途中まで書いていてまた消えてしまった。忍者ブログの下書きは自動保存してくれないから、こまめな保存が必要そうだが……
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
日曜日に仕事へ。
プライベートでも予定が多いため、何だか落ち着かない。といっても、たかだか、8月までの予定が主である。それを過ぎたら分からない。
仕事は、やることが多いが、明確に締め切りがないものが多く、考える、というか、関係部署、機関との調整ごとが多いため、落ち着かない。
明確に答えがある仕事がよいとは思うが、Aが直前でZになることもしばしば。
夢をみた、また、過去の夢だ、それは中学、高校のころ。
やっぱり、昔は、小学校高学年以降含めてよいだろうが、ある組織、コミュニティが、生活、人生の枠組みだった。
そこは不快なことが多かったため、そこからの離脱は、誰にきいたこともなく死が浮かぶのは、自然なことだ。
だから、子どもたちに対して、例えばいじめとか、陰惨な状況において、それが決して絶対的な場所、コミュニティではないのだと、教えてあげることは重要だ。
代替の場所はあるが見つけられるか
死んだらいけない、生きてるとよいことがあるよ。
ここまでは、誰だって言える励まし。無責任な、という形容詞をつけてもいいかもしれない。
問題は、では、果たして、その代替の場は、どこにあるのか、そして、その場でも本当に、他でもない、この自分が、やっていけるのか、このことを、どこまで信じさせられるのか、そこに、尽きる。
誰とでも仲良くする
人間嫌い、とはダメなことなのだろうか。
休日は必ず誰か他者と共にいなければならないのか。
一人の時間が大事、とかいわれるが、矛盾したことが推奨される。
それはまぁよいが、その一人の時間とは、すなわち、他者と共に歩むための準備時間としての、従属した関係に過ぎないのか。
ところで、先日、ヘルマンヘッセさんすごい! と書いたけれども、実はヘッセさんが、超絶にリア充で、自己に疑問など感じていない人だったらどうだろう。
なんだか、騙された、という気になるのだろうか。
そうはならない構造である。何故ならば、問題の所在は、あくまで自己であり、実存であるからだ。
こんなこと、十代のうちに完結させておけよ、と、たいていの大人たちはいうだろう。
それはしかし、今後、如何なる壁や問題が僕の前に立ちはだかったとしても、なんのことはないだろう。
今までの不安がある意味解消されている。それは、その他現象化する問題は、決して、自己に関する問題以上にはならないからだ。
例えば、死病に憑かれたとしても、それはきっと、現象化する痛みに対して苦しむことだろうが、自分の存在がなんだったのかと、生きてきた意味があったのか、なにか成し遂げることができたのか……と、実存による悩みにしかならないのである。
人は何故生きるのか
そんなことを一秒でも考えている時間があったら、英単語のひとつでも覚えろ、と言われてきた。
でも、英単語を覚えることに使った時間と、実存に悩み苦しんだ時間、それはどちらが優位とか、関係ないのではないか。
もちろん、英単語を覚えて、県内トップの高校に進学できたかもしれない、しかしそれは、ますます自己とはなにかを分からなくした原因の一つであったのではないだろうか。
いやいや、勉強することを否定するわけではない、勉強したことを後悔するわけでもない。
ましてや、勉強より大切なものがあるとか、人間関係を大切にとか、そんなことをいうわけでもない。
ここで、死生観が異なる時代や地域を挙げても、意味がない。
むしろ、過激なテロリズムは、自爆もいとわないことは、その教義が、個においても存在規定に他ならないのである。
いわゆるリア充、という、現実世界がすべて正しいとする人々にとって、テロリズム理解することができない。
そんな、死ぬよりも今を楽しんだ方がいいじゃん!
一見正しいように思えるこの言説は
すでに人間存在としての前提を違えているため、一切かみあうことはない。
根底となる前提世界がうつろいでいく不確かなものであれば、一時の快楽など何ら救いにはならないのである。
お金目当てで兵士として参加しようとする人々はまた異なる、それらは、現実の豊かさを前提としているだけで、リア充たちと変わらない。
現時点における満たされている度合いの違いた対して関係ない、というわけで、リア充、という表現は正しくないのだが、ちゃんと書くと、物理世界肯定派と、精神世界肯定派、とかなり、それはそれでどうか。
物理世界の懐疑と精神世界の肯定
僕はべつに、精神世界オンリーを信じているわけではない。
ただ、いずれ誰にも訪れるだろう、終わりから考えていけば、果たして何が正しく、何をしていけばいいのか、よく分からなくなる、ということだ。
初恋と幸せ
初めて好きになった人と結婚し、子どもに恵まれ幸せな人生を過ごす。
多くの人がこんなこと得られはしない。代替の欲求により生きる。
でも、その欲求とはどこからやってくるのか。
僕が唯一今、主体的などではなく、自然に沸き上がる欲求は、こうして書くことである。
ゲームでさえも、たまにするが、やろう、と思ってやっている感じがする。
昔、それこそ夢に見た時代は、好きになった人と結ばれることはない、一緒に生活し生きていくことはできない、触れることもできない、抱き合うこともできないのだと、失望していた。
そんなことはない、恋愛の作法を学び、自信をもって、ポジティブな考え方をして、行動的になって、明るい話をするようにすれば、彼女だってできるし、結婚だってできるのだ。
この実感は、どんなにたくさんの人から聞こうが、自分自身の容姿や性格に自信がないひとは、一切信じられるものではない。
一度信じて、頑張っても、裏切られることが続けば、自分はもうダメなんだと、立ち上がることができなくなる。
この構造は、恋愛でも仕事でも、何でも同じ。
難しいのは、ヘッセさんが看破していて僕が感動したのは、上のような自信をもって頑張りましょう、というのは、決して、教えられてできるものではないのだ。
自信を得た先の話
と、ここまでは、いつも書いていることの表現の形態の一種。
問題となるのは、その、自信があったとして、自分はできる、と思ったとしても、新たな問題が生じた、ということだ。
それは、欲求についてである。
頑張れば成し遂げられる。
彼女だって作れるし、友達だって作れる、仕事だってできて頼られてお金ももらえる。
で、だからどうした?
という、傲慢限りない疑問。
大抵の現象世界においては、あれがない、これが足りない、となるので、その無いものを求め続けることが人生の主軸になる。
あるときは諦めて、あるときは手に入って、あるときは失って、喜んだり哀しんだり怒ったりしているうちに、脳は劣化していき、自分のことも周りのことも分からなくなって、死に至るのである。
こういった表現が、なんか他の本とか、誰か他の人の言葉だったらいいのだけれども、完全僕のオリジナル、というところが、なんとも、唯一価値があることかもしれない。 つまり、困難である実感の表現化という点では、成功してるわけだ。
別に、全能感を得ているわけではないけれども、思い付く欲求の実現可能性の肯定、という面では、完全に潜在意識レベルで正、となっているのだろう。
とか書いていると、僕を含むルックスがあまりよくない人たちからも批判されるし、当然物理世界を肯定する人たちからは排除されるし、孤立無援となるので、こういったことは思っても書いてはいけないよ、という教訓的な意味で、甚だ皮肉的に役に立つ記事になった気がする。
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明日は、4時起きなのだけれども、この感動は、メモしておかなければならない。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
ヘルマン・ヘッセのシッダールタという小説を読んで、心が震えた。
これも、かなり前に購入したものだ。アマゾンで買ったから購入した日も確認できるだろう。ただ、そのときも、かなり感動したのだけれども、心が濁っていたからなのか、今回ほどの感情の動きはなかったのではないだろうか。
シッダールタという青年(釈迦牟尼とは別人。ヘルマンヘッセの創作)と、仏陀(こちらは所謂お釈迦さま)との対話のシーン。
頂上決戦のようだ。もちろん、論破するとか、論争をするとか、そういうことではない。むしろ、そうした喜怒哀楽といった感情的な部分とは一切かけはなれた、崇高な次元での対話。
そして、僕は、その二人の言っていることが、ひどく、回りくどいような、僕がこうやって書いているような、遠回しな表現によって表されているのだけれども、僕はそれが、その真意が、明瞭に明白に透き通るように心に沁みわたってきたのである。
結果として、シッダールタは、仏陀に帰依せず、祇園精舎を後にするのである。しかしそれは、仏陀の教えに、反旗を翻したのではない。仏陀の教えに心から心服し、仏陀という人を無上の聖者として心酔したのである。
それがゆえに、彼、シッダールタは、仏陀のもとを去ったのである。
シッダールタの最愛の友、ゴーヴィンダは、仏陀に帰依した。シッダールタは、仏陀のことを認めてなお、帰依することができなかった。それは、一つの、誤りを、仏陀の教えの中に見出したからだ。
それは、その誤りとは、決して、仏陀の教えの、仏陀その人の誤りではない。
その誤りとは、畢竟、「悟りに到達するというそのこと」自体である。
宗教を研究する社会学者の橋爪氏は、それを、仏教の言語ゲームといったのではなかったか。
つまり、誰もが、悟りとは何かを知らないが、修業により悟りをえられると、「信じている」のである。
これが、仏教が、神という概念もなしに、「信じる」という宗教としての要素を備えている部分である。
話しがそれた。
そろそろ、僕自身の言葉で書いていこう。
結局、仏陀その人はすごい人だけれども、「他者からの教え」によって、自分自身を変えることなんて、できないんじゃないか、ということだ。
自我。
仏陀は、様々な修行によって悟りに至った。けれども、私自身、自我をもった、自己をもった、「私」という存在、それが、果たして涅槃に至ることができるのか、それは、聖者の教えにおいても示されていない、そして、決して示されることはないだろう、シッダールタは、そう感じたのだ。
強引で、傲慢な結論を書いて、そろそろ寝よう。
つまり、僕が最近から強く意識している、「実感」ということ。
この実感こそが、やはり、重要なのだと、思う。
僕は、仏陀や、シッダールタのように賢くないから、まだまだインプットが足りないと思う。
いやはや、彼らのような素晴らしい人でも、相当の苦悩を経るのである。僕が、中途半端に生活を送りながら生きている人間が、一体、「真理」(ここでいう真理とは、万物の普遍かつ根源という意味ではなく、主体的な意味においてのモノ)にたどり着くことができるのだろうか。
この、時間的制約、限界性について、僕は恐れている。
けれども、シッダールタが、仏陀のもとを去ったということ、そのことが、僕に、やはり逃げてはならないのだと、そう教えてくれた気がする。
いやいや、教える、なんてことは、この世の中に存在しないのだ。主体的につかみ取った、「実感」が、唯一存在するのである。
わたしって不細工だしー
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
パイロット
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
解離体験
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
現時点性
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
22時過ぎて仕事して、帰路につくと、想像以上に、空虚感が強い。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
単純明快な独り言
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
空虚感
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
道化
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
全人格的承認
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
誰もいない荒野で
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ふりだし
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
最近の、インプットの足りなさに反省だ。なんだか、悟りきったような感覚でいたが、どこか、滓、濁った感覚がありながら、逃げていた。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
死と誕生と
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
ああそうよかったね
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
実践と思考との優先
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
長期目標
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
