いやはや、仕事の時間自慢など無意味だが、自慢ではなく、ただ事実として、メモしておくのも、今後のことを考えれば重要だ。
とにかく、家に帰ると玄関で寝てしまうぐらいに帰りが遅く、疲れている。睡眠時間は五時間達していない。
俺なんて徹夜だ、まだましだね、とか、比較しだすときりがない。
まず、こういうときは、自分でどうか。
限界、というと語弊、だが、通常続けられる生活様式を100%としたら、120%くらいでずっと続いてるようだ。
ここで、輝かしい未来があるなら、ふんばりどこだ! とやるのだが、もう半年前から書いてるように、生きる意味を喪失した状況である。
本当は、がんばる、ということが、完全にできない状態である。だから、実力の90%ぐらいの発揮でなんとかしていたけれども、やはり、足りなそうだ。
といっても、点数がでるような仕事ばかりじゃないし。
おぉ、思い出した。がんばって、も、無駄である。
本気で、がちで、真剣に、必死に、自分のできる以上にがんばった。で、結果が一部ダメだった。罵られた。
やってられない、と自暴自棄になるというよりも、頑張ったことに対する、後悔が、生じた。
鞄があたった、とかで、まじ切れして掴みかかってくるクソ親父っているんだな。スキンヘッドで髭をはやして、酒の臭いをさそている。でもスマホゲームやってんだけどな(笑)
ヒジウチされて、なにやってんだよ、と、怒鳴られた。
本当に、いやはや、いらっと度はボルテージだが、ある意味冷静にスルーした。
なんだその態度は、っていわれたらどうなってたか分からないが。
話は完全にそれたが、まぁ、そういう、クソ野郎であっても、俺のように様々他者を斟酌して、自分を律して生きていてもら結局、クソ野郎のような、自分の気持ちに正直なやつのほうが、楽しく生きていたりする。
って考えると、ほんと、がんばるとか、我慢するとか、馬鹿馬鹿しいよな。
まぁ、俺の特殊さは、苛立ったハゲ野郎も、昔はとっても繊細で、自分を圧し殺して生きてきた、とかかもしれない、とか思うことだが、だがあの野郎はぜってぇ違う(笑)
冗談はともかく、ほんと、このがんばること、我慢することの無意味性が、最近の僕を支配している。
そして、究極のポジティブ思考しかありえないことの証明。
そう、楽しく生きるしか、正解はない。中学3年生では到達した、生きる意味。楽しむこと。
やっぱり俺は正しかった、なんて思えるはずもなく、であれば、なおさら、楽しいことの無意味さに気づくたび、生きる気力がなくなっていくのだ。
仕事では頼りにされ、期待もされていても、それは限りない頑張れ世界に没入していくだけで。
ああ、もちろん、戦後ものがない時代とか、働くことがそのまま生きることに直結していた時代は、仕事そのものが生きることだったろう。
そんな時代は、スローライフとか、ワークライフバランスとかいう言葉がでてきたときに終わった。
趣味に生きよう、ローカルコミュニティを大切にしよう、新しい方策が示される。
それはそれで、多くの人を救い、長く保ち続けるだろう。
が、さて、そっからもこぼれたら、いったいどこにいく?
とかいう相談を誰かにすれば、え、じゃぁ、生きたくないなら死ねばいいじゃない。早く死んで、といわれるだけである。
冗談だが、ただ、内心そう感じさせるのは事実。
これが、他者を頼ってはダメな理由。アドバイスではない、共感が必要なんだ、としよう、で、共感してもらっても、じゃあ頑張って生きてみようか! となる。
だから、その生きる意味がわかんないんだってことを、理解できる人はいない。
いくら素晴らしいアドバイス、傾聴、共感であっても、それは、よく生きるためのものでしかない。そして、論理矛盾だが、そのよく生きるってのが、結局、それは一人ひとり考えてつくっていくものだよ! とか抽象になる。
究極のトップダウン思考がダメなのかもしれないが、やっぱり、生きるということは、そのことに意味があるはずなのだ。
それは、決して、万人にあてはまる真理でなくてもいい。ハゲ糞野郎にだって、スマホゲームとか、生きる目的があるのだ。
でも、シッダッタがいうように、人生は苦しみなのであれば、早々に諦めて死ぬのだって、一つ、正解なはずだ。
でも、死んだら終わり、生きていれば、そのうち生きる意味がみつかるかもしれないし、見つからなくても楽しく生きていけるかもしれない可能性があるから、死んではダメだ、という論理である。
が、その論理は、現時点として苦しむ人を救わない。
希望である。希望がないのだ。
とにかく、家に帰ると玄関で寝てしまうぐらいに帰りが遅く、疲れている。睡眠時間は五時間達していない。
俺なんて徹夜だ、まだましだね、とか、比較しだすときりがない。
まず、こういうときは、自分でどうか。
限界、というと語弊、だが、通常続けられる生活様式を100%としたら、120%くらいでずっと続いてるようだ。
ここで、輝かしい未来があるなら、ふんばりどこだ! とやるのだが、もう半年前から書いてるように、生きる意味を喪失した状況である。
本当は、がんばる、ということが、完全にできない状態である。だから、実力の90%ぐらいの発揮でなんとかしていたけれども、やはり、足りなそうだ。
といっても、点数がでるような仕事ばかりじゃないし。
がんばる無意味
おぉ、思い出した。がんばって、も、無駄である。
本気で、がちで、真剣に、必死に、自分のできる以上にがんばった。で、結果が一部ダメだった。罵られた。
やってられない、と自暴自棄になるというよりも、頑張ったことに対する、後悔が、生じた。
くそぼけなヤクザにからまれた
鞄があたった、とかで、まじ切れして掴みかかってくるクソ親父っているんだな。スキンヘッドで髭をはやして、酒の臭いをさそている。でもスマホゲームやってんだけどな(笑)
ヒジウチされて、なにやってんだよ、と、怒鳴られた。
本当に、いやはや、いらっと度はボルテージだが、ある意味冷静にスルーした。
なんだその態度は、っていわれたらどうなってたか分からないが。
話は完全にそれたが、まぁ、そういう、クソ野郎であっても、俺のように様々他者を斟酌して、自分を律して生きていてもら結局、クソ野郎のような、自分の気持ちに正直なやつのほうが、楽しく生きていたりする。
って考えると、ほんと、がんばるとか、我慢するとか、馬鹿馬鹿しいよな。
まぁ、俺の特殊さは、苛立ったハゲ野郎も、昔はとっても繊細で、自分を圧し殺して生きてきた、とかかもしれない、とか思うことだが、だがあの野郎はぜってぇ違う(笑)
冗談はともかく、ほんと、このがんばること、我慢することの無意味性が、最近の僕を支配している。
そして、究極のポジティブ思考しかありえないことの証明。
そして無気力
そう、楽しく生きるしか、正解はない。中学3年生では到達した、生きる意味。楽しむこと。
やっぱり俺は正しかった、なんて思えるはずもなく、であれば、なおさら、楽しいことの無意味さに気づくたび、生きる気力がなくなっていくのだ。
仕事では頼りにされ、期待もされていても、それは限りない頑張れ世界に没入していくだけで。
ああ、もちろん、戦後ものがない時代とか、働くことがそのまま生きることに直結していた時代は、仕事そのものが生きることだったろう。
そんな時代は、スローライフとか、ワークライフバランスとかいう言葉がでてきたときに終わった。
趣味に生きよう、ローカルコミュニティを大切にしよう、新しい方策が示される。
それはそれで、多くの人を救い、長く保ち続けるだろう。
が、さて、そっからもこぼれたら、いったいどこにいく?
とかいう相談を誰かにすれば、え、じゃぁ、生きたくないなら死ねばいいじゃない。早く死んで、といわれるだけである。
冗談だが、ただ、内心そう感じさせるのは事実。
これが、他者を頼ってはダメな理由。アドバイスではない、共感が必要なんだ、としよう、で、共感してもらっても、じゃあ頑張って生きてみようか! となる。
だから、その生きる意味がわかんないんだってことを、理解できる人はいない。
いくら素晴らしいアドバイス、傾聴、共感であっても、それは、よく生きるためのものでしかない。そして、論理矛盾だが、そのよく生きるってのが、結局、それは一人ひとり考えてつくっていくものだよ! とか抽象になる。
究極のトップダウン思考がダメなのかもしれないが、やっぱり、生きるということは、そのことに意味があるはずなのだ。
それは、決して、万人にあてはまる真理でなくてもいい。ハゲ糞野郎にだって、スマホゲームとか、生きる目的があるのだ。
でも、シッダッタがいうように、人生は苦しみなのであれば、早々に諦めて死ぬのだって、一つ、正解なはずだ。
でも、死んだら終わり、生きていれば、そのうち生きる意味がみつかるかもしれないし、見つからなくても楽しく生きていけるかもしれない可能性があるから、死んではダメだ、という論理である。
が、その論理は、現時点として苦しむ人を救わない。
希望である。希望がないのだ。
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しょうがいを持った方でも、必死に生きているという番組を、感動ポルノだとして批判がされた、という。健常者でも、しょうがいしゃでも、ともに怒ったり笑ったりするのが本当の感動だと。
先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。
まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。
例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。
人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。
繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。
それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。
というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。
ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。
本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。
と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。
結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。
そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。
ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)
なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。
メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。
それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。
概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。
それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、
そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。
なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。
もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。
さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。
こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。
絶望について、
必然期待について、
不透明な時代について、
生きる意味を考えることについて、
ここまで書いた。
次は、理想的な自己とはなにか、についてか。
しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。
うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。
吉田さんの徒然草は参考になる。
あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。
気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。
十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。
それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。
先日、被爆者の特集をメモしたが、同じ構造である。と、書くと上から目線だけど、まぁ、そう思う。今さら何を、と。
まぁ、それが少なからず、いまの幸せの享受の確認になるというのなら、意味があることだ。いつもながら批判する気はない。世論形成はエリート学者や政治か、芸能人、小説家に任せておけばいい。
例えば、人間嫌い、とか、モリエールじゃないんだから、別に公言する必要がない。
二分法によれば、ポジティブネガティブ、ポジティブがいいに決まってる。
人間好きか嫌いか、っていったら、取りあえず好きっていっときゃいい。それが、社会性だ。
繰り返すが、それが悪いことでは消してない。先日出会った女の子は、おやとも喧嘩別れか死別して、友人もいなくなり、仕事でのしあがったと話していた。
そのエピソードは衝撃的で、興味深かったが、最後にいっていた、人間が好き、という言葉が印象に残った。
それは、全人類好きとかいう意味ではないだろう。
嫌いなひともいるけど、たいていは好きなひとが多い、という意味に過ぎない。
というのは、好きも嫌いも、相対でしかない。
ただ、感覚的に、人間が好き、といった方が聞こえがいいのだ。
自己の抑圧
本当は、そのぶつかりあいを、体で感じて成長すれば、自己と現実とのズレが少なく、思考の生じも最小限だったかもしれない。
と、思いすぐさま、え、でもあの頃の軋轢とか喧嘩とか、孤立とか融和とかは、自己を確立するエピソードではなかったのかと、思う。
結果的に、どうすれば人とうまくやれるのか、を考え、実践しているだけだ。
そもそも、過去的な事象を、美化してとりあげても意味はない。過去に意味を与えるのは、現在の主体意識である。
ひぐらしの鳴く動画みてたけど、彼らの声は本当に郷愁を感じさせる、が、やっぱり、現実の見た目は気持ち悪い(笑)
なんの、話だ、ああ、社会との、軋轢とか、ずれとか、そういう話か。
メモしようとしたのは、好きか嫌いか、っていえば、好き、っていったほうがいいが、本当に、自分としては、どっちが、自分の実感にちかいのか、それに真実に、よく耳を傾けろ、ということだ。
それはもちろん、好きな食べ物とか、嫌いな食べ物とか、そんな、一般に嫌いということを許容されている事象ではない。
概念的な、生き方とか、価値観とか、道徳、思考、そういった、人間の基軸、と思われているようなこと、それを本気に考えろ、ということだ。
それは別に、公言する必要はない。ただ、頭のなかだけでコネコネしていても、漠然性から抜け出せない、というのは、殊更全く、自分の能力不足に思うが、まぁ、そういうときに、文章が役立つと思う、
そういう意味で、自分をつくるブログの書き方、とかタイトルで本を書いたら売れるだろうか。需要はなさそうだ、てか、もうありそうだ、かっこわらい。
そして午後
なんだか、身体が調子がよくない。太陽に当たったり、天気雨にあたったり、よくわからない不安定な天気のせいか。
もうひとつ、肩凝りが、たまりにたまった。こうなると、湿布をはらないとかいふくしない。
さて、次の移動場所まで、残り二時間か。
そのなかで、何を書くか。
こんな、隙間時間を利用して、文字を書くことに使うのは、どうなのかな。と、、思うが、いまの、最優先事項だ。
絶望について、
必然期待について、
不透明な時代について、
生きる意味を考えることについて、
ここまで書いた。
次は、理想的な自己とはなにか、についてか。
しかし、これを書く気が起こらない。というのは、なにか、途中に置き忘れた感情があるのだ。
うーん、いっそ、あやふやなまま、投稿してみるかな。いやいや、それは流石によくないだろう。あくまでも、投稿するなら、随筆といっても、作品であるべきだ。
吉田さんの徒然草は参考になる。
あれは、なんか世の中、ばかみたいだな、ってしゃに構えて、日々、思ったことをエピソードを交えて書くのだ。
気づいたら、自分の書くのも、同じ感じになってる。こんなことがあった。で、それってこういうことだと思う。でもさ、そもそもこれを考えなきゃいけないんじゃない? みたいな。
十三、14世紀ぐらいの作品。
すごいよね。紙も貴重だったろう、しかも、筆でしか書けない。書き損じとかなかったのかな。
それを思うと、昔の人って、やっぱり、記憶力が重要だったのだろう。現代ほど書くということが、手軽で無かっただろう。
ルーチンが、より重要だったのだろう。
小説投稿サイトへの随筆、整理してそのまま、書く、というのが、やっぱり、自分で納得いかず、論理の構成を見直したり書き足したりしていたら、相当時間を要したのが昨日。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
ここに書くのは、ほぼ、ノー思考であるから、とても楽。楽して、読者に役立ててもらおうとか完全に傲慢怠惰だが、あれ、いつの間にかアクセス数が逆転している。
やっぱり、ブログ村に登録した効果か。Google検索で、タイトルいれたらトップ検索にひっかかるようにもなってるし。最初、登録したばかりは、いっさいリンク引っ掛からなかった。お気に入りにいれなきや自分のブログを検索できん、という状態が解消された。
でかけたら書く
そんな義務感はないが、とにかく、体験したことの言語表現を。
誰それと会って、こういう店いって、ご飯を何々食べて、何時に帰った、とか、それ別にいらん。
小学生の日記、でも、それ、そんなに、否定されることかな。時系列につなげて書くのも、レポートとしてはいいきがするが。
そう、日記、日記の書き方って、小学生でしか習わないな。
日記の書き方、それなら、俺は相当経験ある。
需要はなさそうだけど。
そもそも、読書感想文とか、夏休みの日記とか、子供が大嫌いな宿題だ。
のわりに、SNSでは、いまや小学生でも投稿したりするという。統計とったわけでないから、どうせ大した数じゃないが、結構、書くことを好きなひとは増えてきているのか。
確かに、大学生の一時期、一年生から三年生までは、本当の意味で毎日日記を書いていた。読み返してみると、ひどいものが殆んどだが、今読んでも面白いのもある。
その、面白くないのが、何故面白くないかは、今はよく分かるだろうから、そのポイントをらあきらかにして、いけば、記事にらなるだろう。
事例がなにせ、豊富だろうからな。
日記
で、きょうあったことを、端的に表現、だが。
匿名性の維持となると、単なる日記よりなんインドはあがる。
ただ、初めての高級なお店にいくと、マナーとか様式とか、様々緊張するものだが、だんだん、事前に調べていくと、余裕をもって、楽しめることがわかった。
それでも、楽しみながらも、やっぱり、思考はつきまとうけど、ホントに楽しかった。
いわゆる、知らない人と話をする場なわけだが、気負わず、自然に振る舞えた、これは、他者からみてどうだったか分からないが、少なくても自分にとってはそうだった。
好きでもない人と、てきとーに話あわせて会話して、なんとなく、いつも一緒にいないといけなくて、表面的でつまんない奴等と一緒なんて無駄だよね。
とか、上のは僕の言葉みたいだが、まぁ、前書いたように、僕のフィルタで置き換わってるが、ほとんど相手のひとがはなしたことだ。
そしてその人は、自分の力を信じて、自分の力で仕事して、他人の気持ちなんてほとんど考えないとすら言い切る。
そして、自分のルックスにも、頭の回転にも、自信をもっている。
いろんな人がいるね。
やっぱり、人って面白い。
なんだか、非日常の場所に出向くと、違うことがわかるし、感じられる。
この面白さは、まぁ、生きる意味といっていいんではないか。
甘い考えだ。そんなわけあるか。
この、経験的な方策に限界があるのは重々承知。
その上で、これをどう解釈するか、その点にかかっている。
ただ、思ったのは、生きづらさってのは、やっぱり、誰かしか、それなりに多くの人が感じていて、だがしかし、周囲との関係のなかに昇華や吸収修正などして、上手く調整してるんだな、と。
すきかってかくのは、スマートホンからもできるが、やはり、整理するのは、パソコンが必要だ。
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
昨日の記事、何書いたか正直あまり覚えてなかった。ほんと、自動記述だった、って、少し覚えてるのは、いま読み返したからだな。
恥ずかしくて、消そうか、と思ったが、意外に、まぁ面白かった。いや、恥ずかしいんだが、それほど、いままでと比べて変わらない(笑)
といいつつも、やっぱり書いたときの気分は、めちゃくちゃだった。けど、その感覚、あんまり、普段のものと比べて分からない。これ、他者の理解可能性なるものだな、って思う。自分ですらそうなんだ。にもかかわらず、他者にわかってもらおうなんて、傲慢だな。
ネタ整理
やっぱり、最近はやりの、話題とかからめて書いた方がいいのかな、と思ったり。
2012 11 15あたりの記事と、最近読んだ進撃の巨人とが親和性あると思った。
ケニーアッカーマンが、しに間際に、みんな、誰しも、何かに酔っぱらってなきゃやってらんねーんだな、って。
それを読んだから書いてたわけではないが、神の概念、である。あの、つまらない、、神っていうと宗教ってすぐ想像するが、資本主義だって科学だって、凡人には神にちかい存在なんだぜ、ってあれだ。
ポイントは、こんなこと、書いていて、実存的にはナンにも役に立たねーってことだ。
言葉が悪いな。なんだか、整理的な投稿も始めたため、反動がきてるのかな。
生活分類
人は……とか、一般論はおいといて、
彼女童貞前後
就職前後
結婚前後
離婚前後
と、分けられる。そのうちで、共通的に書いていること、考えが変わったこと、経験的に実感にかわったこと、それらを分析するのは面白いことなんだろうか。
たとえ、僕の通低する考え方がわかったとして、それが他者に役に立つか分からない、ってかくと、ハンジゾエさんに、役に立つかはてめえが決めることじゃねぇ、って怒られるかぁ。
まぁいいか、神の概念とか、期待水準願望水準とか、失望と絶望とか、理想自己と現実のギャップとか、反転ポジティブ思考とか、それらのある種の基準、は、まぁ、それほど論理的でも、科学的でも、理屈でも、抽象的ですらない。だから、あえて理論的に書こうとすれば、すぐに言葉は収まるだろう。
それらの定義が、僕の実際の生活において、どのよう作用するのか、っと、現実、リアルタイムの記述の方がいい、かな。
まぁ、そういう整理、一度はやっておくべきか。
と、適当に書き続けて、少し変化があらわれる。
人は、変わる。
一日として同じ日はない。
それなら何故、自分は自分でしかないのか。
記憶が、身体が、現実に自分を規定する。
現実がいやなら、自分を変えろ、というのは、よく言われることだが、ちょっと違うと思う。
体も記憶も、現実ではなかろうか。
そういう意味で、変えられるのは所詮は現実でしかない。
あぁ、これは、禅的なものかもしれない。
自然と自己との一体化、と表現するか。禅は、そもそも言語を否定する場合がらあるから、表現が難しい。ヴィトさんも沈黙、って言ってたりする。
ただ、自分というものも、現実に対するあぷろーち手段、に過ぎないと思う。
現実が変わらずに、自分だけ変わる、なんてあるか?
こうかくの草薙少佐は、現実が嫌なら自分をら変えろ、それが嫌なら口をつぐんで慎ましくしろ、それも嫌なら死ね! って言うんだけど。
夜にまた追記
追記ってたぶん更新にならないんだろうな。
検索エンジン的に。
2011 5 16の記事
今から、もう五年前か。なんとなく、5年前の、2011年の記事はいまいちだ。恐らく、メインは思索カテゴリではなかったのだろう。
2011 5 30 の記事。受動意識とか、哲学的ゾンビとか、唯心論唯物論。懐かしいな。これらの関係の本とか記事とか、読み漁っていた時代か。
しかしこれら、じぶんの求める解に対する、答え、みたいなものだったな。
新しい発見がある、というよりかは、こういうはずだ、という思いがあって、それを補強する一般材料としての使用。
どこか、ひとと分かり会えないと思っていて、人間嫌いで、そんな理由を、一般性に求めていた時代。承認欲求が強かったのだろう。
2011 1011 書く頻度が低下したことの記述。少し文体がいまとちかい。メンターのあの人についてふれて、インプットとアウトプットについて記述。
2011 1203 ほぼ、いまと同じ感じ。正義とか、信用と信頼の違い、創作について、ユニーク性について。時間目標、自己、責任。
記憶より記録を残せ、いい言葉だな。
役に立つのか面白いのか
ざざっと、流し読みしていて気づくのは、やっぱり抽象的なことしか書いてないのは面白くない。
という言葉はまさに、抽象なのだが。
休日に仕事して、ラーメン食べて帰る、って書けば具体的になるのかというとそうではないし。
とにかく、抽象は面白くなくても、概念、について書いているのは役にはたつかな。
ニーチェの権力への意志は、信仰VS信仰で、政治ゲームで、そのルールを知ろうというのが対応策だという記事とか、分かりやすい。
書いた本人はすっかり忘れてるんだがね。
迷える子羊
逆に分かったことは、悩んで、何か目指そうとして、何にも熱中できず、そんな自分にいやけがさして、という。2012年あたりからそうだ。
ってことは、やっぱり、彼女とか結婚とか離婚とか、やっぱり、関係なかったということだ。
やっぱり、根が深いな。
まぁ、ほんとに、それなりに、ほんと、悲しいくらい、少しばかりは楽しく、人混みの中、孤独のなか、嬉しく、心地よく過ごしているその点。
初音ミクの、ちょうど、ああー、なんだか泣けてきた、という曲がながれてきた。毎日ただの繰り返しだと気づいたとか。
この偶然性が、昨日の出会いとか、ほんと人生って面白いな。
だからこそやばい
やばい、って、他の雅な日本語、ないのかな。
思い付かない。やばい、ってなんだ? 危険だ。焦る、みたいな。なんか違うよな。
やばい、ってなんだ?
この、だらだらとした気持ちよさが続くことそれが、40歳、50歳になって、いざ、死神さんが、はーい寿命ですよ~ってきたとき、え、ちょ、まだ何も答えを、何も成せてないんですけど! まってくれよ、まって、俺はまだ、うあああぁー!
みたいな、かっこわらい。
単に恐怖的なのはそれなんだよな。
日常の楽しさ、嬉しさ、まぁ苦しさ、悲しさ、苛立ち、そんなの含めてもいいが、それらが、結局統一性がない、雑然とした、点に過ぎない。
リオタール氏の、大きな物語の終焉、って言ったとして、それでも、自分が何か、生きた意味ぐらい残したいじゃないか。
生きる意味ではなく生きがい?
生きる意味、という表現を、深くほりさげてこなかった。小学生のとき自殺を考えたときから、何故生きるのか、という問いからして、生きる意味、という表現にしていたが、もしかして、生きがい、という言葉が適切か?
いや、何が違うのか。
ゴーギャンの、我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへゆくのか。
と、それって何なんだろ。イコール、生きる意味、なのかと思ったが、違うのか?
なんなんだろ。
ほんとに、待ったなしに時間が過ぎる性で、
この、この時間は正しかったのか。
しかし、いまのこの、記事のまとまりがなければ、きっと少なからず、遅かれ早かれ、この渦に巻き込まれていただろう。そのさいに、この積み重ねすらなければ、俺は本当に迷い消えてしまったのではないか。
と、肯定を書きつつ、同時に、この感情、思考は、単に、自分が費やした時間が無駄ではなかったと信じたいだけなのでは、という懐疑も生じている。
うん、この、相対的な思考をまずなおすべきかな
自分の思った通りに人生は回っていく、この実感を、是非大切にしたい。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
今日、バーで一人のんでいたら、かわいい女の子と話しができた、趣味があった。偶然行こうと思った場所で、偶然な出会い。そこで、連絡先を交換するとか、無粋である。
何だかやる気がしないと、仕事を無理矢理終わらせて。
もうひとつ、ある小説投稿サイトに、場にそぐわないエッセイというか、コラムのようなものを投稿した。
この前、ここで書いていたような、小説風にして投稿してみようという試み。それがもう面倒になりすぎて、文体とか補則とかを加えるだけで、ほぼそのまま投稿することとした。
ほとんど、アクセスなどないだろうと思った。でも、30話ぐらいかけば、一人くらいは反応してくれるかと思った。
そしたら、数話だけで、反応があった。アクセス数もこのブログより多い(笑)
この場ほど、自由に書けないから、正直、物理世界における自分の行動と変わらない気もする。
整理して、補足して、という作業は、作業自体は対したことないが、精神的に消費する。
おそらく、はじめて読んでくれるだろう人に対しての言動は、大変。
一方で、とても親しくなると、それはそれで大変。距離感。難しい。
アットホームな場所
このブログはいい、すごくいい、そう思った。
これは、以前ふれた、居場所、というものだ。
仕事が居場所な人もいる。
恋人が居場所な人もいる。
僕は、なんか、ここが、いい感じだな、って思った。
自分に、自分を、自分で、慰めるというのか。寂しいやつだ。だが、別にもう、他者にかっこつけるのも面倒だ。とかいって、やっぱり、居酒屋とかバーとか、それなりに、財布とか、衣服とか、かっこつけなきゃって思う。ああ、もう、ほんとくだらないが、でも、残念ながら、人は、見かけが、九割だ。
顔、は仕方がない。でもせめて、持ち物、となる。
この考え方により、おっさんはブランドにこだわるのだ、そして女子は、そのブランドで判断するのだ、金を持ってるかどうか。
金と行動と価値観
メモしなきゃ。今日感じたこと、投稿して反応があったことに対しての自分の考え、明日もサービス出勤になることに対すること、など。
でもまぁ、もういっか、とか思ったり。
考えるのが面倒だ。が、僕は、なぜか、書いている。書くことが、なぜか、考えているとか、面倒だとかは、違う次元だ。
楽しい。
やっぱり、現実世界で楽しいことがあっても、それを表現できなきゃ、つまらないのだ。
って書くと、誰も付き合ってくれないんだろうなぁ。
確かに、一緒にいて、バカ笑いして、楽しんで、いざ帰ってみると、冷静に分析されてたら、気分悪いもんだ(笑)
だから、文章は、書けない。書いていることをさとられてはならない。
これがひとつ、生きづらさなのかもしれない。
しかし高速に思考が生ず
とはいえ、この、頭に浮かぶ思考ってのが、どうにも止められない。たいてい、同時に、二つのことを考えている。ある、事象について、例えば、成功と失敗とを考える。
あるマイナスなことを思えば、反転したポジティブを想起し、場にそぐう事柄を構成し、つなげる。
こんな現象が続く。
そして、その動きは、はたからみたら分からない。
だからこそ、他者の感覚や、思考が読める。読める、というのは、僕の言語表現の範囲でしかないから、本当にその人が思ったことが、そのまま、わかる、のかは、分からない。
ただ、これをいってしまえば、解釈の可能性にすぎない。
ここは、もはや、他者を理解できるかどうか、この議論を、破綻させる。つまり、思い通りの行動をとらせたり、ちょうどいい情報をえられたりすること、ただ、それだけのことで他者を理解した、となるのである。
仕事での頑張りと失敗
以前、ぐちぐち、書き続けたかとだが、すごく頑張って、周りにも認められつつ、結局お前のせいでダメになったと言われたことがある。
俺は思った、のではない、実感した。
ああ、やっぱり、いくら頑張っても、所詮は、結果、であるのだと。
んで、その結果ってのも、それすら、真理的なものではなくて。
ただ、その場にそぐうものか、それだけなのだ。
ということに、気づく、のはもう気づいていたが、実感してしまうと、もう、究極に、ポジティブ思考しか正解ではない、ということになる。
ここに、反転したポジティブ思考が完成する。
原理的に、他者との理解は不可能なので、理解してもらうことは不可能なので、ゆえに、自らは最高に楽しんだ状況でしか、あってはならないのだ、という、本当に絶望的なポジティブである。
はっきり言えば、泣いても笑っても悲しんでも苦しんでも、誰もわかっちゃくれないから、だったら、超楽しい気分でいる方がいいだけ、ということだ。
もっとひどいこと言えば、大切な人がなくなって、哀しむのは、喪失感よりもむしろ、哀しむことが他者を思いやれる暖かい自分が好きになれる楽しい瞬間なのだ。
酷すぎる言葉。友達なくすね、間違いなく。
上のことは全部間違いです
ほほう。言葉をなかったことにするか。愚かである。
人間嫌い。
これ、どうなのか。ぶっちゃけ、人間一般は、僕は嫌いな気がする。
でもって、それだからこそ、家族とか、友人とか、同僚とか、ほんと大切だなぁ、って思うけど、それを、そもそも気持ち悪いと言われたこともある。人間を嫌いっていう時点で信じられないと。生きてる価値ないと。
えぇ、そこまでいう?
人間なんて、みんな、消えてなくなっちゃえばいいと。
そうは思ってないんだけど。
ただ、まぁ、どっちでもいいかな、とは思っているのかもしれない。
どうなんだろ。
理解不可能性は自分にも及ぶ
むしゃくしゃしすぎて、バーで飲みすぎたのかもしれない。7000円ちかくかかった。うん、なんか、かかりすぎじゃないか? チャージ料? 料金体型がよくわからん。
まぁまぁ、というか、自分が、自分もよくわからん。
そうなんだ、自分が、なにしたいのか、わからんのだ。
求めるものはなんなのか。
気持ちよいことはなんなのか。
分からない。
そう、そうなんだ、こう、むしゃくしゃしたり、ごちゃごちゃしたり、いらいらしたときの言語表現。
みんな、たいていの人は、冷静なときに筆をとるんだ。
なんか、かっこいいことや、伝えたいこと、価値のあることを作り出そうと、筆をとるのだ。
でもおれは、こう、もう、ほんと、リアルタイムの思考を、言語表現する。
この、言語表現が、はたして、正しいのか、正確に表しているのかもわからない。できるだけ、自動記述を試みる。自動記述、について触れていたのだれだっけ? ヴィトゲンシュタインだったきがする。
そんとき、自慢じゃないが自慢だが、あぁ、僕と同じことするひといるんだな、って、すげーなって上から目線で思ったもんだ。
孤独と社会性
もう一度、考えてみると、やっぱり、俺は、一人でいること、孤独が本当に好きなんだろうか。
友人たちと楽しくすごした、とかいう記述、実は読者に、うそっぽいとしか感じさせてないのか。
そして俺は、本当にどう思っているのか。
孤独が、好きってのは、なんか、人間失格じゃないだろか?
生きたい知りたい、仲間になりたい。
仲間は、いらないの?
ノーだ。
だって、こうやって、書いている。誰かと繋がっていたいのだ。
でも、こんなぐちゃぐちゃなこと、現実世界で表現なんてできない。そして僕には社会性が備わっている、他者の気持ちを慮れる、空気が読める。
それをやっちゃうことにより、それがうまくいくごとに、自分、自己と、ぐんぐん離れていってるのではないだろうか。
くそみたいな記事
ろぐ、と読んでいる、リアルタイム自動記述。これ、本当に誰にもみせない、紙媒体とか、ローカル保存とかのときもある。そんときのとは、やっぱり、今の、この公開電子媒体のが、書いている内容が、意味あるものになってる気がする。
が、それが逆に、僕の本音、的なものを、例えば整理して投稿した作品とは、決定的にずれていっていないか。
であれば、もう一度、ローカルなログに、たち戻るべきではないか。
それは、たぶんできない。
ネットにより、反応をもらうことの楽しさを、感じてしまったのだ。
これ、炎上したり、ほんと不快なことを言われ続けないと、終わらないかも。
みくしーとかでは、なんかだんだん変になってった。
いまは、なんか、この適度な反応のなさが、ここちいい。
やっぱり、誰かに、理解して欲しいと、おもってるのか。
でも、きっと、あなたの記事とても、わかります。
とコメントされても、なんか、いい返信つけなきゃ、とかくそったれたこと考えそうだ。それよか、役に立ちました、とか、あまりに惨めそうで、自分は少し元気になりました、とかの方が嬉しいかもしれない(笑)
おかしい。おかしいことの原因はよくわかるが、真因果は全然わからないが、いまとっても悩ましい。とっても、楽しく有意義な時間を過ごしたというのに。変なの。
孤独。
孤立は困る、が。
でもさ、孤独が好きなひとの会とか立ち上げても、ナンも面白くなさそうじゃない。
なんか、サンデルさんとか、この残酷な世界で生き残るたったひとつの方法、とか書いた著者とか、ネットで好きなことを共有できるひとと繋がって、それをお金にするしかないんだぜ、という。いわゆる、ローカルこみにてぃを作り、大切にしようという方策。
まぁ、それなら楽しそうだが、じゃあ、俺、何が好きなんだ?
好きなこと、探そう。楽しいこと、探そう。そうじゃなきゃ、もう、、ほんと、ナンも、、やる気が、起きない。半端な気持ちで乗り越えられるほど、仕事も、人生も、甘くない。
ん、でもそれって、今の仕事をやめろ、ってこと?
好きなことを仕事にする?
本当にそれ、凡人にできる? 万人にあてはまる?
そんな一般論はどうでもいいが、俺には、適応することなの??
うーん、誰か、助けて欲しい、と、珍しく他者に助けを求める。明日仕事だけど。
