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年齢と思考との関係
2016/08/01 07:00 | Comments(0) | イライラ対処
20代でやっておくこと、30代で考えるべきこと、40代で決めること、50代で考えるべきこと……


それぞれの年齢で、するべきことを示す本は多い。
それぞれ読んでみてわかるのは、その通して根底にあるものである。

結果的に、それらは僕に感動を与えなかった、何故か。現実的なるものの構築を前提にしているからだ。

もうひとつ、年齢は関係ないという説明、いわゆる、何かを始めるには遅い時期はない、というもの、これとの矛盾も気になるところ。

矛盾とか、足りなさ、物足りなさに悶えるのであれば、そういった言せつに惑わされる必要はもうないだろうと思う。


思考の無意味性


先日の記事は、一週間が始まる今日読んでも、やはりよいと思った。よい、というのは、ポイントが整理されていて分かりやすいということだ。書いていて意識はしていなかったが、たまにこうしたよい記事ができる、と、自画自賛したいわけではない。

ただ、続きを書くべきだが、ちょっとハードルがあがって書けない、ぐらいには思う。

まず、土台の補強を、と思う。

ひとつ、思考それ自体に意味はないということ。
小説家は、その創作を論理的に構築する必要があるかもしれないが、特殊な職業は保留とする。
基本的には、現実的なるものとのフィードバックを必要とする。

思考のためだけの思考は、避けるべきということだ。そうでなければ、面白さすら表現できないだろう。


理想自己



思考の目的とは、現実と理想自己との一致である。
では、理想自己とは何か。それを知ることも、思考のひとつの目的である。

このとき、理想自己とを、目指す到達点のように考えては、ならない。

何か、到達するべきものではなく、理想自己は、それが表象する、法則、ルールなどを知ることでもある。

理想自己は、固定的なものではない。このことは、一般に、目的とされるものとは異なる。
現実において、目標は、達成する壁のようでもある、乗り越えていくものだ。


飲み会


で、また時間が経って、飲み会である。
昨日も、自宅でやきとりなどを買って、先日購入したビーフィーター24というジンと、グレープフルーツでオリジナルカクテルを楽しんだ。
氷もスーパーでわざわざ大きめのものを購入した。

たいした手間はないけれども、楽しかった。

今日の飲み会も、何ら気を使わず笑って話した。うん、やっぱり、学生時代の友人はよいものだ。

過去の来歴を知ってるというのは、それだけで価値があるものと思う。

といった表現をすると、俺には友達が一人もいない、と寂しさを嘆く人たちの支持を失うだろう。
お前は、ぐだぐだとネガティブなことを書きつつも、実はもっとじぶんより下の人をみて喜んでいるのだと。


こうなってくると、僕のこの思考というものが、単なる我儘とか、逃げとか、甘えとか、思考としてすら認められなくなるのである。

逆に、こうした事情から、イケメン、リア充的な人も、受け入れられるようになった。


思考は万人にひらかれている。

ヘルマンヘッセのシッダールタは、歩くだけで女の子にきゃーきゃーいわれるイケメンであったが、決してリア充ではなかった。

他の表現をすれば、上をみてもきりがなければ下をみてもきりがない。こうやって帰っているなかも、ベンチに座ったカップルがキスをしている。

他者と比較しても無意味といわれるが、なかなかできないもの。でもそれでも、その無意味性を強く実感するようになってくると、自然に妬みとか嫉妬とか、そういった感情はあまり生じなくなってくる。


果たしてそれがよいことかは、他者に気妙味をもつべき、というのもあるから、難しいところ。それこそ、中庸である。

そして次の日


財布について、ダンヒルとヴィレクストラというブランドのものが、三十代に人気とのこと。
いまの財布も古くなってきたため、買い換えようかと思っている。で、女性との初対面の印象で大事なのは、高そうな長財布と、ゴールドカードだそうな(笑)


そういった、いかにも恋愛至上市場主義的なのに、面倒さとか胡散臭さを思っていたが、これも、次のように解釈すると、自分のなかでも対応が可能。

お金を何に使うか、ということの考えについても含めて、自分自身である、ということだ。

僕が何故ブランドものとか、高級品をばかげていると思っていたかは、これまでの記事を読むとわかる。
つまり、真実性の希求において、ブランドというのは、飾り、虚飾にすぎないのだ。

だから、そういったブランド、嗜好品、高級品よりも、機能性を追求するし……別に安物を求めるというのではなく、機能的に優れていれば、お金を出すのは吝かではない、ブランドは、その価格の価値が、機能以外の部分であるのだと、その認識であったわけだ。

その認識に変化があったわけではない。そうきた、みかけ、にたいしての自分の評価が高まったとしても、なんら嬉しくないと、そう思っていたわけだ。

お金の使い方



しかし、こう考えてみてもよい、その、お金のつかいかたを含めて、自分なのだと。
ルックスも、持ち物も、言葉も、声も、行動も自分なのだ、と。


自分、というものに拘りすぎなのかもしれない。
長いものにまかれてもいいじゃないか、と。


さらに翌日



カクテル3杯で、予想外によった。やはり、新しい居酒屋で一人飲むのは、その雰囲気が手伝ってよいが早いのかもしれない。

で、2時間くらい仮眠になったら、なかなか寝付けなかった。

これはチャンスと、色々思考にまわそうとした。


しかし、言葉が出てこない、出てきてもすぐ消える。

思ったのは、頭のなかだけで考えていると、同じことの堂々巡りになる。
アウトプットが大事なのだ。

些細なことも、頭によぎったことはメモをする。

メモは、補助記憶装置というよりも、もはや主記憶装置だ。

頭のなかの表現は、レジスタ、高速な記憶装置といえるだろう。でもすぐ消える。

エレファントテクニック


到達点はどこか。

大きな目標達成には、小分けにすることが大事。
身近な目標から達成する必要がある。

まず、このブログの到達点は何か、というより、複数日にまたがってきている、この記事の到達点はどこか。






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バーでジンの美味しさに気付く
2016/07/30 23:00 | Comments(0) | イライラ対処
先日の記事を読み直した、ひさびさに真面目に考えている感じがある。
用語定義のカテゴリをつくろうか。例えば、理想自己とか、何度も登場する表現である。
先日の記事では、考えることの、それ自体の無意味性について触れた。これはとても大事なことである。

タイトルは重要である。
生きる意味を徹底して考える。
このタイトルがなければ、僕はいつまでも自慰的なことをダラダラつらつらと書き続けていたかもしれない。

それも必要かもしれない、何せ、書いていること自体の楽しさはあるのだ。

しかし、70歳にもなって、まだ理想自己とのギャップ、なんて書いているのだろうか。そんな自分は、ちょっと想像したくない。おそらく、それぐらいになっていたら、先に自死を選んでそうだ。親だって亡くなっている可能性も高いし。それこそ、生きる意味を、もう見いだす可能性はないだろう。


この、数字というのは重要だ。70歳、と頭で考えるのと、いざ目にするのとでは違う。なんだか、やばい!ってきがする。語彙力のなさに辟易。やばい、を、焦燥感とか表現しようとは思ったが、やっぱり、やばい、が、適切に思ってしまうところが。

ジン


で、本当は、先日の記事の続きで、徹底的に考えたいとおもったが、バーに行って飲んだジンが美味しくて、そのメモを優先している。もう遅い時間になったし。

ジンとは、蒸留酒で、ジュニパーベリーで香り付けされているお酒である。

と、調べればすぐに出てくるが、実感があったことはメモメモ。

飲んだのは、ボンベイサファイアという種類。タンカレーという種類も飲んだが、ボンベイサファイアが非常によかった。

ウォッカとは違う香り付けがよいと思った。

グラスの中で、乾いた音を立てて氷が揺れるのもいい。

バーっていいなと思った。

バーって、居酒屋と何が違うのか、とか、僕はすぐそんな疑問が浮かぶ。
調べてないが、西洋風か、日本風かの違いだろうか。

と、眠いので、本当は記事をかくきはなかったのだけど、ここで、このタイミングで書くかどうかで、このご一生の僕の記憶に左右する。

これは、復習の効果である。

復習をしないと、人の記憶は驚くほど早く消える。

復習をしても消える。

けれど、残るものもある。

その残るものの積み重ね、
それが自分である。


自分とは何か、と問われて、所属を答えたり、名前をいったりする方法もある。

僕は、記憶である、と答えたりもする。

身体も重要な要素であるが、完全に記憶をなくしたら、それは自分ではないだろう。


だから、記憶喪失とか、認知症とかボケ、というのは、ある意味で死、なのだと思う。


そういう意味で、誰かの記憶に残っていれば、永遠に生き続けるのだよ、といった表現もあるが、自分という意味では死んでしまったのである。


だから、記憶って大事にしたほうがいいと思う。

暗記は、詰め込み教育の批判とか、望ましくないとされるけど、でもやっぱり大事なことだ。


もちろん、体感によって記憶をつくるひともいる。

だから、あんまり勉強が得意でなくたってよい。

ただ僕は、昔から、なのかは分からないが、言語かできないことは、すぐに忘れてしまう。そもそも頭にはいらない。

思考をするのは、言葉をつくる、表現をするということでもある。


ああ、家が近づいてきた。
お疲れさま。









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生きる意味を考えるとは何か
2016/07/29 21:00 | Comments(0) | 生きる意味
一週間が終わった。
トラブルもあり、久々にいらっとすることもあったが、概ね順調だったといえる。その順調とは所詮、現実性のものであって、思考レベルの深化は進んでいないと思う。

なんだか、もやもやして、とある牛丼屋でビールが100円台で提供されているのにひかれて、飲んできた。
特に薄いとかもなく、普通のビールだ。さすがに量は少ないが、ちょっと飲むのには十分だろう。


しかし、酒を飲んで何か解決するかというとそうではない、ただ、こうして真面目に向き合う気になったのは、効能に思える。


さて、僕は、教養があるのだろうか。教養とは、シェイクスピアを全集読んでいることか。とういそくみょうな言動が重要か。

こういった問いは、面白いかもしれないが、何ら成長には貢献しないかもしれない。

この無意味性が、意味を考えることの真髄を示している。



つまり、意味、なんてものは、それ自体役に立つものではないのだ。

人は、なにかを、させられている感覚を嫌う。
主人公になりたいのだ、権力をもちたいのだ。

しかし、誰しもそうはなれない。すると、論理という、別の超越的なものを求めるようになる。

すなわち、僕はお前に言われたからこうしているのではない、これが、ルールとして定められていて正しいからそうしているのだ、と。

カントの道徳律みたいだ。

とにかく、論理とは、世界的に真実のようでありながら、それは、自らを納得させて、現実に生きさせる、慰みもの、自慰のようなものなのだ。




何事もすべて自由にできるようになったら、敢えてルールになんて従わないかもしれない。
もちろん、その先を考える能力、未来思考こそが人間の長所であり、傍若無人、きょうけんふかい、支離滅裂でありつづければ、そのうち革命的事変が起こって、その地位から引きずりおろされる可能性を考慮すれば、知的な権力者の誕生である。



生きる意味とは

この、論理の否定は、これまでの僕の書いてきたことの根本からの否定のようである。
論理的に考えることを重要視していることが、常々あらわれている記事も多いように思う。

しかし、この論理の否定は、実際は試してみたものでもある。感覚的に生きてみた、という表現がそれである。


結局その試みは成功しなかった。もちろん、すべて失敗ではなかったものの、その永遠性安定性の意味においては役に立たなかったのだ。

リア充

そのわけは、残念なことに、現実と理想自己との隙間が、自分という存在の限界性において、矯正なく一致することはなかったからだ。

上の表現は、珍しく誰にでも当てはまる普遍性がある。
いわゆるリア充とは、その努力という行為を含めて、理想自己と現実世界の事象が一致しているのである。

残念なことに、とても残念ながら、僕は、リア充ではなかったのだ。
ここでいうリア充とは、単にルックスのことを指さない。不細工だろうが性格が悪かろうが、リア充である可能性がある。
それは、メタな次元において、自分自身であるということだ。


メタな次元、と表現を加える必要があるのは、リア充だからといって不快な気持ちになることはあるし、失敗して落ち込むことだってあるということだ。

しかし、自己の深い部分において、世界と、自分とは一致しているのだ、バラモン教の梵我一如のようだ。


それでもって、僕のこの思考の目的は、その一致への試みというわけだ。

理想自己との一致



理想自己が低ければ低いほどいい、というわけではない。というよりも、理想自己はそれ自体が普遍性であり、代えられる目標のようなものではない。


いま現時点、自分がそうあるしかありえない、その瞬間における思考であり、感情であり、身体であり、行動のことである。

つまり、理想自己とは、楽しいとか苦しいとかそういう相対概念などではなく、真実である。

すぐさま書くべきは、その真実という表現は、決して、神とか、超越的なものを求めるものではない。

例えばなにか失敗したときに、僕たちは、ああしておけばよかったとか、後悔を感じる。

しかしそれは、真実ではなかったということだ。
いや、感じるのは仕方がないにしても、すべて、そのときそのすべての条件においては、そうせざるをえなかったという強い実感、それこそが理想自己との一致をした状態である。

難しい表現になっているな。ここで簡易的に書いておくべきは、理想自己となっていれば、実は後悔なんて発生しないのだ。

すぐに書くべきは、これをこじらせたり勘違いすると、人の話を認められない自己正当化の亡者になるのである。

まぁ、さらに本当にこれを極めると、その他者に与えることも含めて、自分に満足することになる。こうなってくると醜悪である。

思考について

以上から、考えるということが、そもそも深まっていくと、いくつもの罠にひっかかる可能性が多いのだ。

先日、誰かは分からないが、拍手してくれる人がいて嬉しいが、そうした気持ちを認めるためには、いくら気恥ずかしい気持ちであっても、自己の分析に手を抜いてはならない、と書いた。

拍手のあるなしにかかわらず、僕は書くことは変わらないし、自分のために書いているというのは変わらない、という、クールな自分がいて、読者の反応の多い少ないで、気持ちが左右されるわけではない冷静沈着な自分によっているのだ、とか。

そこまで考えているかはわからないけど、何か蓋をしようとする自分の気持ちから、逃げてはダメだ。
それをすると、もう自己正当化のためだけの思考となる。そんなの気持ち悪い、というか、そもそも僕の理想自己ではないのだ。


理想的な思考とは


理想自己と現実とのギャップを少なくするのが、思考の役割である。

ギャップを変えずに、現状維持という安定性を求めるのであれば、すぐにでも思考はやめて、限りない快楽の世界を探すべきだ。

どうせギャップが縮まらず、うだうだ不平をいい続けるのなら、よっぽど毎日楽しく過ごす、現実的な方法をさがすべきである。


最初に書いた通り、思考は、それだけであったとき、現実に何も与えない。

考えただけで何か現象化したらそれは魔法である。
というより、考えただけ、という事態はそもそもない。何せ、考えとは、身体というフィードバックを常にうけつづけているのだから。


君がそう思うならいんじゃない?


勝手にすれば、というよりも、君がそう思うならいんじゃない?、というのは、僕にとって、愚か者といわれるよりもイラッとする可能性がある。

結局その相手は、僕のことを認めてはいないし、そのどこがよくないかを話すつもりもない、という態度なわけだ。
まだ、俺は違うと思う、といわれたほうがましだ。なぜなら、僕は自己正当化のために思考するのではないから、指摘や指導は重要に思うのだ。

ここまで、繋がっているかは分からないが、ポイントは、思考自体は無駄であること、しかしながら、だからこそ、様々な事象に対応できる思考の構築が重要だということだ。

何か起こったとき、いちいち解答を考えていては、いくら時間があってもきりがない。

マニュアル主義


考える時間の排除と効率化が、ライン生産、トヨタの看板方式、マニュアル主義である。

それは、一定以上、豊かな日本をつくりだすことに成功した。
しかし、そのマニュアル化がうまくいくのは、豊かさとは何かという、根元的な目的、目標がはっきりしていたからだ。

ここに、また、反転した目的の重要性、すなわち、思考の重要性が生じるのである。


……この先、の記述が大事だが、時間切れのためと、長くなったので、今回はここまで。









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友人との会食飲み
2016/07/28 23:36 | Comments(0) | イライラ対処
当ブログで、拍手を押してくれる方がいる。
あえて、気づかないふりをしようかとも頭に浮かぶのが、自分らしいと思いながら、自分に対しての偽りを、分析を、それが辛く不快なものであっても、もう僕は逃げはしないだろう。

ということで、拍手、これほど嬉しいものとは思わなかった、拍手という言葉が、賞賛とまでいかなくても、読んだよとか、イイネ的な意味には、自然に感じさせるのだ。

この機能、みくしいとかツイッターとかで普及したのだろうが、なんだか寂しさを感じる人にとっては非常に有効だろう。

と、一般論的に書くとこうなるが、やはり、継続性は、僕にとって代えがたく感動を与えるのだ。


確かに、かい心のできの記事があったとする。
それにコメントがついたり、役に立ちましたとかいわれたら、きっと飛び上がって嬉しい、が
それよりも、継続して、簡単でも、イイネを押してくれる方が、時として嬉しいときもあるということだ。


それが嘲笑的な意味の可能性を僕が考えないはずはないが、でも、それでも、例えアンチだとしても
ありがたいことではないか、と思うのだ。


友人への報告



面白いものだ。

今日、偶然的に、会うことになって、昼も、また夜も、別の友人にあって話す機会があった。


こういう偶然は、なにか、世界的に、訴えるものがあるのだろうと思う、と書くと宗教的だが、厳密には、そのふりかかる出来事に対しての僕の考え方や感じ方によるものともいえる。

どちらも、科学的ではないから、胡散臭さがあると思う。

ただ、僕は、乗って運転したい車のことを強くそうきして、家の壁紙にはって毎日みていたら、事故によってその乗りたい車を運転することができた、という20代の経験から、何か強烈なイメージは、その現実性との整合性をできるだけ近づけた上で実現するのだと、そう、思った。



悪口を言わないこと



前項の小見出しと内容が一致しなかった。まぁよい、とにかく、最近、怖いものがないため、好き勝手言葉を発している。

あのひと、めんどくさいんだよねーからはじまって、この仕事意味あるんすかーみたいなものまで。

まぁ、すごくなめくさってる。

逆に、人間らしくなったともいえる。サラリーマンは、飲み屋でぐちをいうものだ。

いーんだけどね、俺は、そういうのは、やっぱり、それこそ無意味と思う。

悪口いっても、つまらなそうにしても、どのみち、一分一秒が過ぎていくわけで、だったら、前向きに改善策や打開策を考えていた方が楽しいのでは、と思うのだが。


自信




人間としての自信、俺は、生きていていいんだ、人の役にたっているんだという自信、それがあると、結構なんでもうまくやってけるものだ。

苦しいことや面倒やことがあっても、うまくやってけるものだ。


で、その自信をつけるには、努力だけじゃだめで、現実との距離感をうまくつけることが大事なんだが……


って書いてたら、ガムかむのが、自分の口のなかをかんで血のあじがする。
最近、えん下もうまくいかないこともあるし、歳を感じるなぁ。
というか、痛い、今日はこれまでにする…

とにかく、仕事を途中できりあげ友人と飲み会の時間をつくれたのはよかった、とだけメモする。

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楽しいという言葉の意味
2016/07/27 22:25 | Comments(0) | イライラ対処
この時間から帰宅となると、やはり体力的、精神的にすり減っている、その状態での思考とはどういう意味か、先日の記事の通り、まったなしである。

そのまた先日の記事において、僕には親友がいないのではと書いた。でも、親友も友人も相対概念だし些末ごとだと書いた。

この、同じことを、楽しそうに言うか、つらそうに暗そうに言うかで、他者の感じ方が違う。

楽しそうにしていれば、特にその人が著名人だったり好きな人だったら、ああ、そういう考え方もあるのだと、受け入れられやすい。

一方、暗そうにしていたら、その考え方を受け入れたら自分まで暗くなりそうだ、くわばらくわばら。


というわけで、人は楽しそうな人についていく。当たり前の、自然現象だ。



ということを書いて、思って、僕は何をしたいのか。


時間のなさ



友人と会う予定であって、突発的な仕事になって、帰ったらもう寝るぐらいしかない時間になったとき、なにやってんだろ、俺って誰だろ、みたいになる。

これが、帰って、お父さんおかえりなさい! 遅かったね、大丈夫?

みたいに迎えてくれる子供や妻がいたら、元気がでるかもしれない。


でも待ってほしい。深夜、0時すぎて帰って、起きてまっててくれるなんて、そんなのありえないし、むしろ申し訳無さすぎる。


で、そうやって触れあう時間が少なくなって、すれ違いが増えて、生きるATMになったり、離婚したり家庭内暴力とか、散々なことになる事例は、決してまれなことではないだろう。

だから、仕事をきりつけることとか、優先順位とか、考える必要があったりする。でも、いまだに、遅くまで働くことが大事とかいう人もいるし、バランスは本当に難しい。


なにがいいたいのかといえば、バランス感覚の軸となるのは、やっぱりどう生きたいか、という長期目的によるのだ。

楽しいとは何か



え、楽しいもんは楽しいんだよ? そんなこと書くなんてバカ?

うんそう、バカなのだろう。

けれども、そう罵ったところで、何がどうかわるというのか。
例えはクズ的に悪いが、知的障害者に対して、頭悪いの? っていうようなものだ。

書いておくが、僕はそんなこと思ったことない。けれども、そんなこと言う人が、周りにはたくさんいた。

やっぱり、幼い頃にそういう人に多く出会うと、人間に対しての期待値がものすごく下がるんだろう。


これによって、怒りの沸点も僕はものすごく低いし、温厚で冷静な人物である、こう解釈もできるし、幼い頃の経験などに拘る必要はない、

ただし、フロイトの精神分析などでも、そういった深層心理を洗い出すのは重要とされている。
自分の感じ方の起因、が分かれば、対応の仕方も検討できるというわけだ。
僕も一理あると思う。


……なんか眠くてめがしょぼしょぼして、頭に何も浮かばない。


うん、とにかく、とりあえず、家に帰ったら、風呂にはいって、五分だけ、坐禅をしよう。
で、一問だけ、資格の問題を解こう。


それだけは、頭に銘記して、電車のなかで目を、つむる。






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