今日の一言「眠れない夜に書く……というのは初めてではない」
もう11月も終わるというのか。
早いな。年々加速している気がする。
やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。
仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。
しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。
なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
それでも全然眠れなかった。
そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。
おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。
そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。
でも大丈夫だった。
仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。
そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。
なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。
これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。
それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。
これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。
ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。
もう、自分が信じられない。
1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。
自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。
再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。
財布を忘れて会社に行くときがある。
それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
それによって、忘れる可能性が減った。
それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。
認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。
もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。
まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。
もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。
やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。
というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。
自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。
でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。
そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。
大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。
で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。
光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。
やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。
でもボクはそれは、明確に嫌である。
少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。
最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。
ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。
とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。
前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)
アバターとは違うわけだ。
アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。
ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
小説的に言えば、超・感情移入みたいな。
そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。
とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。
というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。
ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。
んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。
ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。
それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。
そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。
なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。
んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。
それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)
そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。
やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。
そういう新鮮さがなくなってしまった。
そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。
その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
まぁそれでも全然いいのであるが。
よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。
これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。
まえがき
前回の記事は、10月23日。今日は、11月27日。1か月は経ったのか。あまり、そういう感覚がない。もう11月も終わるというのか。
早いな。年々加速している気がする。
やっぱり、昨年の、2021年2月から始めたFF14年が、ちょっと特殊だった気がする。もう一つ世界が増えたみたいな感じがしたし、人間関係というものについての考え方も変わった気がする。
仕事も、2020年から、めちゃくちゃ忙しかったけれども、割と人間関係にも恵まれて、能力的にも知識的にも増やせた年になったと思う。
しかし、「リアル」というものについては、絶え間なく変わっていく。残念なことに、「安寧」ということは、現実的にはないのではないかと思うぐらいである。
その、すごく「楽しかった」といってよい、2021年でさえ、振り返ってみれば、「楽しい幸せ最高」ということばかりではなかった。それこそ、「眠れない夜」だってあったし、すごく落ち込んだこともあった。
眠れない夜
ということで、昨日から、3時間ぐらいしか眠れていない。27時(3時)~29時(5時)ぐらいは寝てたかな、という感じ。なんでこんなことになったのかと言うと、正直よく分からない。
お酒(350ml缶)を3本開けたのは初めてじゃないかという気がする。
それでも全然眠れなかった。
そういうときは、頑張って寝ようとしてもダメなので、書くことにした。
おそらく、分からないけれども、1時間も書いていると、きっと少し落ち着くと思う。
そうそう。そういえば、先日の「仕事の気がかり」なことは、やはり杞憂だったようだ。
よかった。ミスしたんじゃないかとすごく心配だったのだ。よく聞く、発注間違いみたいなレベル。ケタ間違えて発注しちゃったんじゃないか、的な心配があったわけである。
でも大丈夫だった。
仕事は、やっぱり、時間的拘束が少なくなったとしても、怖いものは怖いし、やらなくていいならやらないほうがいいなって思う。
イラストレーターや、創作系の仕事はいいなぁとは思うけれども。ミスがあっても、そこまで致命的にやばいことにはならない。いや……誤解を生む表現だ。ミスで、その作家としての名が傷ついてしまったら致命的だろう。でも、小説なら誤字脱字レベルのミスなら編集校正でひっかかるだろうし、ひっかからなくてもそこまで致命的な問題にならないし、イラストや漫画のミスがあったとしても、同様だろうと思う。
そんなこといったら、100万円の損害(それが、ケアレスミス的な原因であったとしても)を与えても、会社としては大したことない、ことなのかもしれない。ただ、その場合の個人として受けるダメージは計り知れない。
なのでまぁ、仕事はやはり気を付けてやらなければいけない。遊びとは違う。
チェックリスト
ミスしたんじゃないか……という不安が、結構大きくなっているこの頃。これは、数年前に、それこそ数百万円に匹敵するミスをしてしまったことに起因する。
結果的に、会社的からも、関係先の会社からも助けられて、実害はなかった。
それはよかった。結果的に救われた。よかった。安心……にはならない。
これまで、そこまで致命的なミスをしたことがなかった。
だから、「ミスしたんじゃないか?」という不安に少しなることがあっても、「いや、自分は大丈夫だ」と信じることがある程度できていた。
ところが、そんな大きなミスを実際に自分は「した」。
となると、もう、自分に対しての信用がなくなる。
もう、自分が信じられない。
1回の確認で済むところを、2回……で済めばいいが、何度も確認しないと不安になったりしている。
自分への信用を失ったことが、かなりの「実害」であったのだ。
再発防止として、すごい細かいことにも、チェックリストを作って、指差し確認じゃないが、確認することにした。
例えば、出勤時のタイムカードを通すということのレベルでも、忘れる可能性があるのであれば、チェックリストに含めている。
財布を忘れて会社に行くときがある。
それは、家を出る際に、「財布・スマホ・定期・社員証」(+アルファでハンカチティッシュ時計……)を口に出すようにしている。ちゃんと持っているか確認するわけだ。
それによって、忘れる可能性が減った。
それでも、ゼロじゃない。1年に数回は忘れる。事情があって、鞄を変えたりするとき。そういう時に限って、口に出して確認するのを忘れたりしている。
チェックリストでチェックすることを忘れてしまうと、もうミスの防止の使用がない気がする。どうしたらいいんだ……。
認知症老人の薬の問題というのと同じかもしれない。朝昼晩薬を飲む……ということをメモしておいたとしても、そもそも「飲んだ」ことを忘れてしまうと、何度も飲んでしまったりするだろう。その場合は、飲んだら、紙にチェックしたりする……ことだが、そのチェックを忘れてしまったり……となると、最終的にミス、は、防ぎようがない。
もうそうなってくると、脳トレーニング(認知療法)とかが必要な領域だ。
まだ……自分は、そこまでではないと信じたい。
FF14のコミュニケーション
と……面白いものである。そもそも、悩んでいたこととは全く別の話を書いているのだから面白い。もともと、何で眠れなかったかと言うと、FF14でやることがなくなってきたな、ということが関係していた気がする。
やることないならやめればいいじゃないか、というのはもっともだし、そういうことをいって構って欲しいとか、そういう打算があると言われたらそうなのかもしれない。
だから、そういうことはFF14のコミュニティでは言わずに、こっちで書くしかないのであるが。
というわけで、やっぱり、この場所が、ボクにとっては、とても大事な場所だなと思う。
自分の心の最後の砦……みたいなことまで書くと、後から読んで失笑なんだろうなぁ。
でも実際、今はそう思う。別のコミュニティでの問題を強く感じる時だからこそそう思うのだろう。
そういう意味で、リアルの仕事の場所というのも間違いなく大事だ。
離婚したので妻や子供はいないけれども、両親など家族はいる。家族も大事だ。
大事なのは、複数のコミュニティがあることだ。これは、社会学者の宮台真司氏も言ってた気がする。
色んなところに「自分」の居場所があることが大事ということだろう。それはそうな気がする。
で、本題でもないけれど、FF14でのコミュニティで何が問題かというと、いままでも何度か書いてた気がするけど、やっぱりボイスチャットする人が増えてきているという印象だ。
光のお父さんのマイディーさんの時代は、そうじゃなかったと思う。テキストチャットがメインだったと思う。
だからこそ、ボクはFF14やろうと思ったのだ。
でも、時代が変わったのだろう。ディスコードとかいうアプリで、気軽にVCができるようになって、ツイッター感覚で入れている人が多い。
実のところボクも最近、聞くだけだけど、ディスコードでVCなるものをやってみた。
キャラクターとしての感覚
なるほど……確かに便利だと思った。やっぱりテキストチャットするより、話した方が断然情報量が多いし、速い。当たり前だ。
でもボクはそれは、明確に嫌である。
少なくても、いまボクが使っているキャラクターでは絶対に(VCするのは)嫌だ。
最初から、「endo」という個体を前提としたキャラクターなのであれば構わない。ただそれするなら、キャラデリートして最初からやりなおすことになるだろう。
ボクはボクであって、ボクじゃない存在で、リアルとは違う世界での生活や冒険を楽しんでいたのだし、これからもそうありたいと思うのである。
とはいえ、「ボクであってボクじゃない」というのはとても難しい感覚だし状況といえる。
前も書いたけれども、「自機」(すなわち、自分のキャラクターを、自分とは気離して、いわゆるゲームのキャラクターとして考えること)という考え方や言い方が好きじゃない。
(つまり「中の人」を意識した言い回しが好きじゃないという意味でもある)
アバターとは違うわけだ。
アバターとは、メタバース空間とかで操作する自分の延長のことである。それはあくまでも、「自分」なのである。
ボクはそうじゃなくて、ボクじゃない存在に意識を乗せるような……表現が難しいな。比喩としては、異世界転生みたいなイメージだと思う。前世(リアル・現実)の記憶はあるけれども、異世界で意識も身体も別になった、みたいな、そんなイメージ。
小説的に言えば、超・感情移入みたいな。
ボイスチャット
それで、ボイスチャットの話に戻るわけだけれども、ボイスチャットは、どうしても「前世」(リアル・現実)を意識させるものであって。そうすると、これまで、1年ぐらい生活してきたそのFF14での存在(自分のキャラクター・ボクじゃないボク)は、その自己存在意義を失うのである。
とかってことを、理解してくれる人がいるとは残念ながら思えない……。
というよりも、逆説的に、理解してもらうわけにはいかない、ともいえるのである。
だってそもそも、この理由というのは、「ボクじゃないボク」存在の、外側にあるものなのだから。
ボクじゃないボク存在は、そんな疑問や、悩みすら抱くことがないのである。
んでまー、ボイスチャットをやらない(やれない)理由はそんな感じなわけであるが、一方で、仲の良いフレンドさんたちが、ボイスチャットをやり始めているということである。
ボクが知らなかっただけで、ずっと前からやってたのかもしれない。
それはそれでショックだ。ショックだし、やっぱり、VC使うと、そっちの方が便利だし、それメインになる気がする。
どうあがいても、テキストチャットの情報量じゃ満足できなくなる気がする。
そして、簡単に言うと、やっぱり、「寂しい」。
なんか、違う次元の存在に思ってしまうのだ。どこまで仲を深めても、仲良いと思っても、VCとテキストチャットには、断絶的な差があるように思ってしまうのだ。
んじゃあ、VCやる前提の「ボクじゃないボク」を作って、楽しい新しいコミュニティを探したらいいなじゃないか? というのは一つ方法としてある。
それは、婚活して素敵なパートナーを探そうというのと同じぐらいのレベル感である。
(0……ではないが、限りなくやる気がないということ……かっこ笑い)
これからのFF14
そのVC問題と同時に、そもそも、ストーリーもクリアしてしまってやることがあまりなくなったというのもある。「零式」という、難しい戦闘コンテンツに挑戦するというのが一つのステータスでもあるけど、「零式」は、やっぱりVC使う場面が多いということだし、また別のダメージを計測するツールの問題もあってとにかくややこしい面倒さがある。そこまで、面倒くさいことをしなくても、「極」というちょうどいい感じの難易度のコンテンツもあることが分かったのも最近ではあるが、それもクリアしてしまって、ほんとにやることがあまりない。
やることなくても、自分の作った装備とか、アイテムが、1000ギルとか、1万ギルとか安い値段でも売れたりしたら、すごく嬉しくなってたし、サブクエストで世界観とか人物観とか深めるのも楽しかったし、色々楽しかったのだ、冒険が。
そういう新鮮さがなくなってしまった。
そうなると、オンラインゲームなのでやっぱり、「コミュニケーション」が楽しい、ということが大事になる。
その大事なコミュニティでも、今日書いてきたVC問題などもあって、「はぁ……」というわけだ。
居心地の悪いコミュニティになってしまったら、ボクの居場所の一つがなくなるということだ。
そうすると、ネット上では、もうこのブログぐらいになってしまう。
まぁそれでも全然いいのであるが。
よい……のだけれども、先に書いたようにやっぱり、複数のコミュニティがないと、安定しないのだ。
この「安定」というのは、「あったらいいね」レベルではなくて、必要不可欠レベルである。
それもどうなの……と思うけれども、漸近的に向上する方向でないと、現状維持すらできないのが世界の仕組みである。世界と言うか、人間の生理というか。
これって、やっぱり種の保存的な本能的なものだと思う。
同じことで満足できないからこそ、人類は進歩してきたんだと思う。常に新しいことや、工夫や効率化を求めること……「めんどくさい」という心理もまた、生存本能的に必要なのだろうと思う。
あとがき
(かっこ書きである。落ち着いたのか、ボクは。言いたいことを言えないとやっぱり、人は苦しくなるものだ。しかし、言ったとしても理解されないことだったらどうだろう。幸いにして、ボクは、人を殺したくて殺したくてたまらないといった快楽殺人鬼的なことを思うことはないので、言っても理解されないということはそこまで多くないのではないかとは希望をもてそうだ。とはいえ……。今回書いてきたような、自己の存在の外側にあるような問題の場合は、「話してすっきり」みたいな方法は取れない。「死に至る病」というキルケゴールの著書と同名の漫画があるけれど、ネタバレになるけど、二重人格的になって、その二重人格の方が後天的に発生したものであり、それを認めてしまうとその人格自体のアイデンティティが否定されてしまう……という話しがあった。本当の自分が分からなくて苦しむ一方で、実は「本当の自分(二重人格の前の元の人格)」を認めてしまうで、その後天的な人格(二重人格)は死ななければいけないという、そんな話しだった気がする。問題は、解決されるためにある、と言われることもあるが、同時に解決できない問題もあるのだ。さらに、問題を解決することでそれが原因として起こる問題と言うのもある。直線的な問題だけでなく、サーキュラな(円環的な)問題というのが、実のところ多いのだろう。つまり、この記事は、結局のところ、問題を問題として認識するためのきっかけにすらなったか分からない。とはいえ、眠れない夜が明けて、朝になったというのは、この記事のおかげであるといえるので、その点は感謝しないといけないだろう。(と、最初に良そうしたとおり、ここまでで大体1時間だ))PR