小説投稿サイトへの随筆、整理してそのまま、書く、というのが、やっぱり、自分で納得いかず、論理の構成を見直したり書き足したりしていたら、相当時間を要したのが昨日。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
でかけたら書く
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
日記
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
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すきかってかくのは、スマートホンからもできるが、やはり、整理するのは、パソコンが必要だ。
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
ネタ整理
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
生活分類
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
夜にまた追記
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
役に立つのか面白いのか
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
迷える子羊
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
だからこそやばい
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味ではなく生きがい?
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
自分の思った通りに人生は回っていく、この実感を、是非大切にしたい。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
アットホームな場所
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
金と行動と価値観
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
しかし高速に思考が生ず
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
仕事での頑張りと失敗
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
上のことは全部間違いです
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
理解不可能性は自分にも及ぶ
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
孤独と社会性
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
くそみたいな記事
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
一人、静かに呑みたいと思い、居酒屋に足を運び、カウンターに座るが、隣の人がタバコ吸いまくりで迷惑きわまりない、というのは、喫煙可な場所なので仕方がないが。気になって、ゆっくりできない。料理はおいしい店なのに残念。
もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。
まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。
とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。
若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。
それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。
なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。
いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。
しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。
もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?
僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。
これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。
ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。
ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。
と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。
いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。
しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。
これは、アルコールのせいもあるかもしれない。
ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。
こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。
といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?
でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。
人は気持ちは変わる。
しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。
とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。
つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。
このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。
つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。
理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。
対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。
と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。
ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。
ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。
しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。
しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。
いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。
しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。
これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。
で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。
で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。
この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。
いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。
しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。
一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。
僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。
啓蒙活動だ、かっこわらい。
最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。
キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。
さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。
もうちっと、隣に気を使ってほしいもんだがな。
ほんとは、ウォークマンとか使わないのが通、なんだろうな。隣の人と打ち解ける、みたいな。まぁそんなのもあるかもしれん、が。結局店員さんの猛々しい女性の声とか、お客さんのワッハハ楽しそうな声が、残念ながら煩くて、ウォークマンである。
まぁ、耳に差し込んでも、聞こえるから、逆にちょうどいいぐらいだが。
とか、不満いいつつ、やっぱり、旨いから、追加注文してしまう。
早く帰ったところで
若者が、被爆者の語り部に多く参加しているという。
意外にも、なんで生きてるんだ、自分なんて生きている価値がないんじゃないか、と思っている人は多いらしい。
それを、認めて、カミングアウトして、やる気に転化して、成功をおさめる、という構図、これにも、もう飽きてしまった。
なんというか、もう、相対化の魔物にとりつかれると、恐ろしいことになる、言い換えれば、とてつもない怠け病、となるが、どのみち、苦しむのは自分である。
いや、逆に、逆にだ、戦争末期、食料もない、広島にいたというだけで、ピカドンに犯されているから婚約者の親にも婚約破棄された、とか、ひでー話だ。戦争はよくない。
しかし、逆に、戦争時と今とを同質にみろ、というのも難しいのではないか。
もっといえば、上の悲劇的な被爆者よりも、親から虐待をうけて、再婚相手の男にレイプされつつ、お前なんて生まれてこなければよかったのに、と言われ続けて育った人と、どっちが辛く、可哀想と思うのか?
僕は、比較することすら無価値と思う。間違いない。両方たいへんで、よく頑張った、素晴らしい、すごい。
これが、比較思考の無意味性である。
下をみてもきりがない。だから上を向いて歩こう、ではないが、結局のところ、他者は他者である。
ここで、やっぱり書いておくべきは、俺は別に、他者への共感ができないサイコではないということだ。むしろ、共感しすぎるぐらいである、と言っても、ここまでの文章は、絶対に覆せない印象を与える。
だから、自分の気持ちの吐露など、絶対にすべきではない、いやなに、100%の理解が不可能であるならば、大した問題ではない、危険な誤解が生じる部分は伏せて、共感性、安全性の高い部分で生きていけばよいのだ。
偽りの自分
ってことを、昨日はウィル君に見破られた、つまり、なんやかんや、やっぱり、物理世界に対し、心をとざしてしまったのだ、と。
と、いいつつ、こうやって書くのは、やっぱりどこか、他者の承認を求めるのである。
いつまでも終わらない、トートロジー、無限遡及。
しかしだ、もうそうであれば、もうどこまでも書き続けてやる、って、そんな自暴自棄的なのも発生する。
これは、アルコールのせいもあるかもしれない。
ああ、しかし、あれだ、強い、生き甲斐、って、なんだろう。
こうなってくると、もう、ほんと、周りの、生きている人たち、みんなすげーっと思う。
よく生きてるな、いやほんと、それだけですごいよ、欲求があることがすごい。
でも諦めていないしつこさ
といいつつも、こういった生き甲斐のなさを、仕事帰りのアルコールとか、ゲームとか、宝くじとか、車とか、女とか、そういうもので満足しちゃいけない、って、ストッパーがいる。どこにいやがる?
でも、僕自身、それを捨てちゃったら、俺が僕じゃなくなる気がする。
人は気持ちは変わる。
しかし、その人格の統一性は、記憶によって成り立つ。ゆえに、記憶がなくなれば、それは一個の死といえる。
そして、ここからが重要だが、記憶の連続性がなければ、それもまた死、であるのだ。
一笑されるだけのこと
とか言っても、どうせ、誰も理解できないのだ、と、僕は今思っている。
先程の、被爆者語ろう会に参加しようと思った若者たちでさえも、私の言うことは、きっと、共感はしたとしても、認められないし、そもそも必要としないだろうと、逆に思った。
つまり、いくら、自己の価値を見失い、生きることが嫌になった人も、絶望、をしているわけではない可能性がある、ということだ。
失望と絶望の違い
このあたりが、19世紀のキルケゴールさんがすごいところだ。
つまり、恋人にふられたとか、仕事でしっぱいしたとか、それらは人格否定がつきまとい、間違いなくつらいことだが、それはまだ絶望ではない。
理想の恋人と相思相愛になる、とか、出世して皆に認められる、とか、実現可能性がいかに小さく思われようとも、その幸せ的事象が存在しているうちは、望みに到達すること失ったのである。
対して、その、自分がありたいと思う理想、目的、到達点、それが無くなった状態、それは、望みが絶滅したのである。
と、まぁ、絶望と失望と、キルケゴールの死に至る病を、日本語を使い分けて説明していた本があったから、上のように表現しただけで、別にどっちがどっちとか、覚える必要はない。
望みが完全に失われた、と解釈すれば、失望が僕の表現したかった絶望と同じ意味にもとれる。
ので、ここの、違いは、未だ、自分が、ありたい姿を想像できるかの違い、と記憶すればよい。
ので、失望の場合は、いわゆるスピリチュアル的な、セルフイメージをもって、なりたい姿を引き寄せる的な、そういった生き方が効果を発する。
まず、社会から疎外された人のうち、大半はこの方法が有効である。
しかし、面倒くさい人間は、それすらできなくなる。
お金も、ルックスも、時間も、いっさいの諸条件を廃して、本当に自分のやりたいことを考える。まずやってみるといい、そして、やってみて、ああ、確かに、そのとき想像した自分になれた、よかった、幸せだ、……で、それがどうした? と、気づいてしまったとき、そこから、本当の絶望が始まる。
自分の絶望度は分からない
しかし、ここでも、結局、スピリチュアル的には、それはまだ、自分の本当のきもちを引き出せていないのです、宇宙のオーラを感じ、私たちとセッションして、本当の自分に出会いましょう、と言われるだけだ。
いや、よいのだ、その、自己を集団や組織にコミット(参画)できるなら、そうした方がよい。
しかし、困った人たちは、それがどうしてもできない。もしくは、何回かはできて、それによって救われたりうまくいったりしつつも、やっぱり、何か違うことに気づいてしまったのだ。
これを私は、呪いと表現している。
だって、全然よいことではないのだ。
わかったからどうしたらいいんだ
で、結局、その呪いを理解できた人も、そこで、じゃあどうしたらいいんだ、と、やっぱり、答えをもとめるようになる。
で、まぁ、何もないけど、例えば素晴らしい人格者が、答えを与えたとしよう。しかし、その後の展開は、すでに書いてきた無限遡及に吸収されてしまうほど、脆いものになっているのである。
この、相対化の呪いは、成功し、救われて、幸せになる度に、強度を増していく。
いやー、この記事、すごい言霊を発してる気がする、読んだ人に不快感どころか、倦怠感や嘔吐させるのではないか。
しかし、ここまで読めた人は、安心して欲しい、逆に
強固な自己を保持した、大人で魅力的な人だ。
一方で、そうでなくても共感した人は、遅かれ早かれ、この構造に気づく。
もう呪いにかかっている。
この呪いは、かかる人とかからない人がいる、むしろかかる素質がある人は、何れかかる。
僕は30代だが、これ、もっと遅くにかかってたらもっと大変だったな、と思うわけで、こうして書いている。
啓蒙活動だ、かっこわらい。
最後に、反転して、意識高い系なこと書いておけば、この絶望の状態でなお、正しく、素晴らしく生きるにはどうしたらよいのか。それを、今後も真剣に考え、綴っていこう。
キルケゴールさんは、倫理的な生き方、神への信仰によって救いをえた。
さて、21世紀に生きるわたしは、それら先人の作品をもとに、どのような解を、方針を、目的をみつけ、生きていくのか。まずは、思考ができることに感謝を。
「遠藤さん、まさか、教室でテロリストが……とか、そんなこと考えてたなんて」
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
おぉ、ウィル、久しぶりだな。ってそんなに笑うなよ、流石にそんなこと考えてないがな。
まぁ、なんだかハルマゲドンみたいなのが起こるんじゃないかな、みたいなことはどっかで思っていたのかな。
「ハルマゲドンって何ですか?」
ハルマゲドンってのは、終末思想みたいな。なんか世界の終わりがくるみたいな、何かどでかいことが起こるんじゃないか、みたいな感じかな。
「へー、ってことは、やっぱり、日常生活にやっぱり満足してなかった、ってことですか?」
うーん、それはやっぱり、そういうことなのかな。
やっぱり、どこか、皆からチヤホヤされたいって気持ちはあったと思うよ。ほんと幼い頃はそうだったからね。
「あー、よくある、幼い頃は神童と呼ばれて、成長と共にただの人になる、みたいな奴ですね」
お、おぃ、よくそんなこと知ってるな。まぁ、そういうのはあったのかもしれないな。
翌日
「お疲れ様です遠藤さん、段々帰りが遅くなりますね」お疲れ様、そうだね、まぁ今週はこうなる予想済みだけど、想像以上に他の仕事に時間が取られて進捗は芳しくないね。
「どんなお仕事されてるんですか?」
おいおい、ウィル、それはちょっとここで話すのは憚られるな。ただ、大抵合コンとか初対面の人と会うと、そういう話になるな。
「合コン……ってよく分かりませんが、初めてあった人に聞かれたらどうこたえるんです?」
そうさなぁ、各部署での仕事内容を把握して、適切な割り振りをする仕事かなぁ……、うーん、これ、ボカしてもぼかさなくても関係なく、説明が難しい。
「よくわからないですね。ちゃんと説明できないってことは、よく自分の仕事を理解してないのでは?」
鋭い! 辛辣!
まぁそうかもしれないな。何故か知らないが、確かに、あまりルーチン的な仕事をしたことがない。そうさな、企画的な仕事なんだよな、それでいて、実働的にも作業したり、お客さんにプレゼンしたり頭下げたりとかもあるし、確かに確かによく分からない仕事だ。あはは。
「いやいや、笑っていいとこなのか分かりませんよ。何だか大変そうだなぁとは思いますが、正直あまり楽しそうじゃないですね、というのは遠藤さんの話し方が悪い気がますが」
そう? ちゃんと笑いながら話したじゃないか。
「嘘っぽいんですよね。いかにも作り笑い的な感じがします。実際、心にもないこと言って、とか言われたことあるんじゃないですか?」
うーん、あったかもしれないなぁ。
なんというか、とりあえずその場の最適解を求めようと振る舞う傾向がある。
今日はそれが、相手の求めるところじゃなくて、怒られたというか、注意されたというか、失敗したなぁ。
「なるほど、そうでしたか……。そんなときに、きつい言い方してすみません」
いや、いいんだ、確かに、反省している部分でもある。
で、どうせ失敗するなら、自分の本心のまま振る舞った方が、失敗しても落ち込まなくてもすむのかな、とも思ったよ。
「でも、その本心ってのが、よくわからない、と? そうですよね」
うーん、さえてるね、そう、そうなんだよ。で、もう段々本当によく分からなくなってきたから、多分初めて? このブログでは初めてだろうけど、こうやってウィルたちと話をしてみようと思ったわけさ。
「呼んでもらったのはありがとうございます。
以前別の場で呼んでもらってから、すっかり忘れられてしまったんだと思ってました。」
あぁ、ごめんな、続き書こうとは思っていたんだけど、いろいろあってなぁ。
「仕方がないですよ、と言って欲しいんでしょうが、他のみんなの気持ちを含めて、もっとしっかりしてください、とお伝えします」
あはは……手厳しい。
けどさ、このペースで忙しくなると、ほんと、厳しいね、というのは、時間対効率というよりも、気力的になぁ……。
「時間対効率って?」
ああ、ごめん、あんまり考えなしの言葉だ。
こういう、自分語をはなすのはよくない傾向だ。
そういえば、ベーシックインカムとかも先日書いていたけど、誰にでも基本的なお金を与えるという制度、仕組みだ。基本的というのは、誰でも最低限衣食住が満たせる程度ってもの。で、もっと豊かな暮らしがしたい人は働けばいい、っていうもの。
「えっと、別にきいてないんですけど……」
それでそんな話ししたら、日本の生活保護制度と何が違うの? って質問されたんだ。もう5年以上まえだろうなぁ。そんとき、あ、確かにと、思ったんだけど、やっぱり、生活保護はセーフティネットの意味が強いよね、ベーシックインカムは権利として認められるものだから、恥ずかしいものどころかあたりまえなんだ。もちろん、生活保護だって権利で当たり前なんだろうけど、やむにやまれない事情があったときの保障だよね。だから違うんだ。
「あ、あの……」
とかしたりがおで書いてると、ここら辺に一家言もってるひとが、適切なコメントで指摘をくださるんだぜ。すみません、僕はこの程度の知識で、先日の記事とか書いてました、すみません。
「だから! ちょっと、聞いてないですって!(笑)
わかりましたよ、いつもこんな感じで、自分勝手にすきかって話して、それで満足して、飽きたらやめてるんでしょ?」
う、まぁ、そうかも。でも、ブログとかって、所詮ひとりごとじゃない?
なんか、ご教示いただくような内容なブログもあるけど……、あ、先日訪問したあるブログは、とにかく毎回の記事で、明るく楽しくなりましょう! ○○をすればとにかくハッピーです! みたいな短めな記事がずっと、もう何年も続いてるんだ。
ちょっと、読む気になれなかったね、ブラウザバック。まぁ、ほんとずっとあのテンションで語り続けるってのは、素直にすごいとおもったけど。
「とか、いってますが、遠藤さんのお話も、相当に長く続いてますよね」
いや、俺はいろんなこと書いてる……つもりだが、やっぱり、そう感じるもの?
「結局、答え的なのがないですし、直接的にはいってませんが、疲れた~でも頑張んなきゃー、みたいなのがずっと続いてるだけな気がします。
正直、10回に一回流し読むぐらいでも、ほとんど何の変化も感じられないかな、みたいな感じですね」
えぇ……そうなのか、いや、まぁ、そうなんだよな。そんな気はしてるんだ。
「そうは思いながら、時間が経ってから読み返すと、面白かったり、拍手してくれる方がいたり、たまにアクセス数が増えたりするから、いい気持ちになって書いちゃうんですよね」
そ、そうなんだよな、いや、そんな気がする、やっぱり、そうなのかな……って、よくわかったなそんなこと!?
「いや、よくわからなかったですが。遠藤さん、それこそそのこと何回も書いてますから……」
あー、そういうことね。そうだなぁ、まぁ、拍手してくれる人が同じ人かも分からないし、正直、イイネ!って意味なのかもわからないけど、ただ、きてくれている、ってことが本当に嬉しいことだなってのは、ほんとにそう思うよ。
「その、感謝の気持ち、是非いろんな人に向けた方がいいと思いますよ」
ウィルって、まだ十代だよな。若者にそんな正しいこと言われておじさんはちょっと恥ずかしいけど、いやいや、ほんと、そう思うよ。いろんな人がいて、いろんな人に助けられて生きてるんだからね。
「あ、なんか、また嘘っぽい(笑)」
ええ、ほんと!? そんな気はない、んだけど、ただね、現実世界的に、そういう、毎日声かけてくれる人なんていないからね。
「え、いろんな部署の人とお話しして、なにかを話し合う仕事とかいってなかったですか?」
あぁ、そうだな、語弊がある、声かけてくれる人はいっぱいいるよ(笑) むしろ声かけてもらうのが仕事みたいなもんだからな。
いや、そう、だから、仕事みたいなもんなんだよな。いや、先日の記事のように、仕事と生活は切り離せないんだとおもうが、でも、なんだか……
「やっぱり、自分を本当に認めて、気持ちよく話してくれているとは思えない、と?」
うーん、あぁ、でも、ウィルと話せてよかったよ。ここら辺、確かに微妙だ。
確かに、仕事上の会話とか相互関係がなんか違う、って思いもあるのかもしれないが、じゃあ、友人たちとの会話、楽しい時間ってのはどうなんだ、ってのもあるし、何か言われたいってわけでもない。
もっといっちゃえば、以前このブログへコメントくれた方々の言葉だって、その真実性は疑えばきりがない。にもかかわらず、それは本当に嬉しくて、救われた。
「それは、……もしかして、遠藤さんが、現実世界で、自分に嘘をついて生活してるからではないですか?」
自分を偽っている、か、そう、だな、最近はほんと、そんな意識してるわけじゃないんだけどなぁ……。
でもむしろ、こう、現実世界からもどってきたときに、なんだか満たされない疲れを感じる。
「あ、あの、遠藤さん、僕たちはいいんですが、その、『現実から戻る』って表現はほんと大丈夫なんですか……?」
あー、やばいね、だいぶやばいね(笑)
なんだかウィルに誘導尋問されてしまった感じもあるが、もう、現実に何も価値を見出だせなくなりました、みたいだもんな、あはは。
「いやいや、あはは、じゃないですって!
もう、ほんとお疲れみたいですから、お風呂いってゆっくりしてください。お願いですよ」
ああ、ちょうど帰ってきたよ、分かった、そうするよ。
