今日の一言「できることは書くこと」
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
前書き
2018年5月の記事など、1つしかない。全文引用。600いくらの文字数だ。改行や空白などを除去すると、上のようにコンパクトにまとまってしまうほどだ。生活環境が変わることによって、これほど文章を書かなくても自分がいられるのだと、これは驚きもある。気付くと、一人の時間が、僅かな電車内でしかないことに気付く。そして、一人の時間じゃなきゃ、ブログは書けない。書けなくはないはずだけど、書けないのだ、これはどうしても。平日は相も変わらず帰りが遅いし、休日も彼女と過ごしていると、書けない。別に、書かなくてもいいじゃないか。しかし、僕は、イライラしようが、楽しかろうが、このブログの、ある重大な問いを考えないことは、自分にとって負債を清算しない行為に感じられるのだ。なにかを失って、人はようやっと気付く。そんなものかもしれない。それが、いまわの際まで知らなければ、別にそれでもいいとも思う。でも、果たして、働くこと、生きることに、何があるのか。僕は、誰だったのか。これが人なのか、こういうのが人間なのか。まぁ、これでいいのか本当か? 俺は、本当に後悔しないのか? 問うているのか? 本当に? ともかく。セインの二巻を読了。面白かった。魔女王と、ダークヒーローのズァグ氏の謁見シーンに震えた。なんつー駆け引きだ。なまじ戦闘シーンなんかより、よっぽど熱い戦いだった。ああ、こう、現在の自分の力では及ばない中で、今あるリソースをギリギリで使い、自分よりも強く体制も磐石なものに向き合っていくってのは、やっぱりかっこいいものだな。が、しかし、今の俺は、そういった戦いに本当に辟易してしまっている。この先のみちしるべを感じられないでいる。どうしたらいいのか分からずに、日々、そして、流されていく。
しかし、2017年の5月は、もっとたくさんの記事を書いている。
プライベートな生活環境の変化によって、ブログを書く機会があまり取れなくなった、と。
そういうこともあったのだな、ふーん、と。
他人事のように思う。ま、実際、他人事である。自分のことであっても、過去となれば他人事である。――というと、責任の放棄、ということになるが、因果に対する責はあろうが、「感情」における責任はない。その点――いわゆる過去にどのようなことがあろうが、今の自分がどのように感じるかは、どこまでいっても自由、なのだ。
自己礼賛かっこ悪い
前書きが、前書きになっていない。この記事は、いったい何をいわんとする記事なのか。それを考える前に、ひとつ直近のメモ。時系列が必ずしも現実と一致しているかというのは特に重要な点ではない――という意味は、たとえば、上の引用は2018年5月だが、それが4月末だろうが、6月初旬だろうが、記事の内容にとって大きな影響はないということだ。ましてや、その違いが1日、2日程度であれば尚更である。
メモ。
とある友人と思っていた人と話しをしているうちに、それほど友人ではなかったのだなぁということを感じた。
僕はまぁ、10数年前から、こんな変な思考であったわけであるが、できる限りあんまり表には出さないように気を付けてはいた。しかし、割かし、本音気味に話ができていた友人がいなかったわけではなかった。もっと違う観点から書けば、お付き合いしていた女性なども含めてもいい。
回りくどい書き方をせず、シンプルに書けば、まぁ、「人は何故生きるのか」みたいな哲学的テーマを、20代ぐらいから――もっといえば、小学4年生ぐらいから薄っすらともっていたわけであるが、まぁそういう話を時折する、みたいな、そんな相手がいた、ということである。
(ちなみに、今書きながら思い出したが、小学4年生のとき、当時親友と思っていた子に「自殺したいと思ったことある?」と問うて、「え、そんなことあるわけないじゃん(きもっ(=というのは僕の主観))」的な反応をされたこともあったなぁと。そう考えると別に初体験でもないか)
で、関西人ではないので、オチは特にないのだが、その、昔よく話をしていた友人と会って、「お前、変な話しばっかしてたよな~」みたいな感じだったと、そういうことだ。
いやー、今も昔もあんまし変わってないなぁあはは、みたいな流れの中で、別に悪意があったわけじゃないんだろうが、まぁその、割と本気で悩んでいた時期のことが、まぁその人にとって特段大きなことでもないのだと、そういうのがよくよく伝わってきて、その、個人的には哀しくなった。
理解されなくてもいいや
先日いつぞやかの記事で、「ま、別に理解してもらいたいって気持ちも最近は特にないんスけどね」みたいな、痛いこと書いていた(――何故痛いかというと、そもそもそういうことをブログ的に書いているからである。本当に理解されたくないなら、何もそういう行動をしないはずだ、という論点から)が、そういったことを書きたくなる感情の原因って、上のような経験にもとづくのだなぁと思った。要は、対面コミュニケーションに対しての信頼度の低さ、である。
要は、みんな、ポジティブなこと(役に立つこと、自分の気持ちを高まらせること)にしか興味がないのである。
――そりゃそうである。
大切な時間を、わけのわからねー話に付き合わされたらつまらない。
人生は有限だ。残された時間を何に使うか。無駄なことに使うか、有益なことに使うか、そりゃ有益なことに使うべきなのだ。
どうでもいいや
ま、その、なんというか、このブログをリアルの人たちに教えることは、今後一切合切必要ないし、やめたほうがいいなと、――いままでも思っていたが、より強く思いましたとさ、という話でこの記事に目的は達成される。難しい問題である。
表の自分と裏の自分、というのがあるようなイメージでもある。そういうのは、一般的、には、忌避される。気持ち悪い、とされる。「裏がある人間」といわれると、怖い、イメージをもつのは当たり前だろう。
ただし。
誰かを見下さないと自己肯定感を保てない人とか、他者を害することに興奮を覚えるとか、そういうんじゃなければ、別にいいじゃないかと、個人的には思う。
俺はきっと、「いい人」ではないが、極悪人でもない気がする。
と、いうか、だ。
俺が、その、とある友人と話をしていたのは、「人間の利己的な面」という話でもあったはずだ。
人は己の欲求によって生きるのであって云々的な。いやそれが100%ではないにせよ、「そういう面もある」的な曖昧な部分においては、必ずしも外れてはいないと思うのである。そういう面にとらわれてしまって、すべての行動をしなくなったり、他者のすべての行動を打算的と考えるのは、それは確かに間違っているのだろうが、そういった面もあるのではないだろうか、という話は別にしても構わないだろう。
――いや、不要なのだ!
そういうのは、エンターテイメントの悪役などに任せておけばいいのだ。現実の会話において全くもって不要なのだ。
――でもでもしかし、僕という変な人間としては、その変なレベル(次元)の話じゃないと、本当は「会話して充実したぁぁっ!」って気にならない。
人といると疲れる
だから、なのか分からないが、やっぱり、他者との会話を綱渡り的に感じている面があるんだなとも思う。そこがストレスでもある。
何もしなくてもストレスといえる。
困ったもんだ。人と同じことを、同じ程度しかしてなくても、ストレス度が高いのは、不利だ。
楽しく会話するのが疲れる。
一人で映画見てアニメ見て読書してたい(ダメ人間)。
そうか、俺はダメ人間なのか。やはりそうだったのか。
(かっこ書きである。つらつら徒然、長くなってきたので強制中断だ! 書きたいこと、表現できているか分からない、分からない、分からないが、書くべきだ、ということだけは事実だ。2018年5月の引用記事、生活、仕事環境は全く違うが、しかし、言いたいこと、分かるぞ。分かるぞ、過去の自分くんよ。なんか、その、「一人じゃない」感、あっていい。過去の自分くんが、じゃあ、友達に欲しいかと問われると、別にいらないんじゃないかと思ったりもするが、しかし、「よき理解者」にはなれる気がする。共感できる人ではなる。うわぁ……気持ち悪さに拍車がかかってんなぁ。まぁ仕方がない。仕方がないと、割と素直に割り切れる点が、人間的成長のようにもとらえられなくもない、気もする。幸せになるにはどうしたらいいか、というのは、理想と現実の差異を極小にすればいいが、現実と自分の内面の表裏が一致していないと、一生幸せにはなれないのかもしれない。しかし、「現実」といったときに、その現実とは、付き合う周りの人や、物理的な環境(位置・所属)など様々な面を含み、そして可変である。そのような不確実な世界に対して、「自分」というのが常に一致し続ける、というのは、俺は無理なことだと思う。いやしかし、それが逆に幸せそのものなのだろうと思うが、だがそこに、「自分」というものは存在するのか、というのは疑義であろう。いやいやそもそも、「自分」というものが社会や組織において必要なのか、というのも、皆さんには一家言あるはずである。たぶん、いらないんじゃないかなぁというのはあると思う。そんな中、俺はきっと、「自分」を失わないようにしたいと思っているのだろう。それが破滅への道だろうとしても、人生の、その多くの時間をそこに費やしたのだから、その状態で何らかのリターンを得ようと感情的になっているだけかもしれない。ギャンブルをやらない僕が書くとリアリティがないが、ギャンブラーが損失分を取り戻そうとする感情のように(そうして大半はより大損する)。まぁその……ほんと、多くの人が、僕のその友人(ら)のように、表裏がない(感情と言動が一致している)のかなぁ、というのは、ほんと疑問なんだがな。疑問なんだが、そういう疑問を持つこと自体が、きっと、異常者なのであろう(彼らにとって。少なくても俺はそうは思わない。10年前の自分くんも、きっとそうは思っていなかったろう。まぁその、思っていなかったことが過去の自分の苦しみの根源だったのかもしれないが))。
PR
今日の一言「シロガネ⇔ストラグル面白い」「規則を覚えていてよかった」
ブログは、土曜日に必ず更新するのだ。
しかし、いやほんと、決めておいてよかった。さもないと、今日も何も書かないで終わったと思う。約40分ぐらいの時間だが、できるだけ多くを濃密に書いていきたい。
分からないからは上を参照。
ソーチャンどの推理パートまで読み進める。
いい。強大な敵が動き始めて、ウゴゴゴッって感じのとき、主人公側も手をしかけていて、布石を打っておくという構成はかっこいい。
夜天を引き裂くにおいて、主人公がピンチに陥るも、そんな中でも、敵の正体を知るための一手をかけていたというシーンがあるが、非常に上手い伏線のはりかただと思う。
逆に、前回の記事のコメントで途中力尽きてしまったが、5人が出会ってから、第一都市を解放に向かうまでのシーンは、やはりもう少しコンパクトにした方がいいなと改めて思った。
どうしたらいいのか?
これは難しいし、よく考えないといけないので、課題とさせて頂きたい。
ただ、思うに、僕がどうして(言葉はよくないが)冗長と感じてしまったのか、というのは、ストーリー展開に関連する「新情報」がシーンに盛り込まれていなかったからではないかと思う。
オークに襲われてもう都市が崩壊寸前、って状況において、読者的テンションはやっぱりそっちに意識が向かう。フィン君の心の変化というのが作品のテーマの一つとしても、まだそこまで興味をもてないでいた。
逆に、いったん都市解放をした後での、殿下の献身的な看病や、レッカ氏との少し俗物的な、しかし温かみのある約束をするシーンなどは良かったと思う。
話が飛ぶが、第三王女氏の母君の登場において、暗躍する敵の正体が関係するのではないかとふと思った。想像が当たっているかどうかは今後読み進めることで分かるだろう。
また話は飛ぶが、レッカが戦うシーンで、「ちぎって鼻毛ちぎって鼻毛」は誤字なのか、敢えてなのかが分からなかったが電車の中で吹き出してしまった。
また話は飛ぶが、ソーチャン氏のセリフが、ややキャライメージと一致しないシーンがある。「黙れよ」というのが、どっちかというと「しずまれよ」――というイメージなのである。語感的に確かに「だまれよ」(だま+られよ)という発音だとすればイメージに近いものの、「黙れよ」というとヤンキー的というか、ぶっきらぼう過ぎる感じがする。
――と、スマホのメモを見ながら書き起こす。(これ、ブログに書く内容だったかというと少し悩む。先方のサイトに書くべきではなかろうか……いや、そっちはもう少しまとめてから書きたい)
会議などでは、咳をしないようにと少し気を使ったりもするので、それもストレスである。
まぁ、熱はないし、喉の痛みもよくなったから、治りかけ状態だと思うのだが、咳はそれだけで体力を使う。
あと、なんだ。
仕事。
仕事かぁ……。
もうちょっと優先度を下げたい気がする。
しかし、責任感というわけではないが、やはり「完成」させたいという気持ちはある。
その、完成品の精度を、100%に近づけたいと思ってしまうので、それは仕事としてはよくないことだろう。
よく聞くところだと、70%ぐらいで周囲と進捗を共有しながらやっていった方がいいということだそうだが……。
しかし、結局、中途半端だと、あとから問題になったり、他の人の時間を使ってもらったりしたり、自分自身のスキルというか知識もあやふやになるし、必ずしもよいことともいえない。
バランスが大事……なのは分かっているが、難しいところである。
試験勉強は、……どうしよう。
前に、規則で、「12時間自由時間があれば」ということだが、睡眠はいかんとするのか。
咳のせいでよく眠れず、5時にいったん目が覚めて、布団でもぞもぞしつつ、気づいたら12時を過ぎていた。
16時過ぎには出かけて、帰りは恐らく、かなり遅くなるだろうと思うが、たとえば23時に帰ってくるとして、自由時間は何時間だったというのか。
5時の目覚めからカウントすれば、5時~16時+23時~24時で、12時間である。ルーチンやらなきゃ! となる。
目が覚めた12時からカウントすれば、12時~16時+1時間で、5時間である。免除である。
細かいけれど、このあたりの規定をしっかり考えておかなければ、また、ずるずる、「体調が悪い」「身体がだるい」「気持ちがのらない」「仕事が不安」とか、言い訳ばかりで何もできなくなる気がする。
とかく。規則は、感情よりも重要視しなければならない。人間は低きに流れる生き物だからだ。
なんか、偉い人とか稼いでいる人とか、ハイリーなパーソンがいる場にいきましょう、というのが自己啓発的によくきく。
あ、結構です、って俺は思ってしまうが、しかし、モチベーション維持としては大事だと思う。環境、大事。
スーツの人は少なく、子供を連れたおかあさんとか、おじいちゃんおばあちゃんとか。
平和な、日常の一コマだなぁと思った。
ふと、何だか哀しくなった。
同時に、何だか、面倒くさくなった。
ある、リーダーシップの講座で、講師が、「承認欲求が足りてない人には、面倒くさくても、注ぎ続けなければいけないんです」といっていた。ユーチューブの宣伝で流れていた。
シロガネ⇔ストラグルの主人公フィン君は、過酷な幼少期を過ごしたため、自分を大切にするという生き方ができないでいる。そこに、いくら周囲の大人たちが、子供らしい生き方を教えようとしても、それは難しいのだ。
つらかった気持ちと、同じだけの優しい気持ちを注げば、それでペイできるかというと、人の心はそういうもんじゃあない。
穴の開いたバケツ、という表現は、ありふれているだろうが嫌いじゃあない。
強固な入れ物があれば、揺らいで中身がこぼれても、また注げば満たされる。
しかし穴の開いたバケツにいくら注いでも、中身はたまったそばから流れ出していってしまう。
自分は生きていていいんだ。
自分はみんなの役に立てるんだ。
そういう気持ちが大事だと思う。
みなが、そういった気持ちを抱いて生きているというのが、「生き生き」ということだと思う。
しかし例えば、日露関係を悪化させた某政治家氏は、生きている価値があるのか。
実は二児の父親で、政治家としては失格でも、父親としての意義はあるのかもしれない。
しかし、なんか詭弁に思える。
と、いうよりも、「人はみなそれぞれ生きる意味がありつつも、しかし、同時に人個々は代替がきき、いずれ消滅し忘れ去られる」。
刻刻だっけか? あるアニメの敵の目的は、「人間存在の目的を知ること」だった。主人公一派は、「は? わけわからん」といって切り捨てるが、自己肯定感をどうしても得られない人間は陥りやすい罠だろうと思う。
ま、要するに、正解は、「個々人の環境に置いての有意性を不断に高めていく」ということなのである。
凡人はそれぐらいしかできない。
ソクラテスやアインシュタインのレベルに至らなければ、人個人は数百年のうちに跡形もなく忘却される。
そこにおいて、重要なのは、――時間切れ。
(かっこ書きである。――大事なのは、めっちゃ感動することだ! 日々すり減っていくような生き方は、一秒たりともすべきではない! そして、感動するには、つらいこともスパイスとして必要だ! 平穏なユートピアには争いもなければ、感動もないのではないか。感動し続けるという状態は、薬でハイになった状態が続くような感じで不健全ではないか。生きるとは何か。俺はどう生きるのか。何を感動するのか。何に感動できるのか。ああ、今日も問いの答えには近づけそうもなかった。しかし、この場、こうして書くことすらなければ、ただ日々すり減るだけだ。書け、書け、書いて悩み苦しみそして感動せよ)
前書き
ブログ規則、試験勉強規則を覚えている。ブログは、土曜日に必ず更新するのだ。
しかし、いやほんと、決めておいてよかった。さもないと、今日も何も書かないで終わったと思う。約40分ぐらいの時間だが、できるだけ多くを濃密に書いていきたい。
シロガネ⇔ストラグル読み進める
シロガネ⇔ストラグル分からないからは上を参照。
ソーチャンどの推理パートまで読み進める。
いい。強大な敵が動き始めて、ウゴゴゴッって感じのとき、主人公側も手をしかけていて、布石を打っておくという構成はかっこいい。
夜天を引き裂くにおいて、主人公がピンチに陥るも、そんな中でも、敵の正体を知るための一手をかけていたというシーンがあるが、非常に上手い伏線のはりかただと思う。
逆に、前回の記事のコメントで途中力尽きてしまったが、5人が出会ってから、第一都市を解放に向かうまでのシーンは、やはりもう少しコンパクトにした方がいいなと改めて思った。
どうしたらいいのか?
これは難しいし、よく考えないといけないので、課題とさせて頂きたい。
ただ、思うに、僕がどうして(言葉はよくないが)冗長と感じてしまったのか、というのは、ストーリー展開に関連する「新情報」がシーンに盛り込まれていなかったからではないかと思う。
オークに襲われてもう都市が崩壊寸前、って状況において、読者的テンションはやっぱりそっちに意識が向かう。フィン君の心の変化というのが作品のテーマの一つとしても、まだそこまで興味をもてないでいた。
逆に、いったん都市解放をした後での、殿下の献身的な看病や、レッカ氏との少し俗物的な、しかし温かみのある約束をするシーンなどは良かったと思う。
話が飛ぶが、第三王女氏の母君の登場において、暗躍する敵の正体が関係するのではないかとふと思った。想像が当たっているかどうかは今後読み進めることで分かるだろう。
また話は飛ぶが、レッカが戦うシーンで、「ちぎって鼻毛ちぎって鼻毛」は誤字なのか、敢えてなのかが分からなかったが電車の中で吹き出してしまった。
また話は飛ぶが、ソーチャン氏のセリフが、ややキャライメージと一致しないシーンがある。「黙れよ」というのが、どっちかというと「しずまれよ」――というイメージなのである。語感的に確かに「だまれよ」(だま+られよ)という発音だとすればイメージに近いものの、「黙れよ」というとヤンキー的というか、ぶっきらぼう過ぎる感じがする。
――と、スマホのメモを見ながら書き起こす。(これ、ブログに書く内容だったかというと少し悩む。先方のサイトに書くべきではなかろうか……いや、そっちはもう少しまとめてから書きたい)
体調が悪い
咳がとまらない。会議などでは、咳をしないようにと少し気を使ったりもするので、それもストレスである。
まぁ、熱はないし、喉の痛みもよくなったから、治りかけ状態だと思うのだが、咳はそれだけで体力を使う。
あと、なんだ。
仕事。
仕事かぁ……。
もうちょっと優先度を下げたい気がする。
しかし、責任感というわけではないが、やはり「完成」させたいという気持ちはある。
その、完成品の精度を、100%に近づけたいと思ってしまうので、それは仕事としてはよくないことだろう。
よく聞くところだと、70%ぐらいで周囲と進捗を共有しながらやっていった方がいいということだそうだが……。
しかし、結局、中途半端だと、あとから問題になったり、他の人の時間を使ってもらったりしたり、自分自身のスキルというか知識もあやふやになるし、必ずしもよいことともいえない。
バランスが大事……なのは分かっているが、難しいところである。
出かける
さて、時間がそろそろ無くなってきた。試験勉強は、……どうしよう。
前に、規則で、「12時間自由時間があれば」ということだが、睡眠はいかんとするのか。
咳のせいでよく眠れず、5時にいったん目が覚めて、布団でもぞもぞしつつ、気づいたら12時を過ぎていた。
16時過ぎには出かけて、帰りは恐らく、かなり遅くなるだろうと思うが、たとえば23時に帰ってくるとして、自由時間は何時間だったというのか。
5時の目覚めからカウントすれば、5時~16時+23時~24時で、12時間である。ルーチンやらなきゃ! となる。
目が覚めた12時からカウントすれば、12時~16時+1時間で、5時間である。免除である。
細かいけれど、このあたりの規定をしっかり考えておかなければ、また、ずるずる、「体調が悪い」「身体がだるい」「気持ちがのらない」「仕事が不安」とか、言い訳ばかりで何もできなくなる気がする。
とかく。規則は、感情よりも重要視しなければならない。人間は低きに流れる生き物だからだ。
なんか、偉い人とか稼いでいる人とか、ハイリーなパーソンがいる場にいきましょう、というのが自己啓発的によくきく。
あ、結構です、って俺は思ってしまうが、しかし、モチベーション維持としては大事だと思う。環境、大事。
カフェでのひと時
仕事の合間に、少しだけ時間ができて、それで、アイスコーヒー(そんなに美味しくなかった。どうしてコンビニコーヒーの方が美味しいのだろう)を飲みながら、ふと、平日の生活をする人たちを見ていた。スーツの人は少なく、子供を連れたおかあさんとか、おじいちゃんおばあちゃんとか。
平和な、日常の一コマだなぁと思った。
ふと、何だか哀しくなった。
同時に、何だか、面倒くさくなった。
ある、リーダーシップの講座で、講師が、「承認欲求が足りてない人には、面倒くさくても、注ぎ続けなければいけないんです」といっていた。ユーチューブの宣伝で流れていた。
シロガネ⇔ストラグルの主人公フィン君は、過酷な幼少期を過ごしたため、自分を大切にするという生き方ができないでいる。そこに、いくら周囲の大人たちが、子供らしい生き方を教えようとしても、それは難しいのだ。
つらかった気持ちと、同じだけの優しい気持ちを注げば、それでペイできるかというと、人の心はそういうもんじゃあない。
穴の開いたバケツ、という表現は、ありふれているだろうが嫌いじゃあない。
強固な入れ物があれば、揺らいで中身がこぼれても、また注げば満たされる。
しかし穴の開いたバケツにいくら注いでも、中身はたまったそばから流れ出していってしまう。
自己肯定感
自分はできる。自分は生きていていいんだ。
自分はみんなの役に立てるんだ。
そういう気持ちが大事だと思う。
みなが、そういった気持ちを抱いて生きているというのが、「生き生き」ということだと思う。
しかし例えば、日露関係を悪化させた某政治家氏は、生きている価値があるのか。
実は二児の父親で、政治家としては失格でも、父親としての意義はあるのかもしれない。
しかし、なんか詭弁に思える。
と、いうよりも、「人はみなそれぞれ生きる意味がありつつも、しかし、同時に人個々は代替がきき、いずれ消滅し忘れ去られる」。
刻刻だっけか? あるアニメの敵の目的は、「人間存在の目的を知ること」だった。主人公一派は、「は? わけわからん」といって切り捨てるが、自己肯定感をどうしても得られない人間は陥りやすい罠だろうと思う。
ま、要するに、正解は、「個々人の環境に置いての有意性を不断に高めていく」ということなのである。
凡人はそれぐらいしかできない。
ソクラテスやアインシュタインのレベルに至らなければ、人個人は数百年のうちに跡形もなく忘却される。
そこにおいて、重要なのは、――時間切れ。
(かっこ書きである。――大事なのは、めっちゃ感動することだ! 日々すり減っていくような生き方は、一秒たりともすべきではない! そして、感動するには、つらいこともスパイスとして必要だ! 平穏なユートピアには争いもなければ、感動もないのではないか。感動し続けるという状態は、薬でハイになった状態が続くような感じで不健全ではないか。生きるとは何か。俺はどう生きるのか。何を感動するのか。何に感動できるのか。ああ、今日も問いの答えには近づけそうもなかった。しかし、この場、こうして書くことすらなければ、ただ日々すり減るだけだ。書け、書け、書いて悩み苦しみそして感動せよ)
今日の一言「言い訳はいかんとの風潮は如何か」「状況説明と言い換えればよい」
(前回記事へのコメントはまた今度書きますッ!!)
ブログ更新など目をつぶってでもできるなどと言っていた時期が僕にもありました。
忙しいと無理。
生活環境(職場とか対人関係とか)が変わると、ものすごく忙しい。
PCの前にゆっくり座るということすら殆どできていなかった気がする(注意:アマゾンプライムで動画はしっかりみていたが、それはゆっくりではないのである)。
PCで文字を書くことが殆どできなかったので、仕方がない、スマホから投稿するかとも考えたが、結局、忙しい、疲れた、という状況ではそれもできなかった。
結果は、そうだ。
だが、その結果に至るまでにどれほど苦労したかということは、たいてい何にも残らない。
残らない。
残らない!
この残らなさが嫌で僕はブログを書いているのかもしれない。
例えば、飲み会などは、非常に気を使うものであって、「楽しむ」どころでないのは当たり前なのであるが、しかし、第一印象的には「楽しんでいる」と思われることが多い。そのために、どれだけ思考や行動を注意深く行っているか、ということは伝わらない。
逆に、「伝わってはいけない」のであるが、その「大人な事情」的なのが非常にストレスなのは、常に書いて書いて書き続けていることである。
まぁその、世間は10連休ということであり、私も少し心を落ち着けようというわけである。
ああ、しかし、分かっていたはずだが、少しずつでも、更新していないと、「こういった感じ」になる。要するに、何を書いていいか全然分からない。
結果として、1は面白かった。これは、公開当時(2017年?)1話のみ無料でみれたときから、「これは面白そうだから、アマプラで見れるようにいずれなるだろうから、そのとき見てみよう」と思っていた感覚が当たっていた。面白かった。
2は、世間で言われているように、面白くなかった。とある友人のバズッたけもフレ2の記事を事前に読んでいたから、なんとなく面白くないのだろうと思っていたが、いやむしろ、その記事を事前に読んでいてよかったと思った。
違和感。
違和感の連続、しかし、おそらく自分ひとりではその違和感をうまく表現できずに悶々としていたことだろう。
(引用)
色々と共感したところは多いが、その一つが上の引用部分。
目的がよく分からない――いや、もくてきは分かっているのだけれども、その過程が見えないという状況。オムニバス形式の作品(※)ならまだしも、「家を探す」目的が序盤に提示されつつ、それと関係あるんだかないんだから分からない話が続くのは非常につらい。
※ドラえもんとかひだまりスケッチとかクレヨンしんちゃんをイメージ
法治国家――というと近代的でかっこよくて科学的っぽいが、しかし、「人が大事」と言われる所以は、「解釈」による。
超常現象的なのはオカルトと呼ばれて蔑まされるのに、「やっぱり最後は人との関係が大事だね」的に言われるのは何故か。矛盾である、と僕は思っている、思ってきた。
その理由の一つに、完全に機械化できていない現状があることが分かってきた、という話である。
クレジットカードの広告チラシに、年会費が永久無料、と書かれていた。
そのクレジットカードの「規約」と読んでみる。
年会費の条がある。
さらに読んでみる、「年会費は別途定める金額を請求する」と書かれている。
いやちょっとまて、広告には、「永久無料」と書いているじゃないか。そうすると、その条項の記載はおかしいのではないか。そもそも、その「別途定める」というのが、果たしてその「広告」なのか、他のどこに書いているのか? ホームページなど見ても、確かに、「年会費永久無料」とある。矛盾していない。矛盾していないが、しかし、その規約の記載はいったいなんなんだ。
――という事例である。
おそらく、「年会費が永久無料であることを規約に書いていない」と指摘する会員は一人もいないだろう。いたとしても、電話口で丁寧に対応していただき、「規約を変えないと絶対許せない!」という人もいないだろう。
そして現実問題、永久無料なのは間違いないだろう。
ビートレス(BEAT LESS)が何故それほど自分の中でヒットしなかったのか、これも分析して書きたかったことだが、そこまでの気力が起きなかった――けれども、そのなかで、「AI」をもちいた裁判の問題が取り上げられていて、それは面白かった。
裁判官にAIを使うということが議会で紛糾していて、それが原因でテロが起こったりする話であるが、裁判こそ、AIが用いられるべき分野であると僕は思う。
(AIが非常に高度で適切であるという前提において)
本来、裁判にまで発展しない状態で、双方が納得するのが望ましいことである。
裁判になるということは、お互いもうゆずれないというか、利害対立が明確になってしまったことが原因である。
そうしたとき、まったく感情を排して裁決するというのは、まさに、AI、ロボットが適していると思う。
それに、膨大な判例や、法律を分析し、適切な根拠を探し出すというのも、AIが得意とする分野に思われる。
レポートを書くAIや、要約するAIというのも、実用レベルかどうかは分からないが既に存在するようである。「〇〇法と〇〇の判例からして、有罪(無罪)」というのは分かりやすいはずだ。不安なら、はじめは人の最終チェックを入れてもいいだろう。それに、「世論度」的な、マスコミなどに取り上げられて厳罰化を望む声をどれほど反映するかなどの変数(係数)を設定するのを人間がやってもいいだろう。大学入試の不正問題みたいに、そこに不正を考える輩が発生するかもしれないが、それはまた別の問題であるし、それを懸念するならやはりAIに全部判定させた方が良いということになる。
逆に今の裁判が、ゆらぎがある(蓋然性? 同じ内容でも判断が異なる場合がある?)という意味で上のようなことを書いているのではない。ただ、裁判費用が高すぎる、というのは、それに見合う技術(知識)をもった裁判システムを構築するためのインフラが必要だからである。
裁判官しかり、弁護士しかり、検察しかり、裁判所(場所)しかり。
それらは、現在も適切に機能しているだろうが、しかし、裁判件数が爆発的に増えたとして、現在のシステムで適切な判決が維持できるかというと、疑問であろう。
いや、今回は、久々なので、ここまでで。
結論がなさ過ぎて、また投稿を躊躇いそうだが、毅然と、この平成最後の日に投稿する。
(かっこ書きである。けもフレ2は、作品自体はともかく、全部みたことで、「地獄の解釈」というのがあって無茶苦茶面白かった。結論、見てよかった、となった。あと、ついに、『シロガネ⇔ストラグル』が(恐らく期間限定で)公開された。これは大事件である。読む者を混沌と愉悦の境地へ誘うことだろう……)
(前回記事へのコメントはまた今度書きますッ!!)
前書き
久々のブログ更新である。ブログ更新など目をつぶってでもできるなどと言っていた時期が僕にもありました。
忙しいと無理。
生活環境(職場とか対人関係とか)が変わると、ものすごく忙しい。
PCの前にゆっくり座るということすら殆どできていなかった気がする(注意:アマゾンプライムで動画はしっかりみていたが、それはゆっくりではないのである)。
PCで文字を書くことが殆どできなかったので、仕方がない、スマホから投稿するかとも考えたが、結局、忙しい、疲れた、という状況ではそれもできなかった。
言い訳
新しい環境から1か月が過ぎた。取り急ぎ、うまくやっている。上々といっていいだろう。結果は、そうだ。
だが、その結果に至るまでにどれほど苦労したかということは、たいてい何にも残らない。
残らない。
残らない!
この残らなさが嫌で僕はブログを書いているのかもしれない。
例えば、飲み会などは、非常に気を使うものであって、「楽しむ」どころでないのは当たり前なのであるが、しかし、第一印象的には「楽しんでいる」と思われることが多い。そのために、どれだけ思考や行動を注意深く行っているか、ということは伝わらない。
逆に、「伝わってはいけない」のであるが、その「大人な事情」的なのが非常にストレスなのは、常に書いて書いて書き続けていることである。
まぁその、世間は10連休ということであり、私も少し心を落ち着けようというわけである。
ああ、しかし、分かっていたはずだが、少しずつでも、更新していないと、「こういった感じ」になる。要するに、何を書いていいか全然分からない。
けものフレンズ
けものフレンズがアマゾンプライムで掲載されるようになって、1から、2まで、あまり期間を置かずに全部みた。結果として、1は面白かった。これは、公開当時(2017年?)1話のみ無料でみれたときから、「これは面白そうだから、アマプラで見れるようにいずれなるだろうから、そのとき見てみよう」と思っていた感覚が当たっていた。面白かった。
2は、世間で言われているように、面白くなかった。とある友人のバズッたけもフレ2の記事を事前に読んでいたから、なんとなく面白くないのだろうと思っていたが、いやむしろ、その記事を事前に読んでいてよかったと思った。
違和感。
違和感の連続、しかし、おそらく自分ひとりではその違和感をうまく表現できずに悶々としていたことだろう。
(引用)
物語としても、「家を探す」という目標に対して、スケッチブックの絵を頼りに各地を彷徨うという、目的地に対して近付いているのか遠ざかっているのか分からない展開が続き、「ヒトのおうち」に最も関連がありそうなイエイヌに対して「ここは僕の家じゃない」とばっさり切り捨てた挙句、最終回では「パークが僕の家」と結論付ける。明確な目的地が提示されないために、話数が進んでも目標に近付いているのかが分からず、各話の物語も薄っぺらく積み重ねとして映らないために「この話必要だった?」と思うものばかりです。パークが家、という結論に至るなら、もはやどこに向かおうと関係がなく、どの話でも結論が出せてしまうことになり、積み重ねを作るそれまでの過程そのものが無意味に映ります。
色々と共感したところは多いが、その一つが上の引用部分。
目的がよく分からない――いや、もくてきは分かっているのだけれども、その過程が見えないという状況。オムニバス形式の作品(※)ならまだしも、「家を探す」目的が序盤に提示されつつ、それと関係あるんだかないんだから分からない話が続くのは非常につらい。
※ドラえもんとかひだまりスケッチとかクレヨンしんちゃんをイメージ
法律とか根拠とか
オムニバスじゃないが、上の話と全く違うことを書く。(これも4月中に思っていたことの断片である)法治国家――というと近代的でかっこよくて科学的っぽいが、しかし、「人が大事」と言われる所以は、「解釈」による。
超常現象的なのはオカルトと呼ばれて蔑まされるのに、「やっぱり最後は人との関係が大事だね」的に言われるのは何故か。矛盾である、と僕は思っている、思ってきた。
その理由の一つに、完全に機械化できていない現状があることが分かってきた、という話である。
クレジットカードの広告チラシに、年会費が永久無料、と書かれていた。
そのクレジットカードの「規約」と読んでみる。
年会費の条がある。
さらに読んでみる、「年会費は別途定める金額を請求する」と書かれている。
いやちょっとまて、広告には、「永久無料」と書いているじゃないか。そうすると、その条項の記載はおかしいのではないか。そもそも、その「別途定める」というのが、果たしてその「広告」なのか、他のどこに書いているのか? ホームページなど見ても、確かに、「年会費永久無料」とある。矛盾していない。矛盾していないが、しかし、その規約の記載はいったいなんなんだ。
――という事例である。
おそらく、「年会費が永久無料であることを規約に書いていない」と指摘する会員は一人もいないだろう。いたとしても、電話口で丁寧に対応していただき、「規約を変えないと絶対許せない!」という人もいないだろう。
そして現実問題、永久無料なのは間違いないだろう。
ビートレス
またアニメの話になるが、ビートレスは、映像とテーマは非常に好みだったけれども、最後まで見れなかった。5話ぐらいで体力が尽きてしまった。面白いと思えなかった。いっぽうで、けものふれんず2は最後まで見てしまった。この違いは何なのか。「ネタ感」だと思う。ガンダムファーストが、ファンには申し訳ないが、30代になって初めて見た感じとしては、正直面白いとは言えなかったが、最後までみたのと同じだと思う。いや、1970年代の作品としては素晴らしいと思う、しかし、古典は古典としての重要性はあっても、それが現代的な面白さがあるというのとは別問題である。ビートレス(BEAT LESS)が何故それほど自分の中でヒットしなかったのか、これも分析して書きたかったことだが、そこまでの気力が起きなかった――けれども、そのなかで、「AI」をもちいた裁判の問題が取り上げられていて、それは面白かった。
裁判官にAIを使うということが議会で紛糾していて、それが原因でテロが起こったりする話であるが、裁判こそ、AIが用いられるべき分野であると僕は思う。
(AIが非常に高度で適切であるという前提において)
本来、裁判にまで発展しない状態で、双方が納得するのが望ましいことである。
裁判になるということは、お互いもうゆずれないというか、利害対立が明確になってしまったことが原因である。
そうしたとき、まったく感情を排して裁決するというのは、まさに、AI、ロボットが適していると思う。
それに、膨大な判例や、法律を分析し、適切な根拠を探し出すというのも、AIが得意とする分野に思われる。
レポートを書くAIや、要約するAIというのも、実用レベルかどうかは分からないが既に存在するようである。「〇〇法と〇〇の判例からして、有罪(無罪)」というのは分かりやすいはずだ。不安なら、はじめは人の最終チェックを入れてもいいだろう。それに、「世論度」的な、マスコミなどに取り上げられて厳罰化を望む声をどれほど反映するかなどの変数(係数)を設定するのを人間がやってもいいだろう。大学入試の不正問題みたいに、そこに不正を考える輩が発生するかもしれないが、それはまた別の問題であるし、それを懸念するならやはりAIに全部判定させた方が良いということになる。
逆に今の裁判が、ゆらぎがある(蓋然性? 同じ内容でも判断が異なる場合がある?)という意味で上のようなことを書いているのではない。ただ、裁判費用が高すぎる、というのは、それに見合う技術(知識)をもった裁判システムを構築するためのインフラが必要だからである。
裁判官しかり、弁護士しかり、検察しかり、裁判所(場所)しかり。
それらは、現在も適切に機能しているだろうが、しかし、裁判件数が爆発的に増えたとして、現在のシステムで適切な判決が維持できるかというと、疑問であろう。
結論
結論、なし。いや、今回は、久々なので、ここまでで。
結論がなさ過ぎて、また投稿を躊躇いそうだが、毅然と、この平成最後の日に投稿する。
(かっこ書きである。けもフレ2は、作品自体はともかく、全部みたことで、「地獄の解釈」というのがあって無茶苦茶面白かった。結論、見てよかった、となった。あと、ついに、『シロガネ⇔ストラグル』が(恐らく期間限定で)公開された。これは大事件である。読む者を混沌と愉悦の境地へ誘うことだろう……)
今日の一言「臨時の記事だ」「臨時も何もルーチンはもはや無いのだ」
・とある友人が、ワークショップ的なサムシングで東京に来るとのことである
・ブギーポップは笑わない、が面白い。
・けものフレンズ面白かった。
・とある友人のけもフレ2の批判について。
そこで俺は思ったのだが、一般的に、そういうときは、東京に住んでいる人的カテゴリによって、何らかの「おすすめ」をしなければならない、と。
まぁその、俺の癖的な奴で、「一般的にこうするのが普通だろう」的な推測――これは当たったり外れたりするが、あまり好きではない。それは、俺自身が、油断していると「一般的」から段々と外れてしまうからだ。
しかし、今回としては、本心として、何か案内的な何かをしてあげたいと思った。
この気持ちは、嫌なものじゃなかったし、むしろ主体的な欲求として良いものだと思ったくらいだ。
しかし――!
しかしながら、残念なことに、東京について、特に語ることはなかったのであった。
ちなみに、東京といっても、大きく3つに分類される。
・都心
・郊外
・自然(!?)
だ。
要するに、島嶼地方や、奥多摩あたりなんかは、よっぽど他府県の市部の方が発展している。ディスりではない。事実だ。
一般に、他府県の人がイメージする東京は、「都心」カテゴライズなのだろうが、多くは、郊外カテゴリである。郊外カテゴリは、まぁその、他府県の大き目な市ぐらいをイメージしておいてよい。要は「そんなに変わらない」。
であれば、観光的なサムシングを紹介するのであれば、必然的に「都心」カテゴライズについて語る必要が発生するのだが、残念ながらこのブログの著者即ち自分は、「都心」的な奴にありがたみを覚えていない。
結果、特に東京について語ることはない、ということになる。
たいてい何でもある。ロフトやドンキホーテも最近は地方にも増えてきたが、初めは東京に集中していた(と思う)。
あと、ラーメンつけめんそば寿司パスタイタリアン中華和食、多くのお店がある。テレビで多く紹介されるだろうグルメ的なところもたくさんある。その多くに行列は避けられないだろうが、発掘するのが好きな人はよいだろう。
それぐらいしか思いつかない。いやもちろん、東京タワーをはじめとして、スカイツリーやら浅草やら、銀座やら新宿駅の巨大ダンジョンやら、吉祥寺の井之頭公園やら歌舞伎町危険なカホリがする場所やら皇居やら、上野動物園やら美術館やら博物館やら、いわゆる名所的なのはたくさんあるだろう(たくさん、と言いつつ、今ゼロ秒で書き出せたのはこの程度である)。
それを、僕が「おすすめッ!」って言えるかというと、特に無い。
いやまぁ、美術館や博物館はいいかもしれない。しかし、興味のない展示の時は面白くないだろう。
――まぁ、じゃあ、おまえ、なぜ東京に住んでるんだ、ということになる。
とりあえず、結局、別にそれほど愛着もないもんだが、「人間関係の希薄さ」的なのは逆にいいかもしれない。ご近所付き合いとかほぼない。いや、別に地方でそんなもんがあるのかは知らないが。
とにかく、上に書いたようなことも、住んでみなきゃ、来てみなきゃ分からなかったことである。割と東京に出る前の10代のころは、東京というのは暴力や犯罪がはびこる危険な街だと思っていた。実際ニュース的には発生している。しかし、実感的に、「人がクソ多い」ので、そうした割合的な面でみると、生活感覚としては意外にふつーだな、というもんである。
とかってこの辺は、実際、犯罪発生率や対人口率とか、統計的に数字をみてみたいもんだなぁ。実際どんなもんなんだろ。
(かっこ書きである。次の話題にいくかと思いきや、時間切れ。今日はもう書くのはやめる。そうだな、東京に住むってことを、特に意識もしていなかった。いや、住所を書くのは「東京都~~」って書き始めるわけだが、別に東京に住んでいる実感もなかった。どっちかというと、生まれ育った帰省先の土地の方に愛着が未だにある気がする。不思議なもんだ。0代、10代のころは、とても幸せバラ色とは言えなかった気がするのに関わらず、である。まぁこれは、親の愛情的なサムシングなんかなぁとも思う。やっぱり、家庭という基盤というのは、成長につれて影響が小さくなるとは言われるが、それでも人格形成面として、強い影響があるんだろう。ええと、まぁその、東京ってことを考えるいいきっかけになった気がした。逆に、日本なら、ネットがあればどこに住んでもいいような気持ちがある気がした。いやしかし、逆に、だな、むしろ「関西」というのは、どこかしら「異世界」的な感覚がある。常に話のオチを求められ、笑顔絶やさず空気を読み続けなければいけない風潮が強い世界な気がする。怖い。まぁ、大阪と京都でも全然違うとかも聞いたこともあるし、いろいろ人にもよるんだろうね)
前書き
今日は、以下の内容でお送りします(CM風に)。・とある友人が、ワークショップ的なサムシングで東京に来るとのことである
・ブギーポップは笑わない、が面白い。
・けものフレンズ面白かった。
・とある友人のけもフレ2の批判について。
東京に来る
関西方面にお住いの友人が、東京で開催されるイベントに当選されたとのことで、いらっしゃるという。そこで俺は思ったのだが、一般的に、そういうときは、東京に住んでいる人的カテゴリによって、何らかの「おすすめ」をしなければならない、と。
まぁその、俺の癖的な奴で、「一般的にこうするのが普通だろう」的な推測――これは当たったり外れたりするが、あまり好きではない。それは、俺自身が、油断していると「一般的」から段々と外れてしまうからだ。
しかし、今回としては、本心として、何か案内的な何かをしてあげたいと思った。
この気持ちは、嫌なものじゃなかったし、むしろ主体的な欲求として良いものだと思ったくらいだ。
しかし――!
しかしながら、残念なことに、東京について、特に語ることはなかったのであった。
ちなみに、東京といっても、大きく3つに分類される。
・都心
・郊外
・自然(!?)
だ。
要するに、島嶼地方や、奥多摩あたりなんかは、よっぽど他府県の市部の方が発展している。ディスりではない。事実だ。
一般に、他府県の人がイメージする東京は、「都心」カテゴライズなのだろうが、多くは、郊外カテゴリである。郊外カテゴリは、まぁその、他府県の大き目な市ぐらいをイメージしておいてよい。要は「そんなに変わらない」。
であれば、観光的なサムシングを紹介するのであれば、必然的に「都心」カテゴライズについて語る必要が発生するのだが、残念ながらこのブログの著者即ち自分は、「都心」的な奴にありがたみを覚えていない。
結果、特に東京について語ることはない、ということになる。
店は多い
ブランド的サムシングにも興味がないので、特段メリットにも思わないが、お店は多い。たいてい何でもある。ロフトやドンキホーテも最近は地方にも増えてきたが、初めは東京に集中していた(と思う)。
あと、ラーメンつけめんそば寿司パスタイタリアン中華和食、多くのお店がある。テレビで多く紹介されるだろうグルメ的なところもたくさんある。その多くに行列は避けられないだろうが、発掘するのが好きな人はよいだろう。
それぐらいしか思いつかない。いやもちろん、東京タワーをはじめとして、スカイツリーやら浅草やら、銀座やら新宿駅の巨大ダンジョンやら、吉祥寺の井之頭公園やら歌舞伎町危険なカホリがする場所やら皇居やら、上野動物園やら美術館やら博物館やら、いわゆる名所的なのはたくさんあるだろう(たくさん、と言いつつ、今ゼロ秒で書き出せたのはこの程度である)。
それを、僕が「おすすめッ!」って言えるかというと、特に無い。
いやまぁ、美術館や博物館はいいかもしれない。しかし、興味のない展示の時は面白くないだろう。
――まぁ、じゃあ、おまえ、なぜ東京に住んでるんだ、ということになる。
とりあえず、結局、別にそれほど愛着もないもんだが、「人間関係の希薄さ」的なのは逆にいいかもしれない。ご近所付き合いとかほぼない。いや、別に地方でそんなもんがあるのかは知らないが。
とにかく、上に書いたようなことも、住んでみなきゃ、来てみなきゃ分からなかったことである。割と東京に出る前の10代のころは、東京というのは暴力や犯罪がはびこる危険な街だと思っていた。実際ニュース的には発生している。しかし、実感的に、「人がクソ多い」ので、そうした割合的な面でみると、生活感覚としては意外にふつーだな、というもんである。
とかってこの辺は、実際、犯罪発生率や対人口率とか、統計的に数字をみてみたいもんだなぁ。実際どんなもんなんだろ。
(かっこ書きである。次の話題にいくかと思いきや、時間切れ。今日はもう書くのはやめる。そうだな、東京に住むってことを、特に意識もしていなかった。いや、住所を書くのは「東京都~~」って書き始めるわけだが、別に東京に住んでいる実感もなかった。どっちかというと、生まれ育った帰省先の土地の方に愛着が未だにある気がする。不思議なもんだ。0代、10代のころは、とても幸せバラ色とは言えなかった気がするのに関わらず、である。まぁこれは、親の愛情的なサムシングなんかなぁとも思う。やっぱり、家庭という基盤というのは、成長につれて影響が小さくなるとは言われるが、それでも人格形成面として、強い影響があるんだろう。ええと、まぁその、東京ってことを考えるいいきっかけになった気がした。逆に、日本なら、ネットがあればどこに住んでもいいような気持ちがある気がした。いやしかし、逆に、だな、むしろ「関西」というのは、どこかしら「異世界」的な感覚がある。常に話のオチを求められ、笑顔絶やさず空気を読み続けなければいけない風潮が強い世界な気がする。怖い。まぁ、大阪と京都でも全然違うとかも聞いたこともあるし、いろいろ人にもよるんだろうね)
今日の一言「臨時の記事だ」「しかしルーチンは完了している」
いや、実際、思ったよりも周囲の方々が親切で、よいのだが、人間不信の俺としては、少々書くべきことを模索する必要があるだろう。
何って、そりゃあ、借りてきた猫のような状態でいたら、ストレスもたまるってもんである。
いや、その、気にしなきゃいいじゃない、とか、そういうくだらないアドバイスする奴はどうでもいい。
気にしてしまうから気にすることを悩んでしまうのだ。気にしない人はそもそも気にしないのである。
しかも、気にするべきである。
大いに気にするべきである。気にしたところで、避けられない事態は多々あるとはいえ、気にできる範囲では気にしまくるべきである。
疲れる。しかし、それもまた仕事のうちである。
いやいや、成果と関係ないものは仕事じゃないとか、そういう発言もどうでもいい。ああ、本当にどうでもいい。分かってる、「正論」的なのは分かっているからこうやって、無駄なことをとにかく書きたくなるのだ。
ああ、ええと、貴重なことを書こう。
ええと、支離滅裂である。
思考がまとまらないが、要は、上手くやっているが、その上手くやっている状態が非常にストレスであるということである。
というよりも、「どこまでやるべきか」という点が非常に悩ましい。
人に任せる、ということも必要ではないか。そうしたとき、自分は、どこまで手を出せばいいのか。なぞだ。
ええと、そうだな、率直にいって、数日過ごした感覚として、自分の知識・技術的に、何とか対応できそうだなという感覚である。
すげー傲慢なことを書いている。危険だ。危険ゆえに、ここに書いた。
何が危険かといえば、そういうおごった勘定というのは、すぐに他者に伝わるのである。そして、その傲慢さが実力よりも上、であれば人は特に何も思わないが、実力程度であったときに、傲慢な奴だ、と思うのである。「より」という点が強調だ。傲慢さは、実力よりも上の結果を出さなければ認められないのである。
それは逆に疲れる原因になる。
長期的に、上手くやっていくためには、今の「気にする」ことによる疲れは致し方ないのだ。
1か月、2か月、半年か。分からないが、とにかくもう少しばかり、謙虚さ全開でいくべきである、ということは書いておこう。
その勉強というのは、業務知識的な意味よりも、「風土」を学ぶことである。
その職場がどういったことが求められているのか、どういった仕事の進め方が好まれるのか、どういったコミュニケーションが必要なのか――など。
俺、一部、社交的というか、礼儀正しいとか、そういったことを言われたりもするが、まったくもって人見知りである。コミュ障である。
頑張って頑張って人並みレベルの状態を維持しているのである。
そういう「疲れること」をたくさんしていることは、他者は分からない、し、分かる必要もないと思っている。そういうもんだ。
だから、せめて、このブログ界においては、愚痴を書かせていただきたい。
難しい。
そもそも、いっつも書いているが、そんなに他者の情報に興味はないのである。
興味はないが、ある程度情報収集が必要だからやっているのだ。
そんなとき、どこまでの情報が開示していいのか、非常に判断が難しい。困ったもんである。
(かっこ書きである。おっけえええ! 分けのわからない記事になった。書きたい気分ではなかったが、とにかく、書かねばならないといった強迫観念による記事だ。とにかく、ストレスを感じているんだなぁということが伝われば合格だ。あと、なんか、他者を気にしすぎじゃない? って、多分あとで読んだりしたら思うだろう。思うだろ? が、しかし、思ってしまうんだから仕方がない、ということを抑えておく必要がある。それこそが、この記事の価値である。心理学とか自己啓発とか、役に立たないときは立たないということが分かればいい。それにしても疲れたなー。とりあえず明日いけば一旦休みだ)
前書き
遠藤である。新しい職場である。居場所はまだない。いや、実際、思ったよりも周囲の方々が親切で、よいのだが、人間不信の俺としては、少々書くべきことを模索する必要があるだろう。
進捗
あー無駄なことを書きたい。ものすごい無駄なことを書きたい。何って、そりゃあ、借りてきた猫のような状態でいたら、ストレスもたまるってもんである。
いや、その、気にしなきゃいいじゃない、とか、そういうくだらないアドバイスする奴はどうでもいい。
気にしてしまうから気にすることを悩んでしまうのだ。気にしない人はそもそも気にしないのである。
しかも、気にするべきである。
大いに気にするべきである。気にしたところで、避けられない事態は多々あるとはいえ、気にできる範囲では気にしまくるべきである。
疲れる。しかし、それもまた仕事のうちである。
いやいや、成果と関係ないものは仕事じゃないとか、そういう発言もどうでもいい。ああ、本当にどうでもいい。分かってる、「正論」的なのは分かっているからこうやって、無駄なことをとにかく書きたくなるのだ。
即戦力としての異動
新人的な時代は終わってしまったのだ。そろそろ、若手としては誰も見てくれないのだということが、人数の多い部署に異動すると分かってくるもんである。ああ、ええと、貴重なことを書こう。
ええと、支離滅裂である。
思考がまとまらないが、要は、上手くやっているが、その上手くやっている状態が非常にストレスであるということである。
というよりも、「どこまでやるべきか」という点が非常に悩ましい。
人に任せる、ということも必要ではないか。そうしたとき、自分は、どこまで手を出せばいいのか。なぞだ。
ええと、そうだな、率直にいって、数日過ごした感覚として、自分の知識・技術的に、何とか対応できそうだなという感覚である。
すげー傲慢なことを書いている。危険だ。危険ゆえに、ここに書いた。
何が危険かといえば、そういうおごった勘定というのは、すぐに他者に伝わるのである。そして、その傲慢さが実力よりも上、であれば人は特に何も思わないが、実力程度であったときに、傲慢な奴だ、と思うのである。「より」という点が強調だ。傲慢さは、実力よりも上の結果を出さなければ認められないのである。
それは逆に疲れる原因になる。
長期的に、上手くやっていくためには、今の「気にする」ことによる疲れは致し方ないのだ。
1か月、2か月、半年か。分からないが、とにかくもう少しばかり、謙虚さ全開でいくべきである、ということは書いておこう。
勉強の時期
とにかく、今は、特段緊急的な案件とか、超重要案件が任されることはないから、十分に時間を有効に使いつつ、勉強にあてるべきだ。その勉強というのは、業務知識的な意味よりも、「風土」を学ぶことである。
その職場がどういったことが求められているのか、どういった仕事の進め方が好まれるのか、どういったコミュニケーションが必要なのか――など。
俺、一部、社交的というか、礼儀正しいとか、そういったことを言われたりもするが、まったくもって人見知りである。コミュ障である。
頑張って頑張って人並みレベルの状態を維持しているのである。
そういう「疲れること」をたくさんしていることは、他者は分からない、し、分かる必要もないと思っている。そういうもんだ。
だから、せめて、このブログ界においては、愚痴を書かせていただきたい。
噂話の是非
どこまでの情報をすべきかはよく分からない。難しい。
そもそも、いっつも書いているが、そんなに他者の情報に興味はないのである。
興味はないが、ある程度情報収集が必要だからやっているのだ。
そんなとき、どこまでの情報が開示していいのか、非常に判断が難しい。困ったもんである。
(かっこ書きである。おっけえええ! 分けのわからない記事になった。書きたい気分ではなかったが、とにかく、書かねばならないといった強迫観念による記事だ。とにかく、ストレスを感じているんだなぁということが伝われば合格だ。あと、なんか、他者を気にしすぎじゃない? って、多分あとで読んだりしたら思うだろう。思うだろ? が、しかし、思ってしまうんだから仕方がない、ということを抑えておく必要がある。それこそが、この記事の価値である。心理学とか自己啓発とか、役に立たないときは立たないということが分かればいい。それにしても疲れたなー。とりあえず明日いけば一旦休みだ)
