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オールナイト
2016/10/21 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
段々行く気がしなくなってきたが……、まぁ、行ってみたら案外楽しいことはよくあることだ。
今日は遊びで徹夜になりそう。ので、早速ルーチンの危機である。

と思って、今日は朝早く起きて音読筋トレストレッチを実行した。

故に実質家に帰る明日がまた勝負だなぁ……。



そもそも、飲み会とか、美味しいものが出てこない居酒屋とか、行く気がしない。
はっきりいって、家で自分でカクテル作ってた方が飲み放題で格安だし。

そんなこと考えるのがそもそも、リア充になれない原因だな。
しかしリア充とか、所謂使いやすいから使ってるが、先日の現実とフィクションの二項対立の話じゃないが、そのリアルというのが、どれ程重要だというのか。

いやもちろん、ここで、孤独が好きとか、一人が大事とか、そういう問題ではない。

ただ、格安チェーンの汚いまずくて薄い酒しか出さない居酒屋に行く意味が分からない。
汚い大衆居酒屋はまぁいい、美味しいもの出したりするから。

しかし、中途半端に綺麗感出して、高いわりに大して美味しくないもの出す店に行くなら、牛丼チェーンの方がましだ。


予定外でもないが、あまり気乗りしないプライベートな予定のため、少しとげとげしているのかな。

価値あるものとお金



場所代とか、希少性によってお金がかかるってのが好きじゃない。
本当にその物の価値があって高価ならいい。

で、またその価値、って基準だが、それは、自分にとって価値あるものかと。

それなりに美味しいラーメンを食べた。しかし、830円で、出された水のコップが臭かった。

同じ800円でもっと美味しいラーメン屋を知ってるとなると、納得しづらい価値だ。


バンジージャンプをしてみたいと目標で書いてたが、しかし、軽く1万円を超えることが分かった。
うーん、そこまでするか……だとしたら、ツーリングに行った方が楽しそうだ、とか。


こう、いろいろ経験していくと、新しいことに挑戦できなくなるのは、その挑戦した結果が芳しくないことが予想できてしまうことだ。
やってみなきゃ分からない、でも、大体分かってしまう。そして、当たってしまう。



時間の使い方



創作に当てるのも時間、ご飯を食べても、寝てても、ボーとしても、物語を摂取しても時間。
このブログを書いても時間、これを読んでも時間。


ゆえに、僕は、まず、このブログを読んでくれた人に対して感謝せねばならない。
一度しかない人生の貴重な時間を、この言葉群を読むことに充ててくれたのだ。ありがとうございます。

コメントできずにすみませんと言ってくれたかたもいた。いえいえ、とんでもない、目を通してくれてありがとうございます。まぁ、本音を言えば、読んだかどうかだけでも読みましたボタンを押して頂けると嬉しいのだが(笑)
これは、コメントコジキと言われるやつだ。まぁ仕方がない、このブログでは誠実でありたい。見栄や、妬み憎しみ何でもござれ。すべて含めて、アウトプットして、それが自分なのだ。



憎しみ



しかし、憎しみという感情が、実は一番よく分からない感情かも。
イライラすることはあっても、誰かを憎いと思ったこと、そうさな、部活やってて暴言というか苛めてきた二人ぐらい、そんぐらいは顔と名前が出てくるが、いま無理矢理思い出したぐらいだ。

あんまりこれまで、憎いってことがなかった。敵はたいてい、自分自身だった。


ううむ、もうすぐ時間切れか、どうしよう、こんな短くて投稿してよいものか。悩む。

でも、何も浮かばなくなってきた、ああ、何だか、やる気が起きなくなってきた。


まずいまずい、これ、明日早速日課がストップしそう。

なんとか、ここで踏ん張らねば。これまでの経験で、ここが第一関門というか、正念場っぽい。早いな、いきなり序盤の町で魔王軍四天王が現れたみたいな話だ。

筋トレストレッチ、音読、なんとか続ける。

そう、脳は、情報に感情のレッテルを貼った状態で記憶の中枢に情報をまわすから、否定的に入ると効率が悪い。

あんまり悲壮的になってもよくない、けれども、俺は案外、追い込んだ方がいい場合もある。
なんとか、精神力の残存を確かめ



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行動のための第五歩
2016/10/20 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
いったい、いつではでこのタイトルが続くんだ。
きっと、もう大丈夫、ここまできたら習慣になったと、そう実感できるまでだ。
でもそうしたら、たぶん、10年ぐらい続かないだろうか?
いや、エビングハウスの教えから、だんだん、思い出す感覚は広げていっていいだろう。

いまは、筋トレと音読を、と、毎日インプットせねばならない。
30日、3ヶ月ぐらいはいままでの実績から余裕だ。その前に潰れることは数知れないが、とりあえず、30日続いたら三ヶ月くらい大丈夫だ。

そして、三年間毎日続ける、というのは、残念ながら今までの人生一度もない。

もちろん、睡眠とか、歯磨きとか、それぐらいのことは続いていたかもしれない。ただ、歯磨きもキャンプとか友人宅で夜通しとか、クラブでオールナイトとか、そんなこともあった気がするから、厳密には毎日じゃないかもしれない。

そうすると、別に、一日二日守れなくても、さほど、習慣化において気にする必要はないのだろう。
ただ、三年間のうちの一日か、一週間のうちの一日かでは、重みが違う。


ゆえに、この、計画を立てることが最重要だが、実行時においても、この序盤が非常に重要なのだ。

そして、恐るべきは、例外事象。
必ず、ああ、今日は仕方がないな、だって○○があったんだから、というのが発生する。

そこをどう乗りきれるか。

いまが勝負だ、帰ってからが勝負だ。



昨日の記事に対する考察



昨日の、第四歩の記事……あれ、そうか、これ、昨日じゃなくて今日か。もう、相当前に書いたような感覚。


読み返して、やはり、全く、そのとき感じただろう、不快感や、夢の緊張感、そんなの、全然感じない。
こんなこと書いて大丈夫だろか……と心配していたはずだが、いま読むと、別に大したこと書いてない。


他者からの自分のみえかたと、自分自身でリアルタイムに思うかんじ方。

こんなに違うんだなぁと思った。記述のリアルタイム性が強ければ強いほど、この感覚のズレは大きいのだろう。 


一日後の今日だから、その文章を書いたとき、苛立っていた、不安だった、意味不明な快感があった、など、それを言葉として思い出せるが、感情はない。



家に着いてからが勝負



筋トレストレッチ音読、と。言い聞かせる。

そこに思考は挟まないそんなことやって何になるんだとか思わない。

話が変わったな。昨日の記事は、何となく、大事なことを書いてた気がするのだが、いまいちよく分からなくなった。

恋するのが大事?

そうさな、そういえば、高校のとき、最終兵器彼女って作品がすげー好きだったけど、いつぞやか、物凄く嫌悪し全部売り払った。

そのあたりに、なにかヒントがあるきがする。

つまり、恋ってなにか、ってことだ。
どこか、相思相愛、という言葉とか、好きってことだよハートとか、何らか表現はあるけど、でも。

相手のことを全部わかってあげて、先回りして相手の望みを叶えてあげるとか。
脳内占有率を常に高い状態を保つとか。


そういうもんじゃねえ、恋ってのは感覚なんだ! とか。



思うに、この点に殆ど触れてこなかったのは、考えても無駄だと思っていたのか。それとも、自分のルックス的な問題か。


ああ、いや、これも、敢えて記憶から消しているだけで、昔いろいろ書いていたかも。ブログになってからは全く書いてないから忘れてしまっているのか。



そして次の日



昨日は、結局うだうだ上まで書きつつ、帰って筋トレストレッチ音読をすることができた。
3日達成! おめでとう。今日もできたら、三日坊主ではなくなる。


さて、ある精神科医のブログを読んで、仏教観というか、この世は地獄だぜ、というのに一定の共感を覚えつつ、やはり人間の畜生ととして、執着にまみれ、苦しみながら生きている姿が嫌いになれないのだと。


その表現が、自信の体験を踏まえて非常にリアルな筆致になっていて、感動した。

かっこいいおとなだなっと。

僕も、何だか誰かを感動させるようなこと書きたいな。創作でも、エッセイでもどっちでもいいけど。


人類補完計画的な、万人にとってのユートピア、というのが、決して成功せず、様々な物語でも、最後は破れてしまうイデオロギーな理由が少し実感できた。

いくら、生きることそのこと自体が苦しみであっても、人と人は執着によって争うものだとしても、そのこと自体が尊いものだと、価値があるものだと感じる人もまたいるのである。

生きる意味が不要な人もいるのである。


ただ必死に生きて、笑って泣いて、苦しんで楽しんで、突然死んでしまっても、それが決して不幸なんてものではないのだ。


真理は、必ず必要なものではないのだ。


お金もそう。

恋人もそう。

出世もそう。

子供もそう。

他、世間一般に価値があるとされている多くのもの。


それらが、必ずしもその人にとって必要とは限らないのだ。

低学歴だから、貧乏だから。それらすべての属性は、決して、その人にとっての幸せの絶対尺度ではないのだ。

すぐさま、その足りないことに気づいていないから、貧乏の自覚がないから、井の中の蛙であり、本来的な権利を知ったとき、その人は失意のドン底におちるとしても、その知識や認識のあるなしが、問題にはならないのだ。

他人を気にしないこと



他者の生き方は参考になったとしても、結局は、自らの意思に従い、行為を選択する必要がある。

すぐさま、その意思とは単一の存在ではなく、環境との相互行為であることを想起する必要がある。





だから、

やっぱり、大切なのは、物語だ。


ある人が、現実とフィクションとの二項対立的な考え方に違和感を覚えると記述していたが、その通りと思う。
その、フィクションを摂取した自分自身までもフィクションになるはずはない。
現実逃避という言葉は、その、正しいとされている現実の規定から外れることを指すだけの相対概念といえる。
受験生が、漫画やゲームや恋人に時間を費やすことは、現実逃避だろう。
それは、受験に受かるという現実が価値あるものとして存在するからだ。
やるべき仕事があるとき、単純作業や掃除を始めたとしたら現実逃避だろう。やるべきことをやっていないからだ。

それは正しい、しかし、その価値あるものや、やるべきものについての検討の余地はあるのだ。



  

そして、この現実とフィクションとの懐疑の重要な点はもうひとつあって、それは、かっこつけた一般論的な表現をすると、グローバリズムと価値多様化社会である。  

価値への懐疑



現実の規定は重要でありながら、ローカルなコミュニティで一生を終える可能性は小さくなった。

一方、物理現実、いわゆる僕らが直接的に接する、学校、会社、家族、それらは、それらにおけるローカルな価値を提供する。

それが謝っているか、正しいか、そこに問題はない。問題は、その価値を自らの意思が、自己が、許容し、同様に価値あるものと実感できるかどうかである。


そこへの矛盾を抱えていなければ、よい。

ただ、そこに矛盾があれば、その現実は決して、現実逃避とそしられるものでなく、むしろ、その現実に落ち着こうとすること自体が、本当の意味での現実逃避なのだ。



価値の反転。
さて、現実が、現実として機能しなくなったとき、どういった方策が考えられるか?


物語の重要性



ここでいう物語は、エンターテイメントと呼ばれる、小説映画漫画ドラマのみにとどまらない。

例えば、旅先で偶然出会ったひととの会話でもいい。
もちろん、僕が最近飽きたと連呼する自己啓発本でもいい、ビジネス書でもいい。

とにかく、物理現実から離れたところで紡がれる物語。

それが、反転した現実から逃れられる唯一の可能性ではなかろうか。


ファンタジーだろうが、サイエンスだろうが、ノンフィクションだろうが関係ない。

自分自身が、価値あると感じられるものを探していかなければならない。それは、ときに、物理現実のなかだけでは見つけられないのだ。


物語を糧に。




さて、では、僕が求める、必要とする物語とはなんだ?


分からないが、ただ、ハッピーエンドじゃなきゃいけないなぁと、そんな漠然と、おもう。






















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行動のための第四歩(恋について)
2016/10/19 01:20 | Comments(0) | 思考及び書くこと
習慣化するために有効なのは、記憶術の考え方の応用だ。
エビングハウスの忘却曲線。初めは手厚く復習して、徐々に復習の間隔を伸ばしていくと長期記憶になりやすい。

行動のための第一歩、二歩、三歩ときて、これでもかってくらい、同じ内容の記事だ。

音読と筋トレストレッチをしよう、と。
ただ、それだけの内容だ。
しかし、この、繰り返し、初めのうちが非常に重要である。

実質二日目

昨日とは違う今日。当たり前だ。二度と、同じ日はこない。しかし、毎日が同じ繰り返しだと感じる人も少なくないのでは。

しかし、僕にとって、今日はまた完全に新しい日だ、何故ならば、音読筋トレストレッチの、二日目だからだ。

今日、これから家にかえって、やる気が起きずに、ぼーっとパソコンつけてサーフィンして、気づいたら24時すぎで、ああ、もう今日はいっか。また明日から頑張ろう。

みたいな、ダメ人間の典型になる可能性が残っている。おそろしい。

まだ、帰るまで、自分の気持ちは分からない。
知り合いから電話がくるかもしれない。
家ノ前が暴走族の集会所になっているかもしれない。

当たり前度合い


人間は、記憶である、とこの前書いたが、もうひとつ、当たり前度合いもまた、人間の尺度である。


例えば、家に帰って、ちゃんと日課がこなせるか不安な一方、家が、紛争により破壊されているとか、空き巣にはいられたりとか、そんなことは不安に思っていない。

被害妄想だ、が、そういう次元でなく、常に誰からも賞賛されてないと気がすまない人とか、家のなかでは裸で過ごすのが当たり前の人もいる。


この当たり前の度合いが、その人の人間性である。

人は中々変われないというのは、この次元の話だ。当たり前だ、だって、その人にとっての当たり前なのだから、変えるなんてとんでもない話なのだ。
それを捨てるなんてとんでもない。
 
そんな、当たり前の度合いが違う人同士が一緒に暮らすのが、同居というわけだが、まぁ、難しいのは想像に難くない。

そして5時間後

帰りの電車の中で書いて、家に帰り、日課を行うことができた。めでたしめでたし、で、気づいたら寝ていて、現在1:20。一体何が起きた。本棚の隅に、小さなクモが巣をはって領空権を主張しているし。

夢を見た。
初恋の人と、一緒に宿題やったり、話したり、一緒に帰ったり。

何だか、その人の一挙一動、表情の変化、言葉、そのすべてが可愛らしくて、気持ちが昂り、緊張させた。

そこに、思考はなかった。
ただ、その人のことを思って、ドキドキする状態。(ドキドキって、何だよ、表現しろよ。いやできない、当時は言葉をもっていなかった、むしろ、言葉でない状態だったのだ)


夢は、最近で、唯一、言葉を、思考を与えず、感覚のみの世界に僕をいざなうのかもしれない。
ぶっちゃけ、夢の内容は微笑ましく、楽しく、嬉しいものでありながら、今、目覚めてみると、非常に不快でしかない。これが法界悋気(自分に関係ないことでねたむこと。人の恋路をうらやむこと)か!
自分に関係ない人の恋路、とは、そんなことなくて、過去の自分に対しての? 夢の自分に対しての? どちらにせよ、ばかげたことだ。

ああ、ほんと、これが休日なら、強い酒を飲んで、思考を止めて眠りにつきたいものだ。

ひどいことを書く

さすがに、ひどいことだなぁと、人格が疑われてしまうだろうなぁと思いながら、まぁ、このブログには、誠実になりたいと思う。
(という思いがあるのならば、決して、この場所を、日の当たる場所にもちあげてはならない。現行の他の僕のサイトとリンクさせるとか、そんなこと思ってはならない。アクセスアップのための検索サイトに登録するとか、やってはならない。
 一方で、人に読んでもらいたい、誰かの役に立ちたいという思いもあるはずだ。しかしそれは、この場所であってはならないのだ、とすると、矛盾……ああ、書きたいことと異なるのだけれども、いや、仕方がない、この話は中断)

恋って、もう、していなかったのかもしれないと思った。
先ほどの夢を、「初恋」って表現したけれども、果たして、そんな他者に対して、思考なく、その人とずっと一緒にいたいとか、もっとたくさん知りたいとか、そんなこと、誰か他に思っただろうか。


いや、最近、魂魄に突き刺さることはあった。
最近、5分の時間制限付きで毎日ブログを書き始めた方の記事を読んでいると、とても面白い。時おりリミッターが解除されるけれども、その方から溢れる言葉、文章、表現は、本当にもっとたくさん読みたい、知りたいと心から思える。いつも100%思考がない恍惚とした状態になるかといえばそれは流石にオーバーだけれども、しかし、ただ純粋に「面白い」という瞬間はあるのだ。

もうひと方の、人生の意味について論理的に考えようとされている方のブログも、面白い。面白いなんて、中途半端な表現しかできない点が、まさにあんまり思考的に分析できてなくて、単にもっと読みたいな、人生とか考え方とか教えて頂きたいな、と単純な思いが生じる。



という前提において。ひどいことを書くと、例えば、前の奥さんについても、果たして、恋はしていたのか、という点。

このブログ、離婚を突き付けられた云々と書いていて、あまりこの話題について書かれていない。
自分で、書くことについて面白いと思えない、というか、まぁさすがにあんまりひどいこと書くのもなぁという思いもあったのか。よく分からないが、とにかく、あまり書こうと思わなかった。

けれども、夢を見て、何だか悶々とした感じになり、ああ、これ、きっと明日にはこの感覚なくなるんだろうなぁと思ったとき、取りあえずメモしておかなければと、何故かこの時間に目が覚めたのも、きっとそういうことなのだと、思ったのだ。


いや何をメモしておこうかと思ったというのは、その、「恋」という状態についてだ。
確かに、付き合っていた時、結婚したとき、一緒に暮らし始めたときと、そりゃあ楽しいことも嬉しいことも、気持ちいいこともあれば、むかついたことイラついたこと、不快なこともあった。まぁ男女の関係において、人と人との関係において、別にふつうのことである。

じゃあ、それらは、すべて「純粋な感情」であったのかと、その問いに対しては、きっと僕は、今のこの不思議な感覚の中で答えるならば、否だと。

そして、否、と心が言うのをアウトプットしておいて、ああ、じゃあ、それが間違っていたことなのか、どうなのか、なんて、そんなこと分からないじゃないかとは思う。

思いやりについて

誰かを思いやりなさい
人の迷惑にならないようにしなさい
人にやさしくしなさい

全部、「自然」にできること?

というか、自然ってなんだよ。感情と行動が一致することが自然? じゃあ、いやいやつまらない仕事をするのは自然じゃないと? それは本来の人間あり方からズレていると? 本当に心から楽しいと、やりたいことだけを仕事にするべきと? 嫌なつまらない勉強はしなくてもいい?

バカか。

感情の大切さは、まぁ、それを知ったのは20歳過ぎてからだけれども、でも、感情だけで生きていていいはずがない。ある程度、理性的に生きることが、大切なことだと思う。「ある程度」ってなんだよ、という突っ込みは置いておこう、ここら辺のことも、これまでに何度か書いているはずだ。うん、そう、本気で書いている事実があることが、安心して次の思考に進める、のだけれども、まぁ、この記事だけ読んだ人がいたときに、きっと、「理性大好きマン」的な、カントの道徳律! みたいな人間にも思えるんじゃないだろうか、この辺りが、文章で自分の内面を表現することのリスクと、徒労感である。(まぁいい、それも何度も書いてきている)



心の底から湧き上がる、誰かにやさしくしたいという思いと、理性的に、こうあるべきだと思って行動した結果と、どちらが大事か、なんて、俺はどっちも大事だと思う。
電車で席を譲ると、その行為が、本当にその誰かが大変そうだから座らせてあげたいと思おうが、お年寄りや妊婦さんには席を譲るべきだという信念をもってその行為をしたところで、俺は、どっちの人も、その行為は褒められるべきだし、すごいことだし、偉いと思う。

思いやりに感情なんているか? 言ってしまえばそういうことだ。

恋という状態について

いやぁ、まったく、中学生みたいな小見出しだな。よくこんなこと頭から出てくるもんだ。
という軽口は照れ隠しなのかもしれないが、ええと、だんだん何を書きたいか、夢から覚めて覚醒してくると分からなくなってくるな。

「気持ちが冷めちゃった。もう二度と好きになれない」

と、言われた。でもそれが、今でも、離婚の原因なのかは、よく分からない。恋の成就が結婚? うーん、一緒に生活するってこと、その法的根拠が結婚であって、いやそんなことは大して重要ではないけれども、「好き好き愛してる!」って状態をキープしていないと、結婚生活が送れないというのは、何か違和感だ。
そんなことがなくても、お互い尊敬しあって、一緒に家事とかしたり、助け合って暮らしていくってのがあればいいんじゃないだろうか。……って考え方がもう合わないから一緒にいられない、とでも思ったのかもしれない、まぁそうであれば仕方がないな、むしろ、俺も彼女に対して、「恋」はしていなかったのかもしれない、と。

ということが、まぁひどいことで、こんなこと書いてどうするんだー的なことだ、うん、確かそうだ。

まぁ、書いてしまうと、アウトプットしてしまうと、大したことないのかな、とも思う。まぁ、明日この記事は再読再考だな。消した方がいいという判断になるかもしれん。


でも、同時に、今思うに、ああ、確かに「恋」っていいかもしれんなぁ、とも思った。
いやいや、30代のおっさんが何ゆうとんのw という感じだが、「君の名は」が大ヒットしたのも、そんなみんな、過去に成就しなかった燻った恋の破片欠片が忘れている魂魄に訴えるからなんじゃないだろうか、いや「君の名は」見てないんだけどね。新海さんの作品わりかし好きだったりするから、そんな大ヒットするなら見てみたいなとは思う。

恋、ねぇ。送ったメールが返ってこないとか、今日こんなこと言われたとか。
相手のすべてで頭がいっぱいになると。脳内占有率が殆どを占める状態と。
若い人の勉学への影響が大きいから、男子校とか女子高とかあるのかもしれない。何のこっちゃ。

人間関係と思考について

いやぁ、でもその生き方、つまり、恋なんてせずに、僕がさっき書いたような「人と人」としての在り方とか、そんな、言ってしまえば、「ドライ」な関係しか知らないような、そんな生き方が絶対に正しいのだろうか。
まぁ確かに、僕の場合は、「初恋」が上手くいかなかったせいで、「思考さん」が現れて、「どんなに強く思ったって、現実でうまくいかないことはあるんだよ。それが人の心の難しいところなんだよ」とずっと語りかけ続けるようになって、ああそうか、それって、恋人っていうだけじゃなくて、友人とか、その他すべての人間関係だってそうなんだろうな、と。

だから、コミュニケーションの社会学とか、心理学とかもそうだし、心とは、意識とは、そのうち人間とは、と、色々調べたりするようになったのかもしれない。


ということは、これまでずっと、「ドライ」なことを書いてきたわけだけど、反転して、「恋に恋してる」だけなんじゃないか、と。

こんな、今まで書いたことを全否定するような表現も、すぐさま浮かんでしまうところで、もう、僕が、「思考さん」なくして生きられないのだと、こりゃむしろ呪いなのだと、そんな俺に興味ももてなければ一緒にもいたくないから離婚だと、うん、なるほどねーそりゃ仕方がないわ、うんうん。

だから、むしろ、うん、これもひどいことなんだろうけれども、俺は、先ほど取り上げた5分リミッターの方から、離婚した後に言葉をかけてもらって、そのとき、逆に、そのときは流石にそこまでは思わなかったろうが、「リコンシテヨカッタ」とほど、むしろ、いくら物理的距離が近くても、心が離れ、俺に興味をもってくれない人よりも、よほど俺の記事を面白いと言ってくれた方のほうが、大切で嬉しいと、そんな風に、今は、悪夢から覚めた状況だからかもしれないが、でもそう思うのだ。

負担をかけないようにしなければ

とまぁ、敬服信頼しているけれども、あまり負担をかけてはならないと思う。

「負担」

新しい言葉がでてきた、何だろう。
高校の時から、何でも話せる人がいた。(いや、今も時おり連絡はとれるから、別にいなくなったわけじゃない)
その人には、本当に、率直に自分の気持ちを語れたから、いろんなことをぶつけた。人間に対しての考え方とか。
最初は、その人の、一個年上だったこともあり、その人の考え方とか、言動が面白くて、夜を通して語り明かしたこととかもある。(何のテーマか全く思い出せんが)

けれども、ずーっとそんなことやってるうちに、半年とか、一年とか経ってくると、やっぱりどこか、お互い相容れない部分がでてくる。

「どうして、こんなに尊敬し、自分のことをよく分かってくれる人なのに、どうしてどうしてこのことをは理解してくれないんだ!」

なんて、逆に親しいがゆえに、相容れない、理解してもらえない部分が歯がゆく、不満を高まらせていく。
今思えば当たり前なのだけれども、やっぱり10代においては、「全人格的な承認」的なのを、相手にもとめがちなのだ。

無理さね。全部その人を理解するなんて。すべての行為を認めることなんて。

俺は、無理だと、「実感」した。

だから、恋なんてしてなくても結婚できるし、生活できるし、と思っていたし、そりゃあ今でも思う。




思うけれども、でも、やっぱり、
理想的には、「恋」っていいもんなんじゃないかと。
本当に何でも話せて、すべて理解しあえる友人関係っていいもんなんじゃないかと。

そうは、思う。

ああ、こりゃあ、矛盾である。だから、徹底的に思考を深めていっても、このありえないユートピア、幻想郷に憧れを抱いていては、どこか綻びはじめ、崩壊するのでは、と。この気づき、この感覚、ああ、なるほど、これについて、今日はメモしておかなければと、きっと、そう「思った」のだろう。

うん、この記事は、「解決」の記事などではない。単なるメモだ。しかし、この「恋」というか、「全人格的な承認」への希求という実感レベルの欠片について触れることができたのはよかった。

完全に夢という、偶然の産物だが。


だから、過去の偉人たちのなかで、夢とか、神の啓示によって何か閃いて、というのは、俺は、結構信じている。ただ、別にそれは超常現象などではなくて、色々頭の中で熟成させた結果、ふとシナプスが繋がったということなのだろうとも思うけれど。脳の神経細胞は150億個だけれど、1000億個もの情報を各神経細胞につたえる神経線維が脳の中にはあるのだという。それらが、ニューロンネットワークとして、同時にマトリクス的に情報を瞬時に伝え、フィードバックすることで、「思考」という状態がうまれるのだという。今日音読した本に書いてあった。


ああ、負担の話しだった、そうだから、5分のリミッターなんて解除して、毎日ブログ更新してもらいたいなとか、そんなことを思ってはよくないということだ。
いや、思うのは僕の自由なのだけれども、それをあまり前面に出してはよくないと。

継続は力なり

続ける、ということが、大事だと思う。だから、日課を再開しようと思ったわけでもあるけれど、1000字の文章を一日で書くよりも、1日200字ずつ5日間で書いた方が、思考への働き掛けも、記憶の定着も、そして読者へ対してもよいと思う。
すげー面白い記事書いてるブログとかでも、半年にいっぺんのペースでしか更新されないようなものだったら、そのうち存在すら忘れてしまいそうだ。

ああ、2時半か。何だか、悩みながら、時おり止まって、ゆっくり書いていたから、あまり文量ないけど、もう1時間たったのだな。

これから、再度寝るか、朝まで起きてるか、まぁ、少し頭を休めてから考えるとしよう。


しかし、最近、なんか夢をみることが多いな。レム睡眠か。ノンレム睡眠がとれてない気がする。
うーん……しかし、「恋」かぁ……。これは結構重たい問題だ。自分では気づかなかったけれども、敢えて避けてきた問題な気がする。

ちなみに、問題と課題の違いは、問題はただ厳然と存在し、課題は、問題を解決するために必ずやらなきゃいけないものだ。
故に、これはまだ、「問題」に過ぎない。問題を解くかどうかは、まだ検討の余地があるだろう。しかし、とにかく、徹底的に自己の棚卸をする。表現をする。もう、キモチワルイとか、そんなこと分かってるんだから、徹底的に。ただ、唯一、犯罪に手を染めるとかそんな反社会的には原理的に絶対ならないから安心して欲しいということは、先日書こうとして消えた中にもあったけれども、ただこれって、「大丈夫、終電まで帰すから☆」「カラダ目当てなんかじゃないぜ!」とか言うイケメンたちの反転ロジックみたいだから、うん、やっぱり消えてよかった気もする。

そうなんだよな。だから、いくら精緻に書いたとしても、それって、本当に「内面」なの? 「感情」なの? という問いには、絶対に答えられないのだ。この絶対にというのは、本当に絶対、原理的に無理。クオリア問題も解決などできない。いやいや他者に感情が「無い」など、そんなことを信じるわけではないが、厳密な共通感覚を測るすべはないのだ。



とかく、この記事は、メモであって、自分で読み返したときに価値があるだろう。
今はまだ、毒になるか、薬になるか分からない。

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行動のための第三歩
2016/10/18 07:46 | Comments(0) | イライラ対処
昨日は、帰宅後の気の抜けた、やる気の起きない、脱力した状態を克服し、筋トレと音読を実行できた。
時間としては10分未満、いや5分未満な気がするが、その行動を取るために、、行動の一歩記事から二歩記事まで、一時間以上かけている。

5分のために一時間だ。
割にあっていない、これだけなら。

ただ、12日続けることができれば、イーブンにできる。それでもイーブンだ。せめて30日ぐらいは続けなければ。


そういえば、昔、自己成長改善ブログというタイトルのブログをやっていたこともあった。
日々、こういうことしました、勉強は何時間しました、とか。
もう消してしまったが、読み返しても何ら面白くないだろう。

その、瞬間的な記録になんら意味はない。点だ。点が線になり、面になり、と、抽象はどうでもいいが、とかく、頭に、思考に、価値観に、信念に、習慣に、行動にインプットすることが大事。
もう少し書くと、ブログは、結果だけを書いても面白くない。結果とは、どこそこにいったとか、腹筋を20回したとか。
それをどう感じたか、何故そうしようと思ったか、結果を受けてどう思ったか。その、プロセス、過程が大事だ。


一方、仕事は、効率能率結果。
まぁ、面白くない原因のひとつだ。

といいつつ、裁量を広げると、さぼり始める人が増えるから、まぁ仕方がないんだよな、と、そのあたりをどうこうするつもりもない、ただの対比。


音読



筋トレはようわからんが、音読はやっぱりいい。頭が活性化する気がする。気なんだけど。

朝もなんだか声を出して読んでみた。

おお、なんと、朝起きてすぐは声が全くでないものだ。

かすれ、しわがれ。 
でも、読んでいくうちに、眠気がさめていく感じがした。
朝の音読はよさそうだ。

とか、この小節に、これまた意味は小さい。
この感覚のメモは所詮、単に二回行えた結果に過ぎない。これが、計画を立てることの重さと、習慣に組み込もうとする重さだ。

もう少しいまの感覚をメモすると、未来の自分が、全然信じられていないということだ。
また、、飲み会とか残業とか、何か突発的な事象によって、潰えてしまうのではないかと。

そして、復帰については、半年とか一年とか、多大な時間をようすのだと。


朝の眠気



だから、、いま、メモすべきは、朝、本とに眠かったということだ。

24時過ぎになった。ガンスリンガーガールの何巻かを流し読みしてしまった。
目覚ましは6時15分。

スヌーズで35分ぐらいまで布団内で格闘した。

必死に、朝活動するって、昨日約束したじゃない!!

と呼び掛けたのだが、体は、頭は反応しなかった。

眠りをとりたいという、その欲求、布団にみをまかせることで得られる心地よさ。快楽。

そう快楽に負けてしまいそうになるのだ。あの誘惑は、女の子が目の前で裸になるよりも強いものだ。

眠いこと



睡眠欲。

これは、いかんともしがたい。 
憎しみとか怒りとかのコントロールはある程度できるが、
こいつのコントロールはかなり厳しい。 

多くの計画などの頓挫は、破壊は、壊滅は、、この睡魔という魔物のためだ問いって過言でない。


でも、そんな、寝るってことが幸せなら、それこそ、命を終わりにした方が、それ、最高の快楽じゃないか、なんて考えも浮かんだところで、眠すぎて今回は終わり。












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行動のための第二歩
2016/10/17 20:00 | Comments(0) | イライラ対処
俺、頑張ってますよ、とか、自慢話など面白くないだろう。何かの記事で、好きなことをやってお金を稼いで人生充実して楽しんでいる人は、敵も多くなり、嫌われやすいと読んだ。

そういうネガティブな面もあるのだ、ポジティブな人とだけ付き合いましょうとか、そんなこといってると、どこか足をひっぱられることもある。

先日の、0.9の人間とは、どんな奴だろうか。
他人の幸せが羨ましいとか、よくわからん。
いや、法界悋気にむしろ俺は陥っていたのでは? いや違う、他人を妬むより、まず自分を卑下する方が先だった。

何か生じて、それを人の性には思えなかった。
誰かのせいにできたら楽かもしれない、ただ、良いことも悪いことも、直接的であれ間接的であれ、それは、自分が関与し引き起こしたことなのだと。

身に覚えがない濡れ衣や、単にタイミングが悪くて怒られるとかもあるが、まず、自分の立ち回りかたを罵った。そして、ルックスがよくないからだ、説明がよくないからだ、声がよくないからだ、話し方がよくないからだ……


何でもかんでも、自分で引き受けてしまうというのが、俺の悪いところだろう。

誰かを頼ってよかったのだ。誰かのせいにしてよかったのだ。
自分を認めてもよかったのだ。



前置きはこのくらい



さて、基礎体力作りのために、日課を今日から実践しようと。

こんな記事は全然面白くなかろう。
日々、仕事に、プライベートに充実してますよ、とか、そんなのフェイスブックでやっとけってもんだ。

だから、しばらく、blogをやめようか。
規律表とか、他のエクセルで行動管理しようか。

何かをするには、何かを捨てなければならない、と。


これまでとは違う方法に



まずそもそも、帰りが遅くなると、日課なんてできない。
根本的に、仕事の働きかたを変えるか。しかし、突発的な仕事が多く、先が見通せない。早く帰る日をつくるのはできても、それがいつにできるかは分からない。でもこれは、アルバイトじゃないんだから仕方がない。

では考え方を変えて、朝やるしかない。

朝なら、起きれさえすれば、時間の確保はできる。

ルーチンが途切れるとき



そのとき、いつも問題になるのは、飲み会とか、深夜までの残業だ。

帰宅が24時過ぎたとき、例えば26時とかなって、朝6時に起きて音読筋トレがんばろー、とか、無理ゲーである。


こういう無理を許容しない計画をたててしまいがちだ。
高校生のとき、徹夜で勉強して、みたいな計画を立てたことがある人もいるのではないか。テストというピンポイントな目標にたいしては有効な場面があるだろうが、今回は、日課として、ルーチン化しようという試みなのだから、それはダメだ。

むしろ、不可能なことを想定し、その、自分の感情も含めた、不可能性許容する計画がうまい計画だ。


ありふれた記事



こんなことだけ書いてあると、僕がGoogleとかで検索し、みつかる、日々を充実させるには、的な記事と同じにしか思えない。

ただ、過去の記事まで含めると、ここで書いてることの意味が、単純なそれとは異なることに気づく。気づくよね、未来の俺は?

今のこの、重苦しい自分の気分が、たぶん表現してないからできていないだろう。

音読
筋トレストレッチ


この言葉が、自分のなかにしっくりこず、このあと、何十年も先にまで繋がるルーチン化しようという試み。

これへの、意味を問い、価値の問い、その懐疑の中で、成功できるかも分からないこの今の状況……

すなわち、例えこれから家に帰って日課をできたとしても、それは目標の達成などではなく、単に一日を乗りきっただけである。

この、一日をただ乗りきるだけの無為な作業を、これから、飲み会とか突発的な事象のなか、いいわけをせずに、ずっと続けていかねばならないのである。



計画をたてるのは重いこと



計画を立てることが、一番重いことだと捉えている。
実行は、その附帯作業だ、ぐらいに。

計画の失敗は、実行の失敗ではない。
計画そのものの、失敗なのだ。

実行できないことがその直接原因だが、実行できない計画をたてたことが失敗なのだ。


PDCAサイクル?

バカが。

チェックして変更を許容することが前提の計画なんて、そもそも実効性に揺らぎが生じるだけだ。
(厳密には、別に計画変更することが前提になっているのではなかろうが)

僕がたてようとしているのは、日々の成長のための方策などではない。
企業の成長モデルとからそんなもんじゃない。


完成形のイメージである。

最終目標、最終目的である。 

生きる意味。人生の価値。私とは何者か。一生涯で成し遂げること。



こんなこと書いてると、意識高い系のようだ。
しかし、同時に凡人宣言をしている。

凡人として生きることと、ストイックな生き方。 
矛盾している。

今回の記事は本当におかしなことになっている。

ただ、このブレ、このかいり、ずれ、違和感がありつつも、今回の記事もまた誠実だ。


今回のこの面白くない記事、これを、いかに認め、そして、これまでの記事との関連をはかるのか。

ああ、
本当に




えらいひと




苦しんだ人が偉いのか?

考えた人が偉いのか?



誰がすごいとか

誰が役に立つとか


何が正しいかとか
 


そんな一般論など、いらん。


とか、こういう記事、まさに、まさに、気持ち悪いという感じなのだろう。
今日、仕事中、帰ったら日課しなきゃなと、思ったとき、僕は勉強ができないという小説の、サブキャラが、女の子と付き合ったとき、女の子が生理痛で苦しんでいたのに、知的な、哲学的な会話をしていたのだと。青いかおをした女の子に気づくそぶりもなく気持ちよく話していたのだと。


このこともまさに事実のひとつ。

つまり、行動によって、人は評価されるのだと。
口だけの野郎に誰も従わないのだと。

後ろでこそこそ人を使って謀略するやつより、前線にたって戦う奴の方がかっこいい。

知的な答えをもつ人よりも、女の子の気分の悪いのを気づいてやれる方がかっこいい。





この、すべての事実に、ある意味喧嘩をうろうというのだ。

これがクソ凡人のあり方だと、まったなしに、批判も嫌悪も受け入れて、ただ目的を果たすことに邁進せよ、というわけだ。 


なんだか大変そうだ。
そんなことより、もっと単純に明るく楽しくなるように頑張った方がいいんじゃない?
どうせ大変なら、一般論的に頑張れば?




行動の第二歩



ああ、しかし、それもいいのかもしれないが、それこそ、いやむしろ、それがもう憧れないし、それをするための方法も分からない。

分からないという意味では、いま僕が目指そうとしている、目的追求的な生き方もまた分からないけれどもしかし、それでも、



















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