またいいな、と思ったブログで紹介されていたのは、山岡鉄舟というひとの、剣、禅、書という考え方。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
記憶と流行
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
月曜日
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
そして十数時間後
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分のこと
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
君は誰?
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
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この記事、面白かった。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
自堕落な生活
久しぶり、と書くと傲慢だけれども、やっぱり久しぶりな感覚はあるから、久しぶりなのだけれど、今回の休日はとことん自堕落に過ごした。昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
精神力(MP)の回復
と。あんまり頑張っていないときの記事って、きっと面白くないのだろうと、思う。が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
このメモが重要な理由
と、上のような分析を必要としたこと、それ自体が、実は、「成長」「意味をもたせる」「解釈可能性」を求める、理性の野郎の所業ではないか、ということを明るみにすることだ。どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。
よし、今日は日常カテゴリだ、好き勝手に書くぞ。
なーに心配するな、結局いつも好き勝手書いているだけだ。
そも、好き勝手って何ですの?
あー、とにかく、メモすべきことを端的に書いてから、楽しくおしゃべりしようね。
本屋さんでは、進撃の巨人の20巻を買いに行ったのだが、はからずしも、様々な書籍に目が向く。
面白いなと思ったのは、脳の仕組みを図解にしている大判の本。
海馬が記憶を保持する仕組み、Mg+がシナプスの流れを遮っているが、何回も繰り返し刺激を与えると記憶の受容体になる、とか。うん、立ち読みだからよく分かっていないが、イラスト付きで見やすくて面白そうだった。けれども、説明が結構本格的で、専門用語もバリバリだったので、ちょっと引いてしまったのと、値段が2000円ごえだったので、保留になった。
もう一つ、世界の絵画の解説本。
ゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、有名な人たちの有名な絵はたいてい載っていて、その絵の背景とか、画家の生い立ちとか考えとか、絵の技法とか見どころとかが解説されている。
かなりいいな、と思った。
あとは、バイクの乗り方に関する解説本。
コーヒー、日本酒、ウイスキーに関する本。
いろいろと、ぱらぱら読んで、興味が深々となった。
が、結局、買ったのは進撃の巨人と、禅の解説本だった。
まぁ、絵画の本はちょっと今後の購入候補。
ちなみにアマゾンにあるかな……タイトルが思い出せないが……
あ、これだこれ。西洋、絵画、解説、アマゾン、みたいな断片検索でみつかった。他にもどうようのジャンルの本もあるんだなぁ。なるほどね。こういうのは、実際、本屋さんに行ってみないと買おうと思わないから、いい発見だったな。
黒い砂漠というオンラインゲームは起動はしたものの、ほぼ放置。ちょっとオークから猫を取り戻すクエストはやったけど。
勉強もせず、読書もせず、家事もせず、だらだらと。
ただ、そうしていたら、なんだか逆にやる気が少し回復した気がした。
昨日は、本当に憂鬱でだった、憂鬱? というよりも、やる気が何も起こらなかった。
もうね、死ぬ気力もないぐらいだ。そう、うつ病ってのは、最高に具合が悪いときよりも、少し回復してきたあたりの期間が危ないらしい。自殺ってのは、何分体力も精神力も必要なことなのだ、と、ずーっと昔に書いた気がするけれども、こういうのは長期記憶になってるんだよな。そんなに何度もインプット・復習している気はしないのだけれども、不思議だ。やっぱり、興味のあることは、記憶が断然はかどる、ということなのだ。話がそれた。なんだっけ。
そう、少しやる気が起きたので、ピアノをひいたり、コード進行から曲をつくったりしてみた。実際につくりはじめようかと思いながら、そういえばパソコンからソフトウェアがほとんど全部消えたことを思い出して、やめた。
そして思い出したが、小説書きためていたやつ、消えちゃったなぁ。完成して投稿した奴は残っているけれども、途中経過のやつとか、設定メモとか、それらはお亡くなりに……。バックアップの大切さがわかる。
そして、少し元気になったため、以前から読みたいと思っていた小説に目を通す。
面白い。感想も書く。作者さんから返信がある。嬉しいものだ。
昔、サイトを作ったとき、ある小説(これはプロ作家のもの)のレビューを書いて、その小説の画像の掲載許可を、作者さんにメールでお願いしたことがある。
結論的には、出版社の権利云々とかでダメ、だったけれども、面白いと思った作品を作り出した作者さんから、直接連絡をもらえるなんて、とてもうれしかった。
ディバイデッド・フロント、あ、これこれ。やっぱり、長期記憶になっている。
そう、記憶ってのが、人間そのものなんだって、思う、とか、こんなこと書き始めると、また話がそれる。ここら辺は、攻殻機動隊の外部記憶に対する見解……人形遣い事件あたりを参照すると良いと思うし、僕がわざわざ書くことではない、が、EDENの遠藤浩輝さんが言うように、よいものはいくらたくさんあったっていいんだ……と、話を戻さなければ。
そう、やっぱり、僕は、何か創っているのが楽しいんだ。
認められたい、とまではいかなくても、やっぱり、反応が欲しいのである。
見栄っ張りなやつめ。と、否定する必要もないだろう。人は一人では生きていけなくて、相互依存関係の上に社会を構築し、生活していくのだ。
という、ロジックに対して、「いやでもそんな綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」って、ぶつかっていく作品だって創れる。で、エンディングをどうするかによって、読者の反応で「あーなるほどな」ってのもまた面白い。何も、手放しで称賛されたいってわけではない。万人にうけるものを創りたいってわけでもない。
ただ、分かる人には分かる、なんて大上段で傲慢な気持ちじゃなくて、少しでも、他者の記憶の片隅にでも残るような作品でも、又は、他者の心を動かすような作品でも創れたら、きっと、非常にうれしいと思う。
仕事なんてやってられない! もっと自分の力を発揮できる世界に飛び立つんだ!
WAIT、だ。
そういう問題ではない。
仕事、人生、創作、よく考える必要がある。
あるお笑い芸人さんが小説を書いたら、文芸賞を受賞した。
東京の都知事になった人が書いた親の介護をした体験本だって売れている。
あるIT企業の社長だった人の本も好調のようだ。
後半は、創作ではないけれども、作品で人に影響を与えるってのは、仕事と切り離されるものである必要はない。
あれ、書きたいことが変になっている。そうじゃない、上の例だと、仕事と書くべきことは密接に関係している、ということにしかならない。
そうじゃなくて、僕が言いたかったのは、仕事とプライベートを分けてもよいではないか、ということである。
というのは、仕事が生きがい、という考えの否定ではない。ライフワークバランス、とかスローライフとかの、「よくわからない」ことばの称賛でもない。
どっちも大事、とか、そんな投げやりなことでもない。
ただ、仕事も創作も、それもまた「自分」でしかありえないだろう、ということだ。
工事現場やコンビニのバイトで生計をたてながら、いつかビッグなミュージシャン(小説家でも、スポーツ選手でも何でもよいが)になってやるんだ! というやり方もあるけれど、それってそもそも、仕事ってなんなんだ、って感じだ。
何だろう、よく言いたいこと、書きたいこと、がはっきりしないが、とにかく、仕事も創作も全部含めて、人、人生、自分、なのだ、ということだ。
その後帰宅すると、創作活動に打ち込む。そして、その場では、自分の作品を読んでくれる人がいる、聴いてくれる人がいる。反応がある。ときに厳しい意見もあるが、一人、二人と、面白かった、と言ってくれる人がいる。イイネだったり、拍手だったりつけてくれる人がいる。
そして次の日、やっぱり、上司から叱責をうけ、同僚には出世を追い越されて、営業成績は落ちて、給料も下がっていく……。
でも、家に帰ると楽しい時間が待っている……!
というのは、歪である。
まぁ、その人がそれでいいというなら、僕は気にしないが、僕は嫌だ、と思う。
うーん、ただ、別に上司から怒られるのはよい。注意されるのもよい。ただ、いびられるのは、そりゃあだめだ。客から怒られてもいい、ただ、理不尽なクレームにずっと付き合っている必要もない。
出世できないのはいい。ただ、営業成績が落ちて、給料が下がっていくのはダメだ。
……上のことを、なぜ僕は思うのか。
それは、全人格的、全生活的に、「向上」を目指す、という点にあるのではないか、と今思った。
ここに、感情を軽視する心性が見え隠れしている。
感情は大事かもしれない、ただ、それが、「合理的にメリット(有益)にならない」のであれば、切り捨てるべきだ、と僕は思っているのだ、ろうか。
創作が楽しめるのは、現実があってこそであることも一つ。
上の、会社ではダメダメで、家では少しよくて、というのは、構造欠陥な妄想である。
いや、それで満足する人もいるはずだ、という思いから、「僕は気にしない」と書いた。
ただ、僕は、そんな状況だと、創作する気力すらなくなるだろう。
どうやったららくにしねるんだ、みたいなことを考え出しそうだかっこわらい。
思考、そう、思考をするには、というタイトルにでもしたら、少しでもアクセス伸びるだろうか。
自分をつくるための読書術、とかいった本もあった気がする。
「考える」とは何か、とかね。
そこら辺なら、こんな自分でも、一家言はなすことができる。まぁ、こういった場合における「考える」ってのは、ビジネスで成功するための~とか、株で勝つための~とか、そういったものを求めて検索してくるだろうので、僕のぐだぐだした話を読んできっとがっかりするだけだろう。
取りあえず、今日は早めに寝よう。といってもこの時間だが。
とにもかくにも、このブログも一つ、創作なのであって、その創作は、現実とも一部リンクしている部分があって、その現実とは、仕事も金も心も含んでいるものであることから、今後も、ぜひとも、有効に活用していきたい。
取りあえず、進撃の巨人の20巻で、エルヴィン団長が、新米調査兵たちの鼓舞において、
「私たちにこの戦いで死ねってことですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら、潔く戦って死ねと?」
「そうだ」
「でもどうせ死ぬなら、戦って死んでも、命令にそむいて死んでも同じってことですよね」
「そうだ。人はいずれ死ぬ。生きる希望や夢をもっていても。(敵の攻撃で)岩に身体を砕かれても死ぬ」
「……」
「では、我々の生は無意味なのか。これまで死んでいった戦友の死は無駄だったのか。
……断じて違う!! 彼らの死に意味を与えるのは我々だ! 我々がここで戦い次の者たちに意味を与えるのだ!」
(あいまいな記憶だけで書いたのでかなり適当)
というシーンは、今まさに、僕が考えて、明らかにして、行動していかなければいけないことに対する、一つのヒントにもなった。(それは直接的な言葉の意味というよりも、俯瞰的に、生きる意味とは、そもそもその「単独」においては答えになりはしないという点において)
やっぱり、創作、作品ってのは、大事だなぁと、思う。
おお、珍しく、最初に書いたタイトルと結末が一致した。
なーに心配するな、結局いつも好き勝手書いているだけだ。
そも、好き勝手って何ですの?
あー、とにかく、メモすべきことを端的に書いてから、楽しくおしゃべりしようね。
本屋さん
近所の本屋さんに足を運ぶ。といっても、定期券内で少しだけ電車移動を試み、らーめんを食べる。本屋さんでは、進撃の巨人の20巻を買いに行ったのだが、はからずしも、様々な書籍に目が向く。
面白いなと思ったのは、脳の仕組みを図解にしている大判の本。
海馬が記憶を保持する仕組み、Mg+がシナプスの流れを遮っているが、何回も繰り返し刺激を与えると記憶の受容体になる、とか。うん、立ち読みだからよく分かっていないが、イラスト付きで見やすくて面白そうだった。けれども、説明が結構本格的で、専門用語もバリバリだったので、ちょっと引いてしまったのと、値段が2000円ごえだったので、保留になった。
もう一つ、世界の絵画の解説本。
ゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、有名な人たちの有名な絵はたいてい載っていて、その絵の背景とか、画家の生い立ちとか考えとか、絵の技法とか見どころとかが解説されている。
かなりいいな、と思った。
あとは、バイクの乗り方に関する解説本。
コーヒー、日本酒、ウイスキーに関する本。
いろいろと、ぱらぱら読んで、興味が深々となった。
が、結局、買ったのは進撃の巨人と、禅の解説本だった。
まぁ、絵画の本はちょっと今後の購入候補。
ちなみにアマゾンにあるかな……タイトルが思い出せないが……
あ、これだこれ。西洋、絵画、解説、アマゾン、みたいな断片検索でみつかった。他にもどうようのジャンルの本もあるんだなぁ。なるほどね。こういうのは、実際、本屋さんに行ってみないと買おうと思わないから、いい発見だったな。
創作は力なり
今日は、上のお出かけ以外、ほとんど何もしなかった。黒い砂漠というオンラインゲームは起動はしたものの、ほぼ放置。ちょっとオークから猫を取り戻すクエストはやったけど。
勉強もせず、読書もせず、家事もせず、だらだらと。
ただ、そうしていたら、なんだか逆にやる気が少し回復した気がした。
昨日は、本当に憂鬱でだった、憂鬱? というよりも、やる気が何も起こらなかった。
もうね、死ぬ気力もないぐらいだ。そう、うつ病ってのは、最高に具合が悪いときよりも、少し回復してきたあたりの期間が危ないらしい。自殺ってのは、何分体力も精神力も必要なことなのだ、と、ずーっと昔に書いた気がするけれども、こういうのは長期記憶になってるんだよな。そんなに何度もインプット・復習している気はしないのだけれども、不思議だ。やっぱり、興味のあることは、記憶が断然はかどる、ということなのだ。話がそれた。なんだっけ。
そう、少しやる気が起きたので、ピアノをひいたり、コード進行から曲をつくったりしてみた。実際につくりはじめようかと思いながら、そういえばパソコンからソフトウェアがほとんど全部消えたことを思い出して、やめた。
そして思い出したが、小説書きためていたやつ、消えちゃったなぁ。完成して投稿した奴は残っているけれども、途中経過のやつとか、設定メモとか、それらはお亡くなりに……。バックアップの大切さがわかる。
そして、少し元気になったため、以前から読みたいと思っていた小説に目を通す。
面白い。感想も書く。作者さんから返信がある。嬉しいものだ。
昔、サイトを作ったとき、ある小説(これはプロ作家のもの)のレビューを書いて、その小説の画像の掲載許可を、作者さんにメールでお願いしたことがある。
結論的には、出版社の権利云々とかでダメ、だったけれども、面白いと思った作品を作り出した作者さんから、直接連絡をもらえるなんて、とてもうれしかった。
ディバイデッド・フロント、あ、これこれ。やっぱり、長期記憶になっている。
そう、記憶ってのが、人間そのものなんだって、思う、とか、こんなこと書き始めると、また話がそれる。ここら辺は、攻殻機動隊の外部記憶に対する見解……人形遣い事件あたりを参照すると良いと思うし、僕がわざわざ書くことではない、が、EDENの遠藤浩輝さんが言うように、よいものはいくらたくさんあったっていいんだ……と、話を戻さなければ。
そう、やっぱり、僕は、何か創っているのが楽しいんだ。
反応のなさ
そして、この辺りは、認めたくない部分でもあるが、やっぱり、認められたい、って思いがあるのだ。認められたい、とまではいかなくても、やっぱり、反応が欲しいのである。
見栄っ張りなやつめ。と、否定する必要もないだろう。人は一人では生きていけなくて、相互依存関係の上に社会を構築し、生活していくのだ。
という、ロジックに対して、「いやでもそんな綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」って、ぶつかっていく作品だって創れる。で、エンディングをどうするかによって、読者の反応で「あーなるほどな」ってのもまた面白い。何も、手放しで称賛されたいってわけではない。万人にうけるものを創りたいってわけでもない。
ただ、分かる人には分かる、なんて大上段で傲慢な気持ちじゃなくて、少しでも、他者の記憶の片隅にでも残るような作品でも、又は、他者の心を動かすような作品でも創れたら、きっと、非常にうれしいと思う。
仕事と創作との関係
よし、僕のやりたいことは決まった! 今すぐ、それに向けて頑張るぞ!仕事なんてやってられない! もっと自分の力を発揮できる世界に飛び立つんだ!
WAIT、だ。
そういう問題ではない。
仕事、人生、創作、よく考える必要がある。
あるお笑い芸人さんが小説を書いたら、文芸賞を受賞した。
東京の都知事になった人が書いた親の介護をした体験本だって売れている。
あるIT企業の社長だった人の本も好調のようだ。
後半は、創作ではないけれども、作品で人に影響を与えるってのは、仕事と切り離されるものである必要はない。
あれ、書きたいことが変になっている。そうじゃない、上の例だと、仕事と書くべきことは密接に関係している、ということにしかならない。
そうじゃなくて、僕が言いたかったのは、仕事とプライベートを分けてもよいではないか、ということである。
というのは、仕事が生きがい、という考えの否定ではない。ライフワークバランス、とかスローライフとかの、「よくわからない」ことばの称賛でもない。
どっちも大事、とか、そんな投げやりなことでもない。
ただ、仕事も創作も、それもまた「自分」でしかありえないだろう、ということだ。
工事現場やコンビニのバイトで生計をたてながら、いつかビッグなミュージシャン(小説家でも、スポーツ選手でも何でもよいが)になってやるんだ! というやり方もあるけれど、それってそもそも、仕事ってなんなんだ、って感じだ。
何だろう、よく言いたいこと、書きたいこと、がはっきりしないが、とにかく、仕事も創作も全部含めて、人、人生、自分、なのだ、ということだ。
努力とは何ぞや
上司にいびられて、客からのクレームに対応して、日々不満な仕事を送る。その後帰宅すると、創作活動に打ち込む。そして、その場では、自分の作品を読んでくれる人がいる、聴いてくれる人がいる。反応がある。ときに厳しい意見もあるが、一人、二人と、面白かった、と言ってくれる人がいる。イイネだったり、拍手だったりつけてくれる人がいる。
そして次の日、やっぱり、上司から叱責をうけ、同僚には出世を追い越されて、営業成績は落ちて、給料も下がっていく……。
でも、家に帰ると楽しい時間が待っている……!
というのは、歪である。
まぁ、その人がそれでいいというなら、僕は気にしないが、僕は嫌だ、と思う。
うーん、ただ、別に上司から怒られるのはよい。注意されるのもよい。ただ、いびられるのは、そりゃあだめだ。客から怒られてもいい、ただ、理不尽なクレームにずっと付き合っている必要もない。
出世できないのはいい。ただ、営業成績が落ちて、給料が下がっていくのはダメだ。
……上のことを、なぜ僕は思うのか。
それは、全人格的、全生活的に、「向上」を目指す、という点にあるのではないか、と今思った。
ここに、感情を軽視する心性が見え隠れしている。
感情は大事かもしれない、ただ、それが、「合理的にメリット(有益)にならない」のであれば、切り捨てるべきだ、と僕は思っているのだ、ろうか。
創作と現実
そして次の問題。創作が楽しめるのは、現実があってこそであることも一つ。
上の、会社ではダメダメで、家では少しよくて、というのは、構造欠陥な妄想である。
いや、それで満足する人もいるはずだ、という思いから、「僕は気にしない」と書いた。
ただ、僕は、そんな状況だと、創作する気力すらなくなるだろう。
どうやったららくにしねるんだ、みたいなことを考え出しそうだかっこわらい。
少し思索の方向へ
と、メモすべきことは、きっと全部書いたな。クレジットカードの住所変更しなきゃとか、ハンドソープとかその他生活用品の買い出しに行かなきゃとか、そういったことはまだあるが、ここで書くべき、思考として必要なことは全部書いた、と思う。思考、そう、思考をするには、というタイトルにでもしたら、少しでもアクセス伸びるだろうか。
自分をつくるための読書術、とかいった本もあった気がする。
「考える」とは何か、とかね。
そこら辺なら、こんな自分でも、一家言はなすことができる。まぁ、こういった場合における「考える」ってのは、ビジネスで成功するための~とか、株で勝つための~とか、そういったものを求めて検索してくるだろうので、僕のぐだぐだした話を読んできっとがっかりするだけだろう。
取りあえず、今日は早めに寝よう。といってもこの時間だが。
とにもかくにも、このブログも一つ、創作なのであって、その創作は、現実とも一部リンクしている部分があって、その現実とは、仕事も金も心も含んでいるものであることから、今後も、ぜひとも、有効に活用していきたい。
取りあえず、進撃の巨人の20巻で、エルヴィン団長が、新米調査兵たちの鼓舞において、
「私たちにこの戦いで死ねってことですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら、潔く戦って死ねと?」
「そうだ」
「でもどうせ死ぬなら、戦って死んでも、命令にそむいて死んでも同じってことですよね」
「そうだ。人はいずれ死ぬ。生きる希望や夢をもっていても。(敵の攻撃で)岩に身体を砕かれても死ぬ」
「……」
「では、我々の生は無意味なのか。これまで死んでいった戦友の死は無駄だったのか。
……断じて違う!! 彼らの死に意味を与えるのは我々だ! 我々がここで戦い次の者たちに意味を与えるのだ!」
(あいまいな記憶だけで書いたのでかなり適当)
というシーンは、今まさに、僕が考えて、明らかにして、行動していかなければいけないことに対する、一つのヒントにもなった。(それは直接的な言葉の意味というよりも、俯瞰的に、生きる意味とは、そもそもその「単独」においては答えになりはしないという点において)
やっぱり、創作、作品ってのは、大事だなぁと、思う。
おお、珍しく、最初に書いたタイトルと結末が一致した。
翡翠色のショートカットの髪が、夜風になびく。
「おつかれさま」
透き通る控えめな声は、人通りの少なくなった大通りに、しんみりと響いた。
こちらへ駆け寄ってきた少女は、交渉が上手くいかなかった僕の顔をみて口をつぐんだ。
途端に、眉尻が下がって、心配そうな顔になる。もともと下がり気味なまなじりは、いつも優しげで、それでいてどこか困っているようにも見えるが、今は何と言っていいのか、本当に困っているのだろう。
「大丈夫だよ、気にするな」
ぽんぽんと頭を撫でると、少し緊張したように細い身体を震わすと、やがて目を瞑って身を任せてきた。
そして同時に生じている、なにも楽しいことを見いだせないような感覚。
すべてを知り尽くしたわけでもないが、何もする気がおきない。
そう、だから、この前、喪失感といって、違和感を覚えたのはそういうことだ。つまり、喪失感とは、何か必要なものを失ったために起こるもの。
いまの感覚は、どちらかというと、ほしいもの自体がなくなった、といえる。
うそつくな、金だって女だって時間だって欲しいんだろ!!
というのは正にその通り!っといいたいが、違うんだよね。
なんの引き換えもなく1億円もらえるなら、そりゃ嬉しい。でも、そんな妄想意味なくて、様々な行動方策が必要になる。
その対価として、価値があるものが見いだせないのだ。
ある意味で、いまの状況に最高マックス完璧満足している、ということなのだ。
彼女ができずに孤独に不満を感じていたときは、自分の矮小さにおしつぶされそうだった。
そのときはそのときで、大変だったろうと、他人事のようだが、思う。
が、その頃といまとは、なんだか若干違う気がする。
それでいて、根本となることは、共通している気もする。
とにかく、何か、求めたいものがよくわからない、その一方で、いまの状況に不満はないにもかかわらず、どうにもやる気、それはすべてにおけるものに対する動機が減っていくのだ。
何も魔法は使っていないのに、MPが失われていくようだ。
しかし、先ほど、ほんの1時間前は、何にもする気になれなかったよね。立っているだけ。定期券をもった指を一本動かすのも億劫、みたいな。
それって、普通に「うつ病」ってやつでは……?
うつ病って、本当に、身体が動かなくなるらしいね。甘えとか、新型うつとか、うつって言葉はあまり理解されてないけど。
理解されていないというか、そもそも僕もよくわからなかったりする。ただ、脳機能の問題であって、本当に「病気」という状態なんだってことは分かる。問題は、じゃあ、明るい状態が本当にその人の真の姿かどうか、ってことを考えていくと、やっぱり難しいなって思うわけだけど。
薬とかつかって元気になる、ってのは、危険ドラッグと何が違うんだろってのはあるよね。
そうそう、ロボトミー手術っていって、脳の一部を切り取ると性格が穏やかになって精神病が治るってのが流行った時代があったそうな。でも、副作用で人格が変わったようになってしまったとか。
本当の自分、って言葉もあるよね。自分探しの旅、とか。
僕もそれって考えていたときは、あるよ。恥ずかしいけどね。でも、やっぱり、自分ってのは、単独ではありえないってことを実感するようになると、それもまた無価値に思えるわけだ。
それは正しい、けれども、その自分自身ってのに対する興味の喪失が、逆転して欲求のなさとか、問題の発現になってるんじゃないかな?
ふーむ、なるほどね。逆に、自分ってのに固執していたほうが、欲求自体は生じやすいわけだ。一人で生きていけないとか、そういう次元じゃあなくて、自分も世界の一部なんだという自覚と実感は、一体感とか、人類のため、世界のため、という思想につながる可能性もあるけれども、逆転した失望、絶望につながる可能性もある、と。
こうやって会話していると、一見、そう、会話のようなんだけど、じゃあ仮に、各人に名前を付けてみよう、と思ったとき、はたと難しくなる。固有名詞とかじゃなく、Aさん、Bくんとか、そんなのでもいいんだけど、その発言者の人格の一貫性が見えないってことだ。
その点を意識して書いていくと、実はそれだけで小説風にはなりえる。
そこを意識せずに書き続けて、似た発言を集めて、一つの人格に統合する、ってやりかたもありそうだね。
思い出した、もう一つ、「こたえ」のありなしだ。
なんというか、基本的に、ブログとかって、答えがある。エッセイ的なのもあるんだけど、それって、結構有名な人が、何か生活の中で感じたことをつづっていくわけなのであって、必ずしもこたえありき、ではないとは思いつつも、やっぱり、人格統一した、「こうあるべき」と、自分の生き方を確立した人の文章ってのが多いと思うんだ。
そういう文章は面白いけれども、でも、今僕が求めているものはそうじゃない。
というのが、さっき書いていることと矛盾しそうだけど、自分一人しかいない、自分しか自分を理解できない、自分は自分、という、自己中心的な思考である。
素晴らしい教えってのはあると思うんだ。ただ、それに対して、自分を同一化できるかどうか、ってのは、かなり、努力がいることなんだと、そう思うわけだ。
ってことを、書くと、思うと、すぐに、君は言ってくる。そういって、まじめに、努力するのが、答えを出すのが怖いんだろう、と。
その何か正しいことを認めてしまえば、今まで悩んできた自分自身の否定になるのではないか、と、そう恐れているのではないか、と。
そうかもしれない、んだけれども、そこは今はどうでもよい、というのは、何というか、臆病な自分というのが事実だとして、反転して真実性に全権委任できるのか、ってことなんだ。
逆に、こうやって、グダグダぐじぐじ書いているのが楽しいってことであれば、それはそれでいいんじゃないか、とすら思うわけだ。
そりゃあ、今楽しんで、そうやって書いているのもいいさ。
ただ、じゃあ、65歳になったとき、同じように書いているのか、ってことだ。
まず、正直な感想として、それってちょっとカッコ悪いというか、気持ち悪いんじゃないかっと。
まぁね、30代でこういうこと書いている時点でちょっとどうなの、って感じはするけど、それが2倍じゃあ、ねぇ、ちょっと目も当てられない。
さっき、進撃の巨人の12巻を、集中せずに読んでいたら、巨人に囲まれ死を覚悟したミカサがエレンに、「私に生き方を教えてくれてありがとう。マフラーを巻いてくれてありがとう」と言ったシーンに差し掛かった。
で、エレンは、「そんなの、これからも、何回でも巻いてやる!」といって、巨人に立ち向かうんだ。かっけぇ!
かっこいいね、というか、自分も、ミカサにそんなこと言われてみたい(笑)
生き方、ねぇ……。やっぱり、オッサンってやつは、生き方知ってないとかっこよくないよね。
そうそう。見た目は大人、頭脳は子供、じゃあ笑えない。
生き方、ね。生きる意味を探す、ってのよりも、ちょっと大人っぽい表現かもしれない。
まぁ、やることって、同じなんだろうね、きっと。
ともかく、オッサンは、生き方を知っているがゆえに、ぶれなくて、それが「老害」という現象につながる。
まーた、始まった、なんでも批判しだす。
いや、そういう面があるってことを言ってるだけだ。変わらないってことは、変われないってことでもあって、時代の変化にそぐわなくなったとき、バリバリ働いていた中年が、クビになったらほかでもやってけなくて、結局妻子残して自殺しちゃったとか、別に珍しい話じゃないだろう。
そういう面もあると思うけど、実際自分の生き方を確立して、それを実践して毎日生きて成長してる人って、かっこいいし、モテると思うよ。
そりゃそうだろうねぇ。
世界には、男と女しかいないわけだ。で、まぁ、女の子の心をつかむってのは、実は、仕事の面でも重要だと思う。
人心掌握、という表現をするかどうかは別として、仕事だって、一人でするものはほとんどないのだから――小説家、という職業だって、本当の意味で一人では成り立たない――他者の気持ちを理解し、適切な行動をとれるってことは重要だ。
その能力の多寡はあるにせよ、やっぱり、優秀な人は、モテるわけだ。仕事ができる人はモテるってのは、仕事ができてカッコいい! って女の子が思うってのもあるが、そもそも、仕事ができる=人の心をつかむのが上手い=女の子の気持ちもGETだぜ! という繋がりがあるわけだ。
こういった、自己啓発本とかビジネス本的な表現は、いくらでも批判できるし、反例だってたくさんあるだろう。過去に、独身を貫き通した偉人は大勢いる。
が、常日頃このブログでは表現しているとおり、極端な事例というか、真理的なモノをもとめるのは、専門家、科学、学問にまかせておこう、ということだ。厳密性を追求している暇は、残念ながら僕ら凡人にはないのだ。
僕ら、といったが、実は、こんな問題を抱えているのは僕一人なんじゃないのか、と、残念ながらいつも頭に浮かび、同時に、そんなお前は特別な人間なわけないんだから、ほかにも大勢いるに決まっている、と否定が入るのが、もはや面白くなってきた。
こういった、反転した共通意識と、さらに反転した孤独感というのが、表現が難しいところだ。
そして、疲れて、眠くなってくると、なんでこう、自分の切り売りみたいなことして、こんなこと書いてなんになるんだ、バカじゃないかって思い始めるのも常日頃でありながら、ただ、こうして何とか眠れそうだってのは、いいことだ。
下手に睡眠薬に頼る必要なんてない。いわば、適度な運動をするとぐっすり眠れるよ、的なアレだ。
「おつかれさま」
透き通る控えめな声は、人通りの少なくなった大通りに、しんみりと響いた。
こちらへ駆け寄ってきた少女は、交渉が上手くいかなかった僕の顔をみて口をつぐんだ。
途端に、眉尻が下がって、心配そうな顔になる。もともと下がり気味なまなじりは、いつも優しげで、それでいてどこか困っているようにも見えるが、今は何と言っていいのか、本当に困っているのだろう。
「大丈夫だよ、気にするな」
ぽんぽんと頭を撫でると、少し緊張したように細い身体を震わすと、やがて目を瞑って身を任せてきた。
あっという間に時が過ぎ
なんというか、忙しい、かといって、忙がしくない気持ちもする、とにかくあっという間なのだ。そして同時に生じている、なにも楽しいことを見いだせないような感覚。
すべてを知り尽くしたわけでもないが、何もする気がおきない。
そう、だから、この前、喪失感といって、違和感を覚えたのはそういうことだ。つまり、喪失感とは、何か必要なものを失ったために起こるもの。
いまの感覚は、どちらかというと、ほしいもの自体がなくなった、といえる。
うそつくな、金だって女だって時間だって欲しいんだろ!!
というのは正にその通り!っといいたいが、違うんだよね。
なんの引き換えもなく1億円もらえるなら、そりゃ嬉しい。でも、そんな妄想意味なくて、様々な行動方策が必要になる。
その対価として、価値があるものが見いだせないのだ。
ある意味で、いまの状況に最高マックス完璧満足している、ということなのだ。
欲求不足
確かに、好きな人に彼氏ができて、落ち込んでた時代は、苦しくて人生がいやになった。彼女ができずに孤独に不満を感じていたときは、自分の矮小さにおしつぶされそうだった。
そのときはそのときで、大変だったろうと、他人事のようだが、思う。
が、その頃といまとは、なんだか若干違う気がする。
それでいて、根本となることは、共通している気もする。
とにかく、何か、求めたいものがよくわからない、その一方で、いまの状況に不満はないにもかかわらず、どうにもやる気、それはすべてにおけるものに対する動機が減っていくのだ。
何も魔法は使っていないのに、MPが失われていくようだ。
創造の言葉と実感の言葉
よし、やっぱり、いいこと書こう症候群はよくない。こういうときは、とにかく、書く。しかし、先ほど、ほんの1時間前は、何にもする気になれなかったよね。立っているだけ。定期券をもった指を一本動かすのも億劫、みたいな。
それって、普通に「うつ病」ってやつでは……?
うつ病って、本当に、身体が動かなくなるらしいね。甘えとか、新型うつとか、うつって言葉はあまり理解されてないけど。
理解されていないというか、そもそも僕もよくわからなかったりする。ただ、脳機能の問題であって、本当に「病気」という状態なんだってことは分かる。問題は、じゃあ、明るい状態が本当にその人の真の姿かどうか、ってことを考えていくと、やっぱり難しいなって思うわけだけど。
薬とかつかって元気になる、ってのは、危険ドラッグと何が違うんだろってのはあるよね。
そうそう、ロボトミー手術っていって、脳の一部を切り取ると性格が穏やかになって精神病が治るってのが流行った時代があったそうな。でも、副作用で人格が変わったようになってしまったとか。
本当の自分、って言葉もあるよね。自分探しの旅、とか。
僕もそれって考えていたときは、あるよ。恥ずかしいけどね。でも、やっぱり、自分ってのは、単独ではありえないってことを実感するようになると、それもまた無価値に思えるわけだ。
それは正しい、けれども、その自分自身ってのに対する興味の喪失が、逆転して欲求のなさとか、問題の発現になってるんじゃないかな?
ふーむ、なるほどね。逆に、自分ってのに固執していたほうが、欲求自体は生じやすいわけだ。一人で生きていけないとか、そういう次元じゃあなくて、自分も世界の一部なんだという自覚と実感は、一体感とか、人類のため、世界のため、という思想につながる可能性もあるけれども、逆転した失望、絶望につながる可能性もある、と。
脳内会議における人格の設定困難性
今回の記事でメモっておくべきは、この、僕たちの話すことというのが、一貫性をもちえないってこと。こうやって会話していると、一見、そう、会話のようなんだけど、じゃあ仮に、各人に名前を付けてみよう、と思ったとき、はたと難しくなる。固有名詞とかじゃなく、Aさん、Bくんとか、そんなのでもいいんだけど、その発言者の人格の一貫性が見えないってことだ。
その点を意識して書いていくと、実はそれだけで小説風にはなりえる。
そこを意識せずに書き続けて、似た発言を集めて、一つの人格に統合する、ってやりかたもありそうだね。
思い出した、もう一つ、「こたえ」のありなしだ。
なんというか、基本的に、ブログとかって、答えがある。エッセイ的なのもあるんだけど、それって、結構有名な人が、何か生活の中で感じたことをつづっていくわけなのであって、必ずしもこたえありき、ではないとは思いつつも、やっぱり、人格統一した、「こうあるべき」と、自分の生き方を確立した人の文章ってのが多いと思うんだ。
そういう文章は面白いけれども、でも、今僕が求めているものはそうじゃない。
というのが、さっき書いていることと矛盾しそうだけど、自分一人しかいない、自分しか自分を理解できない、自分は自分、という、自己中心的な思考である。
素晴らしい教えってのはあると思うんだ。ただ、それに対して、自分を同一化できるかどうか、ってのは、かなり、努力がいることなんだと、そう思うわけだ。
ってことを、書くと、思うと、すぐに、君は言ってくる。そういって、まじめに、努力するのが、答えを出すのが怖いんだろう、と。
その何か正しいことを認めてしまえば、今まで悩んできた自分自身の否定になるのではないか、と、そう恐れているのではないか、と。
そうかもしれない、んだけれども、そこは今はどうでもよい、というのは、何というか、臆病な自分というのが事実だとして、反転して真実性に全権委任できるのか、ってことなんだ。
逆に、こうやって、グダグダぐじぐじ書いているのが楽しいってことであれば、それはそれでいいんじゃないか、とすら思うわけだ。
人生は限りがある
で、ちょーっと待ってくれよ、となる。そりゃあ、今楽しんで、そうやって書いているのもいいさ。
ただ、じゃあ、65歳になったとき、同じように書いているのか、ってことだ。
まず、正直な感想として、それってちょっとカッコ悪いというか、気持ち悪いんじゃないかっと。
まぁね、30代でこういうこと書いている時点でちょっとどうなの、って感じはするけど、それが2倍じゃあ、ねぇ、ちょっと目も当てられない。
さっき、進撃の巨人の12巻を、集中せずに読んでいたら、巨人に囲まれ死を覚悟したミカサがエレンに、「私に生き方を教えてくれてありがとう。マフラーを巻いてくれてありがとう」と言ったシーンに差し掛かった。
で、エレンは、「そんなの、これからも、何回でも巻いてやる!」といって、巨人に立ち向かうんだ。かっけぇ!
かっこいいね、というか、自分も、ミカサにそんなこと言われてみたい(笑)
生き方、ねぇ……。やっぱり、オッサンってやつは、生き方知ってないとかっこよくないよね。
そうそう。見た目は大人、頭脳は子供、じゃあ笑えない。
生き方、ね。生きる意味を探す、ってのよりも、ちょっと大人っぽい表現かもしれない。
まぁ、やることって、同じなんだろうね、きっと。
ともかく、オッサンは、生き方を知っているがゆえに、ぶれなくて、それが「老害」という現象につながる。
まーた、始まった、なんでも批判しだす。
いや、そういう面があるってことを言ってるだけだ。変わらないってことは、変われないってことでもあって、時代の変化にそぐわなくなったとき、バリバリ働いていた中年が、クビになったらほかでもやってけなくて、結局妻子残して自殺しちゃったとか、別に珍しい話じゃないだろう。
そういう面もあると思うけど、実際自分の生き方を確立して、それを実践して毎日生きて成長してる人って、かっこいいし、モテると思うよ。
そりゃそうだろうねぇ。
モテるということ
女の子にモテるってのは、残念ながら、かどうかはおいておいて、一つ重大な価値観であることは、昔も今も、そしてこれからも変わらないだろうと思う。世界には、男と女しかいないわけだ。で、まぁ、女の子の心をつかむってのは、実は、仕事の面でも重要だと思う。
人心掌握、という表現をするかどうかは別として、仕事だって、一人でするものはほとんどないのだから――小説家、という職業だって、本当の意味で一人では成り立たない――他者の気持ちを理解し、適切な行動をとれるってことは重要だ。
その能力の多寡はあるにせよ、やっぱり、優秀な人は、モテるわけだ。仕事ができる人はモテるってのは、仕事ができてカッコいい! って女の子が思うってのもあるが、そもそも、仕事ができる=人の心をつかむのが上手い=女の子の気持ちもGETだぜ! という繋がりがあるわけだ。
こういった、自己啓発本とかビジネス本的な表現は、いくらでも批判できるし、反例だってたくさんあるだろう。過去に、独身を貫き通した偉人は大勢いる。
が、常日頃このブログでは表現しているとおり、極端な事例というか、真理的なモノをもとめるのは、専門家、科学、学問にまかせておこう、ということだ。厳密性を追求している暇は、残念ながら僕ら凡人にはないのだ。
僕ら、といったが、実は、こんな問題を抱えているのは僕一人なんじゃないのか、と、残念ながらいつも頭に浮かび、同時に、そんなお前は特別な人間なわけないんだから、ほかにも大勢いるに決まっている、と否定が入るのが、もはや面白くなってきた。
こういった、反転した共通意識と、さらに反転した孤独感というのが、表現が難しいところだ。
そして、疲れて、眠くなってくると、なんでこう、自分の切り売りみたいなことして、こんなこと書いてなんになるんだ、バカじゃないかって思い始めるのも常日頃でありながら、ただ、こうして何とか眠れそうだってのは、いいことだ。
下手に睡眠薬に頼る必要なんてない。いわば、適度な運動をするとぐっすり眠れるよ、的なアレだ。
パソコンの修理完了
突然クラッシュして動かなくなったパソコンが、戻ってきた。原因は、windowsOSの破損とのことで、再インストールしたら直ったとのこと。
SSDのストレージ破損ではないか、と思ったが、そちらの交換は行われなかったようだ。が、データはすべて初期化されていた。当然、バックアップはとっていたものの、それでも、お気に入りとか、ホームページを作成するためにインストールしたソフトウェアとか、音楽再生ソフトとか、バックアップとるほどではないが取りためたメモとか、もろもろ、全部消えてしまった。
SSDは、半導体素子を用いたストレージ機器であり、従来のHDDと違い、ディスクの検索時間(シーク時間)がなく高速であることや、静穏性に優れていることがメリットとしてある。
が、書き込みのたびに素子が劣化していく、とのこと。大丈夫かな……。今まで以上に、バックアップは念入りにしたほうがいい気がする。怖いなぁ。最初は、WINDOWSの起動の速さ(スマートホンの電源のように一瞬で立ち上がる。もちろん、その後のウイルスソフトの起動とかは仕方がないにせよ、アプリケーションを立ち上げるまでは1分かからない)に感動したものの、やっぱり安定性が一番と思う。こんなことなら、黙ってHDDにしておけばよかったような気もしないでもない、と後悔しても仕方がない。
にほんブログ村への登録
http://philosophy.blogmura.com/thought/ranking.htmlひっそりと、整理を続けていく、と書いてすぐさま、「にほんブログ村」という検索サイト(ランキングサイト)へ登録した。というのは、
禅者の世界観
http://zensha.exblog.jp/
こちらのブログが面白いと思ったからだ。
この方が、にほんブログ村に参加されていて、コミュニティとか繋がれたり、トラックバック記事を書けたりするのか、と期待したのだ。
先日取り上げた、
週刊コラムニスト
http://blog.syu-kora.jp/
(僕は、虫瞰のブログさんと呼んでいる)
も、にほんブログ村に参加されているから、いいな、と前から思っていたのもある。行動は一瞬だが、思い付きでやったわけでもないのだ。
ところが、確かに、お気に入り登録とかはできたけれども、それが相手に通知はされないみたいだし、トラックバックも、決まったテーマでしか行えないようだ。ちょっとコミュニティ機能としては残念だった。
ただ、面白いサイト・ブログを探すのに良さそうだとは思う。
これからの方針
お盆休み、夏休みもおしまいだ。昨日感じた、黄昏のセンチメンタル、今はあまりない。思ったより、体調は悪くなかった。
で、まぁ、なんか、「よいこと書こう」と思うと、やっぱり、よくない、いつも通りにいく。そう、あれだ、検索サイトとか登録すると、「よいこと書こう症候群」が発症するから、危険だと自制していたのだった。こう、何か、誰かを喜ばせようとしようとする感覚が先行する。これは、僕の性格上のことだと思う、物理環境(現実世界)においても、同様に思ってしまう。
ただ、先行研究だーっと、ほかの楽しそうなブログとか探していると、やっぱりすぐに見つかるのは、「ガチ宗教」とか、スピリチュアルとか、チャクラとか波動とかセッションとか開運だとか宇宙真理だとか、そういう系統のものだ。
「思想」というカテゴリになると、やっぱり、そういうものになるんだなぁ、とある意味、感動的な体験ができた、とか、そんな俯瞰してんで悦にはいってる場合じゃない。
スピリチュアル系を否定する気はないし、宗教もまた然り。が、問題は、そこからも「こぼれおちた」場合にどうしたらいいんだ、ってことだ。
オウム真理教と取り上げるまでもなく、ある組織化された集団に参画する(コミットする)ことによる所属欲求、承認欲求というのは、かけがえもなく大切である。
バモイドオキ神に傾倒したサカキバラセイトを挙げるまでもなく、個人神を信奉できることもまた、幸せなことである(ああ、もちろん、犯罪を助長するとか、犯罪者を肯定するとか、そんな意味では全くありえないのだけれども、きっと、こういうことを書いておかないと、危険人物と判断理解されるのだろう……し、こうやって書いたところで結局、分からない人には分からないのだ。この「わからなさ」とは、バカの壁と、養老さんが言ったりしているが、じゃあ僕がえらいのか頭がいいのかという問題もまた全く次元が違うのであって、ここら辺の前提の厳密性がいかに大変かということ、このことが、物理環境(現実世界)における対人関係に、ある程度の「諦め」が必要であるということの証左である。)。
僕が、今後、というよりも、今までも問題視し、書いてきたことは、集団への参画も、個人における信念(個人神やその他悟りなど、個人的なコミット)への参画も失敗した場合における、実存的な対応のことである。
自分の問題は比較によって明らかになる
昨日、「喪失感」が、僕が求めているもので、課題化しなければいけなかったり、表現しなければいけないと思っているものである、と表現した。この感覚、これの表現が、他の人の書物や、ブログなんかを読んでいると、その「差異」に気づくのである。
こういうわけで、やっぱり、インプットの重要性は、変わらないということは、信じていいと思われる。
体調が悪くて、頭が痛かったり、やる気が起きなかったり、疲れていたり、肩こりしていたり、虫刺されがかゆくて集中できなかったり、その他身体の不調がある時以外に、思考が止まってしまっているのであれば、それは、インプット不足である。
または、アウトプット不足である。
インプットとアウトプットは、表裏一体ではないだろうか。優れた作品に触れると、それに自己を同化させて、気持ちよくなれる。
この気持ちよさはとても重要なのだけれども、ただ、その気持ちよさは時限的であり、すぐにその快感はなくなるのだ。
としたときに、そこで、その気持ちよさをちょっと待ったをかけて、インプットとして、もしくは、アウトプットとして表現してみる。その時に零れ落ちたもの、それを掬い取って、再表現する必要があるのではないか。
今日、眠い目をこすりながら無造作に手に取った、遠藤浩輝さんのEDENという漫画の6巻か7巻、の中身ではなくて、カバーの折り目に書かれたコラムだ。コラム、というか、ほんと、殴り書きのようなものなんだけど、これが結構面白い。漫画はともかく、これだけでも読んで欲しいと思ったりするぐらい。
と、思ったら、11巻にはそのあとがきがない、ということに触れられているブログを発見。
遠藤浩輝『EDEN』
http://ashinagakujira.blog.fc2.com/blog-entry-286.htmlとかやっていたら、また普通に読み始めてしまった。やってしまったなぁ……。
ああ、ただ、そこで書かれていたことの一つで、「感情の切り売り」みたいなこと。
引用の功罪
ところで、誰かの記事を引用するということは、危険もある。ある人の本で~みたいな表現をすることは、中途半端であるけれども、そもそも書くのが楽という理由が大半だけれども、それだけではなくて、「フィルタ」「先入観」がなくていいと思う。
例えば、社会学者の宮台さんの書籍からの引用をすることはあるけれども、宮台さんを心底嫌っている人からすると、それだけで僕の書くことすべてが批判の対象になるだろう。
こういった、先入観的な行為、感情が、僕はとっても嫌いなのだけれども、僕がどう思うかはともかく、その傾向は誰にでもあるものだから、よく言われるように、政治・宗教・野球(もしくはお金とか)の話は初対面の人とはするべきではない、ということになる。
損だからだ。
どうせ、という表現をするとマイナス表現風だが、ともかく、どうせ他者との理解は完全には成りえない(ネタバレになるし何度も使い古した表現だが、エヴァンゲリオンの人類補完計画とか、アイアムアヒーローのZQNとか、先ほど挙げたEDENのディスクロージャーウィルスとか、攻殻機動隊の電脳(外部記憶)とかは、人々のスタンドアローン(孤独)を一体化・統一化しようとするテーマである)。
今思い出したけれども、上のカッコ書き内のテーマを言えば、GUN×SWORDの、かぎづめの男の目指した世界もまた、そうだったかもしれない。
エンターテイメントの世界においても、僕が表現できることについては、もはや表現されてしまっている……という点においてもまた、僕のなんとなくの哀しい虚しさ、昔オンラインゲーム症候群と表現したような、そんな感覚を呼び起こすのだけれども……。
ただ、EDENの作者の遠藤さんが言うように、良いものはたくさんあっても良いのだ(原文ママ、では全然ない、きっとそんな意味のようなことを書かれていた気がするだけ)と、思うことにしよう。
で、まぁ、良いものなのか、というのはとてもまた疑問だけれども。話がそれているな。
なんだっけ? となって、そのとき、小見出しをつけておくと、そこを読めばだいたい記憶が戻るから、この書き方をするようにしたのは、よかったな。
そう、引用の功罪だ。確かに、批判される可能性も高まるが、逆に、その作品なり書籍なりを好きな人は、理解可能性が高まるし深まる可能性がある意味で、有効といえる。
ただし、あんまり、一般的でなかったりする作品等を持ち出しすぎると、それはそれで、読み手を混乱させる。……ということを書いている意味は、僕のブログにおいて、引用の多寡を調整しようというのではなく、単に、ほかの人の文章などを読んでいて思ったことのメモである。
確かに、研究論文は、これまでの研究の積み重ねをもとに、新しい価値を生み出すのだから、先行研究はとても大切。だが、「思考」においては、どこから引用したかどうか、というのは、あまり重要ではない。もちろん、その「きっかけ」「結節点」がはっきりしていたほうが、記憶の呼び起こしや整理に有効であることは間違いないだろうが、その点に力を注ぐ必要はないと思う。
こういった、思考の経緯、プロセス、流れを表現すること、これが一つ重要に思えるのだ。
答えがあるものは必要ではない
スピリチュアルを否定するわけではない。が、何か、「教え」を求めているわけではないということだ。牧師的な救いを求めているわけではないというわけだ。
なので、「○○の光を知ることで、心身が浄化されポジティブな人生を送れるようになるのです」とか、そういった表現が、とてもイライラする原因となるのである。
霊的なものがあるとかないとか、宇宙人がいるとかいないとか、そういうことではない。
今まさに自分が思考という状態にあるときに、無遠慮な無作法な踏み込みである。今日の夕食を何にしようか考えているときに、量子力学の話をするようなものだ。いや、今その話をする気がない、ということだ。
……うーん、なんだか、つまらないたとえというか、幼稚なたとえというか。
ちょっと書いていて失敗したなぁと思う。なんだろう、しかし、こうした失敗した感が発生するときに、「新しい発見」があったりする。
おそらく、この、上に書いた「イライラ」というのは、僕の書いていることは、それらとは違うのだという、「優越感」か、もしくは「差別意識」か、何かではなかろうか。
なぁに、心配しなくても、そうしたスピリチュアル的なものの集団の中で幸せを見つけることができる人は多いだろうし、逆に、お前(自分)がそこに入り込めないだろうという孤独感によっての排斥であるという表現だって可能なのだから、ほんとに、この部分(つまるところ、何か否定することによって自己を保とうとするような方策)は、失敗に向かうだけであろうということだ。
とはいいつつも、このあたりもまた、一度は、書いておかなければ、どこか穴ができた思考にしかならないだろう。
「比較思考」とか、何度も表現していることもあるが、それらも、違う表現になりえるのであれば、それはもう、何度でも表現するべきであるのだ。
テクニカルターム(専門用語)にしてしまうと、次のステップに進めるだろうが、やっぱり、すべての事柄において、基礎は大事だ。実存における思考においても同様だ。
安易に、比較思考だとか、理想自己だとか、表現をやめてしまわずに、できる限りその都度、そのときの感覚を大事にして書いていくべきだと思う。
まぁそんなことをいつもしているから、なかなか前に進まないのだ。けれども、徹底するなら、それは重要なことだと思う。
喪失感
で、そう、喪失感。何か、僕は、求めているものがあるのだろうか、ということ。あと、15分ぐらいしか時間がない。
よし、仮に、その「足りないもの」を喪失感と表現したとき、さて、僕は何を埋めるべきなのか。欲求。自己実現欲求? 承認欲求? 所属欲求? 安全欲求? 生理的欲求?やっぱり、社会的価値があることを成し遂げたいと思っているんだろうか。そうだとしたとき、これは、かなり困難が待ち受けるため、半端な覚悟では崩壊する。それとも、承認欲求で満足なのか? これはこれで、何をもって成し遂げるのか、というのが一つ重大な問題でもある。仕事、とりあえず頑張ろうとか、そんな次元で満足しようとしているが、僕の本心、理想的自己が、もっと大きなことを成し遂げたいと思っている……?
先日の記事。
これにつなげる言葉、表現を考えてみる。
おぉ……何も浮かばない。どうしよう。やっぱり、喪失感という表現は、何かズレているのだろうか。
いやはや、こういうときは、甘えている。思考の、深刻性が足りない。
ある意味、安定的な状態であるということだ。
もっとこう、焦燥感というような、心配性というような、苦しみとか、悩みとか、恐怖とか、そういうものが足りていない。あれ、それって、とてもよいことなんじゃないだろうか。
うん、だめだ、かなり混乱した状態になっている。こういうときは、お風呂だ……。
