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創造の言葉と感情の言葉
2016/08/15 22:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
八月九日記述。
想像上の、創造としての言葉と、実態の感情に則した言葉。

そのどちらか、ということが、自分は曖昧だと、思った。

脳内会議、この呼び方は好きではないが、まぁ仮に、思考実験として、かれらの発言が、どこまで真実で、どこまでが虚構か、というのが、大変に曖昧である、ことに気づいた。

この、創造の言葉と感情の言葉との違い、は、新しい発見といえる。これは、どこかからの引用などではない、と思う。

表現上の問題か


口に出したり、書いたり、表現した時点で、この世にうまれた時点で、その言葉は意思をもって飛び出していく。
それはときに、意図せざる結果になる。


これら表現は、たとえば、ミステリアスな、物憂げな表情をうりにした男性は、即刻やめたほうがいい、もてない。

口にして表現しているうちは、その、イケメンさがあれば、ギャップ的にもてる可能性がある。

文字表現はやめたほうがいい。たいてい、理解されず、関係は破綻する。
これは、二度ぐらい経験したことからによるものだから、信憑性がわりとある、かっこわらい。


パーソナリティー障害


境界性、パーソナリティー障害、というのか、まぁ詳しくはもう少し本を読むとして、対人距離をとっているうちは良好だが、いざ仲良くなると、途端に、甘えてきたり、手首を切ったとか、相手を試すようなことも始める。

一週間ぶりに書く

千キロを超える旅の帰りに書く。渋滞がひどかったのと、雨にうたれてしまった。


残り100キロくらいと思うが、これから高速道路はさらに渋滞がひどくなるだろうということと、体力的に、しばらくネットカフェにて休もうと思う。


あっという間の一週間だった。
休みが終わりかけているときは、いつも、黄昏時のようである。

屋外に佇んでいると、蝉時雨と遠く羽ばたく鳥の声が、郷愁的な感覚を呼び起こす。
とはいえ、このセンチメンタルは、恐らく、学生時代の夏休みの終わりに比べたら、さほどのものではないのだろう。


甲子園の球児たちをみていると、高校最後の夏という言葉が、重く感じられる、しかしそれは、あくまで傍観者としての、どこか他人事で、微笑ましいものを見るような、離れた感覚である。

甲子園が、なぜ、日本国民に対して、これほどまでに、それは、野球をやったことがない人たちも含めて熱狂させるのか。

それは、やり直せない自分達の若き学生時代に、やり残したことや、もどかしい思いをしたことなどを、高校球児に託しているのではないか。


なんてことを、大真面目に書いた本とかありそうだ。

読まれるということ


それこそ、学生時代の友人に出会い、飲みにいって話したり、偶然ショップで遭遇した友人と立ち話したり、家族や親戚と会ったり。

過日、祖父が亡くなり、遺品整理を手伝ったところ、手記などが見つかった。内容は読んでいないけれど、よく、有名人や活躍した人だと、そうしたメモも後々大切に保存されたりする。画家のラフ画とか。

そういうのをもとに、その人の、生い立ちとか、考え方とか、作品の成り立ちなどが研究されたりする。

まぁ、死んだ後だから関係ないのだけれども、やっぱり、残すべきもの、そうでないものは、整理しておいたほうがいい気がする。

高潔なお坊さんが、エロサイトのお気に入り集とか残しちゃうと、ちょっとがっかり感がある。


と、思いつつも、やっぱり、人が多いな、ってのも感じる。高速道路とか走っていても、車がたくさん。毎日の通勤でもそう。たまに違う駅に降りたり、乗ってみても、やっぱり同じだけ黒だかりである。

そんな中でも、相も変わらずこのブログはほとんどない。というよりも、むしろ、あふれた情報の中だからこそ、見向きもされないわけだ。
という表現は、例えば、大都市の駅前での大道芸人、ストリートミュージシャンとかもそうである。精一杯演奏しても、足を止めてくれる人はわずかばかり。数分の間に何百人と人が通り過ぎるのにも関わらず、である。

話がそれた、それで、いいと思う、ということだ、そう、このブログはひっそりと、整理していこう。

本当は、こうやって書くこと、そのことが、物理的な対人関係においても、乖離がないことが望ましいのだと思う。
それを目指すべきか、それとも不可能なのか、そもそもその方向が誤っているのか、それ自体も検討の余地がある。

これについては、いま結論を出すことはできないし、だす必要もない。むしろ、もっと深く、深く記述していくことが重要だ。
出す必要がないというのは、消すのは簡単だからだ。

考える始点

さぁ、では考えよう。としたとき、いつも、力むと、何も頭に浮かばない。いや、じゃあ、考えないでもよいのでは、というのは、違う。

情報の価値が完全に一変した世界に私たちは生きている。
知識というものが、確かに価値をもっていた時代があった。例えば、雑学でも、生活の知恵でも、それは料理のコツだとか、日曜大工のやり方だとか、お盆における法事のやり方とか、ちょっとしたことでも、人と人との関係の中で受け継がれていくことがあった。

その知識のあるなしが、人との関係の意義だったし、主従というときついが、関係性を成り立たせる触媒になっていた。

デファクトスタンダードになった、TCP/IPの技術、いわゆるインターネット技術は、情報の均質化をもたらした。

とか、かっこつけて書くことはできるが、この言葉の重さが失われる、ということである。上に書いたようなことは、確かに、今は何も参照せずに、自分の言葉で書いてみたものだが、「インターネットが個々人のもつ情報の均質化を促した」とか、別に新しい考え方でも何でもないだろう。


僕がよく勘違いしてしまう(この勘違いは、知識的にではなく、感覚的、実感的であることを注記しておく必要がある)のは、新しい知識的な価値が生み出されなくなったとか、そういったことではない。とんと聞かなくなってしまったが、万物に重さを与えるヒッグス粒子とか、新しい知識体系は、日々更新されていっていることだろう。

ここで、問題となるのは、その新しい知識、保持されるべき、語られるべき知識というものが、相当に専門化されてしまっていることである。


一般人として、たどり着くのは、到底困難なようなもの。もちろん、すぐさま書いておく必要があるのは、努力が無駄だとか、頑張ってもどうせたかがしれているとか、そんな諦めとか堕落とか、そういうものではない。そもそも、人の限界なんて、誰にも分らないのだから、限界を勝手に引いてしまう必要はどこにもない。

それでも。

それでもなお、到達できない領域はある。次元はある。

オリンピック、甲子園、スポーツの世界に限らずとも、そうだ。
すぐに書いておく必要があるのは、斜に構えて、世界の法則がわかっていますみたいな、上から目線とする気は全くないということだ。あくまでも主体は自分であって、思考は実存のためしかない。

それでも、だ。現実世界と、思考(ここでは理想的な自己)との乖離は発生するのだから、その調整を、時に行う必要があるということだ。

思考の整理

であれば、もう少し、踏み込んでみよう。本当は、演繹的にできればいいのだけれども、経験をもとにするしかない。

まず、直近で思ったこと(実感したこと)としては、親が生きているうちは、死なないようにしよう、ということだ。

家族って、やっぱりいいものだ。
感じることとしては、その「変えられなさ」というのもある。いったん構築された「家庭」は、容易に分解できないものだ。だからこそ、「安定」がある。「安心」がある。

それがゆえに、その家族における愛情とか、安心が得られなかった人は、感情的に不安定になりやすい、というのは、境界性パーソナリティ障害とか、解離性障害とか、いわゆる精神病の患者における一つのステレオタイプである。

まぁとにかく、そういう意味で僕は恵まれているわけだし、裕福で幸せなのだ。

逆に、このことが、他者関係における、哀れみを抱かせることから離れるがために、共感よりも、「わがまま」「あまえ」という感情を与えることになりやすい。
このことが反転した、生きづらさになるのだけれども、この点は、「比較思考の無意味性」という表現において、何度も記述してきたことである。下を見てもきりがない、上を見てもきりがない、まずは実存、自己中心的に考えるべきである、と。


しかし、この長ったらしい注釈を必要とする表現であれども、やはり、現時点家族がある、という経験、実感、は、記述しておくべきだと、考えたわけだ。

友人の存在

当然、たまにでもこのブログを読んでくれる方も含まれるが、物理的環境における友人の存在も、一つ、僕は恵まれていて裕福で幸せである、と書いておく必要があるだろう。

もちろん、このことが、孤独感を抱えている人、ニートや引きこもり、対人恐怖症で友達がいない人とか、様々な人たちの共感を失うことになることは分っている。僕自身は、「比較思考の無意味性」から、それが全く見当違いであるということを「思う」のだけれども、おそらく、この理解は得られないことだろうという諦念もある。

だからこそ、だからこそ? いや、その、選択することによる喪失ということを、僕は受け止めることが実はできていないのでは、という疑念を払しょくするために、家族や、友人の存在、そして、定職があるとか、貯金があるとか、そうした「あること」については、しっかりと受け止めて、記述しておく必要があるということだ。


えー、でも、そうはいってもさぁ、と、僕はいま思っている。そんな、確かに、恵まれているだろうけれども、どこか、僕は喪失感があるのだと。何か大事なものを失ってしまっているような、そういった感情があるのだと。

それが、喪失感と表現してよいかはわからない。が、もしかすると、思考として、ブログとして、書いていくこと、表現していくことが必要なのは、その部分なのかもしれない。

もっと簡単に書いてみよう。

僕は、何が足りないのか。何を欲しているのか。

喪失感

単純な質問をすると、はたと、また、思考が停止してしまう。

停止すると、そもそもこんなこと書いていて何になるのか、とか、無駄な思考が頭の中を席巻する。いやぁ、本当に無駄だ。

こういうときは、もっともっと、感情に耳を傾ける。よし、仮に、その「足りないもの」を喪失感と表現したとき、さて、僕は何を埋めるべきなのか。

欲求。
自己実現欲求? 承認欲求? 所属欲求? 安全欲求? 生理的欲求?

やっぱり、社会的価値があることを成し遂げたいと思っているんだろうか。
そうだとしたとき、これは、かなり困難が待ち受けるため、半端な覚悟では崩壊する。それとも、承認欲求で満足なのか? これはこれで、何をもって成し遂げるのか、というのが一つ重大な問題でもある。仕事、とりあえず頑張ろうとか、そんな次元で満足しようとしているが、僕の本心、理想的自己が、もっと大きなことを成し遂げたいと思っている……?


仕事について

ヘルマンヘッセのシッダールタで、最終的にシッダールタは、川の渡し守になり、真実に到達する(この表現が正しいかは甚だ疑問)。
全く別の本で知ったのだけれども、ヘルマンヘッセ自身も、精神的に不安定な時期があり、単純な仕事(この表現が正しいかは甚だ疑問)である庭師になることで、安定を取り戻していった時期があるという。

ので、必ずしも、ファイナンシャルプランナーや社会保険労務士になって現代の悩める人々を救うということが、必要かどうか、というのは懐疑である。

社会的価値のある仕事、教師、弁護士、医者、政治家、それらは同時に、軋轢も非常に多いものであり、むしろ、「仕事」として割り切りができる人のほうが大成する、というのは、どこか悲劇的な事実のように思う。

自己実現の欲求を充足するために、それを仕事に求めることの危険が、どうしてもある、これは、まさに、俯瞰視点からの、逃げ腰であって、いいわけであって、甘えだと言われて、その通りと自分自身思うのだけれども、いやあ、最近特に記憶力の低下を如実に感じる自分としては、残念ながら承服できない。
繰り返すが、努力の否定ではない。頑張る気がないわけではない、が、これから医学部に入りなおして社会のため、人のために尽くす、というのは、ちょっと現実味がなさすぎる。このブログの言葉が、若い人たち、子供たち、教育者としての言葉なのだとしたら、自己実現と仕事との結びつきについて、熱く語るべきなのだけれども、「実存」として考えると、そんな余計なことをしている場合ではないのだ。






長くなったな。
そろそろ出発しようか。遅くても、残り1時間ほどか。




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脳内会議仮称
2016/08/09 00:12 | Comments(0) | 思考及び書くこと
先の記事では、見放されて一人になってしまった。
ところで、反社会性と脱社会性の違いについて。反社会性というと、校内暴力とか、あるコミュニティにおける疎外により、新しい承認をえられる場所を求めること。

例えばオウム真理教に高学歴や弁護士や医者など社会的に認められるような人たちも荷担したのは、既存のコミュニティからの承認が不足または機能不全になっていたことによる。

一方、脱社会性といったとき、それはもう、社会的コミュニティを求めようとはしない。
さかきばらせいとの事件は、透明な存在であることの苦痛から、バモイドオキ神という個人神を打ち立て、すがった。もはや、コミュニティ、社会に対しての希望などないのだ。



なるほどね、と思ったとして、ここから、社会分析もまた、コミットの問題であることに気づいてしまう。
昔、自分自身の生きづらさを表現、かんがえ、原因を探るために、こうした思想や時代を比較する考え方を学び、そこから自分を位置付けようとした。

これは有効であったものの、思うに、その時代の考え方そのものを、果たして真実的であると、単純に信じられるかというのは疑問である。

コミットと、頭悪そうに横文字を使うが、これは、全幅の委任、という意味で用いている。根拠の有無に関わらない、その事象やコミュニティへの参加、所属のことを、そう読んでいる。

言葉にたいして、その辞書的な意味はともかく、すべて、自分の言語表現で説明できる状態であること、それが、このブログにたいしても、思考をするということ自体にたいしても、正しい向かいかただと思っている。誠実さだ。話がそれた。


社会分析と実存問題



昨日の、といっても、数時間前のものだが、その中で、終わりなき戯れによって生きる方法もあると書いた。しかしそれは難しいだろうとも。

他者に相談して、生きる意味なんて考えてたって意味ないよ、っていわれて、そんなことアドバイスされても……ともかいた。けれども、別にこれを否定するわけではない。

ひとつ方策として、生じる思考を、例えば坐禅によって制御し、日々の生活を正しく送る、というのは、まさに仏教的に正しい方策である。
この、坐禅を、瞑想とか、宇宙的な啓示、とか表現を変えると、途端にスピリチュアル的なものになる。この怪しさも、気づいてしまうと、どうにもコミットしづらい。

ただ、それでも、そのことが、自分にとっての正解かもしれないということ、その可能性をすべて否定するわけでもない。


考え方の誤りでは?



もしかすると、やはり、意味を求めようとすること、この点に、構造上の問題があるのかもしれない。

いやいや、この点は、前の記事においても、もうぶらさない、としたではないか。
思考の無意味性は感じた上で、そのうえで行動指針を打ち立てる必要があるのだと。


いや、その方針を疑うわけではない、現に、ここまで言語表現されてしまっている、書いてしまっていることが、疑いようもなく、意味追求の必要性を示唆している。
問題は、その、意味追求の構造的な、実りがないだろうことを、再選択するべきではないか、ということ。


というと?


つまり、結局人間の生きる意味なんて繁殖以上のものはなくて、その前提で価値を積み重ねるのが人類、社会であるのだから、そのうえで、個人としての価値を、再度自分の中で選び直せばいいということ。


うわ、くだらない、その程度のこと、考えないでいたとでも?

その、考えていた、ということを、ちゃんと自分の言葉で表現したか?
わかったつもりで、自分は頭がいいんだと、傲慢に思っていたのでは?


書いてきたさ、それこそ、生きる意味なんて考えても無駄だ、って表現だろう?


違うね。
それは、フィルターをかけている、もっと突き詰めて表現してみろよ。その、無意味とわかっていながら、そうしなきゃいけないっていう、憐れな自分を表現して、悦にひたっていたいだけなんだろ?



おぃおぃ、君は、いったい、誰の味方なんだか……。
そこまでおとしめて、なんになるってんだ?


貶める? バカいってんじゃない、貶めるもなにも、お前はいま、上も下もない、無為の空間にいるに過ぎない。人としてでもありえていないのだよ。



仕事の忙しさ


朝に書いて、22時過ぎ。
そして、これから帰り。予言した通り、いやなことがあるか、少しよいことがあるか、であって、どうにもボコボコにされた日だった。

まぁ、いいんだけど、あっという間だよね。
こうしてぐだぐだ書く暇なんてない。これがそのうち、休日出勤も続くようになっていけば、もう心配要らない、なにも考えてなどいられないだろう。

いつもの牛丼屋でビールをいっぱい。うまい、ハンバーグも、ぐちゃぐちゃうまい。
ごまだれのドレッシングも野菜にどばどば、うまい。


たぶん、みんな、たいてい、こんなもんだろう。
ささやかに、ささやかな楽しさ、例えば喫煙者はタバコを数時間とか、そうしたリフレッシュで、日々を楽しく過ごすのだ。



僕もまぁ、そうやって楽しくやってきた、けれども、結局、そんなささやかな幸せすら、重要には思えなくなっていった。

頭がまったく、はたらかない。もう、体力的に、つかれている、なにも、したくない。



だからこそ、いまこそ、書く。こういう、疲れはてたタイミングによる言葉が貴重。

昨日のくだらない記事も、いま、読めば、なるほど、いろいろ、感心すること、学ぶことがある、いま、だからこそ。



いつまで耐えられるか



一週間、二週間、一ヶ月、半年、一年、五年、十年、二十年、五十年後……。

頭で考えるのではない、実際に書いてみる。さぁ、いつまで、精神力を使って生きられるか。

このペースで、メンタルポイント使っていったら、一ヶ月が、限界かも。

たぶん、こうして書いていられなくなるとしたら、二週間ももたないかもしれない。

こうして書いていられるのは、まだ余裕がある。だいじょうふ、平気。


まだ元気に、はきはきと、気分よく、楽しそうに、笑顔で、いられる。

まだ、へいき。


そして、まぁ、僕は大丈夫だけど、ときおり、元気そうにしててホントに死んじゃうひともいるから、身近なひとには要注意だ。

僕は平気だけど、身近なひとが、なくなってから、あいつが、まさか……気づいてやれなかった、とか、おこがましく、傲慢に思うくらいなら、しっかりとかんがえ、感じることだ。


僕は、そういう、とある事象が起こってから後悔することを、人を好きではない。

気づかなかったなら、それまでだ、そのことを後悔するなんて、死んだ彼にも失礼だ。間違いなく、死なせたのは、お前自身も関係する、反省はいい、大いに苦しめばいい、だが、後悔とかあまっちょろいこといって、自分を癒そうなんてするな。
受け止め、苦しめ。それが課せられた結果だ。


と、思う。とはいえ、心配せずとも、後悔と反省の違いなど、みていてわかるはずもない。ただ、特に親しくもない友人が死んで葬儀で涙をながすとか、ときに身の毛がよだつほど気色悪い。

と思うものの、人間的でいいなとも思う。偽善、大いに結構。

うそでも、それを続ければ真実になると、ヨーロッパのとある国の独裁者が過去に言っていたではないか。


なんの話しだ?



おまえさ、これ、誰に向けて書いてるの?

え、自分にたいしてだよ、もちろん。

いや、ちがうだろ、誰か、読んでくれている人に対して書いてるんだろ?


ちがうよ、俺はほんとに、自分に対して……


知ってもらいたいんだろ? 自分を。共感して欲しいんだろ? 助けて欲しいんだろ? 慰めて欲しいんだろ?



ちがうちがうちがう!
僕は純粋に、これから自分がどう生きていけばいいかを、真剣に考えてるんだ。


わかった、くだらない押し問答はよそう。
自分のために、書いてるとして、じゃあ、何を意図してるんだ?


意図……そんなの、なくてもいいじゃないか。感じたことのメモだって、大事だろ?


ロジック、論理、そして生きる意味。
意味を求めようとしているのに、意図はなく、単に思ったことのメモだと? 笑わせてくれる。本当におろかで気持ち悪いやつだな。


なっ、じゃぁ、どうしたらいいってんだ!
疲れて、頭もうまくはたらかないけど、でも、必死に書き留めようとしているのに。

それがくだらない、といっているんだ。
なにも整理せずに、ただ自分の感情を表現するだけ。笑わせてくれるよ、ほんと、お前が嫌う、感覚主義者そのものではないか。



ちがう!

どう違うか、説明してみろよ。

じゃあ、お前が説明しろ、なぜ僕が、感覚主義者と同じなのか。

おまえ、おろかだな。自分でさっきいったぞ。単に思ったことのメモをしてるだけだと。その行為と、感覚主義との違い、いってみろよ。


それは……、思考としての表現と、現実行動上の対応とは、別だからだ。

ははぁ、お前は、永遠性や、普遍性をもとめていたのでは? いまの説明は、次元による違いによった差異だぞ。こういう場合はこう、ああいう場合はそう、と、臨機応変にその場に応じた考え方を許す、ってわけだな。
おめでとう、君の悩みも解決だ。


って、そんなわけあるか! もういい、お前とはなしていても、なんら解決しないどころか、不快感ばかりたまっていく。

逃げるわけか。

そうじゃない、無駄だからやめる、っていってんだ。



インプットとアウトプット



まぁまぁ、二人とも、落ち着いてください。
どちらが正しいとか間違っているとか、それを、白黒つけても仕方がないでしょう。


でたな、またそうやって、上から、目線に、斜に構えて、どっちでもいいよ、好きにしな、と責任放棄だ。

噛みつくのは構いませんが、まずは、明日の会社の準備とか、寝る準備しては?


現実的な行動の積み重ねが、生きるということ。あとは、切り替え、っていいたいわけか。



そういうことです。お二人が喧嘩のように話し合っていても、、答えなんて、はじめからないのです。その、二人の会話そのものが答えなのです。


ただ、その答えを、答えとして再解釈するひとが必要、俯瞰視点が必要、と。


ぐちゃぐちゃうるさいよ、なんだよ、君らは、何かわかっているみたいに言っちゃって!
そんなことより、いま、このぐちゃぐちゃした苛立ち、不快感、これをなんとかしてみろってんだ!!



ふむ、まぁ確かに、君にだけ、そういう不快感情を担ってもらうのも、かわいそうかもしれないな。

癒し、受容の人格も、創造しましょうか。


いや、それは、まだ難しいだろう。それに、危険もある。
 
理想人格の想定が、現実との溝を広げる可能性がある、と。



お前ら、また二人して難しいはなししやがって! こっちむけってんだ!


いいや、何も難しいことはいっていない。
癒し、は、危険なのだよ。それは、自己完結を助長する。


自己完結



自己完結?
自己完結の何がいけないんだ?


人間は、他者とかかわり合って生きている、という大前提にもとづく。
つまり、他者を求めなくなる可能性がある。

それだけではありません。理想的な人格の想定と構築は、理想に遠い人に対する攻撃にもなり得ます。


他人を認められなくなる、これは危険なことだ。



でも……、そうだとしても、なんで、こんな、こんな、つらい思いをしてまで、頑張って、生きてなきゃいけないんだ……。

たのしいことだって、あっただろ?


そんなの、僕は、少しも感じなかった。君たちや、他の人たちが、そのたのしいところを感じて、いつも、僕は、つらかったり、否定されたり、バカにされたり、お前なんていらないっていわれたり、つかえねーやつ、とか、とか、とか!
そんな、いやなことばっかだった!


まぁ、それはお前の被害妄想だがな。その場に、俺たちもいたわけだし。


そうですね。まぁ、あなたが、それらの感情を強く感じやすい、というのはあるでしょうが。

俺たちは、その部分の感情は、フィルタされているからな。



……もういいよ、思考は、つかれたよ。
考えたくないよ。もうやだよ。誰か、たすけてよ……。




困りましたね。あまり、彼に負担をかけるのもよくないですね。次があれば、もう少し人格の配分を工夫してみましょう。


そうだな。まぁだが、癒し、受容については、要検討だな。

そうですね、ただ、それは心配しなくてもよいでしょう。何せ、その構築には、今はまだ、情報も、インプットも、感情も、整理も、様々、足りていないでしょうから。

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眠れない夜に生きる意味を考える
2016/08/08 00:00 | Comments(0) | 思考及び書くこと
思考は無意味であるが、反転して重要性を帯びてくる、と、先日の記事で書いた。これが、パソコンからなら、リンクとか貼ったり、他のブログサービスならトラックバックしたりするのに。

宮台さんの本を読んで、成熟社会とか、終わりなき日常とか、現在の社会状況を知るのはいい。
しかし、今必要なのは、実存の問題だ。

宮台さんが、新しい社会に向けての改革や思想誘導をしたとしても、それは一朝一夕でなるものではなくて、すでに生じている社会から疎外された人たちにたいしては、なんら救いにならない。

成熟社会に適合できないオヤジたちは、歴史教科書問題とかにすがろうとする、と、宮台さんは切り捨てる。万人を救おうとなんてしない。あたりまえだ、神ではないのだ。大阪の知事になったある政治かも、敵をはっきりさせながら、改革をすすめていた。同じ感じがある。

リーダーってそういうもんだ。それはいい、ただ、それとこれと、僕の問題、個人の問題、実存とは全く関係ない。




実存問題にたいしての本は有効か



なるほど僕は社会に疎外されていたのか、でもそれは、僕だけじゃなくて、脱社会的になっていった、さかきばらせいととか、その後の教師殺傷事件を起こした中学生とか、多くの人に共通する問題だったのかぁ、なるほどー


とか、そんな悠長に分析している場合ではない。いま、この瞬間に生じている問題だ。自殺志願者が、病院の屋上の手すりに手をかけている状況だ。


まず、終わりなき日常とか成熟社会とはなにか、それは、何かにコミットできない状況のことだ。

がんばったところで、それに見あった成果が訪れない社会。であれば、努力よりも、終わりなき戯れで楽しみ続ける方策が有効になる。

ところが、僕のように、感覚至上主義にもなれず、理想主義にもなれず、かといって普通、にもなれず、さ迷ってしまう人は、どうしたらいいのか。



実存的手法


ひとつは、精神分析的に、実存の形成をひもとく方法。例えば、初恋の不成立が与えた自己への問題や、小学校のころのクラブ活動での他者から得た不快感の分析など。

これらから、いわゆる、トラウマ的な事象にたいして言語表現することにより、次なる行動方策を模索すること。


最近やってるこのブログとかログとかである。


しかし最近、これ、いつまで続くんだ? という感覚になってきた。

それに、初恋とか苛めとか、結局よくある出来事に過ぎないとしか思えなくなっている。

今まで、いや今も、あまりこの辺りの話は口にしない。そりゃあそうだ、30代の大人の男がこんなこと言ってたら恥ずかしいを通り越して、きもい、かっこわらい。

いや別に、気持ち悪いと思わない優しい人もいるわけだが、そうか、つらかったね、と言ってもらっても、何も解決はしない。

これらのことについて、僕は今時点哀しんだり、後悔しているわけではない。ただ、事実そういうことがあったなぁ、と思い返しているだけだ。

それが、何になるのか、よくわかっていない。


感覚主義になる方法



次に考えられるのは、何かにコミットすることだ。無我夢中に努力したり、遊び尽くしたり。

しかしこれも、上手くはいかないだろう。

というか、もう、これ、自分でできると思えない。
2008年、2009年ごろはよかった。確かに、思考の渦でもがいていたのは同じだが、まだまだ、知らないことが多かった。例えばポジティブ思考とか、引き寄せの法則とか、いわゆる自己啓発系の仕組みなどほとんど知らなかった。それに近いことは、自分の頭だけでつくっていたのだ。それはそれですごいことかもしれないが、他者も、そうした考え方をして、自分よりもっと論理的に、経験的に、実践的に表現されたものがあるとは知らなかった。

今は……、いろいろ実践してみた。経験した。考えた、読んだ、聞いた、感じた。



いろいろやってみて、うーん、結局、だから、なに? と。


だから、感覚主義へのコミットというのも、却下しかないだろう。


三つ目の方法




さぁ、ここで、颯爽と登場するのが三つ目の方法だ。大抵、自己啓発系はこういう論理展開になる。アンチテーゼからのジンテーゼみたいな。

ところが、残念、このお話は、ここで終わりなのだ。作者は、この先を知らないのである。


Aもだめ、Bもだめ、あ、じゃあ、つみですねこれ。
みたいな。


いやいや、だから、これはもう待ったなしの問題なんだから、ふざけてる場合じゃないんですって。

でもさ、思い付かないんだからしょうがないじゃん。

なら、寝るんですか? で、会社いって、時おりいいことあって、ときおり不愉快になって。どっちであっても、一人、電車に乗っていると、なんだか無性に頭がカオスになっていって、こうやって文字をひたすらうったり。

もしくは、どっかの飲食店によって、お酒をのんだりラーメン食べたり。


そんな繰り返しを、ずっと続けるんですか?


まぁ、そうだろうね、なにか、理想的な、目指すものがあれば、それに向けて努力できるだけの力はあるものの、その目的を見失っちゃったからね。
ずっと不満言って、愚痴愚痴しながら、死ぬまでそうしてるんじゃない?


それって、努力するのを怖がっているんじゃ?

努力して報われないとか、そういう低レベルなことはどうでもいい、問題は、その努力自体を楽しめるのかってこと。
そして、なんのための努力なのかってこと。



いきづまりだな。

え?

いきづまり、もう、お前の思考だけでは、これは解決しないよ。新しい風をいれなければ、くさるだけ。

それは、もっと他者との関係をとれ、と?

そういうこと、それは、ただ、表面的なものではなく、あの人がやってくれたような、深層レベルでの関係において。


うーん、しかし、それは、現実的に難しいのでは? とくに、対人コミュニケーションにおいては、で、君はどうしたいんかい? となる。または、必死になぐさめてくれるか。


まぁ、そうだろね。

でしょ? だったら、うまく、他者からのアドバイスなんてもらうことはできないのでは?

それに、君は、他者からのアドバイスを素直に受け入れられないし。


そりゃそうだよ、例えば、くよくよしたって仕方がないとか、生きる意味なんて考えたって仕方がないとか、そんなこと言われるんだよ?
それはきっと正しいことなんだ。でも、僕は現に、それにとらわれてしまったんだ。足の痛みを訴えて、いやそれよりも心臓の病気がありますからそっちを治療しなければ、みたいなことだよ。そりゃ、心臓は大事なんだけど、とにかく、今は僕は足がいたいんだよ。


そう、で、結局心臓が悪化して死んじゃうってね。アホみたいだね。


うん、まぁ、それはそうだろうよ、アホだろうよ。でもさ、何でも感でも、人は合理的にかんがえられないよね。アタラクシアだよね。悪いと思ってもやっちゃうってことあるよね。


で、そうやって合理化して、自己を守ろうって方策か。昔から変わってないね。

うぅ……そうかもしれないけどさ、君だって、そうやって、いかにも合理的に、正しくありますよ、みたいな態度で、僕を痛め付けるだけじゃないか。それに君は、なんやかんやで、真実をしらない。理想をしらない。
単に、今を乗りきろうとする、短絡的な思考しか持ちあわせていないじゃないか。

好きにいえばいい、そうやって、心が癒されるなら、何とでもすればいい。


ふん、そうやって、冷静ぶっちゃってさ。
なんら解決なんてしないのに。


……。


ねぇ、なんかいってよ?


……。


ねぇったら!



……。



あぁ、やっぱり、一人なんだ。

一人で、考えて、答えを出して、行動して、考えて、答えを出して、行動していくしかないんだ……。












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ブランドとゲームの関係
2016/08/07 11:17 | Comments(0) | イライラ対処
財布の購入を検とうしている。ヴァレクストラのデザインと、機能性がよいと思った。しかし、日本ではあまりブランドとしては、知名度が低い。一方、デザインtp的には、ポーターの財布が、気に入ったのがあった。ポーターは吉田かばんという日本メーカーのブランドだ。が、30代でポーターは恥ずかしいとか、そういった意見もある。ヴぉってがヴぇネタ、ブルガリ、ヴィトン、コーチとか、まぁ、いろいろブランドがある。ハミルトンの時計はどうだ、とか。なんだか、ゲームみたいだな、思った。
フェアあ

消費者ゲーム


duどうでもよいが、この、やはり入力が、カーソルがあっちこっちいったり、ものすごいストレス。我慢するとして、あれだ、そう、ゲーム。他の人よりもよいものをもって、自己顕示sするゲームである。こういブランドをもっている人間、30万円の時計をしている人間、そういう人間性が、ビジネスには重要だという。でもさ、それ、おじいちゃんおばあちゃんになっても続けるの?

sそれって、大事なことなの?
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まあ、いざ経済は、そうした需要によって成り立っているんだから、そういった価値観も重要なのだろう。と、いうか、そうしたブランドで人を判断する人って、どれほどいるのだろう、とは思う。ネットとかでは、よくみかける、がg実際のところどうなのか。しかしその実際は、人は、思ったことを口でいわないだけで、あ、あの人、大人なのにポール・スミスの財布使ってるよ、恥ずかしいわ(笑)、とか思っているのかもしれない。いやもちろん、清潔感は大事だ。ボロボロの服で、臭いもきついとか、それはまずいだろう。ユニクロやしまむらの服だって、こまめに新調していたほうが、清潔感があっていい場合だってあると思う。まあ結局、身分相応のものをもてばいい、と、くそのくにもたたないくだらない言葉に落ち着くことになる。年収300万なのに、レクサスにのってたら恥ずかしいから、せめてマークXぐらいにしておくとか。うーん、興味のwnわかないことを書いていると、気分が滅入ってくるな。

ただ、重要なことではあるのだ。価値観という問題、これは避けて通れない。そして、やはり、身なりによって、t、j他者の反応は、確かにかわるのだ、ということ。いくら、言葉をこねくりまわして、正論風にしたとしても、札束で頬をなぐられたら、ころりと意見がかわったりするものである。

普遍的な思考


僕が求めるのは、大切な人がなくなったり、会社が倒産したり、相思相愛の恋人ができたり、sm
b仕事で出世して感謝されたり、そうした、様々な事象が起きたとしても、変わらない、コアな、中心となる考え方の構築である。いきる軸である。生きる目的である。存在証明である。根本価値である。普遍的思考である。なぜ、こうまでして、統一性をもとめるのだろうか、これは、人間の本能である。生命とは、自己保存のプログラムである。効率的に種を増やすための手段である。そこには、統一性、一貫性が求められる。それはひとつ理由だが、もうひとつ、生きたいという本能の裏返し、死にたくない、というものでもある。死にたくない、でも死んじゃう、じゃあ、何のために生きてたのか、と、単純なこと。この単純な構造だからこそ、考えても仕方がない、という結論になる人は多い。それはそれで、重要な生存方策である。でもさ、せっかくなら、考えてみたくないか? い生きるために生きて、繁殖して、死んで。それはそれで楽しいものだろう。でも、その事jnh自体に意味を感じられるのか、むなしいと思うか、それによって変わってくると思う。生きる意味なんてない、仕事だって究極の暇潰しだ、といって、生きている人もいるだろう。それって、とっても素晴らしいことだ、でも俺は、なんだか、コミットできない。この世は終わりなき日常なんだ、と、言って、諦めてしまう方法もある。俺も、その方がいいと思ったことがあった。でも、やっぱり、この呪いにかかってしまった人は、なかなかに抜け出すことはできないのである。ゆえに、この文章を読んだとしても、呪いにかかるものでもない。これは、かなり幼少期に形成されるものだろう。だから、やっぱり、っこのブログは、万人にひらかれたものではない。でも、思考は、万人にひらかれたもの。前提が違うのだ。tkr他者と付き合っていて、基本的に誰とでも仲良くなれるが、ある一定の部分から、かいり、を強く感じるようになる。なんか、人間としての前提が違うような。
とかなんとか、書いていると、あ
ああ
サイコパスとか、解離性の病気とかじゃないか、みたいになるが、そういう問題でもないのだ。いやあ、入力がおかしいため、ところどころ変な文字が自動的にはいるし、改行もまともにできないからrかなり危ない人のように思える(笑)

実際、そう見えるんだろうなあ。
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j基本的に、思考の中身を、文章化するような人はいない。基本的に、ノンバーバルの部分の表現によって、他者の言いたいことを判断する。誰かを殺したいほど憎いと思ったとしても、人は笑顔でいることができる。その憎しみを、その人の言語能力レベルで表現したとき、それはときに非常に恐ろしいものだ。殺す殺す殺す殺す子留守ころすこるそう!!!!みたいに、なっているかもしれない(笑)

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クオリア


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mもう、本当に、変な文字がはいるのはいいが、改行ができないのは、本当にイライラする。なんだこりゃ。じゃたやめたってなるのだが、もう少し続けさせてほしい。あかを、他者と、同じ赤と認識をしているとは限らないという、クオリアの問題をとりあげるまでもなく、同じ文章表現において、同じ感じかたをしているとは限らない。その言葉の感じかたは、その人の来歴による。僕は他者の言葉を分解してから再構築して理解するが、特に考えずに自分の感覚で理解する人も多いように思える。そういう人は、自分の感覚と子となる人を、忌避する傾向が強い。理解できないからだ。もしくは、時間がかかるから。っtwて、こんなことかいていて、なにになrんだ? 入力の関係でいらいらもするし、もうやめようか。k
sn、tnm

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プラス思考が人をダメにする
2016/08/07 00:34 | Comments(0) | イライラ対処

プラス思考の方が、女にもてないし、仕事の成果もでないし、うつ状態になりやすいという。
nなzなぜkなぜなぜかあフェア時l時;それしても、キーボードがうまく作動してくれない。なぜなのか。ぱ
パソコンがクラッシュし、修理へ。半年もたっていないため、一時間近くの電話のすえ、無償修理に。ただし郵送料、梱包代金で、約6000円の出費となった。というわけで、スマートホンに、ポータブルキーボードをつないで、投稿中、だが、ときおり、入力がダブルでされて、おかしなことになる。あと、前に書いた気がするが、僕の入力スピードに、明らかに反応がついてこれていないため、ストレスにもなる。修理は、一週間以上かかるという。もう、予算1万円くらいで、通常サイズの無線キーボードでも買おうかな。明日でかける用事もあるし、電気屋みてくるか。そう、ところで、ポジティブ思考である。やっぱり、なんでも感でもポジティブがいいわけではないとうことだ。



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やっぱり変な入力感


改行もうまくはいらないし、変な感じだ。変な感じといえば、ふと目にはいった、みやだいしんじの、終わりなき日常という単語である。イデオロギーの対立から、親や校内暴力が流行った70年代80年代をへて、リア充とオタクという対立へと変遷していくという。疎外、かつては、ゲマインシャフト、血縁集団の中でのしがらみからの自由が望まれた。sそこからげぜるしゃふとへとうつっていく。ゲマインと、ゲ是ル逆かも、もう、変換がおかしいし、虫がとんでるし、やる気をなくす。とにかく、思ったのは、単語の記憶はともかく、やっぱり、インプットがなければ、思考もできない、ということだ。終わりなき日常、という概念は、僕の中にインプットされているが、その単語がなければ、思考が先にすすまなかったりする。重要なのは、これは、別に、もてるためにやっているのではないということだ。人が疎外される構図gがわかったとしても、それを自らにどういかすか、その点に頭wをまわさなければ、結局g愚痴と同じ。
ところどころ、変な入力になる、これはタイプミスじゃない。うん、やっぱり、キーボードさがしにいくか。まぁ、キーボードのせいか、このブログとの相性なのか分からないが。FC2ではこんなことならなかった。まぁ、その、なんだ、結局、終わりなき日常への処方せん、は、恋愛だdとかいわれる。まじかよ、もてないぜ、って疎外されたからこそ、悩んでいるのに、結局、包括的承認をえるには、異性、女の子しかないってのかよ、そりゃないぜ、みやだいさん、みたいな。そういえば、これよんで、あるしゅの絶望して、彼女つくったり、としたのかもしれない。結論として、彼女ができたから、彼女ができなかったころの自分や、その他の人たちとしては、もう、僕の言葉は届かなくなるだろう。結局、彼女ができるだけの、素質があっただけなのだ、僕はやっぱりキモオタだから、救われることなんてないんだ、と。昔の僕はそう思っただろうし、実際思っていたけれども、だからこそ、t
ms
つたわらなさ、ってのがよく分かるけれども、先の見えない中、希望がない中、成功する保証もないなか、ただがむしゃらに行動するということの恐ろしさ、精神のすり減り、絶望感というのは、たまったもんじゃない、そしてそのことを、僕はわかっている。だから僕は、若い人たちに、がんばったら彼女できるよ、自分に自信をもって!とかいわない、いえない。そういう単純な図式ではない。その当時、2009ねんごろと思うが、すごい閉塞感、tという表現をしていたと思うが、閉塞感dwを感じていた。感を感じている、というのは、日本語としておかしいということだが、やっぱり、っ感覚としてはしっくりくる。閉塞感という状態を感じている、という意味だからだ。そのころに比べたらいまはましだ。が、ただ、若さ、という点で、避けられない問題が大きい。とはいえ、その当時だって、むしろ、20代後半に差し掛かっている、というt点で恐怖だったわけだし、さしたる問題ではないだろう。


学習


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2>とにかく、僕は、今日、4時感くらい、学習と運動に費やしたけれども、なにか生産的なことを続けていないと、精神的にダメージをうけるのかもしれない、と思う。なんか、がんばっていないと、自己か何かから、突き刺されるのである。とはいえ、11時ごろ目が覚めて、何もするきになれず、ボケッと、数時間過ごしてしまった、ものの、それは、ゆったりリラックスどころか、ダメージを助長してしまっていた。掃除機かけたり、s

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洗濯したり、アイロンかけたり、走ったり、勉強したり。なにかしていると、少しダメージがやわらいだきがした。ところが、そうはいいつつも、本当に、何もできなくなることがある。疲れはてる、しかし、休むことをみとめられない、いや実際、ボケッとしてしまうのだが、それを、内面から、ちくちく突き刺されるのだ。頑張っている、と、自分でみとめられているうちは、とりあえずバランスがとられている、しかし、その頑張りが成果でなかったり、認められなかったりすると、崩壊する。そう、その頑張り、というのは、かなり危うい状況でバランスがとれているものなのだ。s
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s先日の記事で、成果のための努力は無駄である、と書いた。が、結局、そうやって生きてきてしまったのである。ゆえに、今日少し頑張れて、気持ちがもちなおした、としても、それは極めて危うい状況にすぎないことを、よくきにとめるべきだ。とはいえ、ボーッとしているよりは、よほどましだったと、思わざるを得ないのだが。さて、今日はもう遅い、寝よう。きっと、明日は明日で、違った言葉がでてくるのだろう。なんとか、knこれまでの言葉や、あした書かれるであろう言葉が、僕の目指す目的に少しだけでも近づいているということを、期待せずには、いられない。j

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