コンセプトがあるカフェに複数人で行った。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
はじめての土地ではないが、あまり回数はなく、なんとなく見覚えのあるビルとか建物があるかな、ってくらい。
よくいく場所でも、視点や目的が変わると、違うお店やスポットがみえてくる。
仲間と出掛けるのは楽しいものだ。お金ってこういった使い方もあるんだなってのが分かって面白い。
でも、ハマるか、というと、なんか、違う気がする。
その、仮想的な空間というのが……と書くとなんだかよくわからなくなりそうだから、メイドカフェに行った、と先に書いてしまおうか。
まず、お客さん、……ご主人様がたくさんいることも面白い。居場所、みたいなものだろうか。
しかし、付きっきりで話をするわけでもなく、まぁ普通のカフェと同じともいえる。
メイドさんたちを見ているのはそれだけで楽しいは楽しいからいいのだけど。
遊びの種類
逆にいってしまうと、ほとんどの遊びってものをやった気もする。女の子がいる店多種
大衆居酒屋
立ち飲み
クラブハウス
ライブ
ディズニーリゾート
遊園地
バッティングセンター
ゴルフ打ちっぱなし
まだやってないのは、バンジージャンプ、耳掻きとか普通のマッサージ店とか、か。
それら、それぞれ確かに楽しいんだけど、いや間違いなく楽しかったけれども、なんだか、居場所、ってほどにはならなそう。
これって、やはり、人が好きじゃないからなのか。でもそれは、結構深刻になおしたほうがいいと思う。
人間嫌い
人間は社会的動物である、とか、法学の基礎だとかも、人は一人で生きていけないことが基本とされ、自明なこととされている。
だから、本当は、人間存在そのものは、例え幾人かの憎むべき人がいたとしても、愛すべきものだと思う。
これは、実感として、そのとおりと思いながら、どこか、一人でいることを望んでいる、そのたくさんの遊ぶ場所が居場所として何か違うように思うのだとしたら、やはり、人間自体を避けようと思っているのか。
とはいえ、やっぱりそれはよくないと思う。
ただ、ドライブは楽しいと思う、けどそれも、実は一人でするものだったりもするから、反例にはならないな。
書くこと
いやぁ、たぶん誰もみてないだろうが、いろいろやってみて、こうやって思ったこと書いてるのがやっぱり楽しい。なにもしないと何もかけないから、そういう意味で、外に出歩くことはそれだけで価値があるんだけど。
っと、今日のブログなんてまさに、一緒にいった人たちになんてみせられない(笑)
でも、本当に、その遊んでるときは本当に楽しいんだ。別に無理してるわけでもなく、その場で生じられる発する言葉はうそなんかじゃはい。思考の介在がゼロではないが、別にそんなの誰だって同じこと。
そもそも、無理しなきゃいけない人たちとわざわざ休日に一緒になんて出歩かない。
本当に楽しかったといえるわけだ。
まぎれもなく、真実だ、それはいえる。
やりたいこと
是非また誘って欲しいと思っている、が、一人でいきたいとは思わないってとこだな。というか、自分のやりたいことって、なんなのか、本当にめいそうする。
このなんか、物足りなさが、真実の愛が足りないことに起因するのか、それとも、やっぱり一人が好きなのか。
友達や恋人が欲しいってのが、単に、変人だとか思われたくないとか、見栄とか、世間体的な理由なのかとすら、思考上は考えてみる。
思考上は考えてみる
とか、同語反復であるけれど、僕の頭の中では、その点も視野に入れて考察してみる、という意味だ。
こういう、「自分語」を多く使うと、他者から嫌われる、と、先日挙げたヤフー知恵袋の男性についたコメントにあった。うん、まぁ、やめたほうがいいな。
で、ああ、そうだ。ちょっと時間がたって思い出した。
メモしておくべきは、
・ナンパして実際に成功してお持ち帰りをたくさんできる人はいる
・
あ、また、二つ目を忘れてしまった。最近の記憶力はこんなもんである。
日常的なことのほとんどが、ここに書き残しでもしないと、頭から次々と消えていくのがよくわかる。
これがもっと激しくなるのが、ボケ、認知症というわけなのだろう。
そのうち、他者との会話もかみ合わなくなるってのもよく分かる。
まぁともかく、やっぱりイケメン的な人と、そうじゃない人は、同じような人生を送ることはできないってことだ。もちろん、僕が思考分野で尊敬するあの人はイケメンだったから、いやむしろ、ルックスがどうかってのは、悩み苦しみとかに関係ないとは言えるのだけれど、やっぱり、見た目って重要だし、重要にもかかわらず、努力的にどうすることもできない。
まぁ、僕も、真面目っぽくみられるから、それで上手く立ち回れている部分もあるから、重要なのは、自分がどうみられているかをよく把握し、それを最大限利用することにある。
……ってのが、分かると、例えば先のメイド喫茶であっても、かわいい女の子は、自分がかわいいとみられていることを知っていて立ち回るわけだ。まぁ、それはそれでいいんだけど、それってやっぱり、なんだか、萎える要素になるわけである、なにせ、僕は純粋性とか真実性、永遠性を望むのだから(かっこわらい)。
我ながら気持ち悪いことを書いていると思う、が、何だか、ズレているように思える、本当に思っていること、感じていることから、だんだんズレていっている感じがある。何故だろう? 筆が進まない。
今日はもうやめようか。何だか、久々に、アップロードするのが躊躇われる記事な気がする。できがすごく悪い。
けれども、また、明日読むと、違った感覚かもしれないから、これはこれで残しておくか。
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2008年からの記事を読んだ。携帯からだと、過去記事のリンクがないから、PC表示にしたが。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
トップ表示記事にリンク貼ろうかな。
ともかく、2008年は、八年前だ。ちょうど彼女にふられて、哀しみにくれていたころだろうか。
ので、話題もまさに、その恋愛とか結婚とか、異性にまつわる話が多くて、とても参考になる。
なんだか、ある瞬間から楽しく幸せを感じているようだけれども、それは、記事として客観視するとすごく胡散臭いんだけど、これ、自分の記事だからこそ、その感覚は本当だったことがわかる。
その不安定性は、まさにこの後読み進めると分かるのだけれども、少なくてもそのある瞬間においては、至福の時であったのだ。
そのときはまだ、今でも忘れられない思考分野で本気で尊敬したあの人にも出会っていなかった。
もう、あの人とは話せないのだろう、初恋に関する考察など、本当に面白かった。
最もよき理解者である他人
過去の自分、それは、既に他者でありながら、最もよき理解者である。
その頃の自分は、過去に、頼るべき人がいなかった。
そのころにも既にログはあったのだけど、その思考や感覚は、参考にするに値しなかった。もっとも、反面的に、惨めな人をみて安心するレベルにおいては、それすらも役に立ったものだったろう。
その、2008年の記事のなかで、考える経験を早めに積んでおかないと、年取ってから大きな問題に直面したとき、にっちもさっちもいかなくなると、言われていた。
まさに、まさに至言である。
いやぁ、その頃はとても、結婚して離婚するとかそんなこと考えてもいなかったろう。
にもかかわらず、問題の考察とその対処については、賞賛に値する、とか、上から目線でいくら書いても、一切文句がでてこないところが、過去の自分という存在の素晴らしさであるカッコわらい。
逆に、それこそ、引き寄せの法則的には、悪いものを引き寄せた、という解釈になるかもしれないが、でも、やっぱり、幸せしか、楽しさしかない人生なんてありえないだろう。
その解釈性、気付きで対応するのは当然当たり前の部分だけれども、その基盤さえとっぱられる事態だって、避けられないのである。
その一つは自分の老いや死だし、所属コミュニティの崩壊(会社倒産、家族の死、障害などなど)だってある。
2008年、その頃は、生きる意味、という表現はしてはいないものの、実践レベルにおいては、例えば感情の統制についてや笑顔の重要性など、今も軸になっているといえる。
それが、やはり、数年の間、思考が不十分になっていた時期があった。
仕事や、新しい生活、対人関係、など、理由はあった。
でもやっぱり、時間がないとか、そんなの何の言い分けにもならないよ。
何が一番、自分にとって重要か、その実感として、やっぱり考えること、思考、目的追究ということを、思った。
間違ってるかもしれないよ。
もちろん、過去記事にもあったように、誰にでも当てはまるわけでもないだろう。
ただ、間違いなくいえるのは、過去の記事が、仕事でうまくいかずに少し落ち込んでいた自分を、とても前向きに楽しい気持ちにさせてくれたってことだ。
他者じゃダメな理由
ダメじゃないんだろけど、きっと、過去記事と同じことを誰か他の人にいわれても、なんだか同じだけ回復はしないと思う。
それは、その他者の理解レベルが足りないからだ。理解レベルというか、その共感度の大きさである。
やっぱり、どんな勉強してたくさんの知識があって、人格者で優しくて素晴らしいカウンセラーであっても、自分と類似環境において同じだけ苦しんでくれてないと、なんだか胡散臭いじゃあないか(笑)
きっと、幼い頃の経験によって、本当に理解し合える親友と呼べる存在がいる人も多いんだろう。
親友とは
そういう意味だと、ああ、そうか、僕は友だちはいても、親友はいないというのか。
なんだかとっても寂しくなっ……てはないな、何故だろう?
最近ようやく、友人に離婚したことをなりゆき上話して、今度一緒に会うことになった。
なんでも話せる相手、というのを親友というなら、そういう存在はいるから、そんなに寂しくないってことなのだろうか。でもやっぱり、こういった、生きる意味という次元において、切磋琢磨して考えていける相手がいたら、もっと楽しかったのかなっても思った。
でもこれ、前も書いた通り、自分自身でしか解決できない構造の話だし、他者と共有って難しい、僕自身だって、正直常にこんなこと考えてるわけじゃあないのだカッコわらい。
仕事で疲れて帰ってきて眠いところにそんな、深刻な話しされたら、たまったもんじゃない。
まぁ、これはまた極端な例だけれど、ともかく、常にずっと一緒に感情も思考も共有するなんて、誰にだって不可能なのだ。
そういうことを求めなければ、深刻な話しをできる友人だっているのだから、その人たちを親友、と表現してもよいわけだ。だから、さっきも寂しくはなかったのだろう。
そう、友人も親友も、それはまた、相対概念に過ぎない。些末なことである。
ニュースくらいは見なければと思って毎日トピックスを眺めるものの、面白いのは滅多になくなってきた。
交通事故とか、首都の選挙、ミサイル発射や領海侵犯、どれもこれも重大な問題なのだが、これらに真剣になれないのは、やはり、自分の問題が大きいからだ。
そのなかでも、ある国の大統領選挙において、かなり過激な発言をする人が、候補に選ばれたという。その理由が、決められる親父だから、ということだ。
現在の大統領は、繊細で気配りができて、スマートで。ただ、物事の複雑さを、そのまま有権者に語る、それは世界の真実なのだが、その複雑さが面倒なのだ。
新しい候補は、敵か味方か、はっきりさせて、解決法も一本道で示す。
不安を抱えている民衆にとっては、救世主のように思うのだ。
まさに、第二次世界大戦のころの、ヨーロッパのある国のようだが。
最近平和なのだろうが、人間の本質がそうそう進化したとは思えない。日本の軍部が暴走したとか語られることだが、それは昔の人がしこたまアホだったわけではない、そういった方向に向かう環境があったのだ。
その、環境の話と、責任とは別。
例えば、幼い頃いじめられたり、性的虐待をうけたりとひどい環境で育った人がいても、現時点、何らか犯罪をおかせば、情状の余地はない。
いまさら、なにいってんの? いい大人でしょ?
で終わる。
努力を否定するわけではないが、今日急遽飲み会になり、いまから帰るが、やっぱり、ルックスがいい人は幸せな人生を送れるのである。
この、ルックスというのは、いわゆる努力でいかんともしがたいため、思考のタブーとされる。
だって、考えたって意味ないんだもん。
でも、この、ルサンチマンというものは、まずもって、表現の根本とすべきだ。
で、ないと、自分に必要な言説について、抜け落ちてしまうことになりかねない。
こんなこと書いて、なんになるのか、であるものの、結局……
長い記事がよいわけではない、先日の、虫瞰のブログは、週刊で短くまとめられていて非常に読みやすい。
しかし、僕は、あんまり短いと、投稿する気になれない。それは、ちゃんとまとめられてないからなのだけど、結局、自分で過去記事を開いたとき、え、これだけ? と、損した気分になることを防ぐためだ。
文章にも、ノリ、というのがあって、勢いある部分とそうでない部分とで、面白さも変わってくる。そのノリが、自分の記事だと、昔のものでもなんとなく分かるから、長くてもそれほど気にならない。逆にその強弱が自分でも分からないものは、無理して表面的な言葉を連ねただけだったのだろう、面白くない。
さて、急遽の飲み会で、どんな子がタイプか、みたいな話になった。
すごく、困った。
一緒に考えてくれる子?
いつも笑顔でいてくれる子?
自分の意見をしっかりもってる子?
論理的な考え方ができる子?
すぐに答えられない自分に気づき、あれ、やっぱり、他者の存在を僕は望んでいないんじゃ、って思った。
認めたくないが、自分大好き人間で、他者の存在を認められず、嫌い、果ては憎んでいるのではないか。
むしろ、嫌いとか、憎んでいるのですらなく、他者に興味がないのかもしれない。
ネタバレになるが、アイアムアヒーローで、主人公のその、他者に対する距離感みたいなものが、物語のキーポイントになっていることが、最近の巻で明かされた。
でも、僕は、他人に興味ないんでしょ、といわれたら、違うと否定したくて、むしろ、自分含めた人間に興味ないんでしょ、と言われた方が嬉しい。
ただ、それはきっとよくないきがするから、それをなんとか、求めようとしているわけだけど。
話がずれた、好きなタイプ、である。
恋愛として、男女問わず、自分を好きになってくれる人が好き、というのは、よくないのだそうだ。
相手のなにか、尊敬するとこでも、好きな身体の部位でも、求めるところがないと、関係は成り立たないという。
僕はこれって、いわゆる恋愛が商品化した状況における、裕福な考え、例えれば贅沢品のようだと思う。
13歳で家のため結婚し、14歳で出産し跡継ぎをつくり、という社会もあるそうだ。
ただ、家族というか、結婚という目的を考えれば、子供をつくって育てる環境を整えるため、であって、そこに、好きとか嫌いとか、パートナーそれ自身の好み、それは別の話と思うのだ。
だから、僕は、きっと、好きなタイプを聞かれて悩んでしまった。
次元が違うのだ。
子供に優しく愛情を注いで大切に育ててくれるような人がタイプです。
となら、そう思う。
じゃあそれって、どんな理想の家庭を考えているのかとか、優しく愛情ってなんなのか、ってのが、まだまだ自分の考えの足りない部分である。
イケメンが何も考えていないかとか、そんなことはない。仕事ができる人が遊びを知らないかというとそんなことはない、むしろ逆だったりする。
そして、問題になるのは、思考と身体の関係である。
これまで、このことは、何度も触れつつも、真剣に考えようとせず、自慰のように書いていただけだったろう。つまり、思考というものと、身体、自分自身の、もう顔から手足から体毛からニキビから声、息、すべてとの関係。
人間とは総合、総体である。と最初にかきはじめるのがキルケゴールさんだけど、僕は最初高校生に読んだとき、なんかよくわかんねーな、って思った。いまは、少しわかる。
まず、エンターテイメントの主人公なんかじゃなく、自分を知れってことなんだ。
孫子じゃないけど、こうやって書くと、ありふれた表現になって面白くないけど、自分自身の分析がまず必要。
この、自分を知る作業、ここが、いわゆる思春期によくやる作業であって、これが結構苦痛で、いやになっちゃう人も多い部分。
イケメンや美人だったらいいんだけど、男女問わず、不細工でモテなかったりすると、こんなの自分じゃない! となる。不細工がさらにましてカッコ悪くて気持ち悪い状況だ(笑)
不細工よりも、不細工を認められない勘違い不細工の方がたちが悪いのは、誰しも認めるところだろう、それはそれで、ここの問題は、その不細工を、いままさに、その、自分自身として認められるかどうかだ。
よく、あいつなになにだから、自分はできるって勘違いしてるよな、とか、最近の表現だと、意識高い系とかそういった言説があるが、僕はそういうことほとんど言わない。怖いのだ、そのことが事実だろうが、自分がそうかもしれないという不安があるのだ。
ここら辺の、不細工は不細工なりに、という、これは一見ネガティブなんだけど、全然そんなことなくて、むしろポジティブに大切なことなんだけど、これは口でいっても相手にわからせることができるものでもないし、ましてや、現実コミュニケーションで、そんなこと伝える必要がないのだ。
まったく飲み会では役に立たない内容だけど、このあたりの説明は、僕は繰り返し書いてきて、探せばたくさん出てくるだろう。
今日は、残り十分位だが、もう一歩考えたい。
いやそもそも、こういった表現、自己分析みたいなことが、ものすごくくだらなくて、即刻やめるべきだ、って、言われたこともあるし、自分でもそう思っていた時期があった。
でも、僕はもう、この辺は、ぶれないと思う。
誰に言われようが、考えなきゃ、この先人生に対応できない、ってことだ。
これは、他の人にはきっとあてはまらないだろう。馬鹿げたことに思われるだろう。きっとこの先も、こんなこと表現してると、気持ち悪いとか言われるのだ。
他者に合わせて生きてきた。
そのときどきの環境、コミュニティにあった考え方や振る舞いをしてきた。
それは、これからもそうするかもしれない。
でも、この、考えること、表現することはやめない。
僕にとってこれは、僧が、無為に思われるかもしれないが、坐禅を何時間もすることと同じ。ある経営者が、朝起きてからマジックワードを唱えるのと同じ。
喫煙者が身体に悪いと知りながら一服するのと同じ。
酒を飲んでリセットするのと同じ。
友人たちに愚痴を語るのと同じ。
僕は、考え、表現することで、自分自身として、存在するのだ。
ところで最後に、先にあげたブログのなかで、やっぱり、尊厳死とかあっていいんじゃないか、という記事もある。家族が介護を続けるという矛盾の指摘もある。
上の、考え表現することで前向きに人生送ろう、みたいな結論を書いたわけではないと、未来の自分にいっておく。自死も、有意義な選択肢であり続けている。
だから、この考えることは、人生の現実直面する困難に劣らず、命がけ真剣に取り組むべきことであり、決して、これまで時おりあったような、自虐的でいてそれを認めて欲しいと望むような、自慰行為であってはならないことを、今この時点でも自覚している、ということだ。
どうか、この記事を読んだ未来の方は、その点を十分に考慮した上で、新しい価値、考え、表現をして欲しい。
交通事故とか、首都の選挙、ミサイル発射や領海侵犯、どれもこれも重大な問題なのだが、これらに真剣になれないのは、やはり、自分の問題が大きいからだ。
そのなかでも、ある国の大統領選挙において、かなり過激な発言をする人が、候補に選ばれたという。その理由が、決められる親父だから、ということだ。
現在の大統領は、繊細で気配りができて、スマートで。ただ、物事の複雑さを、そのまま有権者に語る、それは世界の真実なのだが、その複雑さが面倒なのだ。
新しい候補は、敵か味方か、はっきりさせて、解決法も一本道で示す。
不安を抱えている民衆にとっては、救世主のように思うのだ。
まさに、第二次世界大戦のころの、ヨーロッパのある国のようだが。
最近平和なのだろうが、人間の本質がそうそう進化したとは思えない。日本の軍部が暴走したとか語られることだが、それは昔の人がしこたまアホだったわけではない、そういった方向に向かう環境があったのだ。
その、環境の話と、責任とは別。
例えば、幼い頃いじめられたり、性的虐待をうけたりとひどい環境で育った人がいても、現時点、何らか犯罪をおかせば、情状の余地はない。
いまさら、なにいってんの? いい大人でしょ?
で終わる。
やっぱり美人が得
努力を否定するわけではないが、今日急遽飲み会になり、いまから帰るが、やっぱり、ルックスがいい人は幸せな人生を送れるのである。
この、ルックスというのは、いわゆる努力でいかんともしがたいため、思考のタブーとされる。
だって、考えたって意味ないんだもん。
でも、この、ルサンチマンというものは、まずもって、表現の根本とすべきだ。
で、ないと、自分に必要な言説について、抜け落ちてしまうことになりかねない。
こんなこと書いて、なんになるのか、であるものの、結局……
次の日
長い記事がよいわけではない、先日の、虫瞰のブログは、週刊で短くまとめられていて非常に読みやすい。
しかし、僕は、あんまり短いと、投稿する気になれない。それは、ちゃんとまとめられてないからなのだけど、結局、自分で過去記事を開いたとき、え、これだけ? と、損した気分になることを防ぐためだ。
文章にも、ノリ、というのがあって、勢いある部分とそうでない部分とで、面白さも変わってくる。そのノリが、自分の記事だと、昔のものでもなんとなく分かるから、長くてもそれほど気にならない。逆にその強弱が自分でも分からないものは、無理して表面的な言葉を連ねただけだったのだろう、面白くない。
さて、急遽の飲み会で、どんな子がタイプか、みたいな話になった。
すごく、困った。
一緒に考えてくれる子?
いつも笑顔でいてくれる子?
自分の意見をしっかりもってる子?
論理的な考え方ができる子?
すぐに答えられない自分に気づき、あれ、やっぱり、他者の存在を僕は望んでいないんじゃ、って思った。
認めたくないが、自分大好き人間で、他者の存在を認められず、嫌い、果ては憎んでいるのではないか。
むしろ、嫌いとか、憎んでいるのですらなく、他者に興味がないのかもしれない。
ネタバレになるが、アイアムアヒーローで、主人公のその、他者に対する距離感みたいなものが、物語のキーポイントになっていることが、最近の巻で明かされた。
でも、僕は、他人に興味ないんでしょ、といわれたら、違うと否定したくて、むしろ、自分含めた人間に興味ないんでしょ、と言われた方が嬉しい。
ただ、それはきっとよくないきがするから、それをなんとか、求めようとしているわけだけど。
話がずれた、好きなタイプ、である。
恋愛として、男女問わず、自分を好きになってくれる人が好き、というのは、よくないのだそうだ。
相手のなにか、尊敬するとこでも、好きな身体の部位でも、求めるところがないと、関係は成り立たないという。
僕はこれって、いわゆる恋愛が商品化した状況における、裕福な考え、例えれば贅沢品のようだと思う。
13歳で家のため結婚し、14歳で出産し跡継ぎをつくり、という社会もあるそうだ。
ただ、家族というか、結婚という目的を考えれば、子供をつくって育てる環境を整えるため、であって、そこに、好きとか嫌いとか、パートナーそれ自身の好み、それは別の話と思うのだ。
だから、僕は、きっと、好きなタイプを聞かれて悩んでしまった。
次元が違うのだ。
子供に優しく愛情を注いで大切に育ててくれるような人がタイプです。
となら、そう思う。
じゃあそれって、どんな理想の家庭を考えているのかとか、優しく愛情ってなんなのか、ってのが、まだまだ自分の考えの足りない部分である。
身体と思考
イケメンが何も考えていないかとか、そんなことはない。仕事ができる人が遊びを知らないかというとそんなことはない、むしろ逆だったりする。
そして、問題になるのは、思考と身体の関係である。
これまで、このことは、何度も触れつつも、真剣に考えようとせず、自慰のように書いていただけだったろう。つまり、思考というものと、身体、自分自身の、もう顔から手足から体毛からニキビから声、息、すべてとの関係。
人間とは総合、総体である。と最初にかきはじめるのがキルケゴールさんだけど、僕は最初高校生に読んだとき、なんかよくわかんねーな、って思った。いまは、少しわかる。
まず、エンターテイメントの主人公なんかじゃなく、自分を知れってことなんだ。
孫子じゃないけど、こうやって書くと、ありふれた表現になって面白くないけど、自分自身の分析がまず必要。
この、自分を知る作業、ここが、いわゆる思春期によくやる作業であって、これが結構苦痛で、いやになっちゃう人も多い部分。
イケメンや美人だったらいいんだけど、男女問わず、不細工でモテなかったりすると、こんなの自分じゃない! となる。不細工がさらにましてカッコ悪くて気持ち悪い状況だ(笑)
不細工よりも、不細工を認められない勘違い不細工の方がたちが悪いのは、誰しも認めるところだろう、それはそれで、ここの問題は、その不細工を、いままさに、その、自分自身として認められるかどうかだ。
よく、あいつなになにだから、自分はできるって勘違いしてるよな、とか、最近の表現だと、意識高い系とかそういった言説があるが、僕はそういうことほとんど言わない。怖いのだ、そのことが事実だろうが、自分がそうかもしれないという不安があるのだ。
ここら辺の、不細工は不細工なりに、という、これは一見ネガティブなんだけど、全然そんなことなくて、むしろポジティブに大切なことなんだけど、これは口でいっても相手にわからせることができるものでもないし、ましてや、現実コミュニケーションで、そんなこと伝える必要がないのだ。
まったく飲み会では役に立たない内容だけど、このあたりの説明は、僕は繰り返し書いてきて、探せばたくさん出てくるだろう。
今日は、残り十分位だが、もう一歩考えたい。
現実と自分の距離感
いやそもそも、こういった表現、自己分析みたいなことが、ものすごくくだらなくて、即刻やめるべきだ、って、言われたこともあるし、自分でもそう思っていた時期があった。
でも、僕はもう、この辺は、ぶれないと思う。
誰に言われようが、考えなきゃ、この先人生に対応できない、ってことだ。
これは、他の人にはきっとあてはまらないだろう。馬鹿げたことに思われるだろう。きっとこの先も、こんなこと表現してると、気持ち悪いとか言われるのだ。
他者に合わせて生きてきた。
そのときどきの環境、コミュニティにあった考え方や振る舞いをしてきた。
それは、これからもそうするかもしれない。
でも、この、考えること、表現することはやめない。
僕にとってこれは、僧が、無為に思われるかもしれないが、坐禅を何時間もすることと同じ。ある経営者が、朝起きてからマジックワードを唱えるのと同じ。
喫煙者が身体に悪いと知りながら一服するのと同じ。
酒を飲んでリセットするのと同じ。
友人たちに愚痴を語るのと同じ。
僕は、考え、表現することで、自分自身として、存在するのだ。
ところで最後に、先にあげたブログのなかで、やっぱり、尊厳死とかあっていいんじゃないか、という記事もある。家族が介護を続けるという矛盾の指摘もある。
上の、考え表現することで前向きに人生送ろう、みたいな結論を書いたわけではないと、未来の自分にいっておく。自死も、有意義な選択肢であり続けている。
だから、この考えることは、人生の現実直面する困難に劣らず、命がけ真剣に取り組むべきことであり、決して、これまで時おりあったような、自虐的でいてそれを認めて欲しいと望むような、自慰行為であってはならないことを、今この時点でも自覚している、ということだ。
どうか、この記事を読んだ未来の方は、その点を十分に考慮した上で、新しい価値、考え、表現をして欲しい。
虫瞰(ちゅうかん)のブログ
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。
http://blog.syu-kora.jp/
思考分野で戦うってことは、これらに挑むってことだ、自信をなくすなぁ。
でもきっと、こういったすごい人と、そこにたどり着けずもんもんとする人との、きっとつなぎ目がある。そこの橋渡しができたら、僕の価値もあるんじゃあないだろうかと。
と、書き残したのが一週間ほど前だろうか。
すっかり、このメモの存在を忘れている。
記憶と感動の関係
若い頃の方が物覚えがいいとか、吸収が早いというのは、感動が大きいからかもしれない。としをとると、なまじ経験が多いから、新しいことも、それほど感動できなくなる。
あの、雨上がりの匂いとか、冬が終わったあとの気候、夏の匂い、黄昏時の夕日を、大きな橋の上からみたときの感動。
失恋のショック。
友人との軋轢。
先輩からのいじめや罵倒。
さきほど、通りすがりのおじさんに、したうちされて、糞が! みたく捨て台詞いわれた。
混雑した通りでちょっとぶつかりそうになっただけだ。
僕は、なんだこの生き物は、と怒りを感じたものの、こういうときは深呼吸を一度してみると、思考さんが問題の解釈を猛スピードで始める。
結論として、一瞬でもイライラしている時間がもったいないし、顔もおぼえてないしもう二度と会うこともない人にたいしての思考は無意味だということで、すぐに落ち着いた。
いちいち感動している暇もなくなってくるのだろうか。
ボケと死ぬこと
本能的に、人は生きることを欲するから、死ぬことは何となく怖いことである。基本、人は、死ぬことを意識せずに、いやもちろん事故や事件、戦争のニュースはたくさん目に入るけど、そのなかでまさか自分が死ぬとは思わないようにできている。
そうはいっても、老いは避けられない。
死ぬのは怖い、でも身体は老いていく、この矛盾と恐怖の解消が、ボケ、認知症などの症状なのではないか。
また別に詳しく書くかもしれないが、あるアルツハイマー型認知症が進んだ人の話を聞いていて、そう思った。
日常的なこともできなくなる。人のことも認識できなくなる。そして、自分自身のことも分からなくなっていく。
いな、これは、自分自身の世界として完結している可能性もあるわけだし、その、他者との関係上のちぐはぐ、というものが、決して、自己世界の崩壊を意味するものではないだろう。
言語表現が本人にできないだけで、ものすごい死の恐怖と戦っているのかもしれない。
しかし、脳の機能の萎縮は、確実にさまざまなものの認識能力を低下させていくだろう。
であるならば、人間とは、脳なのか。意識的な信号、記憶をつかさどっているのは、やはり脳だろう。感覚器官としての手足その他がなければフィードバックはえられない
日常の過ごし方
と、上まで書いてまた日が過ぎた。仕事も早々に切り上げ、帰路につく。いままで、一人暮らしの時は、映画みたり、ゲームしたり、本を読んだり、作曲したり、小説を書いたり、と、何かと楽しんでいた。
結婚してからはそういった時間がなくなり、もっぱら家事とか、……というより、ちょうど仕事が毎日遅かったようだ。
いま、自由な時間があったとき、様々なことに時間を使えて、その判断は自分でできる。
それってとても幸せなことなのであって、それはそう思うのだけど、何に時間を使おうか、悩んでしまう。
残りの人生は折り返し地点といってよくて、三十代には既に、自分の生き方を見つけている人は多いと思う、本当か?
多いとは思わない、大半の人は、その自分の生活を、自分のものだと信じているのであって、それが揺るぎない確信もないと思う。という表現はとても挑発的なのだけど、実際の僕の感覚をメモする。それに、そんなこと確かめようがないのだから、真偽のほどはどちらでもよいことだ。将来に不安がありますか? とかいうアンケートが何になるかという問題に過ぎない。
事例をあげれば、例えばプロ野球選手が現役の頃は活躍して、辞めたら離婚したり薬物にのめりこんだり、賭博しちゃったりと、落ちぶれる例とか、探せば事欠かない。
この記事はなので、いや俺はいまの生きざまが自分自身なのだ、と強く主張する人がいたとして、ふうん、君がそう思うなら、いいんじゃない、と、上から目線で語る、意識高い系とは違うけど、とかく、不愉快な内容だ。
人間関係の構築に関する言説にも、ネガティブな人とは付き合わない方がいいとも書かれているから、この記事は是非とも忌避したほうがいい。
現時点の肯定
うえの、役に立たない害悪であるという説明は、僕自身にもあてはまるのではないか?つまり、こういった思考は即刻やめるべきではないか、ということだ。
先日書いた、舌打ちとか罵倒されて腹が立ったとき、僕は深呼吸して瞬時に感情をコントロールしたではないか。
まさに、こういったネガティブ的な思考も、深呼吸して、取り払ったほうがいいのでは?
違うと、メモしておく。
作曲したり映画みたりいろいろ、それらの楽しみは、確かに楽しかった、しかし、それらの時間は、無駄ではなかったものの、結局生きる軸を作り出すことはできなかった。
人生における行動は、生産と消費とがある。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
ここで脇道にそれてみて、生存欲求がみたされない場合、例えば紛争地帯での生活を考えてみる。
ジャングルの奥地でゲリラとして戦うとかでもいい。その状況で、生産とか消費とか、生きる目的とか考えてられるはずがない。
ただ、その後、例えば平和になったとき、戦争していた生活を思って、いまが単純に幸せと思えるのか。亡くなった戦友のことを思い、惨殺した住民が夢に現れ、失った手足がウズいたとき、いまの生活をどう思うのか。
こうした極端な事例は、いやそれほど極端でもなくありふれたことなのかもしれないが、とにかく、考える必要はない。
そんな事例に頭をはしらせるまでなく、京都の列車事故だってあるし、バイクではしっていて、後ろから追突されてペシャンコなんてことだってあるし、突然病魔が襲うかもしれない。
こうしたことは、考える必要はない、考えてしまうかもしれないが、それは、そもそも、生きる意味を強固に保持していないがための妄執である。
明日死ぬとして
明日死んだとして、自分自身に満足できるか、やり残したことはないか、それを考えるべきだ。先程のジャングルの事例は、生きたいという思いが強くあるのだから、それだけで尊いものだ。
死にたくないとの本能がありながら、死んでも満足するという生き方。
これは、矛盾している。
本能に逆らう思考である、うまくいくはずはないのではないか。
しかし僕は、やはり、ここから逃げてはいけないと思うのだ。
仕事から逃げようが、家族から逃げようが、友人や恋人から逃げようが、この、生きる意味を求める思考からは逃げてはいけないと思うのだ。
これは、理由は、この思考を否定する人たちと同じ構造である。
それは、死は必ず訪れるから、である。
ある人は、どうせ死ぬんだから、ぐだぐだ考えず、毎日楽しめばいいじゃん、という。
それは、いまこの時点、なんの不満なく楽しんでいる人、もしくは、過去に満足する経験を長期に味わっていた人たちである。
人は、育った環境により、外界にたいする反応が異なるから、別に、そういう人たちを否定する気は一切ない。きっとそういう人たちばかりであればよい世界に……なるとは限らない。そういう人たちは、物理世界肯定主義になりがちだから、ネガティブな人とは関係をたちきればいいとか、取り巻く世界をどんどん変えていけばいいと考える。
それが、社会主義革命とか、カンボジアのポル・ポトの虐殺とかに繋がる……と書くとオーバーだろうけど、とにかく、無批判に肯定できるものではないと、僕は思う。
そして、何よりここで言いたいことだが、そもそも、そういう物理世界第一主義の人たちだけでも、ないはずだ、という僕の考えだ。
きっと多数派そうした人たちだから、狭間で苦しむ人たちも少なくないのでは、と思うのだ。
物理世界肯定主義の人たちとも僕はうまく関係をつくれるのは、なにも不思議でなくて、思考による精神と身体の統制ができるのであれば……
と、こうやって書いていて、昔のようにユーロビートを流していると、とても気持ちが高揚するのが分かった。
ああ、やっぱり、こうやって書いているのは楽しいのだな、と。
なんだか、いいことかいた気もした。のわりに、アクセスカウンタはちっとも回らない。やはりグーグル先生には、全然良い内容とは思われていないのだろうカッコわらい。
それでいいのだ、とも思う、何せこの記事は特に、大多数であろう人生楽しんでいる人たちへの警鐘……と書くとかっこいいが、ただのひがみのようにも思える。
楽しいことの模索
でも、ひがみでも、なんでもいいと思う。問題は、僕が楽しいかどうかだ。
そして、先程の瞬間は、僕は確かに楽しかった。その楽しいというのは、性欲や食欲を満たしたときのそれとは全く異なる、僕が求める感覚である。
で、あるならば、僕はもしや、この生きる意味をとか言うことに対して、答えを本気で探しているわけではないのかもしれない。
このことは、またしても、新しいことだ。しっかりメモしておく必要があるだろう。
つまり、トートロジーとか、マッチポンプ、とか、そんな表現ができる状態ではないか。
もっと噛み砕けば、惨めな自分に酔っている、みたいな状態ではないか。
だとしたら、これは、僕自身として、許せないことであるはずだ。
仮に、その、考え続けることが自分の使命だとかして、思考を続けるならばわかる。でも、なんだか社会を斜めからみて、斜に構えて、批判ばかりするってのは、許せない生き方である。
何をしようとそれは良いが、その答え自体が、真に、自分自身の実感として、本当に正しいのだと、信じられる状態が、僕の求める姿だ。
答えをみいだせず、考え続けるのだとしても、その答えを見いだせないことを肯定するのであってはならない、なぜならば、それこそ、生きる意味なんて考えても仕方がないという、くだらない対処法が正しかったと、反転した解になる。
掲げた正義に反する敵を倒そうとして、自らがその正義に反することをするというものである。
笑い話や、小説のネタ……特に悪役とかにはいいかもしれないが、いやいや待ってくれ、自分の人生にそれはありえないだろう。
万物の真理は求めてはならない
例え、その万物普遍の真理なんてない、ということが反転した真理だったとしても、決して、そういった真理を求めてはならない。必要なのは、主体的な、実存的な真理である。
人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。
他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。
これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。
僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。
全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。
というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
ちょっと、書くのを躊躇ったが、まぁ、アクセス少ないからいいだろうという甘えで書くと、僕が結婚した相手は、そのことがわかる人だと思ったのだ、が、それは完全な勘違いと分かった。
これはトラウマ、というよりも、むしろ、他者のことは分からない、分かりあえない、ある一線をこえるとついてこられないのだ、という確信になったといえる。
だから、この孤独感というのを、誰かに理解してもらおうとは、本気で思っていない。
でも、そういう人に実際に出会えなくても、この記事とかの表現が、今まさに苦しんでいる人の一つの助けになったら、本気で嬉しいんだけど。
と、同時に、こういった表現が、例えばYouTubeの動画だとしたら、グットが20くらいで、バットが1000件とかつきそうだなって思う。
で、そのバッドって、なんなのか、といえば、ただの愚痴とか僻みとか、頑張ることから逃げてるだけだとか、判断できない優柔不断だとか、そういう批判なんだと、思う。
違うのかな? 意外に受け入れられるのか?
にこにこ動画で、サラリーマンのうた、が、かなり人気を博したし、最近そのリニューアルが公開されているのを知ったけど、いい歌だったし、評価も結構高かった。
表現と作品
やっぱり、ためしに、これらの表現を、ひとつ、作品、にして、反応をみてみる、というのは面白いかもしれない。ぐだぐだっと、このブログのように書いて、それを評価してくれとか、役立ててくれとか、そんな傲慢過ぎるな。
プロの作家は、よく、本当に書きたいこと、表現したいことと、売れる作品のギャップに苦悩するというが、僕はプロではないので、書きたいことを書けるわけだ。
その書きたいことに対する表現を学ぶってのは、大事なことだ。
生活の軸
話が奇跡的に戻るけれども、こういった何か、自分の探し求める本当の目的、これに対する行動というのがないと、資格の勉強だって、お金に繋がる仕事だって、楽しいゲームだって、やらなきゃいけない家事だって、途端に色褪せて、やる気が起きなくなるのだ。拘束時間でも、自由な時間でもよいが、とにかく、何か生活の軸に基づいて、その軸というのが、確実に、答え、に近づいているという実感をもてることが、これはもう未来思考なんかではなく、今すぐこの瞬間にも必要なことである。
さて、三連休である。以前、仕事が落ち着かないと、休みも気が重い、と書いたけれども、気にしても仕方がない。今回は東北まで足をのばそうと思う。
その前に、ある関西の高速道路で、60代が運転するトラックが乗用車に追突し、ぺしゃんこになって二人が亡くなったニュースをみた。
写真が衝撃的だった。
最近、ヨーロッパで、列車同士が正面衝突した事故の写真もみた。バラバラの遺体があふれてたというコメントに戦慄した。
そして、2015年推計で、高齢化率が、25%をこえたそうだ。
十年後には、30%に及ぶらしい。
問題の先送りはするべきではない、というのは、一般表現で、そうではないと書いておく。
というのは、まさに、いまこの瞬間しかないとしたときに、物事をペンディングにするのは悪いことではなく、一つの選択だ。
こう、予定がある日に限って、他の方からの誘いがあって、翌週以降でお願いしたわけだけれども、これも一種のペンディングであるからにして、保留が悪いことだという意識があると、それはまた自分を傷つける場合があるのである。
とはいえ一方、人生にまったなしである、というのはまた事実である。
今日の朝とか、とても不快な感情で溢れていた、それが、仕事が想定よりもスムーズにいったことで、気分が落ち着いた。
不快になったのは、前日、何もするきになれず、だらだらと過ごして、眠れもせずに時間を浪費したためだ。
そういう時間を限りなく減らす必要があるだろう、その、だらだらというのは、休むな、ということではない。
問題は、シンプル。解決策もシンプル、それは、シンプルな状態を保つということだ。
イライラしてもよい、遊んでもよい、眠ってもよい。
そのどれもが、意識的に、シンプルにすることだ。イライラしながら落ち着こうとしたり、遊びながら勉強したり、うつらうつら眠るでも起きるでもない状態になったりすることを避けることだ。
人は思うより単純にできている。
自分の気持ちと感覚を忘れないことだ、耳を傾けることだ。
その前に、ある関西の高速道路で、60代が運転するトラックが乗用車に追突し、ぺしゃんこになって二人が亡くなったニュースをみた。
写真が衝撃的だった。
最近、ヨーロッパで、列車同士が正面衝突した事故の写真もみた。バラバラの遺体があふれてたというコメントに戦慄した。
そして、2015年推計で、高齢化率が、25%をこえたそうだ。
十年後には、30%に及ぶらしい。
人生に一時停止はない
問題の先送りはするべきではない、というのは、一般表現で、そうではないと書いておく。
というのは、まさに、いまこの瞬間しかないとしたときに、物事をペンディングにするのは悪いことではなく、一つの選択だ。
こう、予定がある日に限って、他の方からの誘いがあって、翌週以降でお願いしたわけだけれども、これも一種のペンディングであるからにして、保留が悪いことだという意識があると、それはまた自分を傷つける場合があるのである。
とはいえ一方、人生にまったなしである、というのはまた事実である。
今日の朝とか、とても不快な感情で溢れていた、それが、仕事が想定よりもスムーズにいったことで、気分が落ち着いた。
不快になったのは、前日、何もするきになれず、だらだらと過ごして、眠れもせずに時間を浪費したためだ。
そういう時間を限りなく減らす必要があるだろう、その、だらだらというのは、休むな、ということではない。
頑張れという声への対処
問題は、シンプル。解決策もシンプル、それは、シンプルな状態を保つということだ。
イライラしてもよい、遊んでもよい、眠ってもよい。
そのどれもが、意識的に、シンプルにすることだ。イライラしながら落ち着こうとしたり、遊びながら勉強したり、うつらうつら眠るでも起きるでもない状態になったりすることを避けることだ。
人は思うより単純にできている。
自分の気持ちと感覚を忘れないことだ、耳を傾けることだ。
