今日の一言「無知の知と言われてから2000年近く根付かなかったというわけか」
参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html
というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。
それは、知らないことがある、ということだ。
15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。
それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。
空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。
空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。
科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。
未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。
例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。
ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……
これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。
ポイントは、「楽しいかどうか」である。
例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。
残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。
言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。
俺は違う、と、今は思う。
というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。
数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。
パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。
所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。
で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。
所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。
ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。
生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。
ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。
程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)
多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。
そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。
仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。
脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。
むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。
なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。
簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。
人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。
とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。
科学革命
科学革命とは、超自然的な宗教観が取っ払われ、経験と観察により知識を積み重ねようとする17世紀のヨーロッパで起こった意識革命である。参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html
というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。といったことを書いた。
今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。
人間の意識で何が変わったのか
すべての自然現象は、神の御業である、という観念が、自然法則という、ニュートン力学といった自然科学の体系に基づくのであるという観念が広がっていったことが、科学革命のポイントであることは間違いないが、神と自然との切り離しという点以外に重要な意識的変化があるということである。それは、知らないことがある、ということだ。
15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。
それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。
空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。
空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。
科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。
終わりなき探求の旅
で、何故僕がこれをメモしておくほど大事だと思ったかというと、この考え方を、未だ多くの人が共有している気がしているからだ。未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。
例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。
ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……
これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。
ポイントは、「楽しいかどうか」である。
例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。
残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。
楽しい仕事なんて幻想だ
ある方は、仕事で楽しいなんて言ってるうちは、本当に苦しんでないから、真面目に生きてない奴だ、ということを仰っていた。言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。
俺は違う、と、今は思う。
というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。
数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。
パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。
所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。
で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。
所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。
ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。
意味を創りあげるしかない
であるからにして、生きる意味なんて考えたって仕方がない、今ここを大事に楽しもうぜ! という主張には、僕は甚だ同意しかねる。生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。
ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。
程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)
多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。
そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。
ちょっとまとめ
真面目に、頑張って生きなければいけない、という方策に僕は反対する(昨今は嫌悪すら覚える)。仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。
脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。
むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。
なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。
簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。
人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。
とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。
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今日の一言「寒いな」
こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
穏やかな連休
体調も悪くなく、久々に穏やかな休みを過ごせている。こういった、何もない時間、無為に過ごせることというのが、本当の幸せではないかと思う。今後のことを考えると、不安や焦燥だらけかもしれないが、今このときをしっかりと生きることが重要であると、改めて思うわけである。
上のようなことを思ったとき、僕は、いくつか、気分を悪くする言葉が含まれていることに気づいてしまう。そのことが、何とも、普段の苛々などに繋がっている可能性について、無視するわけにはいかないだろう。
まず一点、「本当の幸せ」という言葉。他のサイトなど読んでいて、「真理」とかそういう言葉をやたらめったら、吹聴して目指させようとする、そんな表現が好きではない。逆に、「今この時をしっかり」というのも同様に違和感である。
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。
それは後ほど書いてみようと思うけれども、まずは、近況と、それに伴う自分の感情感覚の変化を先にメモしておこう。大したことではないため、逆にそれゆえ、すぐに忘れてしまいそうだ。
身の回りの整理や掃除
整理整頓という言葉がある。整理と、整頓とは別の概念である。整理とは、いるものといらないものを分けることであり、結果としていらないものは捨てることである。
整頓とは、あるものを、使いやすいようにカテゴライズ、並べることである。
さらに、掃除とは、チリやごみやカビなどを除去し、綺麗にすることである。
掃除は好きだけど、整理整頓は苦手、もしくは、整理はできるけど整頓が苦手、みたいに、身の回りの環境を良くするためには、整理、整頓、掃除、これらを総合的に高めていく必要がある。
まず自分は、整理が苦手なのか、整頓が苦手なのか、はたまた掃除が苦手なのか、自分の長所短所を見定めることが必要なのは、勉強も仕事も恋愛もスポーツも、すべてに通じる大切なことである。
といった概念的なことって、僕は結構好きだったりするけれども、今の時代(すなわち、すぐに役立つことや効率的なことを重視する傾向)においては、見向きがされないことである。
まぁそれもそのはずで、結局、そんな概念があったところで、自分がどうするか、という実践面がなければ、ゴミよりも邪魔な知識となるに過ぎない。
というわけで、水回り、――台所、洗面所、風呂場、トイレの掃除を行った。ピカピカになった。これは結構、気分がよい。廊下に置かれたもの、洋服、スーツなどを整理した。すっきりした。これは結構、気分がよい。
昨年の引っ越しで、かなり整理(ものを捨てた)が進んだけれども、やはりまだまだ物は多い。
逆に、新しい趣味的なのを始めたために、物が増えている側面もある。
例えば、大学の授業や仕事関係のノートとか、資料とか、それらはもう要らないかな。本当は、結構大事なエッセンス(こう、ブログに書いていることの漠然とした知識や話題の、根拠となるもの)だったりするのだけれども、別にこれから先、誰かを絶対説得しなきゃいけないようなことなんて無いだろうし、あったとしたら、それはそれで別の根拠立てすればいいことだし、昔の資料に頼るなんて非効率なのかもしれない。
ただ、記憶の保持性という面においては、その費やした時間における「場所」や「タイミング性」というのが結構重要なので、残しておいてしまっている、のだけれども、むしろそういうのは、このブログに集約させていってしまった方がよい気がしてくる。
情報の集約性
うーむ。本当は、タイトルの、思考言語と口頭言語と文章言語について書きたいと思っているけれども、やはり話が中々進まなそうだ。こういうときの書き方、というのも、今後洗練させていきたいものだ。例えば、記事を二つ以上にわけるとか、どのタイミングでジャッジするか、など。ええと、前の小見出しの話を引き継ぐと、そうさな、大学とか仕事関係の情報は、個別具体的には書くことができないため、そういう意味で、ピンポイント記憶復元資料として、ブログを活用するのは困難だろう。
ただ、応用可能性のあること以外の記憶は、正直もう要らないかな、とも思う。
つまり、大学の時あの授業をしているときに、隣の友人とこんなことを話していたとか、ファミレスで遅くまで遊んだり会話していたこととか、そういうローカルな記憶。
そういえば、そんなことしてたな~楽しかったね~みたいな、そういった、郷愁的な記憶。
いわゆる、思い出。
あったらあったで、いいことだろうし、大事なものだとも思いながら、それが、何らかの資料がなければ復元できないようなものなら、もう捨て去ってもいいんじゃないかと。
何か分からないけど、いつか役に立つかもしれない。そんな風に思ってしまうことは、恐らく多くの人にとって共通的にあることだろう。何せ、捨ててしまったら、なくしてしまったら、それは「死」と同じ、取り返しがつかないことなのだ。何かを手放すというのは、中々、勇気のいることではあるまいか。
それはそうなのだけれども、でも、例えば厖大なデータベースの情報があったとしても、それにアクセスするための手段がなければ、それは何ら意味をもたない情報、つまり、ゴミと同じだということだ。
もちろん、ただ、その管理方法があろうがなかろうが、「情報がここに存在する」というその事実があることは、それだけで「神話的な」意味を持つ場合がある。もっといえば、「安心感」的な充足。それはそれで、価値あることだと思われる。
ただ、容量オーバーになってしまうと、身体も思考も、処理速度の低下が避けられない。ようは程度の問題だが。
その程度の問題に過ぎないため、どうにも中々、大きなライフイベントがあるタイミングでしか、整理が中々進まないのである。
例えば、ポイントカードとか。もしかしたら、またこの店に行くんじゃないかとかね。もう1年は行ってないけど、例えば、この中古品を売るなら、また使うしなぁという、必要な理由があったりすると、さらに判断が難しくなる。
整理の方法
整理とは、いるものといらないものを分けることであると、先ほど書いた。けれども、前の小見出しのとおり、いるorいらないの判断は、中々難しい場合がある。
なので、実際に整理を本気で始めようとするときは、そのいるorいらないの判断基準を、明確に決めておく必要がある。
それは、数値化できるものでなくてはならない。
何となく使うかもしれない……とか、そんな気持ちになったとき、「1年以内に使ってないものは、捨てる」という明確な数値基準があれば、行動に移すことができる。
それでも、悩ましい場合もある。そんなときは、保留ボックスを使うといい。捨てるものについて、すぐさまごみ処理場に送るのではなく、3か月ぐらい、段ボールか何か箱の中にいれておくのだ。それでも使わなければ、今度こそ捨て去るのである。
物語を創る能力
もう一つ大事なことは、コアコンピタンス、である。(流行りの(既に流行りでもないが)横文字を使うと、一部かっこよくみえ、一部アホにみえる。敢えて使ってみるのは、自分自身の記憶の結節点のためである)
コアコンピタンスとは、競合他社(他者)に負けない能力や分野のことである。
ここでは独自解釈として、自分の軸となるもの、行為、思考のこととする。
「俺はこの分野ならだれにも負けない!」
まぁそういう感覚を得られるような能力や分野が大事だよね、ということだ。
しかし、これらの方策について書くとなると、また一本他の記事にした方がいいぐらい色々いいたいことが出てくるので、あまり深く触れない。
取りあえず、昨年か、一昨年か、どこかで書いたように、「物語(ストーリー)を創る」という能力について、僕はこれからも着手していきたいと思っている。
これは、別に小説とか、エンターテイメントに限らず、もっと広く書くならば、「意味や価値を創る」といってもよいかもしれない。
非常に漠然としていて、何がどうすれば、どう鍛えられるのか、そもそも「分野」としてカテゴライズできるものかも分からない。
ただし、自分の中では、ようやく、何となく分かってきている気がしている。それでもって、恐らく、これは、積極的な意味だけでなく、僕としては、そうせざるを得ないような、そんな消極的な意味すらあるように思えてきている。
(例えば、生きる意味なんて考えても無意味だけれども、今後もそうせざるを得ないだろうという記述から読み取れる)
話が少しそれているけれども、整理において、その、自分の重要視すること、コアコンピタンスに合致する「もの」かどうか、それも基準として明確にしておいた方がよいということだ。
「そのモノが、自分を幸せにしてくれるかどうかで判断しなさい」
といったアドバイスをみたり読んだりしたことがあるけれども、初めに僕が書いて、何か気にくわない表現だ、と言っていたように、その「幸せ」という表現も僕は嫌いである。
いや厳密に書けば、「幸せ」の概念はもちろん大好きだし、目指したいところだけれども、表現として用いられる幸せというのは、結局のところ、「何も示してなどいない」のである。
ああ……このことも、まだ書き足りない、もっと掘り下げなければいけないことだ。しかし何故だ、こう、やらなければいけないことは沢山あるにも関わらず、こうやって書き始めるまで、ものすごく、何もやる気がしないのだ。始めてしまえば体力が尽きるまでやり続けられるというのに、何か始めるという、そのエンジンをかけるのが中々難しい。
そうだな、今年の目標としてたてるとしたら、そのエンジン始動までの時間を短くする、というのも大事なことな気がする。
取りあえず、次回、「思考言語と口頭言語と文章言語」について書こう。
今日の一言「悪夢で眠れない夜に」
ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠
上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
夢のもつ感動さ
最近、特に、書き出しが憂鬱である。何だか、とてつもなく面白くない話しにしかならないのではないかという強迫観念。あぁ、その、先日書いたように、面白い面白くないというのは、所詮は究極の自己満足に過ぎないわけで、不特定多数を気にしては仕方がないというのはその通りと思いつつ、ここで思う憔悴した気持ちというのは、ごく僅かな人に対しても、そして自らに対してもそう(面白くない)のではという気持ちである。ただ、久しぶりの感覚――、これは、離婚を突き付けられたような時よりも、よほど精神的にダメージが与えられたため、その感覚はメモしておいた方がよい気がしたのだ。明け方に、目が覚めてしまったしなぁ。
いやもちろん、その持続性、現実生活への影響と比べてみれば、単純に、一時的な、昔の「夢」(寝たときにみるやつ)は、今こうして覚醒状態にあってみれば、幻に過ぎないことは重々認識できるのであるけれども、この心の動き(と、書いてしまうと、「感動」という表現になる。まぁ間違っていない気がする。ただ、振れ幅は、完全にマイナスに向けてずどーんと動いた感じ)は、ここ数年において苛々するようなことは沢山あったけれども、そんなの完全超越しているよね、と思わざるをえない。
初恋への執着は美しい?
ものすごーく、気持ちの悪いことである。生理的嫌悪を与えるだろうそんな文章になるだろう。そんなの、何故公開するん? という思いは同時に当然ありながら、これは、先日読んだある精神科医さんのブログ記事にも、(ある意味悪い方向で)勇気づけられたことである。私は『秒速5センチメートル』に心酔してしまった“咎人”だ
cf.シロクマの屑籠上の作品に共感するような奴はダメな奴だ! という記事である(大いに脚色粉飾したまとめ)。
秒速5cmという作品は、いわゆる初恋の人に対する思いを、ずーっと持ち続けて今を生きられなくなってしまった男の末路を描く作品であって、その虚しさや気持ち悪さというものを、新海誠さんは、それをまるで神の愛のように神々しく価値のある美しいものとして描いたのであった。
この作品は、結構有名なので、アニメーション映画をあまり見ない人も、結構知っている。その場合において、評価は大きく分かれる、というよりも、あんまり現実的な関係の人と話したときに、この作品が「面白い」と思ったという人に出会ったことが無い。
上の精神科医さんの言葉を用いると、「非モテマインド」の踏み絵的なもんじゃないか、と思うわけである。
本題どうした?
・好きな人の恋愛相談に笑顔でのっていた・昔の親友に声をかけたら忘れられていた(あろうことかその人が彼氏に!)
結論先に書いてしまうと、夢を見て、明け方に目が覚めましたと。その夢というのは、とっても自分にとっては、悪夢でしたと。
そういう記事である。
ああ、でも、可愛かったなぁ……と、先日帰省して、卒業アルバムなんつーものをみたりしたのも、時間差攻撃となったような気もする。まぁしかし、その時は、その諸悪の根源(なんつー書き方だ!)をみても、それほど感慨は無かったのであった。まぁ確かに、一般的に可愛いような気もしないでもないが、じゃあクラスでトップをはれるか、というとそうでもなかろう。それにも関わらず、相手のことが気になって、あっていないときも脳内占有率を高め、些細な一言や動作に一喜一憂し、感情の高鳴りを抑えられなかった日々を、朝も夜も日柄ずっと過ごしていたというのは、いわゆるそれは「恋」という状態であったと思う。
こんな気持ちの悪いことを敢えて書くというのは、本当に珍しいというか、ここ何年も、いや10年近くなかったような、そんな気さえしたからである。と書いてみると、まぁ恐らく、何年かおきぐらいに、こういった夢はあった気がするから、ちょっと大げさな気もする。ただ、その時は文字通り憔悴してしまって、記事は残っていないと思われる。逆にもったいないよね。そんな精神ダメージを受けて、一人悶々としていたなんて、それは、誰にも分からないことであった。それは、今の自分、即ちその時における未来の自分にさえも、伝えることが叶わなかった哀しき思いなのである。
はっきりいって、
「こういうことだから」
と、離婚を突然突き付けられたときよりも、ダメージは大きかったように思える。それは、ひどいことを書いているのは間違いないが、多分、「恋」という状態ではなかったからなのだろう。いわば、生活の基盤の一つが失われるような、そんな喪失感の一つに過ぎなかったのではないかと、そんな邪推である。
落ち着いてみると
30代のおっさん(おっさんとは何か。最近、「老人」という概念もなくそうという動きがあるようだ。死ぬまで現役! みたいな)が、「恋」について書いているというのは、うん、全く持ってキモチワルイとしか思えないだろう。しかし、あの頃を思えば、逆に異常だったのではないか、とも思う。一人の人への執着、「愛」ということについて、恐らく、ああまで狂わしく思い続けるということは、あまり人は無いものなんじゃあないか。
これは、簡単に成就してしまったのなら、きっとそれほど自己の肥大化みたいなことは起こらないと思われる。仲良くなって、好きになって、気付くと自分の友人と仲良くなっていて、付き合っていて、恋愛相談とかされてそれを笑顔で聞いて必死でその人のためを思ったり、そんなことしているうちに、だんだんおかしくなっていくような類のものだと思う。
そんなバカげた思い、行動、思惟、感情、それらを現代風に表現したのが、前述の秒速5cmだったのだろうと思う。
このキモチワルイ文章は、しかし、重要な(おそらく自分にとってのみ)ことを教えてくれる。例えば、その秒速5cmという作品、かなりヒットしたとはいえ、共感した、面白かった、という人と、そうでない人は分かれてしまうということである。普遍的な作品を検討することの、虚しさを感じさせてくれはしまいか。その作品があったから、ある精神科医さんは記事を書いてくれたし、自分もそれを読むことができた。
そのせいで夢をみてしまったのかもしれないが、ただ、過去の狂ったような感情は確かにあったわけで、それに対する「解釈可能性」を与えてくれたことは、非常にありがたいことだと思う。
もっと書けば、こうした文章表現を、僕がずーっとしてきたというのは、その、恐らく「恋」という状態のカオスさを、いかにして表現するか、感情のコントロールをするかという、長年の自分の心との戦いであったようにも思われる、今にしてみれば。
よいわるいの評価はここではない
それが良いことだったのかどうか、そんなの分からない。「恋」なんてしなくても、それなりに人と付き合って、セックスして、結婚をして、子どもをつくって、大変ながら育て上げて、幸せな生活を送る、という人は大半なことだろう。無駄な時間を過ごしたと、僕はただ過去を悔恨し頭を抱えるだけなのか?
くしくも、某国の残虐な処刑動画や、首つり自殺の一部始終を移した映像などをみて、ああ、死ぬの怖いなと思ったその翌日ぐらいに、過去の夢をみて、本当に死にたいくらい惨めな気持ちになった。
夢だし、過去のことさえも記憶が曖昧だから上手く書けないけれど、本当に好きになった人から、その人が好きになった人のことを楽しそうに話されて、それを辛い気持ちで聞きながらも、ああやっぱり可愛いなぁとか思っている状態というのは、まー、NTR(ネトラレ)とかいうジャンルもあるようだから、これも残念なことに別に珍しいことではないのだろうけれども、それでも、精神的にはよろしくない状態に思える。特にそれが何年にも渡った場合にはそうだろう。
(いやぁまぁ、ゲーテさんのウェルテルくんの悩み、みたいな作品もあるから、まぁやっぱり別に珍しくない。ただ逆に、その「純愛」的なものが、自死に繋がる可能性もあるんだよ、という示唆というのは、やはり古典、名作と呼ばれる所以に思える)
逆に、それ以来、「恋」というのは、してなかったのかもしれないな、とふと漠然と思った。
それが、よいことなのか、わるいことなのかは、正直全然分からない。
ただ、2017年としての目標として、「婚活をして素敵な女性と付き合う!」という目標よりも、「燃えるような恋をする!」という目標の方が、断然ハードルが高いような気がするのは、きっと気のせいではないだろう。
とはいえ、仕方がないだろう、生きる意味を徹底して考える、というのであれば、こういった気持ちの悪い感情についても、十分に吟味する必要があるだろう。今ようやく衝撃体験からしばらくして、明け方に目が覚めて、二度寝して無かったことにしようなど、しなくてよかったと、そう思う(ものすごく眠くなってきたが……)。
良い悪いの判断は、今じゃない。
それも、所詮は主観的な問題に過ぎない。
その長期間精神をすり減らした過去の経験があったから、離婚というまぁ日本人の1/3しか経験しないと言われることになっても、比較的早く立ち直れた(というよりも、そもそも、立ち直るとは、どっからもって、「正常に戻った」という意味で用いるのか。何を異常とするのか)とも換言(還元)できるのである。
――もちろん、当時メッセージくれた方々のおかげで、そもそもこのブログというか記事を書くことができる場を維持できたことが、実は、とてつもない奇跡というか、ラッキーだったと思っていて、こうしたより気持ちの悪い記事を書くたびに、同時に感謝の念がわきあがってくるというのも、またいと面白き。眠い。
蛇足
んでまー、有名なブログさんとかになると、恐らくすごい批判コメントとかくるわけだよね。文字通り「キモイ」「死ね」みたいな。そんなこんなで、コメント欄を閉鎖しているブログさんたちは沢山いるわけだ。もったいないよなぁ。無駄だよなぁ。「キモイ」という感覚というのは、逆に、別に、悪いことじゃないと思うわけだ、ただ、その感覚を、ただその程度の言語表現しかできず、コメントに残すというのに、いったい何の意味があるというのだろうか。まぁ、その「キモイ」というのが、筆者が気付いていない場合も往々にしてあるから、それを気づかせてあげるという意味はあるのかもしれないが、その「キモイ」という感覚を、是非うまい具合に表現して欲しいと、僕は思う。
どれもこれも、それがよいものだろうが悪いものだろうが、長期的に見れば間違いかもしれないし危険なことかもしれないが、瞬間的に生じたソレ(感情)は、人間の嘘偽りのない思考感情なのだろう。それ自体に、「よい」も「わるい」もないと思う。ただ、それを上手くコントロールして、社会的に、家族的に、上手い具合に円滑に関係をまわしていくために必要な「感情」というのはあるのだろうから、それに向けて「修正」することもまた必要だろうと思う。
その、円滑さに対しての基準からズレたときに、「キモイ」という感覚、感情がわきおこるのだろうけれども、僕がもし唯一悩める人に傲慢にもアドバイスできるとしたら、その悩んでいる状態における「感情」というものに対する価値判断というのを、意識的にストップすることが、手始めに重要であると、そんなことかもしれない。などと、蛇足であった。まずはてめーがしっかりやれや。
面白い記事とは何か。
まず、文章は、三つに分けられる。
1つは面白いもの、2つは役に立つもの、3つはつまらなく役に立たないものだ。
役に立つというのは比較的簡単だ。読み手が求める情報が含まれている文章のことである。
一方、面白さ、となると、これは難しい。それは、主観要素が強いからだ。
読者は、文章について、何か求めるものがある。
それが満たされたとき、面白いと思うか、役に立ったか、どちらかを得る。
例えば、知人のブログやFacebookの記事に対して、役に立つことをそれほど求めているだろうか?
料理のレシピを毎日のせてくれる友人がいるかもしれない。しかし、その友人よりももっと優れた料理記事を書く人は、残念ながら大勢いるだろう。
しかし、ここでは、その知人、という属性が多いに意味を高めている。それは様々な理由があるが、大きいのは、信頼性という面である。
知らない誰かの記事よりも、自分の知っている人が言ってることの方が信頼できるというのは当たり前である。
しかし、不特定多数に向けた記事においては、その信頼性が働かない。そうしたとき必要なのが、興味を惹くことだ。それには、自分自身についてや、そもそも、これから書こうとする記事についてインパクトを与えることを簡潔にキャッチーに記述する必要がある。
ゆえに、面白い記事を、身内だけでなくて、普遍的に書こうと思ったら、これは矛盾するようだが、逆に、読み手を限定する必要がある。
例えば、このブログは、30代の男が離婚したけどさぁどうやって生きていこうか考えるブログであって、その、同じような境遇の人に向けられたものである。
この、同じような、というのは、30代である必要もなければ、男である必要もなく、もちろん、離婚をしたかどうかも関係ないのは、過去の記事からの連綿とした内容を見れば分かることなのであるが、残念ながら、初見の人に対してそこまで伝える方法は、存在しない。
そうなると、もう、一つ一つの記事が、真っ向全力勝負となる。
資本主義やら、量子物理学やら、小難しいことを書いている記事にぶちあたったら、求めていたものが違うと、即座にブラウザバックになることだろう。
ゆえに、流し読みでもなんでも、とりあえず読んでくれた方にはいつも大変感謝である。
その上で、コマーシャリズムは好きではないが、書き手と、読み手のマッチングというのは、とても重要な仕事になりえると思う。
しかし、これまた逆説的に、そのマッチングしてくれる人と、自分の感性、求める方向性が一致していないと、その仕事はいくらがんばっても、空振りに終わるのである。
そもそも、何故僕が、こんなことを書かなければいけなかったかといえば、似たような、思考をそのままアウトプットしたようなブログや記事を、いくつか拝見したことが起因である。
そして、なんというか……それらが、つまらなかった、というか、表現が稚拙すぎて面白くなかったのである。
それを思うと、ああ、俺が書いてるのも、つまらねーんだろうなぁと、思ってしまい、いくつかストックしていたものの、投稿することができなくなってしまった、のが、年末から最近にかけての出来事である。
ただ。そうはいっても、やっぱり、その、読者は、絶対的に限定せざるえないのであるがゆえに、結局あまり気にせず書いていくしかないとおもったわけだ。
傲慢すぎるけれど、これで面白くなかったら、残念、貴方にはあわなかったのですね、と、そんな意気込みでもいいかもしれない。
ただ、そうはいっても、過去か、未来の、せめて自分にとってだけは、何らか、面白いか、役に立つかの感情は起こさせてあげたいものだ。
今年も好き勝手書いて行くので、適当な感じでお付き合いください。
どうぞ本年も宜しくお願いします。
タイトルの回収すると、無理。なるようになるしかない。
ただ、表現や文章作法、構成、小見出しの付け方など、留意すべきテクニックは多くある。これらについては慢心することなく、感情的に高ぶっているときも、留意していきたい。
文中のあまり面白くなかった記事というのは、リンク先の方々とは別です。例えばミルトンのレビューとかむちゃくちゃ面白かったです。
まず、文章は、三つに分けられる。
1つは面白いもの、2つは役に立つもの、3つはつまらなく役に立たないものだ。
役に立つというのは比較的簡単だ。読み手が求める情報が含まれている文章のことである。
一方、面白さ、となると、これは難しい。それは、主観要素が強いからだ。
興味を惹く必要性
読者は、文章について、何か求めるものがある。
それが満たされたとき、面白いと思うか、役に立ったか、どちらかを得る。
例えば、知人のブログやFacebookの記事に対して、役に立つことをそれほど求めているだろうか?
料理のレシピを毎日のせてくれる友人がいるかもしれない。しかし、その友人よりももっと優れた料理記事を書く人は、残念ながら大勢いるだろう。
しかし、ここでは、その知人、という属性が多いに意味を高めている。それは様々な理由があるが、大きいのは、信頼性という面である。
知らない誰かの記事よりも、自分の知っている人が言ってることの方が信頼できるというのは当たり前である。
しかし、不特定多数に向けた記事においては、その信頼性が働かない。そうしたとき必要なのが、興味を惹くことだ。それには、自分自身についてや、そもそも、これから書こうとする記事についてインパクトを与えることを簡潔にキャッチーに記述する必要がある。
読者のイメージ
ゆえに、面白い記事を、身内だけでなくて、普遍的に書こうと思ったら、これは矛盾するようだが、逆に、読み手を限定する必要がある。
例えば、このブログは、30代の男が離婚したけどさぁどうやって生きていこうか考えるブログであって、その、同じような境遇の人に向けられたものである。
この、同じような、というのは、30代である必要もなければ、男である必要もなく、もちろん、離婚をしたかどうかも関係ないのは、過去の記事からの連綿とした内容を見れば分かることなのであるが、残念ながら、初見の人に対してそこまで伝える方法は、存在しない。
そうなると、もう、一つ一つの記事が、真っ向全力勝負となる。
資本主義やら、量子物理学やら、小難しいことを書いている記事にぶちあたったら、求めていたものが違うと、即座にブラウザバックになることだろう。
ゆえに、流し読みでもなんでも、とりあえず読んでくれた方にはいつも大変感謝である。
その上で、コマーシャリズムは好きではないが、書き手と、読み手のマッチングというのは、とても重要な仕事になりえると思う。
しかし、これまた逆説的に、そのマッチングしてくれる人と、自分の感性、求める方向性が一致していないと、その仕事はいくらがんばっても、空振りに終わるのである。
結論的には好きなことを書くしかない
そもそも、何故僕が、こんなことを書かなければいけなかったかといえば、似たような、思考をそのままアウトプットしたようなブログや記事を、いくつか拝見したことが起因である。
そして、なんというか……それらが、つまらなかった、というか、表現が稚拙すぎて面白くなかったのである。
それを思うと、ああ、俺が書いてるのも、つまらねーんだろうなぁと、思ってしまい、いくつかストックしていたものの、投稿することができなくなってしまった、のが、年末から最近にかけての出来事である。
ただ。そうはいっても、やっぱり、その、読者は、絶対的に限定せざるえないのであるがゆえに、結局あまり気にせず書いていくしかないとおもったわけだ。
傲慢すぎるけれど、これで面白くなかったら、残念、貴方にはあわなかったのですね、と、そんな意気込みでもいいかもしれない。
ただ、そうはいっても、過去か、未来の、せめて自分にとってだけは、何らか、面白いか、役に立つかの感情は起こさせてあげたいものだ。
まとめ
今年も好き勝手書いて行くので、適当な感じでお付き合いください。
どうぞ本年も宜しくお願いします。
タイトルの回収すると、無理。なるようになるしかない。
ただ、表現や文章作法、構成、小見出しの付け方など、留意すべきテクニックは多くある。これらについては慢心することなく、感情的に高ぶっているときも、留意していきたい。
補足
文中のあまり面白くなかった記事というのは、リンク先の方々とは別です。例えばミルトンのレビューとかむちゃくちゃ面白かったです。
2017年
などと書いていたら、年が明けてしまったよ。恒例の何だか自意識をこねくりまわしたような、来年の抱負とかそんなものをしてる間もなく、年老いた両親と過ごしたよ。まだ元気だけれどもね、年月の経過は否めないよね。今回は休みが短いのもあり、完全に頭を切り替えることができなかった。仕事のことも気になるよね。前に、重く責任があることが迫ってると、三連休も嬉しくない、気が休まらないと書いたけど、似たようなもんだよね。
これを例えると、いつもの極端だけど、死刑囚みたいなものだ。毎朝、今日は執行の日か、と怯えるのだよ。年末の執行はないとのことだから、28日ぐらいまで大丈夫だと、しばし何日かは安寧なんだと聞いたよ。でも、その一日や三日や、その程度の時間が、なんになるのかって思うよね。
壮大な人生のカウントダウン
でもね、今思ったけど、まぁ、人生そのものが、明日終わるかもしれないカウントダウンなわけだよ。平均寿命? 単なる気休めにすぎないよね。
それにたいして、僕たちがとれる手段って、
考えないこと、なわけだよね。
だから、考えない生き方ってのもあるわけだよ。それは、ヤンキーとかチンピラとか、バカ野郎とか屑人間とか、一般にダメなやつらにカテゴライズされる人たちがいても、実はそこに学ぶことは多いのかもしれないよ、まぁあまり関わりたくないが。
ただ、すぐさま書いておくべきは、僕はそんなカテゴライズをそもそも信用してない。茶髪、ピアスしてたらヤンキー? 悪い奴? そんなことないよね。見かけだけの問題じゃないし、パリッとスーツできめた真面目そうな人でも、詐欺師かもしれないよ、怖いよ。
そういう、他者、の信頼性が、大人になるほどに構築が難しいという点で、子供のころ若い頃の友人が大切だということが言われるわけ。
だから、別に大人になってからとか、会社のなかで友人ができないとか、そんなのもくだらない思考でしかない。
でも、シビラシステムなんてないせかいだと、そもそも他者をスキャンする、時間的精度的コストが高いから、そもそも他者を信頼しない、という行動方策もまた、正しいという場合もある。
ようは、完全敵役悪役だった、サイコパスの狩猟大好き会長のいってた、程度の問題、というわけだよ。
まぁ、そんなこと皆わかってるんだろうね。わかっているなかで、みんな、心の自動的なスタビライザーによって、安定させて、日々を生きているのだろうね。
何で生きてるとか、こんな役に立たないことを考えたりしないんだろうね。
だが。
死ぬ直前まで死ぬことを認められない
これも何かで見たり聞いたことだけど、人は、最後まで自分の死ぬことを認められないという。それは、ギロチンで、首をかせにはめられ、ロープが断ちきられ鋭い刃が落下するおとを聞いた瞬間でさえも、自分はなにか奇跡がおきて助かるのではないか、と。
これはまぁ、突発的な状況においてで、キューブラーロスの、死ぬ瞬間においては、終末期医療における、五段階ぐらいの、患者が死に向かう際の心の移り変わりが事例をもって示されている。
最初はやはり、何で自分が? と、認められないけれど、徐々に死を認めて諦念していく、というわけなので、突然事故にあったようなときでは、死ぬことを簡単に認められないことは当然に思える。
だから、一日一日を、大切に生きなさいよ、という結論だ、しかし。
本当にそうか?
どうなの? ヤンキーのように、日々を楽しく暮らしてればそれでいいんじゃない?
めめんともり、死を毎日感じながら生きてるなんて、そんなの死刑囚の生き方じゃない?
もっと自由に、自分にはまだまだ可能性がたくさん広がっていて、ますます喜ばしく楽しい人生が広がっていくって、そんな風に感じて生きてりゃいいんじゃない?
さてここで問題だ。
あなたは、2017年を、どのように生きるのか?
2008年や2010年ぐらいのように、感覚的に享楽的に生きるのか。
それとも、2004年や2009年ぐらいのように、思考的に禁欲的に生きるのか?
答えは決まっている。
ハードウェアの部分は後者で思考的に、ソフトウェアの部分は前者で享楽的に生きる。
矛盾する概念であり、難しいところだ。
が。
これしかないだろう。
今年、あまり目標だとか目的だとか書こうと思わなかったのは、方針がもう固まっていたというのもありそうだ。
目標
なんだろう。目標をたくさん掲げて、今日はこれを達成できましたーとかやってく、意識高い系のblogって、嫌悪してしまう。なに頑張ってる感だしてるの? 勝手にやってろよ。
なんて思ったりしたりどうだったり。ただ、ある派遣プログラマの方のblogも、そんな目標書いていて、スゲーちゃんと実現とかしていて、すげーなぁって思うけど、あんまり嫌な気分にならない。
これって、SNSで、幸せな家庭ですアピールをするために写真をせっせとあげる人なのか、本当に自分のせっぱつまった生きざまにおいての必要性にせまられてるものなのかの違いな気もする。
まぁ、その、リア充自慢する人も、ある意味必死なのだろうから、別に否定する気もないのだが、恐らく、その、優しい旦那さん(奥さん)がいて、子供が健康ですくすくそだち、頭がよくて、友人も多くて家でクリスマスパーティーやって、と、そういう幸せ観を絶対視していて、それを享受できる私ってすごいでしょ、という感覚がにじみでていると、うわ、なんかイラつくな、ってなるのかもしれない。
例えば、非モテなアラフォー女性が婚カツパーティーでいい男ゲットだぜ! とかいうブログは面白いよ。目標もはっきりしてるし、創作だとしても、なんか頑張ってる感じが応援したくなる。
はて?
では俺は、応援したくなる人間なのだろうか?
この問いは結構、自分でやってて心がえぐられる。
うーむ、確かに、あんまり、こいつ、応援したくないな(笑)
ただ、ある精神科医のブログの方なんて、とても応援したいなぁって思う。まぁ応援なんてもう必要なくて、能力も高くて、妻子に恵まれ幸せな生活を送られてる方なんだけどさ。
でも、書いてる内容的には、ちょっと僕も目指したいというか、その方のブログを読んだときに僕が感じた、ああ、よく言ってくれた! という感覚を、僕も、僕のブログをもし読んでくれた方がいたら、その人に与えたいなって、そう思うよ。
というのを前提に、目標を立て並べる。
目標
ブログ継続。思考の体系化。
ええと、これは、僕は、自分ってどんなひと?
と聞かれると、困ってしまう人間なんだけど、明確な答えを言えるようになりたいということだ。
仕事にも関係する。君はなにできるの? といわれたとき、明確に価値を語れるような人間になる、ということ。
これが何故大事なのか? 仕事人間になるということか? すわ社畜か?
ノーだ。むしろ、効率的に時間を捻出できる方策だ。つーかむしろ、誰にでもいい顔して、やる気を見せて、がむしゃらに頑張るってのを遮断する方策だ。
俺はこれができる、そのためにはこれくらいの期間が必要だ、だからそれはできない、と。読んだことないけど、断る力、みたいなもんだろう。たぶん、それ系統の本を読んでも、コアコンピタンスをもてとか、その程度のことしか書いてないはずだ。
もう1つ消極目標を掲げれば、コラムとか、ビジネス本とか、自己啓発的なニュースとかは、極力目にもしないようにしたい。ああいうの、不安だけ煽って対した答えが全くないのだ。99%ないといっていい。当たり前ちゃあそうで、責任もなければ、そもそも、これやって誰でも絶対成功する遣り方があるなら、それでもうみんな大成功してる人ばっかりになるはずだ。
1つ、誰にでも絶対に当てはまって、成功することをここで書いてみようか。
それは、習慣をつくることだ。
筋トレでも、勉強でも、ビジネスの営業でも、繰り返し学び身に付けそれを見直し改善していくというプロセスとメソッドを自分のものとして、習慣化することが、人生の大成功のための唯一絶対普遍的な方法である。
誰にでも当てはまる、ただし、誰でもできるわけではない、ここがポイント。
メソッドはあっている、ただ、あなたが成功できないのは、あなたがそれを正確に毎日ちゃんと実践できていないからです!
というわけだ。責任はとる必要などない。
具体的に、こういう方法が必要です、と描かれる本やニュースはまだいい。その殆どが、不安を煽るだけで終わってるからたちが悪い。
まぁそれは2017年、僕にとってはどうでもいい。きっとこれからも、そうした記事や本はなくならず、コマーシャリズムはこれからしばらくも続くことだろう。
だから、頑固親父になろう、というのでもないけれども、例え後ろ指さされてクレームや批判をされても、必要以上に気にしないことだ。
不安を煽ってるのはお前自身では?
不安を煽るだけ煽って、答えを示さない。それって、このブログそのものじゃないかと思った方はその通りだ鋭い。
あれもだめ、これもだめ、じゃあ何がいいの?
なんだろう?
それを探し求めているのが、このブログの主旨そのものである。
生きる意味を徹底して考える。
これー、結構大変なことな気がしてきたよ、と、いまさらか!
何をしても、何を感じても、この価値基準ではかられるわけだ。
友人と楽しく徹夜で遊んだと、で、それは意味につながったのか? と、常々聞かれるのだ。
ええ、楽しかったよと。わざわざ出向いてくれて、気兼ねせず好き放題やれる関係があるって、ほんと素晴らしいことだとおもったよ。
家族もよいものだった。一緒に酒を飲んで、リビングで寝転がって、テレビを見て他愛ない話をして。
それらは、それだけで価値のあるものだろう。
それらについて、果たして生きる意味を考えることに資する行為だったのかというのは、これはもう野暮というか、頭がおかしいサイコパスでしかなかろうに。
だからこそ。
いやそれでもなぉ、どうしても、このブログのタイトルを変えずに続けるというならば、それはかなり困難な大変なことであるのは、、間違いないのだ。
今から方針を変えるか?
感覚的に、享楽的に生きたあの頃に戻るのか?
煽りに対して安定している
うん、さんざん馬鹿げたことだと書いてもなお、やっぱり、今年の方針は変えようとは全く思わない。このまま攻める。
攻める?
うん、新しい言葉が出たけれど、この攻めるのはいいかもしれない。
あるリアルタイムストラテジーのゲームが好きで、高校のときずっと友人と遊んでいたものだけれども、高い城壁を築いて、大砲を配置し、内政に力を入れて守りを固めても、その友人にはいつも勝てなかった。結局、攻めなきゃ、どんどんじり貧になって、滅ぼされてしまうのである。
もちろん、今の世の中で、軍備拡張して他国に攻めいるとか、帝国主義的なことではなく、言論とか法律とか資本主義とか、したたかな外交とか、他の面での戦いが必要だというのは当たり前である。
じゃあ、何をして攻めようかというのは、今後の検討だけれども、まぁ、どんどんやってこう。
