幸せ、という言葉自体が好きではないが、それは別に不幸が好きというのではない。
幸せとか不幸とか、相対概念を求めることの危険性と無意味さを思うだけだ。
何故そんな、いま更なことを書いているのか。先日引用したブログのひとつで、周囲の反対を押しきり美人と結婚したある男性のことが書いてあった。結論、家庭生活でもうまくいかず、子供は二人さずかったものの、妻からは蔑まれ、あるとき40代で亡くなったという。
雷にうたれて死ぬのもそう。
まったく、生きていて報われることのない人もいる、たくさんいる。
仕事がうまくいかず、叱られて、落ち込んで……そんなときに読むと、最初の言葉のようなものが浮かぶのだ。
とはいえ、それほど落ち込むものでもない、ご飯を食べたら少し回復だ。これくらいの感情ダメージなど、ダメージにも当たらないほどだ。
これが10年前なら強がりだったろうが、いまはほんと、それ以上にダメージとなることが色々とあったから、比較すると大したことないとわかる。
と、書くと、ほら、やっぱり、若いうちの苦労はした方がいいんだよ、とか短絡的にいいたくなるだろう。そんなわけない、努力はあってもいいが、苦労など必要ではない。
だって、明日どころか、あと数時間で死ぬかもしれないわけだろう。いまが苦しければ未来で救われるとか、寝言にすぎない、その元説が意味をなすのは、未来の楽しさの信仰が翻って現時点にあらわれるからにすぎない。
ある著名人が侮蔑した、というが、補足されていて、創作物を否定するわけではなく、ちょっと過激な発言をしてみた、ということだそうな。
まぁ、そんなことだろうと思った、というか、僕の疑問そのままであって、少し笑ってしまった。
所詮、他者の言葉は、表現である。
真実性をもった厳密な言葉など、そう簡単につくりだせない。
かといって、文章をねりにねって作ったとして、その厳密性がわかりやすいかというとそれもまた違う。
法解釈の難しさは困ったものである。で、分かりやすく解釈して書いたら、もれがあったり、逆に他の人にはわかりづらかったり。
つまるところ、相手にどう伝わるか、だけ機にすればよい。
で、相手にあわせた言葉を使うわけだが、誰にでも合わせられるかというと、まぁ合わない人もいる。そこで努力してあわせてもいいが、苦労になるほどなら、即刻やめてもいい。
人はすべからく、楽しくあるべきだ。この言葉も好きじゃないのだが、他に表現がない。
あるべきようにあればいい。
なるようになればいい。
と書くと、それはまた、ちょっと違う気がするし、難しい感覚だ。
これは、中観とか、空(くう)、という表現が可能と思うが、そもそも抽象概念であって、それを表現しても万人に意味を伝えることは不可能だ。
ヴィトゲンシュタインの、語り得ないことは沈黙しなければいけない、というのは、このことを示していると、僕は理解している。
が、その、このこと、が、なんなのか、ちゃんと表現できるすべをもたないのが、僕が凡人なところだ。
それでもなお、その、楽しくあれ、というのが、あるべきだと確信する。
犯罪者、感情がない者、倒錯した快楽を目指すもの。
この、楽しくあれという思想は、この問題に直面し、破綻する。
だから、政治学などで語られる、正義、にはなりえないものだ。
けれども、この、日常思考と、実存としての意味においては、これらのことを気にする必要はない、というか、そんな時間がない。
考えることは、生きる意味とか、正義とか、倫理とか道徳とか、普遍的ルールなど、僕の日常思考と似ているけれども、
政治学といった学問や科学とするには、することができるのは、実存の問題が片付いた人たちだけである。
15年、といってもいいかもしれない。
自我が芽生えて以来、この問題は僕の身近なものだった。
しかし、時に忘れたり、脇においたりと、気づかないようにしていたときもあった。
しかし、それでも、長いものだ。
その間、楽しいもの、快楽の得方というのは、様々学ぶことができた。
それでもやはり、この問題は、ずっとそばにいたのである。
いま、重要なのは、目的、目標だ。
目的は、その到達点であり、目標は到達のための具体的数値化可能な行動の集合である。
何年後にプロットするか。
ただ、それより、それにしても、よくもまぁ、これほど言葉が出てくるものだ。
いずれ、同じことを繰り返すだけになるかとも思っていたが、日常のあれこれを元にしてかきはじめると、そのときどき違った表現になる。
だらだらと、書き続けていいものか?
ただ、誰がみてくれようがいまいが、書いているのは楽しいのである、であれば、先の、楽しくあれ、としての方針に合致してるから、いいんじゃないか、となるが、どうも、違う気がする。
なにか大きなことをやりたいのか、障害者施設におしいって日本の歴史に残るくらいの殺人をすればいいのか、とか、こんな表現をしてると、逮捕される日がくるかもしれない、そういう意味で、表現の自由を制限するような法律は基本的に反対だ。GTAとかやったら犯罪をおかすとか、例えそれが確率論的に科学的に証明されたとしても、反対だ。そのうち、ネガティブなことを考えたり書いたりしただけで逮捕される時代になるかもしれない。
書いておくが、別にそれでもいい、その事自体はいいのだ、問題は、僕が許せないのは、そのネガティブの定義なんてどうせ誰にもできないということである。
ネガティブもぽじてぃぶも、相対概念だ。だから、あるそのときどきの為政者が考えるネガティブ概念によって取り締まりがされるのだ。
幸せの義務化、とか、そんな表現すれば、安易に厳罰化とか規制を推進する人にも、違和感を与えられるだろうか? きっと、それとこれとは次元が違うとか、いくらでも反論することだろう。
だから、そういう人を目にしても、特に戦おうとはしない。ただ、仲良くなろうとは思うかもしれないが、心を開こうとは思うまい。
心をひらく!?
面白い表現が自分からでたものだ。
幸せとか不幸とか、相対概念を求めることの危険性と無意味さを思うだけだ。
何故そんな、いま更なことを書いているのか。先日引用したブログのひとつで、周囲の反対を押しきり美人と結婚したある男性のことが書いてあった。結論、家庭生活でもうまくいかず、子供は二人さずかったものの、妻からは蔑まれ、あるとき40代で亡くなったという。
雷にうたれて死ぬのもそう。
まったく、生きていて報われることのない人もいる、たくさんいる。
仕事がうまくいかず、叱られて、落ち込んで……そんなときに読むと、最初の言葉のようなものが浮かぶのだ。
落ち込むほどでもない
とはいえ、それほど落ち込むものでもない、ご飯を食べたら少し回復だ。これくらいの感情ダメージなど、ダメージにも当たらないほどだ。
これが10年前なら強がりだったろうが、いまはほんと、それ以上にダメージとなることが色々とあったから、比較すると大したことないとわかる。
と、書くと、ほら、やっぱり、若いうちの苦労はした方がいいんだよ、とか短絡的にいいたくなるだろう。そんなわけない、努力はあってもいいが、苦労など必要ではない。
だって、明日どころか、あと数時間で死ぬかもしれないわけだろう。いまが苦しければ未来で救われるとか、寝言にすぎない、その元説が意味をなすのは、未来の楽しさの信仰が翻って現時点にあらわれるからにすぎない。
ポケモンgoの批判
ある著名人が侮蔑した、というが、補足されていて、創作物を否定するわけではなく、ちょっと過激な発言をしてみた、ということだそうな。
まぁ、そんなことだろうと思った、というか、僕の疑問そのままであって、少し笑ってしまった。
所詮、他者の言葉は、表現である。
真実性をもった厳密な言葉など、そう簡単につくりだせない。
かといって、文章をねりにねって作ったとして、その厳密性がわかりやすいかというとそれもまた違う。
法解釈の難しさは困ったものである。で、分かりやすく解釈して書いたら、もれがあったり、逆に他の人にはわかりづらかったり。
つまるところ、相手にどう伝わるか、だけ機にすればよい。
で、相手にあわせた言葉を使うわけだが、誰にでも合わせられるかというと、まぁ合わない人もいる。そこで努力してあわせてもいいが、苦労になるほどなら、即刻やめてもいい。
楽しくあれ
人はすべからく、楽しくあるべきだ。この言葉も好きじゃないのだが、他に表現がない。
あるべきようにあればいい。
なるようになればいい。
と書くと、それはまた、ちょっと違う気がするし、難しい感覚だ。
これは、中観とか、空(くう)、という表現が可能と思うが、そもそも抽象概念であって、それを表現しても万人に意味を伝えることは不可能だ。
ヴィトゲンシュタインの、語り得ないことは沈黙しなければいけない、というのは、このことを示していると、僕は理解している。
が、その、このこと、が、なんなのか、ちゃんと表現できるすべをもたないのが、僕が凡人なところだ。
それでもなお、その、楽しくあれ、というのが、あるべきだと確信する。
サイコパス
犯罪者、感情がない者、倒錯した快楽を目指すもの。
この、楽しくあれという思想は、この問題に直面し、破綻する。
だから、政治学などで語られる、正義、にはなりえないものだ。
けれども、この、日常思考と、実存としての意味においては、これらのことを気にする必要はない、というか、そんな時間がない。
考えることは、生きる意味とか、正義とか、倫理とか道徳とか、普遍的ルールなど、僕の日常思考と似ているけれども、
政治学といった学問や科学とするには、することができるのは、実存の問題が片付いた人たちだけである。
生きる意味を求めて
15年、といってもいいかもしれない。
自我が芽生えて以来、この問題は僕の身近なものだった。
しかし、時に忘れたり、脇においたりと、気づかないようにしていたときもあった。
しかし、それでも、長いものだ。
その間、楽しいもの、快楽の得方というのは、様々学ぶことができた。
それでもやはり、この問題は、ずっとそばにいたのである。
長期目標
いま、重要なのは、目的、目標だ。
目的は、その到達点であり、目標は到達のための具体的数値化可能な行動の集合である。
何年後にプロットするか。
ただ、それより、それにしても、よくもまぁ、これほど言葉が出てくるものだ。
いずれ、同じことを繰り返すだけになるかとも思っていたが、日常のあれこれを元にしてかきはじめると、そのときどき違った表現になる。
だらだらと、書き続けていいものか?
ただ、誰がみてくれようがいまいが、書いているのは楽しいのである、であれば、先の、楽しくあれ、としての方針に合致してるから、いいんじゃないか、となるが、どうも、違う気がする。
なにか大きなことをやりたいのか、障害者施設におしいって日本の歴史に残るくらいの殺人をすればいいのか、とか、こんな表現をしてると、逮捕される日がくるかもしれない、そういう意味で、表現の自由を制限するような法律は基本的に反対だ。GTAとかやったら犯罪をおかすとか、例えそれが確率論的に科学的に証明されたとしても、反対だ。そのうち、ネガティブなことを考えたり書いたりしただけで逮捕される時代になるかもしれない。
書いておくが、別にそれでもいい、その事自体はいいのだ、問題は、僕が許せないのは、そのネガティブの定義なんてどうせ誰にもできないということである。
ネガティブもぽじてぃぶも、相対概念だ。だから、あるそのときどきの為政者が考えるネガティブ概念によって取り締まりがされるのだ。
幸せの義務化、とか、そんな表現すれば、安易に厳罰化とか規制を推進する人にも、違和感を与えられるだろうか? きっと、それとこれとは次元が違うとか、いくらでも反論することだろう。
だから、そういう人を目にしても、特に戦おうとはしない。ただ、仲良くなろうとは思うかもしれないが、心を開こうとは思うまい。
心をひらく!?
面白い表現が自分からでたものだ。
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雷でうたれて死ぬってほんとにあるんだな。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
現実肯定主義
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
価値判断
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
精神疾患の娘を殺害
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
雷で死ぬ
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
コンセプトがあるカフェに複数人で行った。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
遊びの種類
逆にいってしまうと、ほとんどの遊びってものをやった気もする。女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間嫌い
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
書くこと
いやぁ、たぶん誰もみてないだろうが、いろいろやってみて、こうやって思ったこと書いてるのがやっぱり楽しい。なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
やりたいこと
是非また誘って欲しいと思っている、が、一人でいきたいとは思わないってとこだな。というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
2008年からの記事を読んだ。携帯からだと、過去記事のリンクがないから、PC表示にしたが。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
最もよき理解者である他人
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
他者じゃダメな理由
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
親友とは
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
ニュースくらいは見なければと思って毎日トピックスを眺めるものの、面白いのは滅多になくなってきた。
交通事故とか、首都の選挙、ミサイル発射や領海侵犯、どれもこれも重大な問題なのだが、これらに真剣になれないのは、やはり、自分の問題が大きいからだ。
そのなかでも、ある国の大統領選挙において、かなり過激な発言をする人が、候補に選ばれたという。その理由が、決められる親父だから、ということだ。
現在の大統領は、繊細で気配りができて、スマートで。ただ、物事の複雑さを、そのまま有権者に語る、それは世界の真実なのだが、その複雑さが面倒なのだ。
新しい候補は、敵か味方か、はっきりさせて、解決法も一本道で示す。
不安を抱えている民衆にとっては、救世主のように思うのだ。
まさに、第二次世界大戦のころの、ヨーロッパのある国のようだが。
最近平和なのだろうが、人間の本質がそうそう進化したとは思えない。日本の軍部が暴走したとか語られることだが、それは昔の人がしこたまアホだったわけではない、そういった方向に向かう環境があったのだ。
その、環境の話と、責任とは別。
例えば、幼い頃いじめられたり、性的虐待をうけたりとひどい環境で育った人がいても、現時点、何らか犯罪をおかせば、情状の余地はない。
いまさら、なにいってんの? いい大人でしょ?
で終わる。
努力を否定するわけではないが、今日急遽飲み会になり、いまから帰るが、やっぱり、ルックスがいい人は幸せな人生を送れるのである。
この、ルックスというのは、いわゆる努力でいかんともしがたいため、思考のタブーとされる。
だって、考えたって意味ないんだもん。
でも、この、ルサンチマンというものは、まずもって、表現の根本とすべきだ。
で、ないと、自分に必要な言説について、抜け落ちてしまうことになりかねない。
こんなこと書いて、なんになるのか、であるものの、結局……
長い記事がよいわけではない、先日の、虫瞰のブログは、週刊で短くまとめられていて非常に読みやすい。
しかし、僕は、あんまり短いと、投稿する気になれない。それは、ちゃんとまとめられてないからなのだけど、結局、自分で過去記事を開いたとき、え、これだけ? と、損した気分になることを防ぐためだ。
文章にも、ノリ、というのがあって、勢いある部分とそうでない部分とで、面白さも変わってくる。そのノリが、自分の記事だと、昔のものでもなんとなく分かるから、長くてもそれほど気にならない。逆にその強弱が自分でも分からないものは、無理して表面的な言葉を連ねただけだったのだろう、面白くない。
さて、急遽の飲み会で、どんな子がタイプか、みたいな話になった。
すごく、困った。
一緒に考えてくれる子?
いつも笑顔でいてくれる子?
自分の意見をしっかりもってる子?
論理的な考え方ができる子?
すぐに答えられない自分に気づき、あれ、やっぱり、他者の存在を僕は望んでいないんじゃ、って思った。
認めたくないが、自分大好き人間で、他者の存在を認められず、嫌い、果ては憎んでいるのではないか。
むしろ、嫌いとか、憎んでいるのですらなく、他者に興味がないのかもしれない。
ネタバレになるが、アイアムアヒーローで、主人公のその、他者に対する距離感みたいなものが、物語のキーポイントになっていることが、最近の巻で明かされた。
でも、僕は、他人に興味ないんでしょ、といわれたら、違うと否定したくて、むしろ、自分含めた人間に興味ないんでしょ、と言われた方が嬉しい。
ただ、それはきっとよくないきがするから、それをなんとか、求めようとしているわけだけど。
話がずれた、好きなタイプ、である。
恋愛として、男女問わず、自分を好きになってくれる人が好き、というのは、よくないのだそうだ。
相手のなにか、尊敬するとこでも、好きな身体の部位でも、求めるところがないと、関係は成り立たないという。
僕はこれって、いわゆる恋愛が商品化した状況における、裕福な考え、例えれば贅沢品のようだと思う。
13歳で家のため結婚し、14歳で出産し跡継ぎをつくり、という社会もあるそうだ。
ただ、家族というか、結婚という目的を考えれば、子供をつくって育てる環境を整えるため、であって、そこに、好きとか嫌いとか、パートナーそれ自身の好み、それは別の話と思うのだ。
だから、僕は、きっと、好きなタイプを聞かれて悩んでしまった。
次元が違うのだ。
子供に優しく愛情を注いで大切に育ててくれるような人がタイプです。
となら、そう思う。
じゃあそれって、どんな理想の家庭を考えているのかとか、優しく愛情ってなんなのか、ってのが、まだまだ自分の考えの足りない部分である。
イケメンが何も考えていないかとか、そんなことはない。仕事ができる人が遊びを知らないかというとそんなことはない、むしろ逆だったりする。
そして、問題になるのは、思考と身体の関係である。
これまで、このことは、何度も触れつつも、真剣に考えようとせず、自慰のように書いていただけだったろう。つまり、思考というものと、身体、自分自身の、もう顔から手足から体毛からニキビから声、息、すべてとの関係。
人間とは総合、総体である。と最初にかきはじめるのがキルケゴールさんだけど、僕は最初高校生に読んだとき、なんかよくわかんねーな、って思った。いまは、少しわかる。
まず、エンターテイメントの主人公なんかじゃなく、自分を知れってことなんだ。
孫子じゃないけど、こうやって書くと、ありふれた表現になって面白くないけど、自分自身の分析がまず必要。
この、自分を知る作業、ここが、いわゆる思春期によくやる作業であって、これが結構苦痛で、いやになっちゃう人も多い部分。
イケメンや美人だったらいいんだけど、男女問わず、不細工でモテなかったりすると、こんなの自分じゃない! となる。不細工がさらにましてカッコ悪くて気持ち悪い状況だ(笑)
不細工よりも、不細工を認められない勘違い不細工の方がたちが悪いのは、誰しも認めるところだろう、それはそれで、ここの問題は、その不細工を、いままさに、その、自分自身として認められるかどうかだ。
よく、あいつなになにだから、自分はできるって勘違いしてるよな、とか、最近の表現だと、意識高い系とかそういった言説があるが、僕はそういうことほとんど言わない。怖いのだ、そのことが事実だろうが、自分がそうかもしれないという不安があるのだ。
ここら辺の、不細工は不細工なりに、という、これは一見ネガティブなんだけど、全然そんなことなくて、むしろポジティブに大切なことなんだけど、これは口でいっても相手にわからせることができるものでもないし、ましてや、現実コミュニケーションで、そんなこと伝える必要がないのだ。
まったく飲み会では役に立たない内容だけど、このあたりの説明は、僕は繰り返し書いてきて、探せばたくさん出てくるだろう。
今日は、残り十分位だが、もう一歩考えたい。
いやそもそも、こういった表現、自己分析みたいなことが、ものすごくくだらなくて、即刻やめるべきだ、って、言われたこともあるし、自分でもそう思っていた時期があった。
でも、僕はもう、この辺は、ぶれないと思う。
誰に言われようが、考えなきゃ、この先人生に対応できない、ってことだ。
これは、他の人にはきっとあてはまらないだろう。馬鹿げたことに思われるだろう。きっとこの先も、こんなこと表現してると、気持ち悪いとか言われるのだ。
他者に合わせて生きてきた。
そのときどきの環境、コミュニティにあった考え方や振る舞いをしてきた。
それは、これからもそうするかもしれない。
でも、この、考えること、表現することはやめない。
僕にとってこれは、僧が、無為に思われるかもしれないが、坐禅を何時間もすることと同じ。ある経営者が、朝起きてからマジックワードを唱えるのと同じ。
喫煙者が身体に悪いと知りながら一服するのと同じ。
酒を飲んでリセットするのと同じ。
友人たちに愚痴を語るのと同じ。
僕は、考え、表現することで、自分自身として、存在するのだ。
ところで最後に、先にあげたブログのなかで、やっぱり、尊厳死とかあっていいんじゃないか、という記事もある。家族が介護を続けるという矛盾の指摘もある。
上の、考え表現することで前向きに人生送ろう、みたいな結論を書いたわけではないと、未来の自分にいっておく。自死も、有意義な選択肢であり続けている。
だから、この考えることは、人生の現実直面する困難に劣らず、命がけ真剣に取り組むべきことであり、決して、これまで時おりあったような、自虐的でいてそれを認めて欲しいと望むような、自慰行為であってはならないことを、今この時点でも自覚している、ということだ。
どうか、この記事を読んだ未来の方は、その点を十分に考慮した上で、新しい価値、考え、表現をして欲しい。
交通事故とか、首都の選挙、ミサイル発射や領海侵犯、どれもこれも重大な問題なのだが、これらに真剣になれないのは、やはり、自分の問題が大きいからだ。
そのなかでも、ある国の大統領選挙において、かなり過激な発言をする人が、候補に選ばれたという。その理由が、決められる親父だから、ということだ。
現在の大統領は、繊細で気配りができて、スマートで。ただ、物事の複雑さを、そのまま有権者に語る、それは世界の真実なのだが、その複雑さが面倒なのだ。
新しい候補は、敵か味方か、はっきりさせて、解決法も一本道で示す。
不安を抱えている民衆にとっては、救世主のように思うのだ。
まさに、第二次世界大戦のころの、ヨーロッパのある国のようだが。
最近平和なのだろうが、人間の本質がそうそう進化したとは思えない。日本の軍部が暴走したとか語られることだが、それは昔の人がしこたまアホだったわけではない、そういった方向に向かう環境があったのだ。
その、環境の話と、責任とは別。
例えば、幼い頃いじめられたり、性的虐待をうけたりとひどい環境で育った人がいても、現時点、何らか犯罪をおかせば、情状の余地はない。
いまさら、なにいってんの? いい大人でしょ?
で終わる。
やっぱり美人が得
努力を否定するわけではないが、今日急遽飲み会になり、いまから帰るが、やっぱり、ルックスがいい人は幸せな人生を送れるのである。
この、ルックスというのは、いわゆる努力でいかんともしがたいため、思考のタブーとされる。
だって、考えたって意味ないんだもん。
でも、この、ルサンチマンというものは、まずもって、表現の根本とすべきだ。
で、ないと、自分に必要な言説について、抜け落ちてしまうことになりかねない。
こんなこと書いて、なんになるのか、であるものの、結局……
次の日
長い記事がよいわけではない、先日の、虫瞰のブログは、週刊で短くまとめられていて非常に読みやすい。
しかし、僕は、あんまり短いと、投稿する気になれない。それは、ちゃんとまとめられてないからなのだけど、結局、自分で過去記事を開いたとき、え、これだけ? と、損した気分になることを防ぐためだ。
文章にも、ノリ、というのがあって、勢いある部分とそうでない部分とで、面白さも変わってくる。そのノリが、自分の記事だと、昔のものでもなんとなく分かるから、長くてもそれほど気にならない。逆にその強弱が自分でも分からないものは、無理して表面的な言葉を連ねただけだったのだろう、面白くない。
さて、急遽の飲み会で、どんな子がタイプか、みたいな話になった。
すごく、困った。
一緒に考えてくれる子?
いつも笑顔でいてくれる子?
自分の意見をしっかりもってる子?
論理的な考え方ができる子?
すぐに答えられない自分に気づき、あれ、やっぱり、他者の存在を僕は望んでいないんじゃ、って思った。
認めたくないが、自分大好き人間で、他者の存在を認められず、嫌い、果ては憎んでいるのではないか。
むしろ、嫌いとか、憎んでいるのですらなく、他者に興味がないのかもしれない。
ネタバレになるが、アイアムアヒーローで、主人公のその、他者に対する距離感みたいなものが、物語のキーポイントになっていることが、最近の巻で明かされた。
でも、僕は、他人に興味ないんでしょ、といわれたら、違うと否定したくて、むしろ、自分含めた人間に興味ないんでしょ、と言われた方が嬉しい。
ただ、それはきっとよくないきがするから、それをなんとか、求めようとしているわけだけど。
話がずれた、好きなタイプ、である。
恋愛として、男女問わず、自分を好きになってくれる人が好き、というのは、よくないのだそうだ。
相手のなにか、尊敬するとこでも、好きな身体の部位でも、求めるところがないと、関係は成り立たないという。
僕はこれって、いわゆる恋愛が商品化した状況における、裕福な考え、例えれば贅沢品のようだと思う。
13歳で家のため結婚し、14歳で出産し跡継ぎをつくり、という社会もあるそうだ。
ただ、家族というか、結婚という目的を考えれば、子供をつくって育てる環境を整えるため、であって、そこに、好きとか嫌いとか、パートナーそれ自身の好み、それは別の話と思うのだ。
だから、僕は、きっと、好きなタイプを聞かれて悩んでしまった。
次元が違うのだ。
子供に優しく愛情を注いで大切に育ててくれるような人がタイプです。
となら、そう思う。
じゃあそれって、どんな理想の家庭を考えているのかとか、優しく愛情ってなんなのか、ってのが、まだまだ自分の考えの足りない部分である。
身体と思考
イケメンが何も考えていないかとか、そんなことはない。仕事ができる人が遊びを知らないかというとそんなことはない、むしろ逆だったりする。
そして、問題になるのは、思考と身体の関係である。
これまで、このことは、何度も触れつつも、真剣に考えようとせず、自慰のように書いていただけだったろう。つまり、思考というものと、身体、自分自身の、もう顔から手足から体毛からニキビから声、息、すべてとの関係。
人間とは総合、総体である。と最初にかきはじめるのがキルケゴールさんだけど、僕は最初高校生に読んだとき、なんかよくわかんねーな、って思った。いまは、少しわかる。
まず、エンターテイメントの主人公なんかじゃなく、自分を知れってことなんだ。
孫子じゃないけど、こうやって書くと、ありふれた表現になって面白くないけど、自分自身の分析がまず必要。
この、自分を知る作業、ここが、いわゆる思春期によくやる作業であって、これが結構苦痛で、いやになっちゃう人も多い部分。
イケメンや美人だったらいいんだけど、男女問わず、不細工でモテなかったりすると、こんなの自分じゃない! となる。不細工がさらにましてカッコ悪くて気持ち悪い状況だ(笑)
不細工よりも、不細工を認められない勘違い不細工の方がたちが悪いのは、誰しも認めるところだろう、それはそれで、ここの問題は、その不細工を、いままさに、その、自分自身として認められるかどうかだ。
よく、あいつなになにだから、自分はできるって勘違いしてるよな、とか、最近の表現だと、意識高い系とかそういった言説があるが、僕はそういうことほとんど言わない。怖いのだ、そのことが事実だろうが、自分がそうかもしれないという不安があるのだ。
ここら辺の、不細工は不細工なりに、という、これは一見ネガティブなんだけど、全然そんなことなくて、むしろポジティブに大切なことなんだけど、これは口でいっても相手にわからせることができるものでもないし、ましてや、現実コミュニケーションで、そんなこと伝える必要がないのだ。
まったく飲み会では役に立たない内容だけど、このあたりの説明は、僕は繰り返し書いてきて、探せばたくさん出てくるだろう。
今日は、残り十分位だが、もう一歩考えたい。
現実と自分の距離感
いやそもそも、こういった表現、自己分析みたいなことが、ものすごくくだらなくて、即刻やめるべきだ、って、言われたこともあるし、自分でもそう思っていた時期があった。
でも、僕はもう、この辺は、ぶれないと思う。
誰に言われようが、考えなきゃ、この先人生に対応できない、ってことだ。
これは、他の人にはきっとあてはまらないだろう。馬鹿げたことに思われるだろう。きっとこの先も、こんなこと表現してると、気持ち悪いとか言われるのだ。
他者に合わせて生きてきた。
そのときどきの環境、コミュニティにあった考え方や振る舞いをしてきた。
それは、これからもそうするかもしれない。
でも、この、考えること、表現することはやめない。
僕にとってこれは、僧が、無為に思われるかもしれないが、坐禅を何時間もすることと同じ。ある経営者が、朝起きてからマジックワードを唱えるのと同じ。
喫煙者が身体に悪いと知りながら一服するのと同じ。
酒を飲んでリセットするのと同じ。
友人たちに愚痴を語るのと同じ。
僕は、考え、表現することで、自分自身として、存在するのだ。
ところで最後に、先にあげたブログのなかで、やっぱり、尊厳死とかあっていいんじゃないか、という記事もある。家族が介護を続けるという矛盾の指摘もある。
上の、考え表現することで前向きに人生送ろう、みたいな結論を書いたわけではないと、未来の自分にいっておく。自死も、有意義な選択肢であり続けている。
だから、この考えることは、人生の現実直面する困難に劣らず、命がけ真剣に取り組むべきことであり、決して、これまで時おりあったような、自虐的でいてそれを認めて欲しいと望むような、自慰行為であってはならないことを、今この時点でも自覚している、ということだ。
どうか、この記事を読んだ未来の方は、その点を十分に考慮した上で、新しい価値、考え、表現をして欲しい。
