一人、静かに呑みたいと思い、居酒屋に足を運び、カウンターに座るが、隣の人がタバコ吸いまくりで迷惑きわまりない、というのは、喫煙可な場所なので仕方がないが。気になって、ゆっくりできない。料理はおいしい店なのに残念。
もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。
まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。
とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。
若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。
それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。
なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。
いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。
しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。
もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?
僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。
これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。
ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。
ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。
と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。
いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。
しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。
これは、アルコールのせいもあるかもしれない。
ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。
こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。
といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?
でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。
人は気持ちは変わる。
しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。
とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。
つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。
このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。
つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。
理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。
対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。
と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。
ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。
ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。
しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。
しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。
いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。
しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。
これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。
で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。
で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。
この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。
いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。
しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。
一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。
僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。
啓蒙活動だ、かっこわらい。
最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。
キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。
さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。
もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。
まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。
とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。
早く帰ったところで
若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。
それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。
なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。
いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。
しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。
もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?
僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。
これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。
ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。
偽りの自分
ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。
と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。
いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。
しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。
これは、アルコールのせいもあるかもしれない。
ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。
こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。
でも諦めていないしつこさ
といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?
でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。
人は気持ちは変わる。
しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。
一笑されるだけのこと
とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。
つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。
失望と絶望の違い
このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。
つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。
理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。
対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。
と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。
ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。
ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。
しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。
自分の絶望度は分からない
しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。
いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。
しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。
これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。
わかったからどうしたらいいんだ
で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。
で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。
この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。
いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。
しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。
一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。
僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。
啓蒙活動だ、かっこわらい。
最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。
キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。
さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。
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「遠藤さん、まさか、教室でテロリストが……とか、そんなこと考えてたなんて」
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
翌日
「お疲れ様です遠藤さん、段々帰りが遅くなりますね」お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
またいいな、と思ったブログで紹介されていたのは、山岡鉄舟というひとの、剣、禅、書という考え方。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
剣、で思い出したが、シグルイというさくひんも面白そうだ。
そして、バルサミコ酢は果実酢で、ブドウが使われ、バーニャカウダはゆで野菜をディップして食べる料理で、アンチョビソースが使われ、アンチョビは、いわしとニンニクが使われていて、どれもイタリアの材料、料理だ。
と、脈絡はないが、たまに、記憶しようと思ったことを、アウトプットする。それはもう繰り返し。
海馬が記憶の元を作り出し、大脳皮質に記憶させるという。
海馬がメモリ主記憶装置で、大脳皮質が補助記憶装置ハードディスクのようなものか。
その記憶、復習のタイミングは、最初は繰り返しの度数をおおくし、徐々にそう起する頻度を少なくしていくのがよい。というのがエビングハウスの忘却曲線。
この、バーニャカウダってなんだよ、つてのが、数年前に思って調べて、なかなか定着しなかったが、最近思い出してみて、忘れていない。やっと覚えたか、とか思っていて、海外ドラマの、ゲームオブスローンズが、タイトルがなかなかでてこなかった。数分して思い出したが、結局新作は借りられててみれなかったが。
記憶と流行
消費、需要をつくりだすのは欲求だが、それを不安という概念によってつくりだそうとするのが資本主義だ、というと言い過ぎかもしれないが、流行に乗り遅れると、ださい、と言われて、人間関係が難しくなる場合がある。
これは、女子高生に多い傾向かもしれない。先日、女性向け雑誌を研究のため、とかいう前置きを書かなければ変態扱いになるから書いているだけだが、例えば、若いうちに課長になったときの本とか、退職したあとに読む本とか、そういうのを読むのと同じレベルである。
三十代になって三十代の本読んだってあんまり意味ないのだ。
それで、その雑誌のアイキャッチは、セックスできれいになる、2016年私たちのセックス、といったものだった。
なるほどねー、こういうのが流行っているのかふむふむ、と真面目に思ったわけではないが、まぁ面白いと思う。
先日の美術の本も面白かったが、何でも様々なジャンルに目を通すのがよい。これはやっぱり、本やさんに行くことのメリットに思う。まぁ、買ってみると多分あまり読まないんだろうが。
月曜日
さて、今週はどんな一週間になるだろうか。
メモとして、気分は悪くない。仕事は沢山であり、締め切りに終われて、多分また残業も多くなるのではと思う。が、そんなに悲観的ではない。
仕事人たるや、何事も真剣に、せきにんかんをもって、というのはその通りだが、先日書いたように、仕事もまた人生でしかありえないのだから、自分の行動指針上では(いつの間にそんなのできていた? いや、いまである)、すべてにおいて、笑顔で、楽しく、である。
このblogの最初の方の記事にも書いてあった。
なんやかんや、歪、歪んでいながら、昔の記事は、参考になるというか、ああ、なるほどね、って思う。
これが、いわゆる日記の効用なのだろう。ってことも、いつぞやに書いている気がする。全然成長してないなぁ、と、呆れながら、何となく楽しい。
で、こういう心境で書いた記事を、きっと、今日の終わり、疲れてイライラした状態でみると、消したくなるほど恥ずかしく、つまらなく思うのだ。しかしまた、一ヶ月後ぐらいになると、これはまた他人のように思えて、それはそれで楽しかったりするのだ。
だんだん、何となく分かってきた気がする、と一言書いて、これがまたもう、本当に恥ずかしく思ったりするのだ。
そして十数時間後
思った通り、遅くなった。で、疲れであまり頭がまわらない。
創作のプロットつくろうと朝は思っていたのに、気力がない。
資格の勉強もきづくと一週間もさぼっている。
ここで、この疲れはてた状態で、やるべきことをやる人が、強い、かっこいいんだろう。
きっとイケメンは、この状態でも、女性に優しくできるんだろう、かなりきつい。女性とか云々でなく、もう今はホント誰にも気を使えない、とかくとは、普段、やっぱり、気を使っているのかなぁ。
いやぁ、しかし、今日の朝の記事は、体調も気分もいいぜ、とか書いていながら、そんなに腹立たしくならなかった。
おそらく、いまの自分の感覚が、読み当てられていたからだろうか。
朝の自分がおっしゃるとおり、今はふらふらしている。
その、ふらふらしていることを、何も前提なく書くと、弱音とかダメ人間とか自己管理できてない、とか、そんな言葉がわんさかになるが、朝から予想済みなら、仕方がないねぇ~みたいな感覚になるのだろうか。
自分のことながらよくわからない。
自分のこと
自分がどうあるべきか、よくよく、セルフイメージをつくりだす必要がある。
それを前提にして、やっぱり、いま、これを書いている、お前は、だれだ?
その、ふらふら、疲れて、目をしゅぱしゅぱさせて、必死にこれを書いている、お前は誰だ?
俺は、俺だ、が、なんか、違う気もする。
何が、かはわからない。
が、どこか、この、自分でしかないのだが、鏡をみても、あぁ、これ、自分だなと、大脳皮質から記憶がでてくるのだが、それでも、この、言葉を書いている、かっこ俺、と、疲れた~っと感じている俺、が、一致しているのかよくわからない、感覚だ。
いやいや、そんなはずあるまい。
拳を握ろうと思えば、指は動くし、ウォークマンにスイッチをいれて音楽をながすこともできる。
自分だろ?
それ以外に、なんだ?
それともなにか、本当の自分はもっとどこか、遠い世界で楽しんでいるとでも?
まさか、そんなことは思っていない。
ただ、ちょっとばかし疲れてくると、こんな感じがあらわれてくる。
ちょっと、プラットホームに飛び降りてみようかな、って思っても、身体はとまる。自己保存のプログラムが働いているんだなぁ、よかったよかった……って、とても危険人物である、危ない危ない。
と、想像上は、いかようにでも発生する。
いくらでも、考えることはできる、ってことも当たり前だ。考えるだけなら、あのクソ上司いつか殺してやる、みたいなこともできる。
中学生くらいに、教室にテロリストが乱入して、自分だけかっこよく立ち回り、クラスの美少女を助けて危機を脱出するとか、誰でも考えただろう、え、そんなことない?
とか書いていると、実際自分が思ったことなのか、創造したことなのか、よくわからなくなってくる、という表現は本当に危険人物認定されるな。ただ、表現の自由の規制は、こういう発言すら認められない社会になりかねない、ベーシックインカムみたいな共産的政治でも新自由主義的な経済政策でもどっちでもいいが、政治はとにかく、余計なことしないでほしいものだ。グロテスクであれ、エロであれ、ネガティブであれ、なんでもかんでも、表現の自由の制限には反対だ。
あ、政治的な主張はいっさいしないblogだったのに書いてしまった、が、これ、むしろ政治には難しい、自民でも民主でも革新でも共産でも、政党的に統一は困難だからだ。
まぁそんなことは本気でどうでもいい、と書いたところで、こうして言葉をはっしてしまうと、自分の意図はもはや軽くなって、読み手に都合よく伝わっていくのが言葉。
君は誰?
なんの話だっけ、そう、自分がよくわからないって話だ。
これって都合よいとうひだなってのもすぐ思う。
自分の行為、行動、発言に責任をもちたくないだけではないか、ってことだ。
なんか、断定すると、間違っていたとき、責任とらなきゃになる。
だから、すべての判断を保留にし続けた結果、自分という記憶の統合主体がわからなくなったのではないか。
と、ひとつ、言えるのは、こうして、次々に否定し考えてくだらないと思いながら書き続けるバカ野郎が、俺なのだ、ということぐらいだ。
この記事、面白かった。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。
小説を書くということ
2009年10月の記事。正直、いつものようにタイトルと内容が全然かみ合っていない気もする。
昨日の記事は、……うーん、微妙だ。
何だか、自分で自分に突っ込んでいると、やっぱりカッコ悪いというか、気持ち悪いなぁ、と分かっていてやっているのもどうなのか。
ここでやっぱり、先日の記事で、難しいと感じたわけだけれども、明確に人格の分離ができたら、後から読んだときに面白い可能性が高い気がする。
自堕落な生活
久しぶり、と書くと傲慢だけれども、やっぱり久しぶりな感覚はあるから、久しぶりなのだけれど、今回の休日はとことん自堕落に過ごした。昼まで寝ていたし、起きていても何をするでもなく。ぼーっとネットサーフィンしたり、昔の動画とかみたり。
今思い出そうとして、一つぐらいしか作品が出てこないから、やっぱり間違いなく自堕落であって、何ら成長につながっていないことは明白だ。
デパートのゲームセンターみたいなところでいたら、小学生ぐらいの女の子の集団に囲まれてくっつかれて、キモーいとか言われる夢をみたぐらい自堕落である(かっこわらい)。
先ほど、攻殻機動隊のGHOSTINTHESHELL
を見た。
この映画、どのタイミングか分からないが、リメイクされていて、初版は、「人形遣い」(コードネーム2501)の義体が女性型なのに対して、リメイク版は男になっている。
裸の女、というのがちょっとまずかったのかな、と思いつつ。まぁ、ラストシーンで「結婚」(融合)するということから考えると、男型の方が視聴者に分かりやすい、という配慮もあったのかもしれない。
なんやかんや、初版の古めかしくも、美しい映像がいいな、と思った。
精神力(MP)の回復
と。あんまり頑張っていないときの記事って、きっと面白くないのだろうと、思う。が、これはこれで、メモだけはしておこうと、もう寝る時間なのだけれども、筆をとる。
やっぱり、好き勝手に、時間を無駄に使うってのも、たまにはよいものだ。
……よいものだ、というよりも、必要な気がした、というのがメモの内容である。
例えば、これは、何ともむなしく哀しいことであるが、友人たちとわいわい楽しく飲み会、とかいうのもあるが、これはこれで、何気に精神力の消費につながっている気がする。
それは決して、しっかりと書いておく必要があるが、友人たちに気を使いすぎているとか、嫌なことを言われたとか、そういうことでは全くない。
家事をしたり、勉強したり、運動(ジョギング・ランニング・散歩)したりと、それはそれで、気分がよくなる。けれども、それらもまた、どこか、精神力を使ってしまっているのではないか。
惰眠、二度寝、と、頭の痛さに朦朧と、布団の中でぐだぐだと、手についた本とか漫画とかをとって、ぼけっと読んだり、いわゆる「無駄」としか言えない時間を過ごすというのは、僕の中の理性くんとしては、「即刻やめろ!」「もったいない!」と叫ぶのであるが、しかし、まぁまぁ、もう12時も過ぎてしまったし、もうちょっとゆっくりしようじゃん? となだめて。
書いていて、ああ、こいつほんとにダメ人間になったんだな、ご愁傷さま、と思うけれども、しかし、それはまた、もしかして、精神力の回復としては意味があるのではないか。
このメモが重要な理由
と、上のような分析を必要としたこと、それ自体が、実は、「成長」「意味をもたせる」「解釈可能性」を求める、理性の野郎の所業ではないか、ということを明るみにすることだ。どこかしら、上のような行動について、「反省」を求めている心性があるに違いないという、推測。
だから、本当は、この書き始めたときの「タイトル」の本当の意味を考えれば、こうした「分析」作業こそが、本来不要でしかありえない、ということなのだ。
もう特に書くことはない。何もしていないから、書くべきこともない。
ただ、このメモにおける意味が、どれだけ明日以降になって、自分が理解できるのか、それは少し興味がある、重要なことのように思う。
よし、今日は日常カテゴリだ、好き勝手に書くぞ。
なーに心配するな、結局いつも好き勝手書いているだけだ。
そも、好き勝手って何ですの?
あー、とにかく、メモすべきことを端的に書いてから、楽しくおしゃべりしようね。
本屋さんでは、進撃の巨人の20巻を買いに行ったのだが、はからずしも、様々な書籍に目が向く。
面白いなと思ったのは、脳の仕組みを図解にしている大判の本。
海馬が記憶を保持する仕組み、Mg+がシナプスの流れを遮っているが、何回も繰り返し刺激を与えると記憶の受容体になる、とか。うん、立ち読みだからよく分かっていないが、イラスト付きで見やすくて面白そうだった。けれども、説明が結構本格的で、専門用語もバリバリだったので、ちょっと引いてしまったのと、値段が2000円ごえだったので、保留になった。
もう一つ、世界の絵画の解説本。
ゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、有名な人たちの有名な絵はたいてい載っていて、その絵の背景とか、画家の生い立ちとか考えとか、絵の技法とか見どころとかが解説されている。
かなりいいな、と思った。
あとは、バイクの乗り方に関する解説本。
コーヒー、日本酒、ウイスキーに関する本。
いろいろと、ぱらぱら読んで、興味が深々となった。
が、結局、買ったのは進撃の巨人と、禅の解説本だった。
まぁ、絵画の本はちょっと今後の購入候補。
ちなみにアマゾンにあるかな……タイトルが思い出せないが……
あ、これだこれ。西洋、絵画、解説、アマゾン、みたいな断片検索でみつかった。他にもどうようのジャンルの本もあるんだなぁ。なるほどね。こういうのは、実際、本屋さんに行ってみないと買おうと思わないから、いい発見だったな。
黒い砂漠というオンラインゲームは起動はしたものの、ほぼ放置。ちょっとオークから猫を取り戻すクエストはやったけど。
勉強もせず、読書もせず、家事もせず、だらだらと。
ただ、そうしていたら、なんだか逆にやる気が少し回復した気がした。
昨日は、本当に憂鬱でだった、憂鬱? というよりも、やる気が何も起こらなかった。
もうね、死ぬ気力もないぐらいだ。そう、うつ病ってのは、最高に具合が悪いときよりも、少し回復してきたあたりの期間が危ないらしい。自殺ってのは、何分体力も精神力も必要なことなのだ、と、ずーっと昔に書いた気がするけれども、こういうのは長期記憶になってるんだよな。そんなに何度もインプット・復習している気はしないのだけれども、不思議だ。やっぱり、興味のあることは、記憶が断然はかどる、ということなのだ。話がそれた。なんだっけ。
そう、少しやる気が起きたので、ピアノをひいたり、コード進行から曲をつくったりしてみた。実際につくりはじめようかと思いながら、そういえばパソコンからソフトウェアがほとんど全部消えたことを思い出して、やめた。
そして思い出したが、小説書きためていたやつ、消えちゃったなぁ。完成して投稿した奴は残っているけれども、途中経過のやつとか、設定メモとか、それらはお亡くなりに……。バックアップの大切さがわかる。
そして、少し元気になったため、以前から読みたいと思っていた小説に目を通す。
面白い。感想も書く。作者さんから返信がある。嬉しいものだ。
昔、サイトを作ったとき、ある小説(これはプロ作家のもの)のレビューを書いて、その小説の画像の掲載許可を、作者さんにメールでお願いしたことがある。
結論的には、出版社の権利云々とかでダメ、だったけれども、面白いと思った作品を作り出した作者さんから、直接連絡をもらえるなんて、とてもうれしかった。
ディバイデッド・フロント、あ、これこれ。やっぱり、長期記憶になっている。
そう、記憶ってのが、人間そのものなんだって、思う、とか、こんなこと書き始めると、また話がそれる。ここら辺は、攻殻機動隊の外部記憶に対する見解……人形遣い事件あたりを参照すると良いと思うし、僕がわざわざ書くことではない、が、EDENの遠藤浩輝さんが言うように、よいものはいくらたくさんあったっていいんだ……と、話を戻さなければ。
そう、やっぱり、僕は、何か創っているのが楽しいんだ。
認められたい、とまではいかなくても、やっぱり、反応が欲しいのである。
見栄っ張りなやつめ。と、否定する必要もないだろう。人は一人では生きていけなくて、相互依存関係の上に社会を構築し、生活していくのだ。
という、ロジックに対して、「いやでもそんな綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」って、ぶつかっていく作品だって創れる。で、エンディングをどうするかによって、読者の反応で「あーなるほどな」ってのもまた面白い。何も、手放しで称賛されたいってわけではない。万人にうけるものを創りたいってわけでもない。
ただ、分かる人には分かる、なんて大上段で傲慢な気持ちじゃなくて、少しでも、他者の記憶の片隅にでも残るような作品でも、又は、他者の心を動かすような作品でも創れたら、きっと、非常にうれしいと思う。
仕事なんてやってられない! もっと自分の力を発揮できる世界に飛び立つんだ!
WAIT、だ。
そういう問題ではない。
仕事、人生、創作、よく考える必要がある。
あるお笑い芸人さんが小説を書いたら、文芸賞を受賞した。
東京の都知事になった人が書いた親の介護をした体験本だって売れている。
あるIT企業の社長だった人の本も好調のようだ。
後半は、創作ではないけれども、作品で人に影響を与えるってのは、仕事と切り離されるものである必要はない。
あれ、書きたいことが変になっている。そうじゃない、上の例だと、仕事と書くべきことは密接に関係している、ということにしかならない。
そうじゃなくて、僕が言いたかったのは、仕事とプライベートを分けてもよいではないか、ということである。
というのは、仕事が生きがい、という考えの否定ではない。ライフワークバランス、とかスローライフとかの、「よくわからない」ことばの称賛でもない。
どっちも大事、とか、そんな投げやりなことでもない。
ただ、仕事も創作も、それもまた「自分」でしかありえないだろう、ということだ。
工事現場やコンビニのバイトで生計をたてながら、いつかビッグなミュージシャン(小説家でも、スポーツ選手でも何でもよいが)になってやるんだ! というやり方もあるけれど、それってそもそも、仕事ってなんなんだ、って感じだ。
何だろう、よく言いたいこと、書きたいこと、がはっきりしないが、とにかく、仕事も創作も全部含めて、人、人生、自分、なのだ、ということだ。
その後帰宅すると、創作活動に打ち込む。そして、その場では、自分の作品を読んでくれる人がいる、聴いてくれる人がいる。反応がある。ときに厳しい意見もあるが、一人、二人と、面白かった、と言ってくれる人がいる。イイネだったり、拍手だったりつけてくれる人がいる。
そして次の日、やっぱり、上司から叱責をうけ、同僚には出世を追い越されて、営業成績は落ちて、給料も下がっていく……。
でも、家に帰ると楽しい時間が待っている……!
というのは、歪である。
まぁ、その人がそれでいいというなら、僕は気にしないが、僕は嫌だ、と思う。
うーん、ただ、別に上司から怒られるのはよい。注意されるのもよい。ただ、いびられるのは、そりゃあだめだ。客から怒られてもいい、ただ、理不尽なクレームにずっと付き合っている必要もない。
出世できないのはいい。ただ、営業成績が落ちて、給料が下がっていくのはダメだ。
……上のことを、なぜ僕は思うのか。
それは、全人格的、全生活的に、「向上」を目指す、という点にあるのではないか、と今思った。
ここに、感情を軽視する心性が見え隠れしている。
感情は大事かもしれない、ただ、それが、「合理的にメリット(有益)にならない」のであれば、切り捨てるべきだ、と僕は思っているのだ、ろうか。
創作が楽しめるのは、現実があってこそであることも一つ。
上の、会社ではダメダメで、家では少しよくて、というのは、構造欠陥な妄想である。
いや、それで満足する人もいるはずだ、という思いから、「僕は気にしない」と書いた。
ただ、僕は、そんな状況だと、創作する気力すらなくなるだろう。
どうやったららくにしねるんだ、みたいなことを考え出しそうだかっこわらい。
思考、そう、思考をするには、というタイトルにでもしたら、少しでもアクセス伸びるだろうか。
自分をつくるための読書術、とかいった本もあった気がする。
「考える」とは何か、とかね。
そこら辺なら、こんな自分でも、一家言はなすことができる。まぁ、こういった場合における「考える」ってのは、ビジネスで成功するための~とか、株で勝つための~とか、そういったものを求めて検索してくるだろうので、僕のぐだぐだした話を読んできっとがっかりするだけだろう。
取りあえず、今日は早めに寝よう。といってもこの時間だが。
とにもかくにも、このブログも一つ、創作なのであって、その創作は、現実とも一部リンクしている部分があって、その現実とは、仕事も金も心も含んでいるものであることから、今後も、ぜひとも、有効に活用していきたい。
取りあえず、進撃の巨人の20巻で、エルヴィン団長が、新米調査兵たちの鼓舞において、
「私たちにこの戦いで死ねってことですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら、潔く戦って死ねと?」
「そうだ」
「でもどうせ死ぬなら、戦って死んでも、命令にそむいて死んでも同じってことですよね」
「そうだ。人はいずれ死ぬ。生きる希望や夢をもっていても。(敵の攻撃で)岩に身体を砕かれても死ぬ」
「……」
「では、我々の生は無意味なのか。これまで死んでいった戦友の死は無駄だったのか。
……断じて違う!! 彼らの死に意味を与えるのは我々だ! 我々がここで戦い次の者たちに意味を与えるのだ!」
(あいまいな記憶だけで書いたのでかなり適当)
というシーンは、今まさに、僕が考えて、明らかにして、行動していかなければいけないことに対する、一つのヒントにもなった。(それは直接的な言葉の意味というよりも、俯瞰的に、生きる意味とは、そもそもその「単独」においては答えになりはしないという点において)
やっぱり、創作、作品ってのは、大事だなぁと、思う。
おお、珍しく、最初に書いたタイトルと結末が一致した。
なーに心配するな、結局いつも好き勝手書いているだけだ。
そも、好き勝手って何ですの?
あー、とにかく、メモすべきことを端的に書いてから、楽しくおしゃべりしようね。
本屋さん
近所の本屋さんに足を運ぶ。といっても、定期券内で少しだけ電車移動を試み、らーめんを食べる。本屋さんでは、進撃の巨人の20巻を買いに行ったのだが、はからずしも、様々な書籍に目が向く。
面白いなと思ったのは、脳の仕組みを図解にしている大判の本。
海馬が記憶を保持する仕組み、Mg+がシナプスの流れを遮っているが、何回も繰り返し刺激を与えると記憶の受容体になる、とか。うん、立ち読みだからよく分かっていないが、イラスト付きで見やすくて面白そうだった。けれども、説明が結構本格的で、専門用語もバリバリだったので、ちょっと引いてしまったのと、値段が2000円ごえだったので、保留になった。
もう一つ、世界の絵画の解説本。
ゴーギャン、ダリ、ゴッホ、ムンク、ピカソ、有名な人たちの有名な絵はたいてい載っていて、その絵の背景とか、画家の生い立ちとか考えとか、絵の技法とか見どころとかが解説されている。
かなりいいな、と思った。
あとは、バイクの乗り方に関する解説本。
コーヒー、日本酒、ウイスキーに関する本。
いろいろと、ぱらぱら読んで、興味が深々となった。
が、結局、買ったのは進撃の巨人と、禅の解説本だった。
まぁ、絵画の本はちょっと今後の購入候補。
ちなみにアマゾンにあるかな……タイトルが思い出せないが……
あ、これだこれ。西洋、絵画、解説、アマゾン、みたいな断片検索でみつかった。他にもどうようのジャンルの本もあるんだなぁ。なるほどね。こういうのは、実際、本屋さんに行ってみないと買おうと思わないから、いい発見だったな。
創作は力なり
今日は、上のお出かけ以外、ほとんど何もしなかった。黒い砂漠というオンラインゲームは起動はしたものの、ほぼ放置。ちょっとオークから猫を取り戻すクエストはやったけど。
勉強もせず、読書もせず、家事もせず、だらだらと。
ただ、そうしていたら、なんだか逆にやる気が少し回復した気がした。
昨日は、本当に憂鬱でだった、憂鬱? というよりも、やる気が何も起こらなかった。
もうね、死ぬ気力もないぐらいだ。そう、うつ病ってのは、最高に具合が悪いときよりも、少し回復してきたあたりの期間が危ないらしい。自殺ってのは、何分体力も精神力も必要なことなのだ、と、ずーっと昔に書いた気がするけれども、こういうのは長期記憶になってるんだよな。そんなに何度もインプット・復習している気はしないのだけれども、不思議だ。やっぱり、興味のあることは、記憶が断然はかどる、ということなのだ。話がそれた。なんだっけ。
そう、少しやる気が起きたので、ピアノをひいたり、コード進行から曲をつくったりしてみた。実際につくりはじめようかと思いながら、そういえばパソコンからソフトウェアがほとんど全部消えたことを思い出して、やめた。
そして思い出したが、小説書きためていたやつ、消えちゃったなぁ。完成して投稿した奴は残っているけれども、途中経過のやつとか、設定メモとか、それらはお亡くなりに……。バックアップの大切さがわかる。
そして、少し元気になったため、以前から読みたいと思っていた小説に目を通す。
面白い。感想も書く。作者さんから返信がある。嬉しいものだ。
昔、サイトを作ったとき、ある小説(これはプロ作家のもの)のレビューを書いて、その小説の画像の掲載許可を、作者さんにメールでお願いしたことがある。
結論的には、出版社の権利云々とかでダメ、だったけれども、面白いと思った作品を作り出した作者さんから、直接連絡をもらえるなんて、とてもうれしかった。
ディバイデッド・フロント、あ、これこれ。やっぱり、長期記憶になっている。
そう、記憶ってのが、人間そのものなんだって、思う、とか、こんなこと書き始めると、また話がそれる。ここら辺は、攻殻機動隊の外部記憶に対する見解……人形遣い事件あたりを参照すると良いと思うし、僕がわざわざ書くことではない、が、EDENの遠藤浩輝さんが言うように、よいものはいくらたくさんあったっていいんだ……と、話を戻さなければ。
そう、やっぱり、僕は、何か創っているのが楽しいんだ。
反応のなさ
そして、この辺りは、認めたくない部分でもあるが、やっぱり、認められたい、って思いがあるのだ。認められたい、とまではいかなくても、やっぱり、反応が欲しいのである。
見栄っ張りなやつめ。と、否定する必要もないだろう。人は一人では生きていけなくて、相互依存関係の上に社会を構築し、生活していくのだ。
という、ロジックに対して、「いやでもそんな綺麗ごと言ってんじゃねぇ!」って、ぶつかっていく作品だって創れる。で、エンディングをどうするかによって、読者の反応で「あーなるほどな」ってのもまた面白い。何も、手放しで称賛されたいってわけではない。万人にうけるものを創りたいってわけでもない。
ただ、分かる人には分かる、なんて大上段で傲慢な気持ちじゃなくて、少しでも、他者の記憶の片隅にでも残るような作品でも、又は、他者の心を動かすような作品でも創れたら、きっと、非常にうれしいと思う。
仕事と創作との関係
よし、僕のやりたいことは決まった! 今すぐ、それに向けて頑張るぞ!仕事なんてやってられない! もっと自分の力を発揮できる世界に飛び立つんだ!
WAIT、だ。
そういう問題ではない。
仕事、人生、創作、よく考える必要がある。
あるお笑い芸人さんが小説を書いたら、文芸賞を受賞した。
東京の都知事になった人が書いた親の介護をした体験本だって売れている。
あるIT企業の社長だった人の本も好調のようだ。
後半は、創作ではないけれども、作品で人に影響を与えるってのは、仕事と切り離されるものである必要はない。
あれ、書きたいことが変になっている。そうじゃない、上の例だと、仕事と書くべきことは密接に関係している、ということにしかならない。
そうじゃなくて、僕が言いたかったのは、仕事とプライベートを分けてもよいではないか、ということである。
というのは、仕事が生きがい、という考えの否定ではない。ライフワークバランス、とかスローライフとかの、「よくわからない」ことばの称賛でもない。
どっちも大事、とか、そんな投げやりなことでもない。
ただ、仕事も創作も、それもまた「自分」でしかありえないだろう、ということだ。
工事現場やコンビニのバイトで生計をたてながら、いつかビッグなミュージシャン(小説家でも、スポーツ選手でも何でもよいが)になってやるんだ! というやり方もあるけれど、それってそもそも、仕事ってなんなんだ、って感じだ。
何だろう、よく言いたいこと、書きたいこと、がはっきりしないが、とにかく、仕事も創作も全部含めて、人、人生、自分、なのだ、ということだ。
努力とは何ぞや
上司にいびられて、客からのクレームに対応して、日々不満な仕事を送る。その後帰宅すると、創作活動に打ち込む。そして、その場では、自分の作品を読んでくれる人がいる、聴いてくれる人がいる。反応がある。ときに厳しい意見もあるが、一人、二人と、面白かった、と言ってくれる人がいる。イイネだったり、拍手だったりつけてくれる人がいる。
そして次の日、やっぱり、上司から叱責をうけ、同僚には出世を追い越されて、営業成績は落ちて、給料も下がっていく……。
でも、家に帰ると楽しい時間が待っている……!
というのは、歪である。
まぁ、その人がそれでいいというなら、僕は気にしないが、僕は嫌だ、と思う。
うーん、ただ、別に上司から怒られるのはよい。注意されるのもよい。ただ、いびられるのは、そりゃあだめだ。客から怒られてもいい、ただ、理不尽なクレームにずっと付き合っている必要もない。
出世できないのはいい。ただ、営業成績が落ちて、給料が下がっていくのはダメだ。
……上のことを、なぜ僕は思うのか。
それは、全人格的、全生活的に、「向上」を目指す、という点にあるのではないか、と今思った。
ここに、感情を軽視する心性が見え隠れしている。
感情は大事かもしれない、ただ、それが、「合理的にメリット(有益)にならない」のであれば、切り捨てるべきだ、と僕は思っているのだ、ろうか。
創作と現実
そして次の問題。創作が楽しめるのは、現実があってこそであることも一つ。
上の、会社ではダメダメで、家では少しよくて、というのは、構造欠陥な妄想である。
いや、それで満足する人もいるはずだ、という思いから、「僕は気にしない」と書いた。
ただ、僕は、そんな状況だと、創作する気力すらなくなるだろう。
どうやったららくにしねるんだ、みたいなことを考え出しそうだかっこわらい。
少し思索の方向へ
と、メモすべきことは、きっと全部書いたな。クレジットカードの住所変更しなきゃとか、ハンドソープとかその他生活用品の買い出しに行かなきゃとか、そういったことはまだあるが、ここで書くべき、思考として必要なことは全部書いた、と思う。思考、そう、思考をするには、というタイトルにでもしたら、少しでもアクセス伸びるだろうか。
自分をつくるための読書術、とかいった本もあった気がする。
「考える」とは何か、とかね。
そこら辺なら、こんな自分でも、一家言はなすことができる。まぁ、こういった場合における「考える」ってのは、ビジネスで成功するための~とか、株で勝つための~とか、そういったものを求めて検索してくるだろうので、僕のぐだぐだした話を読んできっとがっかりするだけだろう。
取りあえず、今日は早めに寝よう。といってもこの時間だが。
とにもかくにも、このブログも一つ、創作なのであって、その創作は、現実とも一部リンクしている部分があって、その現実とは、仕事も金も心も含んでいるものであることから、今後も、ぜひとも、有効に活用していきたい。
取りあえず、進撃の巨人の20巻で、エルヴィン団長が、新米調査兵たちの鼓舞において、
「私たちにこの戦いで死ねってことですか」
「そうだ」
「どうせ死ぬなら、潔く戦って死ねと?」
「そうだ」
「でもどうせ死ぬなら、戦って死んでも、命令にそむいて死んでも同じってことですよね」
「そうだ。人はいずれ死ぬ。生きる希望や夢をもっていても。(敵の攻撃で)岩に身体を砕かれても死ぬ」
「……」
「では、我々の生は無意味なのか。これまで死んでいった戦友の死は無駄だったのか。
……断じて違う!! 彼らの死に意味を与えるのは我々だ! 我々がここで戦い次の者たちに意味を与えるのだ!」
(あいまいな記憶だけで書いたのでかなり適当)
というシーンは、今まさに、僕が考えて、明らかにして、行動していかなければいけないことに対する、一つのヒントにもなった。(それは直接的な言葉の意味というよりも、俯瞰的に、生きる意味とは、そもそもその「単独」においては答えになりはしないという点において)
やっぱり、創作、作品ってのは、大事だなぁと、思う。
おお、珍しく、最初に書いたタイトルと結末が一致した。
