話してよかったといえる。


ブログの意味


思った以上に自然に口に言葉がでたのは、ふと、このブログのおかげと思った。

まぁ、確かに、考える生き方の作者や、思考の部屋の作者など、先人たちすごい人たちは多いし、それにうちひしがれている。

が、まぁ、一般的には、狭いコミュニティにおいては、それなりに思考というものが何かを知っているし、実践している、その自信がある。

まぁ、大したことないんだけど、ただ、本気で落ち込んだ人の気持ちは、それが実際に僕の体験などから全然別だったとしても、わかる、のである、とかいうと上から目線なんだけども……

他者を褒めること


今回、二つのグループでのコミュニケーションにおいて、ひとつ実践できたのは、相手を褒めることだ。

自然に、思ったことの表現ができたと思う。

これは、磨けば磨いただけ、光ることであるので、実践どんどんしていきたい。


ところで、僕の発言と、このブログへの記載について、今回はとくに、ブログへの記載内容と同じことをいってたわけだけど、きっと、グループの方々が、このブログを読めば、不快になるのではないか。

なんとなく、そうだと思う、それもあって、あまり具体的なことをかけないけれど、まぁ、具体的な、例えば飲んだお酒の銘柄とか行ったスポーツについてとか書いても、脇道でしかない。

本当にメモすべきことは、メモできたのか。


いや、もうひとつ、ある人が、やはり、複雑な悩みを抱えていることがわかったことだ。

僕にしてみれば、贅沢な悩みなきもしたが、ただ、その重さは、それこそ比較のしようがない。

僕が強調したのは、その比較性の無意味さであるが、果たして伝わったかどうかは分からない。

うーん、まぁ、あまり、僕の話は面白いはなしじゃぁないんだろうし、やはり、もっと自重した方がいいのかもしれない、が、……もうそれもいいや、という気持ちになった。

確かに僕の話は僕の弱味でもあって、利用しようとすればできて、いまの地位を、といっても大したことないが、引きずり下ろすことも容易になるだろう。でも、相手がそれをするかは分からないし、それにされても、それもまた人生だろうし、というよりも、そのていどの人格否定ぐらいは経験すみなのであまり怖くもない。

とかくと、言い過ぎなんだろうけど、ともかく、このブログのようなはなしをできて、不快感はなかった。別の部分でいらっとしたが、大した問題ではない、むしろ、無心になる試みが成功したとも思える。



若いうちの苦労はなんやら


若いうちはいろんな経験して苦労したほうがいい、とかしたりがおで言う奴らがいる。

耳を傾ける必要ない。

所詮それは、深い絶望レベルのものではない。

本当の苦悩など、

味わう必要はない。でないと、僕のように、

いきる意味なんて、答えがなくて無だな、もうしゅうにとらわれてしまうことがある。


人生なんて楽しんだものがちだ!



小学校で自死を考え、中学校で人は楽しむために生きるのだと、哲学的解をだし、結局その楽しむとは何かをわからずいまも悩んでいる。それでいいのかもしれない。


これが僕がこの世に生を受けた意味なのか。


苦しみ悩み、それを表現し、それが他者にすこしでも影響を与えることが、僕に与えられた使命なのか。



使命?
くそくらえ。

そんな、超越的なもののために、僕がいま生きているのだとしたら、あてつけに死んでやりたいくらいだ。

そうじゃない。
自分の問題は、自分でしか解決できないのだ。

その答えを、超越的なものに求めるのであれば、僕のこれまでの思考はすべて無駄であったことに過ぎなくなる。

それは、身体的な死ではないが、精神的な死となるのである。






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思考の分野の先人たちブログ移転しようか
2016/07/11 22:47 | Comments(0) | イライラ対処
考える生き方の購入決定
http://unfixation.gjpw.net/%E6%9C%AA%E9%81%B8%E6%8A%9E/%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%96%B9%E3%81%AE%E8%B3%BC%E5%85%A5%E6%B1%BA%E5%AE%9A

との記事を書いて、届いてから今日初めて読んだけれども、やっぱり、他人の書いたレビューなんてあまり真に受けるものではないな、と思った。
というのは、冒頭、第一章は、非常に面白かったからだ。書店に行けば、人生に成功した人たちの本はたくさん出あえるかもしれない、けれども、人生に失敗した人の本は読むことができないだろう。であれば、私の一冊くらいは、書いてもよいのではないだろうか。

というような表現は面白いと思った。というか、やっぱり、僕のブログなんて、やっぱり珍しいものではないし、既に世の中にそういった本があるとすれば、僕の価値は……


この、いわゆるオンラインゲーム症候群と過日名付けた現象、つまり、上には上がいると何となく面白くなくなってしまうという気持ち、自分との戦いなんだぜ、といいながらも、やっぱり、周囲が気になるということなのかもしれない。

思考というこの分野においても、先人たちはたくさんいるのである。それはまぁ、もちろん、知識としては分かっていたことだけれども、いざ、目の前に、実感するとこれはつらいものである。

離人症

それはおいておいて、その本の中で作者は、どうにも実感が何に対してもわかなくなった時期があったと述べている。
哀しいとか、痛いとか、そういう気持ちは、「分かる」のだけれども、それがどうにも自分のものだとは感じられない。なにか、後ろから自分自身をみているような、そんな感じだという。

大学で、カウンセリングを受けて、離人症では、ということになったという。

離人症、そういえば、そんな病気もあった。解離性人格障害。
調べてみた。

離人症は治りにくい

あーうん、そうだねーそういう感じだねー、納得。しかし、教科書的な表現はやっぱり面白くない。
現に苦しんでいる、そういった表現のほうが、真に迫っている。

考える生き方、の作者もいっていた。カウンセラーは、専門家で、様々な病気の知識があり、その対処法を知っている。知っている、ただ、それと、実際に「苦しみ」を「解る」のとは違うのだと。

仏教に学ぶ生きる意味

サイト、やっぱり、様々、引用しながら書いた方が、役に立つという意味では、そんな気がする。
そんなとき、他のブログとかだと、はてなブックマークなるものがあるらしい。
ボタンがあって、そこをクリックすると、たぶん簡単にブックマークできるのだと思う。

その機能と、ブログとの連携ができたら、便利だと思う。
最近、このニンジャブログが使いづらいと思い始めてきた。

スマホからの投稿はよく消えるし、重いし、そういった意味ではFC2はサクサクしてよかった。
カウンタやアクセス解析など、他のサイト構築においては非常に有益だけれど、トラックバックもずいぶん前に廃止されたみたいだし、他の記事とのリンクというウェブ、としての意味合いがない、使いづらい。

生きる意味に関する質問
http://meaning.main.jp/modules/pico/index.php?content_id=41

ところで、同じ思考系の話であっても、上の記事のように、生きる意味はありまぁす! それは仏教の中にありまぁす! と生き生きと言われると、なんか違う、と拒否反応がある。

いやはや、僕自身、仏教すごいな! って書いてきた記事は数知れず、それでいて何故そんな拒否感が生じるのか、と自分自身疑問に思ったからメモだ。

それは一つ、おそらく、心理カウンセラー的な意味合いにおいて。

仏教がすごいことはそのとおりだと思う。シッダールタさんは、一人の人間として本当に素晴らしい人だと思う。
それはいい、ただし、仏教を学んだから生きる意味をみつけられて生き生きと人生を過ごせるようになりますよ、というのは、「現世御利益」的である。ましてや、その素晴らしい教えを、お金との取引で教えるというのは、「なんか違う」と思う。

シッダールタは、ある村にいって、托鉢(食事などをめぐんでもらうこと)をいつものようにした。
その村人は、乞食にやる飯なんてない。お前たちも畑を耕し働いたらどうだ。と吐き捨てた。
シッダールタは、耕作者よ、我々もまた耕作者である……教えにより人々の心を耕し、甘露の果実を実らせるのだ、などといって、村人を改心させた。
おお、貴方は流石仏陀さまだ、失礼をお許しください、ささ、乳粥を……
と詫びる村人に対して、ここら辺がかっこいいところだが、
いや、説法は、食事の対価にもらうものではない、といって、その場を颯爽と立ち去るのである。


いや、お金大事なんだけどね、実際、考える生き方の作者さんの本も、「購入して」読んだわけだし、上のサイトとか、仏教講座でお金をとることを否定するわけでは全然ないのだ、本当だ。

絡まりあった自我

ただ、「悟りを開いた人から学ぶ」というのが、受け入れられない、という、僕のこじれた「自我」のせいである。
実際問題的にだ、そもそも、生きる意味なんてのにとらわれるのは、人の話を真に聞いていないことも原因の一つではなかろうか。
「真に」というのは、つまり、ああそうだ、そうに違いないと腑に落ちて、その他者の言葉を自己とも他己とも区別がつかないような人たち(ヘルマンヘッセの「幼児人間」のような)である。

そういう人たちは、生きる苦悩なんて抱えないのではないだろうか、いや、この表現は間違っている、その現世的に生きることの苦悩は、間違いなくある、ただし、それは現実の問題に対してであって、生きることそのものではない、ということだ。


何が言いたいかとまとめれば、僕は別に「結論」が知りたいのではないのだ。
考えることそのことそのもの、そして様々な人がそれをしたその過程に興味があるのである。

意味を求めること

ブログの移転はまぁおいておこう。酒を飲んでいるせいで、気分が高まってしまい、誰かとコミュニケーションをとらなければならないという強迫観念にかられただけかもしれない、別に、自分用に書き散らすだけであれば、ここでも、特段問題はないのである。

とはいえ、引用するというのは、もう少し簡単にできるとよい。引用してリンクを貼っている間に、何を考えていたか、何をメモするべきかが薄れてしまうことがあるから。


それにしても、いくつか、面白い本とか、ブログとか見つけて、もっとたくさんあるのかな! と期待すると、途端に裏切られる。

どうにも、スピリチュアルとか、自己啓発とか、これこれこうやったらこうなりますもうほんとハッピ~♪ とか、あきれを通り越して苛々してくるというのは一体何だこれは。

かといって、サンデル教授の白熱教室とか学問的になると、うるせー難しいこといってんじゃねー! となる。まぁ、こっちは、苛々というよりかは、自分の理解力のなさに呆れ落ち込むというのだけれど。

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仕事でも遊びでも自己実現はしない
2016/07/10 11:40 | Comments(0) | 思考及び書くこと
ある40代の方のブログ。
妻も子供もいて、仕事も経営者で、ニューヨークで働いているという。

生きる意味を考える
http://www.cbc-net.com/blog/qanta/2016/05/04/livelong/


そんな「リア充」が、生きる意味を考えるなんて、おこがましいにもほどがあるぜ、と、以前の僕なら思ったかもしれない。

しかし、この上の記事において共感するところは、そして、見習うべきところ、参考にするべきところは、……いや、違うな、よかったところ、とでもいうのか、それは、答えが出ていないということと、仕事というものに対する考え方という点である。
仕事なんていうものは、基本的に暇つぶしだ。幸運なことに私は先進国に生まれたし、適当なバイトでもやって、部屋に引きこもってWikipediaを読み続けていたって死ぬまでの時間を潰すことを許されている。先進国では、よほどのことがないと死なない。
じゃあなんで必要以上に一生懸命働いたりするのかというと、これはもうほとんど生理的な問題だ。人の一生は有限で、有限だからもったいなくて、ゆえにジタバタ頑張って、承認されて快感を得ないと損な気がして、なんか気持ち悪くて働く。

この方も分かっているが、――と書くと、非常に上から目線になってしまい、よく会話の節々にそういう点を醸し出すことが自分はあるから、特に気を付けているのだけれども、ただ他意はなく、自分の方が優れているとか偉いだとかそう思っているわけではないのだけれども、他にどう表現していいか分からない感情なのである。――何故生きるのか、とか考えることは、考えられることは、それだけで「幸せ」という状態であるということだ。

なんやかんや書いてきつつも、とある国の斬首動画とか見ていれば、首を掻き切られる瞬間の苦悶の表情、そして、何やら難しい神への供物の呪文を読み聞かせられている時間、迫りくる死の恐怖、そういったものを感じる状況になれば、「死にたくない」と、無様に悲鳴をあげるのではないか、そう思う。

だから、まずは、こうやって文章を書くことができること、そのことに対する感謝(何への?)を忘れてはならない。この前提の上で、「生きる意味とは」と、考えなければ、それはもう、空虚なものになりさがるのである。

仕事でも遊びでも自己実現はしない

上の、40代経営者の方の言葉として、非常に価値がある記事だと思った。
こういうのが読めるってのは、インターネット社会のすばらしさである。何せ、図書館や本屋さんに行って、いくら探したって、「答えのない」本なんて存在しない。
作者がどう考えているかは別として、その思考の過程があったとしても、結論としては、「ある」のだ。
まぁ、その結論を無視して読むことはできるけれども、どうしても、その結論があるというのは、死の恐怖を考えずに生きる意味を考えるような、矛盾というか、空虚さが残るのである。


さて、前置きはこれくらいにして、「仕事でも遊びでも自己実現はしない」という表現に至ったことを書いていく。
つまり、仕事でどれほど成功したとしても、「で、それが何だったの?」という問いに対して、例えば大勢の人を幸せにしたとか、日本の経済に貢献したとか、とても長く素晴らしく語ることができたとして、そのことに対する「実感」、それがまさに自分が生きた意味であったと思えるかということとは、別であるというわけだ。

だからといって、仕事を軽視するというわけではない、むしろ、余暇を充実させたところで、それもまた押し寄せる空虚さに対応できるものではない。
くだらない話になってしまうが、この「空虚さ」が、襲い掛かるかどうかは、その人次第であって、万人誰でもこの点について悩むかどうかというのは別問題である。
もしくは、少し悩んだとしても、今まさにここにいることを信じ、その行為を信じ、現実を強く生きることができる人も、それもまた多いことだろう。


しかし、いざ、その空虚な問いに取りつかれた人は、はたと困るのである。


お祝いの言葉を頂いた皆様、ありがとうございます。しかし、戦時中に赤紙を受け取った青年が他の人に「おめでとうございます!」と言われるときの気持ちって、命かかってないから比べようがないけど、ベクトルとしてはこんな感じだったのかもしれません。けど、ありがとうございます。というところで御礼に代えさせて頂きます。


また、引用だけれども、この、「おめでとうございます」のとらえ方、これ、当然本人の気持ちは分からないけれども、非常に皮肉的であり、よい表現と思った。
ぶっちゃけストレートに言い換えると、「自分では全然嬉しくないし喜ばしいことでもないと思っているが、一般的にそれは喜ばしい良いことなのだろう、であれば自分もそう感じるべきだ」とか、結論的感情は多岐にわたるだろうが、そういうことである。こういった表現できる人って、頭いいんだろうなぁとか思いながら現実には付き合いたくないなかっこわらいとか、それはつまり、結局他者に「純粋性」を求めているのであり、自分に都合のよい人を求める弱い心性であるのだけれども、とにかく純粋に、面白い方だと思う(と書くとまた上から目線的であるが、僕は(以下略))。

猫の恩返し



もう10時か、早いな。朝7時ぐらいに起きてから、ふと目についた猫の恩返しをみていた。
ルーン王子が他国の会議から帰ってきて、ユキちゃんにプレゼントを渡し、それがハルが幼いころに助けた猫に食べさせたお魚クッキーであったことから、ユキちゃんがその猫だったと分かったとき、感動で涙がこみあげてきた。
「お礼なんていらない! だって私も嬉しいんだもん!」
「やっぱり、猫を助けてよかったのよ!」

それまで、さんざんムタに、おせっかいなんてやいて猫を助けたりするからこんな面倒に巻き込まれるんだ、とか言われていた部分の、素敵な伏線回収である。よいストーリー構成だ。


新しいスポーツも始めてみたりと、毎日がとても充実し、楽しい、と、この楽しいというのも相対概念である。閑話休題。

考えることと書くことと

今しばらく、文字を打つ手を止めて、頭の中だけで考えてみようとした。
途端に、言葉が出てこなくなる、いや、いろいろと浮かぶのだけれども、発生しては消えて、もしくは絡まって、ぐちゃぐちゃと触手がわらわらと発生して気持ち悪くなる。

やっぱり、僕は、書きながら考えることが向いている、もしくは、話しながら考える、ということもできるけれども、これは、言葉にするスピードと思考とが微妙にかみ合わなくて、あんまり適切じゃないということにプラスして、言葉はすぐに消えてしまうから、読み返せないことが、結局後に頭の中のごちゃごちゃぐちゃぐちゃに繋がるだけである。


整理してみよう。

・何か現実生活において、大変なことが起きる。
・問題解決のために努力を行う。
◇問題が解決する→END
◇問題が解決しない→次へ
・更なる問題解決のための努力を行う。
・問題が解決しない、又は解決の答えが見つからない(そもそも答えがない)
・自分に解決する力がない(又は時間がない、物理的に不可能)
・何故自分はこれほど頑張っているのか
・そもそも何故自分は生きているのか
・生きる意味などない、それを考えること自体が幸せである
・しかし現時点で自分は苦悩している
・苦しい思いをしてまで生きているのは何故か
・今が苦しくても、楽しいことがあるはずである
・楽しいことがあったとしても、また苦しいことが発生する
・楽しかったり苦しかったりの繰り返しが人生だとして、それが何の意味があるのか
・意味なんてない、その繰り返しこそが人生である
・その繰り返しをすることが何になるのか
・意味なんてない
・意味がないとしたら、生きている意味だってないのではないか
・本来的に生きる意味はない
・というと?
・生きたい、知りたい、仲間になりたいという脳の機能、本能がある
・本能が故に人は生きるのである
・だから生きる意味を考えることは無駄である
・本能を満たすためだけに生きる
・何れ死はやってくる
・死に対して、本能は無力である
・生きたいという最大の欲求は必ず否定される運命にある
・それでも本能に従い苦しい思いもしながら生き続ける必要があるのか
・必要性の問題ではない
・ではなにか?
・それを自らが望むかどうかだ
・積極的に死にたいわけではない
・けれども、何れ迎えるであろう死を考えたとき積極的に生きたいとも思えない
・お前という個の役目はもはやないのだ
・だから別の生命を生み出すという行為しか残されていない
・しかし子供をつくるということは、結局は脳の認識に過ぎないのでは
・というと?
・自慰行為と性行為に個体として、身体としての認識の違いがあるとは思えない
・それは勝手な推測である
・確かにそうだ、しかし、子どもを育てて立派にするということ、その立派とは何か
・もっといえば、子どもを育てることにより自己の問題が解決する根拠だってない
・経験しなければ分からない
・そのとおり、だがその思考になれば、死すら経験しなければ分からないことになる
・であるならば、思考はすべて無意味としかならない(経験が至上であれば、考えたって、死んでみないことには死とは何か分からないのだから)

思考は無駄である

紆余曲折あるが、大抵のロジックはこのようなものであって、結論として、思考しても、生きる意味など考えても無駄である、ということになる。

じゃあ、上の流れで頭を回転させたとして、現時点非常に困難な問題を抱えている場合において、果たして、それで納得するのだろうか。上のロジックは、今まさに、現状を憂いて自殺しようとしている人に、死を思いとどまらせるだけ強いものであるのか。


おそらく、否である。

もっとも、自死をするには様々な原因があるから、その原因を取り除くことが第一優先なのだけれども、結局、

生きる意味なんて考えてたって、人生有限なんだから、楽しまなきゃ損だぜ!

とか言えるのは、実際問題現時点楽しんでいる人たちだけなのである。


いやはや、貧困問題とか様々あって、恋人はおろか彼女すらできたことがないとか、ひどいイジメにあっているとか、自分の生活と他者の生活を比べても、全く意味のないことである。

この意味のなさというのは、仕事で自己実現とか、プライベートを充実させるとか、その程度で解決するものではないのである。

これが、「実存問題」という。

今まさに俺が生きてるんだ。
その俺が苦しんでるんだ。
どうしてくれるんだ。

なんとも身勝手で、かっこ悪いものだ。

実際問題、まぎれもなくかっこ悪い。だから、あんまりこういった表現は多くない。

いやきっと探せばあるのだろうけれども、中々でてこない。

そりゃそうだ、だって、かっこ悪いのだから、女にもモテないだろうし、仕事にも役立たないだろうし、そもそも「楽しくない」ことなのだ。

脳内世界とイデア界

リア充は、現実世界に答えを求めようとする。
オタクは、脳内世界に答えを求めようとする。

と表現するのは、本田透氏である。




本当の「哲学」を学ばれている方々にはたいそう許せない内容だそうだが、「考える」ということとは何か、ということを学ぶには、とてもよい教材のように思った。

例えばプラトンのイデア論は、様々な物質や事象は永遠なもの「イデア」から映し出された虚像なのである、と理解しておけば、テストで点はとれる。(洞窟のたとえ)

けれども、何でそもそもプラトンさんはそんな、「理想の園、イデアはあります!」なんて言い出したのか。教科書的には、師ソクラテスが処刑されたことによって、政治の堕落に失望し……なんてあるけれども、そんな崇高な理由だと親近感がわかない。

本田氏は、(やや強引だが)プラトンは現実ではモテないから、脳内で萌えたらいいんだ! と気付いた、という。

まぁプラトンが本当にモテたかったのかどうかは分からないけれども、そもそも、歴史に理由とか意思なんてものを見出そうとするのは、蛇足というか後付けでしかない。歴史にイフはない、というのは、歴史とは、単に事実であるということなのだ。

物理学の使命

脳内で理想を見出そうとするか、科学をもってして物理法則の統一理論を導こうとするか、方法は違えども、唯一無比な根本原則がある、と信じて追究する点は似ている。
電気力と磁気力を統一したのがマクスウェルの電磁気学だが、そうやって、一つの式で、諸条件を与えることによって、一つの確定した解を導き出せる方程式を突き止めることが、物理学の根本使命なのだという。素直にかっこいいと思う。

やっぱり、そういうかっこいい目的のための仕事に携わることが、生きる意味を導くための大事なことなのだろうか。

これが、仕事への生きがい、ということだが、往々にして、第一線で活躍する科学者になるには、非常に困難が待ち受けている。これって、プロ野球選手になるのと同じぐらい、かは分からないが、とにかく大変なことだ、といって大変だからやらなくてもいいかというとそういうことではない、努力が大事だ、頑張れ、やればできる! とかいうのは、思考ではないので、わきにおいておこう。

とかく、例えば、第一線ではなくても、研究助手(ポスドクとか)のような仕事だってあるし、研究所の清掃員だってとても大切な仕事だ。きれいな職場が維持できるから研究ができることもある。

となると、結局、僕が今やっている仕事だって、「人のため」になる仕事であり、誰かの役に立っている。それをどこまで信じられるか、という問題だとすれば、結局、どの仕事だって同じ。

このあたりに、仕事を生きがいにしても、生きる意味から逃れられない困難性をぬぐえない理由がある。


第一、ふと冷静になってみて、宇宙の根本原則である「解」が見つかったとして、では、自分が生きた意味は何だったのか、苦しい思いをして、その研究に携わって、答えを見つけたとして、それが何だったのか、となったら、目も当てられない。

ノーベル賞はとったかもしれない、たくさんの人の賞賛が手に入ったかもしれない、使いきれないだけの莫大な富を得たかもしれない。

しかし、死からは逃れられない。

その瞬間に、自分の人生に疑問を抱いてしまったとしたら、それほどの悲劇が存在するだろうか。

死の間際の苦悩

素晴らしい業績、功績をつくりだした人が、そのことすら懐疑してしまうのであれば、早々に自死をした場合と、どちらが良かったのか、全く分からなくなる。

もちろん、残された人類にとっては、幸福でしかなく、感謝してもしきれないだろう。
アインシュタインの相対性理論(一般相対性理論?)がなければ、GPSの誤差大きくなり使い物にならなかったのだ。
(と、書いてから調べてみると、どうやらカーナビと相対性理論は関係ないらしい。とある書籍で知って、へーそうなんだ、と思って「信じて」いたけれども、違っているということもあるということなのだ。最も、その読んだサイトの内容が正しいかどうか、僕の頭では判断できていない(ちょっと読む分には正しいように思われる)から、どっちにしろ「信じる」しかない)


うえのカッコがきの蛇足、を書いていて思ったけれども、その「信じる」ってのが、非常に思考において重要になってくる。

日本人は特に、宗教を毛嫌いする傾向にある……というのも、単に一般的に言われているだけで、例えば、今ある政党を一つずつ調べていけば、その繋がりも見えてくる場合もあるから、それだって一面をとらえているだけに過ぎない。

とにかく、「信じる」というのは、どうにもこの科学的な社会において、蒙昧で、無知で、恥ずべきことのように考えられることが多いながらも、実は、一般人は(いやもちろん、僕がとりわけ頭が悪いというのもあるのだろうけれど)それほど多くのことを理解できるほどの頭脳をもちあわせていない。
「論理的思考力」というのは、鍛えられるものだし、頭がいい人は、型にはめて理解して応用する力に優れている。

が、その「型」が、本当に正しいかどうか、ということは、実は「記憶」と言い換えることもできるものの、「信じている」ことに他ならないのである。

科学だってそう。お金だってそう。

友情や愛だってそう。

自分が明日元気に生きているという思いだってそう。



いろんなことを、人は信じて生きているのだ。

この近代、現代に何故宗教がなくならないのか、自爆テロなど、宗教をめぐって人は何故そこまで残酷になれるのか、凄惨なことが起きるのか、理解できないことが多いだろう。

しかしそれは、資本主義社会が絶対善だと信じられているように、人はそもそも、信じることで自らの生活圏を守っているのである。


「のである」とか、カッコつけて書いているけれども、結局そのことだって、証明できているわけではないのだし、僕も結局単に「信じている」だけである。

ただ、ここで言いたいのは、メモしておくべきことは、その「信じること」、最近よく使う表現に言い換えれば、「実感」や「実存」ということが、重要であるということだ。

長くなったな。誰がこんなの読むんだ(笑)。


まぁ、少なくても、僕は読むだろう。ので、もう少しだけ書き進めよう。



考えるうえで気を付けるべきこと

・実感を重要視する(他者を気にしない)
・書くことの意味を疑わない


2点目、これはもう、表現しつくしたのではないか。さすがに、もう、このことは書かなくてもよいのではないか。

1点目と合わせて、特に僕は、書いていないと頭が整理できないようなのだ。
本当は、図解したりとか、もっと手っ取り早い表現方法や思考方法があるのかもしれないけれども、その図解するに至るまでの思考がそもそも「始まらない」(笑)。

図解は結局、僕にとっては、他者に分かりやすく伝えるための手段でしかないのだろう。いや、これはまぁ、訓練して、頭の中に図を描けるようになれば、思考スピードも速くなるのだろうけれども、それはまた別のはなしだ。

だから、もうこの先、「このブログに何の意味があるのだろう」とか、「書くことが何になるというのか」「生きる意味を考えてどうするのか」、これらの疑問というか、それはもう抱かないことにしてはどうだろうか。

考えることとか、生きる意味とは何かと問うてみることとか、それ自体がどうであれば、もう現に生じる思考はどうしようもない。

意識的に考えないようにする、坐禅とか、そういう行為や、酒や女とか、友達と遊ぶとか、それらもまた別の次元で必要だろうけれども、それとは別に、この「思考」というのは、もう一生付き合っていくしかないのではないか。


そりゃあ、たくさんのサイトで、「生きる意味なんてありません」とか「考えたって無駄です」って言われているわけなんだから、それはきっと真実なのだろう。

ただ、その真実が、果たして「僕にとって」の真実かどうか、それを、まだ僕は「信じられない」のである。

そして、きっと、そのことは、僕はずっと「信じられない」のではないか。


……うーん、やっぱり、「ではないか」と疑問形で打ち込んでしまった。

やはりこれについても、まだ結論を書けるだけの気持ちがかたまっていないということなのだろう。

1時間半ぐらいも考え、書いているが、今日もまた、何ら結論がでないまま終わってしまうのか。(久々にデスクトップパソコンで書いた)

しかし、ただ、一つだけいえることは、悶々と、苛々として時間を過ごすよりは、よほど充実した素晴らしい時間を過ごせたと、そう「実感」できる、ということだ。


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