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行動への一歩
2016/10/17 08:00 | Comments(0) | イライラ対処
終末へのハーレム、面白そうだな。読んでないけど。ただのエロ漫画かもしれないが、コールドsleepで目覚めたら、男性が全部死滅していたとか、設定に(笑)となった。

ルーチンの構築



月曜日、また、夢見は悪かった、布団をはぎとばして、寒かったのが原因化も。思い出せないが、緊張をしいられるやつだった。

そして昨日、筋トレを始めてみようかと書いてみたが、それは冗談だったが、日常生活の改善をまた始めてみようか。

筋トレ
音読
朝活動
朝御飯
料理自炊
単純計算練習
ランニング
15分書評

など、ルーチンとして、日課としてやっていた時期もある。必ず、何日かできない日が続いて、それ以降できなくなってしまう。
あ、そして、それらの記録表、規律表はHDD障害で全部消えてしまったか……。またゼロからスタートだなぁ。

まぁ記録はただの飾りみたいなまのだから、気にすることではない。

問題は、歯を磨くぐらいの習慣にはできてなかったという事実。

自分の生活をかえると言うのは、思考や価値観を変えるのと同じぐらい難しい。


唯一、習慣としてできているのは、書く、というぐらいだ。
しかしそれも、大学のとき、二年間ぐらい一日も書かさずに書いたぐらいをやったから、しばらく止めた期間があっても再開できたのかもしれない。

まぁ、筋トレとか音読とかも、半年ぐらいは続けられてたのだけど。
いや、ただ、厳密に毎日か、というと違った。
ログの場合は本当に毎日だった。、まぁ、大学の時というのが、今に比べて、アベイアブル、可用性の意味で時間のコントロール性が高かったのもありそうだが。


とかく、取り敢えず、今日から、筋トレ(ストレッチ)と、音読は再開しよう。


目標の設定



決めたら、期間を決めなければならない。
12月末まで、毎日行う。
ただし、実行率は、2ヶ月半のうち90%以上とする。
内容は、最低限1分以上とする。

1月には、12月には、再度目標の設定を行う。

さうさな、ううむ、もう、一年が終わろうとしてるのか。
あっという間だ、今年はいろいろなことがあった。

それなりに激動の一年、だったけど、僕の感覚は、なんだか余裕があったな、という感じ。何だろうこの感覚、矛盾してるなと思いつつ、これは、未来恐怖の度合いなのかもと思った。


焦燥感


高校の時、大学のとき、いや、小学校中学校をふくめてもよさそうだが、なんだか、毎日が落ち着かなかった。

ずっと違和感があった。なんていう表現すらできずに、悶々と、という表現もできずに、とにかく言葉がない閉塞感の中にいた。

ああ、いいや、かこのことは、何度も書いたから振り返りはもうよくて、とにかく、それらと比べると、まぁ、もっと色々、頑張れるよね、と、こいつは言ってくるのだ。


努力信仰の否定、と書いたけど、その、頑張ることで何か設定した目標が達成される構造は、悪いことではない。

ただ、目標と目的の違いを、よく認識はしておけと、それだけだ。
ゾンビになるな、屍になるなと。


筋トレ、音読の習慣は、それは別に目標でも目的でもない。
基礎体力づくりだ。

今さら基礎!?
と思うけれども、何か新しく始めようというときは、基礎がなってないとダメだ。何を新しく始めるのか。

目的を設定するということだ。

人生残り、40年くらいである。ロスタイム10年プラスぐらいはあるかもしれないが、ボケて死の恐怖から遠ざかるようなだけかもしれない。

新しい生活をこれからのために



例えば、自分の本を出版したいとか。

作曲した音楽を発表したいとか。



そういったレベルの目的は、構築して、それに向けた目標を設定し、様々行動し実現してきた。
これでは足りないのだ。自分の本を出したい、それは自費出版でもいいの? blogの製本サービスみたいのだってあるよ?
それとも、大手出版社から出したいの?

そもそも小説? エッセイ? 自己啓発?

と、考えるのは目標レベルの話になる。そうじゃなくて、そもそも、なぜ、本を出したいと思うのか、というのを確認し、インプットするのが、目的設定の作業だ。


本を出したいのは、お金を稼ぎたいからか。いや、多くの人に読んでもらいたいからだ、と。じゃあ本じゃなくてよくね? みたいなブレが生じる。だから、本を出したいというのは、目的ではない。目標の手段のひとつだ。


じゃあ、何が目的なのか、……、このこと、そのことを、もう早い段階で作成構築設定していこうと思うのだ。


そのための基礎体力のために、音読筋トレストレッチランニングだ。

意志の問題



目的が無いのに、ルーチン作業をこなす、というのは、結構大変だ。

身体の発する言葉を無視して、思考によって身体を制御する必要がある。

俺は、客観的な次元では、これまで大したことをやってこれなかったが、意志、意思、感情の方向性と不一致の行動を無理矢理する、という意味においては、かっこつきの頑張ってきた。

それについては、少し自信がある。結果にたいしては全く自信がないけれどかっこわらい。



矛盾、矛盾。

努力信仰の否定としておきながら、ストイックな方向ではないか。

ストイック、厳格さ、理性を重視。


うーん、表現が足りない。

今年入ってからは大分誠実に書いてきたが、やはりしばらく遠ざかっていたことで、不足が目立つ。
本当は、あますことなく、自分の感じ方、考えを書き残したい、あとから読んで完全に再現できるようなのが理想だ。

そのあとから、読んで、というのは、その読んだ状態がどんなであっても、という意味だ。
そうなるのもはや小説だが。小説、そう、いい作品だな、と思うのは、その情景の再現性である。

今はもう、寒さで目が覚めるような時期だが、こんな時期に読んでも、夏の暑い、汗が吹き出て、あぶらゼミがうらさく鳴くような、そんな感覚を呼び起こせる表現、文章、そして作品はすごいと思う。

さて、時間切れだが、この記事は、あとから読んで、例えば今日の夜に読んで、ちゃんと音読と筋トレ等をするということが、自分の頭に再現できるだろうか。

今は分からない、あとから読んだとき、この記事がいつものよう失敗なのか、成功なのかが分かる。




















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取捨選択の前にすべきこと
2016/10/16 20:01 | Comments(0) | 思考及び書くこと

ドリンク作り

家で美味しい飲み物を作るのは結構楽しい。
牛乳を買って、カップの2/3くらい注ぎ、電子レンジで温める。そこに、コーヒーメーカーで、深入りの、ストロング(じっくり抽出)したコーヒーを注ぐ。
美味しいカフェラテの完成だ。

グラスに氷をいっぱいにする。ジンを注ぐ。グレープフルーツジュースをジンと1:1ぐらい注ぐ。炭酸(トニックウォーター)を注ぐ。
ジンモーニの完成だ。(ジンモーニというカクテルは検索してもヒットしない。恐らく、スプモーニ=カンパリ+グレープフルーツルジュース+トニックウォーターの派生だろう)


カフェラテは、豆とか、コーヒーメーカーの選定とか、水の配分とか色々試して、ようやく、満足の行く味を安定して作ることができるようになった。アイスカフェラテもいい感じだが、最近は、ホットのカフェラテをつくる。あったまる。
自分で作ったというのもあるが、普通に、その辺のコーヒーショップ・カフェで飲むのと遜色ないぐらいになった、むしろ、それよか美味しい。コスト的にどうなのかは厳密にはかってないが、コーヒー豆が200g700円ぐらい、牛乳が200円、あと電気代・水が少々。店で飲むやつは、500円とか普通にするから、そう考えると、少なくても4杯以上は余裕で作れるから、間違いなく低コストだ。

しかし、競争相手で手ごわいのは、コンビニのコーヒーたちである。ファミリーマートのカフェラテは180円だが、ローソンは150円だ。そして、味は文句のつけようなく美味しい。


ちなみに、「ラテ」といったときには、スチームされた牛乳に、エスプレッソを注ぐ。さすがに、エスプレッソメーカーは置く場所もないし買おうと思わないから、厳密にカフェラテを作れているわけではないが、深煎りの豆にストロング抽出をかけると、近い味になることが分かった。

属性が与える情報

とか、
蒼太の包丁 
http://livedoor.4.blogimg.jp/nwknews/imgs/0/8/087789aa.png
で、40歳過ぎのおっさんが、一人で料理してお笑いのテレビみて涙を流すというまさにそんな感じだな!

と思った。
上のような記事も、家族がいて、子どもがいて、家族に作ってあげたら喜んでくれたとか、そんな内容なら、会社のフェイスブックにも投稿できるぐらい微笑ましい温かみを帯びた記事になる。

つまり、同じ内容、同じことを書いたとしても、その人の境遇や、その人自身の「属性」によって、他者に与える印象は大きく変わる可能性があるということである。

この問題をよく描いているのは、


攻殻機動隊2ndGIGの黒幕、合田一人さんだ。

彼は、若いころから英雄になりたかった。けれども、彼のルックスは普通だったため、真面目に研究に取り組んで大きな成果も出すけれど、結局「目立たない奴」という評価しか得られなかった。

そんな彼も、ある事故による「身体的変化」によって、自己の内面も変化させていく……。


これから表現されていることはもう一つ、これは、攻殻機動隊全体のテーマでもあると僕が勝手に思っているが、身体の思考へ与える影響というものだ。

ある40代の筋トレ好きな男性は、とってもポジティブな思考をもって毎日積極的に生きている。
その彼が言うに、筋トレしろと。ぐだぐだ頭で考えてないで、瞑想とかスピリチュアルで悟ったとかウダウダ言ってないで、身体を動かせ、という。

とても、大事なことだと思う。
よし、筋トレ始めようかな。

試験を終えて

いやぁ、ほんと、昨日の夜はショックなことがあったし、朝早かったし、夢見は非常に悪かった。覚えてないけど、死んだじいちゃんが幼い俺になんか教えてくれているとか、そんな郷愁的な夢から、仕事でへぇひぃふぅとあたふたトラブルに対応している夢とか、なんだか目まぐるしく発生して。

行きたくないな、さぼっちまおうかなって思いもよぎったが、何とか、奮い立たせていった。
そしたら、改札くぐってから受験票もってくの忘れたことに気づいてダッシュで家をまた往復したり、疲れたしギリギリになったし、大変だった。よく間に合ったものだ。

結果として、無理やりでもいってよかった。
手ごたえは、「あった」。けれども、完全にダメだろう、半分ぐらい分からなかった(笑)。
ただ、序盤に勉強した範囲は、ばっちり、他の選択肢のダメな理由とかまではっきりと、自信をもって答えることができた。いやいや合格しなきゃただの負け惜しみだろう、まぁそうなんだが、ただ、試験で使える知識というより、実感を伴った理解と知識を身に着けるというのが、自分の中で本当の目的だったから、ある程度それが達成されていることが分かってよかったということだ。


ほとんどは、恐らく大学生ぐらいの若い人たちだった。
そして、会場は、ある高校だったが、校舎が、とても綺麗だった。これが学校……?! というほどの衝撃だった。


他に例えば、午前の試験が終わってから、友人たちとわいわい、答え合わせを始める大学生っぽい人たち。
試験終わってから、全部終わってないうちに答え合わせするってのは、やっちゃいけない愚昧な行為である。既に済んだことを言い合ったところで、そもそも、受ける側同士ほんとの答えなんて分からないし、間違っていたとして心配しても取り返しがつかない。

けれども、ふと思った。
まぁ、別にそんなふうにワイワイやってもいいじゃないかと。
合格するって目標に対しては無意味な行為でも、一緒に学んできた仲間たちと一喜一憂するのだって、貴重な体験なんじゃないか、と。


そして、久方ぶりに試験なんてやったけれども、非常に集中した時間だった。もう、全然まったく歯牙にかからない意味不明の問題はさておき、自分が勉強した範囲の内容については、集中し、必死に答えを導き出した。


ああ、試験って、そうか。
これ、「アウトプット」なんだな。

インプットとアウトプットのバランスが大事、と何度も書いてきたけど、「勉強」ってのは、やっぱり、それを発散する場があってこそやりがいがあるのだ。

僕が作ったWEBサイトもそう。誰かみてくれて、反応してくれる人がいるから、電気代も時間もかけて作れるのだ。いや、その作っている作業自体がそれなりに楽しかったりするのだけれど。

勉強だって、その「勉強」ってのは、また、表現がいろいろあるけれども、実は楽しいものだとは思う。
いやいや、学校の勉強なんて面白くなかったスわ。という人だって、ああそうそう、今日その高校の図書室の前を昼休みに通ってみたが、推薦図書とか、新着図書とか掲示板にはってあって、そこに、結構たくさん、ライトノベルがずらり並んでいた。

へー、今の時代、ライトノベルが図書室に置かれるようになったんだな。うんうん、俺が高校の時は、キノの旅ぐらいしか読んだことなかったけれども、難しい文学者の作品もいいけれど、手始めにライトノベルを学ぶのだっていいんじゃないかって、当時思ったことがあったような気がしたのを少し思い出した。

まぁ、「不合格」って通知をみるのは、きっと落ち込むんだろうけれど、ちょっとそれみてから、今後どうしようか考えよう。けれども、何だか、リベンジしてやるぞ、って少しやる気が、今時点は維持できている。もうちょっと、長期的な目標・目的を立てて、再度望んでみたい。

やりたいことリスト

さて、30代に必要なことは、とか、夢の探し方とか、帰りの電車で調べてみた。

もう、やっぱり、グーグル検索とかでヒットする記事に、何ら感銘は覚えない。アクセス数は数万HITとかあるのだろうけれども、正直「くだらない」記事ばかりだ。
それより、今、その一人として、現時点、生きているというその個人的なブログの方が、何倍も面白いし、参考になることが見つけられる。

グーグルの記事の多くは、「答えがあります!」と最初結論が書かれてあって、途中、何だか偉そうなこと書いて、その人の経験とか、何だかの書籍でこうあったとかもっともらしいことが書かれて、最終的に、「生きる意味は、即答できます! 妻と子供のために頑張ることです!」とか、アホかと。読んだ時間返してくれと割かし本気で思った。


「30代、これだけはやって置かないと絶対に後悔する5つのこと」

とか、え、まじ、何それ、俺わかってないよ、気になるよ!

と扇動される見出しが多いけれども、もう、必要ないわ。
その全部が、表現レベルだと分かってることばかりだ。

いや、その書かれていることが正しいとか間違ってるとか、そこがポイントではない。
問題は、「実感」できるか、「感動」できるか、ということだ。

そんな自己啓発的な表現を読む時間があれば、よほど、面白い漫画読んだ方が有意義である。
まぁその、「面白い」ってのが、中々見つけられないんだが。
だから、友人知人からの紹介などは重要だ。「もつべきものは人脈である」とか、そんな表現、たくさん溢れてるわけだが、そんなこと分かってるのだ。じゃあどうやってそんな大切な人脈作ればいいのか、それは「いろいろ頑張ってね!」と結局精神論ばかりだ。

もう一つ、俺としてはバカバカしいと思ったが、きっと多くの読んだ人は、きっと間にうけるんだろうなぁと思った表現は、「×0.9」の人とは付き合うな、的なものである。
つまり、掛け算をして、自分の価値がその人と付き合うごとに下がっていくというものだ。
30代になれば、付き合う周りの人を選びなさいとか、そんな表現もたくさんある。

アホかと。
いや、その「表現」としては、まさしく、僕が言う「反転しないポジティブ」として、正しい。当たり前だ、自分をどんどん、マイナスに落とし込もうとする悪い奴らとの付き合いが、必要なはずはない。
ただ、すぐさま気づくべきは、そもそもその後生大事にしようとしている、自分自身の価値とはなんだ? そして、その「×0.9」の人間とはどんな人間だ? ぐちぐち、マイナス思考な奴?

ああ、そうか、俺のことか(かっこ笑い)。
それは置いておいて、その、自分を押し下げる人間ってのを、どう判断するか、そこに既に価値観が入り込んでいる。例えば、貧乏な人だったり、低学歴な人だったり。不細工な人だったりするかもしれない。仕事が遅い人? 口数が少ない人?

他者がどうあるべきか、って前に、まず、自分がどうあるべきか、そのイメージが重要なのは言うまでもない。


そういう意味では、僕もまた、その笑い飛ばした記事と、同じことを目指し、やろうとしているだけなのだ。
まず、自分を確立しようと。故に、他者のへらへらした言葉になどもう惑わされないようにしようと。
その、「へらへらした言葉」を発する人たちが、俺にとって、「マイナス」だとか、「×0.9」の人たちである。
しかし、むしろ、俺は、ノー思考の「ポジティブ」な言動をとる人たち、「生きる意味なんて考えても無駄」とか、「未来なんて考えてもどうせ分からないから今を楽しく生きよう」とか、そんなレベルで止まってしまう人をむしろ「害悪」として捉えるだろう。

自己啓発表現の無価値性

けれども、だからといって、じゃあ、「思考」「価値観」が俺と不一致な人間を全部遠ざけるとか、そんなことするはずがない。
人の一面だけ切り取って、この人は「あわない」から切り捨てるとか、アホである。

「全人格的な付き合い」の崩壊。
選択的な付き合い。
他者とのチャンネルの切り替え。

なんか、専門用語的なのがあった気がするが、思い出せないけれども、つまり、コミュニケーションの方策として、プライベート全部丸抱えで付き合うみたいな、職人徒弟制度のような対人関係方策は、もはや有用ではないと。

映画みにいくときは●●ちゃん、恋人は○○君、一緒に勉強するのは▼▼ちゃん、買い物行くのは◇◇ちゃん……とか。

その場面に応じて、付き合う相手を変えるという。
SNSとか、ブログとかの、「コミュニティ」ってのが、そういう社会心性を満たすために作られたソーシャル機能である。
コミュニティの中には、誰でもカモンな奴もあれば、パスワード付限定のやつもある。

自分自身の要素を、様々な所属組織に委託して、自分の快感情を高めようとするのだ。


となったとき、もう、誰がマイナスで、誰が×0.9とか、そんな判断が無意味なことが分かるだろう。
どのみち、有限な一日の時間において、他者にさけるリソースは限られている。
別に、わざわざ表現してまで、重要性を説くことなどではないのだ。


……とか言いつつ、何故大真面目に反論を書いてしまっているのか。いや、別に反論ではない。自分の中の整理だ。
昨日から、色々、整理していたのだった。消えてしまったが……。今日は反省して、こまめに保存をしながら書いている。

憎しみについて

憎しみとは何ぞや。
昨日、「犯罪」について書いていたのは、この他者を憎むって心性が何故起きるのかのメモのために書いていた。

そもそも、犯罪って書いてしまうと、思想犯とか、イスラムの教えに背いたとか、姦通したとかいう理由で犯罪になって石打ちの刑になったり、現代日本人の感覚ではハテナ、となるものも世界では多い。
イギリスでは、議会で死ぬことは法律的に禁じられているという。議場で死ぬと、国葬しないといけないからだとかなんとか。フランスでは豚にナポレオンと名付けてはいけないとか、そんなことが法律だったり。

犯罪といっても、その時代、その状況、その価値観などによって、何が罰せられるか異なっている。犬を殺したら死罪じゃ? 的な法もあったそうな。

だから、一様に犯罪について書いても仕方がなくて、ここでは、人を憎くて殺してしまうという心性についてである。

殺したいほど憎い、というのは、思考が足りてない愚か者である、と昨日書き捨てた。

これが、きっと、炎上の理由にもなりそうで、あえて、忍者ブログさんが、こんなこと書いちゃいけないよと、ブラウザをクラッシュさせたのではなかろうか。


確かに、今思うと、何故そんなこと書かなければいけなかったか、自分でも皆目つかない。だからこそ、本当に、今この瞬間におけるアウトプットが非常に重要なのだ。
一秒でも過ぎてしまえば、もう紡げない言葉。けれども、その言葉に、もしかすると、これから重要視すべき、一瞬で消えるような思い付きではなくて、自分の信念としてインプットすべきようなことが含まれているかもしれないのだ。



少し思い出してみようとしても、やっぱりだめだ。この憎しみについて、という表現は、いまいちよく分からない。例えば、恋人が殺されたとか、親が強盗にあって殺されたとか。弱みを握って金銭を強請ろうとしてくる奴とか。
凄惨ないじめをしてきたいじめっ子とか。犯人を殺したいほど憎い、と思う心性というのは理解できる。

そうすると、先ほど書いてきた、「×0.9」の人間と付き合うな、とか、ほんとむしろその通りだと納得するぐらいなのだ。いや、まぁ、そんなクソったれな奴らは、0.9どころか、0.1いや、マイナスだろうし、話しにならないんだろうけど。



そう、だから、さっきの話しの整理は、はっきりいってあまり意味がなくて、ああいうことを書いたり考えても、何ら意味はないと、逆にそのことを覚えておくためのメモなのだ。





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小まめなバックアップの重要性
2016/10/15 22:44 | Comments(0) | 思考及び書くこと
今日はプチ旅行に行ってきて、先ほど帰ってきた。そして明日は、ブログに書いてある試験日である。が、2か月間全く勉強できなかった。2か月である。勉強できなかったから受からないことは仕方がないが、お金も既に払っているし、勉強しに行くつもりで行くだけは行ってこようと思う。

そして、勉強しなかったというのは、「落ちたときの言い訳」のようにも思える。半年前(もう半年前なのだ)に、自分の「頑張る力」を試すために、絶対に合格してやると、そう書き残し、望んできた、はずなのにこのざまである。そして、追い込みをするでもなく、その2か月の無勉強の上塗りに、こうしてブログを書いているという体たらく。

しかし、その試験に受かるというよりも、知人との旅行の方が、重要だと思い、今も思っているのは、間違いではないだろう。問題は、むしろ、勉強との両立ができなかったことであり、これは、真摯に受け止めておこう。

モチベーションの維持

強くイメージして、本当に得たいと思ったものは、必ず実現し、手に入れることができる。

このことは間違いなく、僕は信じている。
しかしながら、では、「幸せな人生」を送れるかというと、別の話しである。まず、「本当に得たいと思ったもの」という表現自体が、曖昧模糊である。だから、この僕の信じていることは、「概念」として信じているだけであり、実現可能、再帰性をもった、「ハウツー」ではない。これはどちらかというと、信念の部類に入る。価値観といってもいい。

その、強いイメージ……、このことを信じているが故、思考をたゆまなく、不可逆的に、反転させ続け、深く何層も重ねていくのだ……いや、いかなければいけないのだ。

これは、最近の強度を伴った実感からは、「恐怖」なのではないかと思う。恐怖、怖れ。何からの? それは、僕の信念=「強くイメージしたものは実現する」ということだ。

これを、少し簡単に表現してみると、強くイメージされたこと、つまり、脳内支配率(頭の中で考えている度合)が高いものは、それに対するアプローチのため、様々な現実的な行動方策が「実現」する。

「大学に合格するぞ!」

これを果たすために、例えば、実際に自分が行きたい大学で、その大学のキャンパスで過ごしている、学んでいる、友人たちと会話している、思索を深めている具体的イメージを高めることは有効である。


ここから話しが少し展開する。

その具体的イメージ、そのイメージ力ですべてが実現するというのは、どちらかというとスピリチュアル的な方策である。
スピリチュアルなことを僕が信じていながら、逆転してそのうさん臭さに苛立ちを感じるのは、その現実世界(物理環境)との乖離である。

つまり、いくら脳内イメージを高めたとしても、それに行動が伴わなければ、何ら変化は起きないのである。(話はそれるが、すぐさま言っておかなければいけないのは、この「行動」とは、決して、リアルな環境のそれだけを差すのではない。例えば、この二次元なブログでさえも、「行動」に他ならないのだ。それによって、僕は、これまで僅かばかりにしか得られていなかった、他者の凄さを感じて打ちひしがれるというカタルシスを得ることができた。そして、そんなすごい感動を与えてくれた人に、ある程度認めてもらえているというコメントを読んで、二重に「感動」したのである。感動がカッコつきなのは、どうにも、特殊な心の動きであったと思うからなのだけど、よい表現がすぐに浮かばず、話しの本筋からそれることがこれほど長くなっている、閑話休題。)

イメージと行動の関係

ああ、しまった、やはり逸れた話を書いていたら、流れが全く分からなくなった。このままではこの記事も失敗してしまう。

思い出せ、今回、残り少ない時間で、とにかく整理し、書き残しておかなければと思ったことを。

強くイメージしたことは現実化する。しかしそれは、「行動」があってのことである。その行動とは、二次元等含めた「すべて」である。「すべて」としたときに、では、頭の中でイメージする「だけ」のことでも、自分の目的(強くイメージした、本当に得たいと思ったこと)は実現できるのではないか。それはその通り。ただし、その「強くイメージした」ことは、決して、「幸せ」とは限らない、ということだ。

あ、思い出してきた。

望んだ自分について

つまり、僕の信念は、人間は、「思い通りの人間になる」ということなのだけれども、その「思ったこと」というのをコントロールするというのは、実は結構大変なのだ。
だから、僕は常々、「ポジティブでしかいられない」と書いている。これは、ポジティブ思考と一般に言われているものではなく、むしろ、すべて実現してしまうことの恐怖の表現だ。

つまり、マイナス的なことで脳内占有率を高めてしまえば、それに伴った「行動」が発生し、それは更に脳内を「汚染」し、更なる行動を起こし、ますます、「自分が望んだ自分」へと、突き進んでいくのだ。

こわー。


そして、二つ目に怖いのは、その「自分が望んだ自分」ってのが、実は簡単に表現できるものではないのだ。
おっとまってくれ、そもそも、僕のようにこんな変態な言葉を書く人はあまりいないようにも思えるが、では、言葉によって表現しない人、ブログを書かない人は、自分が望んだ自分ってのを理解できていないのか。否、即答で否。しかし、それが、自分が本当に考えている自分なのか、実は「ズレ」があるのかは、深い位置まで表現をしていかなければ決して分からない。ただ、その深い表現が必要かどうかはまた別の話しであり、その「望んだ自分」が、「正解」であり、「真実」であり、「幸せ」なら、こんな表現たちは不要だ。

実感について

(忘れっぽい俺は、小見出しを先にキーワードとして書いておいて、後から書き足していくって書き方の方がいいかもな)

実感について、ええと、実感、そう、実感だ。
じゃあ、その望んだ自分ってのを、表現しようじゃないかと。それが、モチベーションを高めたり、実現したい目標を設定したり、日々を行動したりするための、重要な準拠点になるのだから、と。

その望んだ自分ってのが、「目的」そのものなのだと。生きる意味なのだと。そう考えたわけだ。

だから、正確に、その望んだ自分ってのを描写しなければいけない。

それには、「実感」が重要になる。実感、自分が感じることだ。こういう行動をしたらこうなるとか、こういう態度を取られたらこう思うとか、その感情そのもののことを実感という。そこに、こんな「思考」の介在はない。ゼロ秒思考がそれに近いけれども、厳密には、言葉すら必要ないそのものの感覚というものなので、

現実とイメージとの距離について


恐怖について

あああああ



ぎゃああああああああ

1時間ぐらいかけて書いてたのが、ブラウザの強制終了で消えたアああああああああああああ





もう、この忍者ブログになってから、3回目だが、もう今書いてたこと、多分、もう二度と、

二度とかけねえええええええ

うああああああああああ



落ち着こう

落ち着こう。
落ち着こう、落ち着こう。ショックは大きい。もう、何か、お気に入りのカップを割ってしまったとか、そんな物的ショックなんかよりも、「思考」のショックは大きい。
この前、小説書いていたら、ワードがクラッシュして全部消えたとか。この新しいPCにしてからひどい目に結構あってるな……。

まぁ、仕方がない。
かなり、「危険」なことを書いていた。犯罪者についてとか。これまで敢えて書かなかったようなことも、全部書いていた。

それ、やめた方がいいよと、そういうことなんだろう。
まだ、時期尚早だったんだろう。それこそ、炎上するようなことだったのだろう。うん、落ち着いて、冷静になって、結果、それがよかったことだったと、何か、そう思えてきた。

取りあえず、思い出せることだけ書いてみるか。

とにかく、こまめな保存は、本当に重要だ。


まず、「自殺」が、論理的に、正しいという結果になったということだ。

自殺

なんだっけ?(かっこ笑い)

いや、大真面目に、書いていて、「実感」レベルで、そう思ったのだった、だから、本当に焦った。死ぬことが正しいってことになったら、今すぐそうしなきゃいけなくなる。

けれども、やっぱり、死ぬのが怖いんだな、ってことが分かった。それに至るまで相当な文量があったが、畢竟、死ぬのが怖いから、生きる意味とか、そんな「保留」にして、後回しにして、取りあえず生きているのだろうと。で、その死の恐怖からの解放されたければ、さっさと死ねばいいじゃんと、まぁ、そういうことだ。まとめると短いな。いや、もっとたくさん表現してたのに……。

ああそうそう、何でそんな話になったかというと、旅行の帰り、ネカフェによって、「シグルイ」って作品読んだからだ。
その作品で、切腹して自分の大腸引きずり出して、真剣の御前試合などやめてください上様、と家臣。それを見てほくそ笑む城主。それをみて自分の行為が無駄だったと実感し、「暗君……」と息絶える家臣。

無駄死にじゃねーかと。無駄死に、ホント、無駄死に怖い。
そんなシーンが描かれる作品だったら、そりゃあ、最後は何かあるんじゃないかと、最後まで見てしまう。とか。そんなこと書いていたような気がする。
ただグロいだけの作品って、暗澹とした気分しか与えないだろうと。

でも、だからといって、ポジティブな作品があふれれば、そのポジティブな作品は揺らぐだろうと。何故なら、ポジティブは所詮、ネガティブの相対概念に過ぎないのだからと。

あと何だっけ

とにかく、メモしなきゃというか、非常に、何か一つ、展開できる気がした、何かがあったのだけれど、それは一瞬のことで、それは、結局、自分の中にまだインプットできるほど確かなものではなくて、だからこそ、書いておかなければと、本当に、強く強く思ったことがあったけれども、何だか全部消えた脱力感で、なんかもう今日はダメだ。


ただ、ああ、そう、「炎上」の構造について書いて。
だから、文章で、他者に自分の内面を伝えるってのは、本当にリスキーで、しかもリターンは少なくて、バカバカしい行為だと。だから、他者を頼っても無意味なんだと、そんな風に書いてきたのだけれども、それと同時に、自分の中に、どこか、分かってほしい、理解してほしい、そして、
そして、いつか、一緒に考えてくれる誰かが現れないかと、そんな風な、滓かな思いも、確かにあったと。

だから、……、ああ、ここからは、書いて消えたことの思い出しではなくて、ようやく、現時点的な浮かんだことだけれど、先般のカバネリの考察記事で感激したのは、その考察記事自体の物語性も一つであるが、その、僕があんまりおもしろくないなと思った敵についてだ。

その敵、「父親が憎くて復讐する」という目的しかないと僕は思った。けれども、同時に、でも確かに、そんな敵に、カバネというゾンビ軍団をメッタメッタ倒せる実力をもった多くの部下たちが付き従うだろうかとも思ったのだ。

だから、違和感はあったのだけれども、それゆえ、その程度の目的しか持たないけれどもイケメンで強いから多く部下を集めることができた、的な、軽い物語であるのだと、そう思ったから、後半が面白くないと思ったのだ。


いや違うと。

そうじゃねぇと。その敵は、本当の強い心を、恐怖に打ち勝つ心をもっていたのだと。

その一本筋が通った洞察に震えたのである。


で、次に、ここからは、考察記事自体ではなくなるが、「一緒に立ち上がろうぜ! 人類の未来のためには、こんな塀の中で暮らしていてもいずれジリ貧になるだけだ。外にうってでなければならないんだ!」とその思い、それが、実は、僕が、押し殺そうとしていた思いの一つであったと、イケメンでも強くもない俺なんだけど、その点に非常に共感したのだった。



誰も頼れない。

けれども、どこか、一緒に考えてほしい、と。
一緒に戦ってほしいと。

その思いって、とっても、辛く重いものだと思う。だから、そうだとしたら、同じく熱い思いを持って、カバネを駆逐してやるって立ち上がった主人公を、自分がもう助からないなら、死なすわけにはいかないと、最後に助けるのも、よく分かるのだ。それはなんと悲痛な希望か。
(完全に余談だが、カバネリの主人公は非常にかっこよかった。fateのシロウくんみたいでよかった。シロウくんほどの過去は抱えていないように思いつつ、その過去が重ければ偉いのかってそんなわけじゃないしその点は構わない。辛い過去を背負ってないと「熱い思い」のリアリティがないかなんて、そんなことはない。それこそ、「比較思考」――自分より辛い人はいる、とかそんなこと考えても無駄だ)








データ喪失の心的ダメージ

ああ、でも、ほんと、時間を無駄にした。
いや、思い出せない思考なんて、所詮無駄なんじゃない?

いやいや、そういうものじゃない。ホント、その流れ、そのとき、その環境、その気分、その状況でしか生み出せないものはある。
それを公開していいものかどうかとか、これをアウトプットしていいものかと、そういう、自責と、虚飾と誠実さとの狭間に悩んでいると、結局何も書けないとかが発生する。

ああ、ちょっと思い出した、ある精神科医のブログにおいて、「昔は黒歴史たくさんネットにあふれてたけど、今やエセ黒歴史ばっかになって、もうやめた」ってのを読んだのと、ある40代のバリバリ最前線で働く方の「そのうちAIで仕事なくなっちまうかもしれないが、いやぁ、変化があるから人生って楽しいもんだな」ってのを読んだのも、思考に展開があった一要因だった。

けれども、もう紡げない。


そして、この記事のタイトルも消えて無題となっている。

よし、じゃあ、この記事のタイトルは、こうしよう。今日は以上。

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虚ろな瞳を見開き床から起きた
2016/10/13 00:00 | Comments(2) | イライラ対処
この感動をメモしなければならない、その思いだけで、指を動かす。

カバネリの感想を書いた。そして、それの考察を書いた方のブログをよんだ。

す、すげぇ。

なんだ、これ、この考察ってのが、こんなに面白い物語になるってのか。
正直自分は全然、、そんな風に思えなかった。
もし、そんなイケメンサイコだったら、親父との郷愁とか描写としていらなかったし、いやあってもいいだろうが、その目的に関する描写がもっとあってよかった。

無名ちゃんをいいように利用する悪いやつぐらいにしか思えんかった。

金剛郭前の駅で、城主殺すのとか、あれって単に見捨てられた恨みを果たしているようにしか思えなかった。そしたらミスリード過ぎる。親父への恨みとかじゃなく、理想を果たそうとする行動なら。俺はもっとこの物語に……

あの、親父の寝所できりつけられたしーんも
余計だった。幼心がトラウマに……的な描写だと思ってしまった。



そうか、でもその解釈なら、彼が主人公を救ったのも、非常に納得だ。


とにかく、やっぱり、いい物語を創れる人は、他のことさせてもすごい能力を発揮するってことだなぁ。

駄文書いて悦に入ってる場合じゃねぇ……。



しかし、今日は飲み会で、思考を回すには少し状態が悪い。
しかし、今日の少人数の飲み会はよかった。

うん、なんの気兼ねなく、このぶろぐのような 語り口調で。
こういうのも、悪くないなって。





時系列を整理



まず、昨日、24時を過ぎて、その、すごい考察記事を読んで、僕が感じた神的体験を描写しよう。今日の飲み会のことは、まぁ、取り合えず置いておく。

何となく自分は、他者に興味を持ちにくい心性があるのかもしれない。尊敬できる人物は、という面接の問いに、非常に悩んでしまう。尊敬ってなんだ。すごい人はたくさんいるが、それは、どこか自分が目指そうと思うような人ではなかった。

確かに、僕の思考に影響を与えたあの人は、本とにすごいというか、見習いたい、目指したいと心底思った。
しかし、リアルの場所であったこともない人、確かに電話で会話もしたけれども、そんな人を、リアルの場所で尊敬できますなんていったら、逆効果になる。

であるならば、自分の親です、とか当たり障りなく評価をさげたほうがましだとすら思う。



昨日思ったのは、完全なる平伏心である。雷にうたれたかのような衝撃。

まさしく、自尊心が粉々になった心境。

そんな強い感情を引き起こす文章であった。



だめだ、なんか足りない。

僕が感じたあの衝撃を、こんな、僕の表現では表せない、屈辱だ、悔しい。


自己表現



同年代だと思われる彼の方、もう、やはり、年齢とか、こうなってくると全く関係ないなと思う。
歳くった人でも、そこそこな人はいるし、若い人でも尊敬に値する人もいる。

俺が不幸だったのは、どこか、心底尊敬できる、目指したい方向性が一致した、素晴らしい人に出会う機会が少なかったことか。
いやすぐさま言うべきは、俺のこれまでの友人たちは悪い人ではなかったし、俺より成績はよかったし、できることもたくさんあった。
しかし、尊敬、目指したいという思いにはなってなかったように思う。


ああ、なんか、、だめだめだ、前半は眠い目を擦りながら書き始め、今は、酒と眠気で、何か考えようという気になれない。

けれども、この、体の不調においても、なお、書いておきたいと、残したいと、そんな思い。

この今の不快感は、明日、明後日読んでも、きっと、分からない。

この、言葉における伝わり方。
これが、GOMAさんの本を先日読んで、きっと、相当な苦しみがあると、想像はできたけれども、いまいち実感としては伝わらなかった、まさにそのことを、自分でやっているのだ。


しめのラーメン



そしてふらふらと一人ラーメン屋に。
お腹はつらく苦しいが、油をくちにはこび、心地よい美味しさと、身体を痛め付ける感覚が、どこか心地よい。

食べ終わり、ふらふらと歩き出す。

風が冷たい。でも、不思議と寒さはない。

人通りの少ない道を歩く。




価値があるでもない

意味があるでもない

大切でもない

正しくもない

普遍でもない

答えでもない

生きているでもない

思考でもない


ただ、身体が思考にうったえる苦しさと、そして恍惚さ



耳に流れ込む、最近思い出した昔よく聞いていたアーティストの曲


ただ

このとき、この瞬間


このまま、どこまでも

ずっと歩いて、



そして意識が
なくなって





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人生の計画を立てようとして失敗
2016/10/12 22:03 | Comments(0) | イライラ対処
「時間切れ、仕方がない、今日の夜にまた続きを考えるか」
と書き残し、24時前の帰宅となり、風呂入って寝たのが昨日のことか。この頃感じるのは、時間感覚の早さ(速さ)だ。仕事をするようになって、早いなぁと感じるようになった、とどこか書き残したことがあったけれども、その当時よりも、もっともっと早い気がする。

意外と、55歳、80歳、あっという間なのかな。

しかし面白いのは、「気分」による文章の盛り上がり盛り下がりである。
少し生活が軌道に乗って(と思えて)いるときは、昨日の記事は、何とも醜くつまらないものに思えた。一方で、今日とか、何とも無性に落ち着かずイライラとしたときは、昨日の記事は、とても面白いものに思えるのである。

だから、進撃の巨人で、ハンジ・ゾエさんが、「価値があるかどうかは我々が決める。みみっちい貴様の自尊心なんてどうでもいいから、話せ!」といったのは、重要なことを言っていて、これは何も他者に限る話ではなく、自らの思考・日記においても同様だ。

今、この時点、なんとつまらない、非論理的で感情的な、面白くないことだ、大したことないことだ、と思っていたとしても、その「気づき」は、未来の、もしくはまだそれに気づいていない誰かのためになる可能性を秘めているのである。

ある大学生ぐらいの会話

食事をしているときに、隣に座ったカップルと、別の女の子グループの会話が聞こえてきた。
席を立ったタイミングも別だし、カップルとグループの関連は全くないのだけれども、奇しくも、話している内容は同じだった。

知り合いのことであった。

・共通の友人・知人の誰誰が、実は隠れアニメオタクであって、気持ち悪いよねー、うんうん。あー、○○も、意外と結構そういう知識あるみたいだよー、えーそーなんだ。

・あいつさぁ、ほんと、趣味がおっさんなんだよな。そうなんだー。結構突然わけわかんないこと言ったりして、気味悪いよねーうんうん。そういや▼▼はさ、メール返信めっちゃはやいんだよ。暇なんだなw


的な。(大いに脚色している)

なんだか、どうにも、そういう、人のうわさ話ってのが好きじゃない。
きくのも、自分でもするのも好きじゃない。じゃあ聞くな! というが、大声でお話しを楽しんでおられて、きこえてしまうのだ、本当にイライラするときはイヤホンだが、しかし、何故そういった、人のうわさ話的なのが好きじゃない、不愉快に思うのかをちょっと考えてみようと思った。

まぁすぐ思いつくのは、自分がされたらイヤだなぁと思うからだ。
笑顔で接してくれていた人が、実は裏で、「あいつキモいんだよなー」とか言ってたら、すげーショックだろう。
それよりだったら、初めから冷たくされていたほうがましだと思うのは、まぁ特段ひねくれた心性でもないと思う。ところが、大体みんなそんな感情を抱くはずなのに、何故か、多くの人は、うわさ話をやめない。それがやっぱり、「楽しい」からなのだろう。仮想敵みたいな。共通の敵を(敵ってほど大げさじゃないのだろうが)つくることによって盛り上がる心性なのだろう。

これ、大学生だけじゃなく、例えば仕事場で、嫌な上司の陰口とか、使えない同僚に対しての嫌味とか、結構盛り上がるものだ。かくいう僕も、その場のノリで合わせてのっかってしまうこともあるため、何ともいえない。

故に、ここでそういった、大学生とか、社会人たちの批判をしたいというわけではない。
ただ、不愉快な気持ちになることは間違いないという確認をしておいただけだ。

それにこれは非常に難しい問題をはらんでいる。

何か成果物に対して、「つかえないなー」「うわ、これ低レベルだな」って思ったとしよう。
その時、それを直接、例えば部下とかに、「これゴミ屑だよ。すぐやり直して」って直接的に伝えることの無意味さもまた、明らかであろう。改善を要求するのであれば、それをうまく伝える「表現」が必要になる。

「この点はよくできているけれど、この部分をもっとこうしてくれな」
と、褒めつつ改善策を提示するってのは、嘘偽りをいっているわけではない。ただ、上手なコミュニケーションを図っているだけである。

一方で。

そのために、心に生じた、「うわ、これダメだな」って思いを、ぐっと、押し殺しているのである。

その思いを、気の置けない仲間同士になったときには、本音で、「あいつ毎回同じ失敗してくるんだよー。まいっちゃうよな」って、バカにしあうのである。


ということは、提灯ぶらさがった居酒屋で、サラリーマンが愚痴を言い合うってのは、「意識高い系」に批判されがちな事象ではありながら、実は重要な心のバランスをとるための手段なのかもしれない、ってわけだ。
(まぁ、そのこと自体に、僕はカタルシスが得られにくくて、逆に不愉快な気持ちが生じがちだってことが問題なんだけどな!)

ある、精神科医のブログにおいて、電車の中で死んだ目をしたサラリーマンは、死にかけてるんじゃない、エネルギーを充填してるんだ! と書いていて、ああ、やっぱりこの方は面白いな(お医者様に向かって何て上から目線だ!)と思ったものである。

日常の描写の意味

と、こんな風に、日々の経験を、自分の思ったことをベースに解釈し表現するってのが、日記だと思うけれども、正直、こんなこと書いてる場合じゃないんだけどな、って思いもある。
こういう、「高尚な視点」的な内容については、それこそ、お医者様とか、弁護士様とか政治家とか、芸能人とか、価値ある高尚な職業や仕事をしている方たちが、面白おかしく書いていればそれでいいのではと思う。

一介の凡人の僕が、こんな「ちょっと人と変わった視点で物事みれてますよ」的な、自慢にならない自慢風に感じられること書いて、何になるってんだ。

くだらない、面白くない、ばかばかしい。

……という判断を、今の俺がすべきじゃないってのが、ハンジさんの教えだ。明日読めばちょっと面白いかもしれない。明日がダメでも、10年後は違うかもしれない。そんなもんでいいと思う。

先日掘り起こした10年前ぐらいのログたちは、当時、別に誰に見せるつもりでもなく、ただ、書きたいから書いていた。価値がどうこうなんて、思ってもいなかった、と思う。価値があるか、ないか、そんなこと考えるだけ、無駄だ。

マイナス思考的な言葉や事象

よしではもう一つ、ニュースなどから感じたことを書いておこう。

100時間残業自殺問題と関連して、朝5時から夜23時まで、休日は一切ない職人を育てるをキーワードにした企業が、物議をかもしていた。完全に労働基準法違反だけれども、「自主的に」頑張っているからよいのだそうな、よくわからんが。

一方で、17時退社を、会社の厚意で許可した会社が業績をぐんぐん伸ばしているというニュース。ノルマや、業績評価や、時短のための取り組みが徹底していて、17時になると職場には誰も残らないという。一方で、業績もあがっていると。


なんだか、こういったニュースとか、本とか、記事とか、見たり読んだりしていると、何だかイライラしてくるんだよな。
この理由がよく分からずに、大学生の会話でイライラすることを対比させて、何か分かるかなって思ったのだが、うーむ、よく分からない。

なんだ、まぁ、それはそうと、こうやって、考える時間を作れているっていうこと、そのこと自体が、とてつもなく幸せだと、恵まれていると、それは思う。
ジャングルの中でゲリラやってるうちはこんなこと考えてられない。
コンビニバイトしてるときに強盗にあって、ナイフ突き付けられてるときに、「我々はどこからきたのか、我々とは何者か、我々はどこへ行くのか」なんて考えてられない。

ああ、考えよう、と思っていた時に、お酒なんて飲まなきゃよかった……眠くなってきた。
仕方がなかったんだ、イライラしてたんだ……。(誰へのいいわけか)

計画を立てる

本当は、これからの計画を立てようと思ったんだ。それも、結構長期的な。
2008年に立てた、5年目標は、直接的、間接的、形をかえて、増減はありつつ、達成された。

この事実に、僕は、イメージしたことは実現する、と、「ザ・シークレット」の引き寄せの法則的なものは、「信じている」。

散々いつも、スピリチュアル的なものをバカにして、つまらないといって、胡散臭いといっているのに、矛盾のように思えるが、それも単に「表現」問題であって、PDCAサイクルとかビジネス用語にしちまえば、つまりそういうことでしかない。

どんな言葉が、その人に「ビビッと」くるかってのは、一様ではない。イデオロギーの時代においては、思想誘導は簡単だったのかもしれないが、価値が多様化したときに、その人に対して訴えるための手段は、一様ではなくなったのだ。

だから、職人になる! として、朝5時から23時まで働かせようが、それは表現的に、「自己実現」とかいってみたら正当化され……るか、法律違反かは別の問題であるが、とはいえ、それでも、その会社に意義を感じる人、「ビビッと」くる人がいるから、何やかんや今の今までなくならず、上手く回っているのである。表面的な、単純な批判が無意味なのは、言うまでもない(クレーマーにも五分の魂だ)。

そして、例えば、引き寄せの法則だか、チャネリングだかよう分からんが、こういったことを、「論理的に」説明しようとしても無駄であり、批判も絶えることがなくなるのである。例えば、「思ったことは実現する」「ことだま」的な表現、これはじゃあ、ナチスやポル・ポトの虐殺など歴史的悲劇を生み出したのも、「望まれたこと」「意味があること」なんていえるのか、とか。

論理なんて、クソの役にも立たないことがある。ヴィトゲンシュタインさんや、ゴウタマさんだって、理屈を追求することを目的としたのではないだろう。

という、僕の上の表現は、反転して、論理が意味がない、というのでも、全くないということの表現なのだけれども、果たして、この自分解説がなくして、明日の自分が読み取れるかどうか、これまた全く不明である。

そして、計画を立てる、という目標・目的からどんどん離れていくのは、これは何だ。
論文などでは、ここで、ここから上の行を、すべてデリート、となる。それでまた、振出しに戻って頭を悩ませることになるのだけれども、この、何の役にも、何の主張にもなっていないような、そんな無駄文章があっても、いいじゃないか、と、そんな風に思いながら、いやでもこれやっぱりいらないよな、って思いで苦しんでいたところに、「あ、たまに読んで面白かったッスよ」とかコメントくださった方がいたりして、これはホント嬉しい。
この、嬉しいとか楽しいって感情、これを大事にしていかなきゃ、これからどんな計画とか行動とか思考したって、いずれ失敗に終わるってのは、何となく、それこそ根拠も論理もないけど、何となく分かってきた。

努力信仰の崩壊

頑張れば幸せになれる。

もう、この格言は一切信じていない。

頑張る、努力する、苦しむ、痛めつける、悪いことがあったらそのうちいいことがある……

ルサンチマン、怨恨、法界悋気。

「今しっかり勉強したら立派な大人になれますよ」

「なにか楽しいことないかな~」

「そのうち幸せになるさ」

「今頑張らないでいつ頑張るんだ」

うるせえ。

「あるべき姿」
「目指すべき理想」

やかましい。


他者への批判。陰口。嫉妬。

本当に、いろんな言葉に、人に、ずっと翻弄されてきた気がする。
いい加減、自分をしっかりもって、自分の思うがままに生きていこうじゃないか。

こうして、ようやく遠藤は自分の生きる道を歩み始めるのであった――。

まだまだ続く

なんて、簡単にハッピーエンドになるなら、今日の今までこれほど大量の駄文を要していない。

そもそも、「自分」ってなんだという話しだ。

むしろ昨今の教育においては、個人が重要視されている。一人一人の感じ方や考え方を大切にしましょう、的な奴だ。その言葉は、確かに聞こえはいい。どこかのヨットスクールとか職人要請会社的な画一的で絶対服従的な指導なんて、前近代的で唾棄すべきように思われる。

ところが、人は一方でタブララサ(白紙)なんじゃないか、と。真っ白で、いろんな環境で、いろんな人の中で、人格が形成されていくものなんじゃないかと。

自分とは、他人を映す鏡みたいなものなんじゃないかと。

心は、他者の気持ちを理解するため、危険を回避する行動をとるための防衛機能として発達したものなんじゃないかと。


であったときに、「自分をしっかりもって!」と、「自分の生き方」ってものを求め、見つめて、探していく方策に、何ら意味があることなのかと。


考えれば考えるほどに、自分という欲望が薄くなっていくのを感じる。

「生きてる意味ってなんだろう、ずっと考えてきました。でも、最近は、死んじゃった方が得なんじゃないかって思うようにもなりました」

と、表現されていた方がいらっしゃった。
僕はその表現における「得」って言葉が、多分、僕の頭の中だけでは出てこない表現だったから、とても感銘をうけたわけだけれども、とにかくその感覚、別に今すぐ死にたいとか、難病に冒されて何もしなくても身体が痛いとか(そういえばインフルエンザになって40℃近い熱に何日もうなされた)ではないが、何となく「何で生きてんだろう」という思いが、いよいよもって切実になってきている、気がする。

すぐさま書いておかなければならないのは、きっと、今暴漢に襲われて、命の危険にさらされたら、きっと僕は、無様にも情けなくにも、「死にたくない!」と叫ぶのであろうが。


で、反転して降ってくる思考として、いわゆるこうした「ごちゃごちゃした」思考というのは、結局「死からの逃避」なのではないかと。これは、ジョルジュさんの本を読んで思考強度が増した部分である。

死にたくないという思いと、身体の健康度が強い人は、脳が、発狂しないように、認知の度合いを下げて心の保全をはかるのではないだろうか、というのは完全に今思いついた暴論であるが、取りあえずメモしておく。


ああ、でも、本当に、真面目に、「計画を立てる」ために書き始めたはずなのに、その意味では完全に失敗した。しかし、眠気が高まりすぎて、もう、今日は終わり……。

(そしてまた駄文が積み上げられる)


追記(些末な修正)

どうも、「物議を醸す(かもす)」が正しいのだけれども、勢いで書いていると、「物議をかます」って言ってしまったり書いてしまったりする(議論を呼び起こす・引き起こすという意味よりも、「喧嘩を吹っ掛ける」的なニュアンスが自分の中で強いせいか)。ちょっと恥ずかしいが、あまり言葉の意味にとらわれていると書こうと思ったことが吹っ飛んでしまうことがあるから、勢いは時おり大事。
一方で、正確に言葉を使わないと、自分の思考もまた正確に表現できない。それは、他者に読んで理解してもらうという意味もありながら、結局、言葉は「概念記憶」の集合体であり、正確な意味を追ったときに生じる「違和感」を大事にすべきとも思いメモ。

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