サピエンス全史まだ紀元前から進んでいない。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。
250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。
しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。
人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。
サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。
しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。
虚構の言語とは何か。
それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。
この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。
とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。
「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?
果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)
神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。
それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!
そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。
とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)
もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。
これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。
法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。
もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。
その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。
まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。
つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。
無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。
そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。
それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。
言語は人だけのものにあらず
言われてみれば当たり前だと思いつつも、明確に文章になっていると改めて感心する。250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。
しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。
人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。
サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。
しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。
認知革命
虚構の言語を用いることができるようになった時期、7万年ごろを認知革命というらしい。虚構の言語とは何か。
それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。
この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。
想像が何の意味があるのか
「ちょっと、森にユニコーン探してきますわw」とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。
「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?
果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)
神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。
それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!
そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。
とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)
150人を超える集団の統率
その噂話で維持できる集団の限界が、150人程度だという。では、サピエンスはどのようにして、巨大な集団の維持を可能にしたのか。もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。
これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。
法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。
まとめ
宗教や、ナショナリズムだとか、神話や、資本主義、法律といった様々な高度な文化。もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。
その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。
まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。
追記というか蛇足というか
ところで、ある方からコメントを頂いた。自分が尊敬している人から褒められるというのは、何だかあまり無い経験なので、何だかとても嬉しい気持ちになった。どんだけ褒められる体験が少ないんだ、ということでもあるが、親や教師や上司や同僚や友人や恋人やその他大勢の人がいても、何だか、その「役割」的な部分における行為が褒められても(いやもちろん、それはそれで嬉しいし、やりがいになるし、生きがいになることなのだが)、どこか「できて当たり前」的な感覚が生じ、「嬉しい」という感情の抑圧に繋がっているように思えてならない。つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。
無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。
そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。
それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。
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「サピエンス全史」という本が面白いという噂を聞いたため、上下巻まとめて購入した。
以前まとめた、人類勃興期の流れは以下の表。
上の表が、いわゆる歴史教科書的な年代に基づいて作っているが、サピエンス全史では、大きく異なっていたため、既存の知識との整合性が取れず、かなり戸惑った。何だか良さげな本ではあるので、最初は少しじっくりと行こうと思う。


上の本からの記憶だけれど、この「サピエンス全史」では、135億年前がビックバンとされている。
まぁ、この辺りの、年代の差異は、重要なものではないのだろう。目くじらを立てる必要はない。ただ、自分の頭の整理としては、統一する必要がある。取りあえず、137億年という記憶を優先しよう。
次に、地球という惑星の形成、についてだが、これも
サピエンス全史:45億年前
137億年の物語:46億年前
ということでズレがある。ウィキみてみると、「45億4000万年前(±5000万年) - 地球誕生。」とある。ので、やっぱりまぁどっちでもいいってことだろう。ただ、一般的には46億年というのがよく聞くことだ。敢えて、サピエンス全史で45億年としている理由は何かあるのだろうか?
ちなみに、137億年の物語は、ものすごく大きな本だった。広げると巻物のように横に広がり巨大な絵巻図みたいになる。買って届くまで知らなかったので吃驚した。
で、500万年前と書いているが、どうやら、他のサイトとかも調べてみても、600万年前という記載が多い。
高校とかでは、400万年前、猿人、アウストラロピテクス、ルーシー、ぐらいな単語記憶があれば点数取れていたけれども、ここは、600万年前という記憶に上書き更新した方がよさそうだ。
でもって、そもそも、猿人という分類は、日本だけで通用するようなものらしい。サピエンス全史の中でも、一切猿人といった言葉は出てこなかった。
「250万年前:アフリカで、ホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器」
とある。
ん? 打製石器使い始めて、火を使い始めて、言語使用し始めたのって、原人の200万年前ごろじゃないか? 250万年前というキーワードなんて初めて聞いたぞ?
とここで混乱した。
だが、恐らく、原人≒ホモ・エレクトスであり、この250万年前の人の進化とは、原人の出現のことを指しているのだと思われる。
50万年前:ネアンデルタール人が、ヨーロッパと中東で進化する。
とある。ネアンデルタール人とは、「旧人」のことで、脳の容量は現代人より多くて、埋葬の習慣があり、20万年前ぐらいじゃなかったのか、とここでも混乱。
そして、3万年前に、ネアンデルタール人が絶滅したのだという。
50万年前~3万年前がネアンデルタール人で、20万年前ぐらいが全盛期だった、ぐらいな記憶でいようと思う。
ただ、インプットは、本を読み進めていくにあたっても、非常に重要だ。ここがあいまいなまま読んでいくと、読んでいるうちは、ああ、なるほどなるほど、へーそうなんだ、と思っても、いざ読み終わってみると、その前後関係とか因果関係がよく分からなくなっていることが、(僕は)多い。
とはいえ、この年代、即ち、ネアンデルタール人=20万年前というのが危険なのは言うまでもない。
というのは、そもそも、20万年前に突然進化して、突然絶滅した、なんてことはあり得ないからだ。ここが、狭義の「歴史」ではない部分、考古学の部分であることを、十分に理解する必要がある。
今回、まだ、50ページほどしか読めていないかが、今の時点で勉強になったのは、人類の進化が、一直線ではない、ということである。
現生人類(新人……といった呼び方はされない。サピエンス全史では、通じて「ホモ・サピエンス」と呼称される)は、1万3千年前までは、他の「種」と、同じ時代を生きていたのである。
「種(しゅ)」というのは、あれだ、ええと、僕の理解した言葉で表現すれば、繁殖可能な生物の種類(集まり)のことだ。
生殖は、例えば、馬とロバで、「ラバ」という雑種が生まれるし、ライオンとヒョウとで「レオポン」という雑種が生まれる。しかし、その雑種は、繁殖能力を持たない(子孫を残せない)ため、「同じ種ではない」とされるということだ。
ネアンデルタール人と、サピエンスは、同じ種ではないのだという。
ネアンデルタール人以外にも、フローレス島に、フローレス人という、ヒト属に分類される種(しゅ)は他にも沢山いた。
それが、1万3年前までに、サピエンス以外みんな絶滅してしまったのだという。
※補足
フローレス人は、身長1m程度の小人だったという。ホビット族か! と思ってウィキをみていたら、どうやら、最初は1万3千年前までの化石がみつかっていたというが、実は5万年前ぐらいだったというのが最近の説だという。
ということは、実際は、サピエンスオンリーになったのは、5万年前ぐらいかもしれない。となると、新人=4万年前、という、僕が作った年表の記憶でよいかもしれない。
難しいところだ。
とにかく、この年代というのは、今も研究が進んでいるところで、1万年~5万年程度の誤差というか、説が覆ることは珍しくないのだろう。そもそも、猿人=400万年前と覚えさせられていた時代から、600万年前と記憶を変更しなければならなくなったわけだし。
歴史年表の年代暗記がくだらないと思ってしまうのは仕方がない。200万年だぞ。鎌倉幕府がイイクニつくろう1192年が、イイハコつくろう1185年になろうが、どうでもいいレベルだろう。
歴史の勉強で重要なのは、ソコじゃない、ということだ。
・ホモ・サピエンス以外にも種は、1万年前~5万年前には存在していたが、絶滅した。
・しかし、サピエンスにも、ネアンデルタール人とか、その他の種のDNAが混在している
・このことは、サピエンスがその他の種とまじりあった可能性を示唆する。我々は純粋な血統ではない可能性があるのだ。


取りあえずこんなところの、記憶の更新ができた。しかし、真髄というか、本当に面白くなってくるのはここからだろう。
気になるのは、
7万年前の「認知革命」「虚構の言語の出現」というキーワード。
200万年前、この本でいくと、250万年前の原人というか、ホモ・エレクトスというか、それぐらいから、「言語」自体は使われていたと記憶しているが、7万年前の「虚構の言語」とは何を示しているのか。
今の僕の知識では全く分からない。気になる。面白そう。ワクワク。
以前まとめた、人類勃興期の流れは以下の表。
上の表が、いわゆる歴史教科書的な年代に基づいて作っているが、サピエンス全史では、大きく異なっていたため、既存の知識との整合性が取れず、かなり戸惑った。何だか良さげな本ではあるので、最初は少しじっくりと行こうと思う。
歴史年代整理
まず宇宙開闢については、137億年という記憶である。上の本からの記憶だけれど、この「サピエンス全史」では、135億年前がビックバンとされている。
まぁ、この辺りの、年代の差異は、重要なものではないのだろう。目くじらを立てる必要はない。ただ、自分の頭の整理としては、統一する必要がある。取りあえず、137億年という記憶を優先しよう。
次に、地球という惑星の形成、についてだが、これも
サピエンス全史:45億年前
137億年の物語:46億年前
ということでズレがある。ウィキみてみると、「45億4000万年前(±5000万年) - 地球誕生。」とある。ので、やっぱりまぁどっちでもいいってことだろう。ただ、一般的には46億年というのがよく聞くことだ。敢えて、サピエンス全史で45億年としている理由は何かあるのだろうか?
ちなみに、137億年の物語は、ものすごく大きな本だった。広げると巻物のように横に広がり巨大な絵巻図みたいになる。買って届くまで知らなかったので吃驚した。
猿人
上の僕の年表において、「猿人」という言葉を使っている。で、500万年前と書いているが、どうやら、他のサイトとかも調べてみても、600万年前という記載が多い。
高校とかでは、400万年前、猿人、アウストラロピテクス、ルーシー、ぐらいな単語記憶があれば点数取れていたけれども、ここは、600万年前という記憶に上書き更新した方がよさそうだ。
でもって、そもそも、猿人という分類は、日本だけで通用するようなものらしい。サピエンス全史の中でも、一切猿人といった言葉は出てこなかった。
原人(ホモ・エレクトス)
次に、サピエンス全史において、「250万年前:アフリカで、ホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器」
とある。
ん? 打製石器使い始めて、火を使い始めて、言語使用し始めたのって、原人の200万年前ごろじゃないか? 250万年前というキーワードなんて初めて聞いたぞ?
とここで混乱した。
だが、恐らく、原人≒ホモ・エレクトスであり、この250万年前の人の進化とは、原人の出現のことを指しているのだと思われる。
ネアンデルタール人
さらに、50万年前:ネアンデルタール人が、ヨーロッパと中東で進化する。
とある。ネアンデルタール人とは、「旧人」のことで、脳の容量は現代人より多くて、埋葬の習慣があり、20万年前ぐらいじゃなかったのか、とここでも混乱。
そして、3万年前に、ネアンデルタール人が絶滅したのだという。
50万年前~3万年前がネアンデルタール人で、20万年前ぐらいが全盛期だった、ぐらいな記憶でいようと思う。
年代の暗記の危険性
事細かな数字の記憶が、あまり役に立たないということが、ここでよく分かる。ただ、インプットは、本を読み進めていくにあたっても、非常に重要だ。ここがあいまいなまま読んでいくと、読んでいるうちは、ああ、なるほどなるほど、へーそうなんだ、と思っても、いざ読み終わってみると、その前後関係とか因果関係がよく分からなくなっていることが、(僕は)多い。
とはいえ、この年代、即ち、ネアンデルタール人=20万年前というのが危険なのは言うまでもない。
というのは、そもそも、20万年前に突然進化して、突然絶滅した、なんてことはあり得ないからだ。ここが、狭義の「歴史」ではない部分、考古学の部分であることを、十分に理解する必要がある。
今回、まだ、50ページほどしか読めていないかが、今の時点で勉強になったのは、人類の進化が、一直線ではない、ということである。
現生人類(新人……といった呼び方はされない。サピエンス全史では、通じて「ホモ・サピエンス」と呼称される)は、1万3千年前までは、他の「種」と、同じ時代を生きていたのである。
種(しゅ)
勉強になったことその二。「種(しゅ)」というのは、あれだ、ええと、僕の理解した言葉で表現すれば、繁殖可能な生物の種類(集まり)のことだ。
生殖は、例えば、馬とロバで、「ラバ」という雑種が生まれるし、ライオンとヒョウとで「レオポン」という雑種が生まれる。しかし、その雑種は、繁殖能力を持たない(子孫を残せない)ため、「同じ種ではない」とされるということだ。
ネアンデルタール人と、サピエンスは、同じ種ではないのだという。
ネアンデルタール人以外にも、フローレス島に、フローレス人という、ヒト属に分類される種(しゅ)は他にも沢山いた。
それが、1万3年前までに、サピエンス以外みんな絶滅してしまったのだという。
※補足
フローレス人は、身長1m程度の小人だったという。ホビット族か! と思ってウィキをみていたら、どうやら、最初は1万3千年前までの化石がみつかっていたというが、実は5万年前ぐらいだったというのが最近の説だという。
ということは、実際は、サピエンスオンリーになったのは、5万年前ぐらいかもしれない。となると、新人=4万年前、という、僕が作った年表の記憶でよいかもしれない。
難しいところだ。
とにかく、この年代というのは、今も研究が進んでいるところで、1万年~5万年程度の誤差というか、説が覆ることは珍しくないのだろう。そもそも、猿人=400万年前と覚えさせられていた時代から、600万年前と記憶を変更しなければならなくなったわけだし。
歴史年表の年代暗記がくだらないと思ってしまうのは仕方がない。200万年だぞ。鎌倉幕府がイイクニつくろう1192年が、イイハコつくろう1185年になろうが、どうでもいいレベルだろう。
歴史の勉強で重要なのは、ソコじゃない、ということだ。
ちょっと整理
・種(しゅ)とは、交配して子孫を残せる生物の集まりである。・ホモ・サピエンス以外にも種は、1万年前~5万年前には存在していたが、絶滅した。
・しかし、サピエンスにも、ネアンデルタール人とか、その他の種のDNAが混在している
・このことは、サピエンスがその他の種とまじりあった可能性を示唆する。我々は純粋な血統ではない可能性があるのだ。
取りあえずこんなところの、記憶の更新ができた。しかし、真髄というか、本当に面白くなってくるのはここからだろう。
気になるのは、
7万年前の「認知革命」「虚構の言語の出現」というキーワード。
200万年前、この本でいくと、250万年前の原人というか、ホモ・エレクトスというか、それぐらいから、「言語」自体は使われていたと記憶しているが、7万年前の「虚構の言語」とは何を示しているのか。
今の僕の知識では全く分からない。気になる。面白そう。ワクワク。
さて、今日は対人関係のカテゴリだ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。
今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。
もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。
なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。
やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。
責任感。
協調性。
倫理観、そしてチャレンジ精神、と。
組織として重きをおくことというのはある。
で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。
まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。
で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。
何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。
ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。
となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。
何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。
何でも面白いと思うことは重要である。
しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。
責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。
そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。
それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。
ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。
ゆえに次は、目的設定力が重要になる。
ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。
まぁさておき。
すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。
欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。
安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。
新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。
でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。
ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。
奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?
否。
という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。
つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。
代替してきたのがAIである。
AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。
AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。
そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。
実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。
男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。
ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。
女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。
別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。
だから、欲求が非常に大事なのだ。
うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。
本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。
今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。
頭の使い方
もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。
なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。
やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。
責任感。
協調性。
倫理観、そしてチャレンジ精神、と。
組織として重きをおくことというのはある。
で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。
まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。
で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。
何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。
ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。
となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。
チャレンジ精神とは?
何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。
何でも面白いと思うことは重要である。
しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。
責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。
そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。
それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。
ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。
ゆえに次は、目的設定力が重要になる。
仕事について
ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。
まぁさておき。
すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。
欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。
安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。
新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。
でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。
ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。
奴隷制は経済的か?
奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?
否。
という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。
つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。
代替してきたのがAIである。
AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。
AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。
そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。
結婚制度と女性の消費
実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。
男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。
ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。
女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。
別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。
だから、欲求が非常に大事なのだ。
まとまらなくなった
うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。
本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。
時間がない、潰されそうだ。
深刻か、否、どこかの午前2時退社午前5時出勤の会社に比べたら天国だ。
まーたでた、比較思考、やめろというのに。
さて、余計なことを書いてる場合ではない。まず、昨日の振り返りだが、膨大な記事を整理する必要があり、今後書く記事とカテゴリを意識するようにとの提案である。
今日思ったのは、それを、すぐさま、完璧にやるのは、やめた方がいいということだ。
新しく何かを始めるときは、徐々に変化をもたせていく必要があるということである。
そうしないと、1つの失敗が、まるで取り返しのつかないことのように思えて、せっかくよい取り組みも破綻することになる。
とか、こんな話は、創作の話ではない。ここまではただの前置きにもならない余計なはなし。
ただ、整理用のカテゴリなら、価値ある話。
このテーマの分けがやっぱり難しそうだ。
最近あるサイトに投稿された小説を読んだ。
序盤は、まぁまぁ、正直、上から目線で恐縮だが、普通かな、と思った。もっともこの感覚も、その作者さんへの期待値が高まりすぎたせいもある。一般的なオンライン小説の中では十分高いレベルにあることだろう、とか、俺は何様だ?!
まぁ、仕方がないことだ、面白い、面白くないという二分は、確かにある。
その感じかたは、人の個性や価値観や信念によることだろうから、別にあるひとに面白くないとか言われても気にすることはない。
自分が納得できる作品であれば、まぁ、あの人には合わなかったんだな、残念残念、ぐらいの気持ちでいればいいのだ。
(まぁ、そもそも、昨日の記事の通り、自分と他者の概念も明確にわけることはできないのだから、自分一人だけでその面白さを信じるというのは難しいし、独善に陥る危険だってあるわけだ)
ぐだぐだ書いたが、序盤はそれほど大きな感慨はなかったということだ。
ところが、今日本当に書きたかったこととしては、気づいたら、現在投稿されている話数全部読み終わっていたことだ。
なにこれちょー面白い。
何が面白かったか書かなければ、スパム記事のようになってしまうが、まぁ本当に面白くて感動した作品は、しばし、言語表現を失わせるのである。
んー、なんだろう、違った来歴をもつ複数人のヒーローが、同じ世界に集まり、すったもんだする話なのだが、個個人の物語自体までは、さほどの引き込まれはなかったのであるが、そのヒーローが集まってからは、もう感動の涙腺が緩みっぱなしであった。
しかも、シリアスのなかにコミカルな描写もかき分けられ、その配分は絶妙である。
多分、なにも知らない方の作品で投稿サイトに掲載されていたら、序盤を読んで読み止めてしまったことだろう。
こんなに面白いのに、残念なことである、ので、この出会いにはやはり感謝せねばなるまい。
と、まぁ、そんな抽象的な感想あまり意味はなかろう、やはり、具体的にどこがよかった、悪かったという、その理由と事例が大事だと思う。それを感想ではなく、批評という。
その作業はまた行うとして、この記事においては、その先のことを書かねばなるまい。
というのは、昨日のカテゴリ分けのなかで、映画とかエンターテイメントは、カテゴリとして認めない、とした。
ゆえに、このまま、作品の感想で終われば、早速計画の頓挫である。
僕がそれによって何を思い何を感じたのか。
それを書かねばならない。
いやぁ、やっぱり、物語っていいものだな。
対人関係的に、仕事的に落ち込んでも、なんとか、なんとかしてやる、やってやる!
という気持ちにさせてくれる。
そういえば、ちょうど一年前くらいかな。
もう完結してしまったが、あるサイトに連載されていた異世界転生の作品に出会ったのは。
あれによって、サイト復興させようという気持ちや、創作への気持ちが復活したのだったような、そんな気もする。
他に近しい共有できる人もいなかったから一人でいったけど、作者のサイン会に行ったのなんて、本当に初体験だった。緊張したなー。
やっぱり、良い物語つくれる人はすごいよ。尊敬する、かっこいい。
会社にも仕事できる人とか、イケメンとか、スポーツ得意な人とか、車の知識すごい人とかたくさん、色んな面のすごい人はいるけど、俺はやっぱり、物語つくれる人をすごいって、心のそこからかっこいいって、そう思う人種なのかもしれない。
そんなこと、ここまで生きてきて、初めて気付くなんて、まったく本当に愚かだとしか思えんが。
補足すると、ここでいう物語とは、小説に限らず、生きる意味を考えてブログを綴っている方のも勿論そうだ。自らの人生を物語だなんて言われて気分を害されるかもしれないが、最近更新されたあるかたの記事をよんで、やっぱりすごい、面白いと思った。
そして、僕も、色々回り道しすぎて、結局なんの技術も身に付いてないが、僕も、やっぱり、自分自身でも、面白い物語を創りたいと思う。
それは、創作もそうだし、自分の人生についても、そう思う。
補足の補足のメモ。
今まさに思い付いた、天からのひらめきだ!
と思ったけど、少し冷静になると、これも昔思い付いてたことではなかろうか。と思った。
ゲーム思考、と名付けてたかは覚えてないけど、自分の人生をひとつのゲームのようなものだと、仮想人格のようなものを設定したり、と、そんなことやってたきもする。
色々大変な時期だった気もするから、もしかしたらあれか、単に、いま、現実逃避したいほど疲れてるってことかもしれない。
深刻か、否、どこかの午前2時退社午前5時出勤の会社に比べたら天国だ。
まーたでた、比較思考、やめろというのに。
創作のカテゴライズ
さて、余計なことを書いてる場合ではない。まず、昨日の振り返りだが、膨大な記事を整理する必要があり、今後書く記事とカテゴリを意識するようにとの提案である。
今日思ったのは、それを、すぐさま、完璧にやるのは、やめた方がいいということだ。
新しく何かを始めるときは、徐々に変化をもたせていく必要があるということである。
そうしないと、1つの失敗が、まるで取り返しのつかないことのように思えて、せっかくよい取り組みも破綻することになる。
とか、こんな話は、創作の話ではない。ここまではただの前置きにもならない余計なはなし。
ただ、整理用のカテゴリなら、価値ある話。
このテーマの分けがやっぱり難しそうだ。
小説を読んだ
最近あるサイトに投稿された小説を読んだ。
序盤は、まぁまぁ、正直、上から目線で恐縮だが、普通かな、と思った。もっともこの感覚も、その作者さんへの期待値が高まりすぎたせいもある。一般的なオンライン小説の中では十分高いレベルにあることだろう、とか、俺は何様だ?!
まぁ、仕方がないことだ、面白い、面白くないという二分は、確かにある。
その感じかたは、人の個性や価値観や信念によることだろうから、別にあるひとに面白くないとか言われても気にすることはない。
自分が納得できる作品であれば、まぁ、あの人には合わなかったんだな、残念残念、ぐらいの気持ちでいればいいのだ。
(まぁ、そもそも、昨日の記事の通り、自分と他者の概念も明確にわけることはできないのだから、自分一人だけでその面白さを信じるというのは難しいし、独善に陥る危険だってあるわけだ)
途中からの盛り上がりが異常
ぐだぐだ書いたが、序盤はそれほど大きな感慨はなかったということだ。
ところが、今日本当に書きたかったこととしては、気づいたら、現在投稿されている話数全部読み終わっていたことだ。
なにこれちょー面白い。
何が面白かったか書かなければ、スパム記事のようになってしまうが、まぁ本当に面白くて感動した作品は、しばし、言語表現を失わせるのである。
んー、なんだろう、違った来歴をもつ複数人のヒーローが、同じ世界に集まり、すったもんだする話なのだが、個個人の物語自体までは、さほどの引き込まれはなかったのであるが、そのヒーローが集まってからは、もう感動の涙腺が緩みっぱなしであった。
しかも、シリアスのなかにコミカルな描写もかき分けられ、その配分は絶妙である。
多分、なにも知らない方の作品で投稿サイトに掲載されていたら、序盤を読んで読み止めてしまったことだろう。
こんなに面白いのに、残念なことである、ので、この出会いにはやはり感謝せねばなるまい。
それはそうと
と、まぁ、そんな抽象的な感想あまり意味はなかろう、やはり、具体的にどこがよかった、悪かったという、その理由と事例が大事だと思う。それを感想ではなく、批評という。
その作業はまた行うとして、この記事においては、その先のことを書かねばなるまい。
というのは、昨日のカテゴリ分けのなかで、映画とかエンターテイメントは、カテゴリとして認めない、とした。
ゆえに、このまま、作品の感想で終われば、早速計画の頓挫である。
僕がそれによって何を思い何を感じたのか。
それを書かねばならない。
いやぁ、やっぱり、物語っていいものだな。
対人関係的に、仕事的に落ち込んでも、なんとか、なんとかしてやる、やってやる!
という気持ちにさせてくれる。
そういえば、ちょうど一年前くらいかな。
もう完結してしまったが、あるサイトに連載されていた異世界転生の作品に出会ったのは。
あれによって、サイト復興させようという気持ちや、創作への気持ちが復活したのだったような、そんな気もする。
他に近しい共有できる人もいなかったから一人でいったけど、作者のサイン会に行ったのなんて、本当に初体験だった。緊張したなー。
やっぱり、良い物語つくれる人はすごいよ。尊敬する、かっこいい。
会社にも仕事できる人とか、イケメンとか、スポーツ得意な人とか、車の知識すごい人とかたくさん、色んな面のすごい人はいるけど、俺はやっぱり、物語つくれる人をすごいって、心のそこからかっこいいって、そう思う人種なのかもしれない。
そんなこと、ここまで生きてきて、初めて気付くなんて、まったく本当に愚かだとしか思えんが。
物語とは
補足すると、ここでいう物語とは、小説に限らず、生きる意味を考えてブログを綴っている方のも勿論そうだ。自らの人生を物語だなんて言われて気分を害されるかもしれないが、最近更新されたあるかたの記事をよんで、やっぱりすごい、面白いと思った。
そして、僕も、色々回り道しすぎて、結局なんの技術も身に付いてないが、僕も、やっぱり、自分自身でも、面白い物語を創りたいと思う。
それは、創作もそうだし、自分の人生についても、そう思う。
ゲーム思考
補足の補足のメモ。
今まさに思い付いた、天からのひらめきだ!
と思ったけど、少し冷静になると、これも昔思い付いてたことではなかろうか。と思った。
ゲーム思考、と名付けてたかは覚えてないけど、自分の人生をひとつのゲームのようなものだと、仮想人格のようなものを設定したり、と、そんなことやってたきもする。
色々大変な時期だった気もするから、もしかしたらあれか、単に、いま、現実逃避したいほど疲れてるってことかもしれない。
当面の目標、記事の整理を行おう。
唐突になんだ、整理が重要だ、テーマだ、目的だ、お前は何をいってるんだ?
他の方の作品や記事を読んだりしていて、やっぱり、このダラダラ書き続けるのは良くない。
そろそろ量が多くなってきて、全部ストーリーとして追っていくのが自分にとってもキツくなってきた。
仕事もまた甚大な話に巻き込まれてきて、これは舵取りを間違うと致命的に取り返しがつかない、それは、今後何年かにもひびくだろう。
頭も要領もよくない自分が今後どうやって問題を切り抜けていくのか、もしくは潰れるのか、今後のご期待である。
前向きか後ろ向きかなんて、俺は常に前向きである。ポジティブでしかありえない。
口に出すこと、行動、書くことは、マイナスばかりだけれども、真のポジティブとは何かを知っているだけだ。
例えば、いや、例える必要性を僕は思わないが、あえて書けば、宗教的だけど、仏陀さんって、ポジティブなのか、ネガティブなのか?
さぁどっちだと思う?
俺の解釈は、超ポジティブ、だと思う。
しかし、一般的に、一切皆苦、とか言っちゃう人が、妻子捨てて修行始めちゃう人が、果たしてポジティブなのだろうかと、疑問だろう。
あまり詳しくないけれども、失敗を覚悟で書けば、キリストさんは、右のほほをぶたれたら左のほほを差し出しなさいとか、一匹の迷子羊を探すために他の多数の羊は放置してもいいとか、ネガティブっぽくないだろうか?
でも、キリストさんを卑屈、なんて言う人はいないだろう。
逃げたっていい、戦ったっていい、どっちでもいい。
ただ、祈りだけで、環境が何とかしてくれるみたいな生き方は否定する。
もちろん、行動第一主義というのも否定する。
世界は、
人生は、
自分は、
物理環境と思考との相互関係の因果によって成り立つ。
他者、そして自分、関係ない、その相互依存性が成り立つ。
誰かの作品で自分の感情が変化したとき、それは自分だけでは起こり得なかった結果であり、かといって、それは他者だけの力かというと、それも違う。
感受という、他者を、環境からのフィードバックをインプットできる能力が働いたのだ。それはまた、自分に他ならない。
ブログをやめるというのではない。ただ、ちょっとばかし、多分、書いてる内容はそれほど大きく変わらないだろうが、もう少し読みやすくしようと思う。
その方策が、カテゴリ、テーマをわけることだ。ちょっとチャレンジ。
仕事について
生きる意味について
イライラへの対処について
人間関係について
学習、勉強、インプットについて
思考すること、書くことそのことについて
ポジティブ思考について
目的や目標設定について
恋人や恋愛や結婚について(異性関係)
その他人間関係について(知己、友人)
ゲームやその他の趣味について
創作について
ここで、映画、漫画、小説その他のエンターテイメントについても、カテゴリ分けできるかと思ったが、次の理由で却下した。
その作品の批評や分析が目的ではなく、それによって私が何を思い感じたのか、それが重要であり、その内容は、どれかカテゴライズ可能と思うからだ。
こんなもんかな。
考え付くのはこれくらいかな。
これからの作業としては、現在の思考カテゴリと日常カテゴリの分類精査である。
おそらく、困難になるのは、その複合的な内容の場合である。
生きる意味と目的設定とか関連性深いし、イライラとポジティブ思考は関係深いし、それ以外も散財していることだろう。
ちなみに、この記事は、整理について、というカテゴリか、当ブログについて、という内容になるだろう。
おそらく、そんなことしても、誰も過去記事を読み直すなんてことないし、誰のためにもならない無駄作業である。
だが、
今後も徹底して考える、というタイトルを続けるなら必要な作業だ。
そして、この作業は、今年中を目指す。
ようやく、今年の目標が決まった。もう師走ちかいのに笑える。
来年、仕事、くそ忙しいと予測されるが、
もう1つ目標たてるなら、
絶対に忙殺されんようにすることだ。
真剣に、真面目に取り組んで、成果もあげて、
結局口がうまい人に成果をとられ、悪くなった失敗や問題は俺のせいにされて、と。
まるで漫画みたいなことに巻き込まれる可能性は、真面目さとか純粋さとか、ポジティブさとか、その他自己啓発的なうんたらでは、絶対に避けることはできない。
仕事へのコミットは、決して人を幸せにしない。
一方で、すぐさま書くべきは、仕事じかんちゅう、ずっといやいや苦しんで耐えてるってのも間違いだと思う。
誰かの記事で、忘れたが、仕事を楽しいと思ってるうちはそれは仕事しゃない、とあったが、それは言い当ててるようで、ちょっと違う、ああ、ああ、じかんぎれ、この辺りもまだまだ書ききれてないことなんだ。
この、様々書ききれてないことを、もう速やかになくしていくのが、今回の記事の主旨である、カテゴリ分けの必要性の提案なわけだ。
唐突になんだ、整理が重要だ、テーマだ、目的だ、お前は何をいってるんだ?
他の方の作品や記事を読んだりしていて、やっぱり、このダラダラ書き続けるのは良くない。
そろそろ量が多くなってきて、全部ストーリーとして追っていくのが自分にとってもキツくなってきた。
仕事もまた甚大な話に巻き込まれてきて、これは舵取りを間違うと致命的に取り返しがつかない、それは、今後何年かにもひびくだろう。
頭も要領もよくない自分が今後どうやって問題を切り抜けていくのか、もしくは潰れるのか、今後のご期待である。
前向きになった?
前向きか後ろ向きかなんて、俺は常に前向きである。ポジティブでしかありえない。
口に出すこと、行動、書くことは、マイナスばかりだけれども、真のポジティブとは何かを知っているだけだ。
例えば、いや、例える必要性を僕は思わないが、あえて書けば、宗教的だけど、仏陀さんって、ポジティブなのか、ネガティブなのか?
さぁどっちだと思う?
俺の解釈は、超ポジティブ、だと思う。
しかし、一般的に、一切皆苦、とか言っちゃう人が、妻子捨てて修行始めちゃう人が、果たしてポジティブなのだろうかと、疑問だろう。
あまり詳しくないけれども、失敗を覚悟で書けば、キリストさんは、右のほほをぶたれたら左のほほを差し出しなさいとか、一匹の迷子羊を探すために他の多数の羊は放置してもいいとか、ネガティブっぽくないだろうか?
でも、キリストさんを卑屈、なんて言う人はいないだろう。
困難への対処
逃げたっていい、戦ったっていい、どっちでもいい。
ただ、祈りだけで、環境が何とかしてくれるみたいな生き方は否定する。
もちろん、行動第一主義というのも否定する。
世界は、
人生は、
自分は、
物理環境と思考との相互関係の因果によって成り立つ。
他者、そして自分、関係ない、その相互依存性が成り立つ。
誰かの作品で自分の感情が変化したとき、それは自分だけでは起こり得なかった結果であり、かといって、それは他者だけの力かというと、それも違う。
感受という、他者を、環境からのフィードバックをインプットできる能力が働いたのだ。それはまた、自分に他ならない。
カテゴリ分け
ブログをやめるというのではない。ただ、ちょっとばかし、多分、書いてる内容はそれほど大きく変わらないだろうが、もう少し読みやすくしようと思う。
その方策が、カテゴリ、テーマをわけることだ。ちょっとチャレンジ。
仕事について
生きる意味について
イライラへの対処について
人間関係について
学習、勉強、インプットについて
思考すること、書くことそのことについて
ポジティブ思考について
目的や目標設定について
恋人や恋愛や結婚について(異性関係)
その他人間関係について(知己、友人)
ゲームやその他の趣味について
創作について
ここで、映画、漫画、小説その他のエンターテイメントについても、カテゴリ分けできるかと思ったが、次の理由で却下した。
その作品の批評や分析が目的ではなく、それによって私が何を思い感じたのか、それが重要であり、その内容は、どれかカテゴライズ可能と思うからだ。
こんなもんかな。
考え付くのはこれくらいかな。
これからの作業としては、現在の思考カテゴリと日常カテゴリの分類精査である。
おそらく、困難になるのは、その複合的な内容の場合である。
生きる意味と目的設定とか関連性深いし、イライラとポジティブ思考は関係深いし、それ以外も散財していることだろう。
ちなみに、この記事は、整理について、というカテゴリか、当ブログについて、という内容になるだろう。
誰のための作業か?
おそらく、そんなことしても、誰も過去記事を読み直すなんてことないし、誰のためにもならない無駄作業である。
だが、
今後も徹底して考える、というタイトルを続けるなら必要な作業だ。
そして、この作業は、今年中を目指す。
ようやく、今年の目標が決まった。もう師走ちかいのに笑える。
仕事について
来年、仕事、くそ忙しいと予測されるが、
もう1つ目標たてるなら、
絶対に忙殺されんようにすることだ。
真剣に、真面目に取り組んで、成果もあげて、
結局口がうまい人に成果をとられ、悪くなった失敗や問題は俺のせいにされて、と。
まるで漫画みたいなことに巻き込まれる可能性は、真面目さとか純粋さとか、ポジティブさとか、その他自己啓発的なうんたらでは、絶対に避けることはできない。
仕事へのコミットは、決して人を幸せにしない。
一方で、すぐさま書くべきは、仕事じかんちゅう、ずっといやいや苦しんで耐えてるってのも間違いだと思う。
誰かの記事で、忘れたが、仕事を楽しいと思ってるうちはそれは仕事しゃない、とあったが、それは言い当ててるようで、ちょっと違う、ああ、ああ、じかんぎれ、この辺りもまだまだ書ききれてないことなんだ。
この、様々書ききれてないことを、もう速やかになくしていくのが、今回の記事の主旨である、カテゴリ分けの必要性の提案なわけだ。
