今日の一言「サイコパス2期も面白かった」
神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
単独者としての概念
キルケゴールさんの本を読んでいて、単独者という概念を、ふと思い出した。神は罪人ではない、という言い方は、すげー冒涜なんだぜ、ということ。人が罪を裁くのは、裁判官とか、警察官とか、看守とか、死刑執行人とか、色々できるけれども、その罪人が多すぎると、その罪を裁くのはあきらめざるをえない、ということになる。もっとひどい場合は、殺戮者や残虐者であっても、それが権威ある人であれば、正しいことであったりもする。というと、罪という概念は、結局、多数派が決めるもの、勝てば官軍的なものに過ぎないのだということになる。
しかし、神の審判は違う。
神は、人間が70億人いようが、全員について、一人一人罪を裁く、審判をくだすことができる。なぜならば、神は永遠普遍の存在だからだ。
(神は神だからすげーんだ、へへーん思い知ったかバカ野郎! というわけだどういわけだ?!)
なんだろう、この記事の内容に関係あることか分からないけれども、何だかこの「単独者」という概念と「自己満足」という概念と、生きる意味ということ、これは密接に関係するというか、大事なことのように思える。
高校の教科書的に、キルケゴールさんって、「物質的な生き方、美的道徳的な生き方、宗教的な生き方があるけど、宗教的な生き方が一番大事だよ!」って言った実存主義のはしりの人です、ぐらいしか触れられないから、現代人特に日本人にしてみれば、「結局キリスト教万歳的なことッスね、あほらし」としかならないんだけど、そうじゃなくて、
「いや、どうせみんな死ぬんだし、信仰的に生きるしか他になくない? 死後の世界とかわかんねーけど、神様信じて生きてった方が精神衛生上よいよね」
ということなんだと、僕は思う(多分、真面目な研究者さんたちには殴られる)。
幻想であった審判が実現する社会
で、何故キルケゴールが出てきたかというと、サイコパス2期で取り扱われるテーマが、「集合的社会秩序(集合的サイコパス)」であったため、頭に浮かんだからだ。個人的に一番不満だったのは、お色気シーンが中途半端だったことぐらいであり、おおむね満足だった。いやその、メディカルケア施設に立てこもった老人が、人質たちを下着姿にして立たせて、「これぞ生まれたままの姿だ!」とか、感情を解き放て、とかやるシーンが前半ぐらいであるが、いや、下着付けてたら生まれたままじゃねーじゃねーかよ! と変態突っ込みをしていた。
年齢制限的なものがうんたらあるかもしれないが、もうどうでもいいぐらいグロテスクなシーンが大量な作品であって、エロとのバランスが取れてないのは逆に違和感になってしまう。エルフェンリートとかは、絵柄が可愛いわりにグロテスクだが、その点(色要素的に)バランスが取れていたので良かったと思う。
まぁそれは本当に大したことではない。
今回の真犯人、キリトくんだが、彼の頭のキレは流石ではあるが、犯行動機が結構人間的であるために、前作のマキシマ氏と比べると、見劣りしてしまうというレビューは何となく分かる。(サイガ先生は一期から変わらずかっこよかったが、その衝撃も一期ほどではなかったし、マサオカさんのように痺れるおやっさんもいなかったので、キャラクター性としてはやっぱり一期の方が良かった気がする)
ただ、シビラシステム自体に対して与えた影響は、非常に大きかった。
シビラシステム自体を、裁きの対象にした=このことは、集合的裁定者(シビラシステム全体)において、「濁り」を自動的に排除する仕組みを認めさせたことによる。
これまでのシビラシステムは、「免罪体質者」という異質な存在の集合体でしかないにも関わらず、それが何故社会秩序を維持できるクリアな存在であり続けられたのかは疑問であった。けれども、その問題が顕在化する前に、第二作目において、シビラシステム自体も、ドミネーター(犯罪係数を計測してそのまま裁定を下す(鎮圧から殺害・破壊まで)銃)が向けられる存在となったのだ。
これが意味するのは、等しく人が「神」と向き合わざるをえなくなった時代を象徴する。
神への冒涜
ええと、ちょっと違うな。その、システム(神)によって、監視されて等しく裁かれる仕組みというのは、前作(一期)のシビラシステムで既に完成されていたのだ。そういった意味で、キルケゴールさんのいう、単独者として神と向き合わなければいけない、という社会は、既に実現していたのだ。そう考えると、第二期で起こったこと(シビラシステム自体が監視や裁定の対象になったこと)は、何を意味するのか?
キルケゴールさんはきっと、「神への冒涜だ!」と怒り狂うに違いない。何故なら、「罪」という概念は、等しく人間に与えられるものであるからだ。「神が罪人だ」というのは、矛盾はなはだしいどころか、冒涜であるというのが有名な「死に至る病」という作品において記されている。
サイコパス第二期=ツネモリ監視官の提案=集合的サイコパスの容認は、神をあくまで「人である」という前提まで引きずり下したことである。
これを成し遂げたのが、キリトくんの業績であったわけだ。
シビラシステム側が、このことを皮肉を込めて、「あーあ。これで、個人がいくら綺麗であったとしても、全体が濁っちゃったら裁かれる対象になったってことだよね。これって、現代の魔女狩りでも起こっちゃうんじゃねーの」と言うわけだけど、まぁ難しい選択肢だといえる。
製作者側の意図は分からないけれども、勝手な解釈をすれば、この作品は、「というわけで、まぁ何が正義とかよく分からない時代なんですけど、あくまで法とか秩序ってのは、「人自身」が選び取って、運営していくものだってことを、これからも忘れないで欲しいってことですわ」ということなんじゃあ、あるまいか。まぁ違うかもしれないけど、僕はそう感じた、思った。
一般意思2.0的な
東浩紀さんという思想家の方の著作を少し思い出した。ルソーの社会契約論の新しい現代版解釈として、WEB(インターネット)社会が、まるで神の見えざる手のように、オートマティックに正義とか秩序といった概念を「集合知」として形成していくのではないか、という提案というか、概念の提供。ほへー、なんかすごそうやなー、ぐらいにしか思わなかったけれども、このサイコパスという作品がなんかそんな社会の一つの在り方の、描かれ方なような気がして、面白かった。
(いや全然関係ないよ! ということかもしれないけれど、まぁ僕はそう思った)
という、言い訳みたいなのが、実は大事で、「僕が思った」というのがないまま、ここで記事を終えたら、単なるレビューみたいになってしまうので、ここから少し考えてみたい。
え、何を?
前向きになれる作品だったか?
ひとまず、いえることは、見てよかったと、自信をもって言えることだろう。例え低評価バイアスがあったとしても、今この時、面白かったという感情を得たことについては、否定しようがない。
問題は、この正義とか秩序という問題が、自分自身の生き方にどう関わるかという点である。
先日の記事において、「物語(価値)を創る」というのが、一つ大きな目標(目的・課題)であると記述したけれども、それについて、何らかの「インプット」として役立つことは間違いないだろう。
ただ、その「何らかの」という意味判断しかできないとすれば、残念ながら、大学や仕事の大量に眠っている資料と同じように、結局、滓でしかないという可能性になってしまう。
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今日の一言「匿名性を損なわずに自己紹介するって矛盾じゃないか?」
ここからは、僕の被害妄想的な考えに過ぎないけれども、結局「本心」というものと、実際の対面状況におけるやりとり(言動)とは、必ずしも一致しないと思っている。こういった考え自体が、女性受けが良くないので、そもそも、こういったことを書くこと言うこと自体が、周囲の環境では望ましくないのであり、それこそが「匿名性」の重要な点だと思う。
ただ、これだけに絞ってしまえば、実際問題、女子会を快く思ってない人が実は5割以上もいるだとか、腹(や、空気)の探り合いだったりすることが、現代人特有(?)のストレス要因だったりすることは、もはや周知の事実になってきていると思うし、まぁこれからもそんな傾向は続くことだろう。
2008年からこう並べてみると、「うわー」って感じになるなぁ。今回抜粋した記事以外にもあるし、そもそも、消してしまったりローカルになっている記事もたくさんあるわけで、本当に厖大だ。
……これ、何か役に立つんかな。
2013年の「日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。」この発言とか、若気の至りだと嘲笑に付すことは簡単だが、しかし、最近同じようなことを書いてはいなかっただろうか。
人は変わろうと思っても中々かわれない。
環境要因が非常に大きい。
だからこそ、敢えて、思考にストップをかけて、様々経験的に身を投じてきたわけだけれども、その経験をいったいどう制御するのかという点において、あんまり良い方法じゃあなかった気もする。
つまり、「最終的に成しえること」をイメージしないまま、「取りあえず」で経験できる状況に身を置こうというのは、もう、やめた方がいいだろうという結論(何を回りくどくいっているかというと、例えば、取りあえず婚活しなよ、とか周りから言われたりするけれども、その「取りあえず」はやめておこうということだ)。
しっかし、難しいなぁ。
生きるって、どうやったらよかったんだろうか。
以下各年度の記事抜粋
匿名であることの意味
とあるリンク先のブログ様において、実名や顔写真付きでブログ書いてる奴はアホか金の亡者だ、と書かれていて、辛らつだなぁと思いつつも、重要なことを仰っていると思う。ここからは、僕の被害妄想的な考えに過ぎないけれども、結局「本心」というものと、実際の対面状況におけるやりとり(言動)とは、必ずしも一致しないと思っている。こういった考え自体が、女性受けが良くないので、そもそも、こういったことを書くこと言うこと自体が、周囲の環境では望ましくないのであり、それこそが「匿名性」の重要な点だと思う。
ただ、これだけに絞ってしまえば、実際問題、女子会を快く思ってない人が実は5割以上もいるだとか、腹(や、空気)の探り合いだったりすることが、現代人特有(?)のストレス要因だったりすることは、もはや周知の事実になってきていると思うし、まぁこれからもそんな傾向は続くことだろう。
自分の過去の整理
というリスクを知ったうえで、ちょっと自分の過去を整理しようと思う。ログをみれば、その当時にどんな思考や感情状態だったかある程度復元することは可能だけれども、いちいちこの時期はどうだったけかなー的なことをやっているのも面倒であるのと、ある程度まとまっていたほうが、建設的なことをかけるのではないかという期待からの作業である。作業後の感想
何か他にも色々書いていたりするけれど、取りあえず目についた記事を適当な感じで抜粋。2008年からこう並べてみると、「うわー」って感じになるなぁ。今回抜粋した記事以外にもあるし、そもそも、消してしまったりローカルになっている記事もたくさんあるわけで、本当に厖大だ。
……これ、何か役に立つんかな。
2013年の「日々の家事に精をだすのは必要だが、十年後、僕がアラフォーになったとき、自分はこういうことができる人間だと、胸をはって言えるべきだ。 これは友人や家族や妻をないがしろにすることに繋がらない。」この発言とか、若気の至りだと嘲笑に付すことは簡単だが、しかし、最近同じようなことを書いてはいなかっただろうか。
人は変わろうと思っても中々かわれない。
環境要因が非常に大きい。
だからこそ、敢えて、思考にストップをかけて、様々経験的に身を投じてきたわけだけれども、その経験をいったいどう制御するのかという点において、あんまり良い方法じゃあなかった気もする。
つまり、「最終的に成しえること」をイメージしないまま、「取りあえず」で経験できる状況に身を置こうというのは、もう、やめた方がいいだろうという結論(何を回りくどくいっているかというと、例えば、取りあえず婚活しなよ、とか周りから言われたりするけれども、その「取りあえず」はやめておこうということだ)。
しっかし、難しいなぁ。
生きるって、どうやったらよかったんだろうか。
以下各年度の記事抜粋
今日の一言「無知の知と言われてから2000年近く根付かなかったというわけか」
参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html
というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。
それは、知らないことがある、ということだ。
15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。
それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。
空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。
空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。
科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。
未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。
例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。
ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……
これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。
ポイントは、「楽しいかどうか」である。
例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。
残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。
言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。
俺は違う、と、今は思う。
というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。
数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。
パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。
所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。
で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。
所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。
ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。
生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。
ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。
程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)
多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。
そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。
仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。
脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。
むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。
なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。
簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。
人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。
とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。
科学革命
科学革命とは、超自然的な宗教観が取っ払われ、経験と観察により知識を積み重ねようとする17世紀のヨーロッパで起こった意識革命である。参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html
というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。といったことを書いた。
今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。
人間の意識で何が変わったのか
すべての自然現象は、神の御業である、という観念が、自然法則という、ニュートン力学といった自然科学の体系に基づくのであるという観念が広がっていったことが、科学革命のポイントであることは間違いないが、神と自然との切り離しという点以外に重要な意識的変化があるということである。それは、知らないことがある、ということだ。
15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。
それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。
空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。
空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。
科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。
終わりなき探求の旅
で、何故僕がこれをメモしておくほど大事だと思ったかというと、この考え方を、未だ多くの人が共有している気がしているからだ。未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。
例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。
ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……
これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。
ポイントは、「楽しいかどうか」である。
例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。
残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。
楽しい仕事なんて幻想だ
ある方は、仕事で楽しいなんて言ってるうちは、本当に苦しんでないから、真面目に生きてない奴だ、ということを仰っていた。言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。
俺は違う、と、今は思う。
というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。
数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。
パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。
所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。
で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。
所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。
ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。
意味を創りあげるしかない
であるからにして、生きる意味なんて考えたって仕方がない、今ここを大事に楽しもうぜ! という主張には、僕は甚だ同意しかねる。生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。
ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。
程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)
多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。
そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。
ちょっとまとめ
真面目に、頑張って生きなければいけない、という方策に僕は反対する(昨今は嫌悪すら覚える)。仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。
脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。
むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。
なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。
簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。
人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。
とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。
今日の一言「寒いな」
こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
穏やかな連休
体調も悪くなく、久々に穏やかな休みを過ごせている。こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
身の回りの整理や掃除
整理整頓という言葉がある。整理と、整頓とは別の概念である。整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
情報の集約性
うーむ。本当は、タイトルの、思考言語と口頭言語と文章言語について書きたいと思っているけれども、やはり話が中々進まなそうだ。こういうときの書き方、というのも、今後洗練させていきたいものだ。例えば、記事を二つ以上にわけるとか、どのタイミングでジャッジするか、など。ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
整理の方法
整理とは、いるものといらないものを分けることであると、先ほど書いた。けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
物語を創る能力
もう一つ大事なことは、コアコンピタンス、である。(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
今日の一言「悪夢で眠れない夜に」
ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠
上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
夢のもつ感動さ
最近、特に、書き出しが憂鬱である。何だか、とてつもなく面白くない話しにしかならないのではないかという強迫観念。あぁ、その、先日書いたように、面白い面白くないというのは、所詮は究極の自己満足に過ぎないわけで、不特定多数を気にしては仕方がないというのはその通りと思いつつ、ここで思う憔悴した気持ちというのは、ごく僅かな人に対しても、そして自らに対してもそう(面白くない)のではという気持ちである。ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
初恋への執着は美しい?
ものすごーく、気持ちの悪いことである。生理的嫌悪を与えるだろうそんな文章になるだろう。そんなの、何故公開するん? という思いは同時に当然ありながら、これは、先日読んだある精神科医さんのブログ記事にも、(ある意味悪い方向で)勇気づけられたことである。私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
本題どうした?
・好きな人の恋愛相談に笑顔でのっていた・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
落ち着いてみると
30代のおっさん(おっさんとは何か。最近、「老人」という概念もなくそうという動きがあるようだ。死ぬまで現役! みたいな)が、「恋」について書いているというのは、うん、全く持ってキモチワルイとしか思えないだろう。しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
よいわるいの評価はここではない
それが良いことだったのかどうか、そんなの分からない。「恋」なんてしなくても、それなりに人と付き合って、セックスして、結婚をして、子どもをつくって、大変ながら育て上げて、幸せな生活を送る、という人は大半なことだろう。無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
蛇足
んでまー、有名なブログさんとかになると、恐らくすごい批判コメントとかくるわけだよね。文字通り「キモイ」「死ね」みたいな。そんなこんなで、コメント欄を閉鎖しているブログさんたちは沢山いるわけだ。もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
