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アクセスがないのは寂しいものだ外見イメージと
2016/07/03 22:05 | Comments(0) | 対人関係
誰か人に見せるために書いているわけではないけれども、アクセスがないというのは、何となく寂しいものだ。
泊りの旅行に出かけて、ワイワイ楽しんで帰ってきた、メモするポイントは何か、何から書き始めればいいのか……。
他者を意識すると、途端に書きたいことが、書くべきことが、書くことそれ自体が分からなくなる。

であれば、やっぱり、アクセスがあるとかないとか、そういった点を考える必要はない、というよりも、やめた方がいいと思う。
と同時に、やっぱり、「自己顕示」的な欲求が強いのだろうな、と思わざるをえない。
好きなように、楽しんで書いているからいいのだ、といいつつも、どこか、「考えている俺ってかっこいいでしょ」「みんな、俺を知ってくれ!」的な感じがあるのかもしれない。ということ自体が、僕自身、何だか非常にかっこわるくて気持ち悪いように思ってしまう、ゆえに、その点を感じさせてしまう可能性があるならば、やっぱり、話すべきでもなければ、そもそも書くべきではなく、こういった「自己顕示」を感じないような、そんな生活、思考、感情発生するような生き方をするべきではなかろうか。

話題とはインプットである

少し、話を変えてみる。会話の中で、やっぱり、インプット、事実、という点があると面白い。あとは、「経験」である。
趣味について、他者と共有し、話をするときに、知識がないと、話が盛り上がらない。そして、僕はある程度「問題を避ける」方向で何事も考えてきたから、「失敗した」「ミスをした」「ひどいめにあった」「バカをした」という経験があまりない。
この点が、あんまし面白くないのだろうと、思う。

特に、「バカをした」というのが、結構、その人となりをみるのに役立ったり。それが、異性との会話の中では、「ひいた」「どんびき」という、ちょっと共感できそうもないわぁという、そういった感情を引き起こす可能性がありながらも、ああ、この人と一緒にいるとなんだか楽しそうだなぁと、そういった感覚を引き起こす可能性も秘めているのである。もっとも、それが、パートナーとして求められる部分かどうかは別であるが。いわゆる、「いいひと」で終わってしまうとかなんとか。

他者との共有次元におけるインプット

いやはや、全く頭が整理されていなくても、こうやって書いてこれるわけであって、これはいわゆる、饒舌、というやつなのかもしれないが、ところが、何か他者と共有しながら会話をするという点においては、一切役に立たない、というと言い過ぎだけれども、「思考」というのは、あまり面白いものではない。

先述の、バカをやった、ような経験……、お金を浪費してしまったとか、欲しいものを手に入れるためにいろんな店をかけずりまわったとか、トラブルあって焦って他者を頼ったりとか、そうした経験がたくさんある人が、きっと「面白い人」なのだろうなぁ、と思う。


ここで、ふと冷静に、一人になってから考えてみたときに、じゃあ、そういった「面白い人」に、僕はなるべきなのか、ということはもちろんのこと、「なれるのか」ということもよく考えてみようではないか。


下手に、会話にあわせて、笑顔をつくって、楽しく笑っていたとしても……ああ、これは決して、無理をしているとか、楽しくないとかそういう意味ではなくて、その、他者に合わせようとする次元においてのものであるけれども、いわゆる「楽しい人」になろうと試みること、このことが、果たして今後も成功するのかどうか、ということだ。

よく言われるのが、外見上、「真面目そう」とみられるということである。

この「真面目そう」というのが、いいのか悪いのか、そこは全く問題ではなく、ここに、「いや実は自分は楽しい人間なんですよ」というアピールをしていくことが有効なのか、むしろその「真面目そう」というイメージを熟成させることに尽力するべきなのか、そのことを考えるべきということである。

自分のイメージを、無理やり変える必要はない。
というよりも、イメージは、結局、他者がどうとらえるか、という点に過ぎないのである。

もっといえば、自分のイメージどおりに、他者が動かないとき、その他者を、「よくわかんない人」とか、排除する感情の動きが発生する。

この、理解不能性、という点をよくおさえておけば、人間関係の悩みなんて、存在しなくなる。

コミュニケーションとは、自分のスキルを高めることだけが重要なのではなく、必要なのは、「自己理解」である。

コミュニケーションに関する研修を受けたことがある人は多いだろうが、それにおいて学んだことは、きっと事実であるのだけれども、それを「実践」するのは、あくまで、自分自身であり、その自分自身とは何かといえば、「自己」であり、その「経験」のインプットであるということだ。

自分はどうみられているのか

自分を知るということは、自分自身の、思考を深めるということだけを示すのではない。
自分が、他者に、もっといえば「世界」(社会とかコミュニティとか森羅万象)に、どのようにみられているのか、あつかわれているのか、そのことが、「自分を知る」ということである。


僕が若いころに受け入れられなかった思想は、「人は一人では生きていけない」というものである。

え、そんなことも分からなかったの、という感情が起こるだろうが、これは、単純な意味ではなく、自己中心主義の思考から逃れられなかったことにある、というよりも、そこを突き詰めれば、今であっても、それから逃れられてはいない、この「生きる意味」という難題、これこそが「自己中心主義」の支配を示している一つの証左である。


自己中心主義とは、この世界って、結局僕一人しかいないんじゃね?
とか、自分というものが世界の中心にあるような、そういう意識・感情の総体である。

この意識というのは、幼児期には当然あるものということで、自分の感情と他者の感情の区別がつかなかったりするのが、成長するとともに、他者の痛みみたいなものが分かるようになるということだ。

それで僕は、では他者の痛みが分からなかったかというと、そうではない。世界に自分一人しかいないんじゃないか、と思っていたわけでもなければ、自分一人で生きていくことができると思っていたわけでもない。

問題は、生きることそれ自身のために、他者を尊重する必要があるということが、信じられなかったということだ。

……この表現は難しいな。
どちらかというと、人はみな利己的な生き物である、ということの気持ち悪さが受け入れられなかった、のかもしれない。

世界における自己の位置づけが信じられなかったというか、よく分からなかったというか。
結局のところ、表現を精査していけば、きっと、誰しも同じように感じていたことにしかならないと思う。それが、自分の能力のなさゆえに表現が難しくなって、それが他者との乖離を生んでいる可能性だってある。

そのことが、「自己顕示」的に、俺は特別な人間なのだ、ということを示したいがために思考から逃れられないのだとしたら、それはとても虚しいものだ、と思う。

でも、一ついえるのは、このブログを書き始める際に感じていた、不愉快な気持ち、悶々としたもの、ぐちゃぐちゃとした頭の中、明日へ向かうやる気のなさといった諸々のモノ。

それは、書いて表現するしか、整理する手段はない、ということだ。
そしてもっといえば、やはり、誰かに読んでもらえる可能性がある、という事実、これが重要である、ということだ。



















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他者の話を聞くこと
2016/07/01 21:41 | Comments(0) | イライラ対処
いやはや、知識ゼロの事象について、口だけで説明されて、それを覚えて対応しろ、と、これは難しい。

頭がいい人はできるのだろうか?

メモをとるのも一苦労、話の流れが分からないと、インプットもできない。
一字一句メモなんてできないよね、知らない単語が並ぶとき、そして表現上の問題が絡むとき、よくわからなくなる。



やっぱり、人との調整ごとは怖いなぁ。

感じるのは、他者とのコミュニケーションギャップ、それは、口頭でも、文字でも同じ。

全然伝わっていないことが多々ある。

人を納得させる根拠ってのも難しい。

行動や対応……ああもう、ほんと、何もかも難しい、と思考停止だ。


プログラムはいい、命令したとおり動く……とはいえ、複雑化したプログラムは意図せざる動きをするし、そもそも、要求仕様の解釈が誤っていたりするし、めも当てられない。



この世の中、本当に情報伝達がよくわからなくなってきている。全人類宇宙人化だ。

と、他者への愚痴もさることながら、そもそも、僕が他者を理解できているかも、さっぱり分からなくなってきた。




こーれは、つらいね、そもそも、生きる意味はーとか、自分のことすら分かってないのに、周りのひとのことも考え出したら完全にオーバーロード、オーバーヒートだ。


かわいい子ども



先日からの、子どもが必要だ、という考えは変わっていないが、この必要性が、そもそも、子どもとすら分かりあえないという、あの小説の衝撃、その衝撃をえようというなら、完全に僕はマゾじゃあないか。

ほんともう、世界に取り残された気分になるだろう。


ああ、先日の女の子が言っていた、私には生まれてきた意味がある、私にしかできない使命があるっていう、あの強い確固たる思い、信念は、年下だろうが何だろうが憧れるものだ。

特殊な生まれ育った環境がそうさせるのか、んなことどうでもええねん。

何度もいうように、これは実存の問題であって、他者がどうこうは、全く参考にならない。

できることは現状描写



つまり、現在性がすべてであり、時間という概念の払拭こそが、悟りといえるのではなちか。

結局、思考を休ませるための行動も、昨日できなかった。

そもそも、疲れると眠いのだ、身体が悲鳴をあげるのだ。


明日は3時おきだが、まだ家にはかえれない。

せめて、たどり着くまでの数分は、思考を休ませる試みをするか。


寝てはいけない。























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書く気が起こらないときに書く
2016/06/30 19:00 | Comments(0) | イライラ対処
どんな楽しいことでも、ずっとそればかりをすると、飽きたり疲れたり楽しくなくなる。

しかし、どうにもやる気が起きなかったり、もやもやしたり、落ち着かなかったりしたときは、まず、書いてみることが有効だと学んだ。

不思議なほど、頭になにもうかばない。いつも同時思考的に様々なことが浮かぶけれども、感情の起伏すらよく分からない。


サイトの更新のこと、今日のランチのこと、仕事でバタバタしたこと、知人が夜に家にくること、今週末の旅行のこと、事象は浮かぶけれども、何も感情がわかない。

誰かに話そうとも思わなければ、敢えて書こうとも思わない。いま、無理矢理に書いている。



いやなことがあることすら


感情がないことは、僕が目指したことだったか。

ところで、ニュースのコラムで、自分の頭で考えろ、というが、それよりも、事実をしっかりとらえることが重要だ、といわれていた。

意見、推測、事実と、他者の発言も自分の発言も、しっかり見極める必要があるのだという。


ほらみたことか、と鬼の首とるわけではないが、僕が前から書いている、まずはインプットが重要だということに他ならない。

常に意識するため、たびたびそういった情報に触れるのは悪くはないが、大体自己啓発的なものは、知識としてはあるのだ。

と、そういった考えにとらわれると、いわゆる保守的な、頑固じじい、になるので、キャッチコピー的に気になる記事は読むようにしているが、最近新しい情報などほとんどない。


ゆえに、むしろ、女の子向けのコラム、すなわち、どうしたら男の子にモテるのか、結婚できるのか、とか、そういった記事を読むようにしている。

まあそれも、大半は斜め読みすらする必要がない。


何かを批判することで自尊心を保つ


何か言って、といわれて、こうした批判が浮かぶのは、嫌みな野郎なのだろうか。

まぁ、上に書いたことも、特段書きたかったわけではない。



ただ、問題は、意欲とかモチベーションとかの意味で、どうにもこうにも、力がでないのだ。


奮い立たせて、試験勉強は、五分くらいはしているが、結構つらい。

どうでもいい感が強い。



こういうときはどうしたらいいのか。

風呂に入って寝る、それだけである。



自分を偽ると疲れるという。

しかし、もう僕は、偽りの自分など、いないはずだ。

まぁこんなことを、常日頃いっているわけではないから、やはり、偽っているのかもしれない、とはいえ、社会性というのは、そもそも、自己に着せる服だろう。特段特殊なわけではない。


んじゃーいったい、なんなんだって話だ。

書きたくもない、何かしたいわけでもない、かといって不満があるわけではない、じゃあなんだってのか。

ただ、いまこそ、こういうときの気持ちこそ、しっかりと、言語化し、分析が必要ではないか。

単に睡眠不足では



よく考えると、先週くらいから、睡眠時間4時間とか5時間ではなかったろうか。

電車内とか、昼寝を含めれば、プラス一時間はありそうだが、まとまった睡眠は確かに少なそうだ。


単に疲れてるだけか。

身体からのフィードバックなしに、思考は存在しない。


やはり、土日フルで予定がはいっていると、気が休まらないのか。
ということは、外に遊びに行くとは、リフレッシュというよりは、むしろ仕事に近いのかもしれない。

ということは、他者といる時間は、リフレッシュできないということか。

そんなことはないだろう、ただし、一人の時間も大切だよと、世間はいう。一方で、他者との関係も大事だよと世間はいう。どっちやねん。それは、中庸だよ、バランスが大事だよ、どうすりゃええねん。



こうやって、一人になっても、まだ、何か書くようにと、何かインプットしろと、僕の心は呼び掛けてきて、一方で身体からのフィードバックに耳を傾けるとやる気がしないという。


これが結構つらいのだ。


この感覚の言語化は難しいが、休め、と思考で命令したところで、背反する感情、もっと時間を大切にとか、頑張らなきゃとかが、混在するカオス。

結局、ゆっくり休むこともできないながら、かといって何かをすることもできずに、椅子に座ったまま硬直してしまうのである。





なにもする気が起きないと、身体的不調がきになってくる。

お腹はいたいし、喉もいがいがするきがする。とかくと、風邪じゃん?と一言で終わりだが、そうではない。

でもまぁ、いまそうかいてみて、確かに、風邪のときは、なにもする気も考える気もおきないから、似ていると言えばにている。

ああ、そうか、風邪、とすれば、そうかもしれない。風邪ではないけれども、病気、という状態とすれば、まぁ、休みなよ、と、体からの訴えも、素直に聞ける気がする。



ではせっかくなので、この状態に名前をつけよう。

病名 無気力病
症状 倦怠感が発生、何のやる気も起きなくなる、しかし頑張れと心の声が聞こえる
治療 風呂に入る。それでも良くならなければ、寝ることを試みる。この際、無理に寝ようとしてはならない。ただ、できるだけ何も考えないようにする、坐禅などが有効と考えられるが、特効薬は見つかっていない。難病指定である。



単に鬱病では?(笑)
ただ、医学的な鬱病という表現では、自分の感覚を適切に表現できない。
それだって、プチ鬱とか、新型うつとか、新しい表現が発掘されてきたのだ。

医者にいってもいいが、精神科なんて、患者の症状を、問診で読み取るのが主なのだから、いやもちろん、内科医とか問診重要だが、CTスキャンしたら鬱病が見えるとか、腫瘍マーカーみたいに、特定の物質に反応する薬剤で鬱の原因ウイルスとかが見つかるわけではないという意味で。


だとしたら、どれだけ自分のことを表現できるかに尽きるわかだ。


その表現が支離滅裂だったりすれば、統合失調症とか、病名がもらえたり。
うん、是非とも、この記事を読んでもらって、病気かどうか判断してもらいたいものだ、きっと、誰にでもある悩みですね、ひどくなるようならまた受診してくださいみたいになるだけだ。


第一において、、、と、少しずつ饒舌になってきたが、


意味や目的があること



こういうときに、生きる意味とか、しっかりもっていると強い。

明日への活力、希望になる。

幸せって何か、といいながら、甘いものを頬張ると、まぁまぁ幸せである。

で、一個100円くらいの甘いもので幸せなら、楽しいなら、とりあえず数年は楽しく幸せに生きていける。


そんなものでいいのか。

それで満足して生きていていいのか?


もしかして、身体が疲れた休みたいといいながら、もっとできる、頑張れと強要する、無気力病と、僕が生きる意味とかいって模作しているのは、同じ構造なのか?


というのは、もう考えるのはよそうぜ? 毎日、それとなく生きていけばいいじゃないか。
まわりや、女の子たちは、成長とか、頑張っている姿にほれたり、出世に必要だったりするかもしれないが、もうそんなのに応えるのは、とっくに限界だったのではないか。



無理に無理をしているから、すべてにやる気がなくなり、その状態すらもおそれて、生きる意味とか探そうとしているのではないか。



体もそうだが、頭も、思考も、休ませて欲しいのではないのか。

身体は寝る頭は?



体を休ませるのは、寝ればいい。

では、頭を休めるにはどうしたらいいのか?


寝ているでもなく、起きているでもなく……というと、まさに坐禅のことになる。
ほんと、仏教色が強くなっていやになるほどだ、僕はキルケゴールさんだって好きなのだ。

ただ、思考を休める、という、これはもしかすると、新しい表現かもしれないが、これを実践する必要もあるのかもしれない。

そもそも時間がないから難しいんだけど。

ただ、十分にねてりゃあいいってもんじゃなく、意識的に無意識になることが重要ってわけだ。


やってみるか。

時間がないというのは、何事もいいわけに過ぎないからな。




























































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ハッピーエンドとは
2016/06/27 20:35 | Comments(0) | イライラ対処
あるホームページの更新をした。
それに関しては別のブログに書いておくか。ただ、別に1時間45分くらいで更新ができたとか、そういったことは、ホームページ上に書いてもいい気がするが、ごちゃごちゃするだろうし、サーバーの管理者のリナックス更新日記とか、別にユーザーは興味ないだろうしそれはやめておこう。

へルマンヘッセのシッダールタ、読み終わった。
二回目で、初読よりも感動したのは、初作品な気がする。

以下ネタバレあり。

やっぱり、子どもは何がなんでも欲しいな、と思った、
シッダールタは、10歳ぐらい成長してから我が子に会って、溺愛するのだが、子どもは、貧しい暮らしをするシッダールタをむしろ軽蔑していく。

暴言をはき、盗みをはたらき、それでもシッダールタは子どもを愛する。そのとき、自分でも、いつも笑ってみていた、幼児人間、すなわち、日々の情動によって素直に生きる人たちと、自分が同じになっていることに気づく。

それがわかっても、師匠にとがめられても、子を愛するという気持ちをとめられなかった。


しかし、ついに、子どもは、なけなしの金などを盗んで、出奔する。


他にも、ネタバレになるが、イチャイチャした女性は蛇に咬まれて死ぬし、散々な人生である。

でも、最後は、この作品のラストは、結局生活自体はかわらないのに、ハッピーエンドのようになっている。

ハッピーエンドとは何か



どうしたら、ハッピーエンドなのか、例えば、Edenという作品で、主人公エリヤが、ある共通の被害者らをもつ女性に、彼らが死んだ事件によって僕たちは出会った、だから、僕たちが結婚して子どもを生めば、それでハッピーエンドじゃないか、という。


しかし、この考え方は、必ず崩壊する。

それは結局、時間軸上の、浮き沈みをもとにして、ハッピーを規定しているからだ。

子どもが、悪人になったら?

子どもが小さいうちに殺されたら?


大抵の作品は、お姫様と庭師は結婚し、末長く暮らしました、とか、何かターニングポイントを規定し、エンディングとなる。


でも、彼らがその後、本当に幸せだったのか分からない。

それに、避けられないだろう死を、果たして、どのように昇華したのだろうか。


時間軸の消失



シッダールタの作品の面白いところは、未来も、過去も、すべて消え去ったところにある。

しかしそれは無ではなく、川の流れのように、常に同じものはないが、常に水は流れているかのようなことである。


悟りは教えられるものではないということと、時間軸のなさ、このことが、仏教的であり、へルマンヘッセの独自性でありながら、むしろ仏教の真髄を示しているように思える。


悟りのなさと時間性のなさの例え


例えば、この作品を、もっと早くに読んでいたら、僕はもっと幸せだったのか、もっと上手くに生きられていたのか、例えば、涙で枕を濡らしていた10代のころに読んでいたら、どうだったか。


きっと、なにもわからないどころか、怒りを感じたのではないか。

勉強できて頭よくて、ルックスはよくて女の子からはきゃーきゃーいわれ、お金持ちになって、好きになった女性とは好きなだけイチャイチャできて。

なんやねん、おまえ、何が不満なんだ、いい加減にしろ!

と、
そりゃあまぁ、妬んだだけではなかったろうか(笑)


この記事に価値があるとしたら、
ポイントは、そこじゃない、と、伝えられるかどうかだ。

つまり、
確かにイケメンは、人生イージーモードかもしれないが、それと自分、そして自己、自我とは何ら関係ないのだと。



自画自賛だし、多分拍手をつけてくださった方がいるから、気をよくしただけかもしれないが、先日の記事の、自我が最良の師と気付くこと、というのは、良いタイトルだと思った。


















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自我が最良の師であったと気付くこと
2016/06/26 08:40 | Comments(0) | 創作について
30分、いや、15分程度しかかけられないかもしれない。
超特急で、メモをする必要がある。
最短の時間で、僕のすべての思考を、書き残すこと、その技術がいる。

水に投げ込まれた石のたとえ。
石は、最短距離で、水底に到達する。私が目標を設定し、それを成し遂げようとするとき、それに対しての困難さは、一切にないのだ。

ということが、ヘルマンヘッセの「シッダールタ」で表現されている。


上の表現は、僕の言葉であるが、小説の表現を、後でもう一度読み返そう、ただし、ここでメモしておかなければいけないのは、それに対しての彼の気持ちが、まさに、僕が表現しようとしていたことであったことだ。


もう一点は、あらゆる愛の技法を覚えた、カマラーとシッダールタが、お互いを、人を愛することができないのだ、と言い合うシーン。

もう一つは、乞食から金持ちになったシッダールタが、やはり、「幼児人間」たちと、一線を画すのだと、感じ始めた、第二章の終わり。


順番が逆転したが、第一章では、そう、これがメモすべきことだったが、「何ら師も欲せず、自我こそが、真我であると」感じ取り、そこから、彼の人生は、新しく、色づき始めるのである。

今書いていて、このシーンは、遠藤ひろき氏の「EDEN」という作品で、性や生に奔放に生きてきたソフィア――彼女は、これまで何ら現実世界に「実感」をもっていなかった――という女性が、幼児型の全身サイボーグに脳を移植し、そこから、すべての、それはコップをつかむだとか、花の色づきだとか、世界を感じ始めるというシーンと、同じだと思った。


こうした、メモを、分かりやすく表現することで、「よいレビュー」になると思う。

きっと、面白い「感想」をつくりあげることができると思う。


ただ、僕は今それをしない。単純に、もう出かける時間が迫っているということもあるが、問題なのは、僕の感じたこと、そのことを、忘れないようにすることだけなのだ。


それを、新たに引き起こすには、「表現」が必要なのだ。

しかしながら、既に起こったこと、僕の心の中で生じたことは、それは、表現のネタになるだろうが、それ以上、僕の心を変化させ、探し求めているものへ近づくものには成りえないのである。



と、ここまで書いてから、タイトル「自我が最良の師であったと気付くこと」と、入力した。


自我、……いや、ここでメモすべきは、結局、「自分自身」の、記憶であれ、身体であれ、思考であれ、できること、そのものこそが、そのすべてであるのだということ。

誰かに教えられるものではないのだということ。

シッダールタの、第一章は、そのことに気付くところで終わる。


そして、ああ、そうだ、ようやく思い出した、メモすべきことは、その、気付きにおいて、シッダールタに戦慄がはしるのである。
愕然とするのである。
身震いするのである。

それは、彼が、とても、この上なく、「孤独」であったということだ。

どのコミュニティ、……という表現は小説にはでてこないが、例えば、職人だとか、バラモンだとか、そうしたとあるコミュニティからはじかれた人たち、コミュニティでうまくやっていけない人たち、その人たちでさえも、シッダールタよりは、孤独ではなかったのだ。

シッダールタは、自分の孤独を知った。

しかし、それが、ようやく、自我に目覚めたという、「覚醒」したという、第一歩だと、彼はとらえ、一歩一歩、新しく芽吹き始めた世界を歩いていくのである。


最後に、メモ。

僕は、小説が好きでありながら、小説が好きではなかった。最短で、「作者のいいたいこと」を読み取ること、それが重視されるのであれば、小説という表現、媒体の必要性を感じなかった。

しかし、小説はやはり、価値があるものだ。それは、漫画でも、映画でも、アニメでも、ビジネス書でも、一般書でも、哲学書でもない。数学でも、物理でも、実験でも、科学でもない。

音楽でもない。ダンスでもない。瞑想でも、坐禅でもない。


小説というそのものの価値というのは、やはりあるのだと。



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