昨日、朝は、過去の記事など整理して、投稿して、力尽きて13時過ぎまで寝ていた。
喉の痛みと鼻水はまだ残っている。
うーん、しかし、困ったなぁ。過去の自分に対してかけてやれる言葉がない。はっきりいって、自分で妄執をつくりだしてその妄執と戦って精神をすり減らして内へ内へと自虐しているようにしか思えないのだけれども、間違いなく精神的に疲弊していることは言える。
過去に遡れば遡る程その度合いが強く読み取れて、時おり、合わせ鏡のように、過去の記事の中でそれよりさらに過去の記事に言及し、あの頃に比べたら今は幸せだなぁとしみじみ言ってる構造、なんだそりゃ。
そして哀しいかな、今の俺自身も、やっぱり、ああ、過去には戻りたくねぇなって思う。
そうすると、特に、かけてやる言葉もなければ、今の俺にとって何か役に立つようなことも浮かばない。
まぁ、取りあえず、生かしておいてくれて、ありがとう……?
なんか変だ。
なんだ、全然、言葉が出てこない、どうしたんだ。ただ、すごく、疲労感、これ、風邪のせいだけじゃなさそうだ。
お疲れ様って、そう言ってやるべきかな。いやぁこれは、確かに自分自身への言葉で、キモチワルイこと限りないところだが、逆に、思うに、過去の自分すら救えないで、他の誰か、苦しんでる人を救えるのだろうか。
ただ、寄り添ってやるぐらいしかできんだろうな。よく頑張ってるよ、お疲れ様、大丈夫、絶対今よりよくなるから……なんて、そんな言葉吐けるのか?
俺は、やっぱり、ハッピーエンドにならなきゃダメだと思う。
自分という、人生という物語において、色々困難や苦悩はあったけど、最後は、生きててよかった、充実した人生だった、と。
他にも、無職転生という作品の作者は、最終的には書籍化してプロになった(元々そっち系の人だったという話もあるが)けれども、元々は無料投稿サイトで更新を続けて有名になっていった。
なんか、そういうすごい人たちは、是非とも、自分の才をいかんなく発揮し、多くの人に感動を与えてほしいと思う。
俺は、何ができるんだろう。
初音ミクのこの曲も、もう何年前に見つけたのか忘れたけれど、時おりふと思い出して聞きたくなる。
この作者さんも、別に音楽で飯をくってるわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。
でありながら、人の、何か表現したい、生み出したいという欲求というのは、何と大きいことかと思う。
僕も、何か創りたいのだけれど、俺は、何ができるんだろうか。
そういえば、昔SNSでこんなブログのような評論なのか愚痴なのか分からないようなこと書いてたら、ある人が、「僕も遠藤くんのように何かイイこと書こうと思ったけど、何も浮かばず、やめた」という日記を書いていて、そのとき、何だか、本当にうれしかったことを、何故か今思い出した。
ただし、本当に自分がそう思っているのか、それを目指したいのかは別だ。
その自分が本当に望んだこと、思ったこと、それをそのまま表現し、それがそのまま、誰かに受け入れられるという。
この体験、このことこそが、僕は、本当に嬉しいと、楽しいと、充実したと思えるのではないか、と今思った。
だから、上にかいたSNSの僕にしては「くだらない愚痴の数々」を、「イイこと」「面白いこと」「深いこと」として感じてくれたその人に、とても嬉しく思ったのではないだろうか。
おいおい、お前は、まさか時間がだんだんなくなってきたからといって、まさか、こうしたブログのような駄文を「ライフワーク」とか言い出す気じゃなかろうな。
え、ダメ? そうか、ダメだよな。駄文はどこまでいっても駄文だ。それを作品とするには、「エンディング」がないといけない。死ぬまで駄文書き続けてどうするつーんだということだ。
考える生き方の作者さんも、何となく、55歳になって、それで、あーやっぱり失敗だったな、空っぽだったなーと言いながら、子供いるし、何やかんや著作を残して、仕事して、難病と闘いながら生きてるじゃないか。
お前、今、55歳とか、80歳とかなって、何ができるようになるんだ? 何を創り出せるんだ?
いやいや、役に立つかどうかはあまり関係ないにしろ、お前、それで十分なんか? と。
「俺」という痕跡を、この歴史に残せなくていいのか、と。
なんとなんと! 僕の口から、歴史に名を残すとかでてきやがった! 笑える! これが書いていると発生する面白い現象だ。頭の中だけで悶々させていては、決して出てくることはなかったであろう発言!
まぁもう少し真面目に考えてみよう。歴史に名を残すとして、この広大莫大なインターネット世界において、どうやってその痕跡を残すというのか。
まぁ、もし、また結婚するとしたら(相手も見込みもないが)、こうした記事を読んでもキモチワルイとか思わない人がいいな。
いやぁ、初恋の人が忘れられません! とか書いてるの、どう考えてもキモチワルイけど。いや別に、忘れられませんとか、そういう意味じゃあないんだけど、そういう表現になるんだよなぁ、この辺りのアウトプットが非常に難しい。というか、アウトプットしなくていいじゃん、というのはその通りなんだけど、もう本当に、「徹底して」やってこうと思う。妄執で固めた人間の殻を脱ぎ捨てていくように。
一般論書いても面白くないし。
「俺はこういう人間で、こういう生き方をしてきて、こんな経験をしたから、この事象に対してこう思って、こう行動する」
ってのが、エッセイというか、文章として、面白いものだし、唯一性の価値があることだと思う。
俺が多くのブログ記事(なんやかスピリチュアル的な)に、胡散臭さとか、つまらなさとか、表層性を感じるのは、その点が不足してるからだ。
だれだれとどこそこにいってなにをして楽しかった
それはそれでいい、ただ、僕が欲しいのは、その「楽しかった」という表現だ。
楽しいってなんだよ? 嬉しいってなんだよ? 生きるってなんだよ? お前はなんだよ! 俺は誰だよ!
これは、自己と、外面的に見える自己との乖離と、内面とアウトプットした際の乖離の問題を強く感じているからだ。
ジョハリの窓といって、自分で知ってる自分と、外から見える自分と、自分が知らなくて外から見えてる自分と、自分も外からも知られていない自分と、4つあるよって考え。
コミュニケーションは、その自分を広げていって、外からの自分と内面の自分とを一致させることが円滑に進めるうえで必要だ。
であるから、目的を見つけようという目的で、この記事を書き始めた。
そこで、「ライフワーク」として、何か、人生の中で生み出すことが、その目的になるんじゃないかって、そう思いついて、書こうとしたら、いやぁ、すごい人いっぱいいるなぁって、例のオンラインゲーム症候群(すごい人はいっぱい溢れていて、頑張ってもトップになるのは難しいとあきらめてしまう心性)が発生して、よく分からなくなったわけだ。
こういうとき、どうするんだっけかなぁ。過去のログなんて読んでいると、まぁ、最低までどん底まで落ち込んで、そっから、よーしじゃあもっかいゼロからスタートね~みたいなやり方みたいだが、どうなんだろ。
前にも書いたけど、断続的なんだよな、それぞれの行動が、一貫性がない。というのは、「目的」がなかったってことに、ようやく気付いた、気がする。
今までも、「目的」だとか、「生きる意味」だとか、そんな言葉は使用はしていたが、その意味するところが、やっぱり若かったというか、表層的だった気がする。
で、何で何だろうともやっぱり思う。
普通、大多数、オーディナリーな人たちは、そんなこと、こんなことでそれほど苦慮していないんじゃないかって思う。
いやそれは、傲慢と偏見なのかもしれない。みんな、日々、不満や苦悩を抱えて、空き缶を蹴っ飛ばしながら、街ですれ違う時肩がぶつかっただとか、どっちが強いかタイマンだとか、そんなイライラしながら過ごしているのかもしれない。
でもそれって、社会的に優位に立ちたいという、認められたいという、何かしたいという欲求に基づいていると思う。
それが上手くいかないから、イライラしたり不満になったりするのだろう。
僕は、何か違う。
いや決して、全世界唯一俺だけがそんなことを考えているなんてことは全く思わないけれども、何か違う。違う気がする。
その違和感、「わかってもらえなさ」が、どうにも、活力を、やる気を、徐々に減衰させる。
ボケちゃって、俺のことが分からなくなったばあちゃん。
離れて暮らして介護している親は、相当大変みたいだ。
そんなんなっても、やっぱり生きてるってことが大事なんだろうか。
「逆に」すぐさま思うのは、じゃあ、無価値な人間は死んでもいいのか。
どっちも違うと思う。
でも、「どっちも違う」というのは、いったいなんだ? 俺はまた「イイ子」でいたいだけなんじゃないのか?
障碍者施設で殺戮をした男に共感を覚えているのではないか? ぼけ老人どもはこの世から駆逐されればいいんだとか思っているのではないか?
いや絶対思ってない。むしろ、そんな世界になったら、無価値な俺が真っ先に殺されてしまう(かっこわらい)。
でも、きっと、誰も口には出さないが、誰しも、そんな獰猛な思いがどこか存在している。
そんなこと思ったことない! という人は、「現場」意識が足りない。重度障碍者施設や特別養護老人ホームに介護体験で行ったことがあるが、あれは、行ってみないと、分からないことが絶対にある。
目はうつろで、自分で食事もとれず、会話もできず、ただ生かされているような状態の人たち。
介護現場が大変だ、という声は大きいが、デイケアのものと、特養とかと、その中身も大きく違うだろう。
何の話だ? 他人なんてどうでもいいだろう、お前は、どうなんだ、お前はなんだ?
1年? 5年? 10年? 20年? 30年? 40年? 50年? 60年?
あと、1年でいいなら、まぁ、仕事の論文もやらなくていいだろう(笑)。
あと5年だけ生きるなら、やっぱり論文なんてやる必要なくて、2年ぐらい働いて、残り3年は貯金食いつぶして終わり、ってのでも十分だ。
10年となれば、少し話は違う。貯金だけで暮らすのは難しい。先日入った個人年金保険が解約できるのはそのころだが、それまでどうやって過ごすのか、やっぱり働いてないといけないだろう。
20年。
ああ、もう想像ができない。
50代っていったいなんなんだ。
おっさんでもなく、おじさんになるのか。初老の40歳をはるかに超えている。
部下もできて、しごとバリバリこなしながら、「あの上司、口うるさいけど、ひとり身なんだよね」「そうそう、むかつくよね。あ、知ってる? あいつ離婚したらしいよ」「えーまじ、まぁあいつならありえるわねww」みたいに言われるのか!
もしくは、ダンディーな風格を身に着けて、若い子と不倫を楽しむとか……。
なんか、いろんな物語があるけど、どれも、あんまし面白くなさそうなんだよな。
映画とか、アニメーションとか、小説とか、いろんな物語があるけど、多くは、10代20代の若者が主人公なんだよな。というのは、若者は可能性に満ち溢れているからだろう。
でもそんなこといったって、おっさんおじさんだって、10年ぐらい何か打ち込めば、何か成し遂げられる気はする。問題は、その「モチベーション」がなくなっていくからなんだろうな。
何やってもどうせダメだろうと、もう若くないからと、自分で限界ひいちまうんだろうな。
でも、別に歳関係ないよなって思う。既に俺は10代ぐらいのときから何となくそんな感じだった。
自分のできることが何だか分からなかった。自分が何者か分からなかった。そして、今もそうだ。
物語では、そんな中二的な若者が、何か特別な出会いや経験をして、何か成し遂げてくってそんなストーリーなんだけど、その後、人生うまくやっていったかは描かれない。
若いときの努力が、そのまま大人になったときの成功につながるとは、思えないし、その点、「生涯学習」とか言葉が巷にあふれている昨今、誰も信じていないんだろう。
結婚。子供。出世。余暇・趣味。
それが人生の価値なのか?
いやこれも目新しいことじゃなくて、「ストーリーをつくる技術」なんて、小説とかエンターテイメントだけじゃなくて、ビジネスの中でも重要視されている。複雑高度化した社会の中で、上の人間は現場をよく分からなくなる。そうしたとき、中間管理職的人材が、問題を整理し、分かりやすく上に伝え、上は人的資源や費用や資材を適材適所に配置するってのが、好循環である。
そうした中間管理職的人材が不足しているのが問題だ……と、一般論的に批判はできても、じゃあどうすりゃええねんってのは、よく分からないから、やっぱり論文が書けん!
話しがそれた。物語、「俺の物語」。
でもさ、これって、非常に難しい。多分、他の人の話しを聞いても、ふーん、で終わりそうだ。
何せこれは、「結論」が重要なものではないからだ。
いやむしろ、結論は明確だ、いわずもがな。
だから、その結論に達するまでのストーリー構成が重要になるのだ。
つまり、答えが不要な物語、そのプロセス、過程にこそ答えがあるというものだ。
なんじゃそりゃ、上手く表現できない、当たり前だ、新しいことを今考えている。
新しいことを生み出すときにカオスになるのは当たり前だ、そのカオスさを耽美と羞恥によって認められないから、堂々巡りを脳内で繰り返すのだ。
とにかくアウトプットしてやれ。
過程にこそ意味がある物語。
それは、ハッピーエンドを求めないということか。
いやむしろ、その「いま、ここ」にこそ、その瞬間こそが答えだというものか。坐禅的心境だ、としたら、仏道に入ることが重要か。
恐らく、ヒントはそこにもあるだろうが、どうにも、仏教的な知見をもって「人生」を評論する言説への胡散臭さは拭えない。そうじゃない。
そもそも、何故結論ではなく、過程に意味を見出す必要があるのか。
結論なんてくだらないからだ。(愚かな未来な自分のために書いておけば、ここでいう結論とは、=死のことである。)
結論は、所詮、目標にしかなりえないからだ。
就職する、結婚する、子供をつくる、出世する。それらはハッピーエンドの条件であり、目標であろうが、目的ではない。
問おう、しかし、目的とは、「楽しくなる」「幸せになる」以外に存在するのか?
いや、まさに、その問いは重要でありながら、その「幸せになる」という状態、それが、瞬間的に達成されるものかどうか、時間軸的に有限なものなのかという点に焦点をあてる必要がある。
「こいつの死に顔みてみろよ……笑ってやがるぜ……」
ってなれば、それはハッピーエンドだってことなのか。
先ほどから書いているように、人間としてのエンディングは「死」である。でありながら、「幸せになる」ということを結論として、目的として据えたとき、「幸せな死」という表現がわいてくる。
だがなんだそりゃ、奴隷道徳か? ルサンチマンか? おかしいだろ、矛盾してるだろ。
「俺という人間が、こうしてこう考えて、こう行動して、こうなりました。」
それが、なんだ?
70億分の一のアリンコが、なんだってんだ?
もっとすげー経験、思考、行動をもった人はたくさんいるぜ。お前が、残り50年かけて何かしたとしても、そんなものすぐに上書き保存されるだけの価値しかない。
「いやぁ、だから、身近な人との関係を強固に持って、共感できるコミュニティの中で自己承認と助け合いをしながら生きていく【衆生】【凡人】として生きていくことが大切なんですよ~」と、宮台先生の言うような生き方をすべきか。(宮台先生はそんなこと言ってないかもしれない、勝手な読解)
多くの人にとって、そうした、ローカルコミュニティのインターネットによる結合によって大きく広げていき承認欲求を満たしていくという方策が有効だとしても、必ず、僕のようなはみ出し者は発生する。
そもそも、コミュニティは、パレートの法則じゃあないが、コミュニティが生じるとそこに「上下関係」が生まれる。真にフラットな組織というのは、電脳化して思考を並列化しない限り難しいだろう。攻殻機動隊の個別の十一人ですら、ウィルスに感染しなかった「例外」クゼさんによって、合田一人の計画に綻びが生まれていく。
行き詰まり、息詰まり、生き詰まり。(気に入った)
ダメだ、時間切れ。
今日の夜にでも、また続きを考えよう。
でもなぁ、思うに、俺がやろうとしていることは、過去の偉人たちが、一生涯かけて取り組んで、結局まともに答えを出せなかったことな気がするな。
生きる意味とは。
人生とは。
死とは。
幸せとは。
正義とは。
社会とは。
真理とは。
いや逆に、「無理」だからこそ、他者を頼ることはできないって問題もある。
だから、スピリチュアル的(いや、スピリチュアル全般批判するとかそういうわけじゃないんだけど、なんか表現しやすいから使ってるだけ)なうさん臭さってのは、いかにも「真理はありまーす!」的に全面的に押し出して、だから「信じてねハート」的なロジックになってるところがきな臭い。
むしろ、こたえなんてないってのが真理なんじゃないの?
でも、答えなんてないよー、生きてるのは苦しみだよーって、それじゃあ人は集められないし、お金も集められないから、仕方ないんだろうけど。
資本主義のコマーシャルリズム的に、不安煽って、でもこの商品を使えば大丈夫! 的な感じにも聞こえちゃうけどな(かっこわらい。すみません、ゴウタマさんは尊敬できる人物だと思ってます、これはホント。人として)
というのが、まさに、「骨格」を抜き出すと、陳腐になっちまうという現象だ。
だから「表現」が重要だと思う。
ジョルジュさんが言ってる、人間の生み出すあらゆる芸術は、死への不安の表現だ、ああ、なるほどなぁって、思ったよ。
いってみりゃ、結論だけにしちゃえば、「死にます」以上。になっちまう。
だから、それを美的に昇華する、憎悪であり、耽美であり、嫉妬であり、エゴであり、快楽であり、様々なその「意味の表現」。
だから、ある経営者さんのブログなんかで表現されていた、「いやー人生ひまつぶしッスわ。金稼いで生きるだけなら余裕ッスけど、せっかくだから面白いことしたいじゃん?」ってのも、まさしく真理なのだろう。
――でもなんだ、なんなんだ? 俺はその、「面白さ」ってのが、まだ何だかよく分かってない。
心の底から、楽しい、充実してるって。一生、これをつくっていこう、携わっていこう、やっていこうって。
「死にます」って結論なんてどうでもよくて、ただ、そのことそのものが真実で、その瞬間があればよくて。
時間切れから長くなっちまった、ほんとに取りあえずここで中断……。
喉の痛みと鼻水はまだ残っている。
うーん、しかし、困ったなぁ。過去の自分に対してかけてやれる言葉がない。はっきりいって、自分で妄執をつくりだしてその妄執と戦って精神をすり減らして内へ内へと自虐しているようにしか思えないのだけれども、間違いなく精神的に疲弊していることは言える。
過去に遡れば遡る程その度合いが強く読み取れて、時おり、合わせ鏡のように、過去の記事の中でそれよりさらに過去の記事に言及し、あの頃に比べたら今は幸せだなぁとしみじみ言ってる構造、なんだそりゃ。
そして哀しいかな、今の俺自身も、やっぱり、ああ、過去には戻りたくねぇなって思う。
そうすると、特に、かけてやる言葉もなければ、今の俺にとって何か役に立つようなことも浮かばない。
まぁ、取りあえず、生かしておいてくれて、ありがとう……?
なんか変だ。
なんだ、全然、言葉が出てこない、どうしたんだ。ただ、すごく、疲労感、これ、風邪のせいだけじゃなさそうだ。
お疲れ様って、そう言ってやるべきかな。いやぁこれは、確かに自分自身への言葉で、キモチワルイこと限りないところだが、逆に、思うに、過去の自分すら救えないで、他の誰か、苦しんでる人を救えるのだろうか。
ただ、寄り添ってやるぐらいしかできんだろうな。よく頑張ってるよ、お疲れ様、大丈夫、絶対今よりよくなるから……なんて、そんな言葉吐けるのか?
俺は、やっぱり、ハッピーエンドにならなきゃダメだと思う。
自分という、人生という物語において、色々困難や苦悩はあったけど、最後は、生きててよかった、充実した人生だった、と。
ライフワーク
僕の魂魄に突き刺さる作品を生み出した人は、きっと、それを生業にしているわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。ただ、本当にすごい物語を創る人なんだなと、心底感動している。他にも、無職転生という作品の作者は、最終的には書籍化してプロになった(元々そっち系の人だったという話もあるが)けれども、元々は無料投稿サイトで更新を続けて有名になっていった。
なんか、そういうすごい人たちは、是非とも、自分の才をいかんなく発揮し、多くの人に感動を与えてほしいと思う。
俺は、何ができるんだろう。
初音ミクのこの曲も、もう何年前に見つけたのか忘れたけれど、時おりふと思い出して聞きたくなる。
この作者さんも、別に音楽で飯をくってるわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。
でありながら、人の、何か表現したい、生み出したいという欲求というのは、何と大きいことかと思う。
僕も、何か創りたいのだけれど、俺は、何ができるんだろうか。
そういえば、昔SNSでこんなブログのような評論なのか愚痴なのか分からないようなこと書いてたら、ある人が、「僕も遠藤くんのように何かイイこと書こうと思ったけど、何も浮かばず、やめた」という日記を書いていて、そのとき、何だか、本当にうれしかったことを、何故か今思い出した。
正しいことと思ったこと
なんというか、自分として、一切自慢なんかじゃなくて、傲慢でも何でもないのだけれども、まぁ、こう表現したら絶対読んだ人の気分を悪くさせるだろうと思いながら他の表現が浮かばないから考える時間がもったいないからそのまま書くと、何か、「正解」があって、それを作り出すことは、仕事であれ、何か文章であれ、できるのだ。ただし、本当に自分がそう思っているのか、それを目指したいのかは別だ。
その自分が本当に望んだこと、思ったこと、それをそのまま表現し、それがそのまま、誰かに受け入れられるという。
この体験、このことこそが、僕は、本当に嬉しいと、楽しいと、充実したと思えるのではないか、と今思った。
だから、上にかいたSNSの僕にしては「くだらない愚痴の数々」を、「イイこと」「面白いこと」「深いこと」として感じてくれたその人に、とても嬉しく思ったのではないだろうか。
おいおい、お前は、まさか時間がだんだんなくなってきたからといって、まさか、こうしたブログのような駄文を「ライフワーク」とか言い出す気じゃなかろうな。
え、ダメ? そうか、ダメだよな。駄文はどこまでいっても駄文だ。それを作品とするには、「エンディング」がないといけない。死ぬまで駄文書き続けてどうするつーんだということだ。
考える生き方の作者さんも、何となく、55歳になって、それで、あーやっぱり失敗だったな、空っぽだったなーと言いながら、子供いるし、何やかんや著作を残して、仕事して、難病と闘いながら生きてるじゃないか。
お前、今、55歳とか、80歳とかなって、何ができるようになるんだ? 何を創り出せるんだ?
遺作
……と、考えたとき、じゃあ、このブログを一つの作品とするとして、いやぁ、それ、誰の役にたつねん、と。いやいや、役に立つかどうかはあまり関係ないにしろ、お前、それで十分なんか? と。
「俺」という痕跡を、この歴史に残せなくていいのか、と。
なんとなんと! 僕の口から、歴史に名を残すとかでてきやがった! 笑える! これが書いていると発生する面白い現象だ。頭の中だけで悶々させていては、決して出てくることはなかったであろう発言!
まぁもう少し真面目に考えてみよう。歴史に名を残すとして、この広大莫大なインターネット世界において、どうやってその痕跡を残すというのか。
まぁ、もし、また結婚するとしたら(相手も見込みもないが)、こうした記事を読んでもキモチワルイとか思わない人がいいな。
いやぁ、初恋の人が忘れられません! とか書いてるの、どう考えてもキモチワルイけど。いや別に、忘れられませんとか、そういう意味じゃあないんだけど、そういう表現になるんだよなぁ、この辺りのアウトプットが非常に難しい。というか、アウトプットしなくていいじゃん、というのはその通りなんだけど、もう本当に、「徹底して」やってこうと思う。妄執で固めた人間の殻を脱ぎ捨てていくように。
一般論書いても面白くないし。
「俺はこういう人間で、こういう生き方をしてきて、こんな経験をしたから、この事象に対してこう思って、こう行動する」
ってのが、エッセイというか、文章として、面白いものだし、唯一性の価値があることだと思う。
俺が多くのブログ記事(なんやかスピリチュアル的な)に、胡散臭さとか、つまらなさとか、表層性を感じるのは、その点が不足してるからだ。
だれだれとどこそこにいってなにをして楽しかった
それはそれでいい、ただ、僕が欲しいのは、その「楽しかった」という表現だ。
楽しいってなんだよ? 嬉しいってなんだよ? 生きるってなんだよ? お前はなんだよ! 俺は誰だよ!
表現と物語
最近、表現するということに拘りすぎか。これは、自己と、外面的に見える自己との乖離と、内面とアウトプットした際の乖離の問題を強く感じているからだ。
ジョハリの窓といって、自分で知ってる自分と、外から見える自分と、自分が知らなくて外から見えてる自分と、自分も外からも知られていない自分と、4つあるよって考え。
コミュニケーションは、その自分を広げていって、外からの自分と内面の自分とを一致させることが円滑に進めるうえで必要だ。
目的設定について
まてまて、話しがそれている、そうじゃなくて、過去の記事を読んで分かったのは、「目的」の設定がされてないがための失敗だったということだ。であるから、目的を見つけようという目的で、この記事を書き始めた。
そこで、「ライフワーク」として、何か、人生の中で生み出すことが、その目的になるんじゃないかって、そう思いついて、書こうとしたら、いやぁ、すごい人いっぱいいるなぁって、例のオンラインゲーム症候群(すごい人はいっぱい溢れていて、頑張ってもトップになるのは難しいとあきらめてしまう心性)が発生して、よく分からなくなったわけだ。
やりたいことの棚卸
行き詰まり。息詰まり、生き詰まり。こういうとき、どうするんだっけかなぁ。過去のログなんて読んでいると、まぁ、最低までどん底まで落ち込んで、そっから、よーしじゃあもっかいゼロからスタートね~みたいなやり方みたいだが、どうなんだろ。
前にも書いたけど、断続的なんだよな、それぞれの行動が、一貫性がない。というのは、「目的」がなかったってことに、ようやく気付いた、気がする。
今までも、「目的」だとか、「生きる意味」だとか、そんな言葉は使用はしていたが、その意味するところが、やっぱり若かったというか、表層的だった気がする。
で、何で何だろうともやっぱり思う。
普通、大多数、オーディナリーな人たちは、そんなこと、こんなことでそれほど苦慮していないんじゃないかって思う。
いやそれは、傲慢と偏見なのかもしれない。みんな、日々、不満や苦悩を抱えて、空き缶を蹴っ飛ばしながら、街ですれ違う時肩がぶつかっただとか、どっちが強いかタイマンだとか、そんなイライラしながら過ごしているのかもしれない。
でもそれって、社会的に優位に立ちたいという、認められたいという、何かしたいという欲求に基づいていると思う。
それが上手くいかないから、イライラしたり不満になったりするのだろう。
僕は、何か違う。
いや決して、全世界唯一俺だけがそんなことを考えているなんてことは全く思わないけれども、何か違う。違う気がする。
その違和感、「わかってもらえなさ」が、どうにも、活力を、やる気を、徐々に減衰させる。
ボケちゃって、俺のことが分からなくなったばあちゃん。
離れて暮らして介護している親は、相当大変みたいだ。
そんなんなっても、やっぱり生きてるってことが大事なんだろうか。
「逆に」すぐさま思うのは、じゃあ、無価値な人間は死んでもいいのか。
どっちも違うと思う。
でも、「どっちも違う」というのは、いったいなんだ? 俺はまた「イイ子」でいたいだけなんじゃないのか?
障碍者施設で殺戮をした男に共感を覚えているのではないか? ぼけ老人どもはこの世から駆逐されればいいんだとか思っているのではないか?
いや絶対思ってない。むしろ、そんな世界になったら、無価値な俺が真っ先に殺されてしまう(かっこわらい)。
でも、きっと、誰も口には出さないが、誰しも、そんな獰猛な思いがどこか存在している。
そんなこと思ったことない! という人は、「現場」意識が足りない。重度障碍者施設や特別養護老人ホームに介護体験で行ったことがあるが、あれは、行ってみないと、分からないことが絶対にある。
目はうつろで、自分で食事もとれず、会話もできず、ただ生かされているような状態の人たち。
介護現場が大変だ、という声は大きいが、デイケアのものと、特養とかと、その中身も大きく違うだろう。
何の話だ? 他人なんてどうでもいいだろう、お前は、どうなんだ、お前はなんだ?
大人の物語
そもそも、お前は、あと何年生きるつもりだ?1年? 5年? 10年? 20年? 30年? 40年? 50年? 60年?
あと、1年でいいなら、まぁ、仕事の論文もやらなくていいだろう(笑)。
あと5年だけ生きるなら、やっぱり論文なんてやる必要なくて、2年ぐらい働いて、残り3年は貯金食いつぶして終わり、ってのでも十分だ。
10年となれば、少し話は違う。貯金だけで暮らすのは難しい。先日入った個人年金保険が解約できるのはそのころだが、それまでどうやって過ごすのか、やっぱり働いてないといけないだろう。
20年。
ああ、もう想像ができない。
50代っていったいなんなんだ。
おっさんでもなく、おじさんになるのか。初老の40歳をはるかに超えている。
部下もできて、しごとバリバリこなしながら、「あの上司、口うるさいけど、ひとり身なんだよね」「そうそう、むかつくよね。あ、知ってる? あいつ離婚したらしいよ」「えーまじ、まぁあいつならありえるわねww」みたいに言われるのか!
もしくは、ダンディーな風格を身に着けて、若い子と不倫を楽しむとか……。
なんか、いろんな物語があるけど、どれも、あんまし面白くなさそうなんだよな。
映画とか、アニメーションとか、小説とか、いろんな物語があるけど、多くは、10代20代の若者が主人公なんだよな。というのは、若者は可能性に満ち溢れているからだろう。
でもそんなこといったって、おっさんおじさんだって、10年ぐらい何か打ち込めば、何か成し遂げられる気はする。問題は、その「モチベーション」がなくなっていくからなんだろうな。
何やってもどうせダメだろうと、もう若くないからと、自分で限界ひいちまうんだろうな。
でも、別に歳関係ないよなって思う。既に俺は10代ぐらいのときから何となくそんな感じだった。
自分のできることが何だか分からなかった。自分が何者か分からなかった。そして、今もそうだ。
物語では、そんな中二的な若者が、何か特別な出会いや経験をして、何か成し遂げてくってそんなストーリーなんだけど、その後、人生うまくやっていったかは描かれない。
若いときの努力が、そのまま大人になったときの成功につながるとは、思えないし、その点、「生涯学習」とか言葉が巷にあふれている昨今、誰も信じていないんだろう。
結婚。子供。出世。余暇・趣味。
それが人生の価値なのか?
何か創りたい
だんだん、強く思ってきたけれど、やっぱり、「物語」が重要だ。いやこれも目新しいことじゃなくて、「ストーリーをつくる技術」なんて、小説とかエンターテイメントだけじゃなくて、ビジネスの中でも重要視されている。複雑高度化した社会の中で、上の人間は現場をよく分からなくなる。そうしたとき、中間管理職的人材が、問題を整理し、分かりやすく上に伝え、上は人的資源や費用や資材を適材適所に配置するってのが、好循環である。
そうした中間管理職的人材が不足しているのが問題だ……と、一般論的に批判はできても、じゃあどうすりゃええねんってのは、よく分からないから、やっぱり論文が書けん!
話しがそれた。物語、「俺の物語」。
でもさ、これって、非常に難しい。多分、他の人の話しを聞いても、ふーん、で終わりそうだ。
何せこれは、「結論」が重要なものではないからだ。
いやむしろ、結論は明確だ、いわずもがな。
だから、その結論に達するまでのストーリー構成が重要になるのだ。
つまり、答えが不要な物語、そのプロセス、過程にこそ答えがあるというものだ。
なんじゃそりゃ、上手く表現できない、当たり前だ、新しいことを今考えている。
新しいことを生み出すときにカオスになるのは当たり前だ、そのカオスさを耽美と羞恥によって認められないから、堂々巡りを脳内で繰り返すのだ。
とにかくアウトプットしてやれ。
過程にこそ意味がある物語。
それは、ハッピーエンドを求めないということか。
いやむしろ、その「いま、ここ」にこそ、その瞬間こそが答えだというものか。坐禅的心境だ、としたら、仏道に入ることが重要か。
恐らく、ヒントはそこにもあるだろうが、どうにも、仏教的な知見をもって「人生」を評論する言説への胡散臭さは拭えない。そうじゃない。
そもそも、何故結論ではなく、過程に意味を見出す必要があるのか。
結論なんてくだらないからだ。(愚かな未来な自分のために書いておけば、ここでいう結論とは、=死のことである。)
結論は、所詮、目標にしかなりえないからだ。
就職する、結婚する、子供をつくる、出世する。それらはハッピーエンドの条件であり、目標であろうが、目的ではない。
問おう、しかし、目的とは、「楽しくなる」「幸せになる」以外に存在するのか?
いや、まさに、その問いは重要でありながら、その「幸せになる」という状態、それが、瞬間的に達成されるものかどうか、時間軸的に有限なものなのかという点に焦点をあてる必要がある。
幸せの時点性
「結論」的に書けば、幸せになることは、結論である。しかしながら、「幸せな死」とは、何だろうか。「こいつの死に顔みてみろよ……笑ってやがるぜ……」
ってなれば、それはハッピーエンドだってことなのか。
先ほどから書いているように、人間としてのエンディングは「死」である。でありながら、「幸せになる」ということを結論として、目的として据えたとき、「幸せな死」という表現がわいてくる。
だがなんだそりゃ、奴隷道徳か? ルサンチマンか? おかしいだろ、矛盾してるだろ。
仮置きの人生
じゃあ例えば、そうした、「生きる意味」を求めることを、そのものを「意味」として据えたとき、その意味へのコミットはどれほどの強度となるのだろうか。「俺という人間が、こうしてこう考えて、こう行動して、こうなりました。」
それが、なんだ?
70億分の一のアリンコが、なんだってんだ?
もっとすげー経験、思考、行動をもった人はたくさんいるぜ。お前が、残り50年かけて何かしたとしても、そんなものすぐに上書き保存されるだけの価値しかない。
「いやぁ、だから、身近な人との関係を強固に持って、共感できるコミュニティの中で自己承認と助け合いをしながら生きていく【衆生】【凡人】として生きていくことが大切なんですよ~」と、宮台先生の言うような生き方をすべきか。(宮台先生はそんなこと言ってないかもしれない、勝手な読解)
多くの人にとって、そうした、ローカルコミュニティのインターネットによる結合によって大きく広げていき承認欲求を満たしていくという方策が有効だとしても、必ず、僕のようなはみ出し者は発生する。
そもそも、コミュニティは、パレートの法則じゃあないが、コミュニティが生じるとそこに「上下関係」が生まれる。真にフラットな組織というのは、電脳化して思考を並列化しない限り難しいだろう。攻殻機動隊の個別の十一人ですら、ウィルスに感染しなかった「例外」クゼさんによって、合田一人の計画に綻びが生まれていく。
疲れた
ああ、もう、本当に。行き詰まり、息詰まり、生き詰まり。(気に入った)
ダメだ、時間切れ。
今日の夜にでも、また続きを考えよう。
でもなぁ、思うに、俺がやろうとしていることは、過去の偉人たちが、一生涯かけて取り組んで、結局まともに答えを出せなかったことな気がするな。
生きる意味とは。
人生とは。
死とは。
幸せとは。
正義とは。
社会とは。
真理とは。
いや逆に、「無理」だからこそ、他者を頼ることはできないって問題もある。
だから、スピリチュアル的(いや、スピリチュアル全般批判するとかそういうわけじゃないんだけど、なんか表現しやすいから使ってるだけ)なうさん臭さってのは、いかにも「真理はありまーす!」的に全面的に押し出して、だから「信じてねハート」的なロジックになってるところがきな臭い。
むしろ、こたえなんてないってのが真理なんじゃないの?
でも、答えなんてないよー、生きてるのは苦しみだよーって、それじゃあ人は集められないし、お金も集められないから、仕方ないんだろうけど。
表現の重要性
その点ゴウタマさんは潔いよな。一切皆苦とか言っちゃうわけだし。そんな中で、苦諦集諦滅諦道諦と、四諦の中で解決策を提示すると。資本主義のコマーシャルリズム的に、不安煽って、でもこの商品を使えば大丈夫! 的な感じにも聞こえちゃうけどな(かっこわらい。すみません、ゴウタマさんは尊敬できる人物だと思ってます、これはホント。人として)
というのが、まさに、「骨格」を抜き出すと、陳腐になっちまうという現象だ。
だから「表現」が重要だと思う。
ジョルジュさんが言ってる、人間の生み出すあらゆる芸術は、死への不安の表現だ、ああ、なるほどなぁって、思ったよ。
いってみりゃ、結論だけにしちゃえば、「死にます」以上。になっちまう。
だから、それを美的に昇華する、憎悪であり、耽美であり、嫉妬であり、エゴであり、快楽であり、様々なその「意味の表現」。
だから、ある経営者さんのブログなんかで表現されていた、「いやー人生ひまつぶしッスわ。金稼いで生きるだけなら余裕ッスけど、せっかくだから面白いことしたいじゃん?」ってのも、まさしく真理なのだろう。
――でもなんだ、なんなんだ? 俺はその、「面白さ」ってのが、まだ何だかよく分かってない。
心の底から、楽しい、充実してるって。一生、これをつくっていこう、携わっていこう、やっていこうって。
「死にます」って結論なんてどうでもよくて、ただ、そのことそのものが真実で、その瞬間があればよくて。
時間切れから長くなっちまった、ほんとに取りあえずここで中断……。
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先日の記事で、GOMAさんの本を買って読んで、日記が、苦悩よりもポジティブな表現ばかりで、現実味がなくて不満だったと、そんな風な事書いた。
じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!
先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。
ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。
そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。
漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。
仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。
100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。
あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。
GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。
そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。
さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。
考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。


もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。
そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。
確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。
認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。
現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。
無償の愛?
ここまで育ててくれた恩?
人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。
しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。
ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。
物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?
そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。
幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。
どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。
実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。
でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。
な、なんだってー!(かっこわらい)
こうやって書いてみるとギャグだなぁ。
就職するってのもそうだ。
もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。
いや、「目標」としてはいいのだ。
目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。
が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。
目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。
だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。
内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。
で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。
ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。
こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。
しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。
この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。
とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。
ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。
正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。
この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。
なるほどなぁ。
思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。
だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。
そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。
結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。
先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。
過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。
と、ここまでで1時間か。
そう、そういった、いろんな言説。
そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。
そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。
いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。
逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。
考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。
にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……
物語が必要だ。
ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。
うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。
それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!!
うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。
設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。
最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。
じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!
先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。
ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。
夜明けの時間
こうして、朝早く、もはや朝なのか分からない時間から起きて、遊ぶでもなく、文字に触れていると、受験勉強していたときや、大学のレポート作っていたころのことが思い浮かぶ。そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。
漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。
仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。
100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。
家族のこと
過去の、ローカルな記事読んでると、家族のこととか、話題にたまにあがる。あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。
GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。
そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。
さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。
考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。
もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。
そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。
確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。
認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。
介護のこと
「極道ヘルパー」というドラマがあった気がするが、介護の問題は、他人ごとではない、とはいえ、そんなこと、若い子供たちに教えたって、「実感」が伴わない「知識」に過ぎないだろう。現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。
無償の愛?
ここまで育ててくれた恩?
人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。
しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。
ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。
おいおいマイナス思考過ぎないか
物語が必要だ。物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?
そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。
幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。
どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。
実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。
でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。
な、なんだってー!(かっこわらい)
こうやって書いてみるとギャグだなぁ。
目標設定・目的設定
まず、端的にダメなところは、例えば、「彼女つくる」とか、「結婚する」とか、それを目標・目的にしていたところだ。就職するってのもそうだ。
もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。
いや、「目標」としてはいいのだ。
目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。
が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。
目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。
だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。
目的を設定するとは
まぁ、こう考えると、よく目的もなく、これまでやってこれたわけだ。内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。
で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。
ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。
こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。
しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。
この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。
とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。
ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。
人格形成
ただ、うーんそうかな、と少し疑問でもある。正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。
この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。
なるほどなぁ。
思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。
だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。
そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。
結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。
先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。
過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。
と、ここまでで1時間か。
中断
取りあえず、目と身体を休めようか。0時30分から、活動して、基本、午前中は、4時間しか仕事をしなくていいんだ。昼休みがあるだけでましな会社だとかいうのもあるかもしれないが。そう、そういった、いろんな言説。
そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。
そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。
いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。
逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。
考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。
にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……
物語が必要だ。
ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。
カバネリ最後までみた
昨日、「甲鉄城のカバネリ」を、全12話、見終わった。うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。
それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!!
うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。
設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。
最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。
タイトルは、これから書こうと思った内容のメモであるけれども、そのうち、書いていると、書きたいことが変わってくることは多くある。
そして、仕事の一環で、仕事に関する論文を書かなくてはならなくなったのだけれど、いざ、何か書こうとすると何も書けなくなる。このブログに載せてある記事以外にも、ローカルのものを含め、非常にたくさんの文字を書いてきた。それでも、「書かなければいけないこと」については、何も書けないのだと、自分の能力のなさに愕然とする。
論理的思考力と、こうした、ダラダラとした、ぐちぐちとした、カオスな文字とは、全く異なることなのだ。
だから、いくら文字を書く量を増やしたところで、お金を稼ぐ能力には何ら繋がらない。
……と、ここで思考を止めてしまうことも可能だ。「だから」、論理的思考力を高めるような文章を沢山練習するべきだと。
これに対して、「否」と、僕の心は言った。「こころ」とか、赤面するような表現だが、それでも、仕事に対する率直な思い、例えば、専門的な知識を身に着けようとしないで、日々のルーチン業務で満足し、自分の仕事だけに固執し、周りを助けて、組織全体がよくなるように考える人が少ない、いわゆる一般的なコンセプチュアル(概念)化スキルが重要だとして、現場を見ようとせず、深く考えようとせず、場当たり的で、分からないことを恥とも思わず……。
驚くほど、言葉があふれてくる。正直、今も、これほど長いことを書こうと思ったわけではなかった。
アウトプット。このアウトプットは、「恐怖」によって抑圧される。
つまり、「こう言ったら、こう思われるだろう」という、他者を気にする気持ちだ。
この気持ちは、良い言葉で言えば、「思いやり」と表現することも可能であって、人として、前頭前野が発達した人間にとってなくてはならないことだ。前頭前野なんて言葉を織り込んだが、論文的には不要である。僕の言いたいこととも異なる、ただ、記憶の定着として、使ってみただけだ。こんな表現も不要だ、しかし、この「不要さ」こそが、本当の表現したいことに繋がっているのではないかと思う。
前に、自分の記事の中で、面白いと思ったのは、「思考を表現するというのは、真実と虚飾とに苛まれることである」とか、……なんか違うな、やはり、ふと思いついた表現は、「記憶」として定着していないのだと思う。ちょっと調べてみる。ああ、これこれ、
そう、何故、最初に書いた、論文的なのに対して、何ら言葉が浮かばなくなったかというと、「良いことを書こう」「上司にウケる文章を書こう」「共感してもらえるものを書こう」と、「自分本来の気持ち」から離れたところに「思考」が生じたからである。
本来、文章とは、まさに、自己の表現なのであるのだが、往々にして、学校の作文の授業でもなんでも、「書いていけないこと」「書いていいこと」の指導となってしまう。
朝起きて歯を磨いてトイレに行って学校に行って時任くんと話しをして帰ってハンバーグを食べて9時に寝ました、という日記は、読んで何も面白くないということは、小学校で初めに学ぶことであるが、しかし、その「記録」が果たして無駄かどうか、そこをよく考えるべきだ。
いや、その書いた本人が、「何か日記を書きなさい」という宿題のために無理をして書いているのであれば、ゴミでしかない言葉だ。しかし、日記とは、自己の記録としての意味をもっているはずだ。


『失った記憶 ひかりはじめた僕の世界 ―高次脳機能障害と生きるディジュリドゥ奏者の軌跡2016/8/1』
を読んだ。
GOMAさんがどんな人かは、
http://www.cinra.net/interview/201608-goma
↑こちらの記事を読むと分かるし、本の内容についても、ある程度記載されているから、僕の感じたことを書く。
この本の存在と、この方の存在は、先日、あるブログで、とても面白い(面白いという言葉はときに侮辱となるが、僕の頭に最初に浮かんだのはこの表現だ、じっくりと、相手に不快な気持ちにならないような表現を考えることはできる。ただ、その行為自体はまさに、この記事で書こうとしていることそのものに反するのである)記事を沢山書いている方に出会って、その方の記事で取り上げられていたものだ。
興味を持って、早速購入して読んだ。
本は、GOMA氏が事故にあってから書き始めた日記が中心だ。日付と、その日記内容が書かれている。
日記はほとんど、手書きだったというが、殆どは活字化されている。時おり、手書きの、たくさん修正が入ったような、真っ黒な日記原本も掲載されていて、こちらのリアリティは強く感じた。
故に、活字化されているがため、その「現実性」というものをあまり感じられなかった。
が、時おり挿入される、GOMA氏の奥さんの日記が、重要な役割を果たしている。
僕が非常に気に入ったブログ主さんが取り上げてくださっていた方の本なので、あまり批判的なことを書くのはどうなのかと、悩んで、この記事を書くまで時間がかかった。しかし、仕事の論文のことと相まって、やっぱり、もう、思ったことを無理やり捻じ曲げて、誰かに合わせて生きてくってのは、「いやこれからもそうやって生きていくしかないような気がするけれども」、せめて、このブログの中ではやめようと、思ったのだ。
そう思ったのは、反転して、GOMA氏のその日記集の本を読んだためでもあった。
それは、複雑な思いだ。というのは、そもそも、彼の本に不満をもったのは、その言葉の大半が、「ポジティブ」「前向き」「他者への感謝」「生きていることの喜び」であったからだ。
妻や娘に支えられて、去っていった友人たちもいるなか、ずっと向き合ってくれる友人に支えられて、新しい記憶がほとんど覚えられない中、社会復帰のために、身体のトレーニングや、ディジュリドゥの練習、ライブや絵画の個展、映画化に向けた目標・目的を定めて必死に努力していく姿。素晴らしい。素晴らしいゆえに、僕は感動できなかった。共感できなかった。
しかし、最後の方になると、この日記群は、新しい記憶ができないが故の、外部記録装置としての意味、即ち、現時点の自分としては、過去の自分が思い出せないから、その過去の自分から今の自分への、「頑張れ!」というメッセージなのだという、そんな表現を読んで、なるほど、と思った。
恐らく、彼は、やはり、相当苦しんでいるのであって、だからこそ、体の痛みや、脳の機能しない自分自身について、何でこんな目にあうのか、消えてしまいたい、逃げたいという思いで、体や頭を覆いつくしてしまうのだろう。だからこそ。
だからこそ、日記を書くことで、それを読み返すことで、前向きに、頑張れ、みんな応援してくれている、自分一人じゃないんだと、そう言い聞かせるようにして、一歩一歩進んでいるのだ。
それが読み取れたからこそ。
だからこそ、不満だったのだ、僕は、もっと、その苦悩の表現をしっかりして欲しかった。いやしかし、今まさにこう書いた表現が、多くの人に「キモチワルイ」と印象を与えるだろうし、そんなマイナス思考的な表現を出版するなど、ほとんど意味のない、デメリットばかりなことだろうので、望めぬことだろう。
その点で、唯一、妻の日記は、客観的な視点からのもので、ほとんど、GOMA氏彼の言葉からは読み取れないのだが、爆発的なエネルギーが生じて暴力的・感情的になりがちなGOMA氏のことをしっかり書いている。同じ人物に対しての内容なのに、彼自身から見える世界と、奥さんから見える世界が異なっている点が面白かった。
いらないもの捨て去って、自分自身として生きることの大切さ
というのは感じることができた。
GOMA氏の障害は、はたから見ると全く分からないので、実際会話してみたときのちぐはぐさなどで、「あれ?」といった印象を与えるのだろう。だから、そうした、他者に変な目でみられるとか、上手くコミュニケーションとれないのでは、といったそんな思いで、社会にでていくのが、復帰するのが怖かったと書かれていた。でも、そんなことに恐れていてはダメだと。
僕はGOMAさんのようにイケメンでもなければ愛する守るべき生きがいになる娘もいないから分からないけれども、ただ、その生き方、姿勢というのは、共感というか、そうあるべきだと、実感として思った。
というわけで、仕事の論文も、どう感じられるかとか、評価がどうかとか、そんなこと関係なく、「本当の自分の思っていること」をベースに書こうと思う。一応仕事なのだから、「論理化」はするが。
で、その論理化するにあたって、そのベースとなる要素、カオスな言葉の群れは、やはり、ゼロ秒思考でどんどん作り出していこう。
本当は、「甲鉄城のカバネリ」の感想と、GOMAさんの本の感想とを、半々ぐらいに書くつもりだったが、取りあえず時間切れだ。
取りあえずメモとして、この作品も、とある非常に面白いブログの中で紹介されていて、気になってみてみたのだ。アマゾンプライムで見れるぜという情報も後押しした。もう1、2年前になるだろうが、アマゾンプライムの無料期間みたいなのがあって、それで申し込んだら、あまりの便利さに抜けさせなくなってそのまま会員だった。
最近、映像も無料で見れるらしいことは分かっていたけれども、特に気にしていなかった。
けれども、意外に映像きれいだし、ストリーミングも早いし、やるじゃんアマゾンプライム、と思った。
いやそんなことじゃなくて、カバネリの作品のことだ、いやこれ面白い。取りあえず1話みて、久しぶりに最後まで見てみようという気にさせてくれた作品だ。攻殻機動隊ARISEも面白いが、その面白さは、ある意味予想内の範囲で、十分ではあったが飛びぬけてはいなかった。
やっぱり、原作のアニメーションじゃなくて、オリジナル作品ってのは、ストーリーや映像構成からアニメーション用に考えられてつくれるから、面白い作品がつくれるって、コードギアスの監督さんだかが言っていた記事を最近読んだけれど、なるほどなーと思った。
最後までみたらまた感想でも書こうかな。


そして、仕事の一環で、仕事に関する論文を書かなくてはならなくなったのだけれど、いざ、何か書こうとすると何も書けなくなる。このブログに載せてある記事以外にも、ローカルのものを含め、非常にたくさんの文字を書いてきた。それでも、「書かなければいけないこと」については、何も書けないのだと、自分の能力のなさに愕然とする。
論理的思考力と、こうした、ダラダラとした、ぐちぐちとした、カオスな文字とは、全く異なることなのだ。
だから、いくら文字を書く量を増やしたところで、お金を稼ぐ能力には何ら繋がらない。
……と、ここで思考を止めてしまうことも可能だ。「だから」、論理的思考力を高めるような文章を沢山練習するべきだと。
これに対して、「否」と、僕の心は言った。「こころ」とか、赤面するような表現だが、それでも、仕事に対する率直な思い、例えば、専門的な知識を身に着けようとしないで、日々のルーチン業務で満足し、自分の仕事だけに固執し、周りを助けて、組織全体がよくなるように考える人が少ない、いわゆる一般的なコンセプチュアル(概念)化スキルが重要だとして、現場を見ようとせず、深く考えようとせず、場当たり的で、分からないことを恥とも思わず……。
驚くほど、言葉があふれてくる。正直、今も、これほど長いことを書こうと思ったわけではなかった。
アウトプット。このアウトプットは、「恐怖」によって抑圧される。
つまり、「こう言ったら、こう思われるだろう」という、他者を気にする気持ちだ。
この気持ちは、良い言葉で言えば、「思いやり」と表現することも可能であって、人として、前頭前野が発達した人間にとってなくてはならないことだ。前頭前野なんて言葉を織り込んだが、論文的には不要である。僕の言いたいこととも異なる、ただ、記憶の定着として、使ってみただけだ。こんな表現も不要だ、しかし、この「不要さ」こそが、本当の表現したいことに繋がっているのではないかと思う。
ゼロ秒思考
思いついたことを、そのまま表現するということは、不可能である。それは、何らかの方法、例えば、録音であっても、文章であっても、思考として生じたことを「表現する」(=アウトプットする)ことによって、何らか歪められて……歪めるとは悪い表現に思えるが、そうではなくて、何らかの整形が行われているという意味である。前に、自分の記事の中で、面白いと思ったのは、「思考を表現するというのは、真実と虚飾とに苛まれることである」とか、……なんか違うな、やはり、ふと思いついた表現は、「記憶」として定着していないのだと思う。ちょっと調べてみる。ああ、これこれ、
自分の内面を表現するということ、それは、虚飾と真実との狭間に悩み、誠実であろうとする思いと同時にわきおこる虚栄心を抑え込もうと努力する必要がある。
そう、何故、最初に書いた、論文的なのに対して、何ら言葉が浮かばなくなったかというと、「良いことを書こう」「上司にウケる文章を書こう」「共感してもらえるものを書こう」と、「自分本来の気持ち」から離れたところに「思考」が生じたからである。
本来、文章とは、まさに、自己の表現なのであるのだが、往々にして、学校の作文の授業でもなんでも、「書いていけないこと」「書いていいこと」の指導となってしまう。
朝起きて歯を磨いてトイレに行って学校に行って時任くんと話しをして帰ってハンバーグを食べて9時に寝ました、という日記は、読んで何も面白くないということは、小学校で初めに学ぶことであるが、しかし、その「記録」が果たして無駄かどうか、そこをよく考えるべきだ。
いや、その書いた本人が、「何か日記を書きなさい」という宿題のために無理をして書いているのであれば、ゴミでしかない言葉だ。しかし、日記とは、自己の記録としての意味をもっているはずだ。
ディジュリドゥ奏者GOMA氏の本
『失った記憶 ひかりはじめた僕の世界 ―高次脳機能障害と生きるディジュリドゥ奏者の軌跡2016/8/1』
を読んだ。
GOMAさんがどんな人かは、
http://www.cinra.net/interview/201608-goma
↑こちらの記事を読むと分かるし、本の内容についても、ある程度記載されているから、僕の感じたことを書く。
この本の存在と、この方の存在は、先日、あるブログで、とても面白い(面白いという言葉はときに侮辱となるが、僕の頭に最初に浮かんだのはこの表現だ、じっくりと、相手に不快な気持ちにならないような表現を考えることはできる。ただ、その行為自体はまさに、この記事で書こうとしていることそのものに反するのである)記事を沢山書いている方に出会って、その方の記事で取り上げられていたものだ。
興味を持って、早速購入して読んだ。
本は、GOMA氏が事故にあってから書き始めた日記が中心だ。日付と、その日記内容が書かれている。
日記はほとんど、手書きだったというが、殆どは活字化されている。時おり、手書きの、たくさん修正が入ったような、真っ黒な日記原本も掲載されていて、こちらのリアリティは強く感じた。
故に、活字化されているがため、その「現実性」というものをあまり感じられなかった。
が、時おり挿入される、GOMA氏の奥さんの日記が、重要な役割を果たしている。
僕が非常に気に入ったブログ主さんが取り上げてくださっていた方の本なので、あまり批判的なことを書くのはどうなのかと、悩んで、この記事を書くまで時間がかかった。しかし、仕事の論文のことと相まって、やっぱり、もう、思ったことを無理やり捻じ曲げて、誰かに合わせて生きてくってのは、「いやこれからもそうやって生きていくしかないような気がするけれども」、せめて、このブログの中ではやめようと、思ったのだ。
そう思ったのは、反転して、GOMA氏のその日記集の本を読んだためでもあった。
それは、複雑な思いだ。というのは、そもそも、彼の本に不満をもったのは、その言葉の大半が、「ポジティブ」「前向き」「他者への感謝」「生きていることの喜び」であったからだ。
妻や娘に支えられて、去っていった友人たちもいるなか、ずっと向き合ってくれる友人に支えられて、新しい記憶がほとんど覚えられない中、社会復帰のために、身体のトレーニングや、ディジュリドゥの練習、ライブや絵画の個展、映画化に向けた目標・目的を定めて必死に努力していく姿。素晴らしい。素晴らしいゆえに、僕は感動できなかった。共感できなかった。
しかし、最後の方になると、この日記群は、新しい記憶ができないが故の、外部記録装置としての意味、即ち、現時点の自分としては、過去の自分が思い出せないから、その過去の自分から今の自分への、「頑張れ!」というメッセージなのだという、そんな表現を読んで、なるほど、と思った。
恐らく、彼は、やはり、相当苦しんでいるのであって、だからこそ、体の痛みや、脳の機能しない自分自身について、何でこんな目にあうのか、消えてしまいたい、逃げたいという思いで、体や頭を覆いつくしてしまうのだろう。だからこそ。
だからこそ、日記を書くことで、それを読み返すことで、前向きに、頑張れ、みんな応援してくれている、自分一人じゃないんだと、そう言い聞かせるようにして、一歩一歩進んでいるのだ。
それが読み取れたからこそ。
だからこそ、不満だったのだ、僕は、もっと、その苦悩の表現をしっかりして欲しかった。いやしかし、今まさにこう書いた表現が、多くの人に「キモチワルイ」と印象を与えるだろうし、そんなマイナス思考的な表現を出版するなど、ほとんど意味のない、デメリットばかりなことだろうので、望めぬことだろう。
その点で、唯一、妻の日記は、客観的な視点からのもので、ほとんど、GOMA氏彼の言葉からは読み取れないのだが、爆発的なエネルギーが生じて暴力的・感情的になりがちなGOMA氏のことをしっかり書いている。同じ人物に対しての内容なのに、彼自身から見える世界と、奥さんから見える世界が異なっている点が面白かった。
要点
って、なんだこの感想。面白かったのか面白くなかったのかよく分からないが、一つまとめておけば、いらないもの捨て去って、自分自身として生きることの大切さ
というのは感じることができた。
GOMA氏の障害は、はたから見ると全く分からないので、実際会話してみたときのちぐはぐさなどで、「あれ?」といった印象を与えるのだろう。だから、そうした、他者に変な目でみられるとか、上手くコミュニケーションとれないのでは、といったそんな思いで、社会にでていくのが、復帰するのが怖かったと書かれていた。でも、そんなことに恐れていてはダメだと。
僕はGOMAさんのようにイケメンでもなければ愛する守るべき生きがいになる娘もいないから分からないけれども、ただ、その生き方、姿勢というのは、共感というか、そうあるべきだと、実感として思った。
というわけで、仕事の論文も、どう感じられるかとか、評価がどうかとか、そんなこと関係なく、「本当の自分の思っていること」をベースに書こうと思う。一応仕事なのだから、「論理化」はするが。
で、その論理化するにあたって、そのベースとなる要素、カオスな言葉の群れは、やはり、ゼロ秒思考でどんどん作り出していこう。
カバネリ
ああ、やはり、書いているうちに最初の予想と異なっていく。本当は、「甲鉄城のカバネリ」の感想と、GOMAさんの本の感想とを、半々ぐらいに書くつもりだったが、取りあえず時間切れだ。
取りあえずメモとして、この作品も、とある非常に面白いブログの中で紹介されていて、気になってみてみたのだ。アマゾンプライムで見れるぜという情報も後押しした。もう1、2年前になるだろうが、アマゾンプライムの無料期間みたいなのがあって、それで申し込んだら、あまりの便利さに抜けさせなくなってそのまま会員だった。
最近、映像も無料で見れるらしいことは分かっていたけれども、特に気にしていなかった。
けれども、意外に映像きれいだし、ストリーミングも早いし、やるじゃんアマゾンプライム、と思った。
いやそんなことじゃなくて、カバネリの作品のことだ、いやこれ面白い。取りあえず1話みて、久しぶりに最後まで見てみようという気にさせてくれた作品だ。攻殻機動隊ARISEも面白いが、その面白さは、ある意味予想内の範囲で、十分ではあったが飛びぬけてはいなかった。
やっぱり、原作のアニメーションじゃなくて、オリジナル作品ってのは、ストーリーや映像構成からアニメーション用に考えられてつくれるから、面白い作品がつくれるって、コードギアスの監督さんだかが言っていた記事を最近読んだけれど、なるほどなーと思った。
最後までみたらまた感想でも書こうかな。
本当は、本を読んだり、勉強したり、創作的なことをしたりと、有意義に使う方がいい気がする。
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
しかし、どうにも仕事帰りは気力がわかない。早めに帰れば帰ったで、異様な眠気に負けて何もできない。
そういえば、高校生くらいのとき、部活にもいかなくなって早めに帰るようになると、17時? 18時ぐらいに異様な眠気を覚えるようになった。
勝手に魔の時間とよんでいた。
前の記事で、ストイックになることが必要だと書いた。
しかし、身体的な欲求、言葉を無視した計画や方策は、往々にして頓挫する。唯一上手くいって成果をあげる可能性があるのは、明確な期限を決めたときだ。そしてそれには、強いモチベーションが必要になる。
拍手とコメント
前の記事で、拍手をしていただき、コメントまでくださった方がいた。
大変嬉しかった、こんな汚物のような記事(かっこわらい)を評価することは、自身のレーゾンデートルに関わることで、とても勇気がいることだったに違いない。それほどまでこの社会は、世界は、努力とか敬虔さへの要請が強いのだ。
と、大仰々しさはさておき、拍手してもらった記事を読んでいて、誤字が多いこと気づくと、なんだか申し訳なくなる。
前触れたように、一秒でも前に戻ったり止まってしまうと、思考があらぬ方向にいくので、誤字と気づいても、明らかに誤解を生むものでなければそのまま書き進めて投稿したりもする。推考すればいいじゃない、となるが、その時間があれば、もっと他の思考にあてられる。
そんなことより、ぼけーっとしている時間を使えばいいじゃないかというのも、もっともだけれども、その、ボケボケの時間もまた、必要な時間の可能性がある。
脳の使い方
無駄な時間を切り詰めて、成果を出す。
仕事とはそういうものだ。長々と、残業をする人に対する評価はますます低くなるだろう。
だが、そもそも、効率的な時間とは何か。
小説の一節を考えて、いい表現が浮かばずに、一時間使って、何も、進まなかったとしよう。
では、その時間は無駄だったのか。貴重な人生の時間で、なんにもならなかったのか。
ゲームは、教育上目の敵にされる。しかし、ゲームをする時間は、確かに、脳科学的には、音読や計算をするより遥かに活性化がしないから、ただの無駄でしかないのか。
無駄かそうでないか
ここでもまた、相対概念だ。
二項的な考え方。正しいか正しくないか、役に立つかそうじゃないか。
くだらない。
もっと、真理であるものに目をむけるべきだ。
と、思いながら、真理と、真理でないもの、とか。
この相対概念というのも、すべてに適応できてしまう。ゆえに、いまここ、この瞬間だけが真実である、真理であると、それを体感するための修行が、道元さんなど仰るシカンダザ的なものだ。
そして、こういった、真理とかいう表現が、苦手だ。
ここら辺から、最初に書こうと思ったことと段々ずれてくる。
神とか真理とか、これらがいわんとするのは、超越した、認識のできない、より大きなものを、信じることの重要性を示唆するための、概念である。
これは、相対概念ではない。いわゆる、比較のできるものを対象にしたわけではなく、絶対的な真理、確かに存在することのそのこと自体を表現する、表現であり言葉だ。
努力の構造
上までの内容は、昨日書いたもので、今読むと、いいこと書かなきゃ症候群にかかって、どんどん楽しい方向から遠ざかっている。
そう、この楽しさ、書いている内容はともかくとして、表現することの楽しさ、これは、かけがえのないものである。
大変な仕事でも、勉強でも、その瞬間の苦しさはともかく、その結果となる未来、将来、理想の輝かしさは、その苦しい現実性に光を
与えてくれる。
そういう意味では、何ら希望がなくても、ただ現実性の不信感や焦燥、苛立ち、不安感によって、努力を重ねたことは、僕自身を誉めてあげてよい部分であり、なんと愚かな奴だと、嘲笑となる。
これは、多くの人にとって普通のことである。ギャンブルにはまって借金を抱える。なんとか全うな生活に戻りたいとおもう。しかし、その、全うな生活とは、所詮、ふつう、でしかない。
ふつうを手にするために、日常生活では到底取り戻せない、多大な努力を必要とする。
しかし、そんな試みは、手近な、発泡酒とか、ゲームとかに簡単になびいてしまうのだ。
比較思考
ゆえに、人は、自分という枠から中々逃れられない。
これは例えば、ストイックな人にも当てはまる。
ストイックな人は、そのストイックさに心地よさを覚えるのだ。頑張って、成果を出して、お金を稼いで女を抱いて、人に感謝されて人生を楽しみ尽くすのである。
行き過ぎたストイックさは軋轢や失敗の修正ができなかったりするが、なんのことはない、ストイックさがあれば、大抵は何ら問題は解決するのだ。
ストイック
よしなるほど、ストイックという生き方こそ、人間の至上命題で、真実的な生き方である。
遅かれ早かれ、みなここ真実に気づき、努力に邁進するのだ!
であれば、ストイックとは、、どういうものか、ここで掘り下げる必要がある。
ギリシアのストア学派は、理性を至上とし、禁欲的な生き方を理想とした。
ストイックとは、自分に厳しく、禁欲的にいきることである。
……辞書的な意味である。言葉を理解するとは、ここで終わりではない。では、自分に引き付けて、禁欲的にいきるとはなにかを、考える必要がある。
禁欲的生き方
禁欲、というと、性欲がまず浮かぶけれども、では、自慰やセックスをしないことが至上の価値なのか。
食欲もだめだとすれば、精進料理のみで質素になればいいのか。
名声慾がいけないのか。
マックスウェーバーのプロテスタント分析は有名だが、禁欲的に働き、富を蓄えることが神への奉仕であり救済だという考えもある。
様々な欲望。
その欲望を次々に断っていくこと。
それが禁欲生活であり、人間として目指す最大の生き方なのだ!
ここに、この、禁欲生活とを、自らの言葉として考えたとき、大きな問題が立ちはだかる。
前々から書いてきたように、最近はますます、慾がなくなってきたのだ。
先日より、なんとか、楽しいこと、充実したこと、明るいことなどを何とか自ら感じ取れるようにしている。
そのために、物語が必要だ、とも書いた。
本来、欲望が人の生活を、社会を豊かにしてきたのだ。
技術の発展が、軍事とエロに支えられてきたとか、そんなことを言いたいわけではないが、現実を、よくしよう、自然を克服してコントロールできる範囲をどんどん大きくしていこうという本能的な欲求。
それが、衝突になり、悲劇的な結果をうみながら、政治学や憲法や法律、国際法とか、道徳とか、規律規範、ルールという発明につながった。
社会システム自体も、資本主義や社会主義といったイデオロギーも、長い歴史の中で構築されてきた人間の発明品である。
高度な社会は魔術化する
高度で、複雑な社会に生きている。
例えば、このブログも、フェイスブックやSNSの仕組みも、多くの人は理解していないが、上手に、コミュニケーションするという目的を果たすために使いこなしている。
僕はWEB上のインタラクティブなサイトを手掛けたことがあるため、ある程度その仕組みは分かる。これは自慢ではなく、むしろ、それが分かっていたところで、集積回路とかトランジスタとか、光ファイバーとかLTEとか、よく分からない。電子とか、
クォークとかよく分からない。そんなほとんどなにもわからなくても、ある程度そういったサイトをつくることはできる。
法律もよく分からない。
それでも、日常生活をおくれる。電車に乗る、何故動いているか分からない、電気? そもそも電気って何だよ、電子の動き? マクスウェルの電磁気学? 磁気ってなんだ? N極S極、磁場? よく分からない。
これらも、テストの点をとるためであれば、それなりの記憶力によって、記述をすることができる。
だが、自分に引き付けて言葉を考えたとき、なんとたくさん、分からないことだらけなのか。
これが無知の知だ、かっこわらい、としていいのなら、僕はソクラテスさんのいうことは理解できているといっていい。
だが、ソクラテスの哲学はそれだけか、いな、もっとたくさんの研究結果があるだろう、やはり僕はなにも知らないのだ。
分からない地獄
パァンツァードラグーンというドラゴンに乗って戦うシューティングゲームがあることも最近はじめて知った。
先程、自慢げに書いた、ホームページを作れる技術、能力だって、もはやここ数年、僕より若い人でもっと素晴らしいコンセプトや技術をもって実現している人は多く、沢山いるだろう。
なにもわからないし、少しばかりのできることだって、もっと優れた人はたくさんいる。
ああ、自分とは何てちっぽけなんだ。
そもそも、46億年前からの地球において、70億人のひとたちのなかで、何とちっぽけなんだ。
生きる意味を考えるとは、それらすべての気づきに、目を背けず戦い続けることを意味する。
ああ、そうなのだ、この記事は、途中まで、ストイックな生き方について、そもそも、欲望が人間の本能なのだから、それを塞ぐことは、矛盾した苦悩につながるということを書こうとした。
しかし、、いま思うのは、おそらく、こうして表現すること自体もまた、ストイックであらざるをえない。
確かに、自分はダメな人間だと、そんな糞ふく紙にもなりゃしない下らない、言葉の羅列は、何ら意味を見いだせないだろう。
だが一方で、そんなくだらないことを、僕は、ついぞ必死に、長々と、長年、書き連ねている人を、あまり見たことはない。
確かに、一行二行、死にたい、彼氏にふられた、仕事でいやなことあった、あいつむかつく
と、そんなのがずーっと続くブログとか日記とか、そういったものは目にすることは簡単だ。
だが、
もう時間切れで、喉がいたく、睡眠不足が続くわりに以外と体調が続くなと思っていたが、ついに風邪か何かの病気になったか、と、いうことで、ひとつメモだけすれば、
つらいとか、苦しいとか、なんだっていい、その思いを、怒りを、ちゃんと表現するべきだ。
死にたいしにたいしにたいしにたいシニタイシニタイシニタイ
とか書いても、面白くない。
面白い? 不謹慎?
そうではない、むしろ、、これこそが、反転したポジティブであり、救いでしかないのだと、僕は思うのだが、うーん、この記事では完全に誤解とか、気持ち悪いとか、ただの自慢とか、不幸自慢とか、傲慢とか、上から目線とか、とにかく、読んだ人に不快感しか与えない気がする。そしてその読んだ人とは、恐らく、明日の自分もそうだろう。
だが、それを恐れて、ここでデリートすることは、逆に、その思考からの逃げであり、まさに、イイコト書こう症候群におかされているのであり、自らをよくみせようとする、みえに過ぎないのであるから
あるアーティストが、インスタグラムかなにかに、ポエミーなことを書いたら、女性のアイドルから、何が言いたいか分からない、気持ち悪い、と言われたとのことだ。
今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。
的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。
別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。
ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。
思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。
そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。
ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。
アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。
なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。
思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。
それほどの悲劇はないのではないか。
アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……
自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。
勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。
前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。
一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。
と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。
しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。
徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。
以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。
その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。
僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。
人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。
分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。
騙されることなんてない。裏切りなんてない。
そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。
けれども、今なら、その、意味するところは分かる。
もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。
人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。
そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。
ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。
なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。
と、思ったのは、感情エラーだと思う。
きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。
だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。
本当にそうか。
話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。
この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。
このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は
今思い描いてた28歳には程遠い、消えてしまいそうなものを追いかけるだけではダメだったのかな、なぁ自分よ。
的な内容とのこと。あはは、その程度で気持ち悪いなら、このブログ、ほとんどエイリアンとか汚物のような気持ち悪さだろう。
別にそのアーティストを擁護するものではない、多くのファンがいて、とっかえひっかえ女性と付き合ったりしていたとのことで、このリア充が! と、切り捨てる。興味もない。
ただ、こうした言葉ってものが、いわゆる他者とのコミュニケーションの目的のみにとらえるのであれば、分かりにくい表現はすべて唾棄すべきものだ。
思考だって、現実をよくするためだけに使うべきだし、愚痴的な表現はなんら必要ない。
そんな、唯物的な思考を、否定する気はないが、俺には選択できないし、そしてつまらないと思っていた。
ところが、あるブログにおけるコメントを読んで、とても面白いと思った。
アリのたとえ
アリは、餌のために努力し働く。そのアリを見て、人間は、何かむなしさを感じたとして、それはもっと大きな意味というものを求める心性なのではないかと。
なるほど。虫が好きでない僕はそんなアリなんてじっくり見たくもないが、確かに、ありが必死に、死んだ蝶の死骸を巣に運んでいる姿など、そんなことして何になるのかな、と、そんな無常さが思えるかもしれない。
思うに、アリは、自身が、自身の行動が意味あるものなのかなど、考えもしないだろう。きっとそんな脳機能はない。
が、しかし、万が一そのアリが、自己の、自我の、自分自身の存在を思ったら、どうだろうか。
それほどの悲劇はないのではないか。
アリは、思考があろうがなかろうが、アリでしかない。その身体的な限界性は、何があろうと覆らない。
しかし、そのアリが、他の虫の、例えば蝶の羽ばたくのに憧れたり、人間の巨大な身体に憧れたら……
自分の矮小さ、その理想的な自己と現実の自己とのギャップに絶望してしまうに違いない。
努力至上主義
勝間さんと、香山さんとは、正反対で相容れないという。勝間さんは、努力で幸せを手にいれるのが人間的だといって、香山さんは頑張らない生き方もあるのではといって、双方が歩み寄ることはない。
前々から僕が書いているように、この、頑張る頑張らないとか、幸せとか不幸せとか、そんな相対概念自体つまらないしくだらないということ、それは前提とし、念頭においたまま書いていけば、努力や、ストイックさは、人生を楽しむに当たって必要なことだ。
一方で、例えばアリが、人間の生活に憧れるのは、悲劇的でいずれ絶望の淵に貶めることである。
と、僕は、そのブログをみて思った。
アリの生き方か。なるほど、自分の思考からはきっと何十年たっても浮かぶこどなかったろう。
やはり、他者に触れることは非常に重要だ。
しかし、やはり、冒頭にもどるが、リアル世界においては、こうした価値観や思考は、気持ち悪い、と両断され打ち捨てられる。
徐々に現実に価値が見いだせなくなっていくような哀しいこともよぎる。
以前書いた、僕を救ってくれた人の一人は、多いからね、現実が嫌いな人……といっていた。
その意味するところを突き詰めてきいてはいないが、それは反語的な使用なのだろう、すなわち、現実を嫌いになっても仕方がない、おろかだ、ということなのだろう。
僕はずるいので、ここで、この現実を、こうして二次元的に表現することも含めて、現実に他ならないとする。
そうすれば、その方がいう現実が嫌いな人にはならない、という作戦だ。
人の善性は、それはまた真理である。負の側面だけに目を向ける必要はない、同時に、プラスだけでもないのだが、そもそも、クオリア的に他者の存在など、その存在が実在しようがしまいが、結局その他者は自らの思考の結果の生成物であるとの立場にたてば、結局、他者はどこまでも信じ続けるしか現実方策はなくなる。
分かりやすく下らない例えを書けば、この仕事終わらせてくれたんだね! ありがとう! と、言われたとき、相手に、ちっ、余計なことを、後で俺がやっとこうと思ったのに、とか思われていないだろうか、なんてことを考えるのは、その推測がエラーだろうが正解だろうが、そんなのどうでもよくて、感謝してもらったと、素直に喜んでおけばいいのだ。
裏切りの所在
騙されることなんてない。裏切りなんてない。
そう言い切った人が、例の僕の思考面に影響を与えた、現実界にはいなかった人だけど、そのときは、ぶっちゃけ、よく分からなかった。
今も、それは、実感レベルとしては分からない。
けれども、今なら、その、意味するところは分かる。
もし、裏切られたとか、騙されたと思ったら、それは、自分の、その考えや感覚が不十分だっただけだ。真実を直視せず、都合のよい世界をみていただけなのだ。
人の存在は限りなく真実であり、先般書いたように、他者もまた意思を持ち感情をもっていることも事実なのだけれども、それでもなお、世界は、どこまでいっても、自己に限定され続けるのである。
マナシキとアラヤシキ
そこで、仏教の惟識派は、自己に執着する意識を、マナシキと読んだ。
でも、深層のアラヤシキでは、アカシックレコードのように、全世界の全人類の記憶が蓄積されているのだ。
現実の些末性
ああ、しかし……、このブログなんの意味あんねん、という、ふざけた思いがよぎる。
なんだか、到底、誰か自分以外の人に、面白いとか、それが、嘲笑だったとしても、役に立つとか思って頂けなければ、本当に書く気力がなくなる。
と、思ったのは、感情エラーだと思う。
きっと、僕はどこかに、愚痴を吐き出したいのだ。でも、現実世界では、気持ち悪いと言われるから、人知れず、インターネットの辺境で、愚痴愚痴と暗がりで、孤独にいい続けるのだ。
だから、人がみてくれようが、そうでまいが、関係ないのだ。
本当にそうか。
話がかなり、ぶったぎれてるが、思うに、ここが、最後の場所になりそうだ。
この場所が、何らかでなくなったとき、もはやローカルのログしか残されてないだろうが、きっともうそれでは、満足できないだろう。
このずたぼろな記事が、誰かの目に止まって、100人に1人が面白いとか役に立つと思ってくれる可能性、可能性、その希望、確信、希う感覚や気持ち、それが信じられなくなったとき、僕は
