人は何故ひとをつくるのか。
子どもは何故人形遊びをするのか。
子育ての練習なんかじゃない。「完璧な人間をつくりたい」という人間の本心なのだ……と。
「子どもは……人形じゃない!」
『イノセンス』、トグサさんの言葉。
これを観た前提で、部屋で寝転がって目に付いた、『キノの旅』3巻を手に取った。そこにあった、「機械人形の話」で、涙した。
※ネタバレを気にする人は……いないでしょうから、書き進みます。
わたしが泣いてしまったのは、ひとえに、「純粋さ」ゆえであった。
国が平和になると信じ、自分の研究に没頭する彼女。
そんな研究が成功し、生み出された機械人形。
しかし、結局争いによって家族を失う彼女。
精神が壊れてしまった彼女は、自らを機械人形であると信じ込み、ひたすら、人の役に立つために働き続ける。その対象が、たとえ、自ら作り出した機械人形だったとしても……。
『キノの旅』の作者、時雨沢氏がふつうでないところは、結末が、二重につくられているところだ。
表面的な物語が一度終わり、そして、間もなく裏で進行していた物語も終わりを告げる、そんな構成。
おかげで、一つの話で二度泣くことになった。
とはいっても、ワケは二回とも、同じく「純粋さ」。
一つは彼女に対して。もう一つは機械人形に対して。
そして、機械人形の純粋さは、機械のそれゆえに、深く、切ない。
「機械」という言葉を使って、さらに、製造されたという設定ではあるけれども、ここで想定されている「機械」というのは、通常の意味でのそれとは、異なっているように思われる。
最初に引用した『イノセンス』の、義体に近い概念と思われる。
というのは、「感情」をもった機械というのが、果たして通常の意味での機械のそれと、同じとして考えることが可能なのか、という問題意識から。
もちろん仮定に過ぎないのだけれども、「感情をもった機械」というのを想定したとして、それは、人間、機械、どちらなのだろうか。
というのが、『イノセンス』、もしくは『攻殻機動隊』のテーマの一つ。観たことある方も、この概念からもう一度観てみると、また違った面白さがあるかもしれない。