わたしって不細工だしー
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
デブだから
ネガティブなんで
まぁ、
どうせ
わたしなんて
このブログ、やっぱりネガティブに思われるのだろうが、そんなことはないのだ。
ひとつ、正しいとしたら、極端なことを書いているかもしれない。
落ち込むなら、中途半端は許さないだけだ。
わたしなんて、どうせ、とかいってるなら、今すぐにでも消えてなくなってしまえ、とはいうかもしれない。
でも、それは言い過ぎで、すぐにでも自死を選ぶことはできない、そういう状況で、どう最高の幸せな美しい感謝される尊い輝かしく素敵な人生を送ることができるかという、実践と実験である。
これも、単に、文学的表現、誇張とかレトリックとか、そんなものかもしれないが、僕は、僕自身が、自分のものではないように思える、のかもしれない。
パイロット
それは、思考とか、自己、とかいう、パイロットがいて、身体というロボットを操るような。
でもそのロボットは、鉄人28号のように遠隔操作されるものではなく、人工知能をもって、ときに自主自律して活動するのだ。
ガンダムではなく、フルメタルパニックのアームスレイブ、のようなものだ。
ガンダムも鉄人28号もみたことないけど(笑)
解離体験
とかって考えなきゃやってられない、という体験が幼少期から多かった、という表現をすれば、ある程度多くの人に、共感をもたらす。
それは、トラウマ的な事象が、多重人格をうむようなものだ。こんなつらい状況の自分が、自分であるはずがない! という強い思い。それが、本来的自己を身体や、その自己自身から離れさせるのである。
と、いったような表現で、同情を誘えるのは、10代ぐらいだろう。いいとしした人間が、幼い頃はうんたら……親がどうこう……っていってたら、お前はお前だろ? 自分の人生は自分で切り開け! とかしたりがおでアドバイスされるだろう。
往々にして、というほど、経験はないが、そういったことを言う人ほど、過去の武勇伝、高校ではやんちゃしていたとか、若い頃は大きな契約をバンバンとっていた、とか、過去の成果を語るのである。
同じ構造になっていることに気づかない。
つまり、過去にトラウマがあろうが、過去に素晴らしい成果をあげようが、いまのお前はなんなのだ? ということである。
現時点性
ゆえに、重要なのは、いまこの瞬間。
未来を語るのもいい、ただ、その姿がかっこいいと思われるかは、今時点の自分が起点だ。なんの実績も、うまくいくだけの目処もないまま、なにか成し遂げますっていっても、虚しいだけ。
そんなことを分かっていながら、15年後を見据えた資産運用を決定した自分は、一体何故か。これは矛盾しない。つまり、15年後に元本から利益が生まれるという確信により、現時点としての安心とか、期待とかいう感情を、買っている、のである。
そして、矛盾として、仕事が終わってこれから帰りということは、もう現時点もなにもあったものじゃなくて、早く家に帰って寝る、
ということだけだ。なんじゃそりゃ、もう今も過去も未来もどうでもいいじゃないか、となるわけだ。
つまり、疲れた、眠い、という感情を表現すると、上のような話し。
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22時過ぎて仕事して、帰路につくと、想像以上に、空虚感が強い。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
居場所のなさというか、ひどい現実感のなさというか。
真っ暗闇でも、部屋に帰っていた方が、なんかいい。
まぁ、部屋にいると、それはそれで何も動けなくなることがあるのだけど。
資格の勉強もして、昇進試験の勉強もしないといけない、合コンや知人とのお出掛けもつまっているし、予定は空きがほとんどない。
忙しさって、心を失なうと書くとか。
やることが多いと、やりたいことが分からなくなる、ただ、この表現はおかしい、そもそも、何をしたいのか、離婚とかの前から分からなくなってきていたのだ。
単純明快な独り言
なんだか、最近、今日かだったか、
久しぶりに非常に怒りの感情が生じたのだけど、なんだっけ、もう思い出せない。
そういえば、保険も入った。
もう、目も半開きな、疲れはてた帰路だけれども、だったら、黙ってなにもしなきゃいいのに、書かないと、なんだか、存在自体消えてしまいそうな、そんな得たいの知れぬ焦燥感。
今日はまったく、いつもの、役に立ちたいとかではなく、単に、誰か気づいて欲しい、俺はここにいるんだ、気づいてくれ! という叫びのようだ。
空虚感
この空虚感は、歴代の自分の中でも、トップクラスなようだ。
たくさんの人に電車という囲まれた場所だから、なおさらそうなのかもしれない。
誰かの存在を抱えていないから、僕はとても軽いのかもしれない。
確かに、友人たちは、誘えば遊びにいける。
ただ、それら友人や、電子世界の友人や親兄弟を含めてもいいかもしれないが、他者の存在、人生を背負ってはいないのである。
背負うとは文学的表現だが、つまりが、他者への影響力の希薄さといえるかもしれない。
すべては相互行為ゆえに、コンビニでコーヒーを買うのも、他者への影響である。
しかし、ここで僕が問題にしている空虚感とは、その影響力の大小なのか。
道化
あまりに卑屈で、矮小でみていて楽しいかもしれない。
不思議なのは、自分は仕事をやって感謝されたし、一歩前に進めたし、すごい先輩のはなしも二人にも直接きけたし、事象だけみればとても充実だ。
いやむしろ、燃え尽きた、という状態だろうか。
そういえば、昔つくった曲や、弾いた曲をアップロードしたのをみて、コメントついているのが嬉しかった。
笑いでも何でも、共感など、感動を与えられたのは嬉しい。
現実世界の感謝は、数人だろう、電脳社会においては、僕でも何十人へも影響を与えられるのだ。
えぇ、じゃあ、僕が求めてるのは、社会的承認ってことなのか。
仮にそうだとして、いったい、どこまで求めるきだろう。
総理大臣にでもなりたいのだろうか、でも、それは、批判も多いし、人格というよりは、権力によるものであるがゆえ、求めるものとは違いそうだ。
全人格的承認
もう、目が半分だけで、無意識にかいているが、うえの流れだと、つまり欲求としては、僕自身を認めてくれること、果てには、愛していることを求めているのだろうか。
笑えることに、大抵の人は、こんなことまで考えることなく、うまい具合に自己と向き合って、日々を生きているのだろう。
僕は、……、こういった状況において、ゆっくり休みなとか、考えすぎだよ、もっと行動しなよ、思いきって休みな、まったく別のことに力をいれたら、誰かに話したら楽になるよ……
もう大体、たいてい思い付くだろう、対処法として示されることが、ほとんど瞬時に頭に浮かぶ。
そうするともう、なにがしたいのか、なにをすべきか、分からなくなる。
ってことを、第一、他者に話したら、いろいろ問題が起こることも分かっていて、いやいや、そんなことで離れていく人なんて真の友人じゃないから、もっと誰かを頼ったらいいじゃないか、とか、もう、どんどん生まれてくる。
病気かもしれない、じゃあ精神科にいこう、で、なんという? 無気力でなにもする気が起きないんです、最近ご飯は食べられてますか? はい、夜は眠れてますか? はい。
そうですね、では薬を出しておきますので、しばらく様子をみましょう。
ってなる。
いやいや、フルスピードアクセル全開気分になる薬もあるだろうが、危険だ。
考え方を改めましょう、認知療法をはじめましょう、となるかもしれない。
ただ、ここにきて問題になるのは、ここで治療されてしまったとして、では、僕の自己はどこに言ってしまったというのか?
治療されて、過去すべてが過ちだったとして、では、僕は、三十年あまり生きてきた僕は、なんだったのか。
身体上の死は大きなできごとだが、精神、自己の死は他愛ないことだろうか。身体だけいかされた状態も、植物状態とか、脳死とか、死として扱われる場合だってある。
誰もいない荒野で
と、このように叫んでいても、こうした人間を抱えてくれる、背負ってくれる、愛してくれる人間は存在しない、否、ここの表現は
難しくて、僕を認めてくれる人たちは、心配し、助けようとしてくれるだろう。
しかし、その助けとは、先程のように、治療、なのである。
全人格的承認を求めているのだろうか!?
と、先程自分で驚いたのは、そういうことだ。
いやはや、それは、構造上、例えば自分の背中を自分では見れないのと同じである。
という構造が、絶望の3形態、
自己を知らない絶望
本来的自己から逃れようとする絶望
非本来的自己になろうとする絶望
としたら、非本来的自己になろうとする最終形態の絶望に思えるかっこわらい。
いやいや、違うぞ、そうやって生きる意味とか考えることが間違いなのだから、まさにお前は、本来的自己から逃げようとしている弱虫だ!
ということだってできる。
ふりだし
ようし、それなら、初めに戻って、いまげんに、この瞬間に生じている空虚感は、いったいどうしたらいいのか。
その感情を否定するのが正しいとしたら、感情のコントロールといって、感情の抑圧が正しいことだと信じていた高校生ぐらいまで逆戻りだ。
うん、少し落ち着いた。
やっぱり、書かないと、表現してかたちにしないと、だめだ。
うえのようなことが、ほとんど同時に、頭のなかにバシャッと、溢れるのである。
そりゃ落ち着かないわけだ。
最近の、インプットの足りなさに反省だ。なんだか、悟りきったような感覚でいたが、どこか、滓、濁った感覚がありながら、逃げていた。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
キューブラーロスの死の瞬間、いつ買ったか覚えていないほど前に読んだけれども、もう一度冒頭だけ読んで、感動、というのは、心が動いた。
何度も書籍の整理を経て、今自分の部屋に残っている本は、やはり、何らかの意味があるのだ。
誰かの役に立ちたい、そんなことをかいていながら、まず、自分が、これらを、単なる慰みに留まらず、役にたつと信じられていない、そのことが問題だ。
ログは、よい、いまあることの、最速なアウトプットだ。しかし、ブログとして、役に立ちたいという思いを叶えるならば、やはり、起承転結が必要になるのだ。
もっとも、いわゆる自己啓発に代表される、これこれしたらこうなりますよ! 的なのには、成り下がる必要はない、もちろん、自己啓発を否定する必要もつもりもないが、どこかしらうさんくささを感じる人は、表層的に醸す人も、無意識で思う人も、必ずいるのだ。
それは、なにか、普遍の、不変のものに、根差されていなければならない。
それを、僕は、朝目覚めて、死の瞬間、なのだと思った。
そう、死、これもまた、昨日からの、死の恐怖、に関連する話題であり、やはり、このブログも、ログも、僕にとって、重要なものであり、役に立つことは明白なのだ。
問題は、それが、他者へも伝えられる表現になっているか、という校閲だ。
死と誕生と
決めた、やはり、子供を育てるという経験、それがなければ、僕の人生、というよりも、思考が完結しない。
何故か今まで、子供を欲しいとは思わなかった。
それは、何故なのか、ひとつ掘りさげてもいいテーマに思うけれども、ここでは書かない。
なぜ、子供が欲しいか、子供がほしいというよりも、自分の身体を使っての、生命の循環……とか表現していくと、これはまた、気持ち悪いと謗られるのだろう(笑)
恐らく、こうしたことを、問題にする人が少ないのは、どうしても、変な表現になってしまうからではないか。
だから、恋人が欲しいとか、子供が欲しいとか、それらの欲求は、自明なものとされ、多く語られることがないのではないか。
だから、頭のよいこにするには、とか、理想の恋人と相思相愛になれる方法とか、そういったテクニカルかっこわらい、的な表現があふれていくのではないか。
ああそうよかったね
で、結論として、子どもが欲しい、となったとき、結局、世の中の多くの人がそうしているわけで。
となると、ぐだぐだ考えて言って、まったく時間を無駄にしたということではないか。
これについては、否、と、実感で思う。
何故にかは、結局のところ、今までの、すべての流れにおいての、結果とした、思考の帰結なのだと、思うからだ。
流されるままに性交し子どもができて結婚して、何だか毎日に不満をもちながらも、日々を生活している……、というような人が、実際どの程度いるかは、甚だに疑問だけれども、そうした思考や感覚に、僕は今後一切ならないことが、未来の不透明さがあってなお、完全に信じられるのである。
この、信じる、ということは、まるで、神ノ前の人間だけれども、いや、信じるというのは、もとから、超然性をもとにするのであれば、そのとおりなのだろうが、ここでいう神は恐らく、キルケゴールがいうような、うちなる神のように思えるのだ。
実践と思考との優先
さて、そうと決まれば、それに向けての行動が必要となる。が、子どもを育てる、という目的、目標にたいして、僕はいま、具体的方策がまったく思いつかない、かっこわらい。
ただ、ここら辺は、昔のログとか、ブログとかからの証左になるが、何か強い目的意識をもったとき、僕は必ずそれを、実現させてきたのだ。
時おり、その形がイビツであることが、あるのだけれども。
その歪さは、イメージの足りなさといえる。
それは、時おり、その都度、修正していけばいいのだけれども、僕の場合は、勝手な想像だけれど、何か実現する強い目的が、達成されたと思うと、途端に無気力さが生じてくるのかもしれない。
長期目標
ゆえに、大事なのは、生きる目的、となる。
何で生きるのか、それが明らかになれば、そのための手段は、後からいくらでも考えて、そして実践すればよいだけなのだ。
ただ、今は、そこにたどり着くためのインプットが足りない、と、強く思ったわけだ。
子どもを育てる、それにまつわる様々な経験、それによる思考、それらがなくては、僕のずっと、これは本当にずっと追い求めてきたことも、気がつくことはなさそうだと、そう思うのだ。
まぁ、この感覚、いまだけかもしれないので、今週中にもう一度議論して、それで最終結論として採択しよう。
とかく、いま言えるのは、自死という結論は、当面保留、ということだろう。
投稿してからの追記。
流れから、この記事あまり面白くないが、それは、子どもを育てる、という、その思考過程と感情の動きの表現が足りないからだ。
それがないから、途中から、感情移入ができなくなって、何突然いってんだ、こいつは? っとなる。という感覚、恐らく、後から読んだ自分もそうだろうから、この辺りは、気を付けて書いた方がよいと思いながら、そろそろ時間切れ、とであれば、やはり、結論だけでも書いておくべきに思える。
ああ人生、かくも面白きかな。
そうしているうちに、救急車が通り、そして、時間が過ぎていくのである。
痴呆、と書くと、差別用語になったんだったっけ。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
認知症という呼び方が主になっている。しょうがいしゃ、を、「害」という文字を使ってはいけない、ということにも。
ところで、先日、死ぬのがものすごく怖かった、と書いた。
何故生きているのか分からない、と書きながら、死の恐怖に怯える、というのは、これはかなりつらいものだと思う。生きていても苦しみ、死ぬのも怖い、とは、哀しいことだ。
ただし、その両方が、同時に生じていることがないことに、気付いた。
つまり、死ぬのが怖い、と思っているときは、何故生きているのだろう、とか、考えていない、ということだ。
逆に、何故生きているのだろう、と生きる意味を考えているときは、死の恐怖を感じてはいない。
漠然と、死ぬのは、何が何だか分からないから怖いな、とは思うものの、本気で、「怖い」と心から思う感覚は、生じていないのである。
死の恐怖
これは、かなり前に、何度かみたことがある、夢、を引き合いにだすことが多い。今までに、2回、3回、だろうか。もう、二度と、目覚めることがない、と感じ、身体の感覚も、思考もまともに働かないが、ただ、暗闇で、沈殿した意識だけが残っているのである。
あれは、怖かった。
目が覚めると、汗がびっしょり、という表現が似合う。
本当に、死とは、無であってほしいと、切に願った。
中途半端な意識だけが残って、永遠にその状態なんて、考えてみて、想像してみただけでも、もう恐怖以外のなにものでもないではないか。
じゃあ、かといって、生きていて楽しいか、と聞かれて、そんな状況ではなかったときのことである。寝ても覚めても、中途半端な感覚に苦しんでいた。
ボケとは生きるためのものか
交通事故とか、災害とか、意図せず命を落とすことがある。意図せず、という表現は適切ではないか、そもそも、死とは、自殺以外は望んだものではない。ところで、先日、祖母が自分のことを忘れていた、と書いた。
非常にショックな出来事の一つではあったが、ここで僕は思った。何故ボケなんて、いわゆる痴呆、認知症に、年を取るとなっていくのだろうか。
感情の防衛本能なのではないか。
ずっと、明朗な思考を、人は望む。不老不死に憧れて賢者の石を、とか、鋼の錬金術師とか、もうたくさんエピソードがあることだろう。人魚姫の肉を食べるとうんたらかんたらとか。
不死、となると、今回の記事の目的と外れるから、「不老」というのを想定してみると、ずっと、頭がすっきりしていて、認知力があって、感覚もしっかりとしていたとき、やっぱり、死ぬことは怖くなってくるのではないだろうか。
平均寿命は80歳ぐらいだけれども、平均を過ぎて、90、100、110……となれば、いくらなんでも、死を意識するはずである。
そうしたとき、例えば、認知力が低下していれば、そんなことも考えられなくなっているのではないだろうか。
認知症の人たちが、最近のことを覚えられなくなるということ、ただ、昔のこと、例えば子供のころのことなどは覚えていて、いっつも同じ話を聞かされて介護する人が疲れて……というのはまた話がかわってくるが、とにかく、幼いころの記憶は残っていることが多いという。
幼いころの幸せな記憶だけが残り、それをじっくりと、反芻しながら、死へと向かっていく。
これが、人間のインプットされた構造なのではないだろうか。
ボケを恐れる必要はないのかもしれない
むしろ、怖いのは、死、そのものを、認識することであるといっていいのかもしれない。だから逆に、幼いころに、死ぬことなんて、あまり考えたりしないのだ。いやでも、小さいころに、相手の痛みを教えなければ、人の命の大切さを教えなければいけない気がする……が、それはあくまでも、他者に対してのことであって、自らの「死」を、幼い子供にインプットさせるのは、そもそも難しいことではないだろうか。
だから、論理的な言葉など必要なくて、単に、他人に迷惑をかけてはいけないよ、とか、相手に嫌な思いをさせてはいけないよ、とか、みんなで決めたルールは守らないといけないよ、とか、抽象的な言葉で教育するのである。
そして、もっといえば、言葉ではなく、行動をして、見せ、やって、ふるまうのである。
上の話は文脈に関係ない、ここで言いたかったのは、やっぱり、死の恐怖ってのはあるのだから、それを感じないように、年を取るにつれて、自然と身体がふるまってくれるのではないだろうか、ということだ。
だからむしろ、死の恐怖、ってのを感じているうちは、まだ、老いてはいない、ってことだ、という、もう完全に思いつき。
生きる意味を考えることの無意味さ
毎日を楽しく生きること。生きる意味なんて、考える必要はないんだよ、と、多くの物語が語る。
本当にそうか、と、僕は懐疑的である。
ただ、それもそれで、きっと正しいのだ。というのは、上の、老いと認知症の関係性が正しければ、身体が、なるように思考を導いていくから、ということだ。
思考単独で成り立つとは、思っていない。デカルトの、コギト・エルゴ・スム、は、合理的に考えることの端緒となった意味で優れた気付きと思うけれども、「思考」と「身体」は、両面して成り立つものだ。
心はどこにあるのか、とか、ロボット工学の前野氏の著作や、学者?下村氏の著作などは面白い。
日常と思考
さて、今日は、ほとんど何もせずに過ごした。昨日は知人と小ツーリング、楽しかった。目的の物は買えなかったが、それで、アマゾンで注文しようとしたが、間違って、引っ越し前の住所に送ってしまった。失敗。今日届いたら作業しようと思っていたのだけれども、できなくなってぽっくり穴があいたように。何だかやる気が起きずに、布団でうずくまったり、本を読んだり、漫画を読んだりしていた。
寝ては目覚めて、また寝て、と。
こういう日があってもいい。ただ、こういう時間の過ごし方は、それこそ、8年も前にいっぱい過ごしていたようにも思える。
黒い砂漠というゲーム、久々に起動したら、畑に植えてあった作物が全部なくなっていた。一週間で撤去される仕様とは知っていたけれども、アイテムボックスに種になって戻るぐらいしてくれるのかと思ったら、完全消去とな。相当のゲーム内マネーが失われた計算。計算もしたくないほど。なんか、ゲームもやる気がそがれた。1万円ぐらい課金してる(そのうち半分ぐらいしか使ってない)んだけどなぁ……。
明日から仕事。来週、再来週は土日に予定あり。
今確認したら、7月の23日まで、土日は何らか予定がある。珍しいものだ。
8月はツーリングがてら帰省しようと思うし、あっという間に、夏は終わりそうだな。
そういえば、高校生の頃の夏休みって、どんなだっけ。部活が中心だった気がする。楽しかったのかな。何だかんだ言って、今の状態になっても、やっぱり、昔には戻りたくないな。
戻りたい昔って、やっぱり、ないな。
それは、悲観的な、絶望的な意味もあるのかもしれないけれども、やっぱり、今が、一番良いのだと、きっと自分の中では思っているのだろう。
8年前の思考、それは、「今を積極的に肯定する」と、「執着しない」という、二つの目標、いや目的、いや価値観、だろうか、に、規定されている、というよりも、それがやっぱり、(僕が)生きていくうえで、重要な考えだったのだと、そう思う。
サイトの更新、着手したくなってきた。改修するといって、待ってもらっている。というよりも、早く読みたいという気持ちが生じている、それと、改修する動機が、今は拮抗しているのだろうか、本当は、今日のような日に、少しでも進められたらよかったのだけれども、どうにも、何もする気になれなかった、そして、もうそろそろ寝ないといけない時間になって、いろいろとやらなきゃと思い始めるのは、これはもはや病気ではあるまいか。
このブログ、非常にアクセス数が無い。アクセス数を稼ごうとは全く思っていないけれども、広大なネット大陸の中で、本当に誰もいない辺境にいるのだろうか。僅かばかりの知人が、山の奥深く、危険を潜り抜けて訪ねてくれるぐらい、ということなのだろうか。
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
まず、タイトルがよく分からない。キーワードもありふれすぎている。
例えば、生きる意味が分からない、で検索すると、
生きる意味を見失ってしまった場合
生きる意味を見失ってしまう人の特徴は、先の事を考えてしまう事です。年を取ったらどうなってしまうのか、このままの状態がいつまで続くのかという事を考えることで生きる意味を失ってしまいます。まず生きる意味を見失いそうになったら、先のことは考えずに今自分が楽しいと思えることを一生懸命に行うようにしましょう。今日どんな楽しいことをして過ごそうかを考えて、二度と戻らない今を有効に過ごせるように努力してみてください。今日好きなことをして過ごす。今友達を遊ぶ。今日大好きな恋人と過ごす。などなんでもいいのです、1日1日、その日をいかに楽しく過ごせるのかを精一杯考えてみてください。今日、明日楽しく過ごすことを精一杯考えていれば生きる意味を考える暇はなくなりますよ。生きる意味が分からなくても時間はどんどん過ぎていくのですから、どうせなら楽しく過ごしたほうが良いと感じませんか?先の見えない将来を想像するのではなく、先を想像しやすい今日、明日長くても1週間をどう楽しく過ごすのか考えるように心掛けてみてください。そうすることで、多くの人のように生きる意味など分からなくても今が楽しいからそれでいいという考えを、持てるようになりますよ。https://welq.jp/1175
上のようなこんな記事に出会う。いざ、死病につかれたとき、同じように考えられるか、というのは極端なことだ。
ただ、「生きる意味など分からなくても、今が楽しいからいい」という考えが、いつまでも通用するものなのか。人生は波で、つらいこともあれば楽しいこともある、というありふれた言説もある。そんなとき、常に、「今が楽しい」なんて思えるというのは、まやかしではなかろうか。エセポジティブではなかろうか。
うっせーよ、そんなマイナス思考の奴はダメなんだ、近寄るな。
と、忌避してよいのだろうか。
このように生きる意味をなくしてしまった時には、必ず原因があるはずです。原因をしっかりと把握して、適切な解決を行いましょう。
中には、生きる意味が分からなくなってしまい命を絶ってしまう人もいます。自分の命を、自ら絶ってしまわないようになるべく早く生きる意味を見つける努力や、楽しいと感じるものを見つける努力を行うようにしましょう。
生きる意味は人それぞれです。大きな目標を達成したいから生きている。小さなことでも、生きていれば楽しい事があるから生きている、なんとなく生きている、どんなことでもいいのです。
まずは生きる目標を探してみてください。周りに相談出来る人がいれば、自分の気持ちを理解してもらってもいいでしょう。いない場合でも自分の悩みを聞いてくれる場所はたくさんあります。
大切なことは独りで抱え込まないことです。まずは気持ちを整理してみてくださいね。なかなか気持ちの整理が出来ない人は心の中にある感情を紙に書いたり、声に出してみてください。
また生きる意味を見失う前から、楽しいと感じることを積極的に行うことも大切です。
自己陶酔
こうして書いていることが自体が、「自己陶酔で気持ち悪い」と思われるのだろう。あるネットの記事などを読んでいて、嫁との関係が悪くなって、相談している夫が、何でもすぐ謝れば許してもらえると思っていて、本当は自分のことを悪いとは思っていないが、反省と自虐を同時に書き連ねる姿が、自己陶酔していて気持ちが悪い、と書かれていた。
なるほどなぁ、やっぱり、そういうものなのだろうと思った。
と、同時に、やっぱり、自分の言葉、というものと、他者への表現とが一致せずに困っている人はいるということなのだ。その人は、20代後半だったようだが。その人は、ADHDなんじゃあないかと疑われるほど、約束を守れなかったり、家事ができなかったりしていたようだが、問題は、そういった行動面だけではないのだと思った。
こうして、僕も、ブログを書いているわけだが、やっぱりまったり、本当にそれが、自分にとってよいことなのか、と思う。
と、いうのは、いわゆる「踊る道化」としての意味しかないのではないか、という疑念。
それも、気持ちの悪い顔をした太った異臭を放った踊り、だとしたら、それは公害ではなかろうか。
まぁ、落ち着いてほしい、と思う、何せ、世の中、きれいごとじゃあない、なんて、どんなイケメンたちも分かっていることではなかろうか。
本当に気持ち悪いのは、その姿を隠し、陰で人を意のままに操ろうとする組織や、人々ではないだろうか。
そうはいっても、そういった裏の真実というものに、気付かせようとする人をそもそも唾棄しようとする、そういった構造を、ニーチェの「アンチクリスト」なんかでの表現だと思う。
そもそも役に立つのか
こうして、書いていくことが、果たして役に立つのか、それは、以前書いたとおり、・読み返すこと
・誰かの役に立つということ
・そもそも思考(ログ)が楽しいということ
……だったっけ、そもそも、インプットが足りていない、読み返してみよう。
・整理しやすいから
・後から読みやすいから
・カテゴリ分けが便利
らしい。表の理由はこれで、あとは、役に立ちたい、という思いから書いている、という。
ただ、2008年10月ごろの、ログを読んでいて、思ったけれども、なんだか、今書いていることも、昔書いていることも、それこそ、表現の違いだけで、「同じ」ことしか書いていない気がする。
ちょっとだけ、抜粋、転記してみるか。以下
