おはようございます、と、朝に書く記事は、ではどんなカテゴリになるのかと。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
やっぱり、想像が付かず、考えてる時間に思考が雲散霧消していく。
であれば、浮かんだことを取り合えずメモしてもいいじゃないか、これがゼロ秒思考メモである。
あ、そうか、じゃあ、その思考メモというカテゴリ作ってしまえばいいか。うーん、ただそうなると、日常、生活、カテゴリみたいに、分類する気持ちが働きにくくて、楽な方に流れそうだ。
食糧生産革命
認知革命の章が終わりそう。七万年前、虚構の言語の出現。
三万年前、ネアンデルタール人絶滅。フローレス人も五万年前くらいに絶滅したとすれば、サピエンス種オンリーとなる。
その後、食糧生産革命が、自分の記憶だと、一万二千年前ごろ。
神殿とか、集団の結束って、農業始めたことが原因だと思っていたから、その前から認知革命が起こって、150人以上が協力できる下地ができた、というのは、完全に新しい知識になった。それだけで買ってよかった。いや、まだ50ページぐらいで、下巻は開いてすらないが。
資産
突発的に本を買えるだけの資産があるのはいい。
最近欲しいのは、概念形成を助けてくれる作品全般だ。
映像作品はそれはそれで素晴らしいが、本という媒体は、繰り返し、自分のペースで理解を進められるのがよい。
ものすごい遅読の実践。
一方、ビジネス本とか、軽い奴は200ページとかあっても15分くらいで読めてしまう。
大体目次読めば内容が推測でき、実際ちょっと読めばそれが正解か判断できる。
そもそも、ビジネス本とかは、答えが先にあって、その説明があとに続く文章構成だから、二三行読めばことたりるのだ。
正直、面白い漫画とか読んだ方がまし、に思えるが、まったくその系統を読んだことない人は、新しい発見もあるだろうから、否定するものではない。
ただ、ありふれるコラムとかニュースとか、新しい概念形成には、もう役に立たないと切り捨てるのは、僕はいまは、アリだと思ってる。
概念形成
概念とはなんだろうか。それは、事実や事象を抽象的にまとめて名前をつけたものだ。
僕は、いま、結婚というもの、人というもの、人間というもの、生きるというもの、友人というもの、学ぶということ、創作ということ、それら、人生の根幹をなす概念を問いかけている。
普通、生活する上では、当たり前のものだ。
それに、マジで研究するなら、学者にでもなった方がいい。ただ、興味が煩雑で幅広すぎてだめだろう。
カタストロフ
地震があって、ああ、これは終末のそれなのか、とふと思った。
そうすると、今まで生きてきた、昨日もぐだぐだ書いていたことが、ああ、なんと恵まれたことであったのか、と思った。
日常が終わり、ただ生きることだけに時間を使うだけの日々。
創作も、ゲームもない。本もない。資本主義もない。
ただ、瓦礫をかきわけ、食べるものと飲むものだけを探し求め、飢えと乾きに苦しみ、秩序が崩壊した世界をあてもなく生きるのだ。
うわめんどくさい。
それだったら、満員電車で、上司やお客さんに叱られ嫌みを言われ気分の悪い思いをしながら、帰ってジントニックを飲むぐらいでましじゃなかろうか。
いやましじゃねーよ。この世界は地獄だよ。
として、今日も今日とて自殺する人もいる。
多分、物理世界に、自己とのギャップが生じたことのない人は、自殺しようとする人の感覚は分からないだろう。
創作キャラクター
ああ分からんねそんな奴。そんな軟弱興味もない。そんな奴がいたら、ぶん殴ってもぜってぇ助けてやる。
とか言いそうなキャラクターが浮かんだ。
そのキャラクターに感動して惹かれるキャラも同時に浮かび、そして、それをうぜぇ、と思うキャラも浮かんだ。
うん、もう少し、自分の物語を考える上で、人物設定、キャラクターを考えるという試みもいいかもしれない。
あるかたが、小説つくるときにやったやり方として、まず、10人だか20人だかのキャラクターのプロフィールを詳細につくった、ということを仰っていて、うわすごいな、と思った。
僕はどちらかというと、現象とか、できごと、イベント、ストーリーの方が書きたいことが浮かぶから、あまりキャラクターを綿密に考えてはいない気がする。
そこが、僕の作品が決定的に面白くない原因なんだろう。やっぱり、物語って、人だよね。
ということになってくると、やはり、人間嫌いとかいう表現は、そもそも感情エラーなのだという証明にもなるわけだ。
はぁ、なんか朝から疲れた。
書きたいことはまだある気がするけど、眠いし頭痛とお腹が痛いからかここで唐突の終わり。
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「お前のブログは長すぎていかん」
とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。
実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。
過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。
とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。
とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。
いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。
ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。
だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。
いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。
よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。
あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。
そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。
ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。
そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。


難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。
この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。
サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。
だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。
「孤独、凄まじい孤独」
って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
孤独って何だろな。
こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。
サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
孤独でもええんちゃう?
とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。
孤独と孤立の違いはなんだろうか。
https://happylifestyle.com/11556
↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。
一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。
おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。
恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。
小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。
ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。
ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。
この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。
よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。
……うーん。
どうなんだろう。これは結構悩ましい。
何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。
だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。
「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」
というような表現をされている人の記事を見かけた。
ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。
おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?
分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?
うーむ……。
別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。
ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。
プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。
なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。
それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。
ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。
一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。
いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。
書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。
ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。
あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。
とコメント頂いた。うん、確かにそう思う。
実際、最近、「カテゴリ分けが重要だ」として、何とか整理を試みているが、あまりにも長すぎて、その長い記事というのが、往々にして複数のカテゴリにまたがったことを書いているものだから、もうカオス状態になる。
ここで、もう面倒くさいから、「ゼロベースで作り直しだ」と考えてしまうのが、僕の悪い癖で、その度に過去を清算しようとする。しかしこれは、女子高生がスマートフォンの友人たちのアドレスをリセットするような、SNSで退会してまた別アカウントで登録するような、そんな行為と同義であろう。
過去からの、連綿とした繋がりにおける自己の表現、カッコよく書けばそんな感じ。何とか、ポイント絞って、目指すはミーシー(MECE:漏れなく重複なく)である。
とか書いてみると、以前の記事で、「思考の体系化が今年の目標だぜ!」とか書いているのも見つかって、お前、ほんと、成長していないなぁと辟易とする。
短く書くこと
というわけで、長い記事がよくないという、当たり前の、一般的に言われていることの実感ベースの表現である。とはいえ、これ、ある程度の長さもやっぱり必要に思えるんだよな。
いやいや、問題はそこではないかもしれない。そもそもにおいて、僕が書き始めるときは、一体全体、この記事が、どのカテゴリに属するのか、どの程度の長さになろうというのか、全く想像もつかないのである。
ただ、書いているうちに、だんだんと、書きたいことが生じていくのである。残念なことに、何か、「これについて」というテーマを決めると、途端に興味がなくなって、書けなったりする。
いろいろ書いていくうちに、書きたいことが見つかる、という構造のため、それはそれは、無駄に長くなっていくのである。
だが、今日のところは、その、書くことそのことに焦点を当てているので、許すことにしよう。
考え込んでしまう時間が無駄に思える
あー、その、何だ、やっぱり、何か「整理して書こう」とすると、タイピングの指ではなく、そもそも、思考が止まってしまっている。何か考えているようで、何も考えていない状態。非常にもったいない。いやきっと、その時点も、「何かは考えている」。ただ、それがアウトプットされないために、無限ループに陥っている可能性がある。かくも思考とは取り扱いが難しいものである。
よし、では、完全に思い付きだが、自分の最近のある記事について言及してみよう。
生きる意味を考えるということ
人生における行動は、生産と消費とがある。2016年7月20日の記事の抜粋である。
生産する人は魅力的だが、消費が悪いわけではない。
消費による感動が、生産の原動力となっている場合もあるし、消費者がいなければ価値の創造もありえない。
その意味で、いままでの自分の行為を、行動を、後悔する必要は一切ない。
しかし、目的なき消費は、いずれ訪れる死に対して無力であるといえる。
あーその、なんだ、手前みそだが、結構いい表現な気がする。
自分の性格的に、自己肯定というのを、中々できない。にも拘わらず、この表現はまぁまぁいいんじゃない? と上から目線に思えるのは、もう、この3か月前ぐらいの記事のことを、すっかり忘れているからである。
そして、いくら上から目線でも、自分の記事に対しては全く問題ない点が、書きやすい、ああ書きやすい。
ここで言いたかったことは恐らく、ただ惰性で流されて、好き勝手楽しんでいても、その瞬間瞬間はきっと楽しいだろうから、「いま、ここに生きる」という仏教的な正しい生き方に思いながらも、それは怠惰な方向への逃げであるということだろうと思う。
そして僕はさらに、「逃げ」の何が悪いの? ということすらすぐさま言及する。工事現場で重機でハリーポッターやって楽しんでいる若者たち、いわゆるDQNと言われるような人たちが、本当に人生失敗なのか、というと、全くそんなことはないだろう。
ちょっと調べてしまったが、「ハマータウンの野郎ども」という本があって、そこでは、ホワイトカラーと対比された、ブルーカラー(ここでは不良)たちが、独自の文化体系をつくりあげているということを、フィールドワークによって描き出した本なのだけれど、それを思い出した。
難しい概念は僕は分からないし、この本自分で読んだことがあったのかもよく分からない(図書館で借りたのか、授業で習ったのか、レビューを読んだのか分からない。一つ言えるのは、買ったことは無い)が、取りあえず一つインプットとして、今も記憶に残っているのは、「文化」は、どんな状況でもどこにでも発生するのである、と。
この「文化」の生成を、そもそもの起点について、恐らくサピエンス全史において明らかにしてくれるだろうので、僕はとても楽しみに思っている。
サピエンスの所以は、「文化」なのだ。虚構の言語なのだ。認知革命なのだ、と。
だから、敢えて差別的な言葉遣いになってしまうが、ホームレスの人たちであっても、恐らく、独自の「文化」というのが形成されていくことだろうと思う。もっとも、150人の壁(噂で成り立つ集団の限界人数)ほどにも、ホームレスの集団というのは無いのだろうけれども。
凄まじい孤独
必要なのは、主体的な、実存的な真理である。人類社会に貢献する科学は、まさにそうした普遍性を自然界や人間界に求めようとするものだけれども、その真理は、決して個人とした自らに当てはまるものではない。当てはまったとしても、その普遍性は、自分自身とおう、個体、ユニークな存在を完全に表現できるものではない。他者の言説が、役に立たないとか、他者に頼ったり、相談したり愚痴いったりするのが意味ないというのは、日常生活のことをいっているのではない。なんか、引用(blockquote)使うと、改行が全部無視されるんは、忍者ブログの仕様なのだろう。ちょっと読みづらいな。無理やり改行。
この、自己の問題、何故自分は生きているのか、この存在の意義は、という問いに、他者は一切答えてくれない、どころか、そんなこと考えることは無意味であると、そう突き放すのである。
孤独、凄まじい孤独。
この感覚は、きっと、わかる人にはわかると思う。これは、いくら楽しいことしても、他者と交わっても、美味しいもの食べても癒されるものではない。僕はこうやって表現できるから、一応自己を保ってられるけど、この感覚におそわれて、表現することができないと、薬物にはしったり、リストカットしたり、無気力になったり……。全員がそうじゃないにしても、こうした孤独感で自分が押し潰されそうになった人は、決して少ないとは思わないのだけど、何故か僕はあまりそういう人に出会ったことがない。というのは、珍しくなくて、この孤独は先に書いた通り、他者と一緒にいて、楽しそうにしていてもぬぐえるものではないから、そういう人は一見わからないのだ。
「孤独、凄まじい孤独」
って、何だか、カイジの表現みたいだ、って、カイジ、読んだこと無いけれど。
孤独って何だろな。
こんなこと、考えるなんて、書き始めたときはホント思ってない。
ましてや、知り合い何かに、「孤独、感じることってある?」なんていきなり話し出せば、間違いなく気が狂った人のレッテルを貼られることだろう。
サピエンス全史に限った話ではないけれども、基本的に、どの分野のどの書物を読んでも、基本、「人間は社会的な動物である」という前提にたっている。
孤独でもええんちゃう?
とか言うような本はない。「自立」を促すような言説はあるけれども、それは、孤立を意味しない。
孤独と孤立の違いはなんだろうか。
https://happylifestyle.com/11556
↑のサイトを参考にすると、孤独とは、夢や理想を同じくする人がいなくて、仕方がなく一人になってしまうこと。孤立は、ガチで一人、という状態。
一人、という状態については同じだけれども、その目的と、経緯(プロセス)の違いを示す言葉だという。
おー、こういうのが、まさしく「虚構の言語」ですわな。7万年前の認知革命でサピエンス種が手にするまで、この世界では発見されていなかったことだろう。
恐らく、サピエンス以外の種(しゅ)は、孤独と孤立の違いを説明できないだろうし、そもそも説明する必要性がないだろう。取りあえず一人でいたら、ライオンに襲われて餌食になるだけだ。一致団結して敵対者と戦うということは、ネアンデルタール人たちでもあったはずである。
小賢しいサピエンスは、孤独と孤立という言葉を巧みに用いて、一人でいるという事態を、ときに正当化するのである。
孤独が好きなのか?
大分、「思考のための思考」になっている。こういう文章はどうだっけ、後から読んだら面白いのだったろうか、よく分からない。ただし、書いておくべきは、これはダメなパターンだということだ。
ホモ・サピエンスがどうであろうが、そもそも、俺、僕、私が、どうなんだという話し、それが大事だ。
この記事で、今後も役に立たせるために、一つぐらいは確定的な何かを書いておきたい。
よし、僕は、孤独が好きなのかどうか、という問いを掲げよう。
……うーん。
どうなんだろう。これは結構悩ましい。
何だか、本当に気が合って、理解があって、目指す方向が同じで、感覚が同じで、いろんなことが同じで……というような人がいたら、きっと、何かするのも、2倍、3倍と楽しいのではないかと思う。
が、そんなの、エンターテイメントだってありえないことである。みんな違ってみんないい、ではないが、そもそも、多様性が生物としての生存戦略であって、同じコピーであれば、環境の変化であっというまに絶滅してしまう、ということがよく謡われる。
だから、人間関係ってのは、そもそも、その気があったり、時にぶつかりあったり、喧嘩したり、仲良くなったり、感心したり、嫌悪したりと、様々な関係が発生すること自体、そのこと自体が「楽しい」ものなのであって、それが「楽しい」かどうか、その辺りに、孤独が好きなのか、群れが好きなのかの違いがみてとれそうだ。
孤独の反義語は?
そもそも、孤独の反意語ってなんぞや、と調べてみると、「連帯」と出てきた。まぁ、みんなと一緒にいる、というような意味だろう。「人と一緒にいると、だんだん孤独を感じてくるのです……」
というような表現をされている人の記事を見かけた。
ふむ、これはしかし、当たり前のことだといえる。上に書いた通り、人は、「みんな違う」わけであって、多くの時間を他者と共有しているうちに、だんだん、自分との差異というのが明確に輪郭が浮き上がってくるのである。
そのことが、「面白い」と思うか、ああ、「僕はやはりこの人とも違うんだ」という対人関係に対しての絶望になるかは、その人次第である。
おい、そんな、他者のことはどうだっていいんだ、そういう分析紛いのことは、相当20代のころやってきただろ?
分かってるよ、俺が、どうなのか、ってことだろう?
うーむ……。
別に、人と一緒にいることが、それほど嫌なわけでもない。
というか、働いている以上、大半の時間を他者と過ごしているというわけでもあるし。がしかし、昼休みの時間まで、誰かとずっと一緒というのは面倒な気もする……ああいや、しかし、週の半分ぐらいは同僚と一緒にランチに行ったりしている。それが無理やり嫌々やってるかというとそうでもない。
ただ、仕事とプライベートとは、この面においては分離して考えるべきだ。仕事はあくまでも、「ある一定の目的」を、共有する集団であるのだから、その「共同幻想」(サピエンス全史の言葉でいけば、「神話」とか「想像上の現実」)を信じているうちは、安定的でありえるのだ。
プライベートにおいては、「誰かと何となく繋がってないと不安」といった状態が、起こりえる。学生、特に女の子はそういった状況になりがちだという。
あはは、若いねぇ♪ と、笑ってられる程、事態は、自分にとって思わしくない。
なぜならば、そもそも、このブログ、この記事事態も、僕が「連帯」を求めているという証左に他ならないのではないか、という疑義が発生することである。
それもあって、僕が果たして、本来的に「孤独」が好きなのかどうか、よく分からない。
ここで、「好きな人とは一緒にいてもいいけれど、嫌いな人とは一緒にいたくない」とかいう、そんなバカげた、当たり前の、幼稚なことはどうでもいい。僕が今ここで、書いておこうと、明らかにしようと試みたのは、もっと、根源的な方針がどっちなのだ、ということである。
一方で、だ、そもそも、こうして表現するということにおいて、果たして、「孤独が好き」という表現はOKなのか、エラーなのか、その点も考慮する必要がある――おい、長いぞ。
強制終了
やっぱり、短く書く、というのも、中々難しい作業であることが分かった。いや、書かないというのは簡単にできるのだけれども、短いながらも書くというのが至難の業である。
書き始めると長くなるし、短くしようと思うと、何も浮かばないというか、思考停止状態になる。もう今の状態だと、まだまだしばらく指を動かし続けられる、ノンストップで。割かし何度か、腱鞘炎じみた状態になったことすらある。手の甲がズキズキしてきたりもする。
ということで、強制終了。カテゴリは、そうだな、要素が多そうな「対人関係」にしておくか。
うーん、今年中に、カテゴリの整理をする、という目標立てたような気がする。最近。大丈夫か、いけるか?
そもそも、創作したいという意欲もわきあがってきたというのに、こんなこと書いてていいのか? でも、サピエンス全史も読み進めたいし……。
あれ、結構、欲求が戻ってきている気がする。これはまぁ、悪い傾向じゃない。こういうときの注意は、睡眠時間だ。よし、ルーチンはOK、寝よう。
サピエンス全史まだ紀元前から進んでいない。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。
250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。
しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。
人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。
サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。
しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。
虚構の言語とは何か。
それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。
この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。
とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。
「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?
果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)
神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。
それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!
そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。
とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)
もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。
これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。
法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。
もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。
その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。
まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。
つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。
無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。
そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。
それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。
ただ、むしろ思うに、この初期の人類の構成、そして発展こそが、非常に重要な点だと思う。
言語は人だけのものにあらず
言われてみれば当たり前だと思いつつも、明確に文章になっていると改めて感心する。250万年だか、200万年だかその辺り、原人やホモ・エレクトス辺りの時代から、ヒト属は、言語を用い始めたという。
しかしながら、言語は、別に人だけが扱えるものではない。
人の特徴として、学校教育においては、二足歩行、火の使用、言語、の3つを挙げるが、何のことない、クジラやチンパンジーやオウムなど、他の、ヒト(ホモ)属以外の種においても、言語は用いる。
サバンナモンキーという種は、「気を付けろ! ライオンだ!」という言語と、「気を付けろ! 鷲だ!」という言語を使い分けるという。
しかし、現生人類(サピエンス)は、「虚構の言語」を用いることができる点で、他のヒト属と大きく異なり、結果的に、1万年~3万年ごろには、サピエンスオンリーの状態になった。
認知革命
虚構の言語を用いることができるようになった時期、7万年ごろを認知革命というらしい。虚構の言語とは何か。
それは、噂話とか、想像上の物語を表現する言語のことである。
サバンナモンキーという種も、嘘はつけるということなので、嘘が人間固有のものかというと、それもまた異なる。ただし、神話や伝説、宗教といった表現、物語をつくり、信じることができるのは、人(サピエンス)だけだ。
この、認知革命が、何故サピエンスという種だけに発生したのかは、分からないという。ただ、この認知革命がもたらしたこと、その必要性について、この「サピエンス全史」は、これから先突き止めていくという。
想像が何の意味があるのか
「ちょっと、森にユニコーン探してきますわw」とかいう人は、シカやキツネなど、食料を求めて森に入る人に比べて、生存確率が相当低いだろう。
「我が部族ライオンの守護神への祈りを!!」
とかいってるより、狩りしたり生殖に励んだり、他にすることあるだろう?
果たして、何故、想像の言語、「虚構の言語」が必要だったのか。(逆に、そうした能力をもつサピエンスだけが絶滅を免れ生き残ったのか?)
神話や伝説、宗教は、その「集団」で信じることができるからだ。
前述の、噂話は、確かに、ある集団において、誰が信頼できる人間かを取捨選択する際に非常に有効である。といったような記述を見て、僕は、世の女性たちが噂話が好きな理由もそこにあるのではと邪推した。
会社の昼休みなどでも、女性たちはよく親しい仲間と一緒にランチして、短い休憩時間のほとんどをお喋りで費やす。そしてその中身は、だれだれのうちの息子はどうしたとか、他の部署のだれそれが仕事でどうしたとか、そんな噂話が中心となる。
それら噂話は、サピエンスが手にした、高度な生存戦略だったのだ!
そう考えると、変な同調圧力とか、理由はよく分かる。まさに、「誰がいらない人間か」「誰が信じられない人間か」を、ふるいにかけているのが、まさに女性たちのお喋りなのである。居心地がいいはずもない。
しかし恐るべきは、その居心地の悪いはずの空間を、女性たちは本当に楽しんでいるのである。楽しめる能力も手にしているのである! 何故か、とまた邪推すると、女性たちは生物的に体力や腕っぷしがないため、そうした言語という武器によって、より優れた男とセックスして子孫を増やせるように特化していったのではないか。
とまぁ、本の内容とはかけはなれた邪推であるが、ただ、敢えて強調するために、わざと「女性たち」という表現を使ったが、これは別に男性も同じだと思っている。僕はもともと、女性がどうこう、男性がどうこうとかいう、ジェンダー論的なのも胡散臭さを感じている。男性だって、居酒屋で夜な夜な上司や同僚の噂話や愚痴に花を咲かせているではあるまいか。
(同時に、生物学的な男女の差異や、社会的性差の存在が皆無だという主張をするのでもない、立場的というか思想的に、「興味がない」というのが近い表現)
150人を超える集団の統率
その噂話で維持できる集団の限界が、150人程度だという。では、サピエンスはどのようにして、巨大な集団の維持を可能にしたのか。もう何度も書いてきてしまっている(起承転結がなってない文章だ)が、神話や伝説や宗教である。
社会的構成概念、虚構の言語、想像の現実。
これは、前から書いてきている、「資本主義もまた信仰の一つだよね」というのと似ていたから理解がしやすかった。
この本においては、有限株式会社が例に挙げられていた。即ち、法人という想像上の人格を創り上げることで、個人では責任を負いきれないことも可能にしたのだ。プジョーという会社は、創始者が死んでも、従業員が入れ替わっても存続するが、法的根拠がなくなると、一瞬にして、幹部職員が残っていても、会社の機械が残っていても死に絶えるのである。
法律が絶対だ、と思っている我々であるが、その法的根拠、といったものも、サピエンスが培ってきた発明品なのである。
まとめ
宗教や、ナショナリズムだとか、神話や、資本主義、法律といった様々な高度な文化。もちろん、その中でも資本主義と法律については、密接に僕たちの生活にかかわっているから、逃れることはできないことは十分に理解しつつも、どうしても、それらの「信仰」に対しては、違和感を覚えていた。
その原因の一つを、この本では明らかにしてくれる(完全に新しい概念を生み出すというよりも、モヤモヤ悶々として霧がかった状況を、明瞭に表現してくれるのではないかという期待)のではないかと思った。
まぁ、忘れてはいけないのが、バタイユさんやキルケゴールさんがおっしゃる、「芸術はすべて死の恐怖からの逃避である」とか「客体の問題は主体的な問題の苦悩を遠ざける」といった言語表現であろう。
ただ、インプットとアウトプットは両面必要なことなのだ、というのも、明確にここで残しておこう。
それにもう一つ、これは単に妄想に過ぎない気もするけれども、やっぱり、「物語」というのが重要なのだ、ということの示唆や確信、実感にも繋がるのではないかという期待もある。そうであれば、まさに、今ここで、主体的な問題に取り組んでいるともいえるだろう。
追記というか蛇足というか
ところで、ある方からコメントを頂いた。自分が尊敬している人から褒められるというのは、何だかあまり無い経験なので、何だかとても嬉しい気持ちになった。どんだけ褒められる体験が少ないんだ、ということでもあるが、親や教師や上司や同僚や友人や恋人やその他大勢の人がいても、何だか、その「役割」的な部分における行為が褒められても(いやもちろん、それはそれで嬉しいし、やりがいになるし、生きがいになることなのだが)、どこか「できて当たり前」的な感覚が生じ、「嬉しい」という感情の抑圧に繋がっているように思えてならない。つまり、「素の自分」に対する承認という部分である。
無茶苦茶な、厳しい言い方になってしまうが、「お手伝いができて当たり前」「仕事ができて当たり前」「女性に優しくできて当たり前」ということである。その「役割」において、何が求められているか、というのが、何となく感じ取れてしまう(と書くと、傲慢に過ぎないし、他者が本当に何を求めているかなんて、エスパーじゃないのだから分かるはずがない。ただ、ここで表現しておきたいのは、そうした「感覚」についてだ)。
その求められる役割について、何となく、その方向に行為してしまう。そして、それと違う行動をとってしまったとき、イライラが生じたり、落ち込んだりする、と。まぁ自己分析すれば、よくあるパターンである。
で、さらに悲しき哉、その求められる役割に対して、何らかの行為を行い、それが褒められたり、成果になったとしても、何となく嬉しいのだが、さほどのモノではないのだ。
そのため、昨日の記事は、特にあまり意識していたわけでも、言いこと書こうとしていたわけでもないため、(いや実際、今読んで見るといつものようにグダグダな文章であるわけだが……)、「よかったですよ~」的な一言であっても、かなり真に迫って嬉しいものになるのである。
それはそうと、ネアンデルタール人の女の子可愛かった。
「サピエンス全史」という本が面白いという噂を聞いたため、上下巻まとめて購入した。
以前まとめた、人類勃興期の流れは以下の表。
上の表が、いわゆる歴史教科書的な年代に基づいて作っているが、サピエンス全史では、大きく異なっていたため、既存の知識との整合性が取れず、かなり戸惑った。何だか良さげな本ではあるので、最初は少しじっくりと行こうと思う。


上の本からの記憶だけれど、この「サピエンス全史」では、135億年前がビックバンとされている。
まぁ、この辺りの、年代の差異は、重要なものではないのだろう。目くじらを立てる必要はない。ただ、自分の頭の整理としては、統一する必要がある。取りあえず、137億年という記憶を優先しよう。
次に、地球という惑星の形成、についてだが、これも
サピエンス全史:45億年前
137億年の物語:46億年前
ということでズレがある。ウィキみてみると、「45億4000万年前(±5000万年) - 地球誕生。」とある。ので、やっぱりまぁどっちでもいいってことだろう。ただ、一般的には46億年というのがよく聞くことだ。敢えて、サピエンス全史で45億年としている理由は何かあるのだろうか?
ちなみに、137億年の物語は、ものすごく大きな本だった。広げると巻物のように横に広がり巨大な絵巻図みたいになる。買って届くまで知らなかったので吃驚した。
で、500万年前と書いているが、どうやら、他のサイトとかも調べてみても、600万年前という記載が多い。
高校とかでは、400万年前、猿人、アウストラロピテクス、ルーシー、ぐらいな単語記憶があれば点数取れていたけれども、ここは、600万年前という記憶に上書き更新した方がよさそうだ。
でもって、そもそも、猿人という分類は、日本だけで通用するようなものらしい。サピエンス全史の中でも、一切猿人といった言葉は出てこなかった。
「250万年前:アフリカで、ホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器」
とある。
ん? 打製石器使い始めて、火を使い始めて、言語使用し始めたのって、原人の200万年前ごろじゃないか? 250万年前というキーワードなんて初めて聞いたぞ?
とここで混乱した。
だが、恐らく、原人≒ホモ・エレクトスであり、この250万年前の人の進化とは、原人の出現のことを指しているのだと思われる。
50万年前:ネアンデルタール人が、ヨーロッパと中東で進化する。
とある。ネアンデルタール人とは、「旧人」のことで、脳の容量は現代人より多くて、埋葬の習慣があり、20万年前ぐらいじゃなかったのか、とここでも混乱。
そして、3万年前に、ネアンデルタール人が絶滅したのだという。
50万年前~3万年前がネアンデルタール人で、20万年前ぐらいが全盛期だった、ぐらいな記憶でいようと思う。
ただ、インプットは、本を読み進めていくにあたっても、非常に重要だ。ここがあいまいなまま読んでいくと、読んでいるうちは、ああ、なるほどなるほど、へーそうなんだ、と思っても、いざ読み終わってみると、その前後関係とか因果関係がよく分からなくなっていることが、(僕は)多い。
とはいえ、この年代、即ち、ネアンデルタール人=20万年前というのが危険なのは言うまでもない。
というのは、そもそも、20万年前に突然進化して、突然絶滅した、なんてことはあり得ないからだ。ここが、狭義の「歴史」ではない部分、考古学の部分であることを、十分に理解する必要がある。
今回、まだ、50ページほどしか読めていないかが、今の時点で勉強になったのは、人類の進化が、一直線ではない、ということである。
現生人類(新人……といった呼び方はされない。サピエンス全史では、通じて「ホモ・サピエンス」と呼称される)は、1万3千年前までは、他の「種」と、同じ時代を生きていたのである。
「種(しゅ)」というのは、あれだ、ええと、僕の理解した言葉で表現すれば、繁殖可能な生物の種類(集まり)のことだ。
生殖は、例えば、馬とロバで、「ラバ」という雑種が生まれるし、ライオンとヒョウとで「レオポン」という雑種が生まれる。しかし、その雑種は、繁殖能力を持たない(子孫を残せない)ため、「同じ種ではない」とされるということだ。
ネアンデルタール人と、サピエンスは、同じ種ではないのだという。
ネアンデルタール人以外にも、フローレス島に、フローレス人という、ヒト属に分類される種(しゅ)は他にも沢山いた。
それが、1万3年前までに、サピエンス以外みんな絶滅してしまったのだという。
※補足
フローレス人は、身長1m程度の小人だったという。ホビット族か! と思ってウィキをみていたら、どうやら、最初は1万3千年前までの化石がみつかっていたというが、実は5万年前ぐらいだったというのが最近の説だという。
ということは、実際は、サピエンスオンリーになったのは、5万年前ぐらいかもしれない。となると、新人=4万年前、という、僕が作った年表の記憶でよいかもしれない。
難しいところだ。
とにかく、この年代というのは、今も研究が進んでいるところで、1万年~5万年程度の誤差というか、説が覆ることは珍しくないのだろう。そもそも、猿人=400万年前と覚えさせられていた時代から、600万年前と記憶を変更しなければならなくなったわけだし。
歴史年表の年代暗記がくだらないと思ってしまうのは仕方がない。200万年だぞ。鎌倉幕府がイイクニつくろう1192年が、イイハコつくろう1185年になろうが、どうでもいいレベルだろう。
歴史の勉強で重要なのは、ソコじゃない、ということだ。
・ホモ・サピエンス以外にも種は、1万年前~5万年前には存在していたが、絶滅した。
・しかし、サピエンスにも、ネアンデルタール人とか、その他の種のDNAが混在している
・このことは、サピエンスがその他の種とまじりあった可能性を示唆する。我々は純粋な血統ではない可能性があるのだ。


取りあえずこんなところの、記憶の更新ができた。しかし、真髄というか、本当に面白くなってくるのはここからだろう。
気になるのは、
7万年前の「認知革命」「虚構の言語の出現」というキーワード。
200万年前、この本でいくと、250万年前の原人というか、ホモ・エレクトスというか、それぐらいから、「言語」自体は使われていたと記憶しているが、7万年前の「虚構の言語」とは何を示しているのか。
今の僕の知識では全く分からない。気になる。面白そう。ワクワク。
以前まとめた、人類勃興期の流れは以下の表。
上の表が、いわゆる歴史教科書的な年代に基づいて作っているが、サピエンス全史では、大きく異なっていたため、既存の知識との整合性が取れず、かなり戸惑った。何だか良さげな本ではあるので、最初は少しじっくりと行こうと思う。
歴史年代整理
まず宇宙開闢については、137億年という記憶である。上の本からの記憶だけれど、この「サピエンス全史」では、135億年前がビックバンとされている。
まぁ、この辺りの、年代の差異は、重要なものではないのだろう。目くじらを立てる必要はない。ただ、自分の頭の整理としては、統一する必要がある。取りあえず、137億年という記憶を優先しよう。
次に、地球という惑星の形成、についてだが、これも
サピエンス全史:45億年前
137億年の物語:46億年前
ということでズレがある。ウィキみてみると、「45億4000万年前(±5000万年) - 地球誕生。」とある。ので、やっぱりまぁどっちでもいいってことだろう。ただ、一般的には46億年というのがよく聞くことだ。敢えて、サピエンス全史で45億年としている理由は何かあるのだろうか?
ちなみに、137億年の物語は、ものすごく大きな本だった。広げると巻物のように横に広がり巨大な絵巻図みたいになる。買って届くまで知らなかったので吃驚した。
猿人
上の僕の年表において、「猿人」という言葉を使っている。で、500万年前と書いているが、どうやら、他のサイトとかも調べてみても、600万年前という記載が多い。
高校とかでは、400万年前、猿人、アウストラロピテクス、ルーシー、ぐらいな単語記憶があれば点数取れていたけれども、ここは、600万年前という記憶に上書き更新した方がよさそうだ。
でもって、そもそも、猿人という分類は、日本だけで通用するようなものらしい。サピエンス全史の中でも、一切猿人といった言葉は出てこなかった。
原人(ホモ・エレクトス)
次に、サピエンス全史において、「250万年前:アフリカで、ホモ(ヒト)属が進化する。最初の石器」
とある。
ん? 打製石器使い始めて、火を使い始めて、言語使用し始めたのって、原人の200万年前ごろじゃないか? 250万年前というキーワードなんて初めて聞いたぞ?
とここで混乱した。
だが、恐らく、原人≒ホモ・エレクトスであり、この250万年前の人の進化とは、原人の出現のことを指しているのだと思われる。
ネアンデルタール人
さらに、50万年前:ネアンデルタール人が、ヨーロッパと中東で進化する。
とある。ネアンデルタール人とは、「旧人」のことで、脳の容量は現代人より多くて、埋葬の習慣があり、20万年前ぐらいじゃなかったのか、とここでも混乱。
そして、3万年前に、ネアンデルタール人が絶滅したのだという。
50万年前~3万年前がネアンデルタール人で、20万年前ぐらいが全盛期だった、ぐらいな記憶でいようと思う。
年代の暗記の危険性
事細かな数字の記憶が、あまり役に立たないということが、ここでよく分かる。ただ、インプットは、本を読み進めていくにあたっても、非常に重要だ。ここがあいまいなまま読んでいくと、読んでいるうちは、ああ、なるほどなるほど、へーそうなんだ、と思っても、いざ読み終わってみると、その前後関係とか因果関係がよく分からなくなっていることが、(僕は)多い。
とはいえ、この年代、即ち、ネアンデルタール人=20万年前というのが危険なのは言うまでもない。
というのは、そもそも、20万年前に突然進化して、突然絶滅した、なんてことはあり得ないからだ。ここが、狭義の「歴史」ではない部分、考古学の部分であることを、十分に理解する必要がある。
今回、まだ、50ページほどしか読めていないかが、今の時点で勉強になったのは、人類の進化が、一直線ではない、ということである。
現生人類(新人……といった呼び方はされない。サピエンス全史では、通じて「ホモ・サピエンス」と呼称される)は、1万3千年前までは、他の「種」と、同じ時代を生きていたのである。
種(しゅ)
勉強になったことその二。「種(しゅ)」というのは、あれだ、ええと、僕の理解した言葉で表現すれば、繁殖可能な生物の種類(集まり)のことだ。
生殖は、例えば、馬とロバで、「ラバ」という雑種が生まれるし、ライオンとヒョウとで「レオポン」という雑種が生まれる。しかし、その雑種は、繁殖能力を持たない(子孫を残せない)ため、「同じ種ではない」とされるということだ。
ネアンデルタール人と、サピエンスは、同じ種ではないのだという。
ネアンデルタール人以外にも、フローレス島に、フローレス人という、ヒト属に分類される種(しゅ)は他にも沢山いた。
それが、1万3年前までに、サピエンス以外みんな絶滅してしまったのだという。
※補足
フローレス人は、身長1m程度の小人だったという。ホビット族か! と思ってウィキをみていたら、どうやら、最初は1万3千年前までの化石がみつかっていたというが、実は5万年前ぐらいだったというのが最近の説だという。
ということは、実際は、サピエンスオンリーになったのは、5万年前ぐらいかもしれない。となると、新人=4万年前、という、僕が作った年表の記憶でよいかもしれない。
難しいところだ。
とにかく、この年代というのは、今も研究が進んでいるところで、1万年~5万年程度の誤差というか、説が覆ることは珍しくないのだろう。そもそも、猿人=400万年前と覚えさせられていた時代から、600万年前と記憶を変更しなければならなくなったわけだし。
歴史年表の年代暗記がくだらないと思ってしまうのは仕方がない。200万年だぞ。鎌倉幕府がイイクニつくろう1192年が、イイハコつくろう1185年になろうが、どうでもいいレベルだろう。
歴史の勉強で重要なのは、ソコじゃない、ということだ。
ちょっと整理
・種(しゅ)とは、交配して子孫を残せる生物の集まりである。・ホモ・サピエンス以外にも種は、1万年前~5万年前には存在していたが、絶滅した。
・しかし、サピエンスにも、ネアンデルタール人とか、その他の種のDNAが混在している
・このことは、サピエンスがその他の種とまじりあった可能性を示唆する。我々は純粋な血統ではない可能性があるのだ。
取りあえずこんなところの、記憶の更新ができた。しかし、真髄というか、本当に面白くなってくるのはここからだろう。
気になるのは、
7万年前の「認知革命」「虚構の言語の出現」というキーワード。
200万年前、この本でいくと、250万年前の原人というか、ホモ・エレクトスというか、それぐらいから、「言語」自体は使われていたと記憶しているが、7万年前の「虚構の言語」とは何を示しているのか。
今の僕の知識では全く分からない。気になる。面白そう。ワクワク。
さて、今日は対人関係のカテゴリだ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。
今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。
もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。
なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。
やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。
責任感。
協調性。
倫理観、そしてチャレンジ精神、と。
組織として重きをおくことというのはある。
で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。
まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。
で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。
何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。
ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。
となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。
何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。
何でも面白いと思うことは重要である。
しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。
責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。
そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。
それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。
ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。
ゆえに次は、目的設定力が重要になる。
ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。
まぁさておき。
すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。
欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。
安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。
新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。
でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。
ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。
奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?
否。
という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。
つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。
代替してきたのがAIである。
AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。
AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。
そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。
実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。
男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。
ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。
女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。
別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。
だから、欲求が非常に大事なのだ。
うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。
本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。
そもそも、対人関係は、異性と、友人と、会社と、趣味とに大別される。
今日は僕は何について書こうと思ったのか。
どちらかといえば、会社、だが、異性要素もあり、友人要素もある。
カテゴリ分けという作業は、中々困難である。
頭の使い方
もっというと、対人関係というより、論理的な話し方と頭の使い方と他者の気持ちのそんたく、について書こうと思ったのだ。
なんだかんや、うまくいかないことが多い。
が、そのなかで、まぁなんとかやっている。
やっぱり、頭のいい人はいるんだが、それをどう目指せばいいのか。
責任感。
協調性。
倫理観、そしてチャレンジ精神、と。
組織として重きをおくことというのはある。
で、まぁ、そういう標語ってのを、俺は好きじゃないので、分解してやろうじゃないか。
まず責任感ってなんだよ?
責任って言葉は、結果にたいして、自らのものだとして行動することである。その行動ってなんだよ? 基本的に失敗したことや、問題が起こったことに対して使われる言葉である。
で、だ、まぁこの世界は、正直者が必ずしも得をしないようにできている、ブラック企業であることをロウキに言ったら干されたとか。
何をもって、責任感をはかるのか?
なんでもかんでも、私の責任です! と公言する人が評価される?
違和感である。
ゆえに僕は、目指すべき人間像としての責任感という言葉を、自分で達成可能なこととそうでないことの分類が正確にできる人、と定義しよう。
となると、次に、チャレンジ精神がポイントになる。
チャレンジ精神とは?
何でもかんでも、興味をもつことは正しい。興味をもてないことは、脳のA10神経群でマイナスの感情とレッテルを貼られ、前頭前野や海馬などに伝達しにくくなる。結果、記憶ができにくくなる。
何でも面白いと思うことは重要である。
しかしながら、責任感という言葉と矛盾する。
責任感は、僕の定義では、できることとできないことを明確にして、結果を約束することである。
それが、チャレンジ精神でやることを増やし続けたらどうか?
物理時間は限られている。
どこかで破綻するだろう。
そもそも、何でも新しいことをするのが正しいのか。
いまある目の前の仕事を、丁寧に確実にすることが悪いことなのか。
それは違う。ただし、ここでポイントになるのは、現状維持というのは難しいことなのだ。
ラーメン屋が常連をはなさないのは、微妙に味の更新をしているからだという。
そして、脳機能的にも、単純な同じことだけしていると、パフォーマンスが落ちるのだ。
ゆえに次は、目的設定力が重要になる。
仕事について
ここまで書いて、ああ、今回、カテゴリ対人関係じゃなかったなと気づくわけだ。厳しく野ったら、前半部分は全削除になる。
まぁさておき。
すべての仕事というのは、人の欲求を満たすものである。
欲求とは別に、愛欲や食欲に限らない。
安全欲求だってそうだ。
歳をとっても、豊かに暮らしたい、安定的に暮らしたいという欲求により、保険という仕組みが生まれ、それに纏わる仕事が生じた。
新人は、書類整理だけかもしれない。
何年たっても、複雑な複利計算だけかもしれない。それが人の欲求を満たしている実感はないかもしれない。
でも、直接的ではないにせよ、それは欲求充足のための仕事なのだ。
ブラック企業とは、ある意味、その他者への欲求充足のための、自己犠牲精神なのかもしれない。
だが、見落としているのは、そこに働く個個人の存在だ。ワークライフバランスなんて言葉は、単に残業削減みたいな感覚しか与えないようになっているが、理念としては悪くないし、資本主義的ですらある。
奴隷制は経済的か?
奴隷制が現代なくなったのは、人の博愛精神によるものか?
否。
という考えに僕は衝撃をうけた。つまり、これも経済なのだと。
どういうことか、奴隷は、生産するだけの存在で、消費をしない。しかし、経済とは消費と生産の循環で発展する。
つまり、消費をせず、ただ生産意欲が低い奴隷というのは、主人の所有意識を充足させてくれようが、社会全体としての発展は望めないのである。
代替してきたのがAIである。
AIの議論になると、人間が仕事を奪われる!!
ということになるが、本来おかしな話だ。
AI、ロボットさんがいっぱい働いてくれて、人間がたくさん消費して享楽を得て、働かずに生活できるようになれば、何ら問題はない。まさに楽園の実現であろう。
そうならずに、富のかせんが起こる理由とか、様々あるのだろうが、AIの発展は、ターミネーターみたいなことがない限り、全人類にとって幸せなことであるはずだ。
結婚制度と女性の消費
実際日本社会においても、似たことが最近まであったではないか。
男は会社でもーれつに働き、女性は優雅に女子会ランチ。
ブランドバックに服。楽しみ放題。
ま、そんなんで上手く社会がまわってたこともあった。
女性の社会進出というのも、家で家事して、夫の稼ぎ以上の消費がない状態で、その夫もだんだん給料がさがってくる、となれば、消費が増えないからやっぱり、経済は停滞する、じゃあ女も働くか、となる。
別にフェミニンな運動がすべて功ではなく、経済的な要素が多いに関係するのである。
で、その経済とはなにかととえば、はじめにもどって、欲求、ということになる。
だから、欲求が非常に大事なのだ。
まとまらなくなった
うーん、難しい、テーマをしぼってかくというのは、どうにも面白味にかける。
本当は、いい感じに成功できる人間関係のための頭の使い方、的なのを整理したったが失敗やなぁそして時間ぎれ。
