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タイトル考えるの面倒くさい
2018/12/04 20:58 | Comments(4) | 仕事と人生の関係
今日の一言「質より量、量より質、どちらでもない」
(異論反論多そうな記事になった)

徒然に書きたいときのタイトル

 特に脈絡なく、徒然思うがままに書きたいと思うときに、タイトルというのはいささか考えるのが面倒なものである。
 そういったとき、「未設定」とか、「徒然」とか、「NOTITLE」でもいいけれども、せっかくだったら何か考えたいという思いが芽生える。
 そういうとき、何かこう、連載とか、「月間更新」とか、ルールがあったら楽な気がする。

 もしくは、後からタイトルを書くという方法。自分は、こっちをよく使ったりする。

 まぁ、別にそれで事足りるから、特にルールとか必要ないだろう。しかし、わりとマジに誰かに読んでもらいたい、聞いてもらいたいとするならば、タイトルは重要だ。

コミュニケーション力

 コミュニケーションが大事、とか言われるが、そういう言葉が嫌いだ。
 ……最近、自分はやっぱり「変」なんだろうと思わされることがあって、そもそも、「〇〇が嫌いだ」という主張が多いのは、拘りが多いということであって、拘りが多いというのは、「変」ということでもある。

 しかし、まぁその、「嫌い」という言葉は、二分法的にわかりやすく表現しているのであって、そんな身の底から受け付けない、生理的に無理、とかそういったレベルではない。ないのだけれども、言葉として使う際には、どうしても「きつく」感じ取られてしまうから注意が必要だ。

 まぁでも、とりあえず、コミュニケーションって言葉が嫌いだ。横文字だから嫌いというわけでもない。昔の自分の記事を読んでいると、やたらと「コミットする」という表現があったりする。今考えると恥ずかしいけれども、当時もそれを分かったうえで、なんとなく「コミット」という言葉が自分の中でしっくりきていたので使っていたのだ。
 コミットという言葉の、自分の中での用法は、「情熱をもって対象に自分自身を注力する」といった意味であった。やはり今となってもなんとなく、日本語にするとしっくりこない。そういったときに、横文字表現を使うというのは悪いことではない。ないけれども、他者に読ませるといった意味においては注意が必要だろう。「エビデンス」や「ハードコピー」といった言葉も、仕事においてよくつかわれるけれども、別の会社の話を聞くと全然違う意味で使われていたりして、面白いなと思ったこともあったりする。

 上の段落は脱線である。コミュニケーションという言葉についてがこの小見出しの主題だ。
 こういうときに、「閑話休題」という言葉を使う。これも、最初に聞いたときは、逆の意味でとらえていたことがあったような気がする。言葉って難しいなぁ……閑話休題。

 コミュニケーションというのは、情報伝達のことであって、それ以上の怪しい意味合いはない。
 何故わざわざコミュニケーションという言葉を使うのか。横文字にすると、さも「スーパースキル」のように感じられてしまうではないか(僕だけかもしれない)。

 そもそも、コミュニケーションが大事、なんてのは、先日の「生涯学習」についてコメントいただいた件ではないが、「当たり前」である。
 というよりも、コミュニケーションをしないことなんて、ない。

 こうしたブログですら、コミュニケーション・ツールである。

 大したポイントでもないのに、あえて横文字にして、さも大事だと言わんばかりの主張が、嫌いなのである。

礼儀作法や心理学のことではない

 マナー。
 常識。
 こういった言葉も嫌いなのであるが、コミュニケーションという言葉が嫌いな理由は、それとも関連する。

 前にも書いたけれども、さまざまな解釈があることについて、自分の考えることが絶対的だと思っているような人が嫌いである。
 ――ここですぐさま書いておきたいのは、「その上で結論する」ということは大事なことだ。

 関係ないかもしれないが、裁判の判決に従うのは、それが社会的なルールだからだ。そこで、「でも自分はそう思わない」といったところで、関係ないのである。決めることは大事だ。

 しかし、飲み会はコミュニケーションに必要だ、とか、若いうちは無休で働けとか、そういった言説の様々が絶対的に正しいと信じるのはいかなるものか、と思う。ちなみに、自分は上の意見に、部分的に賛成であり、反対である。――というように、標語、スローガン的なのは、わかりにくいものや、複雑な部分や、あいまいな部分をとりあえず切り捨てて、方向性を示すためだけのものである。
 それで、標語的なのは、シンプルで分かりやすいのがよい、と言われたりする。「ユーザーのニーズに応える」とか「お客様の笑顔をつくる」とか――しかし、実際の業務に役立つことはほとんどない。
 スローガンをシンプルにしていけば、「当たり前」のことにしかならない。その当たり前のことを忘れてしまうから、実際に実行するのは難しいから、スローガンがあるってだけである。



 ――あああ、本当にくだらないことを書いている。どうでもいい。ほんっとうにどうでもいい。しかし僕はなぜ、こんなくだらなくて面白くなくてどうでもいいことを書いているのか。

 そうだ、インプットが足りていないからだ。


 いやしかしまて、何故僕は、上のようなことを面白くなくてくだらないと思うのか。
 当たり前だからである。
 スローガン的には、「WIN-WIN」があるべき姿だ。世界平和がすべてだ。それ以外に何があろうか。

 しかし、さすがに「世界平和」をスローガンにする企業はない。あまりにも実態とかけ離れているからだ。だから、自分らの業務に関連して、できる限り普遍的なものをスローガンにする。スローガンって書いているが、社訓とか経営理念とかそのへんのやつだ。

 しかし、世界平和の次の内容は、必ずしも利害対立を生み出す。何故ならば企業は利益追求のための組織だからだ。CSR(企業における社会貢献の責任)も重要だとされるけれども、利益(もうけ)ないCSRは形骸的である。

 とある業界で、ある会社が躍進すれば、ある会社は零落する。シェア(需要)は有限だからだ。勝つか負けるか。命のやり取りはないとはいえ、そんな世界なのだ。

共産主義というか社会システム

 そんな殺伐としたのは嫌だ!
 となると、共産主義・社会主義はどうか、となる。
 失敗した!
(中国は共産主義なのか? その場合、成功した、といえるのか? などという政治学的な話は勘弁していただきたい。よくわからないし、あまり興味をもてない。とにかく、当初興ったマルクス主義的な共産主義とは実態はかけはなれているだろうことは間違いなかろう)

 どうやら、人間は怠ける生き物のようだ。
 競争という概念がないと、まともな発展はできないのだ。
(生活保護はなんなのか、という政治学的な話は勘弁――以下略。しかし、だ。生活保護制度も、生活保護を受けていない人たちが、それ以上(以上、という言葉をつかえば、「イコール」も含むということだが、まぁそれでよかろう)の生活ができている、という基盤に立っているからのことだと思う。それが明確に崩れたら、制度として成り立たないだろう。「生活保護を受けるのは権利だ! 恥ずかしいことじゃないんだ!」そういった主張、その通りだと思う。しかし、現実問題、生活保護が貴族のノブリス・オブリージュで成り立っているのではなくて、税金財源なんだから、みんなが生活保護を受けるようになったら制度として成り立たないだろう)


 要するに、バランスで成り立つようになってしまったのだ。
 イデオロギーとかいう言葉は流行らなくなったのだ。
 漸近的になんとかだましだましやってくしかないのだ。
「うるせー! そんなんやってられっか! 俺は苦しいんだ! バーカバーカ!」
 というのが増えると、急進的な保護主義とか、異民族排他とかが発生する。
 歴史は繰り返す。
 繰り返させちゃいけないのだけれども、高名な学者様たちも、いまだ全世界共通普遍システムの構築には至れていない。
 修正資本主義でしかない。

 このままじゃあ、政治制度こそA.I.に任せちゃおうぜという意見が多数派になるかもしれない。アニメーション作品『サイコパス』の世界は近いのかもしれない。

政治的な話がきらい

 ここでいう政治的というのは、国レベルではなくて、会社レベルでもそうだし、家族レベルでもそうだ。
 要するに、利害調整的な仕事がウンザリである。
 30数年生きてきて最近思うのは、やはり僕は、何か作る又は創ることが好きなのである。

 ここの部署はこうだからあーして、あっちの部署にはこう根回しして……とか、ほんっとうに面倒くさい。どうでもいい。
 いやすぐさま書いておかなければいけないのは、要望とか、何か作るにあたって必要な要件を収集するということは大切だし、むしろ積極的にやりたいぐらいである。僕が「きらい」といっているのは、ある案件について、どっちの部署がやるだとか、それは俺の仕事じゃないだとか、関係ないだとか、そういうことが面倒くさいということである。

 そして、そういうのを「マネジメント」というのなら、管理職に魅力なんてない。昨今の若者は出世願望がないとかいわれるが、そういう問題じゃないと思っている。
 給料が高ければ、それだけでいいって人も中にはいるだろうけれども、仕事の中身自体が魅力的でないならば、やりたいと思う人が多数派になるはずはないのだ。
(同時に、「自発的であれ!」「仕事は自分でとるものだ」「自分で考えろ」ということも言われたりする。ばかばかしい。「自発的」すなわち内発的動機を重要視するならば、余計に魅力的な仕事内容でなければ不可能だろう)

 同時に書いておきたいのは、管理職だからこそ、「つくる」ということも可能だろう。それは、より「間接的」になるかもしれない。実際に自分が手を動かしてつくることは少なくなってしまうかもしれない。けれども、その分より大きな、自分がつくりたいと思ったものを、つくることも可能になるかもしれないのだ。そういう魅力をもっと語ってほしいものである。
 大変だー大変だー忙しいー疲れたー、とかいいつつ、出世しろ、管理職を目指せ、なんてのは、ばかばかしいこと限りない。――限りないと思うだろう、思うのだけれども、皆さんもそういう人を見かけることは少なくないのではなかろうか。

楽しいとか面白いとか

 うーむ、なんだか、当初書こうと思っていた内容から随分はずれてしまった気がする。
 しかし、これはいつものことである。
 書いているうちに方向性が変わるってことはよくあることだ。

 しかし、どうしたもんか。
 人は様々である。
 年上もいれば、年下もいる。上司もいれば同僚・部下もいる。男もいれば女もいる。受託もあれば委託もある。そんな中で、「楽しい」を仕事に介在させるというのは夢幻のことなのか。

 しかし、大事なことは二つあると思っていて、
・貢献心
・成長心
 である。

 所属する組織に対して、自分が役に立てることを探すということ。
 自分ができることを増やしていくということ。

 これは、どんな組織にいても普遍的に大切なことだと思う。
 当たり前のことである。
 会社に害をなそうとして毎日仕事している人はいまい。いたら埋伏の毒というかスパイというか。
 どんどん劣化していきたいと思うことだってなかろう。いつも男は筋トレに励み、いつも女は美容に励んでいるではないか(くだらない例え話である)。


 会社に限った話でもない。
 家族という組織(集団)であっても、同様に貢献と成長は必要だろう。家にはサラリーを入れてるから家事は全くしなくてよいのだ、という夫や妻がいる家庭は、よほどの事情がなければ上手くいかないだろう。また、ゴミの分別や曜日がいつになっても覚えられないという成長がない夫や妻がいるというのも、片方への苛々が醸成される原因になるだろう。

 そんとき、何を大事にするか、というのが「価値観」である。
 で、この価値観は色々あってしかるべき、という風潮になっている。多様性である。――という話しになると、先日の「多様性について」の記事を参照すればよいだろうか。

 価値観は色々あってよいんだけれども、それがぶつかったときどうしようか、というのが「ルール」である。
 しかし、会社における価値観ってのは、とある部署の主張だけ通せばいいってもんじゃないと思うんだが、まぁこれも脱線か。
 家族という集団は、分離するという手段もとれる。会社もまぁ、辞めるという手段や異動するという手段もあるだろう。
 しかし根本的に、対立という芽は至る所にある。

 それというのもそもそも、「世界平和」と「WIN-WIN」を成り立たせる普遍ルールが、実のところ世界には存在していないからだ。


(かっこ書きである。「普遍ルール」と書いたけれども、ルールで人を縛れるのか、というのもある。暴力装置は必要なのか。文明があっても、シビリアンコントロールでも、「いざ」ってときに強制的に黙らせられる力がないと、人はルールに価値を持てないのではないか、と僕は思う。この部分も、いろんな価値観があるものだと思う。世界平和のために兵器も軍隊も排除すべきだ、という主張もみかけることがあるだろう。核兵器廃絶という理念は僕は賛成するが、現実的に可能なのか疑問だ。ロストテクノロジーって、人為的に可能なのだろうか。ロケット技術と原子力発電所の技術があれば、ICBM(大陸間弾道ミサイル)に核爆弾のっけられるってのを何かで見た気がする。いやそんな、世界征服を企む悪の組織が勃興するというのもあまり思えないのだけれども、「人の対立」という概念がなくならない限り、強制力・強制装置は必須だというのが僕の考えである。でも、繰り返すが、僕は世界平和が大事だと思うし、目指すべきだと思う。いじめだって、ブラック企業だってなくなればいいと思う。しかし、僕は指導だと思って言ったことも、「遠藤さんって時折厳しいこと(ひどいこと)言いますよね」とか言われたこともあったりするし、まぁ難しい問題である。しかしこういうのは、真摯に反省すべきである。「自分はどうか」という視点がない人が多いせいで、パワハラとか飲酒運転とか減らないのである。もしかしたら、明日は迎えられないかもしれない。それどころか、数時間後には死ぬかもしれない。常にそう思っていたら病気だけれども、そういう気持ちで生きる(生活する)ことも時に必要である。――といいつつ、今日は疲れたからビール飲んでゲームして遊ぶ(おい))

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働くことと努力の否定
2017/07/22 21:52 | Comments(0) | 仕事と人生の関係
今日の一言「のせられてみるのも悪くない」「公開とか公言するってのは諸刃の剣」

例外とか但し書きとかばかりの世の中じゃ

 先日、「仕事も楽しむべきだ」的なことを書いた。もちろん、「誰しもそうではあるまい」という但し書きも書いたけれども、でも、それに対しては異議がある人が多いのではないか。
 例えば、奴隷制における仕事に楽しみを見出せというのは残酷な刑罰のようなものだ。古代ギリシアではない現代においても、薄給長時間労働パワハラセクハラに苦しむ人は少なくなかろう(少ないの?)。

 でも、ただ生きるために働くというのは、その生存がその人にとって根本命題でなければ、人生の大半をそれに費やすというのは、何とも苦しいものだろう。「仕事を苦にして自殺」というのが現実発生するということであれば、「生きる」ということそれ自体が、生存欲求の最後の砦とは成りえないことは疑いえないだろう。
 それゆえに、「仕事は楽しくなければならない」と、やや誇張して書いたのである。

 それともう一つ、仕事という形態を、「労働者」という観点で考える必要もないと思っている。
 例えば、アーリーリタイアを目指す人のブログなんか読んでいると、「早く会社辞めたい!」と思って、「いろいろ努力」しているのである。それは、投資の勉強だったり、ブログでアフィリエイト貼ってみたり、固定費がかからないよう田舎へ引っ越してみたり。

 僕は、それらもまた、「仕事」と思っている。
 ドイツ語で「職業」は、ベルーフ(Beruf)であるが、これは、「天職」という意味も含まれる……って、学校で習ったことはなかろうか。働くってのは、神から与えられた使命なのだと。……っていうのがプロテスタントたちが強く思って、頑張って働くうちに資本主義の基盤がつくられたって話。
 一生懸命、自分の使命と思ってやるのが、仕事なのだと。生活のため、お金のためと思ってやる活動は、本来の仕事ではないのではないか、と。

 僕は、理想的には、仕事とプライベートとの境界をなくしてしまってもいいのではないかと思っている。これはすぐさま、社畜乙とか、際限なき労働になってしまうとか批判は多々あるだろう。――あくまで、理想的な話。ホワイトカラーエグゼンプション? とかも、正直怪しい臭いがぷんぷんする。
 少し考えてみれば、「好きなこと」なんて、楽な方に偏って、きつくて、汚くて、危険な仕事なんて、誰も「楽しんで」やるはずがなかろう。でも例えば、そういった人が嫌がる仕事が、機械が、ロボットがやってくれるようになったら、本来人がやりたかった仕事ができるようになるのではなかろうか。

 今がそんな理想的な時代なんかじゃあないことは分かっているから、こんな主張はトイレの落書きレベルである。ただ、たとえ公言はできなくても、本来的には、もしくは極個人的な思いとして、「仕事は楽しくあるべきだ」ということを心にとどめていてもいいのではないかと思うわけである。

アンチクリスト

 奴隷の話が出たから、少し書けば、「キリスト教は奴隷道徳だ」といったのはニーチェさんだったか。
 卑近ないつもの例を出せば、「美人とブス、どっちがいい?」という問いが明確である。美人は心が冷たいとか、そんな比較はおかしいのだ。美人で性格がよいほうが良いに決まっている。だが、大多数のブスは(えっと、誇張して書いているんだからね? わかるよね?)、一握りの美人に対して、法界悋気(嫉妬)をもってして、美人は悪魔だと指をさし虐げようとするのである。
 例が悪かったな。まぁ、なんつーか、強いものに敗れて、支配されたら「弱者」なんだけど、「いや! 俺たちは弱者なんかじゃない。善人なのだ! 善い魂をもった者が虐げられるのが世界の――いや神の試練なのだ!」と、嫉妬心と復讐心を高めて自己を慰めるのである。

 弱きものが美しい? 魂の平等?

 ――くそくらえだ。敗北主義者の世迷い事など聞くに値せん!

 強くあれ!
 楽しくあれ!
 快楽へ身をゆだねよ!

 世界はかくも素晴らしいものにも関わらず、キリスト教の奴隷道徳(ルサンチマン)により、世界の真実は捻じ曲げられてしまったのだ!!

努力の否定

 ……別にキリスト教に恨みがあるわけでもないし、先日聖書の雑誌を配布に来た信者の方を無碍にもしないし、どっちかというと俺、弱者の方だし(笑)。

 でも、僕が最近、「成長や何か目標の達成のために努力し、を捨て去るなど間違っている」と書いたり言ったりしているのは、上のような考え方がもとになっている部分もある。

 このことを書くと、すぐさま書いておかなければいけないのは、退廃的だったり、堕落したりすることを推奨しているのではないということだ。

 目標を立て、ストイックに頑張ることを否定するわけではない。むしろ、それは素晴らしいし、大いに推奨すべきものだ。
 否定したかったり、駄目なのは、「今が苦しくても、きっと頑張ればいつか報われる」的な奴である。「今」が苦しい時点で、もうそりゃダメなのである。

 この話を書くとき、すぐさま書いておかなければならないのは、選択の余地なく這い上がらなければならない時や、状況下に置かれている人もいるだろうということだ。災害や人災に襲われたとき、「今が苦しいなんて思っちゃダメなんだ!」とか、そんなの馬鹿げている。非常事態は別だ。ただ無心に、目の前の脅威を排除することに全力になる必要がある場合だってあるだろう。


 この話になるとき、「日本は幸福な国だ」的な話。あれは、ある意味で間違いなかろう。「非常事態が少ない」といった点では、そうだろう。道端を歩いていてモンスターに襲われたり、飢餓で今日の食べ物がないなんてことは稀である。
 ただ、「他者との比較は無意味」と繰り返し述べているように、いつまでも「食糧不足」で困っている人たちと比べて、「日本に生まれただけで幸せだから〇〇すべきだ」とか言うのは、アホの所業であるということだ。今まさに苦しんでいて、自殺しようとしている若者に対して、「もっと苦しんでる人なんて、いっぱいいるんだよ。幸せなことだってあるんだし、まだ若いんだから死ぬなんてもったいないよ!」なんて、何ら解決になるまい。もちろん、そのまま死なせてやるのが正しいとか言ってるわけじゃない。だが、「他の苦しんでいる人」の存在が、今まさに苦しんでいる当人にとって、なんの福音になろうか。むしろ絶望への手助けにしか思えない。

 軽薄なポジティブを吐く連中は信用しないことだ。

おめーはいつも長いんじゃ

 ううむ。
 そんなに長いことかくつもりではないのに、書き始めると長くなってしまう。

 小見出しで書いたけど、言いたいことや書きたいことは、シンプルといえばシンプルだが、その読んだときや、条件、読んだ人の状況、相手などを想像すると、「ただし」「例外」とかがどんどん必要になっていく。

 世界も実はシンプルなのである。

 人は何故生きるのか? ――命あるから生きるのだ。
 お前の望みはなんだ? ――世界平和と幸福だ。

 以上だ!
 シンプルだッ!

 美しいもの汚いもの。幸福と不幸。良いものと悪いもの。
 すべての相対概念において、それらは「プラス」の方向のものが全て良いものなのだ。

 善なる存在を否定する者など「いない」。

 しかし、だ。
 上の、かっこつきの「いない」とは、「一般的に」善とか正義とかされているものに対して、同様の価値観を抱けない人や社会や国はあるということだ。

 しかしそれらは、すべて「正義」である。
(いやいや、自己の利益を追求する政治資金を横領するやつとか、人を殺して金品奪う強盗も正義といえるのか? とかいう批判もあるだろう。しかし、そんな非常事態のことなど僕は考えなどしない。そんなの、同じ「人」カテゴリに入れて考えても仕方がなかろう。――いや、ただし、国が貧しいときに犯罪は増えるように、どんなときも「善なる人間」を想定して考えることにも無理はあるだろう。しかし、「ダメなもんはダメ!」と理屈抜きで規定することも必要なときは必要だ。――という観点を巧みに利用して、「気持ち悪い二次元作品は有害だ」とか表現の自由を規制しようとする奴らもいるから難しい。――とこのように、但し書きや例外はどんどん膨れていく。法律の文章がやけに読みにくいのは、このせいだ。確かに、古い法律はそもそも読みづらかったりするが、比較的新しい法律や、改正が繰り返されているやつとかは、割かし初見でも理解できたりするものである。しかし、いろんな人や状況があるせいで、「この場合はこう」「あの場合はあのように」みたいにどんどん膨れていくのである。だからだ、「気の合う友人」ってのは大事だったりする。何故かというと、言葉や、ボディランゲージとか非言語要素を用いようとも、決して100%理解しあうなんて不可能だからだ。気の合うってのは、ある根源または価値観部分の全部または一部が共有できていることを示す。これが一致していると、一見趣味嗜好が違うように思えても、意外とうまくやってけるものだ。逆にこれが一致していないと……って注釈なげーよ!)

 えー。長い注釈が入りましたが、つまり、世界はシンプルなのですが、いろんな「正義」があって、ぶつかり合うので、「このケースはこう」「ああしたらこうする」みたいな条件が積み重なっていって、複雑さが増していくわけですな。

 哲学が混迷しちゃった(流行らなくなった)のは、本当は、だれしもみんな興味があるテーマばっかりだったはずなのに、その回答があまりにも複雑になっちゃったからなんだと思う。


 で、俺のブログが流行らないのも、やたら長いからだろうな!! まぁ、この点直す気はあんまりない! ていうか、治らねーよ! 不治の病だよ! 助けてくれよ!

本題の創作について

 そもそも書こうとしたことに、ここから入るのだけど、ちょっと、またブラウザ(スレイプニール)が重くなって、まともに書けなくなってきたので、いったんここで切って再起動する。

(次の記事は明日の17時投稿としよう。そういや、連載作品もまだだなぁ。そっちは明日の12時投稿にしよう)

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科学革命と楽しい仕事という概念について
2017/01/09 20:00 | Comments(0) | 仕事と人生の関係
今日の一言「無知の知と言われてから2000年近く根付かなかったというわけか」

科学革命

 科学革命とは、超自然的な宗教観が取っ払われ、経験と観察により知識を積み重ねようとする17世紀のヨーロッパで起こった意識革命である。

参照:http://www.y-history.net/appendix/wh1003-001.html


 というのは、何となく分かっていたことであったけれども、サピエンス全史という本を読んで、前回の記事において、
サピエンス全史という本の中で、科学革命についての興りが記載されているのであるけれども、それは、「テクノロジー」としての発展というよりも、もっと重要な人間の「意識的な革命」が含まれていることが、特筆に値するものである。 
 といったことを書いた。

 今回は、その「特筆に値するもの」とは何かをメモしていきたいと思う。

人間の意識で何が変わったのか

 すべての自然現象は、神の御業である、という観念が、自然法則という、ニュートン力学といった自然科学の体系に基づくのであるという観念が広がっていったことが、科学革命のポイントであることは間違いないが、神と自然との切り離しという点以外に重要な意識的変化があるということである。

 それは、知らないことがある、ということだ。

 15世紀ごろ、大航海時代以前の地図は、未だかつて、誰もいったことのないようなアメリカ大陸やアフリカの最南端なども、詳細に記載されていたという。

 それが、大航海時代が進んでいくと、次第に地図は、「空白」が描かれるようになっていったという。

 空白、即ちそれは、知らないことがある、という明確な意思表示だ。

 空白が多く書き記された地図を見て、多くの野心家たちは、冒険心を高ぶらせていったことだろう。
 海賊王に俺はなるという作品も、物語が進むにつれて、新しい島や国が登場していく。新しい知識や仲間といったものに、多くの人が感情移入し共感し楽しんでいくのである。


 科学革命がもたらしたのは、こうした、知らないことが、未だたくさんあるのだと、それは、経験と観察を積み重ねることで、徐々に明らかにしていくことができるのだという、そういった人々の意識革命なのだ。

終わりなき探求の旅

 で、何故僕がこれをメモしておくほど大事だと思ったかというと、この考え方を、未だ多くの人が共有している気がしているからだ。
 未だ、といった表現をすると、それがダメなことのように感じられるが、そういうわけでもなくて、それはそれでよいのかもしれないが、ただ、いつものように、自己に引き付けて考えたときに、本当に大丈夫か、ということである。

 例えば、仕事の効率化、生産性の向上である。

 ある方は、非常に優秀な技術者であり、仲間からの信頼も厚かった。それゆえに、多くの仕事が任され、それを上手く効率化を図って取り組んでいった。そのことで、ますます生産性が向上し、周囲の期待や評価も高まり、もっともっと重要な仕事が任されるようになっていった。その人は、もっともっと頑張って、方法を考え、仲間を従えて、努力を重ねていった。そして、もっともっと多くの……

 これは別に、頑張ることの否定をするための寓話ではない。
 本来、いわゆる「正常な状態」においては、その頑張っている状態がすなわち「充実感」を得られるような素晴らしい状態なのであり、それは「大変なこともあるけれども、毎日楽しんでます!」ということなのだ。世の中の経営者や、成功者、お金持ち、社長さん、意識高い系の人たちは、そうした頑張ることを「楽しんでいる」のである、この点が重要である。


 ポイントは、「楽しいかどうか」である。


 例えば、僕は先日、ある仕事をお願いされた。それは業務使用するファイルを整理するルーチン作業を、何とか効率化できないものか、というものであった。本筋の仕事とは異なっていて、上司の評価とは全く関係ない仕事であった。でも、僕はちょっと面白そうだから引き受けた。しかし、本筋の仕事があるなかで、そんなことをやっているわけにはいかないので、休日や休憩時間などに取り組んだ。そしたら、上手い具合に成功した。

 残業代も評価も関係ないが、その依頼してくれた人は喜んでくれた。
 ただ、その依頼してくれた人からの信頼性など、あまり重要ではない。ただ、僕はこれは「楽しかった」から良かったと思った。

楽しい仕事なんて幻想だ

 ある方は、仕事で楽しいなんて言ってるうちは、本当に苦しんでないから、真面目に生きてない奴だ、ということを仰っていた。

 言ってることはよく分かる。僕もずっと、真面目に生きることが、努力することが、頑張ることが大事なことだと、ずっとずっと思っていた。
 だから、仕事がつらいのは当たり前だし、むしろそうあるべきだとすら思っていた、のかもしれあに。


 俺は違う、と、今は思う。

 というよりも、そもそも、「仕事」って何かってのを、よく考えてみる必要がある。
 質量のあるものを、移動させることが仕事だ。物理学的には(笑)。

 数量化できる仕事なんて、物の移動ぐらいしかないのだ。食糧生産だって、森から種を移動させてきて、鍬や鋤を移動させて(使って)、水を移動させて、作物を移動させて(収穫し、市場に運び)、身体の中に移動させる(食べる)のだ。

 パソコンだって、プログラミングだって、電子を移動させているのだ。「営業」の仕事だって、情報を移動させているのだ。

 所詮、といってしまっては何にもならないが、仕事というのは、全部「移動」であるのだ。

 で、その移動の目的が、「金」という概念だと信じられている。
 だから、その「金」自体を移動させる職業、仕事(銀行、国や県や市の予算を決める議員、株式市場)もたくさんある。


 所詮移動だとしたら、楽しい仕事なんて、あるわけないじゃないか。

 ただ、それを「正」としてしまったら、そもそも、人生に意味なんてないわけだし、人生に楽しいことなんてないのだ。ただ、脳が与える「快感」というのを、一生満たし続けるだけしかないのだ。
 人生暇つぶし、どころの騒ぎじゃない。人生は、どこまでいっても仕事(移動)の奴隷なのだ。

意味を創りあげるしかない

 であるからにして、生きる意味なんて考えたって仕方がない、今ここを大事に楽しもうぜ! という主張には、僕は甚だ同意しかねる。

 生きる意味を考えないこと、イコール、今すぐ死んでも同じ、だと、僕は思う。

 ただ、脳を快感の状態にしておくこと、楽しいと感じ続けること(以下「享楽的に生きること」という)だけが重要なのだとしたら、「仕事」をしなければ生きていけないのだから、概念的に仕事なんて面白くなくて楽しくないものなのだから、享楽的に生きることは原理的に不可能である。

 程度の問題として、より享楽的な度合いを高めることはできるだろう。奴隷制を復活させて、支配者ができるだけ仕事をしないようにすることで、衣食住という快楽を高めることは可能かもしれない。しかしそれにも限界はあるし(ギリシアの哲学者たちが人類史上最も幸せだったのかといえば、そうとも限らないだろう。彼らの哲学的思考は、恐らく、快楽に満足していただけでは生み出しえなかったはずだ)、そもそも、奴隷制なんて復活できない。(一方で、ロボットは、現代版奴隷制の復活の希望かもしれない。しかし、全労働がなくなったとき、果たしてそれは人間の最高の幸せと直結するか?)


 多分、穴だらけの、酔っ払いの主張程度のメモでしかないと思うけれども、結論的に書きたいこととしては、意味なんてないから、意味は自分で創らないといけないのだ、ということである。


 そしてそのことこそ、本当の意味で(というまたしても僕の嫌いな表現が頭に浮かぶわけだが)、楽しい状態をつくり、維持できる方法なのだと思うわけだ。

ちょっとまとめ

 真面目に、頑張って生きなければいけない、という方策に僕は反対する(昨今は嫌悪すら覚える)。

 仕事はつらいものだという意見について、その仕事という本来の意味(移動)においては、その通りだと同意する。一方で、だからこそ、それに対しての位置づけ、意味付けを検討する必要があると思う。

 脳を快楽の状態に置くこと(享楽的に生きること)を至上とする方策に、僕は反対する。限界効用の問題もあるし、本来的な「仕事」が生活に必要な以上、持続的な享楽的生活は原理的に不可能である。



 むむ……、なんか、三者、矛盾しているな。ただ、自分の中では結構すっきりしている気がするのだけれども、これは簡単に崩壊してしまうぐらい脆弱な意識でしかないだろう。

 なんだろう、誰か僕の考えを分かりやすくまとめて欲しい(矛盾! かっこ笑い)。

 簡単に書こうとすると、生きる意味なんてものは、自分自身で見つけていくしかないのだ、ということになるけれども、いやまぁ、それは別に反対するつもりはないけれども、何か物足りないんだよな。何だろう。

 人生なんて、究極の自己満足に過ぎない。

 とかいう表現にもなってしまうわけだ。それはそれで、別に否定する気もそんなに起きない。ただ、何か物足りない。

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