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15分しか書けない
2018/03/20 06:50 | 思考及び書くこと
今日の一言「朝目が覚めた」

 コメントや、WEB拍手などもありがとうございます。
 遅ればせながら、しっかり読ませていただき、感謝しております。

 時間が、取れません。

 ある友人のブログでも、「くよくよ」しているようです。

 僕は、落ち込んでいる人をどのように励ませばよいか分かりません。
 というよりも、励ますという行為自体が、果たして可能なのかと思うぐらいです。「相手が」、自分を劣っている(下である)と思っていれば、上から目線として苛立つでしょうし、逆に優れている(上である)と思っていれば、「お前のようにはできないよ」と思うかもしれません。

 などということは、もう以前から書いていることですから、自分の中の、自分という認識に変更はないことですが、こうした文書というものは、まったく悲しいことに、その発するタイミング一つをとっても、相手に与える影響は変わってくるものであります。



 故に、僕は、自分のことを書くしかありません。
 そうしたとき、今、15分、朝目が覚めた段階で、書いておくべきことは、生活が、仕事の面でも、プライベートの面でも変わりそうだ、ということです。



 ぼかして書いても、後々の自分にすら伝わらないので、他者と一緒に住むことをしてみようかということです。引っ越しです。

 果たして、その選択が、自分にとって正しいものなのか、分かりません。

正しさや判断

 問題となるのは……人生、すべての問題に言えることですが、その判断の正しさとなるでしょう。

 人は日々判断をしているわけですが、その判断は「正しい」と自信をもっているものです。
 いやその自覚がない人も多いでしょう。
 お昼ご飯を何にしようかという判断は、「とりあえず」これでいいや、といった「判断」をしている場合があります。これは、「判断」といいつつも、自分の中では「判断を保留した」といった印象があるのです。

 ところが、そんなことはなくて。

 保留という考え方が、そもそも判断なのです。

 ただ、それが悪いことでは当然ありません。それが正しい判断かもしれません。

 しかし、その「正しい」とは、いったい誰が、どのようにして担保してくれるのか?


 法律はあります。
 法律に背くと、それは違反です。しかし、そのレベルの話ではなくて、日常生活としての基準とは、何でしょうか?

 家族。
 学校。
 仕事。会社。
 地域社会。
 友人。
 恋人。

 いろんなコミュニティがあって、その中にルールがあります。そのルールは、明文化されているものは少ないでしょう。暗黙のルールというやつです。

 でも、目に見えなくてもルールです。僕らは、ルールに縛られています。しかし、「縛る」という言葉はネガティブなので、そうは思っていません。ルールに対して自分の行動を、「正しい」として感じられるようになっているのです。



 しかし、大きな選択……転職や、結婚、卒業や入学、別れや出会いなどなど、日常と異なる状況に直面した時、僕らは、はたと立ち止まって、「考え」はじめます。

 そうしたときに、今まで自明だったルールというものが、疑いだされたりするのです。



 が、そういった一般的な話は自分にとっては、もう通り過ぎたことなのであまり興味はわかずに、自分としては、要するに、そもそも日常的にも、いったい「ルール」って何だろうと疑問であるということであり、要するに、何らかの判断たるものが全て「保留」のように感じられるという病的心性を問題と思っているわけであります。

有限性

 何故、「保留」ということがいけないのか。
 それは、人生が有限だからに他なりません。無限の思考が許されるのであれば、保留は可能となります。ゲームにおいては、ポーズ(一時休止)が可能です。

 しかし、人間は時間的存在ですハイデガー。
 誰であっても、「死」という目的に向かって歩んでおります。
 死という目的と書くと、やはりネガティブでしょうか。しかしこれは自明であって、僕でさえも、あまりにも自明なので、「目標や目的」のことをブログに書く時でさえ、「死」というのは掲げてきませんでした。

「それをいっちゃあ、おしまいよ」

 というやつです。不可視領域です。見てはなりません。知ってもなりません。考えてもなりません。


 コメントでいただいたこととして、誰しもそれを思ってもいるし考えることもできるが、敢えてそれをやっていないのだ、ということを読み取りました。ゆえに、「間違い」なのでしょう。――いや、その「まちがい」という表現も、次元によって微妙になるのですが、それはおいておきたいと思います。


逃げても

 一つ、確信めいたこととして、多分、僕はもう逃げられないのだろうなぁということ。
 何から? 思考から。

 生活が変わっても、仕事が変わっても、僕はきっと考え続けるのだろう。

 終わりのない、答えのないものだとしても、きっといつか辿り着けると信じているのだろう、と思う。

 それが、「実存的価値」というか、人生から逆に求められていることなのではないかフランクル、とすら思う。

 論理的ではないし、よく分からないものだけれども。


 どう考えてもちっぽけだ。

 ニュースなんかみて、政治的なかけひきとか、やりとりみて、「まったく政治家たちは……」とかって思っている人もいるだろうけれども、どんなコミュニティでもよくあることだと僕なんかは思ってしまう。純真爛漫(かっこわらい)の子供たちの世界でだって、ドロドロとした関係なんてのは珍しくないだろう。



 正直、僕は、世界(人や社会)に対して、期待していないのだと思う。

 ただ、これは、コミュニケーションの上では危険というか、障害でしかないことも理解している。
 でも、それを隠して生きているのもメンドクサイのは事実である。


 僕が理想とする社会というか世界というか、関係というか人生は、「人生や世界なんてくだらねぇ。ただの暇つぶしにしてもクソゲーだ。でも、美しいものや綺麗なもの、耽美はある。だから、たった一人でも、周りに理解者がいなくても、それを目指して歩んでいくべきだ」という価値観を共有できるものである。

 後半の、「まっとうに生きよう!」的なのは、多くの人が納得することである。
 重要なのは、最初の「くだらない」という点である。このあたり、この最初でつまづくと、僕はコミュニケーションを深めようとは思わなくなる。

 いや、「そう思って」くれている必要はない。ただ、そういったどす黒く汚い面があることを認められる人かどうか……という点が重要だ。

 同時に、単に「どす黒い」人には、まったく興味がない。僕の言葉で書けば、反転したポジティブが重要なのだ。あえて注視している、とあるブログさんは、常に、過去に自分が受けたトラウマというか、他者への怨念をいつもいつも綴っている。「どす黒い」。が、「だからどうするか」というのがなければ、面白くない。



 僕は、「どす黒い」ことを全然悪いこととは思っていない。それどころか、それが「当たり前」だと思っている。
 だから。――だからこそ、そんなくそみたいな状況で、どう生きるんだ、ってのが大事である。と思う。
 死ぬのだってよい。完全自殺マニュアルは手元にある。

 しかし、どうせ死ぬ。
 早いか、遅いかだけだ。

 だったら、何か、するか?


(かっこ書きである。やっぱり長くなった。まぁ久々だから、いろいろ書きたいことはあるはずなのだ。忙しいとよく分からないが。ただ、書き始めると奔流は止まらない。しかしそれも、眠気や疲れに勝るものではないから、更新がぴたっと止まったりする。――要は、家の更新が迫っているので、そう、もう生活が大きく変わったのが2年前なのである――どうしようかな、ということだ。いい人に巡り合えた。一緒に暮らさないかって言われたので、本気にしてみる。まぁ、きたるべきときを想定し、部屋の片づけというか、断捨離的なのを昨年から実施していたので、引っ越しに対する大きな障害はない……けれども、やはり愛車どうしようかとか考えることは多い。まぁでも、生活を変えてみるというのも、良いタイミングかもしれない。ああ、しかし、創作はどうなってしまうのか。ブログは、どうなってしまうのか。それが少し心配である。……しかし、まぁ、ブログ本文にも書いたけれども、僕はきっと考えること――というか、書くことから逃げられないだろうし、一生付き合っていくことだろうし、それほど心配することではないだろう。ただ、その点を、一緒に生活する人が分かってくれるのか……いや、ううむ、その必要は、あるのだろうか、うーむ、その点がなんというか)

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