一週間が終わった。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。
なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。
しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。
さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。
こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。
この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。
つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。
人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。
しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。
すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。
カントの道徳律みたいだ。
とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。
何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。
生きる意味とは
この、論理の否定は、これまでの僕の書いてきたことの根本からの否定のようである。論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。
しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。
結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。
リア充
そのわけは、残念なことに、現実と理想自己との隙間が、自分という存在の限界性において、矯正なく一致することはなかったからだ。上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。
残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。
メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。
しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。
それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。
理想自己との一致
理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。
いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。
つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。
すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。
例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。
しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。
難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。
すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。
まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。
思考について
以上から、考えるということが、そもそも深まっていくと、いくつもの罠にひっかかる可能性が多いのだ。先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。
拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。
そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。
理想的な思考とは
理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。
ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。
どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。
最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。
考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。
君がそう思うならいんじゃない?
勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。
結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。
ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。
何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。
マニュアル主義
考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。
それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。
ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。
……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。
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当ブログで、拍手を押してくれる方がいる。
あえて、気づかないふりをしようかとも頭に浮かぶのが、自分らしいと思いながら、自分に対しての偽りを、分析を、それが辛く不快なものであっても、もう僕は逃げはしないだろう。
ということで、拍手、これほど嬉しいものとは思わなかった、拍手という言葉が、賞賛とまでいかなくても、読んだよとか、イイネ的な意味には、自然に感じさせるのだ。
この機能、みくしいとかツイッターとかで普及したのだろうが、なんだか寂しさを感じる人にとっては非常に有効だろう。
と、一般論的に書くとこうなるが、やはり、継続性は、僕にとって代えがたく感動を与えるのだ。
確かに、かい心のできの記事があったとする。
それにコメントがついたり、役に立ちましたとかいわれたら、きっと飛び上がって嬉しい、が
それよりも、継続して、簡単でも、イイネを押してくれる方が、時として嬉しいときもあるということだ。
それが嘲笑的な意味の可能性を僕が考えないはずはないが、でも、それでも、例えアンチだとしても
ありがたいことではないか、と思うのだ。
面白いものだ。
今日、偶然的に、会うことになって、昼も、また夜も、別の友人にあって話す機会があった。
こういう偶然は、なにか、世界的に、訴えるものがあるのだろうと思う、と書くと宗教的だが、厳密には、そのふりかかる出来事に対しての僕の考え方や感じ方によるものともいえる。
どちらも、科学的ではないから、胡散臭さがあると思う。
ただ、僕は、乗って運転したい車のことを強くそうきして、家の壁紙にはって毎日みていたら、事故によってその乗りたい車を運転することができた、という20代の経験から、何か強烈なイメージは、その現実性との整合性をできるだけ近づけた上で実現するのだと、そう、思った。
前項の小見出しと内容が一致しなかった。まぁよい、とにかく、最近、怖いものがないため、好き勝手言葉を発している。
あのひと、めんどくさいんだよねーからはじまって、この仕事意味あるんすかーみたいなものまで。
まぁ、すごくなめくさってる。
逆に、人間らしくなったともいえる。サラリーマンは、飲み屋でぐちをいうものだ。
いーんだけどね、俺は、そういうのは、やっぱり、それこそ無意味と思う。
悪口いっても、つまらなそうにしても、どのみち、一分一秒が過ぎていくわけで、だったら、前向きに改善策や打開策を考えていた方が楽しいのでは、と思うのだが。
人間としての自信、俺は、生きていていいんだ、人の役にたっているんだという自信、それがあると、結構なんでもうまくやってけるものだ。
苦しいことや面倒やことがあっても、うまくやってけるものだ。
で、その自信をつけるには、努力だけじゃだめで、現実との距離感をうまくつけることが大事なんだが……
って書いてたら、ガムかむのが、自分の口のなかをかんで血のあじがする。
最近、えん下もうまくいかないこともあるし、歳を感じるなぁ。
というか、痛い、今日はこれまでにする…
とにかく、仕事を途中できりあげ友人と飲み会の時間をつくれたのはよかった、とだけメモする。
あえて、気づかないふりをしようかとも頭に浮かぶのが、自分らしいと思いながら、自分に対しての偽りを、分析を、それが辛く不快なものであっても、もう僕は逃げはしないだろう。
ということで、拍手、これほど嬉しいものとは思わなかった、拍手という言葉が、賞賛とまでいかなくても、読んだよとか、イイネ的な意味には、自然に感じさせるのだ。
この機能、みくしいとかツイッターとかで普及したのだろうが、なんだか寂しさを感じる人にとっては非常に有効だろう。
と、一般論的に書くとこうなるが、やはり、継続性は、僕にとって代えがたく感動を与えるのだ。
確かに、かい心のできの記事があったとする。
それにコメントがついたり、役に立ちましたとかいわれたら、きっと飛び上がって嬉しい、が
それよりも、継続して、簡単でも、イイネを押してくれる方が、時として嬉しいときもあるということだ。
それが嘲笑的な意味の可能性を僕が考えないはずはないが、でも、それでも、例えアンチだとしても
ありがたいことではないか、と思うのだ。
友人への報告
面白いものだ。
今日、偶然的に、会うことになって、昼も、また夜も、別の友人にあって話す機会があった。
こういう偶然は、なにか、世界的に、訴えるものがあるのだろうと思う、と書くと宗教的だが、厳密には、そのふりかかる出来事に対しての僕の考え方や感じ方によるものともいえる。
どちらも、科学的ではないから、胡散臭さがあると思う。
ただ、僕は、乗って運転したい車のことを強くそうきして、家の壁紙にはって毎日みていたら、事故によってその乗りたい車を運転することができた、という20代の経験から、何か強烈なイメージは、その現実性との整合性をできるだけ近づけた上で実現するのだと、そう、思った。
悪口を言わないこと
前項の小見出しと内容が一致しなかった。まぁよい、とにかく、最近、怖いものがないため、好き勝手言葉を発している。
あのひと、めんどくさいんだよねーからはじまって、この仕事意味あるんすかーみたいなものまで。
まぁ、すごくなめくさってる。
逆に、人間らしくなったともいえる。サラリーマンは、飲み屋でぐちをいうものだ。
いーんだけどね、俺は、そういうのは、やっぱり、それこそ無意味と思う。
悪口いっても、つまらなそうにしても、どのみち、一分一秒が過ぎていくわけで、だったら、前向きに改善策や打開策を考えていた方が楽しいのでは、と思うのだが。
自信
人間としての自信、俺は、生きていていいんだ、人の役にたっているんだという自信、それがあると、結構なんでもうまくやってけるものだ。
苦しいことや面倒やことがあっても、うまくやってけるものだ。
で、その自信をつけるには、努力だけじゃだめで、現実との距離感をうまくつけることが大事なんだが……
って書いてたら、ガムかむのが、自分の口のなかをかんで血のあじがする。
最近、えん下もうまくいかないこともあるし、歳を感じるなぁ。
というか、痛い、今日はこれまでにする…
とにかく、仕事を途中できりあげ友人と飲み会の時間をつくれたのはよかった、とだけメモする。
この時間から帰宅となると、やはり体力的、精神的にすり減っている、その状態での思考とはどういう意味か、先日の記事の通り、まったなしである。
そのまた先日の記事において、僕には親友がいないのではと書いた。でも、親友も友人も相対概念だし些末ごとだと書いた。
この、同じことを、楽しそうに言うか、つらそうに暗そうに言うかで、他者の感じ方が違う。
楽しそうにしていれば、特にその人が著名人だったり好きな人だったら、ああ、そういう考え方もあるのだと、受け入れられやすい。
一方、暗そうにしていたら、その考え方を受け入れたら自分まで暗くなりそうだ、くわばらくわばら。
というわけで、人は楽しそうな人についていく。当たり前の、自然現象だ。
ということを書いて、思って、僕は何をしたいのか。
友人と会う予定であって、突発的な仕事になって、帰ったらもう寝るぐらいしかない時間になったとき、なにやってんだろ、俺って誰だろ、みたいになる。
これが、帰って、お父さんおかえりなさい! 遅かったね、大丈夫?
みたいに迎えてくれる子供や妻がいたら、元気がでるかもしれない。
でも待ってほしい。深夜、0時すぎて帰って、起きてまっててくれるなんて、そんなのありえないし、むしろ申し訳無さすぎる。
で、そうやって触れあう時間が少なくなって、すれ違いが増えて、生きるATMになったり、離婚したり家庭内暴力とか、散々なことになる事例は、決してまれなことではないだろう。
だから、仕事をきりつけることとか、優先順位とか、考える必要があったりする。でも、いまだに、遅くまで働くことが大事とかいう人もいるし、バランスは本当に難しい。
なにがいいたいのかといえば、バランス感覚の軸となるのは、やっぱりどう生きたいか、という長期目的によるのだ。
え、楽しいもんは楽しいんだよ? そんなこと書くなんてバカ?
うんそう、バカなのだろう。
けれども、そう罵ったところで、何がどうかわるというのか。
例えはクズ的に悪いが、知的障害者に対して、頭悪いの? っていうようなものだ。
書いておくが、僕はそんなこと思ったことない。けれども、そんなこと言う人が、周りにはたくさんいた。
やっぱり、幼い頃にそういう人に多く出会うと、人間に対しての期待値がものすごく下がるんだろう。
これによって、怒りの沸点も僕はものすごく低いし、温厚で冷静な人物である、こう解釈もできるし、幼い頃の経験などに拘る必要はない、
ただし、フロイトの精神分析などでも、そういった深層心理を洗い出すのは重要とされている。
自分の感じ方の起因、が分かれば、対応の仕方も検討できるというわけだ。
僕も一理あると思う。
……なんか眠くてめがしょぼしょぼして、頭に何も浮かばない。
うん、とにかく、とりあえず、家に帰ったら、風呂にはいって、五分だけ、坐禅をしよう。
で、一問だけ、資格の問題を解こう。
それだけは、頭に銘記して、電車のなかで目を、つむる。
そのまた先日の記事において、僕には親友がいないのではと書いた。でも、親友も友人も相対概念だし些末ごとだと書いた。
この、同じことを、楽しそうに言うか、つらそうに暗そうに言うかで、他者の感じ方が違う。
楽しそうにしていれば、特にその人が著名人だったり好きな人だったら、ああ、そういう考え方もあるのだと、受け入れられやすい。
一方、暗そうにしていたら、その考え方を受け入れたら自分まで暗くなりそうだ、くわばらくわばら。
というわけで、人は楽しそうな人についていく。当たり前の、自然現象だ。
ということを書いて、思って、僕は何をしたいのか。
時間のなさ
友人と会う予定であって、突発的な仕事になって、帰ったらもう寝るぐらいしかない時間になったとき、なにやってんだろ、俺って誰だろ、みたいになる。
これが、帰って、お父さんおかえりなさい! 遅かったね、大丈夫?
みたいに迎えてくれる子供や妻がいたら、元気がでるかもしれない。
でも待ってほしい。深夜、0時すぎて帰って、起きてまっててくれるなんて、そんなのありえないし、むしろ申し訳無さすぎる。
で、そうやって触れあう時間が少なくなって、すれ違いが増えて、生きるATMになったり、離婚したり家庭内暴力とか、散々なことになる事例は、決してまれなことではないだろう。
だから、仕事をきりつけることとか、優先順位とか、考える必要があったりする。でも、いまだに、遅くまで働くことが大事とかいう人もいるし、バランスは本当に難しい。
なにがいいたいのかといえば、バランス感覚の軸となるのは、やっぱりどう生きたいか、という長期目的によるのだ。
楽しいとは何か
え、楽しいもんは楽しいんだよ? そんなこと書くなんてバカ?
うんそう、バカなのだろう。
けれども、そう罵ったところで、何がどうかわるというのか。
例えはクズ的に悪いが、知的障害者に対して、頭悪いの? っていうようなものだ。
書いておくが、僕はそんなこと思ったことない。けれども、そんなこと言う人が、周りにはたくさんいた。
やっぱり、幼い頃にそういう人に多く出会うと、人間に対しての期待値がものすごく下がるんだろう。
これによって、怒りの沸点も僕はものすごく低いし、温厚で冷静な人物である、こう解釈もできるし、幼い頃の経験などに拘る必要はない、
ただし、フロイトの精神分析などでも、そういった深層心理を洗い出すのは重要とされている。
自分の感じ方の起因、が分かれば、対応の仕方も検討できるというわけだ。
僕も一理あると思う。
……なんか眠くてめがしょぼしょぼして、頭に何も浮かばない。
うん、とにかく、とりあえず、家に帰ったら、風呂にはいって、五分だけ、坐禅をしよう。
で、一問だけ、資格の問題を解こう。
それだけは、頭に銘記して、電車のなかで目を、つむる。
幸せ、という言葉自体が好きではないが、それは別に不幸が好きというのではない。
幸せとか不幸とか、相対概念を求めることの危険性と無意味さを思うだけだ。
何故そんな、いま更なことを書いているのか。先日引用したブログのひとつで、周囲の反対を押しきり美人と結婚したある男性のことが書いてあった。結論、家庭生活でもうまくいかず、子供は二人さずかったものの、妻からは蔑まれ、あるとき40代で亡くなったという。
雷にうたれて死ぬのもそう。
まったく、生きていて報われることのない人もいる、たくさんいる。
仕事がうまくいかず、叱られて、落ち込んで……そんなときに読むと、最初の言葉のようなものが浮かぶのだ。
とはいえ、それほど落ち込むものでもない、ご飯を食べたら少し回復だ。これくらいの感情ダメージなど、ダメージにも当たらないほどだ。
これが10年前なら強がりだったろうが、いまはほんと、それ以上にダメージとなることが色々とあったから、比較すると大したことないとわかる。
と、書くと、ほら、やっぱり、若いうちの苦労はした方がいいんだよ、とか短絡的にいいたくなるだろう。そんなわけない、努力はあってもいいが、苦労など必要ではない。
だって、明日どころか、あと数時間で死ぬかもしれないわけだろう。いまが苦しければ未来で救われるとか、寝言にすぎない、その元説が意味をなすのは、未来の楽しさの信仰が翻って現時点にあらわれるからにすぎない。
ある著名人が侮蔑した、というが、補足されていて、創作物を否定するわけではなく、ちょっと過激な発言をしてみた、ということだそうな。
まぁ、そんなことだろうと思った、というか、僕の疑問そのままであって、少し笑ってしまった。
所詮、他者の言葉は、表現である。
真実性をもった厳密な言葉など、そう簡単につくりだせない。
かといって、文章をねりにねって作ったとして、その厳密性がわかりやすいかというとそれもまた違う。
法解釈の難しさは困ったものである。で、分かりやすく解釈して書いたら、もれがあったり、逆に他の人にはわかりづらかったり。
つまるところ、相手にどう伝わるか、だけ機にすればよい。
で、相手にあわせた言葉を使うわけだが、誰にでも合わせられるかというと、まぁ合わない人もいる。そこで努力してあわせてもいいが、苦労になるほどなら、即刻やめてもいい。
人はすべからく、楽しくあるべきだ。この言葉も好きじゃないのだが、他に表現がない。
あるべきようにあればいい。
なるようになればいい。
と書くと、それはまた、ちょっと違う気がするし、難しい感覚だ。
これは、中観とか、空(くう)、という表現が可能と思うが、そもそも抽象概念であって、それを表現しても万人に意味を伝えることは不可能だ。
ヴィトゲンシュタインの、語り得ないことは沈黙しなければいけない、というのは、このことを示していると、僕は理解している。
が、その、このこと、が、なんなのか、ちゃんと表現できるすべをもたないのが、僕が凡人なところだ。
それでもなお、その、楽しくあれ、というのが、あるべきだと確信する。
犯罪者、感情がない者、倒錯した快楽を目指すもの。
この、楽しくあれという思想は、この問題に直面し、破綻する。
だから、政治学などで語られる、正義、にはなりえないものだ。
けれども、この、日常思考と、実存としての意味においては、これらのことを気にする必要はない、というか、そんな時間がない。
考えることは、生きる意味とか、正義とか、倫理とか道徳とか、普遍的ルールなど、僕の日常思考と似ているけれども、
政治学といった学問や科学とするには、することができるのは、実存の問題が片付いた人たちだけである。
15年、といってもいいかもしれない。
自我が芽生えて以来、この問題は僕の身近なものだった。
しかし、時に忘れたり、脇においたりと、気づかないようにしていたときもあった。
しかし、それでも、長いものだ。
その間、楽しいもの、快楽の得方というのは、様々学ぶことができた。
それでもやはり、この問題は、ずっとそばにいたのである。
いま、重要なのは、目的、目標だ。
目的は、その到達点であり、目標は到達のための具体的数値化可能な行動の集合である。
何年後にプロットするか。
ただ、それより、それにしても、よくもまぁ、これほど言葉が出てくるものだ。
いずれ、同じことを繰り返すだけになるかとも思っていたが、日常のあれこれを元にしてかきはじめると、そのときどき違った表現になる。
だらだらと、書き続けていいものか?
ただ、誰がみてくれようがいまいが、書いているのは楽しいのである、であれば、先の、楽しくあれ、としての方針に合致してるから、いいんじゃないか、となるが、どうも、違う気がする。
なにか大きなことをやりたいのか、障害者施設におしいって日本の歴史に残るくらいの殺人をすればいいのか、とか、こんな表現をしてると、逮捕される日がくるかもしれない、そういう意味で、表現の自由を制限するような法律は基本的に反対だ。GTAとかやったら犯罪をおかすとか、例えそれが確率論的に科学的に証明されたとしても、反対だ。そのうち、ネガティブなことを考えたり書いたりしただけで逮捕される時代になるかもしれない。
書いておくが、別にそれでもいい、その事自体はいいのだ、問題は、僕が許せないのは、そのネガティブの定義なんてどうせ誰にもできないということである。
ネガティブもぽじてぃぶも、相対概念だ。だから、あるそのときどきの為政者が考えるネガティブ概念によって取り締まりがされるのだ。
幸せの義務化、とか、そんな表現すれば、安易に厳罰化とか規制を推進する人にも、違和感を与えられるだろうか? きっと、それとこれとは次元が違うとか、いくらでも反論することだろう。
だから、そういう人を目にしても、特に戦おうとはしない。ただ、仲良くなろうとは思うかもしれないが、心を開こうとは思うまい。
心をひらく!?
面白い表現が自分からでたものだ。
幸せとか不幸とか、相対概念を求めることの危険性と無意味さを思うだけだ。
何故そんな、いま更なことを書いているのか。先日引用したブログのひとつで、周囲の反対を押しきり美人と結婚したある男性のことが書いてあった。結論、家庭生活でもうまくいかず、子供は二人さずかったものの、妻からは蔑まれ、あるとき40代で亡くなったという。
雷にうたれて死ぬのもそう。
まったく、生きていて報われることのない人もいる、たくさんいる。
仕事がうまくいかず、叱られて、落ち込んで……そんなときに読むと、最初の言葉のようなものが浮かぶのだ。
落ち込むほどでもない
とはいえ、それほど落ち込むものでもない、ご飯を食べたら少し回復だ。これくらいの感情ダメージなど、ダメージにも当たらないほどだ。
これが10年前なら強がりだったろうが、いまはほんと、それ以上にダメージとなることが色々とあったから、比較すると大したことないとわかる。
と、書くと、ほら、やっぱり、若いうちの苦労はした方がいいんだよ、とか短絡的にいいたくなるだろう。そんなわけない、努力はあってもいいが、苦労など必要ではない。
だって、明日どころか、あと数時間で死ぬかもしれないわけだろう。いまが苦しければ未来で救われるとか、寝言にすぎない、その元説が意味をなすのは、未来の楽しさの信仰が翻って現時点にあらわれるからにすぎない。
ポケモンgoの批判
ある著名人が侮蔑した、というが、補足されていて、創作物を否定するわけではなく、ちょっと過激な発言をしてみた、ということだそうな。
まぁ、そんなことだろうと思った、というか、僕の疑問そのままであって、少し笑ってしまった。
所詮、他者の言葉は、表現である。
真実性をもった厳密な言葉など、そう簡単につくりだせない。
かといって、文章をねりにねって作ったとして、その厳密性がわかりやすいかというとそれもまた違う。
法解釈の難しさは困ったものである。で、分かりやすく解釈して書いたら、もれがあったり、逆に他の人にはわかりづらかったり。
つまるところ、相手にどう伝わるか、だけ機にすればよい。
で、相手にあわせた言葉を使うわけだが、誰にでも合わせられるかというと、まぁ合わない人もいる。そこで努力してあわせてもいいが、苦労になるほどなら、即刻やめてもいい。
楽しくあれ
人はすべからく、楽しくあるべきだ。この言葉も好きじゃないのだが、他に表現がない。
あるべきようにあればいい。
なるようになればいい。
と書くと、それはまた、ちょっと違う気がするし、難しい感覚だ。
これは、中観とか、空(くう)、という表現が可能と思うが、そもそも抽象概念であって、それを表現しても万人に意味を伝えることは不可能だ。
ヴィトゲンシュタインの、語り得ないことは沈黙しなければいけない、というのは、このことを示していると、僕は理解している。
が、その、このこと、が、なんなのか、ちゃんと表現できるすべをもたないのが、僕が凡人なところだ。
それでもなお、その、楽しくあれ、というのが、あるべきだと確信する。
サイコパス
犯罪者、感情がない者、倒錯した快楽を目指すもの。
この、楽しくあれという思想は、この問題に直面し、破綻する。
だから、政治学などで語られる、正義、にはなりえないものだ。
けれども、この、日常思考と、実存としての意味においては、これらのことを気にする必要はない、というか、そんな時間がない。
考えることは、生きる意味とか、正義とか、倫理とか道徳とか、普遍的ルールなど、僕の日常思考と似ているけれども、
政治学といった学問や科学とするには、することができるのは、実存の問題が片付いた人たちだけである。
生きる意味を求めて
15年、といってもいいかもしれない。
自我が芽生えて以来、この問題は僕の身近なものだった。
しかし、時に忘れたり、脇においたりと、気づかないようにしていたときもあった。
しかし、それでも、長いものだ。
その間、楽しいもの、快楽の得方というのは、様々学ぶことができた。
それでもやはり、この問題は、ずっとそばにいたのである。
長期目標
いま、重要なのは、目的、目標だ。
目的は、その到達点であり、目標は到達のための具体的数値化可能な行動の集合である。
何年後にプロットするか。
ただ、それより、それにしても、よくもまぁ、これほど言葉が出てくるものだ。
いずれ、同じことを繰り返すだけになるかとも思っていたが、日常のあれこれを元にしてかきはじめると、そのときどき違った表現になる。
だらだらと、書き続けていいものか?
ただ、誰がみてくれようがいまいが、書いているのは楽しいのである、であれば、先の、楽しくあれ、としての方針に合致してるから、いいんじゃないか、となるが、どうも、違う気がする。
なにか大きなことをやりたいのか、障害者施設におしいって日本の歴史に残るくらいの殺人をすればいいのか、とか、こんな表現をしてると、逮捕される日がくるかもしれない、そういう意味で、表現の自由を制限するような法律は基本的に反対だ。GTAとかやったら犯罪をおかすとか、例えそれが確率論的に科学的に証明されたとしても、反対だ。そのうち、ネガティブなことを考えたり書いたりしただけで逮捕される時代になるかもしれない。
書いておくが、別にそれでもいい、その事自体はいいのだ、問題は、僕が許せないのは、そのネガティブの定義なんてどうせ誰にもできないということである。
ネガティブもぽじてぃぶも、相対概念だ。だから、あるそのときどきの為政者が考えるネガティブ概念によって取り締まりがされるのだ。
幸せの義務化、とか、そんな表現すれば、安易に厳罰化とか規制を推進する人にも、違和感を与えられるだろうか? きっと、それとこれとは次元が違うとか、いくらでも反論することだろう。
だから、そういう人を目にしても、特に戦おうとはしない。ただ、仲良くなろうとは思うかもしれないが、心を開こうとは思うまい。
心をひらく!?
面白い表現が自分からでたものだ。
雷でうたれて死ぬってほんとにあるんだな。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
あと、精神疾患の40代の娘を、80代くらいの夫婦が生活に困窮した末、一家心中をはかったとも。
ある著名人が、最近流行りのポケモンGOをする人たちを侮蔑したと。現実に面白いことを探さず、現実的じゃないものに時間を使うのは嘆かわしいと。
現実肯定主義
俺たちには、現実に逃げ場すらなかったんだ!
とは、ルサンチマンという漫画の一シーンである。
仮想現実、いわば美少女ゲームにつかったチビハゲニートの言葉。
現実的じゃないものの否定、となると、その著名人は、小説とか読まないのかな? 映画も、純文系しかみないのかな?
酒と女とお金が楽しいことなのかな。例であげていたのは、草木についた虫、なのだけど。
うーん、まぁ例えがアレなだけで、言いたいことは分かるけど、でも、それよかやっぱりポケモンGOの方が楽しいだろうな(笑)
自分はスマホでゲームしないから、ポケモンGoもやったことないけど、でも、現実って面白いことばっかじゃない。
というより、そもそも、現実的なものとは何か、と考えたとき、それが地球という自然現象のことだけなのか、というのもある。
社会科学的な事象、ひとが集団になったら悪いことしだすとか、それらだって現実に他ならない。
としたときに、先の小説や、ゲームも、それを作り出すという過程においては、現実そのものともいえる。
一方、現実について、例えば自分はどう生きるべきか、というのは、現実のことを考えていても、それ自体は現実ではないといえる。
だから、現実が重要とか非現実が無駄とか、そういう考え方自体が無駄である。
だったら、ディズニーランドだって、あれは夢の国なんだから、夢中になるのは無駄ということだ。それよりも、虫に興味をもったほうがよいというわけだ、カッコわらい。
まぁたんに、その方は、ゲームに夢中になるひとたちが理解できないというだけなのだろう。
そういう人多いだろうし、特にとやかくいうつもりはない。
価値判断
ただ、何が重要とか、楽しいとか、そういうのを、まさに自分自身で考えたり判断したりするってのが、これからの時代大事なことの気がする。とりあえず、ゲームの効果とか、役に立つとかそういうことを言いたいわけではない。僕自身、消費の行動分野でしかないとも思う。
とはいえ、ゲームする行為がまったく無駄か、というとそんなことは思わないし、ゲームが生活の軸だっていいとすら思う。ゲームするのだって、楽しむためには現実の体調だって重要だし、強くなるにはたくさんの課金だって必要だ(笑)。そのために仕事がんばったっていいじゃないか。
いろんな生き方があると思う。そのどれが正しいとか考えるのは無駄だと思うし、それを肯定する社会は、どこかの原理主義のように、いずれテロリズムにつながる可能性だってあるだろう。
一方で、車に乗りながらポケモンゴーやって事故おこしたり歩きスマホでぶつかりそうになってきた奴は死んでしまえ、とも思うし、いろんな生き方があるとの提示は衆人には重く面倒なことであって、わかりやすい答えをくれる人に、みんなついていくのだろうとも思う。
いや、俺は違うぜ偉いんだぜ、とか思ってるわけではなく、そういう、何かについていくことが、今だかつてできなかった僕は、やっぱり人間として何か欠陥があるのかもしれないぐらいであるから、決して上から目線の記事ではないと書いておく。この感覚、こうやって書いても、きっと伝わらないんだけどね。
なんのはなしだ?
ポケモンゴーを頭から否定する必要はないが、それが原因で事故を起こすとかは信じられない、ということか。
精神疾患の娘を殺害
老老介護とか、生きることがリスクになってきてるとは、なんとも皮肉的である。
やっぱり、そういう意味だと、この生きる意味ってのは、まったなしの重大案件だ。
しかし、どうしたらいいのか。
まず、子供を作ってみないことには何も分からない、というのが、改める必要があるかもしれない。
生まれた子が病気じゃなくても、学校でいじてられて不登校になってこじらせてニートになるかもしれない。
そしたら、俺なら、無理して学校なんていかせず、空手かボクシングでも習わせて、勉強は俺が教えてやる。
所詮、学校カーストなんて、身体がしっかりしてれば簡単に変わるのである。
あ、男の子を想定して書いてしまった。女の子だったらどうなんだろ……。
女は、かわいきゃかわいいで潰される可能性もあるし、ブスはブスでいじめられるし、ほんと面倒だよな、なんて飲み会で話したら女性たちに総すかんに合いそうだ、が、そうそう女性って面倒だよねーぐらい言ってくれる人がいたら、ちょっと楽しそうだが。
雷で死ぬ
昨日、日航機墜落のボイスレコーダーの動画きいていて泣いてしまった。これ何回もみているんだけどな。
プラスで、乗客のメモ、遺書だな、それが、妻とか子供に向けての、強く生きろよ、頑張れよ、とかの言葉。
いま思い出しても涙腺が熱くなる。
それに比べて、沖縄で海水浴していて、雷にうたれて死んだ方。
無念と思う。
その方の人生ってなんだったのか。
そこで死ななければいけない意味ってあったのか。
残酷だが、きっと、何の意味もないのだ。
生まれてきた意味もなければ、死ぬ意味もない。
もっといえば、生きる意味すらない。
そんなもんだ。
これは、実感である。あれ、生きる意味を考えることから逃げない、と書いたことと矛盾しないだろうか。
結論は、矛盾しない。
こうやって比較して書いてみるとわかりやすいが、僕がいってる生きる意味ってのは、客観的意味でなどない、ということだ。
客観的な存在意義などない。
客観的という言葉も定義が必要だが、とにかくここでは、仕事や子供や恋人、親、その他様々な理由があっても、それらは、結局は主観でしかない。
とか、この、主観客観のはなしをすると、知り合いと大激論になったりするのだけど、どうにも、僕の感覚がうまく伝わらない分野の表現らしい。
それは確かに、二人以上あつまれば、それ社会学的に集団と定義されるのだから、その集団において共通の認識があれば、それは客観といっていいのだろう。
でも、僕がすぐ感じてしまうのは、その集団の非連続性、永遠性である。
その集団が変われば、客観的といわれていたことの意味もかわるのである。
それは、僕の言葉では、客観ではなく、擬客観とか、仮客観とかそんな感じ。
だから、自分一人で、しっかりと、その存在意義について考え、行動し、育み強くしていく必要があるのだ。
