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試験勉強規則と小説感想(批評?)
2019/05/13 22:39 | Comments(3) | 目的・目標
今日の一言「細切れ時間を有効に使うのが受験の秘訣」「難易度高い」

前書き

 今日の一言で書いたテクニーク的なものの本質は、「やる気」の維持にあると思う。要するに、まとまった時間の確保、というのはある程度「意識的に」やる必要があって、「いざ!」ということである。
 そうではなくて、5分でも、いや1分でもその目的にかける時間を使うというのは、その目的に対する行為のハードルを下げてくれるということでもある。

 どうしても困難な課題にぶちあたったら、「機械的に時間を作る」ということを試してみるといい。新しい言葉を作ったわけではない、要はいつも書いている「ルーチン」の活用である。

 ということで、意外と前回やった「規則」を作るのが楽しかったので、記事タイトルの奴を作ってみる。

試験勉強規則

第一条 本規則は、4月または10月の試験日の前日まで適用する。
2 試験日から合格発表までは適用しないこととする。
3 第2項において不合格であることが分かった日から、次の試験まで本規則を適用することとする。

第二条 平日は、帰宅時間が20時前のときは、テキストの1節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。

第三条 休日は、イベントがある場合(12時間以上一人の時間が確保できない場合)以外は、テキストの2節の音読を行う。
2 第1項において、1節が4ページ以上ある場合は、必要に応じて分割して構わない。

規則について雑感

 適当に作っておこうと思ったが、いざ作ってみると、第一条の第3項がエグい
 不合格を想定しているというのは、マーフィー法則的によくない気がするぞ。が、しかし、ここは奮い立つ的な意味でこのままにしよう。
 これ、不合格だと永遠ループになるってことだからな。

 そういう意味で、規則を作って、さすがに今回はやってないが、部屋の見えるところに紙で貼っておく、というのは有効だと思う。

 もちろん、あんまりたくさん規則ばっかり作って、自分で記憶範囲外になってしまったら全く意味がない。

小説を読み進める

 自サイトに投稿されている作品が増えてきて、読まなきゃと思っている。
 しかし、これも、「やる」と決めないと中々進められない。
まぁ、ご無理はなさらず、都合の良い時にどうぞ。……嘘です!!!!! なるべくはやくよんでほしいです!!!!!!!!!!!(涎)
 発破をかけられたので、通勤など、細切れ時間でも読み進めることとした。

 なんのことかと不明な方は、すぐさま以下にて読むのである。

シロガネ⇔ストラグル

「激辛批評」希望作品なので、利き腕をぐるんぐるん回しながら、さーていっちょやったりますか、的に思っているのだが、いかんせん、一気読みできないものをどう着手すればよいか、やや戸惑うところである。
 とりあえず、気になったところを、スマホでメモしながら読み進めていくほかあるまい。

数日後……

「道化師とは一体……うごごご!」

 まで読み進める。
 オークたちとの戦闘や、アゴス神の登場シーンなど、圧巻である。
 なにより、敵の「道化師」がいい感じに謎めいて、中盤へのストーリーの期待を膨らませてくれている。

 しかし、
「あのーなんかいい感じにいい感じでアレしてください」
 から「道化師うごごご」までが、ちょっと間延びして感じた。
 いい表現が浮かばないが、要するに、もっとコンパクトにしていいと思った(個人の感想です)。
「さぁ王国救いにいくぜっ!」
 というシーンから、ひと呼吸おきたくなるとはいえ、オブスキュアや世界観の説明をある程度盛り込まないといけないとはいえ、しかし、もうちょっとテンポよくいきたい気がした(個人の感想です)。


(かっこ書きである。清書的なまとめ的なのをせずに、こうやってポツポツ感想書いていくのってどうなのか。基本的にこれまでは、全部まとめてから、必要に応じて2度読み、3度読みしながら感想や批評をまとめていっていた。が、おそらく、今回は作者さんのプロモーション的にも、早めにレスポンスした方がよい気がした。――とにかく、前提として書いておくべきなのは、「面白い」のはもはや当然の域であり、これが「超面白ィぇぇ!」になるにはどうしたらよいのかを考えながら感想など書くつもりである)

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ブログルーチンを復活させる
2019/05/11 14:24 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「定期的な目標が必要」

前書き

 今、小見出しを考えてしまった。最初の小見出しは「前書き」で決まっているのであった。それすらも忘れていた。思い出せたが。
 時間が立つとこうなってしまう。よくない。ということで、ブログルーチンを復活させよう、と思った。

目標

ブログルーチン規則
本則
(更新回数)
第一条 週に1回以上更新する。週は、月曜日から日曜日までを単位とする。

(更新日)
第二条 更新日は原則土曜日とする。平日に更新した場合も回数には含めないこととする。

(免除規定)
第三条 土曜日にイベント(半日以上一人になれる時間がない場合)があるときは、ルーチンを免除とする。ただし、この場合は、可能な限り事前にスケジュールを確認し、土曜日以外の日に更新する。

附則
(施行期日)
第一条 この規則は2019/5/11(土)から施行する。




 ルールを日本語で表現しようとすると意外に難しい。

 上の意図としては、基本土曜日(0:00~23:59)には更新する、と。
 平日に更新してもよいが、土曜日更新はする。
 ただし、土曜日更新がイベントによってできない場合は、土曜日以外の日の更新をルーチンの1回にカウントする。

 ということだ。

面倒くさいのでは

 こんなルールなんてもんを考えるのは面倒である……のか?
 面倒である。しかし、面倒とは何か。不快で煩雑で煩わしいことだ。
 しかし、シンプルなルールは、あった方が整理しやすくてよい。
 ここでの整理とは、自分の行動についてだ。

「あー、今週の土曜日どうしようかなぁ」
「あー、あの仕事来週重いなぁ気がかりだなぁ」

 とか、人間は感情的である。
 しかし、ルール(ここではルーチン)があれば、とりあえずそんな感情はわきにおいて、やることはやる必要があるのである。
 んで、実際行動していると、気分が変わって爽快になることがあるのは、みなご存知のとおりである。

 だが、ポイントはそこではない。
 ルールはあくまでも、「主体的なルール」であるべきだ。
「前からそうだった」「無理やり従わされている」
 という状態では、決して、行動をしたとしても気分爽快になどなりゃしないのだ。

 だが、じゃあ、一からルールを全部考える必要があるか? というと、そうではない。
 今回、ルーチン更新規則を文章化してみたが、面倒くさいと感じる人もいるだろう。一から書く必要なんてない。あるものを使ってもいい。
 すでにあるルールを、そのまま理解せずに「行動」だけすれば、それは不快である。
 そのルールを理解し、自分の中に落とし込んでやろうとすれば、それはもう「自分の」ルールなのである。


(かっこ書きである。「忙しい」――これは言い訳ではない、実際問題そうだ。だが、だからといって、「本来するべきこと」をしないのは道理に合わない。仕事が仮に大事だとしても、俺はやはり「創作」「生きる意味を徹底して考えること」を大事にしたい。それに繋がっているかどうかは別として、そのきっかけには間違いなくなっているのはこのブログである。それを更新しなくなるということは、人生を捨てたも同然である。もしくは、「忙しい」仕事に人生をすべて投げ打つという選択をした、ということになる。それも悪くないのだろうが、「仕事」は裏切る。「組織」も裏切る。――このながれで、「人(他者)」も裏切る……を足してもいいが、そこまで書くと非難轟轟度が格段に高まるのでやめる。人は集団に属してしか生きられないが、集団のために生きるのではない、という前提において、果たして個人の生きる意味というのは存在するのか、というのがテーマである。ここでもちろん、集団を、ライフステージごとに変えていって、そこでの意義を最大限高める、という生き方が通常であると思うが、俺はそれに非常に懐疑的である。だからこそ、それを、「忙しい」とそっちのけになってしまうが、忘れないために、ブログは大事だ、というのが本記事の目的である)

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一週間の振り返りを試みる
2019/01/14 23:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「良かった」

前書き

 小見出しが「前書き」固定だと、書き始めは至極スムーズだということが分かった。
 しかし、さぁ、何をかこう。

 小説を、読もうかと思う。
 インプットなくして、アウトプットなし。
 インプットとアウトプットは、等価交換、エネルギー保存則は適用されないが、無関係ではない。

 インプット + 自己思考 < アウトプット

 という図式が成り立つ。
 等号(=)ではなく、不等号(<)であることがポイントだ。
 要は、インプットに対して、自己思考(単に何か思うこと)が発生することによって、インプット以上のアウトプットが生じるのである。

 何かの記事で、「自己啓発本を読んだとき、「へー」って反応をしている奴はダメだ。「そうそう」って反応ができるようにならないと、本を読んだって何の意味もない」といったのを見かけた気がする。
 要は、「へー」は、「すごいな、そんなことあるんだ」といった感動しているようだが、「他人事」なのである。自分で活かそうという気概がない。
 一方、「そうそう」というのは、自分も似たようなことを考えつつ、それを「確認する」という作業をしているから、より自分に引き付けて思考できているからだ、ということだそうだ。

 ま、それの真偽はともかく、

 インプット = アウトプット

 になっているようでは、パーソナルコンピュータに適うわけはない。外部ストレージに情報を保存するだけだ。
 文字や、静止画だけではない。ビデオカメラの情報は大量だ。
 いやもちろん、カメラの視点のあわせとか、どの被写体をとるのかといったことは重要だろうが、そういう意味ではない。単に、インプット情報を保存するだけならば、ビデオカメラで撮って保存したほうが正確で速いというだけだ。
 人間がやろうとすれば、上の「等号(=)」すら成り立たない。

 インプット > アウトプット

 程度だ。僕が上で見た自己啓発本を役立てようというような記事も、僕のつたない記憶力にかかれば、上に書いた程度しか再生できないのだ。
 しかし、これは僕の能力の多寡はともかくとして、誰しもそうだ。
 インプットに対して、単純に情報を「丸暗記」しようとすれば、絶対に「インプット>アウトプット」になる。情報量によっては、せいぜい、等号になるかどうかだ。


 んあー、長い前書きになったな。
 上のことはどうでもいいんだ、要は、「自分の思考」部分が大事だということをメモしたかっただけに過ぎない。
 

自分の思考

 まぁ、上のようなことを見かけたとして、「え、当たり前じゃね?」と思う人が大半だろう。
 ただ、それを文字起こし(ブログに書く)ということの意味は、ただの記録、という意味にとどまらない。

 何故ならば――。 

 てなことを書いていたら、やっぱり、投稿するのを躊躇ってしまった。
 躊躇って、しばらくして読み返したら、うーん、やっぱり、どうなん、これ、別にいっか……とか思い出す。

 まてまて、落ち着け、年初の方針はどうなったのだ。
 ここで怠けてしまうと、一年結局似たような感じで、「ま、いっか」とかいいつつ全然書かないことが始まる。
 そうすると、10年後ぐらいに、「2019年ってどんな感じだったんだろ」と思って読み返したときに、「え、記事、たったの4つ……」とかなりかねん。


 ――という思考自体がすでに「興味深い」なのである。
 何故ならば、おそらく、逆に10年前の自分に問うたら、「10年後の自分――」なんて、まちがっても書かなかったろうし、書いたとしたら非常に皮肉的な意味合いで書いたであろう。未来に対しての悲観的観測。

 そうした転換期、転機ってのがあるはずなのだ。
 どこかで、自分は変わっている。その変わっている「瞬間」なんてものはない。
 1秒で変わることはない。

 しかし、その、ある程度長い期間を範囲指定(スコープ)してみると、その「変化」的な奴が少し見えたりするのである。

良かった理由

 ああ、ええと、だから、今回はとにかく投稿する。支離滅裂で恥ずかしいけれども、まぁこれはいつものことだ――しかし、いつもはそれほど恥ずかしくない、何故なら、「勢い任せ」だからだ。勢いがないと、つらいなぁ……。

 とか言っても仕方がない。ノルマ的に課す。

 構造的にだな、
・今日の一言で、一週間(ぐらいが)「良かった」or「悪かった」か
・前書き
・何か本文的なの
・一週間の振り返りの理由
 といった感じで、週1を目指していこう。曜日も決めよう。基本土曜日の夜――ダメなら日曜日の夜。
 それ以外の単発で何か書くのは含めない。

 こんな感じでいこう。
 そうだな、期限も決めないとよくない。取り敢えず3月までやる。絶対。

 何だかんだ、ブログ(か日記か、ログか)書いていないと、俺はやはり、自己コントロール感が抱けないようであるのだ。
 だから、やる。
 ただ、効果のほどはどうか分からないし、「続ける」ためにも、期限がないとよくない。3月まで。もっと具体的に書いた方がいい。

 3月30日(土)まで。

 よし。気持ちは少し前向きになった、気がする。(こうやってちゃんとカレンダー見ると、2月3週目と、3月の2週目は土曜日使えなそうだな……とか未来の休日の予定とかも考えないといけなかったりする。これはいいことだ)

 え、あえ、……ああん、「良かった理由」書いてないじゃん。

 あーそうだな、なんだろう、取りあえずそんな悪いことはなかった。仕事とかプライベートの予定とかが不確定的な状況でヤキモキしたりして気分悪くなったりしたりしたが、結果的には上手くいったし、出かけたのも楽しかったりしたから、よかったと、思いまーす(小学生並み感)。



(かっこ書きである。かっこ書きが一番落ち着く気がする気がするが、気のせいかな。自分、友人少ない自負がある。俺が友人と思っていて、相手がどう思っているか知らない人も更に多いから、双方友人認識のは本当に少ない気がするのだ。ただ、別に困ったって思ったことは特にない。友人や知り合いが多くて、週末いつも誰かと出かけたりしている人もいるし、いたけれども、特に羨ましいとも思わない(ただ、「彼女」という存在は、きっととても素晴らしいものなんだろうなぁと、二次元的エフェクトによって、法界悋気だった)。なのである故、その、友人というか知り合いから、お出かけ的なお誘いを受けたとき、取り敢えず躊躇するのが分かった。いやその、行けば楽しかったりするのであるが、何か、休日はゆっくりしたかったりするのである。そりゃあさおめー、毎週一週間が4日仕事で3日休日だったりしたら、じゃあ一日くらいはお出かけしよーって気にもなるが。たまの三連休とかそういうんじゃない。毎週がそうだったら、少しは考える。映画見たり動画見たり漫画見たり小説読んだりサイト更新したり、寝たり、寝たり、寝たり――俺も色々忙しいんじゃい!(先週は外食に出かけた――おいしかった――が、今週は寝てばっかだったなぁ)――というプライベート的な誘いで、今週は「あーどっすっかなー」と、脳内リソースが結構消費された。平日の飲み会とかも、まぁその、他部署の人とか、上司とか先輩とのコミュニケーションも大事だし、そもそも「マジめんどくせぇ」人とは行かないから、行けば、知らないことも聞けたり、仕事の愚痴的なのも言えたりするから、まぁ楽しかったりするのである。が、早く帰れるなら、さっさと家に帰りたいのである。帰って、ぼーっとニュースやらアニメやら見て、好き勝手過ごす時間が楽しいのである。でもそれって、「現実的に」よくないことである。だから、倫理的思考(自己理想というか、理性)によって、「えーほら、そんな一人で家でこもってないで、友人やら先輩やらとちゃんと会って話したりしなさいよ」と言われ、一方で「えーでも、今日はゲームしたいんだけどなぁ……」とか思ったりするのである――ダメ人間だッ!! ……という人は、別に僕だけじゃなくて、少なからずいると思うから、それはまぁどうでもいいのだけれども、要するに、その「リソース消費」を減らしたいのである――あああ、全然書き足りないぞ! 全然説明足りてないぞ! もっと書かせろ! しかし、時間切れだ。あーこの、本文書いているときの「やる気のなさ」と、このテキトーかっこ書きのモチベーション(勢い)とのギャップは、どうにも、文字には表現しきれない。仕切れないけれども、もったいないから、何とか表現したい。こういう、「カオス的」なものを、記号化するのが言語であり、数学や物理はそれを「数値」や「数式」で表そうとする。数学や物理は、公式を暗記すれば解けるかもしれないが、しかし、「自然ってカオス!」という感覚がないと、絶対面白くないと思う。自由落下の法則も、中学生? 高校生で習って、速度を「v=gt」で表せるって、「へー」となるかもしれないが、そんな簡単なことでも、カオスな自然に法則があるって知るってのは、面白いことだと思うのである――って何の話だ)


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眠れない夜に書く今後のこと
2018/10/01 03:00 | Comments(0) | 目的・目標
今日の一言「台風」

 いろいろと、書きたいことはあったのだけれども、気づいたらあっという間に過ぎる。
 もう10月に入るのだ。
 今年も、もう3か月で終わる。いつも、例年を考えると、来年の目標を考えないとなぁと焦り始めて、結局年内に決まらずに、翌年の三月ぐらいまでに方向付けする感じである。

 そもそも、今年の目標って何だったのか。
 2017年の目標は覚えている。「整理」であった。2018年は、創作にもっと力を入れようと思っていたのだけれども、実生活に大きく変化があって(それはもちろん自分の選択であるのだけれど)、まったく想像と異なることになった。
 それは、悪い意味では、まったくなかったと思う。これまで経験したことがなかったこと経験できたし、感情的な面でも、安定的でいられたと思う。

 もちろん、それは良いことなのだけれども、僕は、これからも、やっぱり、この時間は大切にしたいと思う。
 それは、「書く」ということだ。

先日の目標:カクヨム更新

 振り返る。一つは、カクヨムに連載中の作品の更新である。といっても、このブログのリテイク? リメイク? リブート? 言葉はよく分からないが、編集作業であるといえる。あまり新たに書き足すことはない。が、逆に、とても大変であった。

 僕が、どれだけこのブログの場に甘えているのかが分かった。
 コメントなどくださる方々には改めて感謝を思った。

 誤字も、表現も非常に分かりづらい面が多々ある。
 ただ、なんかその、勢いというか、リアルタイム性というか、熱量は読み返してみると、ブログの方は感じた。編集してしまうと、その泥臭さというか臭気というか気持ちの強さとかそのあたりがなくなってしまう気がしたけれども、あっちの方は分かりやすさを追求しようと思う。といっても、元がこんなんだから、脈絡のなさを如何ともしがたい面はある。
 とはいえ、なんとか、複数記事の関連ポイントを探したりと、できる限りはしたつもりである。この、「やったつもり」という、言い訳がましい表現が嫌いである。はっきり言おう。時間ないなか、自分の最大限のパフォーマンスを発揮した、と。

 こう言い切ることが、僕は昔からできなかった。それが許されなかった環境だった気もする。
「頑張ること」「努力すること」というのは、子どもたちには、無限の可能性(かっこわらい)を開く大切なツールなのだから。

 でもそれって、精神衛生上よくないことだと今は思う。
 ただ、「自分」って境界線をよく分からない人が、勝手に線引きして、「俺はこんなもんだ」と思うのとは全く違うってのは書いておかなければならない。
 そうじゃなくて、「環境」「時間」「意志」など、全要素を含めて、これが今の限界だという感覚になるまで、力を発揮することが大事であるということだ。

先日の目標:サイト更新

 サイトの不具合更新は行った。自分でも使ってみて、しばらくたったけれども上手く機能していると思う。これは完了。
 サイトURL更新は、一応形上はやった。ただ、これだけでは完成ではない。
 リンク周りして、その報告をしたり、検索サーチの更新したりと、やることは多い。
 これは、リンク整理と並行して実施したいと思う。リンク切れのサイトさんや、何か交流がなくなってしまった(更新がもうされなそうな)サイトさんとかは、これを機に外さしてもらおうかと思う。
 リンク集ってもう時代じゃないのかもしれない。
 でも、僕は何か、サイト開設した当時の、お互いのホームページがあって、それぞれのリンクページに紹介など書きあって更新していった、あの時の感覚がなんか忘れられない。
 今は、個人の小説サイトとかあんまし流行ってないだろう。昔から投稿サイトはあったけど、今よりもっと個人のサイトも活発だったのだ。
 第一、「ホームページ」って言葉がもう使われないのが象徴していると思う。みんなWEBサイトっていうでしょ。
 今はもう、ベタ打ちでHTMLなんて打ったりする人は一般人ではいないんだろうなあ。

今後の思い

 それで、まぁ、ツイッターにでも呟くレベルなのかもしれないが、ここにメモしておこうと思う。

・サイトの読んだよボタンが自分自身もカウントされてしまう件

 これは、自分で投稿した作品と、ボタンを押した人が同じ人だと特定して、その場合はカウントから除外するという機能で実装しようと思う。どういった情報で特定可能かを調べるところから着手する(調べるって大仰だが、自分で作ったPGやDBでも少し経つと他人である)。

・感想別の作品ソート

 要するに、感想のついた順に作品を検索できる機能。その際に、感想希望のレベルも選択できるようにしたい。ふつーの作品検索の部分で、感想がゼロ件の作品を検索……とかはあるけれど、ちょっと使いづらいし見た目も分かりづらいため、これを機に改良したい。

・感想や批評の書き方についての随筆(エッセイ)

 前から頭の中では思っていたのだけれども、これを機にアウトプット。
 内容としてはこんな感じで連載しようかと思う。

・感想と批評・レビューの違い
・感想を書くのは難しくない
・作品を全部読んでからでないと書けないのか
・文章作法・誤字脱字の指摘はするべきか
・主観と客観について
・定型文を考える
・感謝の気持ちは忘れない
・良いところを見つけようとする
・良かった点から書くか、悪かった点から書くか
・評価の8つの軸
・絶対評価と相対評価
・作者の受け取り方は千差万別、ならば読者も然り
・5W1Hは普通に使える
・印象に残った場面を絞る
・感想が書かれやすい作品とは
・感想や批評は人のためならず

 逆に言えば、僕はこんな感じで感想などを書いているのだという、自己さらしでもある。ので、恥ずかしい面も多い。それに、そんなの当たり前だと思われるようなことが大半にも思う。
 ただ、そうはいっても、自分の言葉で体系的に書いておくというのは悪いことではないと思うし、本記事冒頭のとおり、「今の自分の最大限を発揮せよ」「敵は外ではない内にある」ということである(冒頭に書いてないことも書いてしまった)。

・自作品の進捗

 これが、先月中旬くらいのなかで、一番進捗がよくないだろう。
 だが、「くっそつまんねええ」と思っても、何らか書いておかないと、ゼロ、である。ゼロからは何も生まれない。だから、何かアクションはすべきだ。
 ……というのが、まぁ、このブログの、ゼロ秒思考、ゼロ秒アウトプット的なうんたらであるが、先日、カクヨム向けにまとめていたら、その文の多さに眩暈がした。よくまぁ、書いているものである。
 あんまり多すぎるのも困りものかとも思った。
 ただ……こればかりは、少ない文量では、「感情」がぜんっぜん伝わってこない、ってのはある。
 言いたいことは「疲れた」って一言だけなんだろうなぁって記事もある。けれども、ツイッターで「今日は疲れた」ってだけ呟いても、面白くないわけである。それが、現象学のエポケーについて触れられたりしていると、「あれ?」と、少しきっかけになるのである。

人は目的的に生きている

 変な時間に書いているので、変なことが頭に浮かぶのは仕方がなかろう。
 だが、僕は一つ、また今回も同じことであるけれど、最近同じようなことばかりいっているけれど、「書く」ということ、「書く」ことができる時間ってのが、ほんとに大切で、大事だなぁと思うのである。

 ああ、それで、ふと思ったのは、僕は、中学校ぐらいに、「人は楽しむために生きている」と思った。
 最近でも、その「楽しむ」という内実に変化はあれ、その方向性はあっているのかな、と思ったりもした。
 ただ、それは、「快楽を得るために人は存在する」というのとは、違うのではないかと。
 快楽はあくまでも結果であって、何かを為すということが目指されてこそ発生する付加価値的なものではないかと。

 そうすると、人は何のために生きているのだろうか。
 何か、目的のためではなかろうか。

 僕らは、「神」から、「自分」という制約を与えられた。その制約の中で何を為すのか、何を目指すのか。「意志」が不在であっても構わない。それでも、人は、何からの役割を為している。物語の冒頭に無残に殺されるサラリーマンであっても、物語にとって重要な意味があるように……まぁ殺されるのはまっぴらである。ただ、その殺されるってのも、若きウェルテルのように、愛に殺されるというのは、社会現象にまでなることもあるのである。

 我々は何者か。我々はどこからきたのか。我々はどこへ行くのか。
 いやそんな、「我々」のことはもうどうでもいい。私や貴方や僕や彼や彼女が、どうするのか。何を目指すのか、何を為すのか。

 モブキャラにはモブキャラの矜持をもって生きていかねばなるまい。


(かっこ書きである。なんか、後半、変になった。いやいつもか。ある、たまにこのブログに遊びに来てくれる友人が、「あんまリアルの人には知られない方がいいぞ」と言ってくれた。僕もまさにそう思う。やっぱり、僕は、変なんだろう。いや、それとも、物語を嗜む人はみんな変なのだろうか。ここで、「変ってなんぞ」議論はしても仕方がない気がする。人って、自分と異質なものを「変」って認識しがちだし。でも、なんかなぁ、こう、人と接しているときの、ふと生じる「生きづらさ感」ってのが、垣間見えることが昔からある。あー、そう、今思い出したが、最近だと、樹木希林さんがお亡くなりになった。で、その方の「不思議な」とか「変な」とか「偉大な」とか「すごい」エピソードがまぁ語られたり、記事になったりしたのを読んだりするのだけれど、そんなに「変」とか全然思わないのである。……というようなことを書くと、お前何傲慢チキかましてんだ表出ろコラ、と言われる怖い。けれども、ある程度クローズ的なこの偏狭な辺境なブログの、さらにテキトーなかっこ書きの中だ、許して頂きたい。そう、最近どうしてそんな「生きづらさ」的な奴をまた感じたのかなと思ったけれど、多分それだろう(他もありそうだが)。いやもちろん、すごいなぁとは思うのだけれど、そんな、他にはそんな大人があんまりいないのかもしれないということに、少し愕然するのである。僕の大人に対するイメージって、そんなもんだった。けど、そうじゃない人もたくさんいるってのが、まぁその、何十年も生きていると分かってくるのであって、まぁ逆にそのことが、「変」な僕にとっては、変な安心になったことは確かであるが。……何を書きたいのだろう、俺は、あまり、眠くないが、そろそろキリがないし終わるか。まぁその、変とか、普通とか書いたけれども、何の気なしに、先日の自分のブログを読み返していたら、やっぱり似たようなことは書いてあった。「そもそも普通の人はブログを書かない」「さらに創作しようという奴は輪をかけて変態」(過去改変。そこまでは書いていなかった)と、脈絡なくいつも通り終わる)

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創作について3
2018/09/13 00:00 | Comments(4) | 目的・目標
今日の一言「そういや冒頭で『今日の一言』っていうのをやってたな」「結局内容と一致しないんですよね」

ツイッターについて

 先日、ある方がプロモートにおいてツイッターを活用する、と仰られていた。
 自分、ミクシィはむかーしかなり使っていたけれども、同時期に登録したツイッターは、あんまし活用しなかった。
 よく分からなかった、というのが正直なところである。だって、あれ、140字なんでしょ。でも、それ以上も打てるとか打てないとか。どっちやねん。――調べた。やっぱり140字らしい。英数字だと280字になるとかならないとか。

 あと、なんか、商業的な奴がツイート欄にのってきて、読みづらい、ってのも思った。
 あと、なんか、これは……正直書くと微妙なんだろうけれど、「断片的な情報だけで、内容が140字で完結しないツイートが多い」というのが気になる。
 あと、なんか、連続投稿的なの。あと、「朝起きた、おはよー」的なの。

 著名人とかも呟いたりしてて、面白いメディアだとは思う。のだけれども、情報の選別ってのが上手く、僕は使いこなせなくて、あんまり使えていない。

「心理テストやってみました」
 的なつぶやきがタイムラインいっぱいになっていたら、なんか、ねぇ……。

 とはいえ、よいきっかけでもあるので、もう少し活用する方法を前向きに考えて行動したいと思ったのであった。

ブログ開設について

 逆に、ブログを開設するんじゃなくて、ツイッターでなんかやればいいんじゃない?
 と思ったのが、本記事の冒頭の内容の所以である。

 しかし、今の時点、ツイッターを活用できている自分が想像できない。
 なんか、「わかる人にはわかる」的なのが嫌なのである。

 このブログが、いっつも長くなるのは、初めてこの記事を読んだ人でも、僕の言いたいことが分かるかどうかは別として、「何について」書いているかは分かるように書いているつもりである。そういう意味で、中学生が読んでも分かると思う。

 ツイッターは、経緯を、前置きをダラダラ書くことは許されない。許されるとしたら、長文になるし、連続投稿になると思う。連続投稿になると、他のつぶやきなども流れてくるから、きっとカオスになって読みづらいと思う。
 それは何となく嫌である。

 第一、ブログで、明確に伝えたいこと、なんてのは、正直ないのだ!(開き直り)

 むしろ、いつも書いているのはプロセスである。結論が書かれていることなんてマレである。(というのか、あるのだろうか)

 コミュニケーションとしては大失敗である。文章の書き方講座的にも大失敗である。

 だからこそ、前回記事などで、リアルの人に話してもしょーがねーっとか書いているのである。別にそもそも、相談したいってわけでもないのである。え、そうなのかな? コメントもらえるのは嬉しいよね。それは、ある程度全部書ききってからのものに対してだからだ。対面的コミュニケーションは、会話のキャッチボールである。いったりきたりが重要だ。えんえん、話してられないのだ。だから違うのだ。

 なんの話だっけ。

ブログ開設について2

 ああ、そうだ、ブログ開設についてだ。
 創作用に、運営サイトと直結する何かブログを書いてはどうか、ということである。

 そういう意味では、別にサイトのお知らせ機能で、情報を流すことも可能である。
 先ほど挙げたツイッターも活用する方法がある。
 あと、noteってサイトもあるらしい。面白そうである。(ただ、自分の非力なスマホで表示しようとすると、非常に重い。アメブロも重くて好きではない。スマホ変えろって話かもしれない。ただ、PCで表示しても、やや重い気がする)

 作業として面倒ではあるが、創作系の記事をこのブログから移行するとか……なんの意味があるのか。
 やはり、考えるにあたって目的は大前提である。

 前回記事引用。
 目的は、上に書いたように、サイト利用者に管理人の状況、運営状況などをお知らせするものである。
 それをしたからの効果は何かあるのか?
・利用者が、一応運営されていることは知ることができる
・僕が、ああ何かそろそろ更新しなきゃと思う
 やっぱり、利用者さんへの告知が目的なのである。とすれば、ツイッター案はアリ、となる。

 うーん。
 問題は、「継続性」である。続けられることでなければ意味がない、というのが持論である。
 ツイッターが悪いものではないのだろうけれど、僕があまり使いこなせたことがないので、できるか不安である。そんなかしこまらなくても、テキトーに呟けばいいのかもしれない。しかし、僕の呟きはこのブログのようにきっと長い。ツイッター文化と相いれない気がする。

 んじゃー考え方を変えて、ブログ記事を逆に分割してツイッターに流せばいいんじゃね?

 というのもある。あるけれど、ちょっと待ってほしい。ブログは、リアルタイム性があるからかけているのである。ゼロ秒思考のアウトプットだ。別に深く考えて書いているわけじゃない(いや考えろよ! という突込みはもっともである)。

 だが、ブログの内容を切り取ってツイッターに(140字に)流すとなると、それは「編集」という作業になる。編集はとても大事な作業であるが、大変である。ゆえに、続けられるとはあまり思えない。

カクヨムに投稿中の作品について

 別件で作業が中断し、席を外していた。
 戻って思ったのは、カクヨムに投稿中の作品についてである。あれも、他サイトに投稿したからには完結させなければならない。
 誰からにも強制されることではないが、しなければならない。内なる道徳律的なアレである。
 ということで、読んでみた。

 おーん、まぁ、面白いんじゃないか。

 一応、人に読ませる体裁にはなっていると思うし、今読んでみても、当時の感覚から乖離していることを書いているようには思えない。
 まぁ元は、このブログの記事を推敲・編集したものである。一からの書下ろしってわけではない。

 ただそれがゆえに、表現したいポイントってのはまとまっていると思う。
 もちろんそれは、結論が出ているというわけではなくて、前置き、導入、内容、結論または方向性、といった流れができているであろうということである。

 ここまで体裁が整っていれば、自分の中では及第点である。これで面白いか面白くないか、必要と感じるか無価値と感じるかは、あとはその人次第である、とまで傲慢に言い切っていいと思う。

 まぁ、推敲と編集だけ、と書いたが、それはそれで大変ではあったはずなのだが……。

 とにかく、年内中にそっちの更新も行いたいと思う。

ブログの開設はどうするんだ

 閑話休題。
 どうするか。
 正直、時間をある程度取れているからいろいろ考えられるのであるが、またこれからも同様にまとまった時間が取れるのかは疑問である。

 と、いうか、問題がそもそもそこじゃないんじゃないかと思う。

 肝心の作品作りに、全然着手できてないじゃないか。
 無駄なプロセスだな、と思う、……が。

 これはモチベーションコントロールである。

 ご飯食べたり、家事をしたり、眠ったりというのは、しなきゃならない。
 しなきゃならないことはしなきゃならない、トートロジー。

 今からやろうとしていることは、「絶対にしなくてもいいこと」である。
 だから、モチベーション、動機付けが最重要なのだ。

 もちろん、僕は、ここで、「そもそも生きること」というのも、長らく、最重要課題には思えなかった。いやむしろ、先日のアンケートのニュースであったように、実は多くの人は、何ら大きな目的や生きがいも持たずに生きているのではなかろうか。

 別にそれでいい人はいい。
 俺は違う、……のだ。ただ生きることそれだけを賛美することはできないのだ。

 いやまてまてまて。この表現は良くない。ルーチンの、日々の生活を平穏に送っている人たちに対してのディスりなのではなかろうか。そんなつもりはない、と、すぐさま書いておかねばなるまい。
 単に俺が異常である、ということでいい。若者なだけなのか。血気盛んなのか、モラトリアムなのか、裕福で幸せボケなのか、平和ボケなのか。

 しかし、僕は単に、……時間は、有限であると、人生は終わりが来ると、死んだら何もできなくなるのだと、それを感じているだけなのだ。
 生きることそのもの、生き残ることそれだけを目的ないし意味であると、思えないし、思いたくないということなのだ。

 ――えっとー、これ、創作についての方針に関する記事だよね。どうなってるん?

創作と生きる意味は切り離せない

 なんというか、思った。
 やっぱり、ブログ分ける案はダメだ。
 分けられないわ。

 僕は創作で特にお金を得ているわけではない。だから、趣味である。釣りとか、ドライブとか、ゴルフとか、服飾とか、旅行とか、様々ある趣味の中の一つである。道楽である、娯楽である。

 しかし、ドライブとか、その他の趣味と違って、創作に関しては、……なんというか、より、自分自身に近い趣味である。表現が浮かばなかった。根源的な趣味である? 仰々しいな。
よく分からない。

 とにかく、生きる意味に近いものである、ということだ。

 だからこの、「生きる意味を徹底して考える」ブログとは、切り離すことはできない。ゆえに、新しいブログ開設は、何回かの記事に分けて書いてきたけれども、結局やめ、とする。

 かといって、連結させる案は、なんかいろいろ嫌なので、それも特に行わない。

 サイト運営については、普通に、お知らせ欄とか活用しようと思う。あとは、ツイッターのタイムラインを挿入するとかも、そんなに難しくなくできそうだ。が、どうにも、そういうサイトもあまり好きじゃないんだよな(重いから、というのと、記事の連続性と意味性において)。

 

方針

 長々と書いてきた。
 要約すれば、

・サイトのURL変更をする
・サイトの不具合修正をする
・カクヨム投稿中作品を更新する

 というものだ。
 あれ、小説作品の更新はどうしたのだ?!

 それも継続して行う。それについては、細切れに断片を紡ぐ以外に、今のところは方法はなさそうだ。時間を投入して達成・完成させられそうなのは、上の挙げた内容であるとの結論である。
 小説の方は、プロットというか、ストーリーの骨格作りを進めねばなるまい。

 あーしかしそういえば、プロットまでできている作品はあったんだった。ちょっと、自分が今手掛けている作品についても、これを期に整理しておくか。

メインで手掛けたい作品

 大きくは4部構成で考えている。一部では、繁栄した都市で国の中枢組織の一つに属していた主人公が、突然左遷になって、田舎村に飛ばされる。そこでの文化レベルの低さに衝撃を受けつつも、改革を遂行し村を繁栄させようとするが、村の保守勢力との対立などによって思うようには進まない。その間に、堕骸と呼ばれる幻霊が田舎村にも迫る。
 第二部は、堕骸を打倒するための力を得るため、根源の森の調査と、協力を仰ぎにいく。
 第三部では、堕骸の生じる原因と、黒幕が明らかになる。
 第四部では、総括となる……ようなことを図式化して考えていたが、見せ所、テーマ、目的がいまいち定まっていない。人間ドラマなのか世界観なのか、異能バトルなのか政治駆け引きなのか何なのか。……ある程度、エピソードとか世界観を書き進めながらストーリー構築を地道に進めていくしかなさそうである。一つ含めたい要素としては、シムシティ的なのを入れたいと思っている。

少女領主と官吏が国をよくする話

 今途中まで連載している奴。確か1話目は、何か降臨して1日、数時間で書いた気がする。1話目は導入としては満足の出来である、が、既存投稿分以後の続きを書いていて、何か面白くなくなってしまった。勢いは大事だが、勢いだけだと行き詰るという悪いパターンの良い例である。これも、投稿したからには完結はさせたい。

タイピングで世界を救う話

 これは未投稿で書き進めていて、これのプロットはできあがっている。昔、タイピングオブザデッドというゲームがあって、それのオマージュというかインスパイア的なお話。やる気になれば、プロット(道筋)まではできているから、一応年内中とかに完成させられそうな気もする。

電脳デバイス的な話

 これも未投稿で書き進めている、が、例のごとく途中で面白くなくなった、飽きてしまった。プロットはできているが、プロットが面白いと思えなくなった。挿入エピソードも思いつかない。ので塩漬け状態。

アンドロイドを買ってみた話

 ブログで連載している話。荒いプロットはできているが、挿入エピソードが思いつかないため中断中。上の電脳デバイスの話はこちらに組み込み統合してもよいかなとも思ったりする。
 というか、この話、テーマとしては好きで、面白いんだけど、読み返すとちょっとインパクトに欠けている。エピソード的なインパクトというよりも、「質感」が薄いのである。ペラペラなのだ。イメージがすんなり入ってこない。説明的なのである。もっと描写しろよと言いたい。
 この、アンドロイド系の小説って「惜しい」って思うことがあって、その「アンドロイド性」が上手く引き出せていないことが多いのである。というのは、「人間と同じ」ように描いてしまうことである。その、アニメとか、……最近みたやつだと、ええと、プラネタリアンだったか。アニメ面白かったんだけど、あれ、そのまま小説にするってか、「セリフ」だけを抽出すると上手くいかないと思っていて、要するに映像だと「アンドロイド的」であるのが一目でわかるからいいのだ。一方、小説になると文字だけなので、その「アンドロイド性」が上手く描写するのが難しいのだ。だからその点を気を付けようと、できること・できないこと、得意なこと苦手なことを描こうとしたのだけれども、それがどうにも説明的過ぎて、あんまりおもしろくないのである。惜しいというかもったいない。
 とはいえ、それはまぁ次のステップであって、とにかくストーリーとして完結させないといかんのであるが……。

寿命でイベントを購入できる話

 未投稿。プロットは10年前くらいかなぁ。何か月か前にパソコン整理していたら出てきた。主要エピソードもできあがっている状態のプロットであったので、これも頑張れば完結させられそう。ただ、僕の現状の感性がその作品のテーマをあまり求めていなくて、気乗りがしない。

方針2

 ああ、まぁ、そんなところか。
 こうやって整理というかピックアップしてみると、ああ、なんか全部中途半端だなぁっていうのがよく分かる。だから、紙に書いて目標はっておくとかほんと大事。

 その、「自分で面白いと思えるか」という尺度が入ると、これ非常に大変である。学校の課題とかなら、もう締め切りがあるからこれでいいやってなるけど、「面白くしたい」って思いがあると、「そもそもあんまり面白くないからやめたい」ってなったりする。――甘えじゃねえか!!

 面白いってのは至極大事だが、それを免罪符に使っていいもんじゃないでしょうや!!

 と、自分を叱咤しつつこの記事は終わる。




(かっこ書きである。――「我々はどこから来たのか、我々は何なのか、我々はどこへ行くのか」――こうした反省的で抽象的な意識が人々の間に広まるような社会は、人々が現実の死や破滅と毎日のように直面していた社会ではありえないのだろう。――『グノーシス 古代キリスト教の異端思想』P.44 ふと、書棚の本を手に取って、ペラペラとめくっていた。上の言葉は、ゴーギャンの有名な絵画のタイトルだけれども、こうした問いは、古代ローマ、1世紀にも遡ることができるのだという。東京で暮らしていると(東京でなくてもだが)、朝の通勤などで本当にたくさんの人がいることに眩暈を覚えることがある。僕が、涼宮ハルヒの憂鬱を最後まで見ようと思ったのは、主人公ハルヒの、幼少期に野球場に行って「こんなに大勢の人がいるなんて」と思った体験が描かれたシーンであった。そうした経験から、彼女は、世界を、自分の人生を面白いものにしようと奇天烈な行動をしていくのであった。と、いったことを思うほどに、いやほんと、毎日、人の波で渋滞ができるのである。自分の速度で進むことも、立ち止まることも許されずただ流されていく。そして、一日はあっという間に終わる。……だが、文章を書いている間は一瞬ではない。波に乗って書いているとあっという間に時間が過ぎることはあるが、ただ、思考はある。自分で考えている感覚がある。自分で歩いている感覚がある。文章は、思考のとっかかり、結節点のようなものである。さらには付加効果として、読み返したり、過去の記事を読めたり、音読できたりもする。素晴らしい。この記事、他の作業したり、ご飯食べたり、シュタインズゲート1期をもう一度見たりしつつ、5時間ぐらいかかっているが、不思議と時間を無駄にしたなぁとか後悔感がない。内容の無さはともかく、時間使えてよかったなぁとすら思う。やっぱり、これと実生活とのバランスを取ることも重要に思う。期間限定的に書ける時間を確保できるのではなく、もう少し定常的に、恒常的に……だな。しかしながら、空間的に……難しいのである。空間的に。時間的にも。どうしたもんか……、ああ、しかしこれは、先日の記事で「とりま、保留ね」としたことだった。先日、書いておいてよかった。だから、このかっこ書きもこのまま終わることが、できる。――しかしだ、この、書き終わろうとするときにいつも感じる、「この記事面白くなさそうだなぁ……」という感覚はどうにかならないのか)

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