以下、涼宮ハルヒの憂鬱という作品のファンフィクションですが、非常によくできた作品でした。
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またも前提の話になりますが、この「前提」を既に構築された上での二次創作は、やはり一次作品とは異なります。
それぞれのキャラクターの個性や行動パターンなど、その作品に傾倒していればしているほど、二次作品も楽しめる可能性が増大します。
そこが、二次創作を書く上での難しいところであり、逆に、楽なところでもあるわけです。
上記の作品は、原作が本当に好きな人が書いたのだなぁと伝わってきます。キャラクターのイメージを全く損なわず、その範囲内で見事に表現しています。よくある批判が、「こんなの○○(原作)じゃない!」というものですが、そんな感想全く抱けないでしょう。
ついコメントしてしまいましたが、確かに、原作の作者は大変かもしれません。上記の二次創作は、もうこれが原作においてのエンディングでも構わないくらい、クオリティが高いものでした。今出版されている内容からしたら、最大限考えうる終わり方といえるのでは、と、それくらい持ち上げてしまいます。
逆に、それほど私としては感動しましたので、原作がこれに劣るようでも、というより、「劣る」なんていえないと思います。それはそれ、これはこれ、といえるぐらいだと。
ただし、「所詮」という言葉は使いたくありませんが、二次創作は二次創作、と割り切っているからこそ、「完璧だ」「超面白い」と思うわけです。
ニコニコ動画などのMAD作品は、好きです。面白いです。
それは認めざるをえませんが、しかしながら、一から何かをつくる、という姿勢は、忘れたくないものです。
ですので私は、いくら「しょぼい」(また言葉が悪い)作品でも、それがオリジナルなものであれば、素直にすごいと思っています。
よくネット世界では、やれ中ニ病だとか、黒歴史だとか騒ぎますけれども、まったく愚かな指摘と思っています。自分の黒歴史を晒して笑いを取っている人をみれば、それ自体「作品」となっているではないですか。
笑われてもいい。けなされてもいい。
自分でつくったものには、誇りを持って欲しいと、私は思います。
あとからそれを恥ずかしいと思うのならば、それは、自分が成長した証です。「恥ずかしい」という気持ち、大事じゃあないですか。
その点を見逃して、というより気付きもしないで感想やら批評をするのは、間違っていると断言できます。
私は人間嫌いというスタンスでいますが、そういう人らは、既に人間としてもみることができないと、私などは思います。
私が最近、いろんな作品に感想やら批評じみたことを書いているのは、単に、「自分のため」なのです。
「こうしたらもっとよくなるのに!」
「こんな作品なら、感動して涙を流せるのに!」
という思いからです。結果として、私の書いたその文章を読んで、作者さんがためになったと感じてくれたら、それは至上のものでありますが、付加的要素であります。
「自己満足」「自己中心的」
という謗りは免れませんが、何故私がそこに拘るのか。それを説明するのには、この程度の文章ではとても説明しきれません。
一言でいえば、毎度の事ながら、純粋性の希求、というわけなのでありますが、この言葉のもつ意味が、どれほど伝わるかということについては、自信がありません。
昨夜思ったことは、時間の有限性。
夢、希望、といったものは、既になく。
むしろ、そういったものは害悪であるとの判断。
(無論、通常の意味での「夢」「希望」ではなくて)
刹那的な今、この瞬間を、どれだけ本気で生きられるか。
いやむしろ、それが本気だと、自らを信じ込ませることができるのか。
「こうであったらいい」
などと舐めたことは一切思わず。
現在の自分をすべて認め、完全なる謙虚さで、なお、自分を信じ続ける。
油断せず。
一つ一つの事象に全力を傾注し。
それでもなお、相対化の恐怖は付きまとい。
不安と焦燥、そしてそれの相対化により、思考の起点を失い。
結局、コミットする何かを、わたしはずっと探し求めているのかもしれません。
嫌いな思考をすれば、過去のあの一点、そこへのコミットが失敗したがゆえに、わたしは、亡霊と化したのかもしれません。
そして或る時期、この生き方そのものが、コミットなのだと、そういう思考も生まれました。
その思考の発生ゆえ、相対化が始まり、今、それすら信じられていません。
ゆえに、抜け出す、否、可能性を必然性に変えるためには、上記の、「本気さ」がどうしても必要なのだと、そう思うわけです。