習慣化するために有効なのは、記憶術の考え方の応用だ。
エビングハウスの忘却曲線。初めは手厚く復習して、徐々に復習の間隔を伸ばしていくと長期記憶になりやすい。
行動のための第一歩、二歩、三歩ときて、これでもかってくらい、同じ内容の記事だ。
音読と筋トレストレッチをしよう、と。
ただ、それだけの内容だ。
しかし、この、繰り返し、初めのうちが非常に重要である。
しかし、僕にとって、今日はまた完全に新しい日だ、何故ならば、音読筋トレストレッチの、二日目だからだ。
今日、これから家にかえって、やる気が起きずに、ぼーっとパソコンつけてサーフィンして、気づいたら24時すぎで、ああ、もう今日はいっか。また明日から頑張ろう。
みたいな、ダメ人間の典型になる可能性が残っている。おそろしい。
まだ、帰るまで、自分の気持ちは分からない。
知り合いから電話がくるかもしれない。
家ノ前が暴走族の集会所になっているかもしれない。
人間は、記憶である、とこの前書いたが、もうひとつ、当たり前度合いもまた、人間の尺度である。
例えば、家に帰って、ちゃんと日課がこなせるか不安な一方、家が、紛争により破壊されているとか、空き巣にはいられたりとか、そんなことは不安に思っていない。
被害妄想だ、が、そういう次元でなく、常に誰からも賞賛されてないと気がすまない人とか、家のなかでは裸で過ごすのが当たり前の人もいる。
この当たり前の度合いが、その人の人間性である。
人は中々変われないというのは、この次元の話だ。当たり前だ、だって、その人にとっての当たり前なのだから、変えるなんてとんでもない話なのだ。
それを捨てるなんてとんでもない。
そんな、当たり前の度合いが違う人同士が一緒に暮らすのが、同居というわけだが、まぁ、難しいのは想像に難くない。
夢を見た。
初恋の人と、一緒に宿題やったり、話したり、一緒に帰ったり。
何だか、その人の一挙一動、表情の変化、言葉、そのすべてが可愛らしくて、気持ちが昂り、緊張させた。
そこに、思考はなかった。
ただ、その人のことを思って、ドキドキする状態。(ドキドキって、何だよ、表現しろよ。いやできない、当時は言葉をもっていなかった、むしろ、言葉でない状態だったのだ)
夢は、最近で、唯一、言葉を、思考を与えず、感覚のみの世界に僕をいざなうのかもしれない。
ぶっちゃけ、夢の内容は微笑ましく、楽しく、嬉しいものでありながら、今、目覚めてみると、非常に不快でしかない。これが法界悋気(自分に関係ないことでねたむこと。人の恋路をうらやむこと)か!
自分に関係ない人の恋路、とは、そんなことなくて、過去の自分に対しての? 夢の自分に対しての? どちらにせよ、ばかげたことだ。
ああ、ほんと、これが休日なら、強い酒を飲んで、思考を止めて眠りにつきたいものだ。
(という思いがあるのならば、決して、この場所を、日の当たる場所にもちあげてはならない。現行の他の僕のサイトとリンクさせるとか、そんなこと思ってはならない。アクセスアップのための検索サイトに登録するとか、やってはならない。
一方で、人に読んでもらいたい、誰かの役に立ちたいという思いもあるはずだ。しかしそれは、この場所であってはならないのだ、とすると、矛盾……ああ、書きたいことと異なるのだけれども、いや、仕方がない、この話は中断)
恋って、もう、していなかったのかもしれないと思った。
先ほどの夢を、「初恋」って表現したけれども、果たして、そんな他者に対して、思考なく、その人とずっと一緒にいたいとか、もっとたくさん知りたいとか、そんなこと、誰か他に思っただろうか。
いや、最近、魂魄に突き刺さることはあった。
最近、5分の時間制限付きで毎日ブログを書き始めた方の記事を読んでいると、とても面白い。時おりリミッターが解除されるけれども、その方から溢れる言葉、文章、表現は、本当にもっとたくさん読みたい、知りたいと心から思える。いつも100%思考がない恍惚とした状態になるかといえばそれは流石にオーバーだけれども、しかし、ただ純粋に「面白い」という瞬間はあるのだ。
もうひと方の、人生の意味について論理的に考えようとされている方のブログも、面白い。面白いなんて、中途半端な表現しかできない点が、まさにあんまり思考的に分析できてなくて、単にもっと読みたいな、人生とか考え方とか教えて頂きたいな、と単純な思いが生じる。
という前提において。ひどいことを書くと、例えば、前の奥さんについても、果たして、恋はしていたのか、という点。
このブログ、離婚を突き付けられた云々と書いていて、あまりこの話題について書かれていない。
自分で、書くことについて面白いと思えない、というか、まぁさすがにあんまりひどいこと書くのもなぁという思いもあったのか。よく分からないが、とにかく、あまり書こうと思わなかった。
けれども、夢を見て、何だか悶々とした感じになり、ああ、これ、きっと明日にはこの感覚なくなるんだろうなぁと思ったとき、取りあえずメモしておかなければと、何故かこの時間に目が覚めたのも、きっとそういうことなのだと、思ったのだ。
いや何をメモしておこうかと思ったというのは、その、「恋」という状態についてだ。
確かに、付き合っていた時、結婚したとき、一緒に暮らし始めたときと、そりゃあ楽しいことも嬉しいことも、気持ちいいこともあれば、むかついたことイラついたこと、不快なこともあった。まぁ男女の関係において、人と人との関係において、別にふつうのことである。
じゃあ、それらは、すべて「純粋な感情」であったのかと、その問いに対しては、きっと僕は、今のこの不思議な感覚の中で答えるならば、否だと。
そして、否、と心が言うのをアウトプットしておいて、ああ、じゃあ、それが間違っていたことなのか、どうなのか、なんて、そんなこと分からないじゃないかとは思う。
人の迷惑にならないようにしなさい
人にやさしくしなさい
全部、「自然」にできること?
というか、自然ってなんだよ。感情と行動が一致することが自然? じゃあ、いやいやつまらない仕事をするのは自然じゃないと? それは本来の人間あり方からズレていると? 本当に心から楽しいと、やりたいことだけを仕事にするべきと? 嫌なつまらない勉強はしなくてもいい?
バカか。
感情の大切さは、まぁ、それを知ったのは20歳過ぎてからだけれども、でも、感情だけで生きていていいはずがない。ある程度、理性的に生きることが、大切なことだと思う。「ある程度」ってなんだよ、という突っ込みは置いておこう、ここら辺のことも、これまでに何度か書いているはずだ。うん、そう、本気で書いている事実があることが、安心して次の思考に進める、のだけれども、まぁ、この記事だけ読んだ人がいたときに、きっと、「理性大好きマン」的な、カントの道徳律! みたいな人間にも思えるんじゃないだろうか、この辺りが、文章で自分の内面を表現することのリスクと、徒労感である。(まぁいい、それも何度も書いてきている)
心の底から湧き上がる、誰かにやさしくしたいという思いと、理性的に、こうあるべきだと思って行動した結果と、どちらが大事か、なんて、俺はどっちも大事だと思う。
電車で席を譲ると、その行為が、本当にその誰かが大変そうだから座らせてあげたいと思おうが、お年寄りや妊婦さんには席を譲るべきだという信念をもってその行為をしたところで、俺は、どっちの人も、その行為は褒められるべきだし、すごいことだし、偉いと思う。
思いやりに感情なんているか? 言ってしまえばそういうことだ。
という軽口は照れ隠しなのかもしれないが、ええと、だんだん何を書きたいか、夢から覚めて覚醒してくると分からなくなってくるな。
「気持ちが冷めちゃった。もう二度と好きになれない」
と、言われた。でもそれが、今でも、離婚の原因なのかは、よく分からない。恋の成就が結婚? うーん、一緒に生活するってこと、その法的根拠が結婚であって、いやそんなことは大して重要ではないけれども、「好き好き愛してる!」って状態をキープしていないと、結婚生活が送れないというのは、何か違和感だ。
そんなことがなくても、お互い尊敬しあって、一緒に家事とかしたり、助け合って暮らしていくってのがあればいいんじゃないだろうか。……って考え方がもう合わないから一緒にいられない、とでも思ったのかもしれない、まぁそうであれば仕方がないな、むしろ、俺も彼女に対して、「恋」はしていなかったのかもしれない、と。
ということが、まぁひどいことで、こんなこと書いてどうするんだー的なことだ、うん、確かそうだ。
まぁ、書いてしまうと、アウトプットしてしまうと、大したことないのかな、とも思う。まぁ、明日この記事は再読再考だな。消した方がいいという判断になるかもしれん。
でも、同時に、今思うに、ああ、確かに「恋」っていいかもしれんなぁ、とも思った。
いやいや、30代のおっさんが何ゆうとんのw という感じだが、「君の名は」が大ヒットしたのも、そんなみんな、過去に成就しなかった燻った恋の破片欠片が忘れている魂魄に訴えるからなんじゃないだろうか、いや「君の名は」見てないんだけどね。新海さんの作品わりかし好きだったりするから、そんな大ヒットするなら見てみたいなとは思う。
恋、ねぇ。送ったメールが返ってこないとか、今日こんなこと言われたとか。
相手のすべてで頭がいっぱいになると。脳内占有率が殆どを占める状態と。
若い人の勉学への影響が大きいから、男子校とか女子高とかあるのかもしれない。何のこっちゃ。
まぁ確かに、僕の場合は、「初恋」が上手くいかなかったせいで、「思考さん」が現れて、「どんなに強く思ったって、現実でうまくいかないことはあるんだよ。それが人の心の難しいところなんだよ」とずっと語りかけ続けるようになって、ああそうか、それって、恋人っていうだけじゃなくて、友人とか、その他すべての人間関係だってそうなんだろうな、と。
だから、コミュニケーションの社会学とか、心理学とかもそうだし、心とは、意識とは、そのうち人間とは、と、色々調べたりするようになったのかもしれない。
ということは、これまでずっと、「ドライ」なことを書いてきたわけだけど、反転して、「恋に恋してる」だけなんじゃないか、と。
こんな、今まで書いたことを全否定するような表現も、すぐさま浮かんでしまうところで、もう、僕が、「思考さん」なくして生きられないのだと、こりゃむしろ呪いなのだと、そんな俺に興味ももてなければ一緒にもいたくないから離婚だと、うん、なるほどねーそりゃ仕方がないわ、うんうん。
だから、むしろ、うん、これもひどいことなんだろうけれども、俺は、先ほど取り上げた5分リミッターの方から、離婚した後に言葉をかけてもらって、そのとき、逆に、そのときは流石にそこまでは思わなかったろうが、「リコンシテヨカッタ」とほど、むしろ、いくら物理的距離が近くても、心が離れ、俺に興味をもってくれない人よりも、よほど俺の記事を面白いと言ってくれた方のほうが、大切で嬉しいと、そんな風に、今は、悪夢から覚めた状況だからかもしれないが、でもそう思うのだ。
「負担」
新しい言葉がでてきた、何だろう。
高校の時から、何でも話せる人がいた。(いや、今も時おり連絡はとれるから、別にいなくなったわけじゃない)
その人には、本当に、率直に自分の気持ちを語れたから、いろんなことをぶつけた。人間に対しての考え方とか。
最初は、その人の、一個年上だったこともあり、その人の考え方とか、言動が面白くて、夜を通して語り明かしたこととかもある。(何のテーマか全く思い出せんが)
けれども、ずーっとそんなことやってるうちに、半年とか、一年とか経ってくると、やっぱりどこか、お互い相容れない部分がでてくる。
「どうして、こんなに尊敬し、自分のことをよく分かってくれる人なのに、どうしてどうしてこのことをは理解してくれないんだ!」
なんて、逆に親しいがゆえに、相容れない、理解してもらえない部分が歯がゆく、不満を高まらせていく。
今思えば当たり前なのだけれども、やっぱり10代においては、「全人格的な承認」的なのを、相手にもとめがちなのだ。
無理さね。全部その人を理解するなんて。すべての行為を認めることなんて。
俺は、無理だと、「実感」した。
だから、恋なんてしてなくても結婚できるし、生活できるし、と思っていたし、そりゃあ今でも思う。
思うけれども、でも、やっぱり、
理想的には、「恋」っていいもんなんじゃないかと。
本当に何でも話せて、すべて理解しあえる友人関係っていいもんなんじゃないかと。
そうは、思う。
ああ、こりゃあ、矛盾である。だから、徹底的に思考を深めていっても、このありえないユートピア、幻想郷に憧れを抱いていては、どこか綻びはじめ、崩壊するのでは、と。この気づき、この感覚、ああ、なるほど、これについて、今日はメモしておかなければと、きっと、そう「思った」のだろう。
うん、この記事は、「解決」の記事などではない。単なるメモだ。しかし、この「恋」というか、「全人格的な承認」への希求という実感レベルの欠片について触れることができたのはよかった。
完全に夢という、偶然の産物だが。
だから、過去の偉人たちのなかで、夢とか、神の啓示によって何か閃いて、というのは、俺は、結構信じている。ただ、別にそれは超常現象などではなくて、色々頭の中で熟成させた結果、ふとシナプスが繋がったということなのだろうとも思うけれど。脳の神経細胞は150億個だけれど、1000億個もの情報を各神経細胞につたえる神経線維が脳の中にはあるのだという。それらが、ニューロンネットワークとして、同時にマトリクス的に情報を瞬時に伝え、フィードバックすることで、「思考」という状態がうまれるのだという。今日音読した本に書いてあった。
ああ、負担の話しだった、そうだから、5分のリミッターなんて解除して、毎日ブログ更新してもらいたいなとか、そんなことを思ってはよくないということだ。
いや、思うのは僕の自由なのだけれども、それをあまり前面に出してはよくないと。
すげー面白い記事書いてるブログとかでも、半年にいっぺんのペースでしか更新されないようなものだったら、そのうち存在すら忘れてしまいそうだ。
ああ、2時半か。何だか、悩みながら、時おり止まって、ゆっくり書いていたから、あまり文量ないけど、もう1時間たったのだな。
これから、再度寝るか、朝まで起きてるか、まぁ、少し頭を休めてから考えるとしよう。
しかし、最近、なんか夢をみることが多いな。レム睡眠か。ノンレム睡眠がとれてない気がする。
うーん……しかし、「恋」かぁ……。これは結構重たい問題だ。自分では気づかなかったけれども、敢えて避けてきた問題な気がする。
ちなみに、問題と課題の違いは、問題はただ厳然と存在し、課題は、問題を解決するために必ずやらなきゃいけないものだ。
故に、これはまだ、「問題」に過ぎない。問題を解くかどうかは、まだ検討の余地があるだろう。しかし、とにかく、徹底的に自己の棚卸をする。表現をする。もう、キモチワルイとか、そんなこと分かってるんだから、徹底的に。ただ、唯一、犯罪に手を染めるとかそんな反社会的には原理的に絶対ならないから安心して欲しいということは、先日書こうとして消えた中にもあったけれども、ただこれって、「大丈夫、終電まで帰すから☆」「カラダ目当てなんかじゃないぜ!」とか言うイケメンたちの反転ロジックみたいだから、うん、やっぱり消えてよかった気もする。
そうなんだよな。だから、いくら精緻に書いたとしても、それって、本当に「内面」なの? 「感情」なの? という問いには、絶対に答えられないのだ。この絶対にというのは、本当に絶対、原理的に無理。クオリア問題も解決などできない。いやいや他者に感情が「無い」など、そんなことを信じるわけではないが、厳密な共通感覚を測るすべはないのだ。
とかく、この記事は、メモであって、自分で読み返したときに価値があるだろう。
今はまだ、毒になるか、薬になるか分からない。
エビングハウスの忘却曲線。初めは手厚く復習して、徐々に復習の間隔を伸ばしていくと長期記憶になりやすい。
行動のための第一歩、二歩、三歩ときて、これでもかってくらい、同じ内容の記事だ。
音読と筋トレストレッチをしよう、と。
ただ、それだけの内容だ。
しかし、この、繰り返し、初めのうちが非常に重要である。
実質二日目
昨日とは違う今日。当たり前だ。二度と、同じ日はこない。しかし、毎日が同じ繰り返しだと感じる人も少なくないのでは。しかし、僕にとって、今日はまた完全に新しい日だ、何故ならば、音読筋トレストレッチの、二日目だからだ。
今日、これから家にかえって、やる気が起きずに、ぼーっとパソコンつけてサーフィンして、気づいたら24時すぎで、ああ、もう今日はいっか。また明日から頑張ろう。
みたいな、ダメ人間の典型になる可能性が残っている。おそろしい。
まだ、帰るまで、自分の気持ちは分からない。
知り合いから電話がくるかもしれない。
家ノ前が暴走族の集会所になっているかもしれない。
当たり前度合い
人間は、記憶である、とこの前書いたが、もうひとつ、当たり前度合いもまた、人間の尺度である。
例えば、家に帰って、ちゃんと日課がこなせるか不安な一方、家が、紛争により破壊されているとか、空き巣にはいられたりとか、そんなことは不安に思っていない。
被害妄想だ、が、そういう次元でなく、常に誰からも賞賛されてないと気がすまない人とか、家のなかでは裸で過ごすのが当たり前の人もいる。
この当たり前の度合いが、その人の人間性である。
人は中々変われないというのは、この次元の話だ。当たり前だ、だって、その人にとっての当たり前なのだから、変えるなんてとんでもない話なのだ。
それを捨てるなんてとんでもない。
そんな、当たり前の度合いが違う人同士が一緒に暮らすのが、同居というわけだが、まぁ、難しいのは想像に難くない。
そして5時間後
帰りの電車の中で書いて、家に帰り、日課を行うことができた。めでたしめでたし、で、気づいたら寝ていて、現在1:20。一体何が起きた。本棚の隅に、小さなクモが巣をはって領空権を主張しているし。夢を見た。
初恋の人と、一緒に宿題やったり、話したり、一緒に帰ったり。
何だか、その人の一挙一動、表情の変化、言葉、そのすべてが可愛らしくて、気持ちが昂り、緊張させた。
そこに、思考はなかった。
ただ、その人のことを思って、ドキドキする状態。(ドキドキって、何だよ、表現しろよ。いやできない、当時は言葉をもっていなかった、むしろ、言葉でない状態だったのだ)
夢は、最近で、唯一、言葉を、思考を与えず、感覚のみの世界に僕をいざなうのかもしれない。
ぶっちゃけ、夢の内容は微笑ましく、楽しく、嬉しいものでありながら、今、目覚めてみると、非常に不快でしかない。これが法界悋気(自分に関係ないことでねたむこと。人の恋路をうらやむこと)か!
自分に関係ない人の恋路、とは、そんなことなくて、過去の自分に対しての? 夢の自分に対しての? どちらにせよ、ばかげたことだ。
ああ、ほんと、これが休日なら、強い酒を飲んで、思考を止めて眠りにつきたいものだ。
ひどいことを書く
さすがに、ひどいことだなぁと、人格が疑われてしまうだろうなぁと思いながら、まぁ、このブログには、誠実になりたいと思う。(という思いがあるのならば、決して、この場所を、日の当たる場所にもちあげてはならない。現行の他の僕のサイトとリンクさせるとか、そんなこと思ってはならない。アクセスアップのための検索サイトに登録するとか、やってはならない。
一方で、人に読んでもらいたい、誰かの役に立ちたいという思いもあるはずだ。しかしそれは、この場所であってはならないのだ、とすると、矛盾……ああ、書きたいことと異なるのだけれども、いや、仕方がない、この話は中断)
恋って、もう、していなかったのかもしれないと思った。
先ほどの夢を、「初恋」って表現したけれども、果たして、そんな他者に対して、思考なく、その人とずっと一緒にいたいとか、もっとたくさん知りたいとか、そんなこと、誰か他に思っただろうか。
いや、最近、魂魄に突き刺さることはあった。
最近、5分の時間制限付きで毎日ブログを書き始めた方の記事を読んでいると、とても面白い。時おりリミッターが解除されるけれども、その方から溢れる言葉、文章、表現は、本当にもっとたくさん読みたい、知りたいと心から思える。いつも100%思考がない恍惚とした状態になるかといえばそれは流石にオーバーだけれども、しかし、ただ純粋に「面白い」という瞬間はあるのだ。
もうひと方の、人生の意味について論理的に考えようとされている方のブログも、面白い。面白いなんて、中途半端な表現しかできない点が、まさにあんまり思考的に分析できてなくて、単にもっと読みたいな、人生とか考え方とか教えて頂きたいな、と単純な思いが生じる。
という前提において。ひどいことを書くと、例えば、前の奥さんについても、果たして、恋はしていたのか、という点。
このブログ、離婚を突き付けられた云々と書いていて、あまりこの話題について書かれていない。
自分で、書くことについて面白いと思えない、というか、まぁさすがにあんまりひどいこと書くのもなぁという思いもあったのか。よく分からないが、とにかく、あまり書こうと思わなかった。
けれども、夢を見て、何だか悶々とした感じになり、ああ、これ、きっと明日にはこの感覚なくなるんだろうなぁと思ったとき、取りあえずメモしておかなければと、何故かこの時間に目が覚めたのも、きっとそういうことなのだと、思ったのだ。
いや何をメモしておこうかと思ったというのは、その、「恋」という状態についてだ。
確かに、付き合っていた時、結婚したとき、一緒に暮らし始めたときと、そりゃあ楽しいことも嬉しいことも、気持ちいいこともあれば、むかついたことイラついたこと、不快なこともあった。まぁ男女の関係において、人と人との関係において、別にふつうのことである。
じゃあ、それらは、すべて「純粋な感情」であったのかと、その問いに対しては、きっと僕は、今のこの不思議な感覚の中で答えるならば、否だと。
そして、否、と心が言うのをアウトプットしておいて、ああ、じゃあ、それが間違っていたことなのか、どうなのか、なんて、そんなこと分からないじゃないかとは思う。
思いやりについて
誰かを思いやりなさい人の迷惑にならないようにしなさい
人にやさしくしなさい
全部、「自然」にできること?
というか、自然ってなんだよ。感情と行動が一致することが自然? じゃあ、いやいやつまらない仕事をするのは自然じゃないと? それは本来の人間あり方からズレていると? 本当に心から楽しいと、やりたいことだけを仕事にするべきと? 嫌なつまらない勉強はしなくてもいい?
バカか。
感情の大切さは、まぁ、それを知ったのは20歳過ぎてからだけれども、でも、感情だけで生きていていいはずがない。ある程度、理性的に生きることが、大切なことだと思う。「ある程度」ってなんだよ、という突っ込みは置いておこう、ここら辺のことも、これまでに何度か書いているはずだ。うん、そう、本気で書いている事実があることが、安心して次の思考に進める、のだけれども、まぁ、この記事だけ読んだ人がいたときに、きっと、「理性大好きマン」的な、カントの道徳律! みたいな人間にも思えるんじゃないだろうか、この辺りが、文章で自分の内面を表現することのリスクと、徒労感である。(まぁいい、それも何度も書いてきている)
心の底から湧き上がる、誰かにやさしくしたいという思いと、理性的に、こうあるべきだと思って行動した結果と、どちらが大事か、なんて、俺はどっちも大事だと思う。
電車で席を譲ると、その行為が、本当にその誰かが大変そうだから座らせてあげたいと思おうが、お年寄りや妊婦さんには席を譲るべきだという信念をもってその行為をしたところで、俺は、どっちの人も、その行為は褒められるべきだし、すごいことだし、偉いと思う。
思いやりに感情なんているか? 言ってしまえばそういうことだ。
恋という状態について
いやぁ、まったく、中学生みたいな小見出しだな。よくこんなこと頭から出てくるもんだ。という軽口は照れ隠しなのかもしれないが、ええと、だんだん何を書きたいか、夢から覚めて覚醒してくると分からなくなってくるな。
「気持ちが冷めちゃった。もう二度と好きになれない」
と、言われた。でもそれが、今でも、離婚の原因なのかは、よく分からない。恋の成就が結婚? うーん、一緒に生活するってこと、その法的根拠が結婚であって、いやそんなことは大して重要ではないけれども、「好き好き愛してる!」って状態をキープしていないと、結婚生活が送れないというのは、何か違和感だ。
そんなことがなくても、お互い尊敬しあって、一緒に家事とかしたり、助け合って暮らしていくってのがあればいいんじゃないだろうか。……って考え方がもう合わないから一緒にいられない、とでも思ったのかもしれない、まぁそうであれば仕方がないな、むしろ、俺も彼女に対して、「恋」はしていなかったのかもしれない、と。
ということが、まぁひどいことで、こんなこと書いてどうするんだー的なことだ、うん、確かそうだ。
まぁ、書いてしまうと、アウトプットしてしまうと、大したことないのかな、とも思う。まぁ、明日この記事は再読再考だな。消した方がいいという判断になるかもしれん。
でも、同時に、今思うに、ああ、確かに「恋」っていいかもしれんなぁ、とも思った。
いやいや、30代のおっさんが何ゆうとんのw という感じだが、「君の名は」が大ヒットしたのも、そんなみんな、過去に成就しなかった燻った恋の破片欠片が忘れている魂魄に訴えるからなんじゃないだろうか、いや「君の名は」見てないんだけどね。新海さんの作品わりかし好きだったりするから、そんな大ヒットするなら見てみたいなとは思う。
恋、ねぇ。送ったメールが返ってこないとか、今日こんなこと言われたとか。
相手のすべてで頭がいっぱいになると。脳内占有率が殆どを占める状態と。
若い人の勉学への影響が大きいから、男子校とか女子高とかあるのかもしれない。何のこっちゃ。
人間関係と思考について
いやぁ、でもその生き方、つまり、恋なんてせずに、僕がさっき書いたような「人と人」としての在り方とか、そんな、言ってしまえば、「ドライ」な関係しか知らないような、そんな生き方が絶対に正しいのだろうか。まぁ確かに、僕の場合は、「初恋」が上手くいかなかったせいで、「思考さん」が現れて、「どんなに強く思ったって、現実でうまくいかないことはあるんだよ。それが人の心の難しいところなんだよ」とずっと語りかけ続けるようになって、ああそうか、それって、恋人っていうだけじゃなくて、友人とか、その他すべての人間関係だってそうなんだろうな、と。
だから、コミュニケーションの社会学とか、心理学とかもそうだし、心とは、意識とは、そのうち人間とは、と、色々調べたりするようになったのかもしれない。
ということは、これまでずっと、「ドライ」なことを書いてきたわけだけど、反転して、「恋に恋してる」だけなんじゃないか、と。
こんな、今まで書いたことを全否定するような表現も、すぐさま浮かんでしまうところで、もう、僕が、「思考さん」なくして生きられないのだと、こりゃむしろ呪いなのだと、そんな俺に興味ももてなければ一緒にもいたくないから離婚だと、うん、なるほどねーそりゃ仕方がないわ、うんうん。
だから、むしろ、うん、これもひどいことなんだろうけれども、俺は、先ほど取り上げた5分リミッターの方から、離婚した後に言葉をかけてもらって、そのとき、逆に、そのときは流石にそこまでは思わなかったろうが、「リコンシテヨカッタ」とほど、むしろ、いくら物理的距離が近くても、心が離れ、俺に興味をもってくれない人よりも、よほど俺の記事を面白いと言ってくれた方のほうが、大切で嬉しいと、そんな風に、今は、悪夢から覚めた状況だからかもしれないが、でもそう思うのだ。
負担をかけないようにしなければ
とまぁ、敬服信頼しているけれども、あまり負担をかけてはならないと思う。「負担」
新しい言葉がでてきた、何だろう。
高校の時から、何でも話せる人がいた。(いや、今も時おり連絡はとれるから、別にいなくなったわけじゃない)
その人には、本当に、率直に自分の気持ちを語れたから、いろんなことをぶつけた。人間に対しての考え方とか。
最初は、その人の、一個年上だったこともあり、その人の考え方とか、言動が面白くて、夜を通して語り明かしたこととかもある。(何のテーマか全く思い出せんが)
けれども、ずーっとそんなことやってるうちに、半年とか、一年とか経ってくると、やっぱりどこか、お互い相容れない部分がでてくる。
「どうして、こんなに尊敬し、自分のことをよく分かってくれる人なのに、どうしてどうしてこのことをは理解してくれないんだ!」
なんて、逆に親しいがゆえに、相容れない、理解してもらえない部分が歯がゆく、不満を高まらせていく。
今思えば当たり前なのだけれども、やっぱり10代においては、「全人格的な承認」的なのを、相手にもとめがちなのだ。
無理さね。全部その人を理解するなんて。すべての行為を認めることなんて。
俺は、無理だと、「実感」した。
だから、恋なんてしてなくても結婚できるし、生活できるし、と思っていたし、そりゃあ今でも思う。
思うけれども、でも、やっぱり、
理想的には、「恋」っていいもんなんじゃないかと。
本当に何でも話せて、すべて理解しあえる友人関係っていいもんなんじゃないかと。
そうは、思う。
ああ、こりゃあ、矛盾である。だから、徹底的に思考を深めていっても、このありえないユートピア、幻想郷に憧れを抱いていては、どこか綻びはじめ、崩壊するのでは、と。この気づき、この感覚、ああ、なるほど、これについて、今日はメモしておかなければと、きっと、そう「思った」のだろう。
うん、この記事は、「解決」の記事などではない。単なるメモだ。しかし、この「恋」というか、「全人格的な承認」への希求という実感レベルの欠片について触れることができたのはよかった。
完全に夢という、偶然の産物だが。
だから、過去の偉人たちのなかで、夢とか、神の啓示によって何か閃いて、というのは、俺は、結構信じている。ただ、別にそれは超常現象などではなくて、色々頭の中で熟成させた結果、ふとシナプスが繋がったということなのだろうとも思うけれど。脳の神経細胞は150億個だけれど、1000億個もの情報を各神経細胞につたえる神経線維が脳の中にはあるのだという。それらが、ニューロンネットワークとして、同時にマトリクス的に情報を瞬時に伝え、フィードバックすることで、「思考」という状態がうまれるのだという。今日音読した本に書いてあった。
ああ、負担の話しだった、そうだから、5分のリミッターなんて解除して、毎日ブログ更新してもらいたいなとか、そんなことを思ってはよくないということだ。
いや、思うのは僕の自由なのだけれども、それをあまり前面に出してはよくないと。
継続は力なり
続ける、ということが、大事だと思う。だから、日課を再開しようと思ったわけでもあるけれど、1000字の文章を一日で書くよりも、1日200字ずつ5日間で書いた方が、思考への働き掛けも、記憶の定着も、そして読者へ対してもよいと思う。すげー面白い記事書いてるブログとかでも、半年にいっぺんのペースでしか更新されないようなものだったら、そのうち存在すら忘れてしまいそうだ。
ああ、2時半か。何だか、悩みながら、時おり止まって、ゆっくり書いていたから、あまり文量ないけど、もう1時間たったのだな。
これから、再度寝るか、朝まで起きてるか、まぁ、少し頭を休めてから考えるとしよう。
しかし、最近、なんか夢をみることが多いな。レム睡眠か。ノンレム睡眠がとれてない気がする。
うーん……しかし、「恋」かぁ……。これは結構重たい問題だ。自分では気づかなかったけれども、敢えて避けてきた問題な気がする。
ちなみに、問題と課題の違いは、問題はただ厳然と存在し、課題は、問題を解決するために必ずやらなきゃいけないものだ。
故に、これはまだ、「問題」に過ぎない。問題を解くかどうかは、まだ検討の余地があるだろう。しかし、とにかく、徹底的に自己の棚卸をする。表現をする。もう、キモチワルイとか、そんなこと分かってるんだから、徹底的に。ただ、唯一、犯罪に手を染めるとかそんな反社会的には原理的に絶対ならないから安心して欲しいということは、先日書こうとして消えた中にもあったけれども、ただこれって、「大丈夫、終電まで帰すから☆」「カラダ目当てなんかじゃないぜ!」とか言うイケメンたちの反転ロジックみたいだから、うん、やっぱり消えてよかった気もする。
そうなんだよな。だから、いくら精緻に書いたとしても、それって、本当に「内面」なの? 「感情」なの? という問いには、絶対に答えられないのだ。この絶対にというのは、本当に絶対、原理的に無理。クオリア問題も解決などできない。いやいや他者に感情が「無い」など、そんなことを信じるわけではないが、厳密な共通感覚を測るすべはないのだ。
とかく、この記事は、メモであって、自分で読み返したときに価値があるだろう。
今はまだ、毒になるか、薬になるか分からない。
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ドリンク作り
家で美味しい飲み物を作るのは結構楽しい。牛乳を買って、カップの2/3くらい注ぎ、電子レンジで温める。そこに、コーヒーメーカーで、深入りの、ストロング(じっくり抽出)したコーヒーを注ぐ。
美味しいカフェラテの完成だ。
グラスに氷をいっぱいにする。ジンを注ぐ。グレープフルーツジュースをジンと1:1ぐらい注ぐ。炭酸(トニックウォーター)を注ぐ。
ジンモーニの完成だ。(ジンモーニというカクテルは検索してもヒットしない。恐らく、スプモーニ=カンパリ+グレープフルーツルジュース+トニックウォーターの派生だろう)
カフェラテは、豆とか、コーヒーメーカーの選定とか、水の配分とか色々試して、ようやく、満足の行く味を安定して作ることができるようになった。アイスカフェラテもいい感じだが、最近は、ホットのカフェラテをつくる。あったまる。
自分で作ったというのもあるが、普通に、その辺のコーヒーショップ・カフェで飲むのと遜色ないぐらいになった、むしろ、それよか美味しい。コスト的にどうなのかは厳密にはかってないが、コーヒー豆が200g700円ぐらい、牛乳が200円、あと電気代・水が少々。店で飲むやつは、500円とか普通にするから、そう考えると、少なくても4杯以上は余裕で作れるから、間違いなく低コストだ。
しかし、競争相手で手ごわいのは、コンビニのコーヒーたちである。ファミリーマートのカフェラテは180円だが、ローソンは150円だ。そして、味は文句のつけようなく美味しい。
ちなみに、「ラテ」といったときには、スチームされた牛乳に、エスプレッソを注ぐ。さすがに、エスプレッソメーカーは置く場所もないし買おうと思わないから、厳密にカフェラテを作れているわけではないが、深煎りの豆にストロング抽出をかけると、近い味になることが分かった。
属性が与える情報
とか、蒼太の包丁
http://livedoor.4.blogimg.jp/nwknews/imgs/0/8/087789aa.png
で、40歳過ぎのおっさんが、一人で料理してお笑いのテレビみて涙を流すというまさにそんな感じだな!
と思った。
上のような記事も、家族がいて、子どもがいて、家族に作ってあげたら喜んでくれたとか、そんな内容なら、会社のフェイスブックにも投稿できるぐらい微笑ましい温かみを帯びた記事になる。
つまり、同じ内容、同じことを書いたとしても、その人の境遇や、その人自身の「属性」によって、他者に与える印象は大きく変わる可能性があるということである。
この問題をよく描いているのは、
攻殻機動隊2ndGIGの黒幕、合田一人さんだ。
彼は、若いころから英雄になりたかった。けれども、彼のルックスは普通だったため、真面目に研究に取り組んで大きな成果も出すけれど、結局「目立たない奴」という評価しか得られなかった。
そんな彼も、ある事故による「身体的変化」によって、自己の内面も変化させていく……。
これから表現されていることはもう一つ、これは、攻殻機動隊全体のテーマでもあると僕が勝手に思っているが、身体の思考へ与える影響というものだ。
ある40代の筋トレ好きな男性は、とってもポジティブな思考をもって毎日積極的に生きている。
その彼が言うに、筋トレしろと。ぐだぐだ頭で考えてないで、瞑想とかスピリチュアルで悟ったとかウダウダ言ってないで、身体を動かせ、という。
とても、大事なことだと思う。
よし、筋トレ始めようかな。
試験を終えて
いやぁ、ほんと、昨日の夜はショックなことがあったし、朝早かったし、夢見は非常に悪かった。覚えてないけど、死んだじいちゃんが幼い俺になんか教えてくれているとか、そんな郷愁的な夢から、仕事でへぇひぃふぅとあたふたトラブルに対応している夢とか、なんだか目まぐるしく発生して。行きたくないな、さぼっちまおうかなって思いもよぎったが、何とか、奮い立たせていった。
そしたら、改札くぐってから受験票もってくの忘れたことに気づいてダッシュで家をまた往復したり、疲れたしギリギリになったし、大変だった。よく間に合ったものだ。
結果として、無理やりでもいってよかった。
手ごたえは、「あった」。けれども、完全にダメだろう、半分ぐらい分からなかった(笑)。
ただ、序盤に勉強した範囲は、ばっちり、他の選択肢のダメな理由とかまではっきりと、自信をもって答えることができた。いやいや合格しなきゃただの負け惜しみだろう、まぁそうなんだが、ただ、試験で使える知識というより、実感を伴った理解と知識を身に着けるというのが、自分の中で本当の目的だったから、ある程度それが達成されていることが分かってよかったということだ。
ほとんどは、恐らく大学生ぐらいの若い人たちだった。
そして、会場は、ある高校だったが、校舎が、とても綺麗だった。これが学校……?! というほどの衝撃だった。
他に例えば、午前の試験が終わってから、友人たちとわいわい、答え合わせを始める大学生っぽい人たち。
試験終わってから、全部終わってないうちに答え合わせするってのは、やっちゃいけない愚昧な行為である。既に済んだことを言い合ったところで、そもそも、受ける側同士ほんとの答えなんて分からないし、間違っていたとして心配しても取り返しがつかない。
けれども、ふと思った。
まぁ、別にそんなふうにワイワイやってもいいじゃないかと。
合格するって目標に対しては無意味な行為でも、一緒に学んできた仲間たちと一喜一憂するのだって、貴重な体験なんじゃないか、と。
そして、久方ぶりに試験なんてやったけれども、非常に集中した時間だった。もう、全然まったく歯牙にかからない意味不明の問題はさておき、自分が勉強した範囲の内容については、集中し、必死に答えを導き出した。
ああ、試験って、そうか。
これ、「アウトプット」なんだな。
インプットとアウトプットのバランスが大事、と何度も書いてきたけど、「勉強」ってのは、やっぱり、それを発散する場があってこそやりがいがあるのだ。
僕が作ったWEBサイトもそう。誰かみてくれて、反応してくれる人がいるから、電気代も時間もかけて作れるのだ。いや、その作っている作業自体がそれなりに楽しかったりするのだけれど。
勉強だって、その「勉強」ってのは、また、表現がいろいろあるけれども、実は楽しいものだとは思う。
いやいや、学校の勉強なんて面白くなかったスわ。という人だって、ああそうそう、今日その高校の図書室の前を昼休みに通ってみたが、推薦図書とか、新着図書とか掲示板にはってあって、そこに、結構たくさん、ライトノベルがずらり並んでいた。
へー、今の時代、ライトノベルが図書室に置かれるようになったんだな。うんうん、俺が高校の時は、キノの旅ぐらいしか読んだことなかったけれども、難しい文学者の作品もいいけれど、手始めにライトノベルを学ぶのだっていいんじゃないかって、当時思ったことがあったような気がしたのを少し思い出した。
まぁ、「不合格」って通知をみるのは、きっと落ち込むんだろうけれど、ちょっとそれみてから、今後どうしようか考えよう。けれども、何だか、リベンジしてやるぞ、って少しやる気が、今時点は維持できている。もうちょっと、長期的な目標・目的を立てて、再度望んでみたい。
やりたいことリスト
さて、30代に必要なことは、とか、夢の探し方とか、帰りの電車で調べてみた。もう、やっぱり、グーグル検索とかでヒットする記事に、何ら感銘は覚えない。アクセス数は数万HITとかあるのだろうけれども、正直「くだらない」記事ばかりだ。
それより、今、その一人として、現時点、生きているというその個人的なブログの方が、何倍も面白いし、参考になることが見つけられる。
グーグルの記事の多くは、「答えがあります!」と最初結論が書かれてあって、途中、何だか偉そうなこと書いて、その人の経験とか、何だかの書籍でこうあったとかもっともらしいことが書かれて、最終的に、「生きる意味は、即答できます! 妻と子供のために頑張ることです!」とか、アホかと。読んだ時間返してくれと割かし本気で思った。
「30代、これだけはやって置かないと絶対に後悔する5つのこと」
とか、え、まじ、何それ、俺わかってないよ、気になるよ!
と扇動される見出しが多いけれども、もう、必要ないわ。
その全部が、表現レベルだと分かってることばかりだ。
いや、その書かれていることが正しいとか間違ってるとか、そこがポイントではない。
問題は、「実感」できるか、「感動」できるか、ということだ。
そんな自己啓発的な表現を読む時間があれば、よほど、面白い漫画読んだ方が有意義である。
まぁその、「面白い」ってのが、中々見つけられないんだが。
だから、友人知人からの紹介などは重要だ。「もつべきものは人脈である」とか、そんな表現、たくさん溢れてるわけだが、そんなこと分かってるのだ。じゃあどうやってそんな大切な人脈作ればいいのか、それは「いろいろ頑張ってね!」と結局精神論ばかりだ。
もう一つ、俺としてはバカバカしいと思ったが、きっと多くの読んだ人は、きっと間にうけるんだろうなぁと思った表現は、「×0.9」の人とは付き合うな、的なものである。
つまり、掛け算をして、自分の価値がその人と付き合うごとに下がっていくというものだ。
30代になれば、付き合う周りの人を選びなさいとか、そんな表現もたくさんある。
アホかと。
いや、その「表現」としては、まさしく、僕が言う「反転しないポジティブ」として、正しい。当たり前だ、自分をどんどん、マイナスに落とし込もうとする悪い奴らとの付き合いが、必要なはずはない。
ただ、すぐさま気づくべきは、そもそもその後生大事にしようとしている、自分自身の価値とはなんだ? そして、その「×0.9」の人間とはどんな人間だ? ぐちぐち、マイナス思考な奴?
ああ、そうか、俺のことか(かっこ笑い)。
それは置いておいて、その、自分を押し下げる人間ってのを、どう判断するか、そこに既に価値観が入り込んでいる。例えば、貧乏な人だったり、低学歴な人だったり。不細工な人だったりするかもしれない。仕事が遅い人? 口数が少ない人?
他者がどうあるべきか、って前に、まず、自分がどうあるべきか、そのイメージが重要なのは言うまでもない。
そういう意味では、僕もまた、その笑い飛ばした記事と、同じことを目指し、やろうとしているだけなのだ。
まず、自分を確立しようと。故に、他者のへらへらした言葉になどもう惑わされないようにしようと。
その、「へらへらした言葉」を発する人たちが、俺にとって、「マイナス」だとか、「×0.9」の人たちである。
しかし、むしろ、俺は、ノー思考の「ポジティブ」な言動をとる人たち、「生きる意味なんて考えても無駄」とか、「未来なんて考えてもどうせ分からないから今を楽しく生きよう」とか、そんなレベルで止まってしまう人をむしろ「害悪」として捉えるだろう。
自己啓発表現の無価値性
けれども、だからといって、じゃあ、「思考」「価値観」が俺と不一致な人間を全部遠ざけるとか、そんなことするはずがない。人の一面だけ切り取って、この人は「あわない」から切り捨てるとか、アホである。
「全人格的な付き合い」の崩壊。
選択的な付き合い。
他者とのチャンネルの切り替え。
なんか、専門用語的なのがあった気がするが、思い出せないけれども、つまり、コミュニケーションの方策として、プライベート全部丸抱えで付き合うみたいな、職人徒弟制度のような対人関係方策は、もはや有用ではないと。
映画みにいくときは●●ちゃん、恋人は○○君、一緒に勉強するのは▼▼ちゃん、買い物行くのは◇◇ちゃん……とか。
その場面に応じて、付き合う相手を変えるという。
SNSとか、ブログとかの、「コミュニティ」ってのが、そういう社会心性を満たすために作られたソーシャル機能である。
コミュニティの中には、誰でもカモンな奴もあれば、パスワード付限定のやつもある。
自分自身の要素を、様々な所属組織に委託して、自分の快感情を高めようとするのだ。
となったとき、もう、誰がマイナスで、誰が×0.9とか、そんな判断が無意味なことが分かるだろう。
どのみち、有限な一日の時間において、他者にさけるリソースは限られている。
別に、わざわざ表現してまで、重要性を説くことなどではないのだ。
……とか言いつつ、何故大真面目に反論を書いてしまっているのか。いや、別に反論ではない。自分の中の整理だ。
昨日から、色々、整理していたのだった。消えてしまったが……。今日は反省して、こまめに保存をしながら書いている。
憎しみについて
憎しみとは何ぞや。昨日、「犯罪」について書いていたのは、この他者を憎むって心性が何故起きるのかのメモのために書いていた。
そもそも、犯罪って書いてしまうと、思想犯とか、イスラムの教えに背いたとか、姦通したとかいう理由で犯罪になって石打ちの刑になったり、現代日本人の感覚ではハテナ、となるものも世界では多い。
イギリスでは、議会で死ぬことは法律的に禁じられているという。議場で死ぬと、国葬しないといけないからだとかなんとか。フランスでは豚にナポレオンと名付けてはいけないとか、そんなことが法律だったり。
犯罪といっても、その時代、その状況、その価値観などによって、何が罰せられるか異なっている。犬を殺したら死罪じゃ? 的な法もあったそうな。
だから、一様に犯罪について書いても仕方がなくて、ここでは、人を憎くて殺してしまうという心性についてである。
殺したいほど憎い、というのは、思考が足りてない愚か者である、と昨日書き捨てた。
これが、きっと、炎上の理由にもなりそうで、あえて、忍者ブログさんが、こんなこと書いちゃいけないよと、ブラウザをクラッシュさせたのではなかろうか。
確かに、今思うと、何故そんなこと書かなければいけなかったか、自分でも皆目つかない。だからこそ、本当に、今この瞬間におけるアウトプットが非常に重要なのだ。
一秒でも過ぎてしまえば、もう紡げない言葉。けれども、その言葉に、もしかすると、これから重要視すべき、一瞬で消えるような思い付きではなくて、自分の信念としてインプットすべきようなことが含まれているかもしれないのだ。
少し思い出してみようとしても、やっぱりだめだ。この憎しみについて、という表現は、いまいちよく分からない。例えば、恋人が殺されたとか、親が強盗にあって殺されたとか。弱みを握って金銭を強請ろうとしてくる奴とか。
凄惨ないじめをしてきたいじめっ子とか。犯人を殺したいほど憎い、と思う心性というのは理解できる。
そうすると、先ほど書いてきた、「×0.9」の人間と付き合うな、とか、ほんとむしろその通りだと納得するぐらいなのだ。いや、まぁ、そんなクソったれな奴らは、0.9どころか、0.1いや、マイナスだろうし、話しにならないんだろうけど。
そう、だから、さっきの話しの整理は、はっきりいってあまり意味がなくて、ああいうことを書いたり考えても、何ら意味はないと、逆にそのことを覚えておくためのメモなのだ。
今日はプチ旅行に行ってきて、先ほど帰ってきた。そして明日は、ブログに書いてある試験日である。が、2か月間全く勉強できなかった。2か月である。勉強できなかったから受からないことは仕方がないが、お金も既に払っているし、勉強しに行くつもりで行くだけは行ってこようと思う。
そして、勉強しなかったというのは、「落ちたときの言い訳」のようにも思える。半年前(もう半年前なのだ)に、自分の「頑張る力」を試すために、絶対に合格してやると、そう書き残し、望んできた、はずなのにこのざまである。そして、追い込みをするでもなく、その2か月の無勉強の上塗りに、こうしてブログを書いているという体たらく。
しかし、その試験に受かるというよりも、知人との旅行の方が、重要だと思い、今も思っているのは、間違いではないだろう。問題は、むしろ、勉強との両立ができなかったことであり、これは、真摯に受け止めておこう。
このことは間違いなく、僕は信じている。
しかしながら、では、「幸せな人生」を送れるかというと、別の話しである。まず、「本当に得たいと思ったもの」という表現自体が、曖昧模糊である。だから、この僕の信じていることは、「概念」として信じているだけであり、実現可能、再帰性をもった、「ハウツー」ではない。これはどちらかというと、信念の部類に入る。価値観といってもいい。
その、強いイメージ……、このことを信じているが故、思考をたゆまなく、不可逆的に、反転させ続け、深く何層も重ねていくのだ……いや、いかなければいけないのだ。
これは、最近の強度を伴った実感からは、「恐怖」なのではないかと思う。恐怖、怖れ。何からの? それは、僕の信念=「強くイメージしたものは実現する」ということだ。
これを、少し簡単に表現してみると、強くイメージされたこと、つまり、脳内支配率(頭の中で考えている度合)が高いものは、それに対するアプローチのため、様々な現実的な行動方策が「実現」する。
「大学に合格するぞ!」
これを果たすために、例えば、実際に自分が行きたい大学で、その大学のキャンパスで過ごしている、学んでいる、友人たちと会話している、思索を深めている具体的イメージを高めることは有効である。
ここから話しが少し展開する。
その具体的イメージ、そのイメージ力ですべてが実現するというのは、どちらかというとスピリチュアル的な方策である。
スピリチュアルなことを僕が信じていながら、逆転してそのうさん臭さに苛立ちを感じるのは、その現実世界(物理環境)との乖離である。
つまり、いくら脳内イメージを高めたとしても、それに行動が伴わなければ、何ら変化は起きないのである。(話はそれるが、すぐさま言っておかなければいけないのは、この「行動」とは、決して、リアルな環境のそれだけを差すのではない。例えば、この二次元なブログでさえも、「行動」に他ならないのだ。それによって、僕は、これまで僅かばかりにしか得られていなかった、他者の凄さを感じて打ちひしがれるというカタルシスを得ることができた。そして、そんなすごい感動を与えてくれた人に、ある程度認めてもらえているというコメントを読んで、二重に「感動」したのである。感動がカッコつきなのは、どうにも、特殊な心の動きであったと思うからなのだけど、よい表現がすぐに浮かばず、話しの本筋からそれることがこれほど長くなっている、閑話休題。)
思い出せ、今回、残り少ない時間で、とにかく整理し、書き残しておかなければと思ったことを。
強くイメージしたことは現実化する。しかしそれは、「行動」があってのことである。その行動とは、二次元等含めた「すべて」である。「すべて」としたときに、では、頭の中でイメージする「だけ」のことでも、自分の目的(強くイメージした、本当に得たいと思ったこと)は実現できるのではないか。それはその通り。ただし、その「強くイメージした」ことは、決して、「幸せ」とは限らない、ということだ。
あ、思い出してきた。
だから、僕は常々、「ポジティブでしかいられない」と書いている。これは、ポジティブ思考と一般に言われているものではなく、むしろ、すべて実現してしまうことの恐怖の表現だ。
つまり、マイナス的なことで脳内占有率を高めてしまえば、それに伴った「行動」が発生し、それは更に脳内を「汚染」し、更なる行動を起こし、ますます、「自分が望んだ自分」へと、突き進んでいくのだ。
こわー。
そして、二つ目に怖いのは、その「自分が望んだ自分」ってのが、実は簡単に表現できるものではないのだ。
おっとまってくれ、そもそも、僕のようにこんな変態な言葉を書く人はあまりいないようにも思えるが、では、言葉によって表現しない人、ブログを書かない人は、自分が望んだ自分ってのを理解できていないのか。否、即答で否。しかし、それが、自分が本当に考えている自分なのか、実は「ズレ」があるのかは、深い位置まで表現をしていかなければ決して分からない。ただ、その深い表現が必要かどうかはまた別の話しであり、その「望んだ自分」が、「正解」であり、「真実」であり、「幸せ」なら、こんな表現たちは不要だ。
実感について、ええと、実感、そう、実感だ。
じゃあ、その望んだ自分ってのを、表現しようじゃないかと。それが、モチベーションを高めたり、実現したい目標を設定したり、日々を行動したりするための、重要な準拠点になるのだから、と。
その望んだ自分ってのが、「目的」そのものなのだと。生きる意味なのだと。そう考えたわけだ。
だから、正確に、その望んだ自分ってのを描写しなければいけない。
それには、「実感」が重要になる。実感、自分が感じることだ。こういう行動をしたらこうなるとか、こういう態度を取られたらこう思うとか、その感情そのもののことを実感という。そこに、こんな「思考」の介在はない。ゼロ秒思考がそれに近いけれども、厳密には、言葉すら必要ないそのものの感覚というものなので、
ぎゃああああああああ
1時間ぐらいかけて書いてたのが、ブラウザの強制終了で消えたアああああああああああああ
もう、この忍者ブログになってから、3回目だが、もう今書いてたこと、多分、もう二度と、
二度とかけねえええええええ
うああああああああああ
落ち着こう、落ち着こう。ショックは大きい。もう、何か、お気に入りのカップを割ってしまったとか、そんな物的ショックなんかよりも、「思考」のショックは大きい。
この前、小説書いていたら、ワードがクラッシュして全部消えたとか。この新しいPCにしてからひどい目に結構あってるな……。
まぁ、仕方がない。
かなり、「危険」なことを書いていた。犯罪者についてとか。これまで敢えて書かなかったようなことも、全部書いていた。
それ、やめた方がいいよと、そういうことなんだろう。
まだ、時期尚早だったんだろう。それこそ、炎上するようなことだったのだろう。うん、落ち着いて、冷静になって、結果、それがよかったことだったと、何か、そう思えてきた。
取りあえず、思い出せることだけ書いてみるか。
とにかく、こまめな保存は、本当に重要だ。
まず、「自殺」が、論理的に、正しいという結果になったということだ。
いや、大真面目に、書いていて、「実感」レベルで、そう思ったのだった、だから、本当に焦った。死ぬことが正しいってことになったら、今すぐそうしなきゃいけなくなる。
けれども、やっぱり、死ぬのが怖いんだな、ってことが分かった。それに至るまで相当な文量があったが、畢竟、死ぬのが怖いから、生きる意味とか、そんな「保留」にして、後回しにして、取りあえず生きているのだろうと。で、その死の恐怖からの解放されたければ、さっさと死ねばいいじゃんと、まぁ、そういうことだ。まとめると短いな。いや、もっとたくさん表現してたのに……。
ああそうそう、何でそんな話になったかというと、旅行の帰り、ネカフェによって、「シグルイ」って作品読んだからだ。
その作品で、切腹して自分の大腸引きずり出して、真剣の御前試合などやめてください上様、と家臣。それを見てほくそ笑む城主。それをみて自分の行為が無駄だったと実感し、「暗君……」と息絶える家臣。
無駄死にじゃねーかと。無駄死に、ホント、無駄死に怖い。
そんなシーンが描かれる作品だったら、そりゃあ、最後は何かあるんじゃないかと、最後まで見てしまう。とか。そんなこと書いていたような気がする。
ただグロいだけの作品って、暗澹とした気分しか与えないだろうと。
でも、だからといって、ポジティブな作品があふれれば、そのポジティブな作品は揺らぐだろうと。何故なら、ポジティブは所詮、ネガティブの相対概念に過ぎないのだからと。
ただ、ああ、そう、「炎上」の構造について書いて。
だから、文章で、他者に自分の内面を伝えるってのは、本当にリスキーで、しかもリターンは少なくて、バカバカしい行為だと。だから、他者を頼っても無意味なんだと、そんな風に書いてきたのだけれども、それと同時に、自分の中に、どこか、分かってほしい、理解してほしい、そして、
そして、いつか、一緒に考えてくれる誰かが現れないかと、そんな風な、滓かな思いも、確かにあったと。
だから、……、ああ、ここからは、書いて消えたことの思い出しではなくて、ようやく、現時点的な浮かんだことだけれど、先般のカバネリの考察記事で感激したのは、その考察記事自体の物語性も一つであるが、その、僕があんまりおもしろくないなと思った敵についてだ。
その敵、「父親が憎くて復讐する」という目的しかないと僕は思った。けれども、同時に、でも確かに、そんな敵に、カバネというゾンビ軍団をメッタメッタ倒せる実力をもった多くの部下たちが付き従うだろうかとも思ったのだ。
だから、違和感はあったのだけれども、それゆえ、その程度の目的しか持たないけれどもイケメンで強いから多く部下を集めることができた、的な、軽い物語であるのだと、そう思ったから、後半が面白くないと思ったのだ。
いや違うと。
そうじゃねぇと。その敵は、本当の強い心を、恐怖に打ち勝つ心をもっていたのだと。
その一本筋が通った洞察に震えたのである。
で、次に、ここからは、考察記事自体ではなくなるが、「一緒に立ち上がろうぜ! 人類の未来のためには、こんな塀の中で暮らしていてもいずれジリ貧になるだけだ。外にうってでなければならないんだ!」とその思い、それが、実は、僕が、押し殺そうとしていた思いの一つであったと、イケメンでも強くもない俺なんだけど、その点に非常に共感したのだった。
誰も頼れない。
けれども、どこか、一緒に考えてほしい、と。
一緒に戦ってほしいと。
その思いって、とっても、辛く重いものだと思う。だから、そうだとしたら、同じく熱い思いを持って、カバネを駆逐してやるって立ち上がった主人公を、自分がもう助からないなら、死なすわけにはいかないと、最後に助けるのも、よく分かるのだ。それはなんと悲痛な希望か。
(完全に余談だが、カバネリの主人公は非常にかっこよかった。fateのシロウくんみたいでよかった。シロウくんほどの過去は抱えていないように思いつつ、その過去が重ければ偉いのかってそんなわけじゃないしその点は構わない。辛い過去を背負ってないと「熱い思い」のリアリティがないかなんて、そんなことはない。それこそ、「比較思考」――自分より辛い人はいる、とかそんなこと考えても無駄だ)
いや、思い出せない思考なんて、所詮無駄なんじゃない?
いやいや、そういうものじゃない。ホント、その流れ、そのとき、その環境、その気分、その状況でしか生み出せないものはある。
それを公開していいものかどうかとか、これをアウトプットしていいものかと、そういう、自責と、虚飾と誠実さとの狭間に悩んでいると、結局何も書けないとかが発生する。
ああ、ちょっと思い出した、ある精神科医のブログにおいて、「昔は黒歴史たくさんネットにあふれてたけど、今やエセ黒歴史ばっかになって、もうやめた」ってのを読んだのと、ある40代のバリバリ最前線で働く方の「そのうちAIで仕事なくなっちまうかもしれないが、いやぁ、変化があるから人生って楽しいもんだな」ってのを読んだのも、思考に展開があった一要因だった。
けれども、もう紡げない。
そして、この記事のタイトルも消えて無題となっている。
よし、じゃあ、この記事のタイトルは、こうしよう。今日は以上。
そして、勉強しなかったというのは、「落ちたときの言い訳」のようにも思える。半年前(もう半年前なのだ)に、自分の「頑張る力」を試すために、絶対に合格してやると、そう書き残し、望んできた、はずなのにこのざまである。そして、追い込みをするでもなく、その2か月の無勉強の上塗りに、こうしてブログを書いているという体たらく。
しかし、その試験に受かるというよりも、知人との旅行の方が、重要だと思い、今も思っているのは、間違いではないだろう。問題は、むしろ、勉強との両立ができなかったことであり、これは、真摯に受け止めておこう。
モチベーションの維持
強くイメージして、本当に得たいと思ったものは、必ず実現し、手に入れることができる。このことは間違いなく、僕は信じている。
しかしながら、では、「幸せな人生」を送れるかというと、別の話しである。まず、「本当に得たいと思ったもの」という表現自体が、曖昧模糊である。だから、この僕の信じていることは、「概念」として信じているだけであり、実現可能、再帰性をもった、「ハウツー」ではない。これはどちらかというと、信念の部類に入る。価値観といってもいい。
その、強いイメージ……、このことを信じているが故、思考をたゆまなく、不可逆的に、反転させ続け、深く何層も重ねていくのだ……いや、いかなければいけないのだ。
これは、最近の強度を伴った実感からは、「恐怖」なのではないかと思う。恐怖、怖れ。何からの? それは、僕の信念=「強くイメージしたものは実現する」ということだ。
これを、少し簡単に表現してみると、強くイメージされたこと、つまり、脳内支配率(頭の中で考えている度合)が高いものは、それに対するアプローチのため、様々な現実的な行動方策が「実現」する。
「大学に合格するぞ!」
これを果たすために、例えば、実際に自分が行きたい大学で、その大学のキャンパスで過ごしている、学んでいる、友人たちと会話している、思索を深めている具体的イメージを高めることは有効である。
ここから話しが少し展開する。
その具体的イメージ、そのイメージ力ですべてが実現するというのは、どちらかというとスピリチュアル的な方策である。
スピリチュアルなことを僕が信じていながら、逆転してそのうさん臭さに苛立ちを感じるのは、その現実世界(物理環境)との乖離である。
つまり、いくら脳内イメージを高めたとしても、それに行動が伴わなければ、何ら変化は起きないのである。(話はそれるが、すぐさま言っておかなければいけないのは、この「行動」とは、決して、リアルな環境のそれだけを差すのではない。例えば、この二次元なブログでさえも、「行動」に他ならないのだ。それによって、僕は、これまで僅かばかりにしか得られていなかった、他者の凄さを感じて打ちひしがれるというカタルシスを得ることができた。そして、そんなすごい感動を与えてくれた人に、ある程度認めてもらえているというコメントを読んで、二重に「感動」したのである。感動がカッコつきなのは、どうにも、特殊な心の動きであったと思うからなのだけど、よい表現がすぐに浮かばず、話しの本筋からそれることがこれほど長くなっている、閑話休題。)
イメージと行動の関係
ああ、しまった、やはり逸れた話を書いていたら、流れが全く分からなくなった。このままではこの記事も失敗してしまう。思い出せ、今回、残り少ない時間で、とにかく整理し、書き残しておかなければと思ったことを。
強くイメージしたことは現実化する。しかしそれは、「行動」があってのことである。その行動とは、二次元等含めた「すべて」である。「すべて」としたときに、では、頭の中でイメージする「だけ」のことでも、自分の目的(強くイメージした、本当に得たいと思ったこと)は実現できるのではないか。それはその通り。ただし、その「強くイメージした」ことは、決して、「幸せ」とは限らない、ということだ。
あ、思い出してきた。
望んだ自分について
つまり、僕の信念は、人間は、「思い通りの人間になる」ということなのだけれども、その「思ったこと」というのをコントロールするというのは、実は結構大変なのだ。だから、僕は常々、「ポジティブでしかいられない」と書いている。これは、ポジティブ思考と一般に言われているものではなく、むしろ、すべて実現してしまうことの恐怖の表現だ。
つまり、マイナス的なことで脳内占有率を高めてしまえば、それに伴った「行動」が発生し、それは更に脳内を「汚染」し、更なる行動を起こし、ますます、「自分が望んだ自分」へと、突き進んでいくのだ。
こわー。
そして、二つ目に怖いのは、その「自分が望んだ自分」ってのが、実は簡単に表現できるものではないのだ。
おっとまってくれ、そもそも、僕のようにこんな変態な言葉を書く人はあまりいないようにも思えるが、では、言葉によって表現しない人、ブログを書かない人は、自分が望んだ自分ってのを理解できていないのか。否、即答で否。しかし、それが、自分が本当に考えている自分なのか、実は「ズレ」があるのかは、深い位置まで表現をしていかなければ決して分からない。ただ、その深い表現が必要かどうかはまた別の話しであり、その「望んだ自分」が、「正解」であり、「真実」であり、「幸せ」なら、こんな表現たちは不要だ。
実感について
(忘れっぽい俺は、小見出しを先にキーワードとして書いておいて、後から書き足していくって書き方の方がいいかもな)実感について、ええと、実感、そう、実感だ。
じゃあ、その望んだ自分ってのを、表現しようじゃないかと。それが、モチベーションを高めたり、実現したい目標を設定したり、日々を行動したりするための、重要な準拠点になるのだから、と。
その望んだ自分ってのが、「目的」そのものなのだと。生きる意味なのだと。そう考えたわけだ。
だから、正確に、その望んだ自分ってのを描写しなければいけない。
それには、「実感」が重要になる。実感、自分が感じることだ。こういう行動をしたらこうなるとか、こういう態度を取られたらこう思うとか、その感情そのもののことを実感という。そこに、こんな「思考」の介在はない。ゼロ秒思考がそれに近いけれども、厳密には、言葉すら必要ないそのものの感覚というものなので、
現実とイメージとの距離について
あ恐怖について
あああああぎゃああああああああ
1時間ぐらいかけて書いてたのが、ブラウザの強制終了で消えたアああああああああああああ
もう、この忍者ブログになってから、3回目だが、もう今書いてたこと、多分、もう二度と、
二度とかけねえええええええ
うああああああああああ
落ち着こう
落ち着こう。落ち着こう、落ち着こう。ショックは大きい。もう、何か、お気に入りのカップを割ってしまったとか、そんな物的ショックなんかよりも、「思考」のショックは大きい。
この前、小説書いていたら、ワードがクラッシュして全部消えたとか。この新しいPCにしてからひどい目に結構あってるな……。
まぁ、仕方がない。
かなり、「危険」なことを書いていた。犯罪者についてとか。これまで敢えて書かなかったようなことも、全部書いていた。
それ、やめた方がいいよと、そういうことなんだろう。
まだ、時期尚早だったんだろう。それこそ、炎上するようなことだったのだろう。うん、落ち着いて、冷静になって、結果、それがよかったことだったと、何か、そう思えてきた。
取りあえず、思い出せることだけ書いてみるか。
とにかく、こまめな保存は、本当に重要だ。
まず、「自殺」が、論理的に、正しいという結果になったということだ。
自殺
なんだっけ?(かっこ笑い)いや、大真面目に、書いていて、「実感」レベルで、そう思ったのだった、だから、本当に焦った。死ぬことが正しいってことになったら、今すぐそうしなきゃいけなくなる。
けれども、やっぱり、死ぬのが怖いんだな、ってことが分かった。それに至るまで相当な文量があったが、畢竟、死ぬのが怖いから、生きる意味とか、そんな「保留」にして、後回しにして、取りあえず生きているのだろうと。で、その死の恐怖からの解放されたければ、さっさと死ねばいいじゃんと、まぁ、そういうことだ。まとめると短いな。いや、もっとたくさん表現してたのに……。
ああそうそう、何でそんな話になったかというと、旅行の帰り、ネカフェによって、「シグルイ」って作品読んだからだ。
その作品で、切腹して自分の大腸引きずり出して、真剣の御前試合などやめてください上様、と家臣。それを見てほくそ笑む城主。それをみて自分の行為が無駄だったと実感し、「暗君……」と息絶える家臣。
無駄死にじゃねーかと。無駄死に、ホント、無駄死に怖い。
そんなシーンが描かれる作品だったら、そりゃあ、最後は何かあるんじゃないかと、最後まで見てしまう。とか。そんなこと書いていたような気がする。
ただグロいだけの作品って、暗澹とした気分しか与えないだろうと。
でも、だからといって、ポジティブな作品があふれれば、そのポジティブな作品は揺らぐだろうと。何故なら、ポジティブは所詮、ネガティブの相対概念に過ぎないのだからと。
あと何だっけ
とにかく、メモしなきゃというか、非常に、何か一つ、展開できる気がした、何かがあったのだけれど、それは一瞬のことで、それは、結局、自分の中にまだインプットできるほど確かなものではなくて、だからこそ、書いておかなければと、本当に、強く強く思ったことがあったけれども、何だか全部消えた脱力感で、なんかもう今日はダメだ。ただ、ああ、そう、「炎上」の構造について書いて。
だから、文章で、他者に自分の内面を伝えるってのは、本当にリスキーで、しかもリターンは少なくて、バカバカしい行為だと。だから、他者を頼っても無意味なんだと、そんな風に書いてきたのだけれども、それと同時に、自分の中に、どこか、分かってほしい、理解してほしい、そして、
そして、いつか、一緒に考えてくれる誰かが現れないかと、そんな風な、滓かな思いも、確かにあったと。
だから、……、ああ、ここからは、書いて消えたことの思い出しではなくて、ようやく、現時点的な浮かんだことだけれど、先般のカバネリの考察記事で感激したのは、その考察記事自体の物語性も一つであるが、その、僕があんまりおもしろくないなと思った敵についてだ。
その敵、「父親が憎くて復讐する」という目的しかないと僕は思った。けれども、同時に、でも確かに、そんな敵に、カバネというゾンビ軍団をメッタメッタ倒せる実力をもった多くの部下たちが付き従うだろうかとも思ったのだ。
だから、違和感はあったのだけれども、それゆえ、その程度の目的しか持たないけれどもイケメンで強いから多く部下を集めることができた、的な、軽い物語であるのだと、そう思ったから、後半が面白くないと思ったのだ。
いや違うと。
そうじゃねぇと。その敵は、本当の強い心を、恐怖に打ち勝つ心をもっていたのだと。
その一本筋が通った洞察に震えたのである。
で、次に、ここからは、考察記事自体ではなくなるが、「一緒に立ち上がろうぜ! 人類の未来のためには、こんな塀の中で暮らしていてもいずれジリ貧になるだけだ。外にうってでなければならないんだ!」とその思い、それが、実は、僕が、押し殺そうとしていた思いの一つであったと、イケメンでも強くもない俺なんだけど、その点に非常に共感したのだった。
誰も頼れない。
けれども、どこか、一緒に考えてほしい、と。
一緒に戦ってほしいと。
その思いって、とっても、辛く重いものだと思う。だから、そうだとしたら、同じく熱い思いを持って、カバネを駆逐してやるって立ち上がった主人公を、自分がもう助からないなら、死なすわけにはいかないと、最後に助けるのも、よく分かるのだ。それはなんと悲痛な希望か。
(完全に余談だが、カバネリの主人公は非常にかっこよかった。fateのシロウくんみたいでよかった。シロウくんほどの過去は抱えていないように思いつつ、その過去が重ければ偉いのかってそんなわけじゃないしその点は構わない。辛い過去を背負ってないと「熱い思い」のリアリティがないかなんて、そんなことはない。それこそ、「比較思考」――自分より辛い人はいる、とかそんなこと考えても無駄だ)
データ喪失の心的ダメージ
ああ、でも、ほんと、時間を無駄にした。いや、思い出せない思考なんて、所詮無駄なんじゃない?
いやいや、そういうものじゃない。ホント、その流れ、そのとき、その環境、その気分、その状況でしか生み出せないものはある。
それを公開していいものかどうかとか、これをアウトプットしていいものかと、そういう、自責と、虚飾と誠実さとの狭間に悩んでいると、結局何も書けないとかが発生する。
ああ、ちょっと思い出した、ある精神科医のブログにおいて、「昔は黒歴史たくさんネットにあふれてたけど、今やエセ黒歴史ばっかになって、もうやめた」ってのを読んだのと、ある40代のバリバリ最前線で働く方の「そのうちAIで仕事なくなっちまうかもしれないが、いやぁ、変化があるから人生って楽しいもんだな」ってのを読んだのも、思考に展開があった一要因だった。
けれども、もう紡げない。
そして、この記事のタイトルも消えて無題となっている。
よし、じゃあ、この記事のタイトルは、こうしよう。今日は以上。
昨日、朝は、過去の記事など整理して、投稿して、力尽きて13時過ぎまで寝ていた。
喉の痛みと鼻水はまだ残っている。
うーん、しかし、困ったなぁ。過去の自分に対してかけてやれる言葉がない。はっきりいって、自分で妄執をつくりだしてその妄執と戦って精神をすり減らして内へ内へと自虐しているようにしか思えないのだけれども、間違いなく精神的に疲弊していることは言える。
過去に遡れば遡る程その度合いが強く読み取れて、時おり、合わせ鏡のように、過去の記事の中でそれよりさらに過去の記事に言及し、あの頃に比べたら今は幸せだなぁとしみじみ言ってる構造、なんだそりゃ。
そして哀しいかな、今の俺自身も、やっぱり、ああ、過去には戻りたくねぇなって思う。
そうすると、特に、かけてやる言葉もなければ、今の俺にとって何か役に立つようなことも浮かばない。
まぁ、取りあえず、生かしておいてくれて、ありがとう……?
なんか変だ。
なんだ、全然、言葉が出てこない、どうしたんだ。ただ、すごく、疲労感、これ、風邪のせいだけじゃなさそうだ。
お疲れ様って、そう言ってやるべきかな。いやぁこれは、確かに自分自身への言葉で、キモチワルイこと限りないところだが、逆に、思うに、過去の自分すら救えないで、他の誰か、苦しんでる人を救えるのだろうか。
ただ、寄り添ってやるぐらいしかできんだろうな。よく頑張ってるよ、お疲れ様、大丈夫、絶対今よりよくなるから……なんて、そんな言葉吐けるのか?
俺は、やっぱり、ハッピーエンドにならなきゃダメだと思う。
自分という、人生という物語において、色々困難や苦悩はあったけど、最後は、生きててよかった、充実した人生だった、と。
他にも、無職転生という作品の作者は、最終的には書籍化してプロになった(元々そっち系の人だったという話もあるが)けれども、元々は無料投稿サイトで更新を続けて有名になっていった。
なんか、そういうすごい人たちは、是非とも、自分の才をいかんなく発揮し、多くの人に感動を与えてほしいと思う。
俺は、何ができるんだろう。
初音ミクのこの曲も、もう何年前に見つけたのか忘れたけれど、時おりふと思い出して聞きたくなる。
この作者さんも、別に音楽で飯をくってるわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。
でありながら、人の、何か表現したい、生み出したいという欲求というのは、何と大きいことかと思う。
僕も、何か創りたいのだけれど、俺は、何ができるんだろうか。
そういえば、昔SNSでこんなブログのような評論なのか愚痴なのか分からないようなこと書いてたら、ある人が、「僕も遠藤くんのように何かイイこと書こうと思ったけど、何も浮かばず、やめた」という日記を書いていて、そのとき、何だか、本当にうれしかったことを、何故か今思い出した。
ただし、本当に自分がそう思っているのか、それを目指したいのかは別だ。
その自分が本当に望んだこと、思ったこと、それをそのまま表現し、それがそのまま、誰かに受け入れられるという。
この体験、このことこそが、僕は、本当に嬉しいと、楽しいと、充実したと思えるのではないか、と今思った。
だから、上にかいたSNSの僕にしては「くだらない愚痴の数々」を、「イイこと」「面白いこと」「深いこと」として感じてくれたその人に、とても嬉しく思ったのではないだろうか。
おいおい、お前は、まさか時間がだんだんなくなってきたからといって、まさか、こうしたブログのような駄文を「ライフワーク」とか言い出す気じゃなかろうな。
え、ダメ? そうか、ダメだよな。駄文はどこまでいっても駄文だ。それを作品とするには、「エンディング」がないといけない。死ぬまで駄文書き続けてどうするつーんだということだ。
考える生き方の作者さんも、何となく、55歳になって、それで、あーやっぱり失敗だったな、空っぽだったなーと言いながら、子供いるし、何やかんや著作を残して、仕事して、難病と闘いながら生きてるじゃないか。
お前、今、55歳とか、80歳とかなって、何ができるようになるんだ? 何を創り出せるんだ?
いやいや、役に立つかどうかはあまり関係ないにしろ、お前、それで十分なんか? と。
「俺」という痕跡を、この歴史に残せなくていいのか、と。
なんとなんと! 僕の口から、歴史に名を残すとかでてきやがった! 笑える! これが書いていると発生する面白い現象だ。頭の中だけで悶々させていては、決して出てくることはなかったであろう発言!
まぁもう少し真面目に考えてみよう。歴史に名を残すとして、この広大莫大なインターネット世界において、どうやってその痕跡を残すというのか。
まぁ、もし、また結婚するとしたら(相手も見込みもないが)、こうした記事を読んでもキモチワルイとか思わない人がいいな。
いやぁ、初恋の人が忘れられません! とか書いてるの、どう考えてもキモチワルイけど。いや別に、忘れられませんとか、そういう意味じゃあないんだけど、そういう表現になるんだよなぁ、この辺りのアウトプットが非常に難しい。というか、アウトプットしなくていいじゃん、というのはその通りなんだけど、もう本当に、「徹底して」やってこうと思う。妄執で固めた人間の殻を脱ぎ捨てていくように。
一般論書いても面白くないし。
「俺はこういう人間で、こういう生き方をしてきて、こんな経験をしたから、この事象に対してこう思って、こう行動する」
ってのが、エッセイというか、文章として、面白いものだし、唯一性の価値があることだと思う。
俺が多くのブログ記事(なんやかスピリチュアル的な)に、胡散臭さとか、つまらなさとか、表層性を感じるのは、その点が不足してるからだ。
だれだれとどこそこにいってなにをして楽しかった
それはそれでいい、ただ、僕が欲しいのは、その「楽しかった」という表現だ。
楽しいってなんだよ? 嬉しいってなんだよ? 生きるってなんだよ? お前はなんだよ! 俺は誰だよ!
これは、自己と、外面的に見える自己との乖離と、内面とアウトプットした際の乖離の問題を強く感じているからだ。
ジョハリの窓といって、自分で知ってる自分と、外から見える自分と、自分が知らなくて外から見えてる自分と、自分も外からも知られていない自分と、4つあるよって考え。
コミュニケーションは、その自分を広げていって、外からの自分と内面の自分とを一致させることが円滑に進めるうえで必要だ。
であるから、目的を見つけようという目的で、この記事を書き始めた。
そこで、「ライフワーク」として、何か、人生の中で生み出すことが、その目的になるんじゃないかって、そう思いついて、書こうとしたら、いやぁ、すごい人いっぱいいるなぁって、例のオンラインゲーム症候群(すごい人はいっぱい溢れていて、頑張ってもトップになるのは難しいとあきらめてしまう心性)が発生して、よく分からなくなったわけだ。
こういうとき、どうするんだっけかなぁ。過去のログなんて読んでいると、まぁ、最低までどん底まで落ち込んで、そっから、よーしじゃあもっかいゼロからスタートね~みたいなやり方みたいだが、どうなんだろ。
前にも書いたけど、断続的なんだよな、それぞれの行動が、一貫性がない。というのは、「目的」がなかったってことに、ようやく気付いた、気がする。
今までも、「目的」だとか、「生きる意味」だとか、そんな言葉は使用はしていたが、その意味するところが、やっぱり若かったというか、表層的だった気がする。
で、何で何だろうともやっぱり思う。
普通、大多数、オーディナリーな人たちは、そんなこと、こんなことでそれほど苦慮していないんじゃないかって思う。
いやそれは、傲慢と偏見なのかもしれない。みんな、日々、不満や苦悩を抱えて、空き缶を蹴っ飛ばしながら、街ですれ違う時肩がぶつかっただとか、どっちが強いかタイマンだとか、そんなイライラしながら過ごしているのかもしれない。
でもそれって、社会的に優位に立ちたいという、認められたいという、何かしたいという欲求に基づいていると思う。
それが上手くいかないから、イライラしたり不満になったりするのだろう。
僕は、何か違う。
いや決して、全世界唯一俺だけがそんなことを考えているなんてことは全く思わないけれども、何か違う。違う気がする。
その違和感、「わかってもらえなさ」が、どうにも、活力を、やる気を、徐々に減衰させる。
ボケちゃって、俺のことが分からなくなったばあちゃん。
離れて暮らして介護している親は、相当大変みたいだ。
そんなんなっても、やっぱり生きてるってことが大事なんだろうか。
「逆に」すぐさま思うのは、じゃあ、無価値な人間は死んでもいいのか。
どっちも違うと思う。
でも、「どっちも違う」というのは、いったいなんだ? 俺はまた「イイ子」でいたいだけなんじゃないのか?
障碍者施設で殺戮をした男に共感を覚えているのではないか? ぼけ老人どもはこの世から駆逐されればいいんだとか思っているのではないか?
いや絶対思ってない。むしろ、そんな世界になったら、無価値な俺が真っ先に殺されてしまう(かっこわらい)。
でも、きっと、誰も口には出さないが、誰しも、そんな獰猛な思いがどこか存在している。
そんなこと思ったことない! という人は、「現場」意識が足りない。重度障碍者施設や特別養護老人ホームに介護体験で行ったことがあるが、あれは、行ってみないと、分からないことが絶対にある。
目はうつろで、自分で食事もとれず、会話もできず、ただ生かされているような状態の人たち。
介護現場が大変だ、という声は大きいが、デイケアのものと、特養とかと、その中身も大きく違うだろう。
何の話だ? 他人なんてどうでもいいだろう、お前は、どうなんだ、お前はなんだ?
1年? 5年? 10年? 20年? 30年? 40年? 50年? 60年?
あと、1年でいいなら、まぁ、仕事の論文もやらなくていいだろう(笑)。
あと5年だけ生きるなら、やっぱり論文なんてやる必要なくて、2年ぐらい働いて、残り3年は貯金食いつぶして終わり、ってのでも十分だ。
10年となれば、少し話は違う。貯金だけで暮らすのは難しい。先日入った個人年金保険が解約できるのはそのころだが、それまでどうやって過ごすのか、やっぱり働いてないといけないだろう。
20年。
ああ、もう想像ができない。
50代っていったいなんなんだ。
おっさんでもなく、おじさんになるのか。初老の40歳をはるかに超えている。
部下もできて、しごとバリバリこなしながら、「あの上司、口うるさいけど、ひとり身なんだよね」「そうそう、むかつくよね。あ、知ってる? あいつ離婚したらしいよ」「えーまじ、まぁあいつならありえるわねww」みたいに言われるのか!
もしくは、ダンディーな風格を身に着けて、若い子と不倫を楽しむとか……。
なんか、いろんな物語があるけど、どれも、あんまし面白くなさそうなんだよな。
映画とか、アニメーションとか、小説とか、いろんな物語があるけど、多くは、10代20代の若者が主人公なんだよな。というのは、若者は可能性に満ち溢れているからだろう。
でもそんなこといったって、おっさんおじさんだって、10年ぐらい何か打ち込めば、何か成し遂げられる気はする。問題は、その「モチベーション」がなくなっていくからなんだろうな。
何やってもどうせダメだろうと、もう若くないからと、自分で限界ひいちまうんだろうな。
でも、別に歳関係ないよなって思う。既に俺は10代ぐらいのときから何となくそんな感じだった。
自分のできることが何だか分からなかった。自分が何者か分からなかった。そして、今もそうだ。
物語では、そんな中二的な若者が、何か特別な出会いや経験をして、何か成し遂げてくってそんなストーリーなんだけど、その後、人生うまくやっていったかは描かれない。
若いときの努力が、そのまま大人になったときの成功につながるとは、思えないし、その点、「生涯学習」とか言葉が巷にあふれている昨今、誰も信じていないんだろう。
結婚。子供。出世。余暇・趣味。
それが人生の価値なのか?
いやこれも目新しいことじゃなくて、「ストーリーをつくる技術」なんて、小説とかエンターテイメントだけじゃなくて、ビジネスの中でも重要視されている。複雑高度化した社会の中で、上の人間は現場をよく分からなくなる。そうしたとき、中間管理職的人材が、問題を整理し、分かりやすく上に伝え、上は人的資源や費用や資材を適材適所に配置するってのが、好循環である。
そうした中間管理職的人材が不足しているのが問題だ……と、一般論的に批判はできても、じゃあどうすりゃええねんってのは、よく分からないから、やっぱり論文が書けん!
話しがそれた。物語、「俺の物語」。
でもさ、これって、非常に難しい。多分、他の人の話しを聞いても、ふーん、で終わりそうだ。
何せこれは、「結論」が重要なものではないからだ。
いやむしろ、結論は明確だ、いわずもがな。
だから、その結論に達するまでのストーリー構成が重要になるのだ。
つまり、答えが不要な物語、そのプロセス、過程にこそ答えがあるというものだ。
なんじゃそりゃ、上手く表現できない、当たり前だ、新しいことを今考えている。
新しいことを生み出すときにカオスになるのは当たり前だ、そのカオスさを耽美と羞恥によって認められないから、堂々巡りを脳内で繰り返すのだ。
とにかくアウトプットしてやれ。
過程にこそ意味がある物語。
それは、ハッピーエンドを求めないということか。
いやむしろ、その「いま、ここ」にこそ、その瞬間こそが答えだというものか。坐禅的心境だ、としたら、仏道に入ることが重要か。
恐らく、ヒントはそこにもあるだろうが、どうにも、仏教的な知見をもって「人生」を評論する言説への胡散臭さは拭えない。そうじゃない。
そもそも、何故結論ではなく、過程に意味を見出す必要があるのか。
結論なんてくだらないからだ。(愚かな未来な自分のために書いておけば、ここでいう結論とは、=死のことである。)
結論は、所詮、目標にしかなりえないからだ。
就職する、結婚する、子供をつくる、出世する。それらはハッピーエンドの条件であり、目標であろうが、目的ではない。
問おう、しかし、目的とは、「楽しくなる」「幸せになる」以外に存在するのか?
いや、まさに、その問いは重要でありながら、その「幸せになる」という状態、それが、瞬間的に達成されるものかどうか、時間軸的に有限なものなのかという点に焦点をあてる必要がある。
「こいつの死に顔みてみろよ……笑ってやがるぜ……」
ってなれば、それはハッピーエンドだってことなのか。
先ほどから書いているように、人間としてのエンディングは「死」である。でありながら、「幸せになる」ということを結論として、目的として据えたとき、「幸せな死」という表現がわいてくる。
だがなんだそりゃ、奴隷道徳か? ルサンチマンか? おかしいだろ、矛盾してるだろ。
「俺という人間が、こうしてこう考えて、こう行動して、こうなりました。」
それが、なんだ?
70億分の一のアリンコが、なんだってんだ?
もっとすげー経験、思考、行動をもった人はたくさんいるぜ。お前が、残り50年かけて何かしたとしても、そんなものすぐに上書き保存されるだけの価値しかない。
「いやぁ、だから、身近な人との関係を強固に持って、共感できるコミュニティの中で自己承認と助け合いをしながら生きていく【衆生】【凡人】として生きていくことが大切なんですよ~」と、宮台先生の言うような生き方をすべきか。(宮台先生はそんなこと言ってないかもしれない、勝手な読解)
多くの人にとって、そうした、ローカルコミュニティのインターネットによる結合によって大きく広げていき承認欲求を満たしていくという方策が有効だとしても、必ず、僕のようなはみ出し者は発生する。
そもそも、コミュニティは、パレートの法則じゃあないが、コミュニティが生じるとそこに「上下関係」が生まれる。真にフラットな組織というのは、電脳化して思考を並列化しない限り難しいだろう。攻殻機動隊の個別の十一人ですら、ウィルスに感染しなかった「例外」クゼさんによって、合田一人の計画に綻びが生まれていく。
行き詰まり、息詰まり、生き詰まり。(気に入った)
ダメだ、時間切れ。
今日の夜にでも、また続きを考えよう。
でもなぁ、思うに、俺がやろうとしていることは、過去の偉人たちが、一生涯かけて取り組んで、結局まともに答えを出せなかったことな気がするな。
生きる意味とは。
人生とは。
死とは。
幸せとは。
正義とは。
社会とは。
真理とは。
いや逆に、「無理」だからこそ、他者を頼ることはできないって問題もある。
だから、スピリチュアル的(いや、スピリチュアル全般批判するとかそういうわけじゃないんだけど、なんか表現しやすいから使ってるだけ)なうさん臭さってのは、いかにも「真理はありまーす!」的に全面的に押し出して、だから「信じてねハート」的なロジックになってるところがきな臭い。
むしろ、こたえなんてないってのが真理なんじゃないの?
でも、答えなんてないよー、生きてるのは苦しみだよーって、それじゃあ人は集められないし、お金も集められないから、仕方ないんだろうけど。
資本主義のコマーシャルリズム的に、不安煽って、でもこの商品を使えば大丈夫! 的な感じにも聞こえちゃうけどな(かっこわらい。すみません、ゴウタマさんは尊敬できる人物だと思ってます、これはホント。人として)
というのが、まさに、「骨格」を抜き出すと、陳腐になっちまうという現象だ。
だから「表現」が重要だと思う。
ジョルジュさんが言ってる、人間の生み出すあらゆる芸術は、死への不安の表現だ、ああ、なるほどなぁって、思ったよ。
いってみりゃ、結論だけにしちゃえば、「死にます」以上。になっちまう。
だから、それを美的に昇華する、憎悪であり、耽美であり、嫉妬であり、エゴであり、快楽であり、様々なその「意味の表現」。
だから、ある経営者さんのブログなんかで表現されていた、「いやー人生ひまつぶしッスわ。金稼いで生きるだけなら余裕ッスけど、せっかくだから面白いことしたいじゃん?」ってのも、まさしく真理なのだろう。
――でもなんだ、なんなんだ? 俺はその、「面白さ」ってのが、まだ何だかよく分かってない。
心の底から、楽しい、充実してるって。一生、これをつくっていこう、携わっていこう、やっていこうって。
「死にます」って結論なんてどうでもよくて、ただ、そのことそのものが真実で、その瞬間があればよくて。
時間切れから長くなっちまった、ほんとに取りあえずここで中断……。
喉の痛みと鼻水はまだ残っている。
うーん、しかし、困ったなぁ。過去の自分に対してかけてやれる言葉がない。はっきりいって、自分で妄執をつくりだしてその妄執と戦って精神をすり減らして内へ内へと自虐しているようにしか思えないのだけれども、間違いなく精神的に疲弊していることは言える。
過去に遡れば遡る程その度合いが強く読み取れて、時おり、合わせ鏡のように、過去の記事の中でそれよりさらに過去の記事に言及し、あの頃に比べたら今は幸せだなぁとしみじみ言ってる構造、なんだそりゃ。
そして哀しいかな、今の俺自身も、やっぱり、ああ、過去には戻りたくねぇなって思う。
そうすると、特に、かけてやる言葉もなければ、今の俺にとって何か役に立つようなことも浮かばない。
まぁ、取りあえず、生かしておいてくれて、ありがとう……?
なんか変だ。
なんだ、全然、言葉が出てこない、どうしたんだ。ただ、すごく、疲労感、これ、風邪のせいだけじゃなさそうだ。
お疲れ様って、そう言ってやるべきかな。いやぁこれは、確かに自分自身への言葉で、キモチワルイこと限りないところだが、逆に、思うに、過去の自分すら救えないで、他の誰か、苦しんでる人を救えるのだろうか。
ただ、寄り添ってやるぐらいしかできんだろうな。よく頑張ってるよ、お疲れ様、大丈夫、絶対今よりよくなるから……なんて、そんな言葉吐けるのか?
俺は、やっぱり、ハッピーエンドにならなきゃダメだと思う。
自分という、人生という物語において、色々困難や苦悩はあったけど、最後は、生きててよかった、充実した人生だった、と。
ライフワーク
僕の魂魄に突き刺さる作品を生み出した人は、きっと、それを生業にしているわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。ただ、本当にすごい物語を創る人なんだなと、心底感動している。他にも、無職転生という作品の作者は、最終的には書籍化してプロになった(元々そっち系の人だったという話もあるが)けれども、元々は無料投稿サイトで更新を続けて有名になっていった。
なんか、そういうすごい人たちは、是非とも、自分の才をいかんなく発揮し、多くの人に感動を与えてほしいと思う。
俺は、何ができるんだろう。
初音ミクのこの曲も、もう何年前に見つけたのか忘れたけれど、時おりふと思い出して聞きたくなる。
この作者さんも、別に音楽で飯をくってるわけじゃないんだろうと、勝手に思っている。
でありながら、人の、何か表現したい、生み出したいという欲求というのは、何と大きいことかと思う。
僕も、何か創りたいのだけれど、俺は、何ができるんだろうか。
そういえば、昔SNSでこんなブログのような評論なのか愚痴なのか分からないようなこと書いてたら、ある人が、「僕も遠藤くんのように何かイイこと書こうと思ったけど、何も浮かばず、やめた」という日記を書いていて、そのとき、何だか、本当にうれしかったことを、何故か今思い出した。
正しいことと思ったこと
なんというか、自分として、一切自慢なんかじゃなくて、傲慢でも何でもないのだけれども、まぁ、こう表現したら絶対読んだ人の気分を悪くさせるだろうと思いながら他の表現が浮かばないから考える時間がもったいないからそのまま書くと、何か、「正解」があって、それを作り出すことは、仕事であれ、何か文章であれ、できるのだ。ただし、本当に自分がそう思っているのか、それを目指したいのかは別だ。
その自分が本当に望んだこと、思ったこと、それをそのまま表現し、それがそのまま、誰かに受け入れられるという。
この体験、このことこそが、僕は、本当に嬉しいと、楽しいと、充実したと思えるのではないか、と今思った。
だから、上にかいたSNSの僕にしては「くだらない愚痴の数々」を、「イイこと」「面白いこと」「深いこと」として感じてくれたその人に、とても嬉しく思ったのではないだろうか。
おいおい、お前は、まさか時間がだんだんなくなってきたからといって、まさか、こうしたブログのような駄文を「ライフワーク」とか言い出す気じゃなかろうな。
え、ダメ? そうか、ダメだよな。駄文はどこまでいっても駄文だ。それを作品とするには、「エンディング」がないといけない。死ぬまで駄文書き続けてどうするつーんだということだ。
考える生き方の作者さんも、何となく、55歳になって、それで、あーやっぱり失敗だったな、空っぽだったなーと言いながら、子供いるし、何やかんや著作を残して、仕事して、難病と闘いながら生きてるじゃないか。
お前、今、55歳とか、80歳とかなって、何ができるようになるんだ? 何を創り出せるんだ?
遺作
……と、考えたとき、じゃあ、このブログを一つの作品とするとして、いやぁ、それ、誰の役にたつねん、と。いやいや、役に立つかどうかはあまり関係ないにしろ、お前、それで十分なんか? と。
「俺」という痕跡を、この歴史に残せなくていいのか、と。
なんとなんと! 僕の口から、歴史に名を残すとかでてきやがった! 笑える! これが書いていると発生する面白い現象だ。頭の中だけで悶々させていては、決して出てくることはなかったであろう発言!
まぁもう少し真面目に考えてみよう。歴史に名を残すとして、この広大莫大なインターネット世界において、どうやってその痕跡を残すというのか。
まぁ、もし、また結婚するとしたら(相手も見込みもないが)、こうした記事を読んでもキモチワルイとか思わない人がいいな。
いやぁ、初恋の人が忘れられません! とか書いてるの、どう考えてもキモチワルイけど。いや別に、忘れられませんとか、そういう意味じゃあないんだけど、そういう表現になるんだよなぁ、この辺りのアウトプットが非常に難しい。というか、アウトプットしなくていいじゃん、というのはその通りなんだけど、もう本当に、「徹底して」やってこうと思う。妄執で固めた人間の殻を脱ぎ捨てていくように。
一般論書いても面白くないし。
「俺はこういう人間で、こういう生き方をしてきて、こんな経験をしたから、この事象に対してこう思って、こう行動する」
ってのが、エッセイというか、文章として、面白いものだし、唯一性の価値があることだと思う。
俺が多くのブログ記事(なんやかスピリチュアル的な)に、胡散臭さとか、つまらなさとか、表層性を感じるのは、その点が不足してるからだ。
だれだれとどこそこにいってなにをして楽しかった
それはそれでいい、ただ、僕が欲しいのは、その「楽しかった」という表現だ。
楽しいってなんだよ? 嬉しいってなんだよ? 生きるってなんだよ? お前はなんだよ! 俺は誰だよ!
表現と物語
最近、表現するということに拘りすぎか。これは、自己と、外面的に見える自己との乖離と、内面とアウトプットした際の乖離の問題を強く感じているからだ。
ジョハリの窓といって、自分で知ってる自分と、外から見える自分と、自分が知らなくて外から見えてる自分と、自分も外からも知られていない自分と、4つあるよって考え。
コミュニケーションは、その自分を広げていって、外からの自分と内面の自分とを一致させることが円滑に進めるうえで必要だ。
目的設定について
まてまて、話しがそれている、そうじゃなくて、過去の記事を読んで分かったのは、「目的」の設定がされてないがための失敗だったということだ。であるから、目的を見つけようという目的で、この記事を書き始めた。
そこで、「ライフワーク」として、何か、人生の中で生み出すことが、その目的になるんじゃないかって、そう思いついて、書こうとしたら、いやぁ、すごい人いっぱいいるなぁって、例のオンラインゲーム症候群(すごい人はいっぱい溢れていて、頑張ってもトップになるのは難しいとあきらめてしまう心性)が発生して、よく分からなくなったわけだ。
やりたいことの棚卸
行き詰まり。息詰まり、生き詰まり。こういうとき、どうするんだっけかなぁ。過去のログなんて読んでいると、まぁ、最低までどん底まで落ち込んで、そっから、よーしじゃあもっかいゼロからスタートね~みたいなやり方みたいだが、どうなんだろ。
前にも書いたけど、断続的なんだよな、それぞれの行動が、一貫性がない。というのは、「目的」がなかったってことに、ようやく気付いた、気がする。
今までも、「目的」だとか、「生きる意味」だとか、そんな言葉は使用はしていたが、その意味するところが、やっぱり若かったというか、表層的だった気がする。
で、何で何だろうともやっぱり思う。
普通、大多数、オーディナリーな人たちは、そんなこと、こんなことでそれほど苦慮していないんじゃないかって思う。
いやそれは、傲慢と偏見なのかもしれない。みんな、日々、不満や苦悩を抱えて、空き缶を蹴っ飛ばしながら、街ですれ違う時肩がぶつかっただとか、どっちが強いかタイマンだとか、そんなイライラしながら過ごしているのかもしれない。
でもそれって、社会的に優位に立ちたいという、認められたいという、何かしたいという欲求に基づいていると思う。
それが上手くいかないから、イライラしたり不満になったりするのだろう。
僕は、何か違う。
いや決して、全世界唯一俺だけがそんなことを考えているなんてことは全く思わないけれども、何か違う。違う気がする。
その違和感、「わかってもらえなさ」が、どうにも、活力を、やる気を、徐々に減衰させる。
ボケちゃって、俺のことが分からなくなったばあちゃん。
離れて暮らして介護している親は、相当大変みたいだ。
そんなんなっても、やっぱり生きてるってことが大事なんだろうか。
「逆に」すぐさま思うのは、じゃあ、無価値な人間は死んでもいいのか。
どっちも違うと思う。
でも、「どっちも違う」というのは、いったいなんだ? 俺はまた「イイ子」でいたいだけなんじゃないのか?
障碍者施設で殺戮をした男に共感を覚えているのではないか? ぼけ老人どもはこの世から駆逐されればいいんだとか思っているのではないか?
いや絶対思ってない。むしろ、そんな世界になったら、無価値な俺が真っ先に殺されてしまう(かっこわらい)。
でも、きっと、誰も口には出さないが、誰しも、そんな獰猛な思いがどこか存在している。
そんなこと思ったことない! という人は、「現場」意識が足りない。重度障碍者施設や特別養護老人ホームに介護体験で行ったことがあるが、あれは、行ってみないと、分からないことが絶対にある。
目はうつろで、自分で食事もとれず、会話もできず、ただ生かされているような状態の人たち。
介護現場が大変だ、という声は大きいが、デイケアのものと、特養とかと、その中身も大きく違うだろう。
何の話だ? 他人なんてどうでもいいだろう、お前は、どうなんだ、お前はなんだ?
大人の物語
そもそも、お前は、あと何年生きるつもりだ?1年? 5年? 10年? 20年? 30年? 40年? 50年? 60年?
あと、1年でいいなら、まぁ、仕事の論文もやらなくていいだろう(笑)。
あと5年だけ生きるなら、やっぱり論文なんてやる必要なくて、2年ぐらい働いて、残り3年は貯金食いつぶして終わり、ってのでも十分だ。
10年となれば、少し話は違う。貯金だけで暮らすのは難しい。先日入った個人年金保険が解約できるのはそのころだが、それまでどうやって過ごすのか、やっぱり働いてないといけないだろう。
20年。
ああ、もう想像ができない。
50代っていったいなんなんだ。
おっさんでもなく、おじさんになるのか。初老の40歳をはるかに超えている。
部下もできて、しごとバリバリこなしながら、「あの上司、口うるさいけど、ひとり身なんだよね」「そうそう、むかつくよね。あ、知ってる? あいつ離婚したらしいよ」「えーまじ、まぁあいつならありえるわねww」みたいに言われるのか!
もしくは、ダンディーな風格を身に着けて、若い子と不倫を楽しむとか……。
なんか、いろんな物語があるけど、どれも、あんまし面白くなさそうなんだよな。
映画とか、アニメーションとか、小説とか、いろんな物語があるけど、多くは、10代20代の若者が主人公なんだよな。というのは、若者は可能性に満ち溢れているからだろう。
でもそんなこといったって、おっさんおじさんだって、10年ぐらい何か打ち込めば、何か成し遂げられる気はする。問題は、その「モチベーション」がなくなっていくからなんだろうな。
何やってもどうせダメだろうと、もう若くないからと、自分で限界ひいちまうんだろうな。
でも、別に歳関係ないよなって思う。既に俺は10代ぐらいのときから何となくそんな感じだった。
自分のできることが何だか分からなかった。自分が何者か分からなかった。そして、今もそうだ。
物語では、そんな中二的な若者が、何か特別な出会いや経験をして、何か成し遂げてくってそんなストーリーなんだけど、その後、人生うまくやっていったかは描かれない。
若いときの努力が、そのまま大人になったときの成功につながるとは、思えないし、その点、「生涯学習」とか言葉が巷にあふれている昨今、誰も信じていないんだろう。
結婚。子供。出世。余暇・趣味。
それが人生の価値なのか?
何か創りたい
だんだん、強く思ってきたけれど、やっぱり、「物語」が重要だ。いやこれも目新しいことじゃなくて、「ストーリーをつくる技術」なんて、小説とかエンターテイメントだけじゃなくて、ビジネスの中でも重要視されている。複雑高度化した社会の中で、上の人間は現場をよく分からなくなる。そうしたとき、中間管理職的人材が、問題を整理し、分かりやすく上に伝え、上は人的資源や費用や資材を適材適所に配置するってのが、好循環である。
そうした中間管理職的人材が不足しているのが問題だ……と、一般論的に批判はできても、じゃあどうすりゃええねんってのは、よく分からないから、やっぱり論文が書けん!
話しがそれた。物語、「俺の物語」。
でもさ、これって、非常に難しい。多分、他の人の話しを聞いても、ふーん、で終わりそうだ。
何せこれは、「結論」が重要なものではないからだ。
いやむしろ、結論は明確だ、いわずもがな。
だから、その結論に達するまでのストーリー構成が重要になるのだ。
つまり、答えが不要な物語、そのプロセス、過程にこそ答えがあるというものだ。
なんじゃそりゃ、上手く表現できない、当たり前だ、新しいことを今考えている。
新しいことを生み出すときにカオスになるのは当たり前だ、そのカオスさを耽美と羞恥によって認められないから、堂々巡りを脳内で繰り返すのだ。
とにかくアウトプットしてやれ。
過程にこそ意味がある物語。
それは、ハッピーエンドを求めないということか。
いやむしろ、その「いま、ここ」にこそ、その瞬間こそが答えだというものか。坐禅的心境だ、としたら、仏道に入ることが重要か。
恐らく、ヒントはそこにもあるだろうが、どうにも、仏教的な知見をもって「人生」を評論する言説への胡散臭さは拭えない。そうじゃない。
そもそも、何故結論ではなく、過程に意味を見出す必要があるのか。
結論なんてくだらないからだ。(愚かな未来な自分のために書いておけば、ここでいう結論とは、=死のことである。)
結論は、所詮、目標にしかなりえないからだ。
就職する、結婚する、子供をつくる、出世する。それらはハッピーエンドの条件であり、目標であろうが、目的ではない。
問おう、しかし、目的とは、「楽しくなる」「幸せになる」以外に存在するのか?
いや、まさに、その問いは重要でありながら、その「幸せになる」という状態、それが、瞬間的に達成されるものかどうか、時間軸的に有限なものなのかという点に焦点をあてる必要がある。
幸せの時点性
「結論」的に書けば、幸せになることは、結論である。しかしながら、「幸せな死」とは、何だろうか。「こいつの死に顔みてみろよ……笑ってやがるぜ……」
ってなれば、それはハッピーエンドだってことなのか。
先ほどから書いているように、人間としてのエンディングは「死」である。でありながら、「幸せになる」ということを結論として、目的として据えたとき、「幸せな死」という表現がわいてくる。
だがなんだそりゃ、奴隷道徳か? ルサンチマンか? おかしいだろ、矛盾してるだろ。
仮置きの人生
じゃあ例えば、そうした、「生きる意味」を求めることを、そのものを「意味」として据えたとき、その意味へのコミットはどれほどの強度となるのだろうか。「俺という人間が、こうしてこう考えて、こう行動して、こうなりました。」
それが、なんだ?
70億分の一のアリンコが、なんだってんだ?
もっとすげー経験、思考、行動をもった人はたくさんいるぜ。お前が、残り50年かけて何かしたとしても、そんなものすぐに上書き保存されるだけの価値しかない。
「いやぁ、だから、身近な人との関係を強固に持って、共感できるコミュニティの中で自己承認と助け合いをしながら生きていく【衆生】【凡人】として生きていくことが大切なんですよ~」と、宮台先生の言うような生き方をすべきか。(宮台先生はそんなこと言ってないかもしれない、勝手な読解)
多くの人にとって、そうした、ローカルコミュニティのインターネットによる結合によって大きく広げていき承認欲求を満たしていくという方策が有効だとしても、必ず、僕のようなはみ出し者は発生する。
そもそも、コミュニティは、パレートの法則じゃあないが、コミュニティが生じるとそこに「上下関係」が生まれる。真にフラットな組織というのは、電脳化して思考を並列化しない限り難しいだろう。攻殻機動隊の個別の十一人ですら、ウィルスに感染しなかった「例外」クゼさんによって、合田一人の計画に綻びが生まれていく。
疲れた
ああ、もう、本当に。行き詰まり、息詰まり、生き詰まり。(気に入った)
ダメだ、時間切れ。
今日の夜にでも、また続きを考えよう。
でもなぁ、思うに、俺がやろうとしていることは、過去の偉人たちが、一生涯かけて取り組んで、結局まともに答えを出せなかったことな気がするな。
生きる意味とは。
人生とは。
死とは。
幸せとは。
正義とは。
社会とは。
真理とは。
いや逆に、「無理」だからこそ、他者を頼ることはできないって問題もある。
だから、スピリチュアル的(いや、スピリチュアル全般批判するとかそういうわけじゃないんだけど、なんか表現しやすいから使ってるだけ)なうさん臭さってのは、いかにも「真理はありまーす!」的に全面的に押し出して、だから「信じてねハート」的なロジックになってるところがきな臭い。
むしろ、こたえなんてないってのが真理なんじゃないの?
でも、答えなんてないよー、生きてるのは苦しみだよーって、それじゃあ人は集められないし、お金も集められないから、仕方ないんだろうけど。
表現の重要性
その点ゴウタマさんは潔いよな。一切皆苦とか言っちゃうわけだし。そんな中で、苦諦集諦滅諦道諦と、四諦の中で解決策を提示すると。資本主義のコマーシャルリズム的に、不安煽って、でもこの商品を使えば大丈夫! 的な感じにも聞こえちゃうけどな(かっこわらい。すみません、ゴウタマさんは尊敬できる人物だと思ってます、これはホント。人として)
というのが、まさに、「骨格」を抜き出すと、陳腐になっちまうという現象だ。
だから「表現」が重要だと思う。
ジョルジュさんが言ってる、人間の生み出すあらゆる芸術は、死への不安の表現だ、ああ、なるほどなぁって、思ったよ。
いってみりゃ、結論だけにしちゃえば、「死にます」以上。になっちまう。
だから、それを美的に昇華する、憎悪であり、耽美であり、嫉妬であり、エゴであり、快楽であり、様々なその「意味の表現」。
だから、ある経営者さんのブログなんかで表現されていた、「いやー人生ひまつぶしッスわ。金稼いで生きるだけなら余裕ッスけど、せっかくだから面白いことしたいじゃん?」ってのも、まさしく真理なのだろう。
――でもなんだ、なんなんだ? 俺はその、「面白さ」ってのが、まだ何だかよく分かってない。
心の底から、楽しい、充実してるって。一生、これをつくっていこう、携わっていこう、やっていこうって。
「死にます」って結論なんてどうでもよくて、ただ、そのことそのものが真実で、その瞬間があればよくて。
時間切れから長くなっちまった、ほんとに取りあえずここで中断……。
先日の記事で、GOMAさんの本を買って読んで、日記が、苦悩よりもポジティブな表現ばかりで、現実味がなくて不満だったと、そんな風な事書いた。
じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!
先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。
ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。
そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。
漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。
仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。
100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。
あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。
GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。
そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。
さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。
考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。


もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。
そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。
確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。
認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。
現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。
無償の愛?
ここまで育ててくれた恩?
人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。
しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。
ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。
物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?
そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。
幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。
どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。
実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。
でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。
な、なんだってー!(かっこわらい)
こうやって書いてみるとギャグだなぁ。
就職するってのもそうだ。
もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。
いや、「目標」としてはいいのだ。
目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。
が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。
目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。
だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。
内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。
で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。
ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。
こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。
しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。
この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。
とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。
ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。
正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。
この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。
なるほどなぁ。
思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。
だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。
そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。
結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。
先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。
過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。
と、ここまでで1時間か。
そう、そういった、いろんな言説。
そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。
そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。
いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。
逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。
考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。
にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……
物語が必要だ。
ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。
うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。
それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!!
うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。
設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。
最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。
じゃあ自分は、ちゃんとその「苦悩」なるものを表現できてるのか、と思って、過去の、ローカルなものも含めて探して、読んでみた。うーむ……読むにたえない、が、確かに、よくまぁ、飽きもせず書いていたものだ。先日の記事で、仕事の論文は書けないが、くだらない記事ならいくらでも量産できると豪語していたが、まぁ、それは嘘ではなさそうだ、何の意味もないけどな!
先週の木曜日ぐらいから、のどが痛くなり、体調が悪化。少し買い物にはでかけたが、三連休は殆どを家の中で。早めに寝たせいで、目覚めは0:30ぐらいだった。しかし、それから、いろいろ整理したり、ポイントになりそうな記事を投稿したりしていたら、もう5時間過ぎたのか。はえーな。本当は、仕事終わらせて、ゆっくり余暇を過ごそうと思ったのだが。
ただ、今回ばかしは、まぁ、少しは、仕事とも関係ある。やっぱり、自分の生き方ってのを、しっかり見つめなおさないと、どうにも、言葉が全く出てこない。
夜明けの時間
こうして、朝早く、もはや朝なのか分からない時間から起きて、遊ぶでもなく、文字に触れていると、受験勉強していたときや、大学のレポート作っていたころのことが思い浮かぶ。そういや、そんな家で、自分を追い込んで何かするなんて、もうここ何年もなかったな。会社で日付変更までいることは何度もあったけれど、それとこれって、全く違う。
漫画で学ぶ人生訓、みたいなサイトで、MAJORという野球漫画で、「いいんじゃないかお前が努力したって思えるなら。努力なんて、人から言われてするようなものじゃないけどな」みたいな台詞があって、うひゃぁと思ったけど、まぁ、そういうものだと思う。
仕事は、やらなきゃいけないからやっているが、受験勉強なんて、ありゃあ、確かに、「やらなきゃいけない環境」というか風土というか圧力は確かにあったが、別に絶対なわけではなかった……と書きながら、やっぱり、自分の中では絶対的圧力があったな、と思う。
100時間残業で過労死した東大卒の20代の女性について、かわいそうだなぁと思いつつ、その本人と思われるツイッターで、他人をバカにするような発言があったりして、あんまり共感できねぇなぁと思いつつ、それと過労死はやっぱ別だよなと思いながら、複雑な感情になった。
この複雑さが、法律とか、裁判の判決と世論とのギャップだったりするのだろうなぁとか、またしても一般論というか、人ごとに頭が切り替わっていくのをグッっと戻し戻し。
家族のこと
過去の、ローカルな記事読んでると、家族のこととか、話題にたまにあがる。あんまり、公開の日記に書くのはなぁと思っていたが、先日好きだったおじいちゃんが亡くなったとかも書いたし、まぁもう解禁だろうとのことで、昔、初孫ということですごく自分を可愛がってくれたおばあちゃんが、認知症で、僕のことを分からなくなっていて、ショックを受けたみたいなことも書いたきがする。
GOMAさんの高次脳障害ではないが、認知症は新しいことを覚えられなくなる。
恐らく、僕の姿が、完全に「おっさん」になっていたから、子供のころの愛らしい姿しか記憶になく、僕のことをもう分からなくなっているのだろう、という持論。
そんな持論でいたからか、先日、夢をみたとき、病室で寝たきりになって、何も分からなくなった祖母に近寄り、僕だよ、と、自分の名前をいうと、何度も何度も僕の名前を読んでくれて、僕が好きだったお寿司屋さんに連れて行こうとしてくれた……そんな夢をみた。
さらに、これも書いた気がするが、結局、認知症とは、「死の恐怖」への心の対処なのではないだろうか、と。
考える生き方の著者は、55歳になって、もう、自分が若くないのだということを、鏡をみた自分からも実感するようになったという。
もう、心がどうこうじゃなくて、自分の身体が完全に、若くないのだと自覚し、さらにそれが進んだとき、自分が、よぼよぼの老人だと実感する。
そのとき、必ず、徐々に大きくなるのが、「死」についてだ。
確かに、僕の昔の記事を見れば、「死」についての表現が出てくる。
しかし、それは、若い身体をもった僕のとらえるそれと、もうすぐ終わりを迎えようとしている身体から生じるそれとは、全く異なるものだろう。
認知症は、最近のことが分からなくなる、それは、いやおうなしに突き付けられる、老、死という現実を、「理解」させないための、心の防衛機制なのではないだろうか、と。
介護のこと
「極道ヘルパー」というドラマがあった気がするが、介護の問題は、他人ごとではない、とはいえ、そんなこと、若い子供たちに教えたって、「実感」が伴わない「知識」に過ぎないだろう。現実問題として、例えば、自分の親を介護していて、しかし、もはや自分のことを、どっかから派遣されてきた介護の職員としか思ってないとしたら、そんな悲劇ってあるだろうか。
この前、アリは、アリとしての生き方をすべきであり、それが人間について憧れをもったら悲劇だと書いたが、今度は逆に、「分からないこと」が悲劇だ。
無償の愛?
ここまで育ててくれた恩?
人間の善性を信じることは大事だと思う、が、そんなもので制度をつくっていては、社会主義や共産主義のように凋落することは目に見えている、いや、資本主義が至上というわけではないけれども、やっぱり、人間って、善悪両方持ち合わせているわけであって、見ず知らずの人よりは自分の家族の方が大事なわけで。
しかしその大事な家族が、自分のことをもう認識できないとしたら。
ドラマなんかでは、一瞬だけ記憶が戻って、感動的な場面を描くのだろうが、365日中の1日だけそんな時間があったところで、焼け石に水的な、賞味5分の感傷にしかならないだろう。
おいおいマイナス思考過ぎないか
物語が必要だ。物語?
それは、絶対にハッピーエンドになるソレか?
そう、人生は物語である、個々に意味はない、けれども、その意味を自ら選び取って、ハッピーを掴むのが人生だ。
幸せ、なんだそりゃってことを、なんとまぁ、10年前ぐらいから既に考え始めていたってのが、さっきまでの整理で分かった。
どうやら、そのころの自分としては、大好きな人ができて、その人と楽しくイチャイチャ幸せに暮らすんだ、みたいな、小学校高学年女子の結婚願望みたいなものを信じていたようだ。
実際問題、童貞野郎としては、そうした愛する人とともに歩む人生ってのに、憧れを抱くものだろう。灰色だった高校時代も、彼女がいたらきっと明るかった、みたいな、そんな無いものねだりだ。
でまぁ、結果から逆算して書いていけば、彼女がいないから不幸なんだ、自分に満足できないんだ、人生がつまらないんだ、でも彼女ができない……死のう、いやいや、どうせ死ぬなら、せいぜい足掻いて、100人くらいナンパして頑張ってから死ぬって選択肢でいいだろうと、結果的に彼女ができて、わーいハッピーと何か月かはなって、しばらくして手痛い失恋して、うわーもうだめだやっぱり俺なんかダメダメ人間なんだーと落ち込んで、いやいややっぱり、好きなことして頑張ってキラキラ輝いて女性と付き合って結婚して幸せになるんだーっていって、実際結婚して、わーいわーいめでたしめでたし~としばらくして、結果的に性格の不一致、離婚、と。
な、なんだってー!(かっこわらい)
こうやって書いてみるとギャグだなぁ。
目標設定・目的設定
まず、端的にダメなところは、例えば、「彼女つくる」とか、「結婚する」とか、それを目標・目的にしていたところだ。就職するってのもそうだ。
もっとさかのぼれば、受験勉強の時代も、「大学に合格する」って目標もアホの極みである。
いや、「目標」としてはいいのだ。
目標とは、具体的に、数値化できる達成すべき到達点のことだ。
であれば、テストで何点とって、志望校に合格するってのは、アリだ。
3人に声かけて、デートして、彼女つくって、3年以内に結婚するとか、それもありだ。
が、これまで、まぁプラス面もあるとか、経験もまた重要だとか、そんな慰めの言葉を一切とっぱらって、俺の人生すべて失敗だらけだったとして、その原因は、としたとき、一つ、今、思っているのは、思えたのは、「目的」設定のなさ、だ。
目標を達成することは、これまで、失敗なく、よくやってきた。
素晴らしい、その点は褒めてあげよう。
だが、過去の記事、ログ、日記読んで気づいたが、コイツ(自分)は、本当に昔から、「目的」ってもんがなかったんだ。空虚な、操り人形だ。
目的がなく、目標だけをこなす機械人形。ロボット。
目的を設定するとは
まぁ、こう考えると、よく目的もなく、これまでやってこれたわけだ。内的欲求とかよく分からないままきたもんだ。
で、なんでこんなことになったんだ、ってのを考えると、さきほど投稿したのよりもっと古いログを読んだりすると、やっぱり初恋がうまく実らなかったことに起因するんじゃねぇかなぁって思う。
ここらへんの表現は、新海誠先生の作品がよく表現されている。最新作の「君の名は」はみてないけど、秒速5cmはひとり身の時(今もだけど!)見て、うわぁっと鬱になったもんだ。
こんな、初恋に今も恋い焦がれてます~みたいなこと、とてもじゃないけど恥ずかしくて、誰も書けないはずだ。僕も書けない。いや今書いてるじゃないか、そう、これは、一応彼女ができたという事実があるから書けるのだ。この点で、身体も然り、経験もまた、思考と密接に関連していることの示唆である。
それと、さすがに、もう初恋の人の顔もよく思い出せないし、その人の名前を思い浮かべても、特段なんの感情も生じなくなっていることも一つだろう。
しかし、それはそうと、その、「本当に欲しかったものが手に入らなかった」という経験は、深層心理、潜在意識のなかに深く刻まれているのだろう。
この辺は、EDENという作品のなかで、あるマフィアのボスにまで上り詰めた女が、自分の身体で子供が生めなくなって、そのことを回顧する中でよく表現されている。
とはいえ、初恋が実らなかった人全員が、じゃあみんな目的を失ったゾンビみたいな生き方をしているかというと、そんなはずはないだろう。だから、それは単に一つの要因に過ぎず、もっと様々なことが起因しているのだろう。
ただ、確信していいのは、大体その辺の「思春期」的な時代において、人格形成がなされたのではないか、ということだ。
人格形成
ただ、うーんそうかな、と少し疑問でもある。正直、中学生ぐらいの、自我が芽生えたあたりの思考からして、あんまり変わってない気がする。
この辺りを、「考える生き方」の著書の中で、時間の停滞といった表現があって面白いと思った。
55歳の著者は、36歳で結婚するまで、自意識的にずっと25歳だったという。大学院を卒業したあたりの意識をずっと引きずっていたのだと。
結婚して、異なる身体をもつ相手と性的な生活も送っているうちに、人格的にも歳を取ったのだと。
なるほどなぁ。
思うに、先日書いた通り、「思考」をアウトプットするのは、かなり言語表現に歪められるから、結局、過去の記事や文章を読んだところで、その「感情」的なものは、中々読み取れない。
だから、「何歳のときに」「どんな状況のときに」書いたのか、というのが、結構重要だと思う。
そういう意味で、最初、「考える生き方」を読んだときは、その文章を中心に読んだけど、その奥にいる、55歳の作者を考えたときに、この本ってやっぱり貴重だな、と思った。
結局、過去の自分の記事とか読んで、あー同じこと書いてるな、ってのは(その過去の記事の中に、まさにそのさらに過去の記事を読んで、あー同じこと書いてるなって書いてあって、合わせ鏡みたいで吹き出してしまった)、それを読んだ自意識によって、都合よい解釈によって、「ああ同じだな」と感じさせているのかもしれない。
先日、俺はプログラミング少しできるんだぜ! って書いて、非常に恥ずかしくなって、ああ、この記事投稿したくないなぁと思いながら、いや逆にここで投稿しないことが「逃げ」でしかないだろうと思った記事、そのときは本当に嫌だったけれども、今読んでみると、まぁ、それほど嫌悪感はなかった。
過去の記事の多くは、目を覆いたくなるようなくらい恥ずかしいものでありながら、まぁ、そういう時代もあったんだな、とどこか他人ごとのような感覚すら覚える。
と、ここまでで1時間か。
中断
取りあえず、目と身体を休めようか。0時30分から、活動して、基本、午前中は、4時間しか仕事をしなくていいんだ。昼休みがあるだけでましな会社だとかいうのもあるかもしれないが。そう、そういった、いろんな言説。
そういうのに、かなり惑わされていた自分は、確かにいた、それは愚かだった。もっと好き勝手やってもよかったんだ。
人間関係とか、ブラック企業とか、生涯未婚とか、どうでもよかった。
そんな目先の問題なんかより、もっと、もっと深く、もっと真剣に、その、自分の、自分自身の、人生の、生きていることそのものの、その意味を、ちゃんと、考えればよかった。
いやいやいや、まてまて、そんな、感動的な終わり方にしてどうする、そりゃあ違うだろ。
それは、今にして思えば、思考が足りてなかった部分があるかもしれない、ただ、そうじゃないだろ。その頃の自分は、自分で、過去の記事から好意的に読み取れば、確実に、必死に考えていただろ。
それを否定してどうするんだよ。
逆に、その、考えた結果として、まさに、認知症、ボケとか、「死」という問題があるのであって。
考えに考えた故に、ああ、やっぱり、その未来とは、人生とは、終わりにゆっくりと、着実に近づいていくのであって。
にもかかわらず、ろうそくの最後の灯、輝かしくあろうとするその意志……
物語が必要だ。
ああ、もったいぶって、次の記事に書こうとか思ったけれども、もう、最後まで書いてしまおうか。
カバネリ最後までみた
昨日、「甲鉄城のカバネリ」を、全12話、見終わった。うーむ、気分が晴れやかな時だったら、「面白かった」とコメントするところだが、残念だった。
間違いなく、1話目は面白かった。2話目、3話目もよかったが、しかし、徐々にその面白さが薄れていった。
VIVA!様(黒幕・敵)が出てきたあたりから、徐々に受けいれられなくなっていった。
それに最後、主人公を助けやがって、なんじゃそりゃ、悪なら悪を貫けや! いやそもそも、父親自分で殺しておいて、殺し終わった後、過去の、父と馬を駆けた郷愁なんて頭によぎらせやがって。自分を慕う綺麗なお姉さんもバケモノにして最後あっさりと殺すし! まぁそれはそれでいいけど、その戦う理由も、父に嫌われて初陣で補給絶たれて死にかけたとか、まぁそりゃあ恨みもつだろうが、関係ない領民まであっさりカバネに喰らわせるとか非道な癖に中途半端なんやオメーはよ!!
うーん、そういう意味だと、この作品の存在を教えてくれた方の作品の方が、読了感よかったし、人物のつくり込みというか、設定もしっかりしてたと思う(すげー上から目線だ!)。
設定、という意味だと、結局ゾンビたちと人との争いで、ゾンビと人とのハイブリットが活躍するって話で、あんまり目新しさはない。いや産業革命後に発生したそのカバネというゾンビに覆いつくされて、蒸気機関をもとに発展した日ノ本の世界観というのは面白かったし、映像がきれいでよかった。城と呼ばれる機関車もかっこいいよね、最初の登場シーンとか、血みどろにぐちゃぐちゃカバネを轢き潰していく場面とか圧倒的だったし。
最初がよかったがゆえに、期待値があがりすぎてダメだったのかなぁ。
