今日の一言「やる気が起きない」「この記事は何のオチもないだろうつまらないだろう」
僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。
……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。
先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。
いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。
善い人になりたい。
――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。
言葉が虚しい。
感覚が虚しい。
一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。
楽しいし、よい人だなぁとも思う。
ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?
その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。
結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。
努力したのである。
努力家なのである。
継続することは得意なのである。
頑張ることはできるのである。
――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。
しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。
だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。
――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。
キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。
優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。
つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。
逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。
「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。
それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。
でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。
何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。
何もしたくない。
ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。
疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。
僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。
ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。
でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。
寝る、ということすらそうだ。
土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。
唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)
たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。
でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。
(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)
面白いことがない
ある方が、「充実感は必ずしも必要ではない」と仰っていた。僕は、充実感はあった方がよいと思う。が、今は、それどころか、そもそも、面白いと思うことがない。意欲がわかない。やる気が起きない。空虚である、無気力である……。
……といった表現も適切かどうかわからないほど、何だか感覚がない。
先日車内トラブルに見舞われて少々痛い思いもしたため、怒りというかイライラは高まった。
おいしいごはん食べたり、疲れてお布団にザバッと倒れこむのは気持ち良かったりする。
いろいろと、感情はあると思う。だから、僕は正常だ。……という言葉自体むなしい。
善い人になりたい。
――というのとおなじぐらい、「せいじょう」という言葉もまた空虚である。空しい。
言葉が虚しい。
感覚が虚しい。
好きな女性ということ
僕に好意を示してくれる女性が二人ほどいる。一緒にご飯を食べたり、遊びに行ったりしている。
楽しいし、よい人だなぁとも思う。
ただ、それが、「好き」ということなのかというとよく分からない。
好きという気持ちがよく分からない。分からなくなった? そもそも最初から分かっていない?
その、なんか、「最近の若者は、自分から女性に告白をしなくて、相手から告白されるのをひたすら待っている」といった言説も聞いたり読んだりする。僕も、はたからみたらきっとそういう存在に思われるのだろうけれども、僕は本当に付き合いたいとか思ったら特に躊躇いなく告白する。
結婚したことがあるということで、そういう女性との付き合い方とか、コミュ能力あるんでしょ、みたいに言われることもある。誤解である。告白してダメだったり、何度もふられたり、そもそも相手にされなかったり、いろいろである。いろいろやってみた中で、成功したこともたまたまあるというだけである。
努力したのである。
努力家なのである。
継続することは得意なのである。
頑張ることはできるのである。
――それらがいま、反転して僕の様々な意欲を、やる気を、動機を奪っている。そんな気がする。
頑張れば何でもできるの幻想
努力は大切だ。しかし、頑張れば何でもできる――というのは嘘である。頑張れば、「それなりに」「その人にあった程度に」できる、のである。
だからこそ、だれにとっても努力は必要なのであるが、しかし、同時に、心身に不相応な欲求は叶わない。
――同時に、その「不相応な」といったレベルは、誰も分からない。勝手に自分で線を引くだけである。しかし、その線……できることレベルは、時間の経過とともに低くなっていく。減っていく。
キャリアアップとか、投資の増大とか、逆に時間経過とともに増やすことができるものもあるではないか? と思われるだろう。それはそうだ。ただ、僕が言いたいのは、「無限の可能性」的な意味においてである。
優れた科学者は、更に偉大な研究をするかもしれない。ただ、野球選手として大成する可能性は、小学校の頃よりは少ないはずだ。そんな、当たり前のことを言っているに過ぎない。こういった例であれば誰しも頷くだろう。
つまり、可能性の深さは深まる可能性はあるが、可能性の幅は狭くなっていくということである。
逆に、大人になるというのは、その可能性の幅をおのずから狭くして、「俺が(私が)生きる道はここだ」と、胸を張っていえるようになることだ。
「何者でもない」うちは、いくらお金を稼いでいても、結婚していても、顔が老けていても、子供なのだ。
仕事が忙しいのもある
働き始めて、2年目から3年目ぐらいが、ものすごく忙しかった気がする。泊まり込みで……みたいなことも何回かあった気がする。それと比べると、まぁ、知識や経験も増えたし、そこまでは遅くまでなることもあまりないため、忙しくないといえるかもしれない。
でも、精神的な疲労は今も相当感じている。土日が休みだったりするが、半分は体を休めるのに使って、半分は精神を休めるのに使うような感じだったりする。
土日に遊びの予定などはいると、体も精神もあまり休めないまま一週間が始まる、といった感じ。
何もしたくない、ということをしたい、といった感じ。
何もしたくない。
ごはん食べるのも、なんか惰性で動いている気がする。
疲れたとか、面倒だとか、そういった言葉が、適切なのかも分からない。
それでも文字おこしするのは何故?
何もしたくないといいながら、何故ブログを書いているのか。記事を書いているのか。僕が唯一、今、価値を認めていることだからだ。
ブログを書かなくても、まぁ、お菓子食べたり、ウォーキングデッド見たり、LINEしたり友人と話したり、まぁいろいろやるのである。
なんか、やる気が起きないなぁと思いながらも、何かやってるのである。
でもそれは、なんかすり減っている気がするのである。
寝る、ということすらそうだ。
土日で、昼過ぎまで寝ると、まぁ睡眠はとれた気がする。けれども、結局体がだるいし、時間を無駄にした感で気分も悪くなるのである。
唯一、悪循環にならない、唯一罪悪感を感じないこと、それが、「書く」ことである。
(でも、今はその、書くことも非常につらい……というか、面倒というか、やめてしまいたいと思っているが)
たいてい僕は、面白くないことだったり、ためにならないことだったり、くだらないことだったりを書いているけれども、基本、楽しいから、書きたいから書いている。
今は違う、と書いておこう。今は、書くのも特にやりたくないのだ。
でも、書いている。それはきっと、僕が、明日の自分に許してもらえるからなのだ。
(かっこ書きである。――ので、こういう無気力期間がやってくるので、「ルーチン」が必要なのである。ルーチンは、もはや、体の一部である。心の一部である。どれほど調子が悪かろうと、意欲がわかなかろうと、無意識であっても行動できる――それがルーチンだ。意識してルーチンをやってるうちは、まだ、最終形態ではない。1か月ぐらい続けられたら、十分、その調子で長期間続けられる可能性が大きくなるが、突如訪れる無気力感によって、簡単に崩壊してしまうものである。ルーチンという横文字使ってかっこ悪いが、要は、習慣化、ということである。んで、その習慣化というのが、大人になるにつれ、難しくなる。それが可能性の幅を縮める原因でもある。でも、可能性の幅が小さいのが大人の特徴でもあるので、それはそれでよい。つまり、子供のうちに、良い習慣をたくさん身に着けていた方が、大人になってからも有利だ、ということだ。別に習慣というのは、筋トレとかそういったものだけではない。ポジティブなモノの考え方とか、あいさつやありがとうごめんなさいをちゃんと言えるだとか、そういった目に見えにくい習慣というのもある。ので、「考える力」なんてものより、十分な習慣を身に着ける教育の方が大事だ――みたいなことをいって、「いややっぱり考える力が必要だよ」みたいな論争というか意見交換をある方としたのも最近だったような気がする。ま、その、「良い習慣」というものじたい、社会環境や時代によって変わったりするから、それを見定める力、見出す力として「考える力」というのは大切だとは思う。けど、そんなもん、子供にわかるはずないのだから、教育という視点でいけば、まずは優先すべきは、習慣化であると考えている。ってまぁ、そんな他人のことはどうでもいいのである。まずは、俺が、自分が、どうやって、なんで、なんのために、なにをするのか、ということだ。――知らん。とりあえず風呂入って寝る。あぁ……PSVITAも買ったのに全然やってないし、なんかいろいろやる気が起きない)
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