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行動のための第四歩(恋について)
2016/10/19 01:20 | Comments(0) | 思考及び書くこと
習慣化するために有効なのは、記憶術の考え方の応用だ。
エビングハウスの忘却曲線。初めは手厚く復習して、徐々に復習の間隔を伸ばしていくと長期記憶になりやすい。

行動のための第一歩、二歩、三歩ときて、これでもかってくらい、同じ内容の記事だ。

音読と筋トレストレッチをしよう、と。
ただ、それだけの内容だ。
しかし、この、繰り返し、初めのうちが非常に重要である。

実質二日目

昨日とは違う今日。当たり前だ。二度と、同じ日はこない。しかし、毎日が同じ繰り返しだと感じる人も少なくないのでは。

しかし、僕にとって、今日はまた完全に新しい日だ、何故ならば、音読筋トレストレッチの、二日目だからだ。

今日、これから家にかえって、やる気が起きずに、ぼーっとパソコンつけてサーフィンして、気づいたら24時すぎで、ああ、もう今日はいっか。また明日から頑張ろう。

みたいな、ダメ人間の典型になる可能性が残っている。おそろしい。

まだ、帰るまで、自分の気持ちは分からない。
知り合いから電話がくるかもしれない。
家ノ前が暴走族の集会所になっているかもしれない。

当たり前度合い


人間は、記憶である、とこの前書いたが、もうひとつ、当たり前度合いもまた、人間の尺度である。


例えば、家に帰って、ちゃんと日課がこなせるか不安な一方、家が、紛争により破壊されているとか、空き巣にはいられたりとか、そんなことは不安に思っていない。

被害妄想だ、が、そういう次元でなく、常に誰からも賞賛されてないと気がすまない人とか、家のなかでは裸で過ごすのが当たり前の人もいる。


この当たり前の度合いが、その人の人間性である。

人は中々変われないというのは、この次元の話だ。当たり前だ、だって、その人にとっての当たり前なのだから、変えるなんてとんでもない話なのだ。
それを捨てるなんてとんでもない。
 
そんな、当たり前の度合いが違う人同士が一緒に暮らすのが、同居というわけだが、まぁ、難しいのは想像に難くない。

そして5時間後

帰りの電車の中で書いて、家に帰り、日課を行うことができた。めでたしめでたし、で、気づいたら寝ていて、現在1:20。一体何が起きた。本棚の隅に、小さなクモが巣をはって領空権を主張しているし。

夢を見た。
初恋の人と、一緒に宿題やったり、話したり、一緒に帰ったり。

何だか、その人の一挙一動、表情の変化、言葉、そのすべてが可愛らしくて、気持ちが昂り、緊張させた。

そこに、思考はなかった。
ただ、その人のことを思って、ドキドキする状態。(ドキドキって、何だよ、表現しろよ。いやできない、当時は言葉をもっていなかった、むしろ、言葉でない状態だったのだ)


夢は、最近で、唯一、言葉を、思考を与えず、感覚のみの世界に僕をいざなうのかもしれない。
ぶっちゃけ、夢の内容は微笑ましく、楽しく、嬉しいものでありながら、今、目覚めてみると、非常に不快でしかない。これが法界悋気(自分に関係ないことでねたむこと。人の恋路をうらやむこと)か!
自分に関係ない人の恋路、とは、そんなことなくて、過去の自分に対しての? 夢の自分に対しての? どちらにせよ、ばかげたことだ。

ああ、ほんと、これが休日なら、強い酒を飲んで、思考を止めて眠りにつきたいものだ。

ひどいことを書く

さすがに、ひどいことだなぁと、人格が疑われてしまうだろうなぁと思いながら、まぁ、このブログには、誠実になりたいと思う。
(という思いがあるのならば、決して、この場所を、日の当たる場所にもちあげてはならない。現行の他の僕のサイトとリンクさせるとか、そんなこと思ってはならない。アクセスアップのための検索サイトに登録するとか、やってはならない。
 一方で、人に読んでもらいたい、誰かの役に立ちたいという思いもあるはずだ。しかしそれは、この場所であってはならないのだ、とすると、矛盾……ああ、書きたいことと異なるのだけれども、いや、仕方がない、この話は中断)

恋って、もう、していなかったのかもしれないと思った。
先ほどの夢を、「初恋」って表現したけれども、果たして、そんな他者に対して、思考なく、その人とずっと一緒にいたいとか、もっとたくさん知りたいとか、そんなこと、誰か他に思っただろうか。


いや、最近、魂魄に突き刺さることはあった。
最近、5分の時間制限付きで毎日ブログを書き始めた方の記事を読んでいると、とても面白い。時おりリミッターが解除されるけれども、その方から溢れる言葉、文章、表現は、本当にもっとたくさん読みたい、知りたいと心から思える。いつも100%思考がない恍惚とした状態になるかといえばそれは流石にオーバーだけれども、しかし、ただ純粋に「面白い」という瞬間はあるのだ。

もうひと方の、人生の意味について論理的に考えようとされている方のブログも、面白い。面白いなんて、中途半端な表現しかできない点が、まさにあんまり思考的に分析できてなくて、単にもっと読みたいな、人生とか考え方とか教えて頂きたいな、と単純な思いが生じる。



という前提において。ひどいことを書くと、例えば、前の奥さんについても、果たして、恋はしていたのか、という点。

このブログ、離婚を突き付けられた云々と書いていて、あまりこの話題について書かれていない。
自分で、書くことについて面白いと思えない、というか、まぁさすがにあんまりひどいこと書くのもなぁという思いもあったのか。よく分からないが、とにかく、あまり書こうと思わなかった。

けれども、夢を見て、何だか悶々とした感じになり、ああ、これ、きっと明日にはこの感覚なくなるんだろうなぁと思ったとき、取りあえずメモしておかなければと、何故かこの時間に目が覚めたのも、きっとそういうことなのだと、思ったのだ。


いや何をメモしておこうかと思ったというのは、その、「恋」という状態についてだ。
確かに、付き合っていた時、結婚したとき、一緒に暮らし始めたときと、そりゃあ楽しいことも嬉しいことも、気持ちいいこともあれば、むかついたことイラついたこと、不快なこともあった。まぁ男女の関係において、人と人との関係において、別にふつうのことである。

じゃあ、それらは、すべて「純粋な感情」であったのかと、その問いに対しては、きっと僕は、今のこの不思議な感覚の中で答えるならば、否だと。

そして、否、と心が言うのをアウトプットしておいて、ああ、じゃあ、それが間違っていたことなのか、どうなのか、なんて、そんなこと分からないじゃないかとは思う。

思いやりについて

誰かを思いやりなさい
人の迷惑にならないようにしなさい
人にやさしくしなさい

全部、「自然」にできること?

というか、自然ってなんだよ。感情と行動が一致することが自然? じゃあ、いやいやつまらない仕事をするのは自然じゃないと? それは本来の人間あり方からズレていると? 本当に心から楽しいと、やりたいことだけを仕事にするべきと? 嫌なつまらない勉強はしなくてもいい?

バカか。

感情の大切さは、まぁ、それを知ったのは20歳過ぎてからだけれども、でも、感情だけで生きていていいはずがない。ある程度、理性的に生きることが、大切なことだと思う。「ある程度」ってなんだよ、という突っ込みは置いておこう、ここら辺のことも、これまでに何度か書いているはずだ。うん、そう、本気で書いている事実があることが、安心して次の思考に進める、のだけれども、まぁ、この記事だけ読んだ人がいたときに、きっと、「理性大好きマン」的な、カントの道徳律! みたいな人間にも思えるんじゃないだろうか、この辺りが、文章で自分の内面を表現することのリスクと、徒労感である。(まぁいい、それも何度も書いてきている)



心の底から湧き上がる、誰かにやさしくしたいという思いと、理性的に、こうあるべきだと思って行動した結果と、どちらが大事か、なんて、俺はどっちも大事だと思う。
電車で席を譲ると、その行為が、本当にその誰かが大変そうだから座らせてあげたいと思おうが、お年寄りや妊婦さんには席を譲るべきだという信念をもってその行為をしたところで、俺は、どっちの人も、その行為は褒められるべきだし、すごいことだし、偉いと思う。

思いやりに感情なんているか? 言ってしまえばそういうことだ。

恋という状態について

いやぁ、まったく、中学生みたいな小見出しだな。よくこんなこと頭から出てくるもんだ。
という軽口は照れ隠しなのかもしれないが、ええと、だんだん何を書きたいか、夢から覚めて覚醒してくると分からなくなってくるな。

「気持ちが冷めちゃった。もう二度と好きになれない」

と、言われた。でもそれが、今でも、離婚の原因なのかは、よく分からない。恋の成就が結婚? うーん、一緒に生活するってこと、その法的根拠が結婚であって、いやそんなことは大して重要ではないけれども、「好き好き愛してる!」って状態をキープしていないと、結婚生活が送れないというのは、何か違和感だ。
そんなことがなくても、お互い尊敬しあって、一緒に家事とかしたり、助け合って暮らしていくってのがあればいいんじゃないだろうか。……って考え方がもう合わないから一緒にいられない、とでも思ったのかもしれない、まぁそうであれば仕方がないな、むしろ、俺も彼女に対して、「恋」はしていなかったのかもしれない、と。

ということが、まぁひどいことで、こんなこと書いてどうするんだー的なことだ、うん、確かそうだ。

まぁ、書いてしまうと、アウトプットしてしまうと、大したことないのかな、とも思う。まぁ、明日この記事は再読再考だな。消した方がいいという判断になるかもしれん。


でも、同時に、今思うに、ああ、確かに「恋」っていいかもしれんなぁ、とも思った。
いやいや、30代のおっさんが何ゆうとんのw という感じだが、「君の名は」が大ヒットしたのも、そんなみんな、過去に成就しなかった燻った恋の破片欠片が忘れている魂魄に訴えるからなんじゃないだろうか、いや「君の名は」見てないんだけどね。新海さんの作品わりかし好きだったりするから、そんな大ヒットするなら見てみたいなとは思う。

恋、ねぇ。送ったメールが返ってこないとか、今日こんなこと言われたとか。
相手のすべてで頭がいっぱいになると。脳内占有率が殆どを占める状態と。
若い人の勉学への影響が大きいから、男子校とか女子高とかあるのかもしれない。何のこっちゃ。

人間関係と思考について

いやぁ、でもその生き方、つまり、恋なんてせずに、僕がさっき書いたような「人と人」としての在り方とか、そんな、言ってしまえば、「ドライ」な関係しか知らないような、そんな生き方が絶対に正しいのだろうか。
まぁ確かに、僕の場合は、「初恋」が上手くいかなかったせいで、「思考さん」が現れて、「どんなに強く思ったって、現実でうまくいかないことはあるんだよ。それが人の心の難しいところなんだよ」とずっと語りかけ続けるようになって、ああそうか、それって、恋人っていうだけじゃなくて、友人とか、その他すべての人間関係だってそうなんだろうな、と。

だから、コミュニケーションの社会学とか、心理学とかもそうだし、心とは、意識とは、そのうち人間とは、と、色々調べたりするようになったのかもしれない。


ということは、これまでずっと、「ドライ」なことを書いてきたわけだけど、反転して、「恋に恋してる」だけなんじゃないか、と。

こんな、今まで書いたことを全否定するような表現も、すぐさま浮かんでしまうところで、もう、僕が、「思考さん」なくして生きられないのだと、こりゃむしろ呪いなのだと、そんな俺に興味ももてなければ一緒にもいたくないから離婚だと、うん、なるほどねーそりゃ仕方がないわ、うんうん。

だから、むしろ、うん、これもひどいことなんだろうけれども、俺は、先ほど取り上げた5分リミッターの方から、離婚した後に言葉をかけてもらって、そのとき、逆に、そのときは流石にそこまでは思わなかったろうが、「リコンシテヨカッタ」とほど、むしろ、いくら物理的距離が近くても、心が離れ、俺に興味をもってくれない人よりも、よほど俺の記事を面白いと言ってくれた方のほうが、大切で嬉しいと、そんな風に、今は、悪夢から覚めた状況だからかもしれないが、でもそう思うのだ。

負担をかけないようにしなければ

とまぁ、敬服信頼しているけれども、あまり負担をかけてはならないと思う。

「負担」

新しい言葉がでてきた、何だろう。
高校の時から、何でも話せる人がいた。(いや、今も時おり連絡はとれるから、別にいなくなったわけじゃない)
その人には、本当に、率直に自分の気持ちを語れたから、いろんなことをぶつけた。人間に対しての考え方とか。
最初は、その人の、一個年上だったこともあり、その人の考え方とか、言動が面白くて、夜を通して語り明かしたこととかもある。(何のテーマか全く思い出せんが)

けれども、ずーっとそんなことやってるうちに、半年とか、一年とか経ってくると、やっぱりどこか、お互い相容れない部分がでてくる。

「どうして、こんなに尊敬し、自分のことをよく分かってくれる人なのに、どうしてどうしてこのことをは理解してくれないんだ!」

なんて、逆に親しいがゆえに、相容れない、理解してもらえない部分が歯がゆく、不満を高まらせていく。
今思えば当たり前なのだけれども、やっぱり10代においては、「全人格的な承認」的なのを、相手にもとめがちなのだ。

無理さね。全部その人を理解するなんて。すべての行為を認めることなんて。

俺は、無理だと、「実感」した。

だから、恋なんてしてなくても結婚できるし、生活できるし、と思っていたし、そりゃあ今でも思う。




思うけれども、でも、やっぱり、
理想的には、「恋」っていいもんなんじゃないかと。
本当に何でも話せて、すべて理解しあえる友人関係っていいもんなんじゃないかと。

そうは、思う。

ああ、こりゃあ、矛盾である。だから、徹底的に思考を深めていっても、このありえないユートピア、幻想郷に憧れを抱いていては、どこか綻びはじめ、崩壊するのでは、と。この気づき、この感覚、ああ、なるほど、これについて、今日はメモしておかなければと、きっと、そう「思った」のだろう。

うん、この記事は、「解決」の記事などではない。単なるメモだ。しかし、この「恋」というか、「全人格的な承認」への希求という実感レベルの欠片について触れることができたのはよかった。

完全に夢という、偶然の産物だが。


だから、過去の偉人たちのなかで、夢とか、神の啓示によって何か閃いて、というのは、俺は、結構信じている。ただ、別にそれは超常現象などではなくて、色々頭の中で熟成させた結果、ふとシナプスが繋がったということなのだろうとも思うけれど。脳の神経細胞は150億個だけれど、1000億個もの情報を各神経細胞につたえる神経線維が脳の中にはあるのだという。それらが、ニューロンネットワークとして、同時にマトリクス的に情報を瞬時に伝え、フィードバックすることで、「思考」という状態がうまれるのだという。今日音読した本に書いてあった。


ああ、負担の話しだった、そうだから、5分のリミッターなんて解除して、毎日ブログ更新してもらいたいなとか、そんなことを思ってはよくないということだ。
いや、思うのは僕の自由なのだけれども、それをあまり前面に出してはよくないと。

継続は力なり

続ける、ということが、大事だと思う。だから、日課を再開しようと思ったわけでもあるけれど、1000字の文章を一日で書くよりも、1日200字ずつ5日間で書いた方が、思考への働き掛けも、記憶の定着も、そして読者へ対してもよいと思う。
すげー面白い記事書いてるブログとかでも、半年にいっぺんのペースでしか更新されないようなものだったら、そのうち存在すら忘れてしまいそうだ。

ああ、2時半か。何だか、悩みながら、時おり止まって、ゆっくり書いていたから、あまり文量ないけど、もう1時間たったのだな。

これから、再度寝るか、朝まで起きてるか、まぁ、少し頭を休めてから考えるとしよう。


しかし、最近、なんか夢をみることが多いな。レム睡眠か。ノンレム睡眠がとれてない気がする。
うーん……しかし、「恋」かぁ……。これは結構重たい問題だ。自分では気づかなかったけれども、敢えて避けてきた問題な気がする。

ちなみに、問題と課題の違いは、問題はただ厳然と存在し、課題は、問題を解決するために必ずやらなきゃいけないものだ。
故に、これはまだ、「問題」に過ぎない。問題を解くかどうかは、まだ検討の余地があるだろう。しかし、とにかく、徹底的に自己の棚卸をする。表現をする。もう、キモチワルイとか、そんなこと分かってるんだから、徹底的に。ただ、唯一、犯罪に手を染めるとかそんな反社会的には原理的に絶対ならないから安心して欲しいということは、先日書こうとして消えた中にもあったけれども、ただこれって、「大丈夫、終電まで帰すから☆」「カラダ目当てなんかじゃないぜ!」とか言うイケメンたちの反転ロジックみたいだから、うん、やっぱり消えてよかった気もする。

そうなんだよな。だから、いくら精緻に書いたとしても、それって、本当に「内面」なの? 「感情」なの? という問いには、絶対に答えられないのだ。この絶対にというのは、本当に絶対、原理的に無理。クオリア問題も解決などできない。いやいや他者に感情が「無い」など、そんなことを信じるわけではないが、厳密な共通感覚を測るすべはないのだ。



とかく、この記事は、メモであって、自分で読み返したときに価値があるだろう。
今はまだ、毒になるか、薬になるか分からない。

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