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2012年思索(6)「目的設定の重要性について再考」
2012/01/02 09:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
さて、ここまで6つにわけたが、長文になってしまった。総括したタイトルをつけるなら、「目的設定の重要性」ということになるだろう。繰り返し述べていることであって、進展はない。それでも、これほど3000字ほどの文章が発生するのは、「不十分」だからである。結局、整理とアウトプットというキーワードを設定したとしても、僕は空中楼閣のように彷徨っているのである。
「人類を幸せにする」という目的でいいじゃないか、と思うのである。「みんなの幸せが僕の幸せ」みたいに、『いい人』の主人公みたいにいえたらいいのである。
ところが、「そう思えない」自分がいる、この現実を見据えるべきなのだ。
就職活動のエントリーシートに、自己PRをかくのであるけれども、どうしても書き進まない。それは何故かといえば、正直別にどの企業でもいいからである(笑)。学生が「質問は?」ときかれて問うのが、福利厚生のことというのであるけれども、やはりそちらが気になるからなのだ。
学校教育のありかた、入学試験制度のありかた、評価制度のありかたが問題と思うが、それを批判したところで始まらない。結局あなたはどんな人なの? と問われたときに、どう「説明」できるのか、そこが重要である。
僕はだから、別に「世界平和」を目的に据えられる人が立派だとは思わない。「戦う組織の作り方」でワタミの社長が述べていたことは、普遍性であり人類全体の幸福であった。渡邊氏には、その高次の目的を実現するための金も権力も方法もあるので、なおさら「すごい」と思う。
だけれども、これは凡人のブログだ(笑)。凡人は、コツコツ地道に成果を重ねていくしかないのである。天才のやり方を真似してはいけない。生兵法は怪我のもとである。
僕は正直にいって、他人なんてどうでもいいと思うことがよくある。コンクリート詰め女子高生殺人事件のような、悲惨な事件を起こす人間が存在するのである。強姦輪姦にあきたらず虐待拷問の上ドラム缶に詰めて沈めるなどという、信じられないことをする人間がいるのである。それをもって人間全体が嫌いだという中二病的なことをいうつもりはないが、歴史をひもとけば、現代社会が幸福の具現化された社会に思えなくもない。
……というよりも、「他人なんてどうでもいい」のは、事実なのである。ただし、それを「立場」としていっていけない場合がある、社会とはそうして成り立っているという、小学生でも分かる「表裏」という問題に過ぎないのである。だけれども、僕は、深層レベルでそれが許せない、いわば子どもっぽい(というより精神年齢はまさに子ども)のだが、それも言い方をかえれば「純粋」ということになる(笑)。
だから、今まで述べてきたことは、すべて「表現」の問題と言いなおすことも可能である。
単純にまとめてみる。
目的設定の重要性の昂進(∵情報社会 価値多様化社会)⇒
「生きる意味」問題の再浮上⇒具体化の方策が不透明
凡人としての方策⇒価値観の破壊⇒「生きる意味」=表裏問題=表現問題

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2012年思索(5)「目的設定の重要性について(凡人による思考の限界性」)」
2012/01/02 08:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
ここに、情報の限界性、いやいや単に、能力の限界性という問題が立ちはだかるのである。
僕の主張、価値観というものが、仮に正しかったとしても、そうでなかったとしても、時代の潮流にさからうのは、極めて難しい。この困難さは、「諦め」という言葉に還元されるべきではない。スラムダンクで「諦めたらそこで試合終了ですよ」といわれ、努力とか根性とか、継続性とか、目標に向かってひたむきに立ち向かっていく姿を美しく描かれるわけなのだけれども、それは、「ある意味」間違っている。
先に僕が述べたとおり、その目標(目的)というものは、「自ら設定」すべきものだからだ。
自ら設定した目的に対しては、スラムダンクのように立ち向かっていくべきだ。ところが、それが、イデオロギーとまでいかなくても、上司や教師や親や周囲の人が無意識に信じているからといった理由によって選ばれてはならないのである。
諦めは、必要なのだ、それが、自らの意志と反するのであれば。
僕が一時切り替えた「行動至上主義」は、確かにそれは、とても素晴らしい結果を僕に与えたのである。しかしそれは、その結果の享受の後、行き場をなくしたのであった。キャピタルゲイン、拡大再生産できるプロセスではなかったのである。考えてみれば、「行動至上主義」のために掲げた目的群は、言葉にすれば大したことではない、小学生でももてそうなものだ。ところが、その設定が可能であったのは、まず「プライド」という阻害要因を排除できたからであったし、徹底的な「破壊」があったからなのだ。
2008年からの「行動至上主義」は、それを単独でとらえると見落としてしまうが、それまでの過程が重要であったと考えるべきである。

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2012年思索(4)「目的設定の重要性について(「何のために生きるのか」問題の再浮上)
2012/01/02 07:30 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
なんどもなんども書いているが、いやむしろ重要であるということと、表現しつくせていないのが原因なのだろうが、「何のために生きるのか」問題は、僕にとっては重要である。これについて、僕が愚かで凡人だから、こうした問いに引っかかってしまっているという結論を下し、「行動至上主義」に転じてみたのではあるが、どうやらこの問題は、むしろ「表現できない」こと自体が、多くの人がふれない理由のようである(いってしまえば、「考えても時間の無駄だから」)。
確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。

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2012年思索(3)「目的設定の重要性について(「幸せな家庭を築く」という目的の空洞化)
2012/01/02 07:00 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
「このよからきれいにきえたい」
なんというか、僕はまだ説明が上手くできていないのだ。なにせ、「目的と目標、その対策と投入資源、それの効果の測定が重要だ」といいながら、「終わりなき日常を生きろ」という宮台氏の言葉に共感を覚えるからだ。
今いえるのは、単に、「目的」というものを、他者から与えられる時代は終わった、ということなのである。「幸せな家庭」といったとしても、その言葉が意味するものが空洞化している、そうした時代を僕達は生きているということなのだ。「幸せな家庭」という言葉をきいたときイメージできる情景、それが「ない」。もしくは、各々個人でばらばらであったり、そもそも生涯未婚率(50歳時点において一度も結婚したことのない人の割合)は年々あがっている。90年代より上昇に拍車がかかり、2030年には、30%近くになるとのことだ。
2005年においても、女性は7%ぐらいだが、男性は16%をこえている。2030年、18年後、僕が40代のころの世界である。なので、僕より10歳上のひとが集計対象であって、僕が50代になるころには、もっと増えていると推測される。日本人の半数が結婚しない(できない)時代が近々きそうだということだ。
そうした中で、「幸せな家庭」という言葉のもつ意味が、まさかそのままと思うひとはいないだろう。「結婚」という制度自体が見直されることもあるのだろう。非嫡出児にも相続権が与えられるようになったり、養子制度が発展するなど、様々考えられる。
だから、単純に「幸せな家庭を築く」という目的設定はそもそも、目的としての意味すらなしてないのであって、「子どもを二人育て、大学進学した上で就職させる」と、ここまで具体的にして、ようやく「目的」レベルの設定は満たせるのである。
昔、「お父さん死なないでーうわーん」を、目的にしたことがあったが、それはそれで具体的である。もし、僕が本当にそれを「理想」として、目的として許容するのだとしたら。
もちろん、「目的」は、変更できないものではない、が、可能な限り変更すべきではない。なぜならば、判断に手間がかかるからである。目的がしっかりしていて、それに対する目標と対策も打ち出せている場合、判断は迷わない。(アクラシアの事態は考えられるがここでは触れない)

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2012年思索(2)「言動の目標・対策への体系化について」
2012/01/02 06:30 | Comments(0) | TrackBack() | 思考及び書くこと
行動方策の面においては、「面倒くさい言動」をとらないようにしようと思う。言い換えれば、自己保存的な言動。たとえば、飲み会でギャグが滑ったとしても、「どうせ面白くないと思ってるんでしょ」なんていわないことだ。そうした言動=「そうじゃないよ」というフォローが欲しいということになるためである。あとは、相手の裏の意図、言外の意味に気付いたとしても、気付かないようにすることだ。これは、「整理」に位置付けられる。無駄な行動を省くということだ。
こうした、「○○しよう」と、2012年においても、感じることがあると思うが、「継続」という観点から考えたとき、「整理」「アウトプット」という二つの目標に合致させる「説明」が不可能な場合、切り捨てる(整理する)判断が必要になる。
「可能性」というものを、僕はまだ「信じてしまっている」。これは本来ポジティブな意味なのだけれども、僕自身を納得させる説明のためには、「可能性なんて無い」と言い切ってしまうことが重要なのだ。

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