説明力や発言力というのは、学校教育で必要ない。若いうちはひたすらに知識をインプットすればよい。
こうした考え方は一つ有効と思うが、私の今年の目標には反する。
今年はアウトプットと整理という2つのキーワードが目標である。ゆえに、24時間すべての行為行動が、その2つに集約されなければいけない。
確認だが、生き方というものは、仕事もプライベートも、体もすべて一体として考える必要がある。
どれか一つでも正三角形を阻害する要素があれば、資源を投入し解決に努めなければならない。
であるから、消費に過ぎない思考や、消費に過ぎない知識のインプットは、忌避すべきものである。
当然ながら、感情の処理というのも、行動にとって重要な要素であり、排除すべきではない。
こうした考え方は一つ有効と思うが、私の今年の目標には反する。
今年はアウトプットと整理という2つのキーワードが目標である。ゆえに、24時間すべての行為行動が、その2つに集約されなければいけない。
確認だが、生き方というものは、仕事もプライベートも、体もすべて一体として考える必要がある。
どれか一つでも正三角形を阻害する要素があれば、資源を投入し解決に努めなければならない。
であるから、消費に過ぎない思考や、消費に過ぎない知識のインプットは、忌避すべきものである。
当然ながら、感情の処理というのも、行動にとって重要な要素であり、排除すべきではない。
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「無意味さ」
この言葉から始まるブログを、一体だれが読むのだろうと思う。
ただし、今、帰宅したての今、今だからこそ、書くべきだと思う。
「引きこもり」「ニート」において、無意味さについて書くということは、甚だばからしいことである。
しかしこの言説は、見えない「もっと大変な人」におびえ続けることを意味する。
先日から繰り返し述べている、「目的設定の重要さ」についてだが、これは、果てしない理想による重圧を軽くするための手段でもある。
目的を設定することにより、一時的に、「もっと大変な人」を見えなくするという方法なわけだ。これは一種逃避だという批判もアリだろう。
「この世からきれいに消えたい。
」
のS君は、美少年だった。美少年だから、本になる。ところが、不細工で孤独な親父は、本にならない。救済の対象にならない。「大人のくせに」で終わり。
子どもは守るべきもの、大人は馬鹿ばかり、こうした言説は、巷にあふれている。
しかし、子どもの責任かどうかに関係なく、時間は、子どもを「大人」にする。そうして「犠牲」となった子どもは「大人」であり、もはや守られるべき対象ではなく、排除されるのである。
宮台氏の著作に、もっと早く、たとえば高校のときなどに触れられていたら、もっと思考の深化は進んだのかもしれない。
しかしそうしたたとえ話は空虚でしかなく、たとえば当時の自分ごときに、本を理解できたのかは甚だ怪しいことをもって、「たとえ」の意味のなさを知るわけである。
社会学とか、社会システム理論とか、なにそれ食べれるの?
自分の凡人さを、まずもって自覚しなければならない(それはこうしたブログで「俺馬鹿だし~」「そうじゃないよ!」とフォローを求める浅ましさを断固として斥ける、深く絶望に根付いたものであるべきだ)。
その自覚は、何も自己卑下に浸るためのものではない。
己の馬鹿さ加減をしるということが、まずもって、他者を理解する上で、非常に重要なのである。
先入観なしに、その人自身をみること。
これが、コミュニケーションにおいて非常に重要なことである。
それは、上司と部下、友人関係などにとどまらず、長年つれそった夫婦や恋人同士でもそうだし、教育においてもそうだし、自分の子どもに対してもそうだ。
我が子はみなかわいいというが、いくら顔かたちが似ていても、自分のコピーなどではなく、「他人」なのだと、そうした距離感が一番に必要である。
と、ここまでを前提として、次のステップについて記述する。
この言葉から始まるブログを、一体だれが読むのだろうと思う。
ただし、今、帰宅したての今、今だからこそ、書くべきだと思う。
「引きこもり」「ニート」において、無意味さについて書くということは、甚だばからしいことである。
しかしこの言説は、見えない「もっと大変な人」におびえ続けることを意味する。
先日から繰り返し述べている、「目的設定の重要さ」についてだが、これは、果てしない理想による重圧を軽くするための手段でもある。
目的を設定することにより、一時的に、「もっと大変な人」を見えなくするという方法なわけだ。これは一種逃避だという批判もアリだろう。
「この世からきれいに消えたい。
のS君は、美少年だった。美少年だから、本になる。ところが、不細工で孤独な親父は、本にならない。救済の対象にならない。「大人のくせに」で終わり。
子どもは守るべきもの、大人は馬鹿ばかり、こうした言説は、巷にあふれている。
しかし、子どもの責任かどうかに関係なく、時間は、子どもを「大人」にする。そうして「犠牲」となった子どもは「大人」であり、もはや守られるべき対象ではなく、排除されるのである。
宮台氏の著作に、もっと早く、たとえば高校のときなどに触れられていたら、もっと思考の深化は進んだのかもしれない。
しかしそうしたたとえ話は空虚でしかなく、たとえば当時の自分ごときに、本を理解できたのかは甚だ怪しいことをもって、「たとえ」の意味のなさを知るわけである。
社会学とか、社会システム理論とか、なにそれ食べれるの?
自分の凡人さを、まずもって自覚しなければならない(それはこうしたブログで「俺馬鹿だし~」「そうじゃないよ!」とフォローを求める浅ましさを断固として斥ける、深く絶望に根付いたものであるべきだ)。
その自覚は、何も自己卑下に浸るためのものではない。
己の馬鹿さ加減をしるということが、まずもって、他者を理解する上で、非常に重要なのである。
先入観なしに、その人自身をみること。
これが、コミュニケーションにおいて非常に重要なことである。
それは、上司と部下、友人関係などにとどまらず、長年つれそった夫婦や恋人同士でもそうだし、教育においてもそうだし、自分の子どもに対してもそうだ。
我が子はみなかわいいというが、いくら顔かたちが似ていても、自分のコピーなどではなく、「他人」なのだと、そうした距離感が一番に必要である。
と、ここまでを前提として、次のステップについて記述する。
さて、ここまで6つにわけたが、長文になってしまった。総括したタイトルをつけるなら、「目的設定の重要性」ということになるだろう。繰り返し述べていることであって、進展はない。それでも、これほど3000字ほどの文章が発生するのは、「不十分」だからである。結局、整理とアウトプットというキーワードを設定したとしても、僕は空中楼閣のように彷徨っているのである。
「人類を幸せにする」という目的でいいじゃないか、と思うのである。「みんなの幸せが僕の幸せ」みたいに、『いい人』の主人公みたいにいえたらいいのである。
ところが、「そう思えない」自分がいる、この現実を見据えるべきなのだ。
就職活動のエントリーシートに、自己PRをかくのであるけれども、どうしても書き進まない。それは何故かといえば、正直別にどの企業でもいいからである(笑)。学生が「質問は?」ときかれて問うのが、福利厚生のことというのであるけれども、やはりそちらが気になるからなのだ。
学校教育のありかた、入学試験制度のありかた、評価制度のありかたが問題と思うが、それを批判したところで始まらない。結局あなたはどんな人なの? と問われたときに、どう「説明」できるのか、そこが重要である。
僕はだから、別に「世界平和」を目的に据えられる人が立派だとは思わない。「戦う組織の作り方」でワタミの社長が述べていたことは、普遍性であり人類全体の幸福であった。渡邊氏には、その高次の目的を実現するための金も権力も方法もあるので、なおさら「すごい」と思う。
だけれども、これは凡人のブログだ(笑)。凡人は、コツコツ地道に成果を重ねていくしかないのである。天才のやり方を真似してはいけない。生兵法は怪我のもとである。
僕は正直にいって、他人なんてどうでもいいと思うことがよくある。コンクリート詰め女子高生殺人事件のような、悲惨な事件を起こす人間が存在するのである。強姦輪姦にあきたらず虐待拷問の上ドラム缶に詰めて沈めるなどという、信じられないことをする人間がいるのである。それをもって人間全体が嫌いだという中二病的なことをいうつもりはないが、歴史をひもとけば、現代社会が幸福の具現化された社会に思えなくもない。
……というよりも、「他人なんてどうでもいい」のは、事実なのである。ただし、それを「立場」としていっていけない場合がある、社会とはそうして成り立っているという、小学生でも分かる「表裏」という問題に過ぎないのである。だけれども、僕は、深層レベルでそれが許せない、いわば子どもっぽい(というより精神年齢はまさに子ども)のだが、それも言い方をかえれば「純粋」ということになる(笑)。
だから、今まで述べてきたことは、すべて「表現」の問題と言いなおすことも可能である。
単純にまとめてみる。
目的設定の重要性の昂進(∵情報社会 価値多様化社会)⇒
「生きる意味」問題の再浮上⇒具体化の方策が不透明
凡人としての方策⇒価値観の破壊⇒「生きる意味」=表裏問題=表現問題
「人類を幸せにする」という目的でいいじゃないか、と思うのである。「みんなの幸せが僕の幸せ」みたいに、『いい人』の主人公みたいにいえたらいいのである。
ところが、「そう思えない」自分がいる、この現実を見据えるべきなのだ。
就職活動のエントリーシートに、自己PRをかくのであるけれども、どうしても書き進まない。それは何故かといえば、正直別にどの企業でもいいからである(笑)。学生が「質問は?」ときかれて問うのが、福利厚生のことというのであるけれども、やはりそちらが気になるからなのだ。
学校教育のありかた、入学試験制度のありかた、評価制度のありかたが問題と思うが、それを批判したところで始まらない。結局あなたはどんな人なの? と問われたときに、どう「説明」できるのか、そこが重要である。
僕はだから、別に「世界平和」を目的に据えられる人が立派だとは思わない。「戦う組織の作り方」でワタミの社長が述べていたことは、普遍性であり人類全体の幸福であった。渡邊氏には、その高次の目的を実現するための金も権力も方法もあるので、なおさら「すごい」と思う。
だけれども、これは凡人のブログだ(笑)。凡人は、コツコツ地道に成果を重ねていくしかないのである。天才のやり方を真似してはいけない。生兵法は怪我のもとである。
僕は正直にいって、他人なんてどうでもいいと思うことがよくある。コンクリート詰め女子高生殺人事件のような、悲惨な事件を起こす人間が存在するのである。強姦輪姦にあきたらず虐待拷問の上ドラム缶に詰めて沈めるなどという、信じられないことをする人間がいるのである。それをもって人間全体が嫌いだという中二病的なことをいうつもりはないが、歴史をひもとけば、現代社会が幸福の具現化された社会に思えなくもない。
……というよりも、「他人なんてどうでもいい」のは、事実なのである。ただし、それを「立場」としていっていけない場合がある、社会とはそうして成り立っているという、小学生でも分かる「表裏」という問題に過ぎないのである。だけれども、僕は、深層レベルでそれが許せない、いわば子どもっぽい(というより精神年齢はまさに子ども)のだが、それも言い方をかえれば「純粋」ということになる(笑)。
だから、今まで述べてきたことは、すべて「表現」の問題と言いなおすことも可能である。
単純にまとめてみる。
目的設定の重要性の昂進(∵情報社会 価値多様化社会)⇒
「生きる意味」問題の再浮上⇒具体化の方策が不透明
凡人としての方策⇒価値観の破壊⇒「生きる意味」=表裏問題=表現問題
ここに、情報の限界性、いやいや単に、能力の限界性という問題が立ちはだかるのである。
僕の主張、価値観というものが、仮に正しかったとしても、そうでなかったとしても、時代の潮流にさからうのは、極めて難しい。この困難さは、「諦め」という言葉に還元されるべきではない。スラムダンクで「諦めたらそこで試合終了ですよ」といわれ、努力とか根性とか、継続性とか、目標に向かってひたむきに立ち向かっていく姿を美しく描かれるわけなのだけれども、それは、「ある意味」間違っている。
先に僕が述べたとおり、その目標(目的)というものは、「自ら設定」すべきものだからだ。
自ら設定した目的に対しては、スラムダンクのように立ち向かっていくべきだ。ところが、それが、イデオロギーとまでいかなくても、上司や教師や親や周囲の人が無意識に信じているからといった理由によって選ばれてはならないのである。
諦めは、必要なのだ、それが、自らの意志と反するのであれば。
僕が一時切り替えた「行動至上主義」は、確かにそれは、とても素晴らしい結果を僕に与えたのである。しかしそれは、その結果の享受の後、行き場をなくしたのであった。キャピタルゲイン、拡大再生産できるプロセスではなかったのである。考えてみれば、「行動至上主義」のために掲げた目的群は、言葉にすれば大したことではない、小学生でももてそうなものだ。ところが、その設定が可能であったのは、まず「プライド」という阻害要因を排除できたからであったし、徹底的な「破壊」があったからなのだ。
2008年からの「行動至上主義」は、それを単独でとらえると見落としてしまうが、それまでの過程が重要であったと考えるべきである。
僕の主張、価値観というものが、仮に正しかったとしても、そうでなかったとしても、時代の潮流にさからうのは、極めて難しい。この困難さは、「諦め」という言葉に還元されるべきではない。スラムダンクで「諦めたらそこで試合終了ですよ」といわれ、努力とか根性とか、継続性とか、目標に向かってひたむきに立ち向かっていく姿を美しく描かれるわけなのだけれども、それは、「ある意味」間違っている。
先に僕が述べたとおり、その目標(目的)というものは、「自ら設定」すべきものだからだ。
自ら設定した目的に対しては、スラムダンクのように立ち向かっていくべきだ。ところが、それが、イデオロギーとまでいかなくても、上司や教師や親や周囲の人が無意識に信じているからといった理由によって選ばれてはならないのである。
諦めは、必要なのだ、それが、自らの意志と反するのであれば。
僕が一時切り替えた「行動至上主義」は、確かにそれは、とても素晴らしい結果を僕に与えたのである。しかしそれは、その結果の享受の後、行き場をなくしたのであった。キャピタルゲイン、拡大再生産できるプロセスではなかったのである。考えてみれば、「行動至上主義」のために掲げた目的群は、言葉にすれば大したことではない、小学生でももてそうなものだ。ところが、その設定が可能であったのは、まず「プライド」という阻害要因を排除できたからであったし、徹底的な「破壊」があったからなのだ。
2008年からの「行動至上主義」は、それを単独でとらえると見落としてしまうが、それまでの過程が重要であったと考えるべきである。
なんどもなんども書いているが、いやむしろ重要であるということと、表現しつくせていないのが原因なのだろうが、「何のために生きるのか」問題は、僕にとっては重要である。これについて、僕が愚かで凡人だから、こうした問いに引っかかってしまっているという結論を下し、「行動至上主義」に転じてみたのではあるが、どうやらこの問題は、むしろ「表現できない」こと自体が、多くの人がふれない理由のようである(いってしまえば、「考えても時間の無駄だから」)。
確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。
確かに、生きている意味なんてものは、価値多様化社会の中では、無価値の代表である。
いやそうとはいっても、「テレビ」なんてものをみれば、実に「楽しそう」な人ばかりなのである。そこでちょっと「哲学的」なことをいうと、「すごい」とか「頭いいね」もしくは「茶化され」たり「笑いにされ」て終わりなのである。皆、必死に、この世の中の「無価値さ」というものから目を背けようとしているようにみえる。
しかしこうした傾向は既に、1990年代以降、オウム真理教について言及した宮台真司や、その他若手(といってももはや)論客に指摘されていることであって、20年という歳月は、ただその傾向の深化を示しているだけに思える。
そうはいったところで、徐々にこの「ウソ」というものに気付いてきた人が増えてきたとしても、知的エリート達の論議がこちらに向いたとしても、凡人の僕にとって、それらを理解するには、やはり20年とかそれ以上の歳月がかかるのである、この点を決して忘れるべきではない。
