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二次創作について
2009/10/17 13:31 | Comments(0) | イライラ対処

 以下、涼宮ハルヒの憂鬱という作品のファンフィクションですが、非常によくできた作品でした。

http://punpunpun.blog107.fc2.com/blog-entry-1418.html

http://punpunpun.blog107.fc2.com/blog-entry-1417.html

 

 


  またも前提の話になりますが、この「前提」を既に構築された上での二次創作は、やはり一次作品とは異なります。

 それぞれのキャラクターの個性や行動パターンなど、その作品に傾倒していればしているほど、二次作品も楽しめる可能性が増大します。

 そこが、二次創作を書く上での難しいところであり、逆に、楽なところでもあるわけです。

 

 上記の作品は、原作が本当に好きな人が書いたのだなぁと伝わってきます。キャラクターのイメージを全く損なわず、その範囲内で見事に表現しています。よくある批判が、「こんなの○○(原作)じゃない!」というものですが、そんな感想全く抱けないでしょう。

 

 ついコメントしてしまいましたが、確かに、原作の作者は大変かもしれません。上記の二次創作は、もうこれが原作においてのエンディングでも構わないくらい、クオリティが高いものでした。今出版されている内容からしたら、最大限考えうる終わり方といえるのでは、と、それくらい持ち上げてしまいます。

 

 逆に、それほど私としては感動しましたので、原作がこれに劣るようでも、というより、「劣る」なんていえないと思います。それはそれ、これはこれ、といえるぐらいだと。

 

 

 ただし、「所詮」という言葉は使いたくありませんが、二次創作は二次創作、と割り切っているからこそ、「完璧だ」「超面白い」と思うわけです。

 ニコニコ動画などのMAD作品は、好きです。面白いです。

 

 それは認めざるをえませんが、しかしながら、一から何かをつくる、という姿勢は、忘れたくないものです。

 

 ですので私は、いくら「しょぼい」(また言葉が悪い)作品でも、それがオリジナルなものであれば、素直にすごいと思っています。

 よくネット世界では、やれ中ニ病だとか、黒歴史だとか騒ぎますけれども、まったく愚かな指摘と思っています。自分の黒歴史を晒して笑いを取っている人をみれば、それ自体「作品」となっているではないですか。

 

 笑われてもいい。けなされてもいい。

 

 自分でつくったものには、誇りを持って欲しいと、私は思います。

 あとからそれを恥ずかしいと思うのならば、それは、自分が成長した証です。「恥ずかしい」という気持ち、大事じゃあないですか。

 

 その点を見逃して、というより気付きもしないで感想やら批評をするのは、間違っていると断言できます。

 

 私は人間嫌いというスタンスでいますが、そういう人らは、既に人間としてもみることができないと、私などは思います。

 

 

 私が最近、いろんな作品に感想やら批評じみたことを書いているのは、単に、「自分のため」なのです。

「こうしたらもっとよくなるのに!」

「こんな作品なら、感動して涙を流せるのに!」

 

 という思いからです。結果として、私の書いたその文章を読んで、作者さんがためになったと感じてくれたら、それは至上のものでありますが、付加的要素であります。

 

「自己満足」「自己中心的」

 

 という謗りは免れませんが、何故私がそこに拘るのか。それを説明するのには、この程度の文章ではとても説明しきれません。

 一言でいえば、毎度の事ながら、純粋性の希求、というわけなのでありますが、この言葉のもつ意味が、どれほど伝わるかということについては、自信がありません。

 

 

 昨夜思ったことは、時間の有限性。

 夢、希望、といったものは、既になく。

 むしろ、そういったものは害悪であるとの判断。

(無論、通常の意味での「夢」「希望」ではなくて)

 

 刹那的な今、この瞬間を、どれだけ本気で生きられるか。

 いやむしろ、それが本気だと、自らを信じ込ませることができるのか。

 

「こうであったらいい」

 などと舐めたことは一切思わず。

 現在の自分をすべて認め、完全なる謙虚さで、なお、自分を信じ続ける。

 

 油断せず。

 一つ一つの事象に全力を傾注し。

 

 それでもなお、相対化の恐怖は付きまとい。

 不安と焦燥、そしてそれの相対化により、思考の起点を失い。

 

 

 結局、コミットする何かを、わたしはずっと探し求めているのかもしれません。

 

 嫌いな思考をすれば、過去のあの一点、そこへのコミットが失敗したがゆえに、わたしは、亡霊と化したのかもしれません。

 

 

 そして或る時期、この生き方そのものが、コミットなのだと、そういう思考も生まれました。

 その思考の発生ゆえ、相対化が始まり、今、それすら信じられていません。

 

 ゆえに、抜け出す、否、可能性を必然性に変えるためには、上記の、「本気さ」がどうしても必要なのだと、そう思うわけです。

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